2026-08-24

404号室の不可視な恋人

 



――話さない私と、見ない君

第一章 404号室の透明な日常

私と遠藤響は、半年ほど前から一緒に暮らしている。

正確には、東京都内の古い賃貸マンション、その四階のいちばん奥にある一LDK、四〇四号室で生活を共有している。玄関は一つ。冷蔵庫も一つ。洗濯機も一つ。ベッドも一つ。家賃は折半。電気料金も水道料金も、毎月共有の口座から引き落とされる。

それなのに私たちは、ほとんど一人暮らしをしていた。

朝七時十三分、私はキッチンでパンを焼く。焦げる寸前まで焼いた食パンへバターを薄く塗っていると、背後でベッドが軋む。響が起きた音だ。

私は振り返らない。

しばらくして、裸足でフローリングを歩く足音がする。響は私の背後を通り、洗面所へ向かう。私も彼も、ほんの数センチだけ身体の位置を変える。肩が触れない程度に。

「おはよう」はない。

彼は歯を磨く。水が流れる。私はコーヒーを淹れる。響が戻ってくる頃には、私はトーストを皿へ移している。

視線は交わらない。

彼は冷蔵庫を開ける。私はマグカップを持って窓際へ移動する。彼が牛乳を取り出す。冷蔵庫のドアが閉まる。私はスマートフォンを見る。

まるで、お互いが空気であるかのように。

ただし、完全な空気ではない。

空気なら、そこにいても避ける必要はない。

私たちは互いを避ける。

つまり、見ないという行為そのものによって、相手の存在を誰より強く意識している。

私はこの生活を、頭の中で「完全透明」と呼んでいた。

響は情報デザインを専攻しているから、以前、冗談めかして「プロトコル・ゼロ」と言ったことがある。

会話しない。干渉しない。目を合わせない。互いに互いの感情へアクセスしようとしない。

衝突しないための最小通信規約。

そして、恋人同士であることをやめきれない二人が作った、奇妙な延命措置。

大学で友人の由衣から、「同棲生活どう?」と聞かれると、私は決まって答える。

「平和だよ」

嘘ではない。

喧嘩は一度もない。

怒鳴らない。泣かない。相手を責めない。何時に帰ろうが誰と会おうが、誰も口を出さない。

完璧な平和。

ただし、墓地も平和だ。

そんなことを考えてしまう私は、たぶん性格が悪い。

「いいなあ」と由衣は言った。「うちなんか彼氏と毎週喧嘩してるよ。既読つけたのに返信ないとか、洗い物しないとか」

私は笑う。

「大変そう」

心の中では思う。

少し羨ましい。

皿を洗ってくれないことで怒れるということは、相手に皿を洗ってほしいと思っているということだ。

期待している。

まだ相手が自分の世界の内部にいる。

私と響は、期待をやめた。

期待しなければ失望しない。

アクセスしなければ、エラーも起きない。

そう思っていた。

半年ほど前までは。


私たちが話さなくなった夜のことを、私は何度も思い出す。

季節は春だった。

まだ同棲を始めて二週間しか経っていなかった。

些細なことが原因だった。

響が友人との飲み会から帰ってきたのが午前一時を過ぎていた。私は連絡がなかったことに腹を立てた。響は「束縛されたくない」と言った。私は「束縛じゃなくて心配」と言った。

そこまでは、よくある恋人同士の喧嘩だった。

問題は、そのあとだった。

私たちは互いの言葉を、「相手の本当の気持ちを解読するための暗号」として扱い始めた。

「束縛されたくないって、つまり私といるのが面倒ってことでしょ」

「違う」

「じゃあ何?」

「そのままの意味だよ」

「そのままの意味って何?」

「だから、一人の時間もほしいってこと」

「じゃあ私は邪魔?」

「そういうことじゃない」

「じゃあどういうことなの!」

言葉を重ねるたび、意味が遠ざかる。

響も苛立った。

「紬こそ、僕のこと何も分かってないじゃん」

「分かりたいから聞いてるの!」

「聞けば分かると思ってる?」

「話さなきゃ分からないでしょ!」

「話しても分かってないじゃん!」

その言葉が刺さった。

私は現代文学を専攻している。

言葉を読む。

文脈を読む。

登場人物が何を言わなかったのかを読む。

そんな勉強を四年間続けてきた。

だからどこかで思っていた。

言葉を尽くせば、人間は分かり合える。

正しい言葉を選べば、相手の内部へ届く。

けれどその夜、言葉は橋ではなかった。

投げ合う石になった。

「響は結局、私と一緒にいたいの?」

「いたいよ」

「じゃあ何でそういう態度になるの?」

「どの態度?」

「そうやって面倒そうにする態度!」

「紬が何でも意味を決めつけるからだよ!」

「決めつけてない!」

「決めつけてる!」

「じゃあ本当は何なの!」

そのとき、響が言った。

「分からないよ」

私は止まった。

「何が?」

「自分の気持ち」

「は?」

「全部、言葉になんてできない」

「でも何かあるでしょ」

「あるよ。でも、言った瞬間、それが全部みたいに扱われるのが嫌なんだよ」

私は理解できなかった。

だからさらに問い詰めた。

結果、もっと分からなくなった。

午前三時近く。

二人とも疲れ果てていた。

響は床へ座り込み、壁にもたれた。

私はソファにいた。

同じ部屋なのに、ものすごく遠かった。

そのとき響が、暗闇でぽつりと言った。

「もう、アクセスするのやめよう」

「……何?」

「互いの中身」

冗談ではなかった。

「分かろうとするたびに壊れるなら、もう見ないほうがいい」

私は何も言えなかった。

「これ以上、壊れる前に」

その言葉だけが残った。

翌朝から、私たちは話さなくなった。

最初は一日だけのつもりだった。

二日。

三日。

一週間。

一か月。

そして半年。

愛というものは、案外しぶとい。

死んでいるように見えても、形式だけは残る。

家賃を折半する。

冷蔵庫を共有する。

洗濯ネットを二つ買う。

相手のシャンプーが切れそうなら、同じものを買っておく。

それらは愛なのだろうか。

ただの習慣なのだろうか。

私は分からなかった。

ただ一つだけ確かなことがある。

夜、響が隣で眠っていると、

私はいつも思う。

触れたい。

それだけだった。

分かりたい、ではない。

触れたい。

言葉にならないその欲望だけが、四〇四号室の静寂の中で生き残っていた。


第二章 矛盾する正しさと、解離する身体

私は、自分の中に複数の人間がいることを認めたくなかった。

一人になりたい私。

響に抱きしめてほしい私。

自由を尊重されたい私。

「今日は早く帰ってきて」と言いたい私。

話しかけられたくない私。

それでも、「おかえり」と言ってほしい私。

それらは互いに矛盾している。

文学では、矛盾を抱えた人物を「複雑で人間的」と評するくせに、自分自身の矛盾となると私は耐えられなかった。

人間は論理式ではない。

Aでありながら非Aでもある。

孤独を愛しながら、孤独に泣く。

傷つきたくないから距離を取って、距離を取ったことに傷つく。

そういう生き物だ。

でも私は、その矛盾を整理したかった。

卒業論文では、現代文学における「語り得なさ」を扱っていた。

言葉が失敗する場所。

沈黙。

省略。

誤読。

書けば書くほど、笑えてきた。

自分の部屋に、これ以上ない実例がいる。

私は話さない。

響は見ない。

研究対象としては満点だ。

恋愛としては赤点だった。


十一月の終わり。

私は大学図書館に朝から夜までこもっていた。

卒論の提出期限。

就職活動。

友人たちの進路。

自分だけ未来の輪郭がぼやけているような焦燥感。

食事はコンビニ。

睡眠は四時間。

それでも、平気だと思っていた。

身体は、言葉より正直だ。

帰宅したのは午後十時過ぎ。

玄関で靴を脱いだ時点で、少し世界が傾いていた。

私は無視した。

いつものこと。

キッチンで水を飲む。

そのとき視界が白くなった。

次に気づいたとき、

私は廊下に座り込んでいた。

正確には、座っていたのではない。

倒れていた。

身体が鉛みたいに重い。

頭が熱い。

指先だけ冷たい。

足音。

響。

帰ってきていたらしい。

私たちの規則なら、

彼は通り過ぎる。

それが「正しい」。

相手の領域へ入らない。

干渉しない。

私は目を閉じた。

足音が近づく。

止まった。

静寂。

それから。

額に、

手。

少しカサついた掌。

冷たいと思った。

違う。

私が熱いのだ。

響の指が髪を避ける。

私は目を開けなかった。

開けたら、

この瞬間が終わる気がした。

彼は何も言わない。

私も言わない。

ただ、掌がある。

それだけ。

十分だった。

不思議だった。

半年間、

私は響の言葉を待っていた気がする。

謝罪。

愛情。

説明。

「まだ好きだよ」

そういうもの。

でも、その瞬間に欲しかったのは、一つもなかった。

ただ、

触れられている。

それだけで、

涙が出た。

目を閉じたまま泣いた。

響は気づいたのかもしれない。

でも何も言わなかった。

少しして手が離れる。

遠ざかる足音。

冷蔵庫。

棚。

水。

何かを用意する音。

しばらくして、

私の枕元にスポーツドリンク、解熱剤、体温計、氷枕が置かれた。

響はまた離れていった。

私は熱に浮かされながら思った。

私たちは半年間、言葉が危険だと思っていた。

だから言葉を消した。

でも言葉を消しても、

人間は消えなかった。

手は残った。

体温は残った。

冷蔵庫のドアを開ける音も。

スポーツドリンクのペットボトルも。

相手がそこにいるという事実は、

文法より強かった。

私は突然、理解した。

いや、

「理解した」という言い方すら違う。

身体が知った。

私は響を完全に理解したいのではない。

響に触れていたいのだ。

その二つは、

同じではなかった。


翌朝。

熱は少し下がっていた。

響はもう大学へ出ていた。

テーブルに、飲みかけのスポーツドリンク。

ゴミ箱に薬の箱。

私は自分の額へ手を当てた。

当然、

昨日の温度は残っていない。

でも、

記憶はある。

私は笑った。

たった一回触れただけで、

半年間積み上げた思想体系が崩れる。

哲学とは、

熱のある額には弱い。


第三章 昨日のジャンプと、今日の404

私は愚かだった。

昨日、響が私へ触れた。

だから今日も、

何かが起きると思った。

人間はすぐ、昨日の成功を法則にする。

昨日うまくいったことは今日も再現できる。

昨日見つけた場所には今日も同じ道で行ける。

そう思う。

午前八時。

私はわざと廊下に立った。

響が洗面所から戻ってくる時間。

来た。

足音。

心臓。

私は避けなかった。

響が近づく。

昨日なら、

何か起きた。

今日は。

彼は身体を横へずらした。

私に触れないように。

すれ違った。

視線もない。

「……」

声を出しかけて、

やめた。

玄関。

靴。

ドア。

閉まる。

それだけ。

私は廊下に立ったまま、

笑った。

「NOT FOUND」

口にしてみる。

妙に似合った。

昨日はあった。

今日はない。

昨日アクセスできた場所へ、

同じ方法で飛ぼうとした。

でもページは消えている。

存在しない。

それとも、

場所が変わっただけなのか。

人間の心には、

固定されたURLがない。

昨日の響と、

今日の響は、

同じ人間でありながら同じページではない。

昨日の私も、

今日の私ではない。

なら、

一度理解した相手を、

「この人はこういう人だ」

と保存すること自体が、

乱暴なのかもしれない。

文学作品なら、

本文は変わらない。

一度読んだページは、

翌日も同じ文章が載っている。

人間は違う。

生きている限り、

内容が書き換わる。

昨日、

「一人にしてほしい」

と言った人が、

今日は「そばにいてほしい」と思う。

それは嘘ではない。

更新だ。

私はずっと、

響の「本当の気持ち」を探していた。

でも、

本当の気持ちという固定ファイルなど、

最初から存在しないのかもしれない。

あるのは、

その瞬間の響。

その瞬間の私。

それだけ。

なら、

一度見つけた答えへ戻ろうとするのではなく、

毎回、

新しく尋ねなければならない。

面倒だ。

恐ろしく面倒。

でも、

たぶん愛とは、

そういう面倒なものなのだ。


その日の夕方。

私はスーパーへ寄った。

大根。

豆腐。

油揚げ。

味噌。

鮭。

響の好きなものを、覚えていた。

覚えているという事実が少し恥ずかしかった。

帰宅して、

味噌汁を作る。

包丁。

湯気。

出汁。

味見。

少し濃い。

水を足す。

私は自分の分と、

もう一人分を用意した。

テーブル。

向かい合わせ。

その景色が妙に怖かった。

半年間、

私たちは同じテーブルで向かい合って座っていない。

私は付箋を出した。

書く。

《スープ、温かいよ》

そこで止まる。

どうすればいい。

「話したい」?

重い。

「好き」?

もっと重い。

「昨日ありがとう」?

過去へ戻ろうとしている。

しばらく考えて、

こう書いた。

《スープ、温かいよ。美味しいと思ったら、一度だけ私を見て》

馬鹿みたい。

小学生の告白。

でも、

それでいい。

言葉は完全じゃない。

だからこそ、

小さく使えばいい。

全部説明するためではなく、

ドアを一センチ開けるために。

私はテーブルに座った。

待った。

時計。

十九時。

二十時。

二十一時十二分。

鍵。

心臓が跳ねる。

玄関が開く。

響。

私は逃げなかった。

彼も、

一瞬立ち止まった。

それから靴を脱ぐ。

荷物を置く。

テーブル。

料理。

付箋。

彼の手が止まる。

読む。

私は黙って見ている。

響は椅子に座った。

味噌汁。

箸。

一口。

私は呼吸を忘れた。

響が止まる。

それから。

ゆっくり、

顔を上げた。

半年ぶりだった。

目。

遠藤響の目。

私は、

その色を忘れていた。

茶色。

少し赤い。

そして、

涙が落ちた。


第四章 愛という、素敵な嘘

最初に喋ったのは、

響だった。

「……怖かった」

声が、

部屋に響いた。

半年間、

テレビや冷蔵庫や雨音ばかり聞いていた四〇四号室に、

彼の声。

私は、それだけで泣きそうになった。

響は目を伏せた。

「何を言っても、またズレる気がして」

私は黙って聞いた。

「前の喧嘩のとき」

彼は続ける。

「紬が欲しい答えが、全然分からなかった」

「私も分からなかった」

「でも、答えなきゃって思った。ちゃんと説明しなきゃ。僕が何を思ってるのか、正確に言わなきゃって」

彼は笑った。

「できなかった」

「うん」

「自分のことなのに」

「うん」

「それで怖くなった。言葉にしたら、その言葉が僕そのものになる気がした」

私は胸が痛くなった。

あの夜、

私はそうしていた。

響が一つ言うたびに、

「じゃあつまりこうなんでしょ」

と意味を固定した。

私は彼を理解したかった。

でも実際には、

彼を定義したかったのかもしれない。

分からないものを、

分からないまま持っていることが怖かったから。

「私も怖かった」

私は言った。

響が見る。

「何が?」

「分からないこと」

声が震える。

「恋人なのに分からないって、失敗みたいで」

涙が落ちた。

「好きなら分かり合えるはずって思ってた」

「僕も」

「馬鹿だね」

「うん」

二人で、

少し笑った。

それから、

私は手を出した。

テーブルの上。

響のほうへ。

彼は見た。

「触っていい?」

半年ぶりに、

許可を取った。

響は、

ゆっくり手を重ねた。

温かい。

少しカサついている。

あの日、

額に触れた手。

私は指を絡めた。

「完全に分かり合えなくてもいいと思う」

響は黙っている。

「昨日分かったと思ったことが、今日NOT FOUNDになってもいい」

「それは嫌だな」

「私も嫌」

「嫌なの?」

「そりゃ嫌だよ」

二人で笑う。

「でも」

私は言った。

「そのたびに探せばいい」

「毎日?」

「毎日」

「面倒」

「愛するって、奥が深いから」

「何それ」

「今思いついた」

響が笑った。

私はその笑顔を見た。

半年間、

見たかったもの。

でも、

笑顔そのものが欲しかったわけではないのだと思う。

この人が、

ここにいる。

その事実が欲しかった。

「ねえ響」

「うん」

「愛って、たぶん嘘だね」

響が眉を上げた。

「いきなり何」

「永遠に分かり合えるとか、ずっと一緒とか」

「重い話するなあ」

「証明できないじゃん」

「まあ」

「未来のことなんて分からないし。明日、私が響を嫌いになるかもしれない」

「やめてよ」

「響が私を嫌いになるかもしれない」

「もっとやめて」

私は笑った。

「でも、それでも今『好き』って言う」

響は黙った。

「それって、素敵な嘘じゃない?」

少し考えて。

「嘘っていうか」

「うん」

「約束じゃなくて、選択なんじゃない」

「選択?」

「今日、好きって選ぶ」

彼は私の手を握る。

「明日も、また選ぶ」

私は胸の奥が熱くなった。

「それ、もっとずるい」

「何が」

「私よりいいこと言った」

響は笑った。

その瞬間、

私は思った。

愛は完成されたプログラムではない。

一度書けば永遠に動くコードではない。

バグが出る。

更新する。

昨日動いたものが今日は動かない。

環境が変わる。

人も変わる。

だから修正する。

でも、

修正する意思がある限り、

エラーは終わりではない。

ただの通知だ。

ここには、今、答えがありません。

それだけ。


「味噌汁」

響が言った。

「何」

「冷めた」

「誰のせいよ」

「紬」

「響でしょ」

「半々」

半年ぶりの口喧嘩だった。

私は笑った。

嬉しかった。

本当に、

馬鹿みたいに。


エピローグ 未完成な私たちの、明日の朝食

翌朝。

私はトーストを焼いた。

響が起きる。

足音。

以前なら、

そこから沈黙が始まった。

今日は。

「おはよう」

私が言う。

響は少し驚いた顔をした。

「……おはよう」

それだけ。

なのに、

部屋の空気が変わった。

二人でテーブルへ座る。

昨日の味噌汁を温め直した。

響が飲む。

「薄くなってない?」

「温め直したからかな」

「いや、昨日からちょっと薄かった」

私は箸を置いた。

「朝一番に文句?」

「感想」

「不満でしょ」

「感想」

「じゃあ自分で作って」

「怒った?」

「ちょっと」

「言ってくれてよかった」

私は一瞬止まる。

それから笑った。

「こういうの、毎回確認するの?」

「しばらくは」

「面倒」

「愛するって奥が深いから」

「それ私の台詞」

響が笑う。

私も笑った。

完璧な会話ではない。

これから喧嘩もする。

たぶん、

昨日「分かった」と思った響の気持ちが、

今日にはまた分からなくなる。

私自身についても同じ。

昨日の私は、

今日には少し違う。

人間の心にはパーマリンクがない。

それは不便で、

不安で、

時々残酷だ。

でも。

だからこそ、

昨日の失敗に永遠に閉じ込められなくて済む。

昨日の「もう無理」が、

今日も同じとは限らない。

昨日「分からなかった」相手と、

今日また出会える。

私はそれを、

少しだけ希望と呼んでもいいと思う。

食後。

響がマグカップを洗っている。

私は背後から言った。

「ねえ」

「何」

「明日も、私の決めつけ壊してね」

水道の音。

響が振り返る。

「注文多いな」

「恋人だから」

「関係ある?」

「ある」

「じゃあ紬も」

「何を?」

「僕の諦め、壊して」

私は黙った。

それから、

「努力します」

と答えた。

「何そのビジネスメール」

「絶対って言ったら嘘になるから」

響は笑った。

そして、

濡れた手のまま私の手を取った。

私は嫌がるふりをした。

「冷たい」

「じゃあ離す?」

「嫌」

矛盾。

でも、

それでいい。

冷たい。

でも離したくない。

自由でいたい。

でも触れていたい。

分からない。

でも好き。

人間には、

矛盾しながら正しいことがいくつもある。

愛は、

その矛盾を一つの答えにまとめることではないのかもしれない。

むしろ、

矛盾したまま、

同じテーブルに座ることなのかもしれない。

朝の光が、

四〇四号室へ入ってくる。

ここにはもう、

透明な恋人はいない。

完全に理解された恋人もいない。

いるのは、

今日の響。

今日の私。

そして明日にはまた、

少し違う二人。

私は彼の手を握り返した。

もし明日、

また彼が分からなくなったら。

そのときは、

もう一度探そう。

見つからなくても。

エラーが出ても。

昨日の場所が消えていても。

別の入り口があるかもしれない。

声。

目。

手。

味噌汁。

笑顔。

沈黙。

どれでもいい。

完全な理解へ辿り着くためではない。

何度でも、

あなたに触れ直すために。

四〇四号室。

NOT FOUND。

それは、愛がなくなったという意味ではない。

ただ、

昨日までの答えが、

そこにはもうないということ。

だったら今日の私たちは、

今日の答えを探せばいい。

たとえその答えも、

明日には消えてしまうとしても。

そのたびにもう一度、

あなたを選べばいい。

愛という、

証明不能で、

不完全で、

どうしようもなく素敵な嘘を、

今日も二人で信じながら。

紫の渡り廊下

 



第一章 無菌室の彼氏と、紫色の渡り廊下

私と長谷川律は、一応、付き合っている。

「一応」と言うと、友達は決まって嫌な顔をする。「半年も付き合ってて一応って何?」と。でも、ほかに適当な言葉が見つからないのだから仕方がない。

恋人同士、と呼ぶには、私たちはあまりに静かだった。

喧嘩をしたことがない。待ち合わせに遅れても律は怒らない。私が映画館の席を勝手に決めても、注文する料理を変えても、「茜がいいならそれでいいよ」と微笑む。私が不機嫌でも、面倒そうな顔をしない。泣いても困らない。怒っても怒り返さない。

それを友達は、優しい彼氏、と呼んだ。

私は、気味の悪い彼氏、と呼びたかった。

もちろん口には出さなかった。

律は整っている。顔も、服も、言葉も、暮らしも。建築学科らしく、彼の部屋には余計なものがない。白い壁。木目の机。灰色のカーテン。黒いスチールラック。観葉植物まで「ここに置かれるために育ったのではないか」と思うほど正しい位置にある。

私が映像学科の課題で使うケーブルやレンズやメモリーカードを床へ散乱させていると、律は無言で拾ってくれる。そこにも苛立ちはない。

だから私は、ときどき彼の部屋で息ができなくなる。

モデルルームには生活する人間がいない。

人間が住み始めた瞬間、そこには髪の毛が落ちる。油が飛ぶ。コップに茶渋がつく。洗濯物が乾ききらない日がある。冷蔵庫の奥で野菜が萎れる。誰かが機嫌を悪くする。返事をしたくない夜もある。

でも律の愛情には、そういう染みがなかった。

綺麗すぎるものは、ときどき、存在していないのと似ている。

「ねえ律。私が他の男と二人で飲みに行ったら嫌?」

春の終わり、神保町のカフェでそう聞いたことがある。

律はアイスコーヒーのストローから口を離し、少し考えた。

「茜が行きたいなら、いいんじゃない?」

「嫉妬しない?」

「信用してるから」

正解だった。

百点。

模範解答。

だから私は、ひどく腹が立った。

「じゃあ、私がその人のこと好きになっても?」

律は少しだけ目を細めた。

やっと。

何か出る。

そう思った。

けれど彼は微笑んだ。

「そのときは、茜の気持ちを尊重するよ」

私は笑った。

「そっか」

その日の夜から、夢を見るようになった。


夢には、紫色の渡り廊下がある。

なぜ紫なのかは知らない。ワインを水で薄めたような紫。夕暮れと内出血の中間みたいな色。床板は古く、歩くと湿った音がする。左側には窓が並んでいるのに、その向こうには景色がない。ただ乳白色の霧だけが広がっている。

右側の壁には、額縁が並んでいる。

私は最初の夜、その一枚を見て足を止めた。

絵の中には私がいた。

二日前、律と行った水族館。

巨大水槽。

青い光。

私。

隣には律らしい男。

けれど、顔が塗りつぶされていた。

「趣味悪」

夢の中の私はそう呟いた。

次の絵は、三日前のコンビニ。

さらに次は、大学の中庭。

全部、私の記憶だ。

でも完全には同じではない。

実際の水族館では、私は律の袖を掴まなかった。絵の中の私は掴んでいる。現実では律は笑っていた。絵の中では、口元だけが黒い線で裂けている。

夢は嘘をつく。

でも、ただの嘘ではない。

現実を少しだけ歪めることで、むしろ私が見たくなかったものを見せてくる。

廊下の奥から、男が歩いてきた。

顔がない。

目も、鼻も、口もない。

ただ皮膚のような滑らかな平面がある。

なのに、そいつが私を見て笑っていることだけは分かった。

「何笑ってんの」

男は答えない。

私は怖くなかった。

ただ、歩けなくなった。

足が床へ縫いつけられたようだった。

顔のない男は、私の目の前まで来た。

そして、私の肩をぽんと叩いた。

それだけで目が覚めた。

午前四時十二分。

隣ではない。

私は自分の部屋にいた。

天井。

エアコン。

カーテンの隙間。

夢だった。

分かっているのに、肩にはまだ触れられた感覚が残っていた。

私はスマートフォンを開いた。

律からメッセージが来ていた。

《今日はありがとう。楽しかった。おやすみ》

やっぱり正しい。

私は返信しなかった。

その代わり、

「腹立つ」

と呟いた。

誰に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。


映像学科では、夢は便利な素材だ。

教授は「夢を映像化すると陳腐になる」と言う。夢そのものは、本人にしか理解できない文法で作られているからだ。象徴を象徴として説明した瞬間、それはただの記号になる。

私はそれを分かっていながら、ノートに書いた。

紫色の渡り廊下。

壁の絵。

顔のない男。

その横へ、

律?

と書いた。

そして線を引いて消した。

顔がないということは、律ではないのかもしれない。

むしろ、私が律に「顔を与えていない」のかもしれない。

私は彼を、

優しい。

穏やか。

完璧。

何を言っても怒らない。

という表面だけで見ている。

でも、それは彼のせいでもある。

見せないのだから。

翌日、私は律へ言った。

「ねえ」

「うん」

「あなたって、本当は何が嫌いなの?」

彼は笑った。

「急だね」

「答えて」

「……人を傷つける人?」

「そういう道徳の教科書みたいなのじゃなくて」

「じゃあ、満員電車」

「違う」

「何が聞きたいの?」

私は彼を見た。

その瞬間、顔のない男を思い出した。

「私の何が嫌い?」

律の笑顔が止まった。

ほんの一秒。

でも見た。

「嫌いなところなんてないよ」

また正解。

私は吐き気がした。


第二章 ピンクのガラス玉

夢の渡り廊下には二階があった。

二階、と言っていいのかは分からない。階段を上った記憶はないのに、次の夢では私はそこにいた。

廊下の端に、一人の老婆が座っていた。

白い寝間着。裸足。細い髪。手の甲には黒い染みがある。爪の間には泥のような汚れが詰まっていた。

彼女は咳をした。

「大丈夫?」

夢の中でまで私は無難なことを言う。

老婆は私を見る。

「お前は?」

「何が?」

「大丈夫なのか」

私は笑った。

「知らない」

老婆は手を差し出した。

汚れている。

私は触れたくなかった。

すると背後から、顔のない男が現れた。

今回はバッグを持っていた。

黒い革のバッグ。

そいつは中を探り、小さなものを取り出した。

ピンク色のガラス玉。

ビー玉だった。

男は老婆の掌へ置いた。

老婆はそれを光にかざした。

紫色の廊下の中で、ピンクだけが妙に生々しかった。

安っぽい。

子どものおもちゃみたい。

宝石でもない。

でも、綺麗だった。

老婆が私へ差し出す。

私は受け取った。

冷たい。

ガラスなのに、しばらく握っていると温かくなった。

「これ何?」

老婆は答えない。

「象徴?」

自分で言って笑った。

「メタファー? 愛? 欲望? 子どもっぽさ? 何なの」

顔のない男が肩を揺らして笑っていた。

「笑うなよ」

私はそいつに近づいた。

顔がない。

何もない。

そこへ、自分の顔がうっすら反射している。

突然、

腹が立った。

「私にもくれよ」

声が低くなる。

「何かあるんでしょ。本当は」

男は動かない。

「怒れよ。嫉妬しろよ。面倒くさいって言えよ。私が嫌なら嫌って言えよ」

喉が痛い。

「何でもいいから、あなたの色で私を汚してよ」

男の平らな顔へ、

初めて一本の亀裂が入った。

目が覚めた。


その日の午後、律と大学の食堂で会った。

「寝不足?」

「夢見た」

「どんな?」

「あなたが顔のない男になってた」

律は笑った。

「怖いな」

「怖くない」

「じゃあ何?」

私は箸を置いた。

「ムカつく」

律が瞬きをした。

「俺が?」

「夢の中のあなたが」

「夢の俺に怒られても」

「現実のあなたにも怒ってる」

沈黙。

私は期待した。

また。

何かが出ることを。

でも、

「ごめん」

だった。

「何に謝ってるの?」

「茜を嫌な気持ちにさせたなら」

「それ!」

少し声が大きくなった。

周囲の学生が見る。

律は困った顔をした。

私はさらに腹が立った。

「何でいつもそうなの?」

「どういう意味?」

「私が怒ったら謝る。私が迷ったら『好きなようにしていい』。私が泣いたら『大丈夫』。あなた自身はどこにいるの?」

「いるよ」

「どこ?」

「ここ」

「そういう話じゃない!」

律は黙った。

私は息を吸った。

喉の奥に何かが引っかかっている。

吐き出したい。

でも怖い。

本音というものは、口から自然に出てくるものではない。

喉の奥に刺さっている。

取り出すには、

肉ごとえぐる必要がある。

私は結局、

「もういい」

と言った。

そして逃げた。

最低だった。

本音を求めているくせに、

自分の本音は最後まで言わない。

夢の老婆の汚れた手が浮かんだ。

綺麗な手だけ握ろうとする人間に、

綺麗じゃない関係なんて作れるわけがない。

その夜、

律から、

《今週末、うち来る?》

と届いた。

私は、

《行く》

と返した。

今度こそ、

喉を切り開くつもりだった。


第三章 黄ばんだ真実

律の部屋は、相変わらず整っていた。

私はそれが嫌で、

入ってすぐバッグを床へ置いた。

わざと少し乱暴に。

律は拾わなかった。

珍しい。

「何?」

私が聞く。

「別に」

「何その言い方」

「普通だけど」

小さかった。

でも。

初めて聞いた。

律の不機嫌。

胸が少し高鳴った。

嬉しいと思った自分が、

気持ち悪かった。

夜は長かった。

私たちは映画を一本見た。途中で内容が頭に入らなくなった。冷蔵庫のワインを少し飲んだ。私は律の肩にもたれた。彼は私の髪を触った。

そのあとについては、細かく語る必要はないと思う。

ただ、私たちはこれ以上近づけないくらい近づいた。

それでも、

私は遠かった。

夜中。

部屋は暗い。

カーテンの隙間から満月。

律は隣で背中を向けた。

裸の背中。

肩甲骨。

呼吸。

近い。

手を伸ばせば触れられる。

でも、その背中は巨大な壁に見えた。

窓の外から、

声がした。

女の声。

泣いているのか、

笑っているのか、

別の何かなのか、

分からない。

私は突然、

夢の中に戻ったような気がした。

「律」

返事がない。

「起きてるでしょ」

「……うん」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「嘘」

「怒ってないよ」

私は笑った。

「またそれ」

「何」

「何でもない顔」

律が寝返りを打った。

こちらを見る。

月明かり。

「茜、今日は疲れてるんじゃない?」

「私ね」

私は言った。

「夢を見るの」

「前に言ってたやつ?」

「紫色の渡り廊下」

律は黙っている。

「壁に私たちの絵がある。二、三日前のことが、少しだけ違う絵になってる」

「うん」

「それで、あなたみたいな男が来る」

「顔がない?」

「そう」

「俺、顔ないんだ」

その言い方。

少し傷ついた声。

私は初めて気づいた。

「あるなら見せてよ」

「……」

「ピンクのガラス玉くれるの」

律の身体が、

ほんの少し固くなった。

「何?」

「いや」

「今、反応した」

「してない」

「した!」

私は起き上がった。

「律」

「何」

「私、あなたの優しさが嫌い」

言った。

とうとう。

「大嫌い」

律の顔が動いた。

「何言っても怒らない。何してもいいって言う。私が誰かを好きになっても尊重するって言う。そんなの愛じゃない!」

「……」

「私はあなたに愛されてるのか分からない!」

声が震えた。

「嫉妬してほしい。嫌だって言ってほしい。私が面倒くさいなら面倒くさいって言ってほしい。今日だって、本当は何か不機嫌だったんでしょ!」

「茜」

「綺麗な答えいらない!」

涙が出た。

止めなかった。

「私だって綺麗じゃない。あなたが他の女と話してたら腹立つ。私より可愛い女見てたら嫌。あなたを試すようなことばっかり言ってる。私、面倒くさいよ。醜いよ。嫉妬深いよ!」

喉が痛い。

でも、

まだある。

もっと奥。

「それでも!」

息を吸う。

「あなたの中にも同じくらい汚いものがあるって思いたいの!」

言った瞬間、

自分の言葉の酷さに気づいた。

でも取り消さなかった。

「私だけ裸みたいなんだよ!」

そのとき、

律が起き上がった。

乱暴だった。

ベッドが揺れた。

「じゃあどうすればいいんだよ!」

声。

初めて聞いた。

律の大きな声。

私は動けなかった。

「怒れば満足!? 嫉妬すれば愛してることになる!? 束縛すればいいの!?」

「そういう意味じゃ」

「じゃあ何だよ!」

律の顔。

初めて、

崩れていた。

眉間。

歪んだ口。

濡れた目。

「僕だって怖いんだよ!」

私の胸が止まった。

「茜は、平気で人の中に入ってくる」

「……」

「映画の感想でも、人間関係でも、何でも『本当はどう思ってるの』って聞く。でも僕はそんなに立派な本音持ってない!」

息が乱れている。

「嫉妬するよ。腹も立つ。茜が他の男の話したら嫌だよ。でも言ったら嫌われると思った!」

「私に?」

「そうだよ!」

律の声が掠れた。

「小さい頃から、怒ったら嫌われるって思ってた。母親が機嫌悪くなると家の中めちゃくちゃだったから、僕は何でも『いいよ』って言えばいいって覚えたんだよ!」

私は何も言えない。

「誰かが怒ってたら謝る。欲しいものが違ったら譲る。相手に決めてもらう。そうすれば捨てられない!」

「律……」

「僕は優しいんじゃない!」

彼の目から涙が落ちた。

「怖いだけなんだよ!」

その瞬間、

私は、

胸の奥で何かが壊れる音を聞いた。

綺麗な律。

完璧な律。

優しい律。

全部、

剥がれた。

残ったのは、

泣いている二十歳の男だった。

みっともない。

怒っている。

自分勝手。

怯えている。

私を欲しがっている。

私に嫌われることを怖がっている。

そして私は、

その顔を見て、

どうしようもなく愛しいと思ってしまった。

「……最悪」

私が言うと、

律が笑いかけて、

泣いた。

「何が」

「あなた」

「うん」

「すごい面倒くさい」

「知ってる」

「知らなかったよ」

私は泣きながら笑った。

「今知った」


しばらくして、

律が机へ行った。

引き出しを開ける。

「何?」

「変な話していい?」

「今さら?」

彼が戻ってきた。

手の中に、

ピンク色のガラス玉。

私は、

息を止めた。

「……それ」

「子どもの頃の」

律が言う。

「何で?」

「ずっと持ってる。妹と遊んでたやつ」

私は掌へ乗せてもらった。

夢と同じ。

完全に同じかなんて分からない。

でも、

その瞬間の私には同じだった。

「嘘でしょ」

「何が」

私は説明した。

夢。

老婆。

ガラス玉。

顔のない男。

律は気味悪そうに笑った。

「それ、俺が聞くとホラーだよ」

「私も今そう思ってる」

ガラス玉は安物だった。

中に小さな気泡がある。

表面にも傷。

完璧ではない。

「何で捨てなかったの?」

律が肩をすくめた。

「分かんない」

その「分かんない」が、

妙に嬉しかった。

意味なんてなくていい。

何でも象徴にしなくていい。

人は理由なく何かを残す。

理由なく誰かを好きになる。

夢が全部を説明する必要もない。

私は律の手を握った。

「ねえ」

「何」

「私、間違ってた」

「何が」

「本音を言えば全部良くなるって思ってた」

律が見る。

「違うね」

本音は汚い。

本音を言えば、

傷つけることもある。

嫉妬。

苛立ち。

欲望。

不安。

全部さらけ出せば自動的に誠実になるわけではない。

「でも」

私は続けた。

「綺麗な嘘だけよりは、これから考えられる」

律は頷いた。

「怒ったら?」

「言って」

「嫉妬したら?」

「言って」

「茜が嫌なこと言ったら?」

「それも言って」

「喧嘩するよ」

「するでしょ」

「別れるかもしれない」

私は少し黙った。

「それは」

怖い。

でも。

「それでも、いい」

「いいの?」

「別れたいって意味じゃないよ」

私は彼の額を指で押した。

「関係を守るために本音を殺し続けたら、関係だけ残って中身が死ぬでしょ」

律は、

「建築でもある」

と言った。

「何が」

「外観だけ保存して、中身全部新しくするやつ」

「専門用語?」

「ファサード保存」

「じゃあ私たち、恋愛のファサード保存してたんだ」

二人で笑った。

夜は、

昨日よりずっと汚かった。

ティッシュが床に落ちていた。

水のコップに指紋。

枕は乱れている。

二人とも泣いて鼻が赤い。

何も美しくない。

それなのに、

私は初めて、

この部屋に人間が住んでいると思った。


第四章 明日も私の夢を壊して

次の夜。

私は最後の夢を見た。

紫色の渡り廊下。

同じ場所。

でも少し違う。

壁の絵が変わっている。

そこには、

昨夜の私たち。

泣いている。

怒鳴っている。

醜い顔。

律のシャツは皺だらけ。

私の髪も酷い。

絵の端には、

ピンクのガラス玉。

以前の絵より、

ずっと黄ばんで見えた。

色も濁っている。

でも私は、

その絵から目を離せなかった。

綺麗だったからではない。

私たちだったから。

廊下の奥から男が来る。

私は身構えなかった。

男には、

顔があった。

律だった。

ただし、

いつもの律ではない。

目は腫れている。

鼻も少し赤い。

髪も乱れている。

「ひどい顔」

私が言う。

律の顔をした男が答える。

「茜もね」

「喋れるんだ」

「顔あるから」

「関係ある?」

「夢だし」

私は笑った。

彼は私へピンクのガラス玉を差し出した。

でも今回は、

受け取らなかった。

「いらない」

律が首を傾げる。

「もう持ってるから」

私は自分のポケットから、

同じ玉を取り出した。

夢だから、

そんなこともできる。

二つのピンク。

同じに見えて、

少し色が違う。

「混ぜる?」

律が聞く。

「混ざらないでしょ。ガラスだし」

「じゃあどうする」

私は考えた。

「並べる」

床へ置く。

二つの玉。

触れている。

でも、

一つにはならない。

それでよかった。

愛とは、

溶けて一つになることではないのかもしれない。

黄ばんだ人間と、

黒ずんだ人間が、

互いを完全に洗浄することなく、

隣に置かれることなのかもしれない。

相手の汚れを愛する、

という言い方も、

少し違う。

傷つけることまで肯定する必要はない。

暴力を「本音」と呼んで許す必要もない。

嫌なものは嫌と言えばいい。

離れる自由も必要だ。

それでも。

相手の不完全さを見た瞬間、

理想から外れたからといって、

ただちに愛を撤回しない。

その猶予。

その余白。

その少し濁った時間。

私は、

そこに愛が住める気がした。

「律」

「何」

「明日も私の夢を壊して」

「夢の俺に言ってる?」

「現実のあなたにも」

「どうやって?」

「私が勝手に作った『あなたはこういう人』っていう幻想から、毎回はみ出して」

律は笑った。

「それ、結構大変だよ」

「私もやる」

「茜も?」

「うん。あなたの中の『茜ならこう思う』を壊す」

「迷惑」

「知ってる」

私は彼の手を取った。

夢の中なのに、

温度があった。

「おいで」

「どこへ」

「分かんない」

「道案内できてないじゃん」

「うるさい」

二人で、

渡り廊下を歩いた。

初めて、

足が動いた。


目が覚めた。

朝。

律の部屋。

カーテンの隙間から光。

私は一人だった。

一瞬、

不安になった。

そこへキッチンから物音。

律が戻ってきた。

寝癖。

Tシャツ。

マグカップ二つ。

「起きた?」

「うん」

「コーヒー」

受け取る。

一口。

「薄い」

律が眉をひそめた。

「朝一番に文句?」

「薄いものは薄い」

「茜って本当に感じ悪いよね」

私は目を丸くした。

それから笑った。

「今の、もう一回言って」

「嫌」

「録音したい」

「やめて」

「記念日だから」

「何の」

「律が私に感じ悪いって言った日」

「馬鹿じゃないの」

「それも初めて!」

律は本気で嫌そうな顔をした。

私は嬉しかった。

でも、

すぐに思い直した。

不機嫌なら何でもいいわけではない。

怒れば本物になるわけでもない。

大切なのは、

彼が私の反応を恐れて自分を消さないこと。

私もまた、

刺激が欲しいからと彼を傷つけないこと。

生々しさは、

傷つけ合う免許ではない。

むしろ、

傷つけてしまったときに、

「これは愛だから」

と美化せず、

ちゃんと見つめるためのものだ。

私はコーヒーを飲んだ。

やっぱり薄い。

でも、

昨日より美味しかった。


大学へ向かう途中、

私はふと思った。

映画は、

現実をそのまま映さない。

カメラを置いた瞬間、

世界にはフレームができる。

照明を当てれば影が変わる。

編集すれば時間まで変わる。

だから、

映像は嘘だ。

でも。

嘘だからこそ、

現実では見えなかったものを見せることがある。

夢も同じだ。

夢は私たちを美化した。

少しマシにした。

顔を消した。

老婆を出した。

ピンクのガラス玉に意味があるふりをした。

裸体と叫び声と紫色を混ぜ、

私の恋愛を安っぽいアート映画みたいに演出した。

でも、

その歪みがあったから、

私は現実を直視できた。

夢が真実だったのではない。

夢は、

真実を見るための角度だった。

そして最後には、

その角度すら壊さなければならない。

現実の人間は、

夢よりずっと退屈だ。

律は毎日劇的な秘密を告白するわけではない。

私は毎晩哲学的な本音をぶちまけるわけでもない。

洗濯物を干す。

LINEを既読無視する。

喧嘩する。

謝る。

面倒になる。

会いたくなる。

たぶん、

愛はそういうところで黄ばんでいく。

そして、

新品ではなくなる。

私は以前、

黄ばむことを劣化だと思っていた。

でも今は違う。

時間が触れた証拠でもある。

もちろん、

何でも残せばいいわけではない。

腐ったものは捨てるべきだし、

傷つけ続ける関係からは逃げていい。

でも、

新品ではなくなったという理由だけで、

愛を捨てる必要もない。

黒ずみの中には、

そこを何度も触った指の跡がある。

皺の中には、

何度も抱きしめた形が残る。

ピンクのガラス玉だって、

傷ひとつない新品より、

律が何年も引き出しにしまっていたあの玉のほうが、

私には綺麗だった。

理由は知らない。

そして、

理由が分からないものを、

分からないまま愛してもいい。

それも最近、

ようやく覚えた。

その日の夕方、

律からメッセージが来た。

《今日、会える?》

私は、

《会える》

と返した。

少し考えて、

もう一つ。

《ただしコーヒーは濃くして》

しばらくして、

《注文多い》

と返ってきた。

私は笑った。

画面の向こうに、

顔のある律がいた。

綺麗すぎない。

完璧でもない。

たぶん今後もっと面倒になる。

私も。

それでいい。

紫色の渡り廊下は、

もう夢に出てこない。

でも、ときどき思い出す。

もしまた私が律を、

「優しい彼氏」

「冷たい男」

「臆病な人」

そんな一枚の絵に閉じ込めそうになったら、

あの廊下へ戻ればいい。

壁の絵を見て、

笑えばいい。

現実の人間は、

どんな額縁からも少しずつはみ出す。

そのはみ出した部分にこそ、

たぶん、

私が愛したかったものがある。

だから律。

明日も、

私の都合のいい夢を壊して。

そして私も、

あなたの夢を壊す。

壊れたあとに残った二人が、

昨日より少し黄ばんで、

少し黒ずんで、

それでも今日のほうが愛しいと言えるなら。

私たちはきっと、

綺麗な恋人にはなれなくても、

本当に存在する二人にはなれる。

遠い雨に祝福を――忘れられた歌について

 



――硝子の街を離れ、始源の島へ

第一章 深夜十二時半のフライトと、耳底の太鼓

桐生葵は、音を聴かなくなって久しかった。

もちろん、耳が聞こえなくなったわけではない。むしろ逆だった。二十歳になった彼女の耳は、以前よりずっと多くのことを聞き分けられる。四十四・一キロヘルツで記録された音源と九十六キロヘルツのそれを比較し、高域の質感を言語化できた。スタジオの空調が発する六十ヘルツ付近の低い唸りを聞き取り、コンプレッサーがヴォーカルのアタックを何ミリ秒潰したかまで、おおよそ推測できる。都内の大学でサウンドデザインと音響工学を学ぶ彼女にとって、音は周波数であり、振幅であり、時間軸上に配置された情報だった。

だからこそ、音楽を聴いて泣けなくなった。

以前は違った。中学生の頃、安物のイヤフォンから流れてきたピアノの一音だけで、理由も分からず胸が痛くなることがあった。高校生の頃には、雨の音を録音するために窓を開け、制服の袖が濡れるのも忘れてマイクを外へ向けた。電車の走行音にまで「寂しい」と感じていた。けれど大学に入り、音響を体系的に学ぶほど、世界は解体されていった。泣きそうになる弦の響きは倍音構造になり、夕方の駅に漂う切なさは残響時間になり、恋人同士の囁きさえダイナミックレンジの狭い小さな波形としてモニターに表示された。

分かることが増えるほど、感じることが減った。

十二月の夜、葵は大学の防音スタジオで一人、巨大なディスプレイを見つめていた。画面には、録音した太鼓の波形が表示されている。講義の課題で使う民族打楽器のサンプルだった。彼女は低域を解析し、二つのピークへ印をつけた。ひとつは基音、ひとつは共鳴。クリック。拡大。数値。保存。

そのときだった。

どん。

葵は顔を上げた。

どん。

ヘッドフォンを外す。スタジオは完全防音だ。蛍光灯の微かな電源音以外、何も聞こえない。

どん。

今度は、胸の奥からだった。

心臓ではない。もっと深い。耳で聞いているのでもない。身体のどこか、まだ名前のついていない場所で、誰かが太鼓を叩いているようだった。

葵は机へ手をついた。

「……また」

最近、ときどき聞こえる。疲れているのだと思っていた。けれど、その音は不思議なくらい怖くなかった。むしろ懐かしかった。行ったことのない土地の音なのに、幼い頃から知っていたような気がする。

どん。

戻っておいで。

そう言われている気がした。

葵は苦笑した。ひどく非科学的だ。脳疲労か、耳鳴りか、ストレス性の錯覚か。いくらでも説明候補はある。彼女はそれらを頭の中へ並べ、それから、そのどれにも安心できない自分に気づいた。

怖かった。

音が聞こえることではない。

自分が、音を「説明すること」でしか受け止められなくなっていることが。

大学一年の夏、親友から失恋したと電話がかかってきた。泣きじゃくる声を三十分聞きながら、葵は心の片隅で「通話音声は帯域が狭いから、泣き声の高域成分がかなり失われる」と考えていた。それに気づいた瞬間、自分が恐ろしくなった。目の前の人間より波形を見ている。悲しみより現象を見ている。なのに、それを止められない。

私は、何になってしまったんだろう。

それ以来、その問いは葵の内部で小さな空洞を広げ続けていた。

その夜、スタジオを出たところで、スマートフォンが震えた。

《着いた。0:30。羽田。》

送り主は、逢坂朔。

葵はその名前をしばらく眺めた。

朔とは小学生の頃、一度だけ会ったことがある。母方の祖父の故郷である南方の島へ家族旅行したとき、浜辺で一緒に遊んだ少年。記憶に残っているのは、彼がよく笑う子だったことと、妙に静かなところがあったこと。そして、拾った貝殻を耳に当てて「海は中にいるんじゃなくて、君の耳が思い出してるんだよ」と言ったこと。

十二歳の少年にしては妙な言い方だった。

八年ぶりに連絡をくれた理由は、数日前に届いた短いメールに書かれていた。

《祖父の楽器を直したい。君に手伝ってほしい。》

深夜十二時半の羽田空港は、昼間より巨大に感じられた。人が減ると建築物は本来の大きさを取り戻す。天井の照明、長い動く歩道、ガラス越しに見える滑走路。葵は到着口の前に立ち、出てくる人々を眺めていた。

やがて、一人の青年が現れた。

逢坂朔は、写真で見たより背が高かった。黒いコートに、使い込まれた帆布のバッグ。右手には、細長い木製のケースを抱えている。表面には無数の傷があり、金具には青錆が浮いていた。

「久しぶり」

朔は言った。

「八年ぶりに言うには普通すぎない?」

「じゃあ、ただいま」

「ここ、あなたの家じゃないでしょ」

「葵がいるから」

あまりにも自然に言うので、返事に困った。

二人は空港内のカフェへ入った。朔はケースを椅子の横に置いた。

「それ?」

「うん」

「楽器?」

「たぶん」

「たぶん?」

朔が笑った。

「音が出ないから、もう楽器って呼んでいいのか分からない」

ケースを開く。

中に入っていたのは、葵の知らない形の弦楽器だった。胴は細長く、木目が深い。弦は四本。共鳴胴にはひびがあり、駒も欠けている。

「島では、雨の木って呼んでる木で作る」

「樹種名は?」

「さあ」

「さあって」

「島の呼び方しか知らない」

葵は楽器を持ち上げた。軽い。乾燥しすぎている。側板の接着も浮いている。彼女はスマートフォンを出し、録音アプリを開いた。

朔がその手を見た。

「何するの」

「まずタップトーン。共鳴の傾向を見る」

葵は指で胴を軽く叩いた。

こん。

乾いた音。

もう一度。

こん。

その瞬間。

どん。

耳の奥の太鼓。

葵の指が止まった。

朔が言った。

「聞こえた?」

「……何が」

「太鼓」

葵は顔を上げた。

「なんで知ってるの」

朔は答えず、窓の向こうを見た。滑走路に航空機が止まっている。月明かりが翼の上で白く光っていた。

「島に帰ろう」

「誰が?」

「葵が」

「私は東京に住んでるんだけど」

「だから」

朔は淡々と言った。

「帰る場所って、住所のことじゃないよ」

葵は笑おうとした。

笑えなかった。

「私、今、自分が嫌いなの」

ぽつりと出た。

朔は黙っている。

「何を聞いても分析する。誰かが泣いてても、その声の音質を考える。昔はもっと……何ていうか、くだらないことで泣けた。空が綺麗とか、歌が寂しいとか。それが今は全部、構造に見える」

「うん」

「私、冷たくなった」

「うん」

「怖いんだよ」

初めて、その言葉を人に言った。

「自分が、どんな人間になってるのか」

朔はしばらく何も言わなかった。そして楽器ケースを閉じた。

「じゃあ確かめに行こう」

「何を」

「本当に冷たくなったのか」

「どうやって」

「雨に濡れれば分かるかも」

「適当すぎない?」

「島は雨、多いよ」

葵は呆れた。

それでも、二日後。

大学へ休学届を出すほど大げさなことはせず、冬季休暇を利用する形で、彼女は朔と南へ向かう飛行機に乗った。

スマートフォンの電源を切ったのは、離陸のためだけではなかった。

一度、世界から切り離されてみたかった。

そして、もし本当に自分の中に帰る場所があるのなら、そこへ向かってみたかった。


第二章 忘れられた旋律

島の雨は、東京の雨とは違っていた。

東京の雨は屋根やアスファルトや傘に当たり、都市の表面を滑って排水口へ消える。島の雨は、森へ吸い込まれていった。葉を打ち、幹を伝い、土へ入り、川へ流れ、また霧になって山へ戻る。降るというより、島全体が雨を呼吸しているようだった。

空港から古いバスに揺られて二時間。さらに軽トラックの荷台。最後は徒歩。たどり着いた集落は、地図上では一つの点にしか見えない場所だった。

古条老人の工房は森の縁にあった。杉板張りの小屋。軒先には乾燥中の木材が積まれ、内部には工具と楽器がぎっしり並んでいる。大小さまざまな弦楽器。太鼓。笛。名前の分からないもの。

古条は、七十代後半に見えた。白髪。細い身体。手だけが異様に厚い。

朔がケースを置く。

「じいちゃんの」

古条は開けた。

楽器を触る。

指先で木を撫でる。

叩く。

耳を近づける。

葵はその一連の動作を見ていた。

「修復できますか」

古条は答えない。

「材の含水率を測って、共鳴特性を」

葵はノートパソコンを開いた。

古条の手が伸びた。

ぱたん。

画面を閉じられた。

「ちょっと」

「うるさい」

「まだ何も鳴らしてません」

「お前の頭がうるさい」

葵は眉をひそめた。

「分析しないでどうやって直すんですか」

「分析するなとは言ってない」

「じゃあ」

「順番が逆だ」

古条は楽器を持ち上げた。

「お前は木を聞く前に、木を説明しようとする」

「説明できるものは説明したほうが」

「雨を説明して濡れなくて済むなら、そうすりゃいい」

葵は黙った。

古条は彼女の顔を見た。

「都会で何を置いてきた」

「何も」

「じゃあ何でそんな顔してる」

腹が立った。

初対面の老人に何が分かる。

「私は音響を勉強してるんです。感覚だけで修理するより」

「感覚だけでやれとも言ってない」

老人は笑った。

「数字は便利だ。だが数字は木じゃない。波形は音じゃない。お前が記録した泣き声は、泣いている人間じゃない」

葵の身体が固まった。

「……朔、何か言った?」

「何も」

朔は壁際にいる。

古条が言った。

「顔に書いてある」

葵は立ち上がった。

「帰ります」

「どこへ」

「宿」

「都会へじゃないのか」

「……」

老人は工房の裏手を指した。

山。

雲に隠れた巨大な影。

「登ってこい」

「は?」

「明日」

「何のために」

「知らん」

「知らないって」

「お前が知るんだろ」

葵は心底腹が立った。

しかし翌朝、登山靴を履いていた。

自分でも馬鹿だと思う。

山へ入る道で、朔はほとんど話さなかった。

濡れた木の根。シダ。巨大な葉。鳥。虫。沢。東京では絶対に聞けないほど複雑な音が、四方から押し寄せる。

葵は最初、それらを分類した。

右手の沢、おそらく二百ヘルツ付近に主成分。頭上の鳥は三キロから五キロ。葉を叩く雨は広帯域ノイズ。

途中で、疲れた。

分類しきれない。

音が多すぎる。

「あのさ」

葵が言った。

「島の人って、これ全部聞き分けてるの?」

朔が笑った。

「聞き分けない」

「じゃあどう聞くの」

「一緒に聞く」

葵は意味が分からなかった。

「音って分けないと」

「分けてもいい。でも最後は戻さないと」

「どこに」

「世界に」

その答えが少し嫌だった。

詩的すぎる。

でも、どこかで覚えていた。

中学生の頃の自分なら、そういう言葉を好きだった気がする。

山腹の小さな祠で休憩したとき、古い石碑があった。文字はほとんど摩耗して読めない。

「何て書いてあるの」

「歌」

朔が言った。

「昔の雨乞い?」

「それもあるし、送り歌でもあるらしい」

「歌詞は?」

「分からない」

「誰も?」

「古条さんなら一部知ってるかも」

「忘れられたの?」

「うん」

葵は石碑を撫でた。

旋律だけが残り、言葉が失われる。

意味だけが失われる。

それでも人は、なぜか歌う。

その構造が、自分自身に似ていると思った。

私は音を知っている。

でも、

音を好きだった理由を失っている。

その夜、山小屋の外で犬の遠吠えが聞こえた。

一匹。

しばらくして、遠くからもう一匹。

そしてまた別の方向から。

葵は眠れず、外へ出た。

朔が岩に座っていた。

「寝ないの?」

「葵も」

「犬?」

「うん」

また遠吠え。

寂しそう、と葵は思った。

すぐに、その言葉を打ち消そうとした。

動物の鳴き声へ人間の感情を投影しているだけ。

でも、やめた。

今日は、それでいいと思った。

「寂しいんだね」

朔が言う。

「科学的には分かんないけど」

「科学的じゃないと寂しがっちゃ駄目?」

葵は少し笑った。

「あなた、古条さんに似てきた」

「嫌だな」

「失礼」

夜の山。

木々。

遠吠え。

葵は自分の胸へ手を置いた。

どん。

耳底の太鼓。

今度は、犬の声と重なった。

自分もずっと、仲間を呼んでいたのかもしれない。

誰にも聞かれない場所で。


第三章 雨に祝福される

翌日の午後、天候が崩れた。

山頂まではあと二時間ほどと聞いていた。空は午前中から鉛色だったが、島の天気は変わりやすいと朔は言っていた。最初は霧雨だった。それが十分もしないうちに、視界を白く潰すほどの豪雨へ変わった。

レインウェアを着ても意味がない。

雨は首から入った。袖から入った。靴の中へ入り、髪から顔を流れた。風まで強くなる。

「戻る?」

朔が叫ぶ。

葵は返事をしようとした。

その瞬間、雷。

轟音。

身体が縮む。

世界全部が震えた。

道は泥になっている。

葵は滑った。

膝をつく。

手のひらが土へ沈む。

「葵!」

朔が戻ってくる。

「大丈夫?」

「……大丈夫」

立とうとする。

また滑る。

「もう嫌」

思わず口に出た。

「何?」

「もう嫌!」

雨音に負けないように叫んだ。

「何でこんなことしてるの!」

朔が黙る。

「山登ったら何が分かるの? 雨に濡れたら人間に戻るの? 木を触ったら優しくなれるの? そんなわけないじゃん!」

息が苦しい。

「私が冷たいのは、都会のせいじゃない! 大学のせいでも、パソコンのせいでもない! 私がそうなったの!」

朔は何も言わない。

「人が泣いてても何も感じないときがある。友達が辛いって言ってても、面倒だって思うときもある。誰かが死んだニュースを見ても、すぐ別の動画を見る。そんな自分がいる!」

雨。

涙かどうか分からない。

「ずっと怖かった」

声が震えた。

「私、もともとこういう人間だったんじゃないかって」

朔が一歩近づく。

「優しいふりしてただけで、本当は誰のことも大事じゃないんじゃないかって」

「葵」

「来ないで」

「うん」

朔は止まった。

その距離がありがたかった。

「私、自分が怖い」

やっと言えた。

「自分が何になってしまったのか、分からない」

それまで押さえていた何かが、崩れた。

葵は両手で顔を覆った。

泣いた。

声を上げて。

子どものように。

雨の中で泣くと、自分の涙がどこまでなのか分からない。空から落ちてくる水と、自分の内側から出てくる水が混ざる。

しばらくして、

肩へ腕が回った。

朔だった。

葵は抵抗しなかった。

彼の胸へ額を押し当てる。

鼓動。

どん。

どん。

耳底の太鼓と同じ速さではない。

でも、

生きた音だった。

「怖いなら」

朔が言った。

「まだ大丈夫だよ」

「何が」

「本当に何も感じないなら、自分が冷たいことを怖がらない」

葵は泣きながら首を振る。

「そんなの慰め」

「うん」

「根拠ない」

「うん」

「適当」

「うん」

「……馬鹿」

「それも」

葵は少し笑った。

その瞬間。

雨が、

冷たいと感じた。

今までずっと雨は「降水」だった。

スペクトル。

ノイズ。

環境音。

でも今は、

冷たい。

肌に当たる。

頬を滑る。

唇へ入る。

土の匂い。

朔のコートの濡れた布。

自分の指。

全部。

葵は顔を上げた。

雨を避けなかった。

目を閉じる。

空へ向く。

降ってくる。

無数に。

世界から。

「寒い」

「うん」

「すごく寒い」

「下りる?」

葵は首を振った。

「もう少し」

彼女は両腕を広げた。

何かを受け取るように。

雨は彼女だけのために降っているわけではない。

山にも。

木にも。

犬にも。

海にも。

朔にも。

知らない誰かにも。

世界は、自分の苦しみに関係なく降り続ける。

それが不思議と救いだった。

私が泣いていても、

世界は世界でいてくれる。

私の感情に合わせて、

空まで壊れる必要はない。

その大きさの中なら、

自分の醜さも、

弱さも、

抱えてもらえる気がした。

葵は小さく言った。

「ありがとう」

「誰に?」

朔が聞く。

葵は笑った。

「知らない」

雨に。

山に。

生きていることに。

あるいは、

まだ自分が何者になるのか決まり切っていないことに。

その全部へ。

夜明け前。

二人は山頂近くの避難小屋へ着いた。

雨は止んでいた。

朝。

雲海。

その上に太陽。

葵は言葉を失った。

分析しようとしなかった。

ただ見た。

それができたことが、

何より嬉しかった。


第四章 時間をかけて、音になる

麓へ戻った葵を見て、古条老人は何も言わなかった。

「何ですか」

「別に」

「何か言いたそう」

「うるさい顔が少し静かになった」

葵は睨んだ。

老人は楽器を差し出した。

「やるぞ」

今度はパソコンを開かなかった。

まず木を触った。

表面。

ひび。

重量。

匂い。

指で叩く。

こん。

前より、

少し違って聞こえた。

数値が頭に浮かばなかったわけではない。

でも、

それだけではなかった。

「ここ」

古条が指を置く。

「薄い」

葵も触る。

「分からない」

「なら百回触れ」

「そんな」

「千回でもいい」

修復は遅かった。

木を削る。

合わせる。

失敗する。

削りすぎる。

やり直す。

接着。

乾燥。

弦。

張力。

駒。

葵は何度も、

計測器を使いたくなった。

古条は別に禁止しなかった。

だから途中から使った。

周波数解析もした。

含水率も測った。

ただ、

数字を最後の答えにしなかった。

木に触れた。

耳で聞いた。

朔にも弾かせた。

古条にも聞いた。

自分の指にも尋ねた。

工学と感覚。

どちらかではない。

両方。

それが、

今の自分にはしっくりきた。

一週間後。

楽器は完成した。

完全ではない。

古いひびは残っている。

新しい補修材の色も、

古い木とは少し違う。

でも、

音が出た。

朔が最初の一音を弾いた。

低く、

温かい音。

部屋の空気が震えた。

葵は、

泣かなかった。

その代わり、

笑った。

「いい音」

それだけ言った。

「解析する?」

朔が笑う。

「あとで」

「するんだ」

「するよ。私、音響やってるんだから」

古条が鼻で笑った。

「それでいい」

葵は少し驚いた。

「数字で木を測るなって言ったじゃないですか」

「数字だけで、と言った」

「言ってない」

「そういう意味だ」

「ずるい老人」

「都会の娘に言われたくない」

工房に笑い声が広がった。

その瞬間、

葵は気づいた。

自分が帰ってきたのは、

「昔の自分」ではない。

感情だけで生きていた少女へ戻ったわけではない。

音響工学を捨てたわけでもない。

都会を否定したわけでもない。

知識を持ったまま、もう一度感じられる場所へ来た。

それは回帰ではなく、

螺旋だった。

同じ場所へ戻ったように見えて、

少し違う高さへ来ている。

島を出る前夜。

海岸。

雨上がり。

遠くで太鼓。

祭りの練習らしい。

どん。

どん。

今度は耳で聞こえる。

朔が隣に座っている。

葵は言った。

「東京戻ったら、また冷たくなるかもしれない」

「なるかもね」

「否定してよ」

「嘘になる」

「ほんと、そういうとこ嫌い」

「知ってる」

「人の話、面倒になる日もあると思う」

「あるよ」

「また何でも分析するかも」

「それは仕事だし」

「じゃあ私、変わってないじゃん」

朔は少し考えた。

「変わるって、別の人になること?」

葵は黙る。

「葵は葵のままで、選び方が増えたんじゃない」

「選び方」

「分析することもできる。感じることもできる。離れることも、近づくことも」

海。

月。

濡れた砂。

「それで十分じゃない?」

葵はしばらく波を見た。

「時間、かかるね」

「うん」

「自分に戻るの」

朔が言った。

「戻るんじゃないかも」

「じゃあ?」

「作る」

葵は笑った。

「それ、音みたい」

「何が」

「録音って、元の音をそのまま保存してるように見えるけど、本当はマイクも空間も機材も全部通って、別のものになる」

「うん」

「それでも、嘘じゃない」

「うん」

葵は楽器ケースへ手を置いた。

「私もそうなのかな」

朔は答えなかった。

答えなくてよかった。

東京へ戻る朝。

空港。

朔は島に残る。

葵は一人で搭乗口へ向かう。

別れ際、

彼女は振り返った。

「朔」

「ん」

「もし百人くらいで私を連れ戻しに来ても」

「何それ」

「私はもう、この音から離れない」

朔は笑った。

「僕からは?」

葵は少し考えた。

「それは……今後の態度次第」

「厳しい」

「でも」

彼女は戻って、

朔の手を握った。

「ありがとう」

「うん」

手の温度。

雨の匂い。

木の感触。

太鼓。

山。

遠吠え。

朝日。

全部が、

彼女の中にある。

飛行機へ乗る。

窓際。

翼。

月ではなく、

朝日が反射している。

離陸。

島が小さくなる。

葵はイヤフォンを耳へ入れた。

録音しておいた雨の音を再生する。

最初、

無意識にスペクトルを想像した。

高域。

低域。

残響。

そして、

笑った。

それから目を閉じた。

ただ聞いた。

雨。

遠い雨。

世界のどこかで、

今も降っている。

自分とは無関係に。

そして、

自分を含むすべてのものへ。

そのことが、

たまらなく愛おしかった。


エピローグ 遠い雨に祝福を

半年後。

大学のスタジオ。

葵は新しい作品を制作していた。

タイトルは、

『Bless the Distant Rain』

音源には、

島で録音した雨。

野犬の遠吠え。

古い楽器。

東京の地下鉄。

信号機。

大学の空調。

友人の笑い声。

自分の呼吸。

全部を入れた。

以前の彼女なら、

異なる音を整理し、

不要なノイズを削り、

完璧なミックスへ近づけただろう。

今は、

少し残した。

ざらつき。

息。

雨の不規則さ。

弦の僅かなビビり。

人間が触った跡。

教授が試聴し、

「ここ、ノイズ残ってるよ」

と言った。

葵は答えた。

「はい」

「消さないの?」

「残します」

「意図的?」

「はい」

教授は少し笑った。

「ならいい」

それだけ。

葵も笑った。

正解ではない。

でも、

自分で選んだ。

夜。

スタジオを出る。

雨。

東京の雨。

アスファルト。

車。

傘。

コンビニ。

ネオン。

以前なら、

島の雨とは違うと思った。

今は、

違っていていいと思う。

東京の雨も、

雨だ。

葵は傘を閉じた。

少しだけ。

濡れる。

冷たい。

笑う。

通行人が怪訝そうに見る。

どうでもいい。

スマートフォンが鳴った。

朔。

《雨降ってる?》

葵は返信する。

《うん》

少し考えて。

《こっちの雨も、悪くない》

送信。

そして、

空を見上げた。

自分が何者なのか、

今も完全には分からない。

優しい人間なのか。

冷たい人間なのか。

どちらでもあるのかもしれない。

人間は、

そんな一語では測れない。

傷つきたくない日もある。

誰かの涙を面倒だと思う日もある。

それでも、

次の瞬間、

手を伸ばせることもある。

その可能性まで、

自分から奪わなくていい。

自己とは、

発見するものではなく、

時間をかけて作り続けるものなのだ。

葵はようやく、

それを少しだけ信じられるようになった。

雨が頬を流れる。

涙ではない。

でも、

涙と区別する必要もない。

遠い島にも、

ここにも、

同じ空から水が落ちてくる。

乾いた土へ。

木へ。

街へ。

そして、

まだ完成していない人間の上へ。

葵は小さく呟いた。

「祝福を」

誰にともなく。

雨に。

朔に。

冷たかった自分に。

これから変わっていく自分に。

そして、

何度乾いても、

また濡れることのできる世界に。

彼女は傘を開き直し、東京の光の中へ歩いていった。

もう始源の島へ逃げ帰る必要はなかった。

雨は、

彼女の内側にも降り始めていた。

台座の上の英雄

 



第一章 神殿のガラスと、ファインダーの傷

私には、世界と直接触れ合わないための方法がある。

右手でカメラを持つ。

左手でレンズを支える。

人差し指をシャッターへ置く。

右目をファインダーへ押し当てる。

それだけで世界は、縦二十四ミリ、横三十六ミリ程度の安全な四角形になる。

泣いている人も。

怒っている人も。

殴られている人も。

自分を必要としている人も。

全部、

「被写体」

になる。

被写体なら、助けなくていい。

露出を合わせればいい。

ピントを合わせればいい。

構図を決めればいい。

世界がどれだけ醜くても、ファインダーの中なら私は観客でいられた。

それが、

佐倉結衣、十六歳。

私立聖華学園高等部二年。

写真部。

そして、

たぶん、

卑怯者。

聖華学園には神様がいる。

もちろん、宗教上の話ではない。

校内で彼女の名前を出せば、誰もが同じ顔をする。

少し誇らしそうに。

少し安心したように。

「鳳条先輩がいるから大丈夫」

生徒会長。

剣道部主将。

学年主席。

鳳条冴。

十八歳。

黒髪は腰近くまで真っ直ぐ伸びている。

制服の襟はいつも正しい位置。

歩き方に無駄がない。

声を荒らげない。

なのに誰も逆らえない。

昨年、教師が黙認していた部活動内のいじめを内部調査し、学校法人まで動かした。

その前は、女子生徒だけに不利だった服装規定を改定させた。

さらに前には、生徒会予算の不透明な流用を突き止めた。

誰かが困れば現れる。

誰かが泣けば手を差し出す。

理不尽なものがあれば立ち向かう。

だから人々は彼女を呼んだ。

「台座の上の英雄」

最初にそう書いたのは校内新聞だったらしい。

それから言葉は一人歩きした。

冴先輩なら大丈夫。

冴先輩なら負けない。

冴先輩は折れない。

冴先輩は正しい。

冴先輩は。

冴先輩は。

冴先輩は。

気づけば、

人間一人が持つにはあまりにも多すぎる文章が、

彼女の肩に積まれていた。

当時の私は、

その文章を疑わなかった。

むしろ、

喜んで一つ加えていた。

鳳条冴は、私とは違う。

写真部では、文化祭用の企画として、

『聖華をつくる人々』

という写真展を準備していた。

教師。

用務員。

生徒。

部活動。

購買のおばさん。

そして当然、

鳳条冴。

私は彼女の撮影担当になった。

理由は単純。

写真部で一番人物撮影が上手いから。

「佐倉さん」

初めてカメラを向けた日。

冴先輩は、生徒会室の窓際に立っていた。

夕日。

黒髪。

白いシャツ。

完璧だった。

「もう少し左を向いてもらえますか」

「こう?」

「はい」

シャッター。

カシャ。

「少し笑ってください」

冴先輩は笑った。

カシャ。

完璧な笑顔。

誰に見せても、

「鳳条冴らしい」

と言うだろう。

なのに私は、

カメラを下ろした。

「どうしたの?」

「いえ」

何かがおかしい。

写真には、

人が隠しているものが写ることがある。

まばたきの直前。

口角が落ちる一瞬。

視線が逃げる方向。

私はそういうものを拾うのが好きだった。

冴先輩には、

それがない。

何もないのではない。

何も漏らさない。

「続けます」

「ええ」

カシャ。

その日、

二百八十三枚撮った。

家に帰ってモニターへ並べる。

全部きれいだった。

そして、

全部、

少し怖かった。

私は昔、

写真なんて撮らなかった。

中学二年生の頃。

親友がいた。

水瀬莉子。

明るくて、

少し空気が読めなくて、

だからクラスの中では浮いていた。

最初は、

筆箱を隠される程度だった。

次は上履き。

次は机。

笑い。

無視。

SNS。

私は知っていた。

全部。

知っていて、

何もしなかった。

怖かった。

次は自分かもしれない。

だから、

莉子の横に座らなくなった。

メッセージの返信を遅らせた。

「ごめん、今日は用事ある」

と嘘をついた。

最後に莉子から来たメッセージは、

短かった。

《結衣も、私のこと嫌いになった?》

返せなかった。

翌月、

莉子は転校した。

それから私は、

人間の顔を見るのが怖くなった。

カメラを始めたのはその頃だ。

レンズ越しなら、

近づかなくても、

見ているふりができる。

私は、

世界の観客になった。

冴先輩の「本当の写真」を撮ったのは、

六月の雨の日だった。

旧校舎。

礼拝堂。

聖華学園は、戦前に設立されたミッション系女学校を母体としている。

今では形式的な礼拝しか行われない古い石造りの礼拝堂が、

旧校舎の奥に残されていた。

私は雨を撮りに行っていた。

ステンドグラス。

濡れた石畳。

曇天。

いい写真が撮れそうだった。

中から、

音がした。

ゴッ。

ゴッ。

何かを叩く音。

私は扉を開けた。

薄暗い礼拝堂。

祭壇。

その前。

冴先輩がいた。

最初、

何をしているのか分からなかった。

右手。

石の縁。

拳。

ゴッ。

「先輩……?」

冴先輩の身体が止まった。

振り返る。

右手には傷があった。

赤い。

私は息を呑んだ。

「何してるんですか」

「……佐倉さん」

冴先輩は、

いつもの笑顔を作ろうとした。

失敗した。

その瞬間だけ、

私は初めて彼女の年齢を見た。

十八歳。

ただの。

疲れ切った少女。

「見なかったことにして」

声が掠れている。

「できません」

「できるわ」

「血が」

「たいしたことない」

私は一歩近づく。

冴先輩は下がった。

まるで、

私のほうが危険なもののように。

「来ないで」

「保健室へ」

「必要ない」

「必要あります」

「佐倉さん!」

声が響いた。

礼拝堂。

ステンドグラス。

聖人の像。

その中央で、

英雄が震えていた。

「私は」

冴先輩は胸を押さえた。

呼吸が浅い。

「もっと正しくならなきゃいけないの」

「……何を言ってるんですか」

「まだ足りない」

「何が」

「全部」

彼女は、

笑った。

壊れた笑いだった。

「私がもっとちゃんとしていれば、誰も傷つかない」

私はカメラを持っていた。

癖で。

指がシャッターへ動いた。

でも、

押せなかった。

ファインダーを覗けば、

この光景も安全な四角形になる。

私はそれを知っていた。

だから、

カメラを下ろした。

初めて。

世界を、

裸眼で見た。

冴先輩は泣いていなかった。

泣くことさえ、

許していないように見えた。

そして私は思った。

この人は、

英雄なのではない。

英雄という言葉の中に、

閉じ込められている。


第二章 正義という名の牢獄

「頼みがある」

翌日。

屋上。

私を呼び出したのは、

一ノ瀬蓮先輩だった。

鳳条冴の幼馴染。

同じ三年生。

ぱっと見は冴先輩とは正反対。

ネクタイは緩い。

髪も少し長い。

生徒会にも部活にも所属していない。

でも、

冴先輩の話になると目だけが真剣になる。

「何ですか」

「冴を」

彼は言った。

「台座から引きずり下ろしてくれ」

私は意味が分からず、

しばらく黙った。

「それ、幼馴染が言う言葉ですか」

「幼馴染だから言ってる」

蓮先輩はフェンスに背中を預けた。

「このままじゃあいつ、壊れる」

「昨日のこと、知ってるんですね」

「昔からだ」

風。

校庭。

部活の掛け声。

「冴には妹がいた」

蓮先輩が言った。

七歳下。

名前は美羽。

冴が十歳の夏。

近所の川。

妹が水際へ行った。

冴は、

ほんの少し目を離した。

事故だった。

大人たちは言った。

冴のせいではない。

子どもだった。

誰にも防げなかった。

でも。

十歳の冴だけは、

それを認めなかった。

「私が見ていれば」

それが、

彼女の世界の中心になった。

誰かが怪我すると、

自分が気づかなかったから。

誰かが泣くと、

自分がもっと早く動かなかったから。

誰かが傷つくたび、

十歳の夏へ戻る。

「それで」

蓮先輩は吐き捨てるように言った。

「正しい人間になろうとした」

勉強。

剣道。

生徒会。

規則。

倫理。

誰かを守る。

誰かを救う。

一度も間違えない。

誰も見捨てない。

「そんなの無理です」

私が言った。

「そうだよ」

「じゃあ先輩が言えば」

「言った」

蓮先輩は笑った。

「百回くらい」

「……」

「でも俺の言葉は、もう届かない」

「どうして」

「幼馴染だから」

それが答えになるのか、

私には分からなかった。

「俺は冴の過去を知りすぎてる。あいつからすると、俺が『休め』って言うのは、『美羽を忘れろ』に聞こえるんだと思う」

蓮先輩は私を見る。

「だから」

「私なら?」

「お前は冴の現在を撮ってる」

私はカメラを握った。

「写真部だからって、人を救えるわけじゃ」

「救わなくていい」

即答だった。

「え」

「冴が一番壊れた理由、たぶんそれだから」

彼は空を見る。

「誰か一人が誰かを救い切れるって思ったこと」

その言葉が、

胸の奥に刺さった。

数日後。

冴先輩に関する噂が出た。

《生徒会会計を私的流用》

《推薦枠を不正に操作》

《教師への圧力》

最初は匿名投稿。

次にスクリーンショット。

次に「内部資料」。

よくできていた。

写真部の私は、

画像を見るのが仕事だ。

違和感に気づいた。

フォント。

圧縮ノイズ。

影。

時刻表示。

どこかがおかしい。

でも決定的ではない。

噂の中心にいたのは、

昨年の生徒会執行部から外された元役員たちだった。

冴先輩が不正を指摘したことで処分された生徒。

報復。

たぶん。

「先輩、これ偽物じゃ」

私は生徒会室へ行った。

冴先輩は机に座っていた。

顔色が悪い。

「知ってる」

「え」

「偽物よ」

「なら反論してください」

「しない」

「何で」

「もういいから」

「何がいいんですか」

冴先輩は静かに書類を閉じた。

「文化祭の開会式で、辞任を発表する」

「辞任?」

「それから」

わずかに間。

「退学届を出す」

「は?」

声が出た。

「何言ってるんですか」

「責任を取るの」

「何の!」

「全部」

また。

全部。

礼拝堂と同じ言葉。

「やってないことまで?」

「それで収まるなら」

「収まるわけないでしょう!」

「佐倉さん」

彼女は笑った。

完璧な笑顔。

「私はね」

静かな声。

「そういう役なの」

「役?」

「誰かが責任を取らなきゃいけない」

「だからって」

「私なら耐えられる」

私は、

その言葉で分かった。

違う。

この人は耐えようとしているのではない。

罰されようとしている。

「先輩」

「なに」

「死にたいんですか」

冴先輩の瞳が動いた。

私は自分でも驚いた。

言ってはいけない言葉だったかもしれない。

でも、

目を逸らしたくなかった。

「私は」

冴先輩は長く黙った。

「そんなこと言ってない」

確かに。

でも、

自分を壊す方向へ歩いている。

その事実は変わらない。

「あなたは」

私は言った。

「正義のために生きたいんじゃなくて、正義のために消えたいんじゃないですか」

初めて、

冴先輩が私を睨んだ。

「帰って」

「先輩」

「帰って!」

机が震えるほどの声。

私は動けなかった。

でも、

最後には出ていった。

廊下へ。

扉が閉じる。

そして。

私はまた、

何もできなかった。

中学二年生。

莉子。

《結衣も、私のこと嫌いになった?》

未返信。

その画面が蘇る。

足が止まる。

「まただ」

呟いた。

私はまた、

誰かが壊れていく前で、

立っているだけ。

ファインダー。

観客席。

安全圏。

逃げるための距離。

自分には救う資格がない。

だから、

助けなくていい。

ずっとそう思っていた。

でも。

突然、

別の問いが浮かんだ。

救う資格って何だ?

誰が発行するんだ。

どこでもらえる。

失敗した人には二度と与えられないのか。

一度逃げた人間は、

永遠に逃げ続けなければならないのか。

私は、

写真部室へ走った。


第三章 未来の私を起こすもの

パソコンを開く。

外付けSSD。

フォルダ。

《鳳条冴》

二千四百六十一枚。

私は、

全部見た。

最初の生徒会室。

剣道場。

校門。

廊下。

文化祭準備。

笑顔。

横顔。

演説。

握手。

そして、

誰にも見せる予定のなかった写真。

夕方、

生徒会室で眠ってしまった冴先輩。

誰もいない廊下で、

壁に手をついて息を整えている姿。

包帯。

コンビニのおにぎりを、

一口だけ食べて残した日。

他人の相談を聞いたあと、

一人になった瞬間だけ目を閉じた顔。

全部。

神ではなかった。

十八歳。

疲れていた。

怖かった。

それでも、

誰かの前では笑った。

私は写真を見ながら、

泣いていた。

そして、

気づいた。

私は、

冴先輩を憧れていたのではない。

使っていた。

「鳳条冴は特別な人間だからできる」

そう思えば、

自分が動かない理由になる。

「私は英雄じゃないから」

そう言えば、

また莉子を見捨てた自分を、

永遠に固定できる。

卑怯者。

観客。

それで完成。

変わらなくていい。

「最低だ」

声が震える。

先輩を台座に載せたのは、

学校だけじゃない。

私も。

上から光が当たる場所へ押し上げて、

「眩しいなあ」と見ていた。

その台座には、

階段がなかった。

降りたら、

失望される。

泣いたら、

神話が壊れる。

休んだら、

誰かが傷つく。

だから先輩は、

上で死のうとしている。

「そんなの」

私はカメラを握った。

「絶対、おかしい」

でも。

何ができる。

私は十六歳。

写真部。

権力もない。

剣道もできない。

生徒会でもない。

英雄ではない。

そこで、

ふと笑った。

「まだ言ってる」

英雄じゃないから。

英雄じゃないから。

英雄じゃないから。

なら、

英雄にならなくていい。

一人を全部救えなくていい。

世界も。

学校も。

冴先輩の過去も。

救えない。

でも。

次の一歩だけなら、選べる。

それが、

未来の自分を作る。

今の私が、

明日の私を起こす。

そう考えた瞬間、

私は初めて、

未来の自分を少しだけ信じた。

調べた。

画像。

投稿履歴。

ファイル。

元データ。

加工痕。

元生徒会メンバーのSNS。

文化祭実行委員会の共有サーバー。

私はハッキングなんてできない。

でも、

公開されているものを見ることはできる。

写真部だから、

画面の違和感を見つけられる。

捏造された領収書画像には、

二種類の撮影条件が混在していた。

影の方向。

JPEG圧縮。

EXIF。

生徒会室で使われているスキャナの特徴とも違う。

さらに、

「冴先輩が教師へ送った」とされるメール画面。

時刻表示と、

その日の学校システムのメンテナンス時間が矛盾している。

一人では足りない。

「蓮先輩」

電話。

「何」

「手伝ってください」

沈黙。

「何すればいい」

それだけだった。

次に写真部。

部長。

情報処理部。

文化祭実行委員。

少しずつ、

人に頼った。

怖かった。

断られたら。

笑われたら。

でも、

一人ずつ。

一つずつ。

世界は、

ファインダーの外でも、

全部敵ではなかった。

最後に、

私は元生徒会役員の一人と会った。

捏造グループにいた女子生徒。

顔色が悪かった。

「何で私に」

「写真があります」

私は言った。

彼女が加工前データを受け取っている場面。

決定的ではない。

でも、

問いかけるには足りる。

「脅すの?」

「違います」

私はカメラを机に置いた。

「やめてほしいんです」

「鳳条に頼まれた?」

「先輩は何も知りません」

彼女は笑った。

「ヒーロー様を守るんだ」

その言葉。

私は首を振った。

「違います」

「何が」

「鳳条先輩はヒーローじゃありません」

自分で言って、

胸が痛んだ。

でも。

「ただの女の子です」

「……」

「あなたたちが嫌いでもいい。恨んでてもいい。でも」

私は息を吸う。

「先輩を人間として壊すところまでやったら、たぶんあなたも戻れなくなる」

「説教?」

「違う」

「じゃあ何」

少し考えた。

「お願いです」

それしかなかった。

正しさで殴らない。

証拠で脅さない。

ただ、

頼む。

その女子生徒は、

長く黙った。

そして、

USBを一つ出した。

「これ」

「何ですか」

「元データ」

私は見た。

「何で」

「……鳳条が嫌いなのは本当」

彼女は言った。

「でも、退学まで行くと思ってなかった」

人間は、

いつも途中で気づく。

やりすぎた。

戻りたい。

でも戻れない。

私は、

そのUSBを受け取った。

手のひら。

小さい。

でも、

未来の向きを変えるには、

十分だった。


第四章 台座を降りた少女

文化祭初日。

大講堂。

全校生徒。

保護者。

教師。

ステージ。

巨大なスクリーン。

鳳条冴は、

中央に立っていた。

制服。

長い黒髪。

完璧な姿勢。

英雄。

最後の演説。

「本日は」

声。

静か。

「生徒会長として、皆さんへお伝えしなければならないことがあります」

私は講堂後方にいた。

カメラ。

ノートパソコン。

蓮先輩。

写真部。

みんな。

心臓がうるさい。

逃げたい。

今でも。

「私に関して現在流布されている件について」

冴先輩は言う。

「責任はすべて私にあります」

ざわめき。

違う。

「私は本日付で生徒会長を辞任し」

違う。

「学園を」

私はキーを押した。

照明。

暗転。

スクリーンが切り替わる。

「……え?」

冴先輩が振り返る。

最初に映したのは、

証拠だった。

加工前データ。

比較画像。

時刻。

履歴。

捏造。

事実。

ざわめきが広がる。

でも、

それだけでは終わらせなかった。

次。

写真。

誰もいない生徒会室。

疲れて眠る冴先輩。

次。

包帯。

次。

剣道場。

一人だけ残って掃除している姿。

次。

窓際。

作り笑いではない、

ぼんやりした横顔。

次。

礼拝堂。

そこだけは、

傷そのものを直接見せなかった。

雨に濡れた床。

落ちた包帯。

祭壇。

そして。

最後。

夕方。

冴先輩が小さな子どもに傘を貸したあと、

自分は濡れながら笑っていた写真。

「何を」

冴先輩の声が震える。

私は、

中央通路を歩いた。

途中から走った。

カメラが揺れる。

観客席。

舞台。

全部越える。

「鳳条先輩!」

声が講堂へ響く。

冴先輩が私を見る。

「やめなさい」

「嫌です!」

「佐倉さん!」

「先輩!」

息。

苦しい。

でも。

言う。

「台座から降りてください!」

静寂。

私は階段を上る。

「あなたは神様じゃない!」

冴先輩の顔が、

崩れかける。

「世界なんて救わなくていい!」

「やめて」

「全員を守らなくていい!」

「やめて……」

「誰にも嫌われない正義なんて、ない!」

冴先輩の目から、

初めて涙が落ちた。

「私は」

声が小さい。

「私がやらなきゃ」

「何で!」

「また誰かが」

「それでも!」

私は叫んだ。

「全部あなたの責任じゃない!」

冴先輩が首を振る。

「違う」

「違わなくても!」

自分でも、

何を言っているのか分からなかった。

でも。

「もし先輩に責任があることがあっても!」

一歩。

「それで先輩が一生、自分を罰し続けなきゃいけない理由にはならない!」

一歩。

「間違ったら、後悔して、謝って、次を選べばいい!」

冴先輩が泣いている。

「私は……」

「英雄じゃなくていい!」

とうとう、

目の前。

私は、

手を伸ばした。

震えている。

先輩の手も。

「私は」

喉が詰まる。

「あなたの本当の笑顔が見たい」

その一言は、

世界を救わない。

学校も。

過去も。

妹も。

何も救えない。

ただ、

一人へ届くための言葉。

それでよかった。

冴先輩の手を握る。

冷たい。

「降りてください」

私は言った。

「一緒に」

冴先輩は、

初めて、

ステージ中央の演台から一歩下がった。

たった一段。

それだけ。

でも、

その一段は、

誰よりも遠かった。

彼女は私の肩へ額をつけた。

そして。

泣いた。

声を上げて。

十八歳の少女として。

誰も拍手しなかった。

よかったと思う。

あれは、

見世物ではなかった。

英雄の帰還でもない。

ただ、

人間が人間へ戻る時間だった。


エピローグ その笑顔に逢える日まで

秋。

鳳条冴は生徒会長を辞任した。

退学はしなかった。

剣道部主将も後輩へ譲った。

学校は、

驚くほど普通に回った。

最初、

みんな困った。

「鳳条先輩ならどうする?」

という言葉が口癖になっていたから。

でも、

少しずつ変わった。

生徒会は複数人で仕事を分担した。

相談窓口には生徒だけでなく教師も入った。

問題が起きれば、

一人の英雄ではなく、

何人かで考えるようになった。

効率は悪くなった。

会議は長くなった。

意見も割れた。

でも、

誰か一人が壊れるまで背負うことは減った。

私は、

それを少し気に入っている。

放課後。

旧校舎屋上。

冴先輩。

制服。

風。

髪。

私はカメラを構える。

「撮ります」

「待って」

「何ですか」

「髪」

「そのままでいいです」

「写真部のくせに雑ね」

「自然体」

「便利な言葉」

カメラ。

ファインダー。

以前と同じ。

でも、

少し違う。

私はもう、

四角形の中へ逃げるためにカメラを構えていない。

近づくために使っている。

「先輩」

「何」

「笑ってください」

冴先輩は、

昔の完璧な笑顔を作ろうとした。

やめた。

「無理」

「え」

「今日は、うまく笑えない」

私は、

シャッターを押した。

カシャ。

「今撮ったでしょう」

「はい」

「ひどい顔だった」

「いい顔でした」

「嘘」

「本当です」

「逆光よ」

「いいんです」

「何が」

私はファインダーを覗く。

逆光。

白く滲む輪郭。

少し困った顔。

泣いた跡などもうない。

でも、

以前より柔らかい。

「このほうが」

私は言った。

「先輩が、人間に見えるから」

冴先輩は呆れた。

それから、

笑った。

今度は、

少しだけ。

完璧ではない。

左右も揃っていない。

目も少し細くなる。

それでも。

私はシャッターを切った。

カシャ。

「佐倉さん」

「はい」

「あなたは英雄になりたい?」

突然だった。

私はカメラを下ろす。

以前なら、

即答した。

なりたくない。

なれるわけがない。

資格がない。

でも。

「分かりません」

と答えた。

先輩が笑う。

「そう」

「でも」

私は少し考えた。

「英雄って、たぶん人の種類じゃないと思います」

「どういう意味?」

「そのとき、その人が何を選ぶかじゃないですか」

莉子。

あのとき。

私は逃げた。

その事実は消えない。

多分、

一生消さなくていい。

でも、

あのとき逃げた私は、

今日の私を永遠に決める法律ではない。

過去の私は、

未来の私を拘束する判決ではない。

私は、

次の瞬間に、

別の選択ができる。

「誰かの中に」

私は言う。

「まだ会ったことのない未来の自分がいるんだと思います」

冴先輩は、

黙って聞いている。

「怖くても、一回だけ手を伸ばしたら、その未来の自分が起きる」

「それが英雄?」

「たぶん」

私は笑う。

「知らないですけど」

「適当ね」

「先輩に言われたくないです」

風。

夕焼け。

街。

少しして、

冴先輩が言った。

「美羽のこと」

私は何も言わない。

「まだ、夢に見る」

「はい」

「私のせいだったって思う日もある」

「はい」

「前より楽になったわけじゃない」

「はい」

「でも」

冴先輩は、

自分の手を見る。

「苦しいからって、自分を罰することが、美羽を愛することじゃないのかもしれない」

私は、

ゆっくり頷いた。

「忘れる必要もないと思います」

「うん」

「痛いままでも」

「うん」

「生きていいんじゃないですか」

冴先輩は空を見る。

「それ、誰に教わったの?」

私は考える。

莉子。

冴先輩。

蓮先輩。

カメラ。

失敗した自分。

全部。

「たぶん」

答える。

「痛かった人たちに」

夕日が落ちる。

冴先輩は、

以前なら最後まで屋上に残って仕事へ戻った。

今日は、

「帰ろうか」

と言った。

それだけのことが、

私は嬉しかった。

階段を下りる。

英雄は、

台座から降りた。

だから、

小さくなったのではない。

初めて、

隣を歩ける高さになった。

英雄という言葉は、

遠くから見ると美しい。

光。

旗。

正義。

勝利。

でも、

台座の下から見上げている限り、

その人の足が震えていることには気づけない。

尊敬は、

時々、

人を孤独にする。

期待は、

時々、

鎖になる。

「あなたならできる」

という言葉が、

「あなたはできなくてはならない」

へ変わる瞬間がある。

だから。

もし誰かが台座の上で、

あまりにも美しく見えたなら。

一度、

近づいてみればいい。

そこにいるのは、

神ではないかもしれない。

泣きたいのに泣けない人。

怖いのに強く立っている人。

間違える人。

後悔する人。

誰かを救いたいと願うあまり、

自分を救うことを忘れた人。

そんな、

ただの人間かもしれない。

そして。

人間なら、

手を伸ばせる。

人間なら、

一緒に降りられる。

人間なら、

未来へ変わっていける。

私は屋上の扉を閉める前に、

振り返った。

夕日。

空だけが残っている。

かつてそこには、

台座の上の英雄がいた。

今はいない。

だからこそ、

明日からは、

一人ひとりが少しずつ、

自分の中にいる何かを起こさなければならない。

世界を救うためではない。

隣にいる、

たった一人の笑顔に、

もう一度逢うために。

刻の海を越えて



――傷だらけの世界で、純粋な時間を

第一章 宇宙の傷口

星ヶ丘町には、空から見なければ分からない傷がある。

山あいの町を抱くように連なる丘陵。その北側を、誰かが巨大な匙で抉り取ったような窪地がある。

直径八百メートル。

深さ四十七メートル。

二十年前に起きた「アストライア観測所事故」の跡だった。

町の古い地図には、そこに天体観測施設の名前が残っている。

新しい観光案内図では、ただ薄い灰色で塗りつぶされている。

まるで、

最初から何もなかった場所

のように。

でも佐倉澪は知っていた。

何もなかったのではない。

あそこには人がいた。

夢があった。

間違いがあった。

死があった。

そして、

父がいた。

「佐倉。進路希望票」

担任の声で、澪は顔を上げた。

放課後の教室。

窓の外では十一月の光が傾いている。

「明日までだぞ」

「はい」

返事だけした。

机の中から紙を取り出す。

第一希望。

第二希望。

第三希望。

全部、白い。

クラスメイトたちはもう、

東京。

仙台。

地元国立。

専門学校。

就職。

それぞれ未来に名前を書いている。

澪だけが、

白紙のままだった。

「まだ決められない?」

担任が聞く。

「……はい」

「天文学は?」

澪の指が止まった。

先生は悪くない。

悪意なんてない。

それでも、

その言葉だけで教室の空気が少し変わる。

近くにいた生徒が、

聞こえないふりをする。

澪にはそれが分かった。

佐倉。

天文学。

事故。

父親。

二十年前。

この町では、その単語は一本の糸でつながっている。

「考えておきます」

澪は紙を折った。

先生は何か言いたそうだったが、

「そうか」

だけで去った。

夕方。

澪は町の北側へ向かった。

立入禁止の柵。

錆びた看板。

《危険・旧観測施設跡》

柵の脇には、

人が一人だけ通れる隙間がある。

誰かが作った。

誰なのかは知らない。

澪は制服のスカートを押さえながら、そこを抜けた。

坂を上る。

雑草。

割れたコンクリート。

錆びたレール。

そして、

旧観測所。

半球状のドームは片側が潰れ、

外壁には黒い焼け跡が残っている。

その向こう。

巨大なクレーター。

夕日の下では、

底に溜まった雨水が赤く光っていた。

澪はいつも、

あれを見るたびに思う。

宇宙にも、

傷口があるのだろうか。

星は爆発する。

惑星は衝突する。

銀河は互いを引き裂く。

なのに人間だけが、

自分たちの傷を、

あってはならないもののように隠す。

澪はドーム内へ入った。

奥に、小さな作業机。

布をめくる。

円形のガラス。

直径三十センチほど。

父が遺した未完成のレンズだった。

澪は鞄から研磨布を取り出す。

ゆっくり、

ガラスを磨く。

しゃり。

しゃり。

しゃり。

単調な音。

その時間だけ、

頭の中が静かになる。

父の佐倉譲は、

この観測所の主任研究員だった。

事故報告書によれば、

打ち上げ補助システムの設計変更を急いだ。

複数の安全確認を短縮した。

観測衛星の姿勢制御が失敗。

軌道を外れた機体が地上施設へ落下。

火災。

爆発。

死者。

負傷者。

町は壊れた。

父は法的責任を問われ、

研究者としての職を失った。

澪が覚えている父は、

それから数年後の人だ。

痩せた背中。

散らかった机。

夜中まで何かを書いている手。

そして、

望遠鏡を覗くときだけ、

少年のようになる横顔。

「人間はね」

父は一度だけ言った。

「間違える」

幼かった澪には意味が分からなかった。

「じゃあ、間違えないようにすればいいじゃん」

父は笑った。

「そうだね」

少し間を置いて。

「でも、間違えたあとに何をするかも、人間の仕事なんだよ」

その父も、

もういない。

亡くなる少し前。

最後まで事故について、

「自分は悪くない」

とは言わなかった。

だから澪も、

父を無罪だとは思っていない。

それが苦しい。

悪人だったと思えれば、

嫌えばいい。

無実だったと思えれば、

庇えばいい。

でも父は、

間違えた人だった。

それでも、

澪を愛していた。

星を愛していた。

未来を信じていた。

人間は、

そんなふうに矛盾している。

「……ずるいよ」

澪はレンズを磨きながら呟いた。

「簡単に嫌いにならせてくれたらいいのに」

返事はない。

ただ夕日が、

ガラスの表面を淡く滑っていった。

「相変わらず不法侵入」

背後から声。

澪は振り向いた。

一ノ瀬慧。

制服の上に古い作業ジャケット。

手には工具箱。

「そっちもでしょ」

「俺は修理」

「誰に頼まれたの」

「自分」

「じゃあ同罪」

慧は肩をすくめる。

小学生の頃から、

こういう人だった。

静か。

器用。

何かが壊れていると、

口より先に手を出す。

時計。

ラジオ。

カメラ。

双眼鏡。

何でも直す。

「レンズ、どう」

「少し」

慧が覗き込む。

「端、曇り取れてきた」

「分かる?」

「分かる」

「適当」

「じゃあ聞くなよ」

澪は少し笑った。

慧はその笑顔を見て、

何も言わなかった。

それがありがたかった。

第二章 今だけを世界にしない

十二月。

町役場から正式発表が出た。

旧観測所跡地再開発事業。

クレーター埋め立て。

旧施設撤去。

防災公園および商業施設建設。

新聞には、

《二十年越しの再生へ》

という見出し。

町長は会見で言った。

「未来へ進むためには、過去を整理する必要があります」

テレビの前で、

澪は笑った。

整理。

便利な言葉だと思った。

捨てることを、

整理と言えば、

きれいに聞こえる。

役場の説明会。

澪は一人で質問した。

「クレーター全部埋めるんですか」

会場の視線が集まる。

担当者が答える。

「安全性を考慮しまして」

「旧観測所も?」

「老朽化が著しいため」

「事故資料の保存は?」

少し沈黙。

「一部は郷土資料館に」

「一部って?」

後ろから小さな声。

「また佐倉さんか」

聞こえた。

澪の背中が固くなる。

「もういいでしょう」

別の年配男性。

「いつまであんな事故を町の真ん中に置いておくんだ」

澪は振り向く。

「消せばなくなるんですか」

「誰もそんなこと言ってない」

「じゃあ、どうして埋めるんですか」

「若い君には分からんよ」

その言葉で、

何かが切れた。

「分からないのはそっちでしょ!」

会場が静まった。

「全部隠して、なかったことみたいにして! それで未来って何なの!」

係員が制止する。

澪は椅子を蹴るように立ち、

会場を出た。

雨だった。

いつの間にか。

傘も差さず、

澪はクレーターへ向かった。

柵。

坂。

泥。

制服。

全部濡れる。

クレーターの縁へ立つ。

底は暗い。

雨粒で水面が崩れる。

「もう嫌」

声が出た。

父。

町。

事故。

進路。

全部。

「何で私が」

涙と雨の区別がつかない。

「何で私が、これ全部持たなきゃいけないの」

返事はない。

だから、

誰かに怒ってほしかった。

世界に。

父に。

町に。

自分に。

そのとき、

肩に何かが触れた。

温かい。

慧だった。

傘も差していない。

「……何してんの」

澪が言う。

「それ、こっちの台詞」

「帰って」

「嫌」

慧は澪の横に立つ。

肩と肩。

ほんの少しだけ触れる。

それ以上は近づかない。

慰めようともしない。

「何か言ってよ」

澪が言った。

「何を」

「大丈夫とか」

「大丈夫じゃないだろ」

澪は唇を噛んだ。

「じゃあ何」

慧はしばらく黙った。

雨。

水。

風。

「手」

「え?」

「冷たい」

澪の手を取る。

両手で包む。

びっくりするほど、

慧の手は温かかった。

「……あったかい」

「生きてるから」

当たり前。

でも、

その当たり前が、

今の澪には痛かった。

「澪」

「何」

「今見えてるものだけで、世界全部決めなくていい」

「何それ」

「今は最悪」

「うん」

「町も最悪」

「うん」

「おじさんも間違えた」

澪の目が動く。

慧は逃げない。

「でも」

手を少し強く握る。

「それだけじゃない」

「……」

「時間って、今だけじゃないから」

雨の向こう。

クレーター。

「ここが事故の跡なのも本当」

「うん」

「おじさんが星好きだったのも本当」

「うん」

「澪が今ここで泣いてるのも本当」

「……うん」

「俺の手があったかいのも」

澪は笑った。

泣きながら。

「何それ」

「本当だろ」

「うん」

慧が言った。

「今だけ見て、全部悲しくしなくていいんじゃない」

その言葉は、

救いにはならなかった。

でも、

小さな穴を開けた。

真っ暗な部屋に。

光が入るほどではない。

ただ、

外側があると分かるくらいの穴。

澪はクレーターを見る。

「時間って海みたい」

突然言った。

慧が眉を上げる。

「何」

「今って、一波だけなのかも」

「急に詩人」

「うるさい」

でも、

そう思った。

今は暗い。

でも、

今は永遠ではない。

過去だって、

「事故」だけではない。

父の失敗。

父の情熱。

街の繁栄。

犠牲。

隠蔽。

愛。

全部ある。

未来も、

埋め立てるか保存するか、

それだけではないのかもしれない。

「慧」

「ん」

「レンズ、完成させたい」

「うん」

「望遠鏡も」

「うん」

「間に合うかな」

慧はクレーターを見た。

「知らない」

澪が少し笑う。

「そこ、頑張れば間に合うって言うところじゃない?」

「嘘になる」

「そうだね」

「でも」

慧は手を離さなかった。

「やるなら手伝う」

澪は手のひらを見る。

さっきまで冷たかった。

今は少し温かい。

何かを受け取った気がした。

思想でも、

勇気でもない。

ただ、

人間ひとりぶんの温度。

第三章 傷を知ったあとの純粋

工事開始まで、

十三日。

二人は旧観測所へ通った。

放課後。

休日。

朝。

夜。

慧は壊れた赤道儀を分解した。

澪はレンズを磨く。

交換部品がないところは、

慧が旋盤を借りて作った。

昔、観測所で働いていた職人を訪ねた。

最初は断られた。

「もう終わったことだ」

澪は頭を下げた。

「終わってません」

「君のお父さんの話なら」

「父を正しいって言ってほしいんじゃありません」

老人が黙る。

「父は間違えました」

言うのは苦しかった。

でも言った。

「それでも、あそこで作っていたもの全部が間違いだったとは思いたくないんです」

老人は長く澪を見た。

翌日。

工具箱を持ってきた。

三日後。

窓ガラスが割られた。

旧観測所。

壁にスプレー。

《罪人の娘》

澪は立ち尽くした。

床には、

傷つけられたレンズ。

完全には割れていない。

でも縁に細い傷。

怒りが湧いた。

熱い。

身体が震える。

「誰」

答えは分かっていない。

でも、

町の若者グループが最近、

澪の活動を面白半分で撮影していた。

慧が外へ出ようとする。

澪が腕を掴んだ。

「どこ行くの」

「探す」

「何するの」

慧は答えない。

「やめて」

「でも」

「やめて!」

自分でも驚く声。

澪は傷ついたレンズを見る。

涙が出る。

「悔しいよ」

「うん」

「壊したいくらい腹立つ」

「うん」

「でも」

涙を拭う。

「それやったら、同じになる」

慧は黙る。

その日の夕方、

案の定、

三人が来た。

高校生。

卒業生。

スマートフォン。

「まだやってんの?」

笑う。

「町の恥を観光地にする気?」

澪は立つ。

怖い。

でも、

逃げなかった。

「ここが人の過ちの場所なのは認める」

相手の笑いが止まる。

「父が間違ったことも」

「じゃあ何で」

「だから残すの」

「意味分かんね」

「分からなくていい」

澪はレンズを抱く。

「人間が間違えるって知るために残す」

息を吸う。

「でも」

声が震える。

「間違ったからって、人間に気高さがないってことにはならない」

自分でも、

大きなことを言っていると思った。

「父は間違えた。でも星を見てた気持ちまで嘘じゃない」

涙が落ちる。

「人を傷つける人がいる。でも誰かを守る人もいる」

慧を見る。

老人を見る。

集まり始めた町の人を見る。

「両方が人間なんだよ」

誰も何も言わない。

「私は」

澪は続けた。

「人間が綺麗だなんて思ってない」

初めて、

その言葉を口にした。

「でも、汚いだけだとも思わない」

風が吹く。

「それくらいは、信じていたい」

三人は、

何も言わず帰った。

勝ったわけではない。

論破したわけでもない。

でも翌日、

そのうち一人が来た。

無言で。

割れた窓のガラスを片づけ始めた。

人が増えた。

元研究員。

大工。

高校生。

近所の主婦。

事故当時、

家族を失った人もいた。

その人は澪へ言った。

「あなたのお父さんを許したわけじゃない」

澪は答えた。

「はい」

「たぶん、ずっと許さない」

「はい」

「でも」

その女性は、

古い望遠鏡の台座を拭いた。

「壊すだけが答えでもないと思った」

澪は、

ありがとう、

とは言わなかった。

それは違う気がした。

ただ一緒に、

布を濡らして台座を拭いた。

それでよかった。

夜。

作業のあと。

澪と慧はドームの床に座っていた。

「純粋って何だと思う?」

澪が聞く。

慧はしばらく考える。

「水?」

「小学生?」

「難しい」

「私も」

澪は天井を見る。

穴の開いたドームから、

星が一つ見える。

「昔はさ」

「うん」

「純粋って、何も知らないことだと思ってた」

「うん」

「人は優しいとか。夢を信じれば叶うとか」

「うん」

「もう無理だよね」

父の事故を知った。

町の冷たさも知った。

人の悪意も。

自分の怒りも。

もう、

何も知らなかった頃には戻れない。

「でも」

澪は言った。

「知ったあとでも、星が綺麗って思えるなら」

慧が見る。

「それも純粋って言っていいのかな」

慧は少し考えた。

「いいんじゃない」

「軽い」

「じゃあ駄目?」

「それも嫌」

慧が笑う。

澪も笑った。

穴の向こうで、

星は何も知らない顔で光っている。

でも多分、

星だって傷だらけだ。

表面。

内部。

爆発。

衝突。

それでも光る。

澪は、

それを少し好きだと思った。

第四章 手のひらから明日へ

工事前夜。

観測会。

町の人が百人以上来た。

誰が呼んだのか、

SNSで拡散されたらしい。

「嫌いじゃなかったの?」

澪が以前の妨害者に聞く。

「今も別に好きじゃない」

「じゃあ何で」

「最後なら見とこうかなって」

「そっか」

それでいい。

全員が同じ意味を持つ必要はない。

午後七時三十分。

雲。

最悪。

「見えない」

澪は空を見る。

慧が横。

「待つしかない」

「工事、明日の朝だよ」

「雲に言え」

「今すぐどいてくださいって?」

「敬語ならいけるかも」

「馬鹿」

八時。

九時。

人が少しずつ帰る。

九時四十三分。

風向きが変わった。

老人が言う。

「開くぞ」

雲が裂ける。

最初に一つ。

次に三つ。

そして。

満天。

誰かが声を上げた。

望遠鏡。

修復した架台が動く。

澪が調整。

慧が固定。

古い職人が目盛りを読む。

「いける」

澪が覗く。

星。

揺れる。

でも、

見える。

「投影側、開けるよ」

慧。

澪が頷く。

父のレンズ。

未完成だった設計。

父は、

観測光の一部を地上へ再投影する実験を考えていた。

単なる科学実験。

でも、

今夜だけは、

別の意味になる。

光路を調整。

反射板。

クレーター底。

集水池。

「三」

慧。

「二」

澪。

「一」

光。

最初は、

細い。

一本。

クレーターの底へ。

水面へ触れる。

そして。

広がった。

星明かりが反射し、

暗い窪地の底へ、

無数の光点を散らす。

風で水面が揺れる。

星も揺れる。

地上に、

もう一つの夜空。

上にも星。

下にも星。

クレーター全体が、

巨大な光の盃になった。

誰も話さなかった。

事故の傷。

町が消そうとしていた場所。

そこが、

最も美しく星を受け止めている。

澪は泣いた。

「お父さん」

小さく。

「これ、見たかったの?」

答えはない。

父の意図は、

もう分からない。

勝手に美しい物語にしてはいけない。

だから、

それでいい。

父が何を思っていたかは、

完全には分からない。

ただ、

レンズは残った。

設計図も。

傷も。

そして今、

光がある。

隣で、

事故遺族の女性が泣いていた。

澪は声をかけられなかった。

しばらくして、

女性のほうから言った。

「綺麗ね」

「……はい」

それだけ。

許しではない。

和解でもない。

でも、

同じ光を見ている。

それで十分だった。

数週間後。

町は埋め立て計画を凍結した。

全面保存ではない。

危険区域の一部は整備。

旧観測所も補強が必要。

公園化。

事故資料室。

天体観測。

防災教育。

計画は、

理想ほど綺麗ではなかった。

澪はそれを気に入った。

完全な答えではないから。

人間らしいと思った。

エピローグ 途上の朝

春。

卒業式の翌朝。

澪と慧は丘にいた。

旧観測所。

クレーター。

朝日。

まだ冷たい空気。

「進路」

慧が言う。

「出した?」

「出した」

「どこ」

「天文学」

「結局」

「悪い?」

「別に」

「慧は?」

「光学」

「結局」

二人とも笑う。

澪は手を差し出した。

「何」

「手」

慧が握る。

「意味ある?」

「ある」

「何」

「確認」

「何を」

澪は少し考える。

「今、ここにいること」

手のひら。

温度。

十七歳。

朝。

傷の残る町。

完璧ではない未来。

全部、

途中。

「ねえ慧」

「ん」

「私たちって、何も解決してないよね」

「してない」

即答。

「父の事故も消えない」

「うん」

「怒ってる人もいる」

「うん」

「また人間は間違える」

「多分」

「夢ないね」

「でも」

慧は朝日を見る。

「手渡すことはできる」

「何を」

「知ったこと」

澪は黙る。

事故。

愛。

失敗。

光。

怒り。

手の温度。

全部。

「そっか」

人間は、

完成できないのかもしれない。

歴史も。

社会も。

自分も。

いつも途中。

何かを受け取り、

少し変えて、

次へ渡す。

その繰り返し。

だから、

途中であることは、

欠陥ではない。

むしろ、

未来が入り込める余白なのだ。

澪はクレーターを見る。

昔は、

傷口にしか見えなかった。

今も、

傷口ではある。

ただ。

傷口だからこそ、

そこから見えるものもある。

間違い。

喪失。

そして、

それでも人間が何かを残そうとした跡。

「私」

澪が言う。

「人間を信じることにする」

慧が眉を上げる。

「でかいな」

「全部じゃないよ」

「じゃあ何を」

澪は考える。

「人間が」

ゆっくり。

「間違ったあとでも、気高くなろうとすること」

慧は少し笑った。

「それなら、まあ」

「何その上から」

「俺も信じる」

風が吹く。

朝日が、

二人の手を照らす。

父の手。

慧の手。

自分の手。

いつか、

別の誰かの手。

命は、

たぶんそうやって、

時代を越える。

大きな理念ではなく。

温度として。

傷として。

技術として。

記憶として。

誰かが磨いたレンズの表面に、

次の誰かが触れる。

それでいい。

澪は深く息を吸った。

「行こうか」

「どこへ」

「知らない」

「進路決めたんじゃなかった?」

「それとこれとは別」

丘を下りる。

道はまだ、

朝靄の中。

全部は見えない。

でも、

足元くらいは見える。

それで十分だった。

泣きながらでも、

迷いながらでも、

人は進める。

純粋であるとは、

何も知らないことではない。

傷を知り、

過ちを知り、

それでもなお、

誰かの心の中に気高さがあると信じること。

世界の傷口を見たあとでも、

星を美しいと思えること。

そして、

受け取った熱を、

自分だけのものにしないこと。

澪は慧の手を握ったまま、

朝の光へ歩き出した。

完成された楽園は、

どこにもない。

だからこそ、

私たちはまだ、

明日を作る途中にいる。

2026-08-23

リンクから一歩下がり、不揃いな私たちが木を植える

 



第一章 報復の無限ループ

私立松華学園には、二つの時間が流れている。

ひとつは、百年前から続いている時間。

黒ずんだ煉瓦の旧校舎。磨けば飴色に光る廊下。創立者の肖像画。朝礼で歌う古い校歌。春になると講堂の窓を覆う蔦。代々の卒業生が寄贈してきた絵画や書籍や楽器。

もうひとつは、昨日より明日のほうが少し速くなる時間。

全面ガラス張りの新校舎。壁一面の大型ディスプレイ。オンライン授業。顔認証式の図書館ゲート。三次元プリンタ。ドローン撮影。生徒自身が運営する動画配信チャンネル。

松華学園はその二つを「伝統と革新の共存」とパンフレットに書いていた。

嘘だ、と神楽葵は思っている。

共存などしていない。

百周年を迎える今年、二つの時間は完全に戦争状態だった。

「却下します」

生徒会議室に、葵の声が冷たく響いた。

テーブルの向こう側で、新条凛が眉を上げる。

「まだ説明の途中なんだけど」

「説明を最後まで聞く必要がありません」

葵は資料を閉じた。

紺色の制服。

胸元の細いリボン。

黒髪は肩より少し下で切りそろえている。

松華学園伝統文化保存委員長。

十七歳。

旧校舎の空気に似合う少女だとよく言われる。

本人は、その評判を否定しない。

「百周年記念祭をメタバース空間で同時開催? 歴史展示を三次元スキャンして、来場者のアバターに解説させる?」

「そう」

凛が腕を組んだ。

短めの髪。

鋭い目。

ネクタイは規定より少し緩い。

彼女の前にはタブレット端末とノートパソコンが並んでいる。

「海外の卒業生も参加できる。身体的事情で登校できない生徒も見られる。保存資料そのものに触れなくても、細部まで拡大できる。何が問題?」

「百周年はゲーム大会ではありません」

「はい出た。ゲームじゃないし」

「歴史には、実物に触れることでしか伝わらないものがあります」

「資料保護のために実物に触らせないって去年言ったの、そっちでしょ」

会議室の空気が少し揺れた。

周囲に座っていた委員たちが目を伏せる。

誰も二人の視線の間に入りたがらない。

「少なくとも」

葵は言った。

「創立百周年の中心企画を、一時的な流行技術に委ねるつもりはありません」

凛が笑った。

笑顔なのに、目が冷たい。

「流行技術」

「何か?」

「そういうところなんだよね、保存委員会って」

「どういう意味です」

「自分たちが分からないものを、価値がないことにする」

葵の指先が止まった。

「訂正してください」

「嫌」

「新条さん」

「ねえ神楽さん。百年続いたってことは、百年間正しかったって意味じゃないよ」

会議室が静まった。

葵の胸の奥で、何かが軋んだ。

理屈より先に、身体が反応する。

この人は、

壊そうとしている。

ずっと続いてきたものを。

自分が守っているものを。

そして多分、

自分そのものを。

「あなたの企画案は正式に不採択とします」

「権限あるの、それ?」

「保存対象施設の使用許可は私たちの管轄です」

「へえ」

凛はノートパソコンを閉じた。

「じゃあ、こっちはこっちでやる」

「何を」

「説明するよ。全校生徒に」

その日の夜。

デジタルメディア部の公式チャンネルに動画が上がった。

タイトルは、

《百周年企画は誰のもの? 保存委員会によるデジタル企画封殺の経緯》

再生数は翌朝までに三千を超えた。

コメント欄には、

《また老害ムーブ》

《生徒主体って何だったの?》

《伝統って便利な言葉だな》

《神楽さん怖すぎ》

葵は午前六時十二分、自室のベッドでそれを見た。

一度だけ。

それから二度目。

三度目。

見るほど胸が冷える。

《神楽さん個人を攻撃する意図はありません》

動画の中で凛はそう言っていた。

そして十分後、

葵は保存委員会の共有フォルダを開いた。

百周年予算案。

デジタルメディア部の申請書類。

規則。

過去の監査資料。

攻撃された。

なら、

反撃する。

それは当然のことだった。

三日後。

デジタルメディア部への機材予算増額申請は、

「過去二年間の備品管理記録に不備あり」

という理由で差し戻された。

凛は昼休み、資料を机へ叩きつけた。

「やってくれたな、あの女」

部員が黙る。

「これ、去年の部長時代の記録じゃん」

「でも規則上は」

「分かってる」

凛は吐き捨てた。

正論。

それが一番腹が立つ。

神楽葵は嘘をつかない。

露骨な嫌がらせもしない。

規則を使う。

前例を使う。

形式を使う。

だから誰も責められない形で、

こちらの首を締めてくる。

凛はスマートフォンを開いた。

新しい動画企画のメモ。

《保存委員会の閉鎖性について》

指が動く。

止まる。

消す。

また書く。

胸の奥では、

別の声がしていた。

やられる前にやれ。

笑われる前に笑え。

排除される前に排除しろ。

そうしていれば、

自分は傷つかない。

中学の頃、

凛はプログラミングコンテストで作った作品を教師に見せたことがある。

「ゲームみたいなもの?」

そう言われた。

悪意はなかったのだろう。

でも、

その一言がずっと残った。

高校一年の展示企画でも、

「デジタル作品は保存が利かないから、百年後に残らない」

と教師に言われた。

だから決めた。

誰かに価値を決められる前に、

自分で価値を証明する。

そのためには、

負けてはいけない。

特に、

神楽葵みたいな人には。

「部長」

後輩が恐る恐る聞いた。

「これ以上やるんですか」

「何を?」

「保存委員会とのやつ」

凛は笑った。

「向こうがやめたらやめるよ」

その言葉を、

同じ日の午後、

葵も言っていた。

「新条さんがやめれば、こちらも対応する必要はありません」

戦争の最も厄介なところは、

両陣営が同じことを言うところにある。

夏へ向かう頃には、

松華学園は完全に割れていた。

旧校舎を使う部活動は保存派。

新校舎を拠点にする部活動は改革派。

そんな雑な分類まで流行った。

廊下ですれ違えば睨み合う。

匿名アカウントには、

「保存派は時代遅れ」

「改革派は礼儀知らず」

という投稿が並ぶ。

葵と凛は、

最初は百周年祭の企画について争っていた。

いつからか、

相手そのものを否定するようになった。

「神楽葵の言う伝統って、要するに権威主義でしょ」

「新条凛の改革とは、目新しいものへ飛びつくだけの破壊です」

発言は切り取られ、

拡散され、

さらに鋭い言葉になって戻ってくる。

一度投げた石が、

二つになって返ってくる。

その二つをまた投げる。

四つになる。

八つになる。

誰も最初の石を覚えていない。

ある日の夕方。

旧校舎と新校舎をつなぐ渡り廊下で、

葵と凛は真正面から出会った。

周囲にいた生徒たちが、

不自然に道を空ける。

二人は止まる。

「まだやる気?」

凛が言う。

「何をですか」

「とぼけないでよ」

「あなたこそ」

葵は小さなUSBメモリを握っていた。

凛の部について、

内部から提供された資料が入っている。

規則違反ぎりぎりの外部配信契約。

公開されれば、

凛は代表職を失うかもしれない。

凛の鞄にも、

保存委員会の不正会計疑惑を示すデータがある。

実際には横領ではない。

でも説明不足の支出を悪意ある文脈で公開すれば、

葵は致命傷を負う。

二人とも、

それを知っていた。

「次に何かしたら」

凛が言った。

「私、本当に潰すから」

葵は答えた。

「こちらの台詞です」

そして同時に思った。

怖い。

それは相手も同じだった。

けれど、

二人とも相手の恐怖だけは、

最後まで見ようとしなかった。

第二章 一歩下がる

百周年企画の全校投票前夜。

台風十七号が関東を直撃した。

午後から授業は打ち切り。

部活動は禁止。

午後五時には全生徒退校。

という通達が出た。

午後十一時二十七分。

神楽葵は松華学園の旧校舎にいた。

もちろん規則違反である。

だが葵には、

今夜しかなかった。

明日の全校投票前に、

凛の不正データを百周年祭実行委員会へ提出する。

それで終わる。

相手が先に撃つ前に、

こちらから撃つ。

旧校舎の窓が風で震える。

廊下の非常灯。

雨。

木造部分の軋み。

葵は傘を畳み、

保存委員会室へ向かった。

そこで、

人影を見た。

「……あなた」

凛だった。

「何でいるの」

「その言葉をそっくり返します」

「最悪」

「同感です」

凛の肩にはノートパソコン。

互いに相手の持ち物を見る。

そして、

全部理解した。

「今日なんだ」

凛が言った。

「何が」

「私を刺す日」

葵の目が細くなる。

「先に刃物を準備した人に言われたくありません」

「じゃあお互い様ね」

雷。

瞬間的に廊下が真っ白になる。

次の瞬間。

全館の電気が落ちた。

闇。

「え」

「停電?」

非常灯まで消えた。

建物の古い区画には非常電源が回っていない。

風がさらに強くなる。

どこかでガラスの割れる音。

二人はスマートフォンのライトをつけた。

「ここ危ない」

凛が言う。

「分かっています」

「旧温室まで行けば管理室に非常用ランタンが」

「なぜ知っているんです」

「前に撮影で使ったから」

言い争っている場合ではなかった。

二人は旧校舎の裏手へ走った。

旧温室。

英国風の木組み。

煉瓦の腰壁。

ガラス屋根。

何十年も前に植物研究施設として使われていた。

今はほぼ放置。

中央には一本の楡の老木がある。

初代エルム。

松華学園の創立時に植えられたとされる木。

もともとは屋外だったが、

後年、周囲に温室が増築された。

二人が中へ飛び込んだ直後、

突風で外側の古い門が倒れた。

出口を塞ぐ。

「嘘でしょ」

凛が駆け寄る。

動かない。

「別の出口は」

「奥です」

葵がライトを向ける。

その先。

落下した枝。

割れた棚。

塞がれている。

二人は顔を見合わせた。

最悪だった。

よりによって、

世界で一番嫌いな相手と、

嵐の夜に温室へ閉じ込められた。

管理棚から見つけた非常用ランタンは、

一つだけ点灯した。

弱い黄色の光。

嵐。

ガラス壁を雨が叩く。

葵は古い作業台に座った。

凛は反対側。

二人の間には、

初代エルム。

枝の半分以上が枯れている。

根元の土は、

石のように固い。

「朝までか」

凛が言った。

「救助要請はしました」

「電波弱いけど、届いたかな」

「知らない」

「ほんと感じ悪い」

「あなたにだけは言われたくありません」

沈黙。

ランタン。

雨。

そして。

凛がノートパソコンを開いた。

「何してるんです」

「確認」

画面に映るファイル。

葵は目を細めた。

自分の名前。

《保存委員会予算処理》

「それ」

「うん」

凛は画面をこちらへ向けた。

「明日、これ出すつもりだった」

葵は鞄からUSBを出した。

「奇遇ですね」

「見せて」

「嫌です」

「私のだろ」

「あなたの部の外部契約資料です」

凛の顔から笑みが消えた。

「どこから」

「言うと思いますか」

「最低」

「あなたも」

雷。

二人は互いを見る。

この温室の外では、

台風が街を壊している。

この温室の中では、

二人の十七歳が、

互いの人生を壊す材料を持っている。

凛は笑った。

「すごいね」

「何が」

「私たち」

笑いながら、

顔が青ざめている。

「明日これ出したら、どうなるかな」

「然るべき審査が行われます」

「建前じゃなくて」

葵は答えない。

「私、代表辞めさせられるかも」

「当然の結果なら」

「神楽さんも」

凛は言った。

「会計の件、横領じゃないって分かってる。でも一部だけ切ったら、ネットじゃ十分燃える」

葵の手が震えた。

見られたくない。

凛はそれを見ていた。

「怖いんだ」

「あなたもでしょう」

「うん」

凛は即答した。

葵が少し驚く。

「怖いよ」

凛は椅子にもたれた。

「退学とか。親とか。部員に失望されるとか。全部」

「……」

「神楽さんは?」

葵は言わなかった。

でも手は震えていた。

凛は画面を見る。

カーソル。

ファイル。

長い沈黙。

それから突然、

凛は言った。

「やめる」

「……何を?」

「これ」

削除。

確認画面。

《完全に削除しますか?》

凛の指が止まる。

一秒。

二秒。

押した。

画面からファイルが消えた。

葵は立ち上がった。

「何をしているんです」

「見たでしょ」

「コピーがあるのでは」

「クラウドのも消す」

「何のつもりですか」

「一歩下がる」

「馬鹿にしているんですか」

葵の声が震えた。

「油断させて、後から」

「違う」

凛が強く言った。

「もう嫌なの」

葵は黙る。

凛は唇を噛んだ。

「怖いの。負けるのも嫌。あんたに正しい顔されるのも嫌。私の作ったもの全部、くだらないって言われるのも嫌」

息を吸う。

「でもさ」

凛は葵を見る。

目に涙はない。

ただ怖そうだった。

「このままあんたが私を刺して、私があんたを刺して、その次どうするの?」

「……」

「部員同士でやり合う? 先生巻き込む? 親? SNS? 卒業しても続ける?」

雨が温室を叩く。

「どこで終わるの?」

葵には答えられなかった。

凛はノートパソコンを閉じた。

音は小さかった。

なのに、

銃を置く音のように聞こえた。

「私が最初に降りる」

「それは敗北です」

葵は反射的に言った。

凛は笑った。

「そう思うなら、あんたの勝ちでいい」

その言葉が、

葵には耐えられなかった。

勝ち。

欲しかったはずのもの。

なのに、

手渡された瞬間、

あまりにも空っぽだった。

「私は」

葵はUSBを見る。

「あなたを信用していません」

「知ってる」

「消したふりかもしれない」

「うん」

「明日また裏切るかもしれない」

「そう思うなら、持ってれば」

凛は目を逸らした。

「でも私はやめる」

「なぜ」

「誰かがやめないと終わらないから」

それだけ。

葵は手の中のUSBを見る。

非常に小さい。

これ一つで、

相手を傷つけられる。

守れる。

支配できる。

怖い。

手放したら、

自分だけ無防備になる。

それが、

怖い。

葵は初めて理解した。

自分は伝統を守りたかっただけではない。

傷つかないための城壁として伝統を使っていた。

規則。

歴史。

格式。

前例。

そこにいれば、

自分は正しい。

正しい人間は、

傷つけられない。

そう信じていたかった。

「……最低です」

葵が言った。

「誰が」

「あなたが」

「はいはい」

「こんなことをされたら」

声が掠れる。

「私まで、選ばなければならないじゃないですか」

凛が顔を上げる。

葵はUSBを机へ置いた。

指で押さえる。

折れる。

もう一度。

小さなプラスチックが割れた。

「コピーは?」

凛が聞く。

「あります」

「あるんじゃん」

「帰ったら消します」

「信用していい?」

葵は答えた。

「知りません」

凛が笑った。

「そのくらいでいいか」

戦争が終わった瞬間、

鐘は鳴らなかった。

ただ、

二人が一発ずつ撃たなかった。

それだけだった。

第三章 呪いを解く

「ねえ」

午前三時十五分。

凛がランタンの光を見ながら言った。

「神楽さん、何でそこまで伝統好きなの」

葵は眉を寄せる。

「質問が雑です」

「百周年保存委員長なんだから、何かあるでしょ」

「あります」

「何」

「……」

「言えない?」

「あなたに話す義務は」

「はいはい」

凛は黙った。

それが妙に腹立たしかった。

「祖母です」

葵が言う。

「ん?」

「祖母も松華の卒業生でした」

凛は聞く姿勢になる。

葵の祖母は、

旧校舎の音楽室が好きだった。

戦後間もない時代。

まだ女子が大学へ進むことを歓迎されなかった頃、

松華で学び、

教師になった。

小さい頃、

葵は何度も聞かされた。

「場所には記憶があるのよ」

祖母はそう言った。

誰かが泣いた。

誰かが笑った。

何十年も人が歩いた。

それが木の床や壁へ染み込んでいる。

「祖母は去年亡くなりました」

凛の表情が変わる。

「……そっか」

「百周年が終わったら、旧校舎の一部が改修される予定です」

「知ってる」

「私は」

葵は言葉を探した。

「変わることが、怖かった」

初めて口にした。

「旧校舎が変わる。展示方法が変わる。昔のやり方が古いと言われる。そのたびに」

拳を握る。

「祖母まで消される気がした」

凛は何も言わない。

葵は苦笑した。

「馬鹿でしょう」

「いや」

凛の声は静かだった。

「分かる気はする」

葵が驚いて見る。

「私は逆」

凛は膝を抱えた。

「変わらないほうが怖い」

「なぜ」

「中学のときさ」

凛は話した。

作ったゲーム。

教師の反応。

「遊びでしょう」

と笑われたこと。

高校一年で、

デジタル作品を、

「流行りもの」

と言われたこと。

「だから」

凛は言う。

「古いものを守る人が嫌いだったんじゃなくて」

少し笑う。

「古いものを盾にして、私を価値のない側に置く人が怖かったんだと思う」

葵は、

凛を見た。

初めて。

敵ではなく。

ただの十七歳の少女として。

髪は乱れている。

靴下は雨で濡れている。

目の下に疲れ。

さっきまで手が震えていた。

この人が、

呪われた怪物?

違う。

怖がっていた。

自分と同じように。

「私たち」

葵が言った。

「随分、馬鹿なことをしていましたね」

凛が鼻で笑う。

「それは同意」

「そこは否定してください」

「無理」

少しだけ、

二人とも笑った。

午前四時。

温室の中央。

エルムの老木。

凛がライトを当てる。

「これ、ほんとに生きてる?」

「今年の春は数枚だけ葉が出ました」

「死にかけじゃん」

「言い方」

二人は根元を見る。

土が固い。

長く手入れされていない。

「植物って」

凛が言った。

「こういうの、土が固すぎても駄目なんだっけ」

「根に空気が届きません」

「神楽さん詳しいね」

「保存委員会なので」

「何でも保存するんだ」

「あなたは一言多い」

工具棚に、

小さなスコップが二本あった。

なぜか。

二人は土を掘り始めた。

別に今やる必要はない。

救助が来るまで待てばいい。

でも、

じっと座っているのが落ち着かなかった。

「固っ」

凛が土へスコップを刺す。

「長年踏み固められていますから」

「平和とは程遠いな」

「何が」

「根っこ」

葵が少し考えた。

「平和というものは、もっと華々しいものだと思っていました」

「何それ」

「勝利するとか。問題を解決するとか」

凛が土を崩す。

「私は逆かも」

「どういう意味です」

「平和って、何も起きてない状態だと思ってた」

「違うと?」

「この土見てたら」

腐葉土の袋を開ける。

匂い。

湿った土。

「何もしなかったら、固まるんだなって」

葵は手を止めた。

「……なるほど」

平和は、

放置ではない。

争いがないから自動的に育つわけでもない。

水。

空気。

土。

手入れ。

時間。

毎日少しずつ。

誰にも褒められない作業。

「戦って勝ち取った勝利なんて」

葵が呟く。

「砂上の楼閣かもしれませんね」

「うわ、急に文学少女」

「黙って掘ってください」

「はいはい」

凛が笑う。

二人は喧嘩をしながら、

根元へ空気を入れた。

夜明け前。

台風は弱まっていた。

ガラス越しに、

空が青くなり始める。

「もっと良い道って」

凛が言った。

「あると思う?」

葵は答えなかった。

「絶対あるって言うほど、私は楽観的ではありません」

「だと思った」

「でも」

葵はエルムを見る。

「今までより悪くない道なら、作れるかもしれません」

凛が笑った。

「それ、Better Wayじゃん」

「英語にすれば何でも格好良くなると思わないでください」

「そういうとこほんと古い」

「あなたは軽薄です」

「ほら、もう喧嘩」

二人は顔を見合わせる。

そして、

笑った。

第四章 不揃いな二つの声

翌日の全校集会。

講堂には、

異様な緊張があった。

保存派。

改革派。

百周年企画の最終投票。

舞台横の大型スクリーンには、

二案のタイトルが映っている。

《伝統展示》

《バーチャル松華》

誰もが、

最後の決戦になると思っていた。

司会が言う。

「それでは、各代表から最終説明を」

神楽葵。

新条凛。

二人が同時に立った。

ざわめき。

「同時?」

「また揉めるぞ」

舞台へ上がる。

葵はマイクの前に立った。

凛は隣。

一秒。

互いを見る。

葵が言った。

「まず」

凛が横から口を挟む。

「昨日までの案は取り下げます」

会場がどよめく。

葵が睨む。

「私が言おうとしていました」

「遅い」

「あなたは」

「マイク入ってるよ」

葵が固まる。

会場から、

小さな笑い。

今までの二人なら、

その瞬間に戦争が始まった。

今日は違う。

葵は息を吐いた。

一歩だけ、

マイクから下がった。

「では、新条さんから」

凛が少し驚く。

それから言った。

「私たちは、第三案を出します」

画面が切り替わる。

旧温室。

初代エルム。

CGで修復後の姿。

タイトル。

《Living Archive 100》

生きている記念館。

旧温室を保存する。

ただし、

触れられない遺物にするのではない。

エルムを中心に、

創立以来の写真、音声、文書をデジタルアーカイブ化。

壁面へ投影。

卒業生から送られた音声記録。

古い校歌と現代の音響。

百年間の制服。

生徒の日記。

VRによる旧校舎再現。

実物資料とデジタル資料を同じ空間に置く。

さらに、

毎年新しい生徒の記録を追加する。

保存であり、

更新でもある。

「歴史とは」

葵が言った。

「過去を冷凍保存することではありません」

凛が横を見る。

昨夜までの葵からは、

出なかった言葉。

「受け継ぐ人がいなければ、伝統はそこで終わります」

葵は続ける。

「だから、変化を拒むだけでは守れないと考え直しました」

次に凛。

「改革も同じです」

会場を見る。

「新しいってだけで偉いわけじゃない。誰かが積み上げてきたものを馬鹿にして壊したら、それは進歩じゃなくて、ただの破壊です」

ざわめきが止まる。

「だから」

凛は言う。

「どっちかを潰すのやめます」

葵が小声。

「表現が乱暴です」

「分かりやすいでしょ」

「品がありません」

「そのフォント選ぶ人に言われたくない」

「何ですって?」

「ほら、その資料の明朝体」

「百周年記念にゴシック体だけなどあり得ません」

「出た」

会場から、

今度は大きな笑いが起きた。

誰かが拍手する。

それが広がる。

葵と凛は、

同じことを考えていない。

今も。

好みも違う。

価値観も。

未来のイメージも。

でも。

二人とも、

相手を消す必要がなくなった。

そこから先は、

対話でよかった。

投票。

第三案。

圧倒的多数で可決。

満場一致ではなかった。

保存派の一部は反対。

改革派にも、

「妥協だ」

と言う人がいた。

でも葵は、

そのことをむしろ気に入った。

全員が同じ考えになる必要はない。

それでも、

一緒に作ることはできる。

エピローグ 木のように

秋。

旧温室。

修復されたガラス屋根から、

午後の光が入る。

初代エルムには、

新しい葉がついていた。

奇跡的な復活、

などではない。

樹木医によれば、

かなり弱っている。

今後数年かけて治療する必要がある。

その現実的な説明を、

葵は気に入った。

平和と同じだ。

一晩で完成しない。

勝利宣言もない。

手入れが必要。

水をやる。

土を見る。

枝を切る。

病気を確認する。

何度も。

「神楽さん」

温室の中央。

凛がノートパソコンを持ってくる。

「映像できた」

葵が見る。

「色が派手です」

「開始二秒で文句?」

「歴史資料にネオンピンクは不要です」

「必要」

「不要」

「若者来ないよ、その色じゃ」

「若者を何だと思っているんです」

「少なくとも葵ではない」

「あなた」

二人は睨み合う。

近くの後輩たちは、

もう誰も怯えない。

「あ、またやってる」

という顔で作業を続けている。

葵は画面を見る。

凛の配色。

嫌い。

でも、

見ているうちに思う。

一部なら、

悪くない。

「……この部分だけなら」

凛がにやりとする。

「何?」

「使ってもいいです」

「聞こえなーい」

「撤回します」

「嘘嘘、ごめん」

凛は隣の椅子へ座る。

二人の間には、

少し空間。

以前なら、

そこに武器が置かれていた。

今は、

ノートパソコン。

紙資料。

色見本。

ペットボトル。

そして、

エルムの葉から落ちた小さな影。

「ねえ」

凛が言う。

「私たち、仲良くなったのかな」

葵は資料から顔を上げない。

「いいえ」

「即答」

「あなたは相変わらず無神経ですし」

「神楽さんは頑固」

「言葉遣いも」

「融通利かない」

「派手すぎる」

「古すぎる」

少し沈黙。

凛が笑う。

「でもまあ」

「何です」

「前よりはマシ」

葵も、

ほんの少し笑った。

「そうですね」

Better。

それで十分なのかもしれない。

Bestでなくてもいい。

完全に理解しなくてもいい。

同じ声にならなくてもいい。

二つの声は、

違う音程のまま、

ときどき同じ言葉へ重なる。

それが和音になる。

夕方。

作業を終えた二人は、

温室の外へ出た。

風。

エルムの葉が揺れる。

幹は太い。

皮はひび割れている。

何度も嵐を経験した木。

葵は幹に触れた。

凛も反対側から触れる。

同じ木。

違う場所。

「木って」

凛が言う。

「ずっと同じ場所にいるくせに、ずっと変わってるんだね」

葵が枝を見上げる。

「根を張ることと、変わらないことは違いますから」

「それ、今度動画で使おう」

「著作権料を請求します」

「学園の公式アカウントなのに?」

「冗談です」

「神楽葵が冗談」

「失礼ですね」

風が吹く。

葉と葉が触れ合う。

それぞれ別の葉なのに、

ひとつの木の音になる。

葵は、

ふと思い出した。

台風の夜。

凛がパソコンを閉じた音。

あれが、

二人の関係で初めて生まれた静けさだった。

勝ったからではない。

相手を説得したからでもない。

一人が、

次の一撃を返さなかった。

ただそれだけ。

でも、

その「ただそれだけ」の場所に、

今、

木がある。

温室がある。

未来がある。

「凛」

葵が呼んだ。

珍しく名字ではなかった。

凛が振り向く。

「何」

葵は少し迷った。

「もし、また私たちがどうしようもなく争ったら」

「争うでしょ」

「断言しないでください」

「絶対やるって」

葵はため息。

「そのときは」

一歩だけ下がる。

靴底が土を踏む。

「こうしましょう」

凛が葵を見る。

そして、

意味を理解する。

自分も一歩下がった。

二人の間に、

二歩分の空間ができる。

そこには、

誰もいない。

正しさも。

勝敗も。

攻撃も。

ただ、

何かを置ける余白だけがある。

凛が言った。

「何植える?」

葵は笑う。

「すぐ植える前提なのですか」

「空いてるし」

「では」

二人で足元を見る。

「未来、とでも」

凛が吹き出した。

「くっさ」

「あなたが聞いたのでしょう!」

「でも悪くない」

風が通る。

二人は、

同じ方向を向いていなかった。

葵は木を見る。

凛は温室を見る。

それでも、

同じ場所に立っている。

世界には、

勝つか負けるか以外の道がある。

戦うか逃げるか以外の道も。

残すか壊すか。

許すか憎むか。

白か黒か。

その間に、

まだ名前のない場所がある。

そこは、

最初から存在しているわけではない。

誰かが一歩下がり、

空いた場所へ、

二人で何かを置いたとき、

初めて生まれる。

椅子でもいい。

言葉でもいい。

種でもいい。

一本の木でもいい。

平和とは、

たぶん完成品ではない。

毎日少しずつ、

根の周りの土を柔らかくする仕事なのだ。

そして変化とは、

誰かに要求するものではない。

自分の次の一歩によって、

世界へ置いていくものだ。

夕陽が、

修復された温室のガラスを通る。

古い木の幹と、

新しいディスプレイ。

二人の影。

重なりそうで、

完全には重ならない。

不揃いなまま。

そのほうが、

きっといい。

凛が言った。

「葵」

「何です」

「もっと良い道、あったね」

葵はしばらく黙った。

エルムの葉が、

風の中で静かに鳴っている。

「ええ」

そして答えた。

「まだ、もっと良くできます」

二人は笑った。

その声は同じではなかった。

だからこそ、

ひとつの和音になった。

白き射手

 


14歳、傷だらけの初恋

第一章 白い制服と、胸の奥の赤い火

弓を引いているあいだだけ、私は世界を嫌わずに済んだ。

弓道場には、余計な言葉がない。

弦の軋み。

足袋が床を擦る音。

遠くで揺れる木々。

息。

そして、矢が的へ吸い込まれる音。

――タン。

乾いた音がした。

「中(あた)り」

後輩の誰かが小さく呟く。

私は弓を下ろした。

的の中心から、わずかに右。

悪くない。

でも、完璧ではない。

「白井先輩、今日もすごいですね」

一年生の小夜が、目を輝かせていた。

私は振り返る。

「褒めても何も出ないよ」

「でも、十二射十一中ですよ?」

「一本外した」

「そういうところですよ、先輩」

「何が」

「怖いところ」

小夜は笑った。

私も笑った。

たぶん、笑えていた。

聖華学園では、私は「氷の射手」と呼ばれているらしい。

誰が付けたのかは知らない。

白い胴着。

黒い袴。

姿勢が良い。

弓道部のエース。

表情があまり変わらない。

そういう断片を集めれば、確かにそれらしい人物像になるのだろう。

でも誰も知らない。

白い胸当ての内側で、一年間ずっと燃えているものを。

赤い火。

それは夕焼けのように美しいものではない。

もっと濁っている。

血。

怒り。

羞恥。

憎悪。

そして、

取り返したい、

という願い。

失ったものは戻らないと分かっているのに。

それでも。

奪われたなら、

奪い返さなければ公平ではない。

私はずっと、そう思っていた。

一年前。

雨の日だった。

蓮が転校する日。

駅前の小さな屋根の下で、私たちは向かい合っていた。

神楽蓮。

同い年。

中学二年生。

私の初恋。

たぶん、私にとって初めて、

「この人の前では正しくなくてもいい」

と思わせてくれた人。

蓮は笑うと、右の頬だけ少し深く窪んだ。

数学が苦手で、

雨が好きで、

ミルクティーに砂糖を二つ入れて、

私が弓道の話を始めると、意味が分からなくても最後まで聞いてくれた。

その蓮が、

学園からいなくなる。

理由は、ひとつではなかった。

最初は、たった一枚の写真だった。

私と蓮が放課後に一緒に歩いている写真。

誰かが撮った。

それが学年の匿名アカウントへ投稿された。

そこから噂が増えた。

付き合っている。

授業を抜けて会っている。

教師に嘘をついている。

蓮が女子生徒のアカウントへ執拗に連絡している。

蓮が誰かの写真を勝手に保存した。

蓮が私を利用している。

ほとんどが嘘だった。

でも、

嘘は内容より数で強くなる。

一つなら否定できる。

十個なら説明できる。

百個になると、人は「何かあるのだろう」と思い始める。

匿名の画面の向こうから、

笑い。

噂。

加工された画像。

偽のスクリーンショット。

切り取られた言葉。

それらが蓮へ飛んだ。

弓道場の的なら、

私は矢がどこから来るか分かる。

ネットの矢には、

射手の顔がない。

そして中心にいたのが、

鳴海慎と敷島瑠璃だった。

慎は生徒会。

教師受けがいい。

瑠璃は学年の中心。

人を動かすのが上手だった。

二人は直接、

「蓮を追い出そう」

なんて言わない。

ただ、

「これ、本当かな?」

「私は知らないけど」

「心配だから共有しておくね」

そうやって、

責任のない毒を薄く撒く。

それだけで十分だった。

蓮は学校へ来なくなった。

私は教師へ訴えた。

証拠も出した。

でも当時の私は、

「これは絶対に誰かが悪い」

と叫ぶことしかできなかった。

大人たちは言った。

調査します。

双方の話を聞きます。

事実関係を確認します。

それは正しい手続きだったのだろう。

でも十四歳になる前の私には、

遅すぎた。

蓮は先に壊れた。

転校が決まった。

最後の日。

雨。

彼の掌は冷たかった。

でも、握り返したとき、

確かに温かかった。

「凛」

「行かないで」

言ってしまった。

一番言ってはいけないと思っていた言葉。

蓮は少し困った顔をした。

「ごめん」

「謝らないで」

「うん」

「絶対、証明するから」

私は言った。

「慎も瑠璃も、全部。あの人たちがやったこと、全部暴く」

蓮の顔から笑みが消えた。

「凛」

「私、許さない」

「やめて」

初めてだった。

蓮が私へ強い声を出したのは。

「復讐なんてしないで」

「でも」

「凛まで壊れたら、意味ない」

雨音。

電車のアナウンス。

傘。

人の足音。

全部が遠かった。

蓮は私の手を握った。

「綺麗でいて、とは言わない」

彼は言った。

「そんなの俺が決めることじゃないし」

少し笑った。

「でも、凛が凛じゃなくなることだけは、しないで」

「意味分かんない」

「俺も分かんない」

それから。

電車が来る直前。

蓮は言った。

「凛」

「何」

「好きだったよ」

過去形。

胸が裂けた。

でも、そのあと。

「愛してた」

十四歳にもならない男の子が言うには、

少し大きすぎる言葉だった。

でも私は、

その言葉を今も忘れられない。

正しい言葉だったかなんて分からない。

ただ。

あの瞬間、

蓮はそう言った。

それだけが私の身体に残った。

掌の温度として。

雨の匂いとして。

胸の痛みとして。

そして。

赤い火として。

一年間、

私は泣かなかった。

代わりに集めた。

投稿の保存。

日時。

証言。

スクリーンショット。

教師とのやり取り。

削除されたあとに残った通知。

誰が何を誰へ送ったか。

誰が話を広めたか。

慎や瑠璃が、

「あれ面白かった」

と笑っていたと証言する生徒の記録。

私は復讐を感情のままにはしなかった。

それでは負ける。

怒りを整理した。

分類した。

時系列にした。

証拠に変えた。

一つずつ。

静かに。

矢を番(つが)えるように。

いつか、

放つために。

第二章 奪う正義

「白井さん」

放課後。

生徒会室前の廊下で、

慎に呼び止められた。

「何」

「怖いなあ、その顔」

「用件は」

慎は笑った。

一年経っても、

その笑顔は変わらない。

私は以前、

そのことが許せなかった。

どうして蓮の人生は壊れたのに、

この人は普通に笑っていられるのだろう。

世界はなぜ、

罪と罰を自動的に釣り合わせてくれないのだろう。

「集めてるんでしょう」

慎が言った。

心臓が跳ねた。

「何を」

「僕らのこと」

沈黙。

「別に止めないよ」

慎は壁にもたれた。

「告発したければすればいい」

「……」

「でも面白いよね」

「何が」

「白井さん、自分が僕らと違うと思ってる」

私は目を細めた。

「何が言いたいの」

「僕らは蓮くんから何かを奪った」

慎の声が低くなる。

「そう思ってるんだろ?」

「思ってるんじゃない。事実」

「じゃあ君は?」

「何」

「僕らの進学とか、居場所とか、人間関係とか、全部壊せるもの集めてる」

笑う。

「それ、何て呼ぶの?」

私は答えなかった。

「正義?」

慎は言った。

「便利だね、その言葉」

その瞬間、

殴りたくなった。

弓道をやっていてよかった。

怒りを身体の外へ出さない訓練だけは、

人より少しできる。

「私とあなたたちを一緒にしないで」

「どう違う?」

「私は嘘を流さない」

「でも壊したいんでしょう?」

答えられなかった。

慎は笑った。

「じゃあね、氷の射手さん」

去っていく。

私はその背中を見ながら、

胸の中で何度も言った。

違う。

違う。

違う。

私には理由がある。

私には正義がある。

私には、

奪う権利がある。

その日の弓道場。

私は的を人間の顔に見立てた。

最低だと思う。

でも、した。

慎。

瑠璃。

矢を番える。

左手。

右手。

呼吸。

会。

弦を引き絞る。

その瞬間、

世界が一本の線になる。

私。

矢。

的。

ほかには何もない。

放つ。

――タン。

中心。

小夜が声を上げた。

「すごい!」

私は矢を見た。

胸を射抜いた。

そんな想像をした。

そして。

ぞっとした。

数日後。

小夜が部活に来なかった。

一日。

二日。

三日。

「風邪?」

同級生に聞いた。

誰も知らない。

四日目。

小夜からメッセージが来た。

《先輩、少し話せますか》

放課後。

弓道場裏。

小夜は泣いていた。

「何があったの」

「私」

声が震えている。

「他校に、好きな人がいて」

私は黙って聞く。

「まだ付き合ってないです。ただ、連絡取ってて」

「うん」

「それを誰かに見られて」

嫌な予感。

「瑠璃先輩のグループに」

胸の奥で赤い火が大きくなる。

「それで」

「その人とのやり取りを……勝手に、変に言われて」

小夜はスマートフォンを見せた。

投稿。

匿名アカウント。

切り取られた画像。

「一年なのに男漁り」

「相手の学校でも有名らしい」

「貢がせてる」

見覚えがある。

言葉は違う。

やり方は同じ。

一年前。

蓮。

「私、何もしてない」

小夜は言った。

その言葉。

一年前の私。

一年前の蓮。

「分かってる」

「相手の人にも迷惑かかるかもしれない」

「小夜」

私は彼女の肩に手を置いた。

「大丈夫」

口から出てから、

少し怖くなった。

大丈夫。

本当に?

私たちは大丈夫ではなかった。

でも。

今度は違う。

違わせる。

「私が守る」

言った。

その瞬間。

一年間、

復讐のためだけに集めた証拠が、

別の意味を持ち始めた。

第三章 掌の記憶

夜。

自室。

パソコンの画面。

送信準備。

私は慎と瑠璃に関する証拠を整理していた。

一年前の記録。

今回の記録。

ただし、

怒りに任せて全校へ流せば、

小夜の恋愛の詳細まで広がる。

他の被害者の名前も出る。

無関係な生徒の会話も。

一度公開されたものは、

取り戻せない。

それでも。

カーソルは、

送信ボタンの上にあった。

押せばいい。

一年待った。

これで終わる。

慎。

瑠璃。

全部。

家族にも伝わる。

学校にも。

進学先にも。

二人は今までと同じ顔では歩けなくなる。

私はそれを望んでいた。

ずっと。

「押せ」

誰かが頭の中で言う。

正義だ。

報いだ。

当然だ。

指を置く。

震える。

その瞬間。

掌が、

温かくなった気がした。

錯覚。

分かっている。

でも。

思い出した。

雨。

駅。

蓮の手。

冷たくて。

濡れていて。

それでも私の手を強く握った掌。

――凛まで壊れたら、意味ない。

「……蓮」

涙が一滴、

手の甲へ落ちた。

驚いた。

一年ぶりだった。

もう泣かないと思っていた。

次の一滴。

その次。

止まらない。

「何で」

声が出る。

「何で今なの」

泣くことは、

負けることだと思っていた。

怒りが弱くなるから。

復讐心が鈍るから。

でも違った。

涙は、

私の中にまだ悲しみが残っている証拠だった。

私は怒っているだけではない。

私は、

蓮がいなくて寂しい。

悔しい。

会いたい。

謝りたい。

守れなかったことが苦しい。

その全部を、

怒り一色に塗り潰していた。

赤い火は、

私を強くしてくれた。

一年間、

倒れずに立たせてくれた。

だから、

その火を悪いものだとは思わない。

必要だった。

でも。

ずっと燃やし続ければ、

最後には自分まで燃える。

「奪うだけじゃ」

声が震えた。

「救えないんだ」

慎と瑠璃を壊しても、

蓮は戻らない。

小夜は守れない。

私の十四歳も戻らない。

押そうとしていたボタンから、

指を離す。

そして。

私はデータを全部消去しなかった。

そこだけは、

違った。

怒りのまま広く撒くための送信リストを消した。

私的な会話や、

被害者のプライバシーに関わるものを外した。

必要な証拠だけを残した。

誰かを破壊するためではなく。

小夜を守るため。

これ以上同じことを起こさないため。

矢は、

放たないのではない。

射る場所を変えるのだ。

翌朝。

私は弓道部顧問に、

「相談があります」

と言った。

第四章 守るべき明日

学校は、

映画みたいには変わらなかった。

私が証拠を出した瞬間に、

教師全員が立ち上がり、

慎と瑠璃が即座に裁かれ、

拍手が起きる。

そんなことはなかった。

面談。

確認。

保護者。

生徒指導。

追加聞き取り。

外部相談員。

学校法人の窓口。

時間がかかった。

私は何度も、

「もっと早くして」

と言いたくなった。

でも今度は、

一年前とは違った。

私は怒鳴るだけではなかった。

小夜と一緒に記録を整理した。

第三者が確認できる事実と、

推測を分けた。

誰が言ったか分からない噂を、

事実として扱わなかった。

一年前の証拠も、

今回の件と関係がある部分だけ提出した。

「白井」

顧問が言った。

「よくここまで整理したな」

私は答えなかった。

褒められたいわけではない。

ただ、

今度こそ間に合わせたかった。

数週間後。

匿名アカウントの運用に関与していた複数の生徒が特定された。

慎と瑠璃も、

過去と今回の件について正式に指導を受け、

生徒会から外れた。

必要な範囲で保護者にも説明が行われた。

それ以上は、

私の知るところではなかった。

以前の私なら、

「足りない」

と思っただろう。

もっと苦しめ。

もっと失え。

蓮と同じだけ。

でも。

痛みは秤に載せられない。

同じ量を返せば公平になるわけではない。

小夜への投稿は削除され、

相手の少年への誤解も、

大人を通して必要な範囲で訂正された。

完全ではない。

噂を見た全員の記憶から消すことなんてできない。

それでも。

小夜は部活へ戻ってきた。

それで、

十分だった。

夕方。

弓道場。

西日が道場を赤く染めている。

私は胴着を着る。

白。

以前、

この白は、

汚れてはいけない色だと思っていた。

憎しみを持たない。

弱さを見せない。

涙を流さない。

正しい人間だけが着られる色。

でも違う。

本当の白は、

何も知らない色ではない。

赤を知らない白ではない。

血も。

怒りも。

涙も。

全部知ったあとで、

それでも赤一色には染まらないことを選ぶ色。

私は弓を持つ。

矢を番える。

足踏み。

胴造り。

弓構え。

打起し。

引分け。

会。

静かだ。

一年間、

私は矢を、

人を傷つける想像と重ねていた。

今は違う。

矢は、

的へ向かっている。

ただそれだけ。

私は息を整える。

胸の奥に傷がある。

蓮を思い出す。

まだ好きなのかもしれない。

もう違うのかもしれない。

分からない。

愛していた。

それだけは確かだ。

愛されていた。

たぶん、

それも。

そして、

その記憶を、

誰かを壊す理由にしなくてもいい。

守る理由にしてもいい。

離れ。

矢が飛ぶ。

真っ直ぐ。

――タン。

中心。

しばらく、

私は動かなかった。

「白井先輩」

後ろから小夜。

「綺麗でした」

私は振り返る。

「矢?」

「先輩が」

「そういうこと言うと恥ずかしいからやめて」

小夜が笑う。

私も少し笑った。

「先輩」

「何」

「私、初恋守れました」

その言葉に、

胸が痛んだ。

でも。

痛いだけではなかった。

「そっか」

「はい」

「よかった」

本当にそう思った。

その日の帰り。

一人で駅へ寄った。

蓮が町を出た駅。

雨は降っていない。

電車。

人。

自動販売機。

何も変わっていない。

私はホームの端に立った。

掌を見る。

もう蓮の温度なんて、

実際には残っていない。

皮膚は何度も入れ替わっている。

一年。

十四歳の身体。

あの日と同じ細胞なんて、

ほとんどないのかもしれない。

それでも、

触れられた記憶はある。

人間の身体は不思議だ。

触れた相手がいなくなっても、

触れられた事実だけは、

自分の一部になる。

「蓮」

小さく呼ぶ。

返事はない。

当たり前。

「私」

少し迷う。

「もう奪わないよ」

風がホームを抜けた。

「あなたのくれたものを、誰かを壊すためには使わない」

言いながら、

泣いた。

一年ぶん。

全部ではない。

悲しみは、そんなに簡単に全部出ていかない。

でも。

泣いていいと思った。

涙は、

赤い火を消すためだけにあるのではない。

失ったものを、

失ったと認めるためにもある。

私は泣きながら笑った。

「愛してくれて、ありがとう」

電車が入ってきた。

風が強くなる。

私は一歩下がる。

乗らなかった。

今日は、

見送るだけでよかった。

エピローグ 傷ついた後の白

春。

私は高等部へ進級した。

小夜は二年生。

慎と瑠璃とは、

廊下ですれ違うことがある。

話さない。

以前ほど、

胸は熱くならない。

許したわけではない。

忘れたわけでもない。

ただ、

私の人生の中心ではなくなった。

それでいい。

正義とは、

相手を永久に悪役として舞台中央へ縛りつけることではないのかもしれない。

ある日の部活。

新入部員が、

弓を持ちながら震えていた。

「怖いです」

「何が?」

「外したら」

私は少し考えた。

一年前なら、

「外さないように練習しなさい」

と言っただろう。

今は、

「外すよ」

と答えた。

後輩が目を丸くする。

「先輩でも?」

「普通に」

「でもエースですよね」

「エースも人間」

私は的を見る。

「弓ってね」

「はい」

「当てるために引くんだけど、当たることだけ考えると崩れることあるの」

「難しいです」

「私もまだ分かんない」

笑う。

「でも、狙う場所を間違えないことのほうが大事かも」

後輩はさらに分からない顔をした。

それでいい。

十四歳の私は、

まだ何も完成していない。

正義についても。

愛についても。

許しについても。

たぶん大人になっても、

正解なんて分からないのだと思う。

でも。

一つだけ、

今は信じている。

人は、

傷ついたからといって、

傷つける側へ行かなければならないわけではない。

奪われたからといって、

奪う人間にならなくてもいい。

愛した人を失った記憶は、

復讐の燃料にすることもできる。

誰かを守る灯りにすることもできる。

同じ火でも、

使い方は選べる。

私は白い胴着の襟を整える。

白。

汚れていないから白いのではない。

汚れることを知っているから、

何度でも洗う。

血の色も。

涙の色も。

夕焼けの赤も。

全部知りながら、

また白を選ぶ。

それが、

私の正義だ。

弓を持つ。

呼吸。

足元。

遠くの的。

そして、

その向こうにある、

まだ誰も傷つけていない明日。

私は静かに弦を引いた。

胸の奥で、

もう赤い火は暴れていなかった。

完全に消えたわけではない。

小さな灯になって、

まだそこにある。

だから私は、

その火を抱えたまま、

真っ白な矢羽を見つめた。

守るべきものの方向だけを、

間違えないように。

404号室の不可視な恋人

  ――話さない私と、見ない君 第一章 404号室の透明な日常 私と遠藤響は、半年ほど前から一緒に暮らしている。 正確には、東京都内の古い賃貸マンション、その四階のいちばん奥にある一LDK、四〇四号室で生活を共有している。玄関は一つ。冷蔵庫も一つ。洗濯機も一つ。ベッドも一つ。家賃...