春爛漫の夜気(やき)が、妖しいほどの甘香(あまが)を孕んで隅田の川面(かわも)を撫でていた。
墨絵のように沈む帝都の輪郭を背景に、爛漫たる夜桜が月の光を吸って白く発光し、風に弄(もてあそ)ばれては水面へとはらはらと散華(さんげ)していく。幕末から明治へと時代が急転するその裂け目のような春宵(しゅんしょう)を、豪奢な屋形船『あさって丸』が、提灯の毒々しいまでの赤い灯を揺らしながら滑るように遡上していた。
わたし、チ~サは、その美しい船室の末席に正座し、茶を点てながらただ震えていた。花鳥風月の理(ことわり)など微塵も届かぬ、逃げ場のない密室の狂宴を前にして。
「お前ら! 床に物を置くな! 西洋からくりの円盤『るんば』の掃除の邪魔やろが! 恋すれば何でもない距離やけど!」
船内の上座で、我が党の代表にして貴族院議員が、首の血管をミミズのように浮かび上がらせて怒鳴り散らしていた。床の整理整頓を厳命する彼の両手はしかし、大層ご執心の舶来洋酒菓子『ばっかす』の包み紙を引き裂き、次々と畳の上へと放り捨てているという、目も眩むような不条理を見せつけていた。
さらに代表は、自らの矛盾を覆い隠すように「ええゆうてるんちゃうで!
SFやで!」と脈絡のない呪詛を吐きながら、飲みかけの硝子水筒——『ペット・ボトル』——を虚空に向けてフルスイングした。
その弾丸の如き飛翔体が、春の夜気を切り裂いた刹那。 「ボクにお任せを!」
『カレーの本質』が、人体構造を真っ向から否定する奇怪な角度で船室を跳躍した。彼は自らの顔面を盾にして、飛来した水筒を見事に受け止めると、そのままの勢いで床板に脳天から激突した。ズドォォンという鈍い音が響き、自己犠牲という名の狂信が船底を揺らす。
わたしは固く唇を噛み締め、盆を持つ手を血が滲むほど握りしめていた。狂気を直視することを恐れ、自己保身の沈黙を選んだわたしの内臓に、共犯者としての罪悪感が冷たい水滴のように蓄積されていくのを感じていた。
狂乱は、船室にとどまらず舳先(へさき)へと伝播していた。
水飛沫(みずしぶき)の舞う船の舳先で、両腕を大きく広げたジム総長の背後から、代表が腰に手を回す。西洋の悲恋活動写真『タイタニックごっこ』の、あまりにも醜悪な模倣である。
「見た! アタシそれ見た!」 夜風を真正面から受けながら、ジム総長は涼しい顔で歴史を捏造していた。
「あの氷山が船を沈めること、何となく予測してたわ。特には驚かなかったわね。結果としてこの沈没で利しているのは、我が党の威信というわけね」
その意味論的空洞を切り裂くように、血の匂いを漂わせた異形の女が舳先へと乱入した。 「今日もまきまき! 逆から読んでもまさきまき……!」
元党職員のまきまきである。彼女の顔面は、百文均一の眉墨のチップを失ったがゆえに、舶来の『2Bの鉛筆』で皮膚をえぐるように描かれた黒鉛と鮮血の隈取りで凄惨に彩られていた。西洋の『自立する逆さ傘』を兜のように被り、両足にはサンタクロースの巨大な靴を履いている。
「どうして私の選挙のかわら版に、半目で歯をむき出したあんな醜悪な絵を選んだのよ!
異国の姫(フィーフィー)の狂乱は高度な炎上戦略だっていうのに、私のこれはただの生き地獄じゃない!」
まきまきは両手に、不気味なほど艶やかな赤みを帯びた『双子のイチゴ』を握りしめていた。 「見て! この赤い部分には農薬という名の猛毒が直にかかっているのよ!
洗っていないの! 舐めちゃダメ、舐めたら死ぬわ! でも、舐めたいの……! 痛い! もっと叩いて! まきまきのMはドMのM!」
彼女は農薬まみれのイチゴを血走った自らの頬や唇に擦り付け、被虐的な悦びに打ち震えた。狂気と自己破壊のマゾヒズムが、夜桜の舞う甲板で退廃的な舞踏を繰り広げている。
「ウキー! デコバカ! 後ろから『チーム未来』のお受験ママたちが漕ぐ黒船が迫ってるウキー!」
突如、屋形船の屋根からま猿が身を乗り出し、何の実体もない流言飛語を夜の川面に撒き散らした。
だが、そのデマゴギーは代表の猜疑心に致命的な着火を遂げた。 「なんやと!? 未来派の黒船じゃと!? ええかお前ら、この船の乗組員は二軍や!
いま直ちに『科挙』を導入する! 星占いと食料自給率の資格試験に合格せん奴は、まとめて大川へ放り込め!」
「拙者の、メリケン国のトランプ新政権とのパイプは健在なり! 党勢拡大は間違いない! 政策で勝負じゃ!」
狂乱する代表の横で、無職のパイプユニッシュが泥とヘドロの詰まった鉄パイプを振り回し、空虚な外交的妄想を絶叫する。
権力の暴走とデマ、そして毒苺のマゾヒズム。そのすべてが煮詰まり、限界点に達した時、まきまきの瞳から一切の正気が失われた。 「もう嫌……!
私は……残酷な天使になるわ!!」
巨大な靴を脱ぎ捨て、逆さ傘を天に掲げたまきまきは、船の屋根へと駆け上り、夜桜が狂い咲く隅田川の暗い水面へとその身を投げ出そうとした。
(わたしの、せいだ)
わたしが怯えて沈黙していたから。狂気を容認し、茶を濁し続けてきたから、この船は永遠の地獄と化してしまったのだ。 もう、共犯者でいるのは御免だ。
わたしは立ち上がった。臆病の殻を打ち破り、肺腑の底から全存在を賭けた贖罪の息を吸い込んだ。天体の運行を止め、世界の物理法則をへし折るための、血を吐くような抵抗の刃。
「ええ加減にせんかァァァァァァァァッ!!!」
わたしの放った『ツッコミ』の咆哮は、凄まじい衝撃波となって春の夜を切り裂いた。 「ルンバの邪魔って言いながら自分がゴミ捨てんな!
タイタニックごっこしながら嘘の予測すな! そしてまきまきさん!
毒苺顔に塗って残酷な天使になるとか言って川に飛び込むなァ!」
その言霊の波動は、屋根から飛び立とうとしたまきまきの身体を強引に船内へと引き戻し、代表の暴走を止め、パイプユニッシュの泥を吹き飛ばした。
「うるさい! 静かにしろ!」
襖を蹴破りピライが怒鳴り込んできたが、その声すらもわたしの放った衝撃波の余韻に呑み込まれ、一陣の春疾風(はるはやて)と共に彼を夜の川面へと退散させた。
激しいツッコミの反動で、わたしの右手は赤く腫れ上がり、じんじんと熱を持っていた。わたしは肩で息をしながら、へたり込んだ狂人たちを見下ろした。痛い。だが、この痛みこそが、傍観者であったわたしが現実の痛みに触れた証であった。
しかし、わたしの決死の抵抗によっても、この船を支配する狂気が根絶されることはなかった。
一瞬の静寂の後、代表は「SFやで」と呟きながら新たなバッカスを貪り始め、ジム総長は「アタシ、まきまきが死なないこと知ってたわ」と嘯き、カレーの本質は床のゴミを顔で集めている。九十九パーセントの、どうしようもない徒労感。世界はすぐに狂った日常へと回帰していった。
わたしは小さく息を吐き、水飛沫の上がる縁側へと視線を落とした。
世界は変わらない。だが、わたしのツッコミが巻き起こした突風は、代表の傍らにあった『ばっかす』の絢爛な空箱を吹き飛ばし、隅田川の漆黒の水面へと滑り落としていた。
ぽちゃん、と。
微かな、しかしこの狂乱の船上にあって、信じられないほど透き通った音が響いた。 洋酒菓子の箱が、墨汁を流したような水面に、一つの丸い波紋を描き出したのである。
それは、わたしの魂の抵抗がこの狂った世界に刻み込んだ、たった一パーセントの、しかし決して不可逆な変化の傷跡であった。
月明かりに照らされたその波紋は、散り急ぐ夜桜の花びらを優しく揺らしながら、ただ静かに、耽美なる静寂の中に広がっていく。遠くで、夜鳥が啼いた。