2026-08-25

喋らない僕と、あの男の365日

 

『匂いの記憶』



第一章 薄れていく匂いと、固い床

僕の鼻は、たいていのことを知っている。

人間は目で世界を見ているらしい。あの男は朝になると四角い板を開き、そこに並んだ小さな模様を長いあいだ眺めている。外を歩けば、赤や青に光るものを見て立ち止まり、紙の束を見ながら眉間にしわを寄せる。あの甘い匂いのひともそうだった。僕にはただ白く平たいものにしか見えない紙を眺めて、笑ったり、困った顔をしたり、ときどき目から水を落としたりしていた。

僕にはよく分からない。

僕に分かるのは、もっと別のことだ。

雨が来る前には土の奥が冷たくなる。あの男が疲れて帰ってくる日は、玄関が開くより前に、階段の下から靴と汗と鉄の匂いが上がってくる。機嫌のいい日は歩く音が軽い。困っている日は、右足だけ少し遅れる。

そして、あの甘い匂いのひとがいた頃、この家には三つの大きな匂いがあった。

僕。

あの男。

そして、あのひと。

僕は、自分の匂いについてはあまり考えない。日なたに干した毛布と土と、少しだけ草のような匂いがするらしい。あのひとは僕の首のところへ鼻を埋めて、「ハル、今日もいい匂い」と笑った。僕には、人間がどうして僕を嗅ぐのかよく分からなかった。僕が人間を嗅ぐのは、その人が今日どこに行ったか、何を食べたか、誰と会ったか、元気かどうかを知るためだ。けれど彼女は、ただ僕の匂いを嗅いで喜んだ。

変なひとだった。

あの男は、少しだけ煙の匂いがした。煙といっても、火の匂いではない。外の空気、電車、紙、雨に濡れたコンクリート、それから珈琲。毎日違うものを身体につけて帰ってきた。

でも、あのひとの匂いは分かりやすかった。

花。

石鹸。

濡れた髪。

皮膚の温度。

そして、とても小さな甘い匂い。

僕はその匂いが好きだった。

家のどこにいても、彼女が動けば分かった。台所。浴室。寝室。ソファ。廊下。僕は目を閉じていても追いかけられた。

だから、その匂いが少しずつ消えていったことに、誰より早く気づいたのも僕だった。

最初の日、僕は玄関で待っていた。

夜になっても、彼女は帰らなかった。

あの男は帰ってきた。

男の服には、いつもとは違う匂いが大量についていた。知らない人間。薬。冷たい布。雨に濡れていないのに、水のような匂い。

男は僕を見た。

僕は尻尾を振った。

あのひとは?

僕は玄関の向こうを嗅いだ。

男は何も言わなかった。

僕の頭を一度だけ撫でた。

それから部屋へ入って、灯りもつけず、床に座った。

変だった。

人間は床より椅子やソファを好む。あの男もそうだった。床に直接座るときは、たいてい僕と遊ぶときだった。

でもその日は遊ばなかった。

僕はしばらく玄関で待った。

階段から、あのひとの匂いは上がってこなかった。

一時間くらいして、僕は男のところへ行った。

彼は背中を壁につけ、両手を膝の上に置いていた。

目が開いている。

でも、何も見ていない匂いがした。

人間の目が何を見ているか、僕には分からない。けれど、見ている人間と見ていない人間は、呼吸で分かる。

僕は男の手へ鼻を押しつけた。

冷たかった。

男は少しだけ指を動かした。

それから僕の頭へ手を置いた。

重かった。

「ハル」

僕の名前。

その日、彼が言ったのは、それだけだった。

僕は嬉しくて尻尾を一度床へ打ちつけた。

その音が、暗い部屋の中で、やけに大きく響いた。

次の日も、あのひとは帰らなかった。

その次の日も。

僕はドアの前で待った。

朝になると、あの男は外へ出る。夜になると帰ってくる。

でも、あのひとは来ない。

僕には、来ない理由が分からない。

人間には、長いあいだ帰ってこないことがある。あの男も、ときどき何日か家を空けた。あのひとも、昔一度だけ、三日間戻らなかったことがある。

だから僕は待った。

待つことは難しくない。

匂いが戻る方向を知っていればいい。

けれど、家の中に残った彼女の匂いは、少しずつ薄くなっていった。

最初に消えたのは玄関だった。

次に台所。

浴室。

枕。

でも、ソファには長く残った。

彼女はよく左端に座った。

そこだけ、柔らかい甘さが沈んでいた。

僕はその場所へ鼻を押しつけて眠った。

そこへ顔を埋めると、昔の時間が近くなった。

彼女の膝。

指。

耳の後ろを掻く爪。

「ハル、重い」

そう言いながら僕をどけない声。

言葉の意味全部は分からない。

でも、声の温度は分かる。

好きな声だった。

夜になると、僕と男は大きなベッドで眠った。

昔は真ん中にあのひとがいた。

僕は足元。

男は右。

あのひとは左。

でも、ときどき僕は夜中に上へ移動して、彼女の膝のあたりへ身体を押しつけた。

今は、真ん中が空いている。

そこには匂いがない。

いや。

少しだけ残っている。

でも日に日に冷たくなる。

男は右端。

僕は左端。

真ん中には、何もない。

それが嫌だった。

ある夜、僕は自分の場所を移った。

男の足の上へ顎を置いた。

彼は眠っていなかった。

呼吸で分かる。

眠る人間は、息が深くなる。

でも彼の呼吸は浅かった。

僕は顎へ少し重みをかけた。

男の足が動いた。

「重い」

低い声。

昔、あのひとも言った。

でも、彼も僕をどけなかった。

僕はそのまま眠った。

人間は、いなくなったものをどうするのだろう。

僕には分からない。

僕なら匂いを探す。

見つからなければ待つ。

待ちながら、今そこにいるものへ身体を寄せる。

それしか知らない。

その頃の男は、僕よりたくさんのことを知っているはずなのに、僕よりずっと困っていた。

だから僕は、せめて彼の足が冷たくならないように、毎晩そこへ顎を乗せた。

第二章 ドアノブの金音と、助手席の風

僕には仕事がある。

玄関へ行くこと。

散歩へ行くこと。

ご飯を食べること。

男が帰ってきたら迎えること。

あのひとが帰ってきたら、たぶん一番最初に見つけること。

最後の仕事だけは、ずっと終わらなかった。

金属のドアノブが鳴る。

カチャ。

僕は走る。

廊下を滑る。

玄関。

匂い。

違う。

男。

今日も男だった。

最初の頃、男は僕を見るたびに、少し変な顔をした。

申し訳なさそうな顔。

僕は理由が分からなかった。

男が帰ってくるのは嬉しい。

だから尻尾を振る。

僕は彼の足に鼻をつける。

会社。

電車。

雨。

知らない人間。

珈琲。

それから少し、悲しい匂い。

僕は顔を上げる。

男は僕の頭を撫でる。

「ただいま」

その言葉は分かる。

昔から何度も聞いた。

ただいま。

あのひとも言った。

だから僕は鼻を伸ばして男の顔を舐める。

帰ってきたなら、それでいい。

週末になると、男は車を出した。

昔は三人で乗った。

男が運転。

あのひとが助手席。

僕は後ろ。

でもある日から、男は僕に言った。

「ハル、前来るか」

助手席。

僕は少し迷った。

そこは、あのひとの場所だった。

匂いがまだ残っている。

布の奥。

シートベルト。

窓側。

薄い。

でも、ある。

僕は座った。

男がエンジンをかけた。

窓が少し開いた。

風。

風はたくさんの世界を運んでくる。

ガソリン。

海。

濡れた土。

草。

別の犬。

鳥。

食べ物。

知らない町。

僕は鼻を窓へ向けた。

耳が風でひっくり返る。

気持ちがいい。

男は少し笑った。

「お前、前のほうが好きだったか」

僕は答えない。

でも尻尾がシートを叩いた。

車は海へ向かった。

あのひとが好きだった場所。

僕はそれを知らない。

ただ、そこへ行くと男の匂いが変わる。

だから何度か来たことがあるのだと思う。

海沿いの道。

光。

塩。

風。

男の手がハンドルを握る。

時々、彼は僕を見る。

正確には、

僕ではない場所を見る。

僕が座っているはずの助手席。

でも、僕よりもっと昔の何かを見ている。

その日、

男の目から水が一滴落ちた。

僕は見た。

人間は目から水を出す。

あのひとも何度かそうした。

嬉しいときにも出す。

悲しいときにも出す。

だから僕には、あれが何なのか正確には分からない。

でも匂いは知っている。

塩。

熱。

苦い。

僕は前足を男の太腿に置いた。

運転中なので、少しだけ。

重さを渡す。

ここにいる。

僕は言葉を持たない。

でも、体重はある。

男は一度だけ僕の足を触った。

「ハル」

名前。

それだけ。

僕は満足した。

海で、男は長いあいだ座っていた。

僕は砂を掘った。

鳥を見た。

波へ少し近づきすぎて濡れた。

男は笑った。

久しぶりだった。

声を出して笑った。

僕は嬉しくなって走った。

男の周りを三回回った。

また笑った。

その笑い声の中に、少しだけ昔の家の匂いがした。

あのひとがいた頃の匂い。

僕には、どうしてそれが出てきたのか分からない。

でも、その日から週末の車は少しずつ変わった。

最初は黙っていた男が、

「今日はどこ行く」

と僕に聞くようになった。

僕は答えない。

だから彼が決める。

でも、たまに僕が窓のほうを向くと、

「そっちか」

と言う。

違うことも多い。

でも人間は、何かを決めるために理由が必要らしい。

僕がその理由になれるなら、それでよかった。

僕は今でもドアノブの音に走る。

もしかしたら。

あのひとかもしれない。

でも最近、男が帰ってきたときも、

前より強く尻尾を振るようになった。

待っているものと、

帰ってきたもの。

僕には、その二つを同時に好きでいることができる。

人間はどうなのだろう。

第三章 ソファの奥のタイムマシン

季節が冷たくなった頃、男が家の中を片づけ始めた。

最初に箱。

次に袋。

それから、クローゼット。

僕はすぐに気づいた。

あのひとの匂いが動いている。

服。

靴。

鞄。

布。

全部、少しずつ別の場所へ移される。

僕は男の後ろをついて回った。

彼は何も言わない。

でも動きが固い。

服を一枚持ち上げるたび、

手が止まる。

鼻を近づけるわけでもない。

匂いを嗅いでいるのではない。

人間は目で思い出すこともできる。

僕にはそれが不思議だ。

写真。

服。

小さな物。

それを見るだけで、

その人がいた時間へ戻れるらしい。

僕には匂いのほうが早い。

男が袋へ入れようとしたものの中に、

毛糸のセーターがあった。

灰色。

あのひとがよく着ていた。

その匂いは、

まだ強かった。

僕はすぐに乗った。

丸くなる。

男が見る。

「ハル」

僕は動かない。

「どけ」

動かない。

男がセーターを少し引いた。

僕は身体へ力を入れた。

絶対に渡さない。

その匂いが消える。

それが嫌だった。

匂いがなくなることと、

いなくなることが同じなのか、

僕には分からない。

でも僕の世界では、

匂いがないものを探すのは難しい。

だから残したかった。

男はしばらく僕を見ていた。

そして、

引くのをやめた。

僕の前へ座った。

床。

またあの頃と同じ。

男はセーターを触った。

指。

手。

やがて、

僕の横へ顔を近づけた。

布に顔を埋める。

その瞬間、

匂いが変わった。

呼吸が崩れた。

肩が動く。

そして男は音を出した。

低く。

割れた音。

人間があんな声を出すのを、僕はあまり聞いたことがない。

僕は起き上がった。

男の顔。

水。

たくさん。

頬。

鼻。

口。

男は僕を見なかった。

ただ、

「ごめん」

と何度も言った。

誰に?

僕に?

あのひとに?

自分に?

僕には分からない。

僕は彼の顔を舐めた。

しょっぱい。

熱い。

少し苦い。

男は僕の首へ腕を回した。

強かった。

少し苦しい。

でも離れなかった。

僕も動かなかった。

そのまましばらく、

男は泣いた。

僕は顔を舐めた。

男はまた泣いた。

僕はまた舐めた。

これでいいのか分からない。

でも他にすることがない。

だからした。

その夜、

男はセーターを捨てなかった。

ソファの端に置いた。

僕はその上で寝た。

夢を見た。

夢の中には、

あのひとの膝があった。

柔らかい。

手。

耳の後ろ。

声。

「ハル」

僕は丸くなる。

眠い。

あのひとの匂い。

それから、

男の声。

遠く。

目を開ける。

現実。

男がソファの横に座っている。

僕の頭を撫でていた。

「お前も覚えてるのか」

僕は答えない。

覚える、

という言葉が何を意味するのか、

僕には知らない。

でも、

匂いはある。

身体が知っている。

あのひとが座るとき、

ソファの左側が少し沈んだ。

僕の頭を撫でる手は小さかった。

笑うと息が少し早くなった。

冬の朝の皮膚は冷たかった。

そういうものが、

僕の中に残っている。

もしそれが「覚えている」ということなら、

僕は覚えている。

夜中。

僕は目を覚ました。

ソファの隙間。

鼻を入れる。

奥。

とても薄い。

でも、

あった。

あの匂い。

僕は目を閉じた。

男は寝室で眠っている。

僕はソファ。

部屋は静か。

匂いだけが、

昔と今をつないでいる。

人間は、時間を時計で測る。

僕には時計は分からない。

でも、

時間には匂いがある。

新しいもの。

古いもの。

薄くなるもの。

変わるもの。

混ざるもの。

その夜、

僕は初めて、

匂いが薄くなることを、

全部なくなることと同じだとは思わなかった。

なぜなら、

セーターの匂いが薄くても、

男がそれを抱いたとき、

彼の身体はあのひとを知っていたから。

匂いがなくても、

身体には残ることがあるらしい。

それは、

僕には少し不思議だった。

第四章 デイ・バイ・デイ

春が来た。

僕の名前と同じ季節。

そういうことを人間は面白がる。

あのひともよく言った。

「ハルの季節だね」

僕には、春が自分のものだとは思わない。

でも好きだ。

草。

土。

花。

風。

いろいろな匂いが一気に増える。

冬の世界は静か。

春は鼻の中が忙しい。

一年が過ぎたらしい。

僕には正確には分からない。

ただ、

ソファの奥にあったあの匂いは、

もう見つからなくなった。

何度嗅いでも、

ない。

代わりに、

僕の毛。

男。

珈琲。

新しく買った布。

窓から入る風。

濡れた芝生。

いろいろな匂いが重なっている。

昔の家とは違う。

でも、

嫌ではない。

男の足音も変わった。

重くない日が増えた。

朝。

「ハル、飯」

器。

粒が落ちる。

カラカラ。

僕は食べる。

「急ぐな」

無理。

散歩。

「ハル、行くぞ」

この言葉も好きだ。

玄関。

首輪。

外。

男はよく僕の名前を呼ぶようになった。

昔より、

たくさん。

僕は名前を呼ばれるたび、

男を見る。

人間は、

名前を呼ぶことで、

そこにいることを確かめるのかもしれない。

僕は鼻で確かめる。

男は声で確かめる。

方法が違う。

でも、

やっていることは似ている。

ある日、

男は公園のベンチに座った。

僕は足元。

桜。

花びら。

あの甘い匂いのひととは違う花の匂い。

男は空を見ていた。

少しだけ、

昔の目をした。

遠くを見る目。

僕は立ち上がって、

膝へ鼻を置いた。

男は僕を見る。

「そうだな」

何がそうなのか分からない。

でも、

頭を撫でる手は温かかった。

昔より。

僕は知っている。

あのひとは帰ってこない。

いや。

僕は本当にそれを知っているのだろうか。

分からない。

ドアノブが鳴れば、

今でも走る。

階段から甘い匂いが上がってこないか、

今でも嗅ぐ。

でも、

それと、

男が帰ってきて嬉しいことは、

矛盾しない。

待つことと、

今を生きることは、

同時にできる。

僕には、

ずっとそうだった。

その夜、

男は新しい毛布をベッドへ敷いた。

昔のものとは違う匂い。

僕はしばらく嗅いだ。

乗った。

男も横になる。

真ん中には、

以前のような冷たい空気の塊はなかった。

もちろん、

あのひとがいるわけではない。

でも、

僕が男の足の上へ顎を置く。

男が僕の背中へ手を置く。

それで、

ベッドは埋まった。

違う形で。

男は言った。

「おやすみ、ハル」

僕は目を閉じた。

人間は、

なくなったものを忘れないと前へ行けないと思うことがあるらしい。

でも僕にはよく分からない。

僕は、

昨日嗅いだ匂いを覚えながら、

今日の匂いも嗅ぐ。

昔好きだったひとを待ちながら、

今帰ってきた男へ走る。

ソファに残った匂いを探しながら、

新しい毛布で眠る。

それで困らない。

僕の世界では、

古い匂いと新しい匂いが、

同じ空気の中に混ざる。

どちらかを消さなくても、

鼻はちゃんと世界を知ることができる。

人間も、

そうなのかもしれない。

次の朝。

ドアノブが鳴った。

カチャ。

僕は走った。

玄関。

男。

今日は買い物へ出ていただけ。

袋の中から、

パン。

牛乳。

肉。

知らない花。

それから、

僕のおやつ。

僕は尻尾を振った。

男が笑う。

「ただいま」

僕は顔を舐める。

ただいま。

帰ってきた。

それだけでいい。

男の顔に、

あのひとが残していったものが少しある。

笑い方。

僕の頭を撫でる手。

ご飯を器へ入れるときの優しい速さ。

僕には、

そういうものが匂いとは違う形で残ることも、

少しずつ分かってきた。

あのひとはいない。

でも、

あのひとがこの家でしていたことは、

男の身体の中に残っている。

男が僕を愛するやり方の中に、

彼女がいる。

だから、

僕はもう、

匂いだけを探さなくてもいい。

もちろん、

ドアノブが鳴ったら走るけれど。

それは僕の仕事だから。


エピローグ あたたかな不在

僕は今でも、

ときどき夢を見る。

柔らかい膝。

花。

濡れた髪。

小さな手。

「ハル」

声。

目を覚ます。

朝。

男の寝息。

僕の鼻先。

窓。

新しい光。

夢の匂いは、

目を覚ますとすぐ薄くなる。

でも、

寂しくはない。

僕は伸びをする。

床へ降りる。

男が起きる。

「おはよう」

僕には返事の言葉がない。

だから、

尻尾を振る。

それで伝わる。

たぶん。

人間は、

いなくなったひとのことを、

「不在」と呼ぶのかもしれない。

僕はその言葉を知らない。

でも、

そこに誰もいない場所には、

ときどき温度がある。

ソファの左側。

助手席。

ベッドの真ん中。

海へ向かう道。

男が空を見る瞬間。

その場所には身体がない。

でも、

男の匂いが少し変わる。

僕の胸の奥も、

少し動く。

だから、

空っぽなのに、

完全な空っぽではない。

それを人間が何と呼ぶのか、

僕には分からない。

でも僕なら、

鼻を近づける。

何も匂わない。

それでも、

知っている。

ここには、

誰かがいた。

誰かを愛した。

誰かに愛された。

その時間が、

まだこの家を少しだけ温めている。

今日も男は仕事へ行く。

「留守番頼むな」

僕は玄関まで送る。

ドアが閉じる。

静かになる。

僕はソファへ戻る。

以前あの匂いが残っていた場所。

今は、

僕の匂いしかしない。

丸くなる。

眠る。

夕方。

階段の下から匂い。

男。

僕は目を開ける。

ドアノブ。

カチャ。

走る。

それは、

昨日もやった。

今日もやる。

明日もたぶんやる。

人間はそれを、

同じことの繰り返しだと思うかもしれない。

でも僕には、

毎回違う。

昨日の男と、

今日の男。

昨日の僕と、

今日の僕。

風。

汗。

雨。

匂い。

全部少し違う。

だから、

一日ずつ。

一日ずつ。

僕たちは、

同じ家で違う日を生きる。

悲しい匂いが残る日もある。

笑う匂いの日もある。

両方の日もある。

それでいい。

僕は走る。

男がしゃがむ。

僕の頭を抱える。

「ハル」

僕は彼の顔を舐める。

しょっぱくない。

今日は、

少し珈琲の味がした。

尻尾が床を叩く。

一回。

二回。

三回。

男が笑う。

部屋のどこかに、

もう匂いのない誰かの時間がある。

そして、

僕と男の新しい匂いが、

その上へ重なっていく。

消すのではない。

隠すのでもない。

ただ、

今日の匂いを足していく。

それが、

僕たちの暮らしだ。

それが、

僕の知っている時間だ。

そしてきっと、

それが、

愛というものなのだと思う。

僕はその言葉を知らないけれど。

今日も、

尻尾はちゃんと動いている。

キャンバスの余白

 



――偽者(フェイク)の私と、生きた時間のリアル

第一章 404 NOT FOUNDのオフィス街

「城野さん。これ、誰が書いても同じだよね」

神谷瑞穂さんは、私が三日かけて作った企画書を、ガラス張りの会議室のテーブルへ静かに戻した。

赤字はない。訂正もない。だからこそ、余計に怖かった。

「情報は整理されてる。ターゲット分析も市場調査も悪くない。文章も読みやすい。でも、あなた自身が見えない」

私は喉の奥で小さく息を飲んだ。

また、それか。

「ブランドってね、綺麗な言葉を並べればできるものじゃないの。もっと根っこを掘らないと。その企業にしかないもの。その商品にしかないもの。コピーできない熱。純度百パーセントのオリジナル」

神谷さんは私を見た。

「城野さん自身の熱も、もっと出して」

会議室の向こうには、港区の午後が広がっていた。高層ビル。首都高速。巨大な広告。雲を映しているガラス。どの建物も、自分こそが未来ですという顔をして空へ伸びている。

私は机の下で右手を握った。

本当の私。

オリジナル。

コピーできない熱。

その三つの言葉を頭の中へ入力する。

検索。

検索。

検索。

そして、いつもの画面が浮かぶ。

404 NOT FOUND

心の中のどこを探しても、該当するページが見つからない。

「……修正します」

私が答えると、神谷さんは少しだけ眉を寄せた。

「それも」

「え?」

「『修正します』って、誰にでも言えるよね」

胸の奥で、冷たいエラー音が鳴った。

私の勤める会社は「ORIGIN」という。

ひどく皮肉な名前だと思う。

大手ブランディング会社。広告、商品開発、企業理念の再構築、地域再生。私たちは毎日、他人の「起源」を探している。

この会社へ入るために、私は就職活動で自分の起源まで捏造した。

「幼い頃から人の心を動かす物語に興味があり」

嘘。

「大学時代のゼミ活動で、異なる価値観を持つ仲間をまとめ」

盛った。

「私は常に、自分なりの問いを持って行動してきました」

これは自分で書いていて笑いそうになった。

私は、人から聞いた「就活で評価される人物像」をつなぎ合わせただけだった。

エントリーシートを書くための記事を読み、合格者の自己PRを参考にし、面接官が好む言葉を調べた。それらを混ぜ、少し自分の経験を振りかけ、「城野彩乃」という商品を作った。

それで内定した。

だから私は、会社へ出勤するたび、ときどき不思議な気分になる。

採用されたのは、本当に私だったのだろうか。

それとも、私が就活用に制作したレプリカなのだろうか。

学生時代、付き合っていた人に言われたことがある。

「彩乃って、本当は何考えてるの?」

その日、私たちは池袋の小さな居酒屋にいた。

「どういう意味?」

「何言っても、それっぽい答え返ってくるじゃん」

「会話なんだから普通でしょ」

「そうじゃなくて」

彼は少し困った顔をした。

「俺が映画面白かったって言えば、彩乃もいいところ探してくれる。つまらなかったって言えば、『分かる』って言う。進路の話しても、俺がどっちに行っても応援するって言う」

「それの何が悪いの?」

「悪くない」

その「悪くない」が怖かった。

「ただ」

彼はグラスの水滴を指でなぞりながら言った。

「本当の彩乃が見えない」

私は何も言えなかった。

では、本当の私を出そう。

そう思った。

しかし、探してみたら、いなかった。

怒っている私。

優しい私。

嫉妬する私。

合わせる私。

一人になりたい私。

捨てられたくない私。

どれが本物なのか分からない。

だから黙った。

その沈黙が答えになってしまった。

三週間後、別れた。

それ以来、私は「本当の私」という言葉が嫌いになった。

大型コンペの仕事が入ったのは、入社して八か月目だった。

北関東の小さな町に残る陶磁器産地、鷺峰焼

千年近い歴史を持つとされる窯元群を、海外市場向けに再ブランディングする案件だった。

神谷さんは言った。

「テーマはORIGIN」

またその言葉。

「千年続く技。土地に根差した土。受け継がれた炎。こういう仕事こそ、表面的なコピーじゃ駄目。徹底的に本物を掘って」

私は資料を抱え、美術館へ向かった。

関連する古陶磁器の展示を見るためだった。

その日は朝から何も食べていなかった。

コーヒー二杯。

エナジードリンク一本。

頭の中には、

本物。

本物。

本物。

本物。

という文字が回っていた。

展示室を出たところで、床が傾いた。

「あ」

と思った。

世界が白くなった。

倒れる直前、誰かの腕が私の身体を受け止めた。

油絵具のような匂いがした。

気づいたとき、私はバックヤードの長椅子に寝かされていた。

「起きた?」

知らない男がいた。

二十代半ばくらい。黒い髪。白いシャツの袖を肘までまくっている。指先に、茶色や青や白の細かな汚れがついていた。

「……すみません」

「謝る前に水飲んだほうがいい」

紙コップを渡された。

「貧血?」

「たぶん寝不足です」

「食った?」

「朝は」

「食ってない顔だな」

失礼だと思った。

でも反論する元気もなかった。

男は少し離れた机へ戻った。

そこには古い絵が置かれていた。

半分だけ清掃されている。

右側は黒ずみ、左側は淡い青空が現れていた。

「修復……?」

「そう」

男は綿棒のような道具を持った。

「佐伯蓮」

「あ、私は」

「名札ついてる」

胸元を見る。

ORIGIN 城野彩乃。

「ほんとだ」

少し笑われた。

妙に腹が立たなかった。

佐伯蓮は、また絵へ向き直った。

私はその背中を見ながら思った。

この人のシャツは皺がある。

袖には絵具。

靴も少し汚れている。

それだけで、なぜか安心した。

会社では、汚れているものは提出できない。

ここでは、

汚れているものが仕事になっていた。


第二章 贋作の工房と、上塗りされた空

佐伯修復アトリエは谷中の路地裏にあった。

なぜ私がそこへ通うようになったのか、自分でも正確には説明できない。

最初は、お礼を言いに行っただけだった。

次は、美術館で見た絵の修復について少し質問した。

その次は、近くまで来たから。

四回目には、もう言い訳を考えなかった。

古い木造家屋を改装した工房には、油、ワニス、木、紙、埃の匂いが混ざっていた。壁には修復待ちの絵。棚には顔料。机の上には筆と拡大鏡。

そして一角には、名画の模写が並んでいた。

「これ、本物?」

私が聞くと、蓮は呆れた顔をした。

「見りゃ分かるだろ」

「分からないから聞いてるんです」

「レプリカ」

私は近づいた。

古い西洋絵画を模した風景。

光。

雲。

遠くの塔。

美しかった。

「贋作?」

「贋作っていうのは、本物だと偽って流通させるためのもの。これは模写。最初からコピーだと分かって売る」

「でも偽物ですよね」

蓮の手が止まった。

「偽物って、便利な言葉だな」

「だってオリジナルじゃない」

「じゃあ、オリジナルじゃないものは全部偽物か?」

「……違うんですか」

蓮は答えなかった。

代わりに、奥から一枚の油絵を持ってきた。

十九世紀の風景画だという。

薄暗い丘。

家。

空。

「これを見ろ」

「普通の古い絵にしか」

「X線写真」

タブレットを渡された。

私は画面を見る。

表面の風景の下に、

別の絵がある。

女性らしい輪郭。

さらにその下に、

別の構図。

「え」

「少なくとも二回、描き直されてる」

「同じ画家が?」

「分からない。別人の可能性もある」

「じゃあ、本当の絵はどれ?」

そう聞いた瞬間、蓮が笑った。

「出たな」

「何が」

「本物病」

むっとした。

「じゃあ一番最初に描かれたものが本物じゃないんですか」

「なんで?」

「最初だから」

「最初なら本物なのか?」

「……」

「この絵は二百年近く存在してる。その間に傷がついて、誰かが直して、上から描いて、また剥がれて、修復されてる。お前が言う『純粋な一枚目』に戻すなら、その二百年全部剥がすことになる」

蓮は絵の縁を指でなぞった。

「それは修復じゃない。歴史の破壊だ」

私は黙った。

「一番下だけが真実じゃない。今ここに重なってるもの全部が、この絵の履歴だ」

絵を見る。

さっきまで汚く見えた表面が、

少し違って見えた。

「人間も同じだと思います?」

思わず聞いた。

蓮は筆を置いた。

「急に重いな」

「すみません」

「別に」

私は笑おうとして、

やめた。

「私、自分が偽物に見えるんです」

声にすると、

思っていたより弱かった。

「仕事で書く文章も、人から覚えた表現ばかり。面接で言ったことも、半分は作り話。人に合わせて笑うし、相手が欲しそうな答えを探して言う。自分の本心を探すと」

私は目を閉じた。

「404になる」

「何それ」

「ページが見つかりません」

蓮は少し笑った。

「便利な頭だな」

「笑わないでください」

「いや」

彼は絵へ向き直った。

「本心って、一枚目の下絵みたいにどこかに眠ってると思ってる?」

私は答えられなかった。

「誰かの真似したことない人間なんているのか」

「でも」

「俺だって師匠の筆の持ち方真似した。色の作り方も。昔の画家だって誰かの絵見て覚えた。音楽だってそうだろ。コード進行なんて借り物だらけだ」

「王道進行みたいな?」

「知らん」

「知らないんだ」

「絵描きだからな」

少し笑った。

蓮は続けた。

「型を借りることと、同じものになることは違う」

私は彼を見る。

「同じ型でも、誰が、いつ、何を抱えて使ったかで変わる」

その言葉が、

妙に残った。

その日の帰り。

山手線の窓へ自分の顔が映った。

会社用のコート。

きちんと結んだ髪。

買ったばかりのバッグ。

誰かに教わった化粧。

全部、

借りもの。

でも、

その顔で今日まで生きた。

満員電車に乗った。

面接で震えた。

失恋して泣いた。

会社で頭を下げた。

美術館で倒れた。

蓮の工房で笑った。

なら。

借りた色でも、

私のキャンバスに塗られた瞬間から、

少しずつ私の色になるのだろうか。

そんなことを考えた。

まだ信じ切れなかった。

ただ、

404の画面に、

初めて小さな「戻る」ボタンが現れたような気がした。


第三章 偽物の器と、取り消せない涙

鷺峰焼の調査は順調だった。

順調すぎた。

古文書。

地域資料。

過去のパンフレット。

職人への聞き取り。

「千年の伝統」

「一子相伝」

「この土地にしかない釉薬」

資料のどこを見ても、綺麗な物語が並んでいた。

神谷さんは満足していた。

「これよ。こういう核が必要なの」

私は頷いた。

でも、

引っかかった。

一番古い資料ほど、現在売りにしている技法への言及が少ない。

おかしい。

私は休日も図書館へ通った。

古い業界誌。

自治体の記録。

昭和四十年代の新聞。

そして見つけた。

一九七四年。

先代当主がヨーロッパ視察から帰国したあと、

新しい釉薬技法を導入した記録。

さらに、

地元新聞の記事。

《海外陶芸技術を参考に新製品開発》

私は読み返した。

もう一度。

そして、

机へ額をつけた。

「……千年じゃないじゃん」

むしろ、

五十年。

しかも、

模倣。

会社へ戻り、

資料を神谷さんへ見せた。

彼女はしばらく黙った。

「確実?」

「複数資料で確認しました」

「窯元は?」

「現当主は詳しく知らなかったみたいです。先代の頃から『伝統技法』として語られるようになったらしくて」

神谷さんの顔が硬くなった。

「止めましょう」

「え」

「虚偽のストーリーでは出せない」

「でも」

「でもじゃない。ブランドは信頼よ」

それは正しい。

正しいから、

私は何も言えなかった。

「この案件、いったん白紙。クライアントにも説明する」

白紙。

その言葉が、

妙に痛かった。

窯元へ事実を伝えた日のことを忘れない。

七十代の職人が、

黙って窯の火を見ていた。

「じゃあ、俺らは偽物だったんかね」

誰かが言った。

誰も答えなかった。

作業場には、

乾燥中の器。

釉薬。

土。

五十年積み重なった棚。

全部急に、

価値を失ったように見えた。

私は胸が苦しくなった。

でも、

嘘を守ることはできない。

それも分かっていた。

帰ろうとしたとき、

奥の部屋で、

一人の老職人が器を磨いているのが見えた。

「それ、何ですか」

「昔の失敗作」

「失敗?」

「色が出過ぎた」

青と灰色が混ざった皿だった。

美しかった。

「捨てないんですか」

老人は笑った。

「女房が好きだったんだ」

それだけ。

次に彼は段ボール箱を指した。

「昔、お客さんから来た手紙がそこにあるよ」

私は一枚だけ読むつもりだった。

一時間経っていた。

結婚祝いでもらった。

亡くなった父が毎朝使っていた。

娘が初めて作った料理を盛った。

離婚したあと、一人暮らしを始めた日に買った。

入院中の母へ食事を運ぶのに使った。

一枚の皿。

一つの湯呑み。

そこに、

誰かの人生があった。

私は手紙を握ったまま、

息ができなくなった。

千年の伝統は、

嘘だった。

これは事実。

だが、

この器を使って笑った人がいた。

救われた人がいた。

家族の記憶を残した人がいた。

それも、

事実。

私は初めて、

「真実」というものを一枚の紙に印刷された判定結果のように考えていた自分に気づいた。

本物。

偽物。

○。

×。

でも世界は、

そんな二色ではなかった。

「違う」

私は呟いた。

老職人が振り返る。

「何が?」

「いえ」

涙が出た。

自分でも驚いた。

「技法の由来が嘘だったことは、ちゃんと訂正しなきゃいけない」

老人は黙っている。

「でも」

私は手紙を見る。

「これまでこの器を大事にした人の気持ちまで、嘘になるわけじゃない」

声が震えた。

「救われたって思ったことは、取り消せない」

その瞬間、

私の中で、

何かがつながった。

あの人が昔、

「好きだよ」

と言ったこと。

あとから別れた。

なら、

あの言葉は偽物だったのか。

たとえ、

未来まで続かなかったとしても。

その夜、

私は嬉しかった。

安心した。

抱きしめられた。

それは起きた。

消せない。

会社の面接で言った言葉だって、

すべてが真実ではなかった。

でも、

それを言うために必死だった私の恐怖。

採用通知を見て泣いたこと。

初出勤の日に手が震えたこと。

それは、

全部起きた。

対象の真偽と、

経験の現実は、

同じではない。

私はようやく分かった。

フェイクから、

リアルが生まれることがある。

だからといって、

フェイクを守っていいわけではない。

嘘は訂正する。

間違いは引き受ける。

でも、

嘘の中で生きた人間の時間まで、

まとめて焼却してはいけない。

私は、

ORIGINへ戻った。


第四章 キャンバスの余白

「この案件、私にもう一度やらせてください」

神谷さんは、

長いこと私を見た。

「白紙にすると言ったはずだけど」

「白紙にはしません」

自分でも驚くほど、

はっきり言えた。

「嘘のまま出すつもり?」

「逆です」

私は企画書を置いた。

表紙。

『伝統ではなく、生存の技法。』

神谷さんが読む。

「千年の技術という表現は全部撤回します」

ページをめくる。

「海外技術を参考にした経緯も公開します。経営難だったことも。先代が模倣から始めたことも」

「それ、ブランドとして弱くなるよ」

「そうかもしれません」

「じゃあ何を売るの?」

私は息を吸った。

「五十年です」

神谷さんが顔を上げる。

「千年じゃなくて?」

「はい」

私は資料を開いた。

古い写真。

失敗作。

職人たち。

窯。

手紙。

「生き残るために他国の技術を真似した。何度も失敗した。そこから自分たちの釉薬へ変えていった。景気が悪くなって、家族が辞めて、それでも窯を閉じなかった。これが五十年続いた」

胸が熱い。

「最初から純粋だったわけじゃない。でも、だから偽物なんでしょうか」

神谷さんは黙っている。

「模倣から始まっても、そのあと五十年手を動かした時間はコピーできない」

私は、

蓮の言葉を思い出していた。

型を借りることと、

同じものになることは違う。

「本物を発掘するんじゃなくて」

私は言った。

「この人たちが、借りたものをどう自分たちの時間へ変えてきたのかを見せたいんです」

会議室が静かだった。

神谷さんは、

企画書を閉じた。

「城野さん」

「はい」

「それ、あなたの言葉?」

胸の奥。

いつもの検索画面が一瞬浮かぶ。

本当の私?

オリジナル?

でも、

今回は検索しなかった。

「借りものも入ってます」

私は答えた。

「佐伯さんっていう修復士に言われたことも。職人さんから聞いたことも。昔読んだ本も。神谷さんから教わったことも」

彼女が目を細める。

「でも」

私は続けた。

「今、この言葉を使うって決めたのは私です」

それで十分だった。

神谷さんは、

しばらく黙ったあと、

小さく笑った。

「じゃあ、やってみて」

プレゼンの日。

私は、

「千年」

という言葉を一度も使わなかった。

代わりに、

一九七四年から始めた。

海外から技術を持ち帰った先代。

模倣。

失敗。

経営難。

試作品。

改良。

職人の離職。

新しい釉薬。

顧客からの手紙。

私は最後に、

一枚の写真を映した。

あの青灰色の失敗作。

「これは、当時の職人が失敗だと判断した器です」

審査員たちを見る。

「でも、ある職人の奥様は、この色が一番好きだったそうです」

少し笑いが起きた。

「伝統とは、最初から純粋であることではないのかもしれません」

私は言った。

「借りたもの。間違えたもの。捨てられなかったもの。誰かに愛されたもの。その全部が積み重なって、あとから歴史になる」

声が震えなかった。

「鷺峰焼は千年の秘伝ではありません」

その言葉を、

堂々と言えた。

「五十年間、生き残るために描き直され続けた器です」

静寂。

「その上塗りの履歴こそ、私たちは価値として伝えたい」

プレゼンを終えた。

拍手が起きた。

大きくはなかった。

でも、

本物だった。

いや。

もう、

そう呼ばなくてもよかった。

私は確かに、

嬉しかった。

それで十分だった。


エピローグ 十二色の夕暮れ

週末。

私は谷中へ行った。

蓮は窓際で、

古い絵を直していた。

「どうだった」

「勝ちました」

「そう」

「もっと喜んでください」

「よかったじゃん」

「薄い」

「感情表現苦手なんだよ」

私は笑った。

工房の窓から、

夕方の東京が見える。

寺の屋根。

電線。

ビル。

薄い橙色。

灰色。

紫。

青。

一色ではない空。

私は持ってきたスケッチブックを開いた。

「何描く」

「自画像」

蓮が嫌そうな顔をした。

「重いな」

「嘘。景色」

十二色入りの小さな色鉛筆。

子どもみたい。

私は黄色を取った。

夕焼けへ塗る。

赤を重ねる。

少し汚くなる。

青を入れる。

もっと濁る。

でも、

綺麗だった。

「私」

「うん」

「ずっと、本当の自分がどこかにいると思ってたんです」

蓮は作業を続けている。

「就活で作った自分は偽物。会社で笑ってる自分も偽物。恋人に合わせた自分も偽物。本物はもっと奥にいるはずって」

「見つかった?」

「いませんでした」

「残念」

「でも」

私は色鉛筆を一本選ぶ。

緑。

「いなくてよかったのかも」

蓮が少しだけこちらを見る。

「本物の私が一人だけいたら、その人以外の私は全部間違いになる」

私は笑った。

「嫌ですよ、そんなの」

大学で泣いた私。

面接で嘘をついた私。

会社で愛想笑いした私。

美術館で倒れた私。

工房で説教されて腹を立てた私。

職人の手紙を読んで泣いた私。

プレゼンで自分の言葉を選んだ私。

全部、

同じキャンバスにいる。

塗り直した跡。

消しきれなかった線。

下から透ける色。

それでいい。

「これからも嘘つくと思います」

「開き直るな」

「そういう意味じゃなくて」

「分かってる」

私は笑った。

嘘は、

嘘として訂正すればいい。

傷つけたなら、

謝ればいい。

間違えたなら、

責任を取ればいい。

でも、

間違った自分を、

人生から切り取らなくていい。

白紙に戻らなくていい。

生きるということは、

たぶん、

修復ではなく上描きに近い。

完全な原状回復なんてない。

昨日の自分へ戻ることもできない。

それでも、

余白は残っている。

その余白へ、

次の色を置ける。

私はスケッチブックに、

蓮の横顔を描き足した。

「勝手に描くな」

「背景です」

「人を背景扱いするな」

「でも、人って誰かの背景でもあるでしょ」

「急に哲学っぽくするな」

「職業病です」

「ブランディング屋だろ」

「似たようなものです」

二人で笑った。

窓の外で、

街の灯りが一つずつ点いていく。

広告。

電車。

コンビニ。

誰かが作った音楽。

誰かが考えた服。

誰かの真似から始まった料理。

誰かの言葉を借りて愛を告げる人。

世界は、

借りものでいっぱいだった。

でも、

借りものだから価値がないわけではない。

C、Am、F、G。

何千回も使われたようなコードでも、

その上で、

まだ誰も歌っていない歌を歌える。

型は借りられる。

言葉も借りられる。

でも、

その型の上で今日を生きることだけは、

誰にも代わってもらえない。

私は最後に、

白い部分を少し残した。

「そこ塗らないの?」

蓮が聞く。

「余白」

「何のための」

私は考えた。

そして、

答えた。

「明日の私が、何色を使いたくなるか分からないから」

蓮は少し笑った。

夕暮れの光が、

修復途中の絵へ落ちる。

古い絵具。

新しい絵具。

傷。

補修。

上塗り。

全部が同じ光を受けていた。

私はもう、

「本物の私」を探さなかった。

検索窓を閉じた。

404でもよかった。

だって、

見つからないなら、

描けばいい。

真実は、

どこかに隠されている完成品ではない。

間違い、

模倣し、

傷つき、

救われ、

誰かの言葉を借り、

それでも今日の色を自分で選んだ、

その時間の重なりの中に生まれてくる。

私の自画像は、

まだ完成していない。

きっと、

死ぬまで完成しない。

だから、

いい。

私は十二色の中から、

まだ使っていなかった一本を取った。

そして、

汚れたキャンバスの余白へ、

新しい線を一本、

描き足した。

それは誰かの絵に似ていたかもしれない。

ありふれた線だったかもしれない。

それでも、

今ここで、

私が選んで引いた。

その事実だけは、

誰にも偽物にはできなかった。

2026-08-24

404号室の不可視な恋人

 



――話さない私と、見ない君

第一章 404号室の透明な日常

私と遠藤響は、半年ほど前から一緒に暮らしている。

正確には、東京都内の古い賃貸マンション、その四階のいちばん奥にある一LDK、四〇四号室で生活を共有している。玄関は一つ。冷蔵庫も一つ。洗濯機も一つ。ベッドも一つ。家賃は折半。電気料金も水道料金も、毎月共有の口座から引き落とされる。

それなのに私たちは、ほとんど一人暮らしをしていた。

朝七時十三分、私はキッチンでパンを焼く。焦げる寸前まで焼いた食パンへバターを薄く塗っていると、背後でベッドが軋む。響が起きた音だ。

私は振り返らない。

しばらくして、裸足でフローリングを歩く足音がする。響は私の背後を通り、洗面所へ向かう。私も彼も、ほんの数センチだけ身体の位置を変える。肩が触れない程度に。

「おはよう」はない。

彼は歯を磨く。水が流れる。私はコーヒーを淹れる。響が戻ってくる頃には、私はトーストを皿へ移している。

視線は交わらない。

彼は冷蔵庫を開ける。私はマグカップを持って窓際へ移動する。彼が牛乳を取り出す。冷蔵庫のドアが閉まる。私はスマートフォンを見る。

まるで、お互いが空気であるかのように。

ただし、完全な空気ではない。

空気なら、そこにいても避ける必要はない。

私たちは互いを避ける。

つまり、見ないという行為そのものによって、相手の存在を誰より強く意識している。

私はこの生活を、頭の中で「完全透明」と呼んでいた。

響は情報デザインを専攻しているから、以前、冗談めかして「プロトコル・ゼロ」と言ったことがある。

会話しない。干渉しない。目を合わせない。互いに互いの感情へアクセスしようとしない。

衝突しないための最小通信規約。

そして、恋人同士であることをやめきれない二人が作った、奇妙な延命措置。

大学で友人の由衣から、「同棲生活どう?」と聞かれると、私は決まって答える。

「平和だよ」

嘘ではない。

喧嘩は一度もない。

怒鳴らない。泣かない。相手を責めない。何時に帰ろうが誰と会おうが、誰も口を出さない。

完璧な平和。

ただし、墓地も平和だ。

そんなことを考えてしまう私は、たぶん性格が悪い。

「いいなあ」と由衣は言った。「うちなんか彼氏と毎週喧嘩してるよ。既読つけたのに返信ないとか、洗い物しないとか」

私は笑う。

「大変そう」

心の中では思う。

少し羨ましい。

皿を洗ってくれないことで怒れるということは、相手に皿を洗ってほしいと思っているということだ。

期待している。

まだ相手が自分の世界の内部にいる。

私と響は、期待をやめた。

期待しなければ失望しない。

アクセスしなければ、エラーも起きない。

そう思っていた。

半年ほど前までは。


私たちが話さなくなった夜のことを、私は何度も思い出す。

季節は春だった。

まだ同棲を始めて二週間しか経っていなかった。

些細なことが原因だった。

響が友人との飲み会から帰ってきたのが午前一時を過ぎていた。私は連絡がなかったことに腹を立てた。響は「束縛されたくない」と言った。私は「束縛じゃなくて心配」と言った。

そこまでは、よくある恋人同士の喧嘩だった。

問題は、そのあとだった。

私たちは互いの言葉を、「相手の本当の気持ちを解読するための暗号」として扱い始めた。

「束縛されたくないって、つまり私といるのが面倒ってことでしょ」

「違う」

「じゃあ何?」

「そのままの意味だよ」

「そのままの意味って何?」

「だから、一人の時間もほしいってこと」

「じゃあ私は邪魔?」

「そういうことじゃない」

「じゃあどういうことなの!」

言葉を重ねるたび、意味が遠ざかる。

響も苛立った。

「紬こそ、僕のこと何も分かってないじゃん」

「分かりたいから聞いてるの!」

「聞けば分かると思ってる?」

「話さなきゃ分からないでしょ!」

「話しても分かってないじゃん!」

その言葉が刺さった。

私は現代文学を専攻している。

言葉を読む。

文脈を読む。

登場人物が何を言わなかったのかを読む。

そんな勉強を四年間続けてきた。

だからどこかで思っていた。

言葉を尽くせば、人間は分かり合える。

正しい言葉を選べば、相手の内部へ届く。

けれどその夜、言葉は橋ではなかった。

投げ合う石になった。

「響は結局、私と一緒にいたいの?」

「いたいよ」

「じゃあ何でそういう態度になるの?」

「どの態度?」

「そうやって面倒そうにする態度!」

「紬が何でも意味を決めつけるからだよ!」

「決めつけてない!」

「決めつけてる!」

「じゃあ本当は何なの!」

そのとき、響が言った。

「分からないよ」

私は止まった。

「何が?」

「自分の気持ち」

「は?」

「全部、言葉になんてできない」

「でも何かあるでしょ」

「あるよ。でも、言った瞬間、それが全部みたいに扱われるのが嫌なんだよ」

私は理解できなかった。

だからさらに問い詰めた。

結果、もっと分からなくなった。

午前三時近く。

二人とも疲れ果てていた。

響は床へ座り込み、壁にもたれた。

私はソファにいた。

同じ部屋なのに、ものすごく遠かった。

そのとき響が、暗闇でぽつりと言った。

「もう、アクセスするのやめよう」

「……何?」

「互いの中身」

冗談ではなかった。

「分かろうとするたびに壊れるなら、もう見ないほうがいい」

私は何も言えなかった。

「これ以上、壊れる前に」

その言葉だけが残った。

翌朝から、私たちは話さなくなった。

最初は一日だけのつもりだった。

二日。

三日。

一週間。

一か月。

そして半年。

愛というものは、案外しぶとい。

死んでいるように見えても、形式だけは残る。

家賃を折半する。

冷蔵庫を共有する。

洗濯ネットを二つ買う。

相手のシャンプーが切れそうなら、同じものを買っておく。

それらは愛なのだろうか。

ただの習慣なのだろうか。

私は分からなかった。

ただ一つだけ確かなことがある。

夜、響が隣で眠っていると、

私はいつも思う。

触れたい。

それだけだった。

分かりたい、ではない。

触れたい。

言葉にならないその欲望だけが、四〇四号室の静寂の中で生き残っていた。


第二章 矛盾する正しさと、解離する身体

私は、自分の中に複数の人間がいることを認めたくなかった。

一人になりたい私。

響に抱きしめてほしい私。

自由を尊重されたい私。

「今日は早く帰ってきて」と言いたい私。

話しかけられたくない私。

それでも、「おかえり」と言ってほしい私。

それらは互いに矛盾している。

文学では、矛盾を抱えた人物を「複雑で人間的」と評するくせに、自分自身の矛盾となると私は耐えられなかった。

人間は論理式ではない。

Aでありながら非Aでもある。

孤独を愛しながら、孤独に泣く。

傷つきたくないから距離を取って、距離を取ったことに傷つく。

そういう生き物だ。

でも私は、その矛盾を整理したかった。

卒業論文では、現代文学における「語り得なさ」を扱っていた。

言葉が失敗する場所。

沈黙。

省略。

誤読。

書けば書くほど、笑えてきた。

自分の部屋に、これ以上ない実例がいる。

私は話さない。

響は見ない。

研究対象としては満点だ。

恋愛としては赤点だった。


十一月の終わり。

私は大学図書館に朝から夜までこもっていた。

卒論の提出期限。

就職活動。

友人たちの進路。

自分だけ未来の輪郭がぼやけているような焦燥感。

食事はコンビニ。

睡眠は四時間。

それでも、平気だと思っていた。

身体は、言葉より正直だ。

帰宅したのは午後十時過ぎ。

玄関で靴を脱いだ時点で、少し世界が傾いていた。

私は無視した。

いつものこと。

キッチンで水を飲む。

そのとき視界が白くなった。

次に気づいたとき、

私は廊下に座り込んでいた。

正確には、座っていたのではない。

倒れていた。

身体が鉛みたいに重い。

頭が熱い。

指先だけ冷たい。

足音。

響。

帰ってきていたらしい。

私たちの規則なら、

彼は通り過ぎる。

それが「正しい」。

相手の領域へ入らない。

干渉しない。

私は目を閉じた。

足音が近づく。

止まった。

静寂。

それから。

額に、

手。

少しカサついた掌。

冷たいと思った。

違う。

私が熱いのだ。

響の指が髪を避ける。

私は目を開けなかった。

開けたら、

この瞬間が終わる気がした。

彼は何も言わない。

私も言わない。

ただ、掌がある。

それだけ。

十分だった。

不思議だった。

半年間、

私は響の言葉を待っていた気がする。

謝罪。

愛情。

説明。

「まだ好きだよ」

そういうもの。

でも、その瞬間に欲しかったのは、一つもなかった。

ただ、

触れられている。

それだけで、

涙が出た。

目を閉じたまま泣いた。

響は気づいたのかもしれない。

でも何も言わなかった。

少しして手が離れる。

遠ざかる足音。

冷蔵庫。

棚。

水。

何かを用意する音。

しばらくして、

私の枕元にスポーツドリンク、解熱剤、体温計、氷枕が置かれた。

響はまた離れていった。

私は熱に浮かされながら思った。

私たちは半年間、言葉が危険だと思っていた。

だから言葉を消した。

でも言葉を消しても、

人間は消えなかった。

手は残った。

体温は残った。

冷蔵庫のドアを開ける音も。

スポーツドリンクのペットボトルも。

相手がそこにいるという事実は、

文法より強かった。

私は突然、理解した。

いや、

「理解した」という言い方すら違う。

身体が知った。

私は響を完全に理解したいのではない。

響に触れていたいのだ。

その二つは、

同じではなかった。


翌朝。

熱は少し下がっていた。

響はもう大学へ出ていた。

テーブルに、飲みかけのスポーツドリンク。

ゴミ箱に薬の箱。

私は自分の額へ手を当てた。

当然、

昨日の温度は残っていない。

でも、

記憶はある。

私は笑った。

たった一回触れただけで、

半年間積み上げた思想体系が崩れる。

哲学とは、

熱のある額には弱い。


第三章 昨日のジャンプと、今日の404

私は愚かだった。

昨日、響が私へ触れた。

だから今日も、

何かが起きると思った。

人間はすぐ、昨日の成功を法則にする。

昨日うまくいったことは今日も再現できる。

昨日見つけた場所には今日も同じ道で行ける。

そう思う。

午前八時。

私はわざと廊下に立った。

響が洗面所から戻ってくる時間。

来た。

足音。

心臓。

私は避けなかった。

響が近づく。

昨日なら、

何か起きた。

今日は。

彼は身体を横へずらした。

私に触れないように。

すれ違った。

視線もない。

「……」

声を出しかけて、

やめた。

玄関。

靴。

ドア。

閉まる。

それだけ。

私は廊下に立ったまま、

笑った。

「NOT FOUND」

口にしてみる。

妙に似合った。

昨日はあった。

今日はない。

昨日アクセスできた場所へ、

同じ方法で飛ぼうとした。

でもページは消えている。

存在しない。

それとも、

場所が変わっただけなのか。

人間の心には、

固定されたURLがない。

昨日の響と、

今日の響は、

同じ人間でありながら同じページではない。

昨日の私も、

今日の私ではない。

なら、

一度理解した相手を、

「この人はこういう人だ」

と保存すること自体が、

乱暴なのかもしれない。

文学作品なら、

本文は変わらない。

一度読んだページは、

翌日も同じ文章が載っている。

人間は違う。

生きている限り、

内容が書き換わる。

昨日、

「一人にしてほしい」

と言った人が、

今日は「そばにいてほしい」と思う。

それは嘘ではない。

更新だ。

私はずっと、

響の「本当の気持ち」を探していた。

でも、

本当の気持ちという固定ファイルなど、

最初から存在しないのかもしれない。

あるのは、

その瞬間の響。

その瞬間の私。

それだけ。

なら、

一度見つけた答えへ戻ろうとするのではなく、

毎回、

新しく尋ねなければならない。

面倒だ。

恐ろしく面倒。

でも、

たぶん愛とは、

そういう面倒なものなのだ。


その日の夕方。

私はスーパーへ寄った。

大根。

豆腐。

油揚げ。

味噌。

鮭。

響の好きなものを、覚えていた。

覚えているという事実が少し恥ずかしかった。

帰宅して、

味噌汁を作る。

包丁。

湯気。

出汁。

味見。

少し濃い。

水を足す。

私は自分の分と、

もう一人分を用意した。

テーブル。

向かい合わせ。

その景色が妙に怖かった。

半年間、

私たちは同じテーブルで向かい合って座っていない。

私は付箋を出した。

書く。

《スープ、温かいよ》

そこで止まる。

どうすればいい。

「話したい」?

重い。

「好き」?

もっと重い。

「昨日ありがとう」?

過去へ戻ろうとしている。

しばらく考えて、

こう書いた。

《スープ、温かいよ。美味しいと思ったら、一度だけ私を見て》

馬鹿みたい。

小学生の告白。

でも、

それでいい。

言葉は完全じゃない。

だからこそ、

小さく使えばいい。

全部説明するためではなく、

ドアを一センチ開けるために。

私はテーブルに座った。

待った。

時計。

十九時。

二十時。

二十一時十二分。

鍵。

心臓が跳ねる。

玄関が開く。

響。

私は逃げなかった。

彼も、

一瞬立ち止まった。

それから靴を脱ぐ。

荷物を置く。

テーブル。

料理。

付箋。

彼の手が止まる。

読む。

私は黙って見ている。

響は椅子に座った。

味噌汁。

箸。

一口。

私は呼吸を忘れた。

響が止まる。

それから。

ゆっくり、

顔を上げた。

半年ぶりだった。

目。

遠藤響の目。

私は、

その色を忘れていた。

茶色。

少し赤い。

そして、

涙が落ちた。


第四章 愛という、素敵な嘘

最初に喋ったのは、

響だった。

「……怖かった」

声が、

部屋に響いた。

半年間、

テレビや冷蔵庫や雨音ばかり聞いていた四〇四号室に、

彼の声。

私は、それだけで泣きそうになった。

響は目を伏せた。

「何を言っても、またズレる気がして」

私は黙って聞いた。

「前の喧嘩のとき」

彼は続ける。

「紬が欲しい答えが、全然分からなかった」

「私も分からなかった」

「でも、答えなきゃって思った。ちゃんと説明しなきゃ。僕が何を思ってるのか、正確に言わなきゃって」

彼は笑った。

「できなかった」

「うん」

「自分のことなのに」

「うん」

「それで怖くなった。言葉にしたら、その言葉が僕そのものになる気がした」

私は胸が痛くなった。

あの夜、

私はそうしていた。

響が一つ言うたびに、

「じゃあつまりこうなんでしょ」

と意味を固定した。

私は彼を理解したかった。

でも実際には、

彼を定義したかったのかもしれない。

分からないものを、

分からないまま持っていることが怖かったから。

「私も怖かった」

私は言った。

響が見る。

「何が?」

「分からないこと」

声が震える。

「恋人なのに分からないって、失敗みたいで」

涙が落ちた。

「好きなら分かり合えるはずって思ってた」

「僕も」

「馬鹿だね」

「うん」

二人で、

少し笑った。

それから、

私は手を出した。

テーブルの上。

響のほうへ。

彼は見た。

「触っていい?」

半年ぶりに、

許可を取った。

響は、

ゆっくり手を重ねた。

温かい。

少しカサついている。

あの日、

額に触れた手。

私は指を絡めた。

「完全に分かり合えなくてもいいと思う」

響は黙っている。

「昨日分かったと思ったことが、今日NOT FOUNDになってもいい」

「それは嫌だな」

「私も嫌」

「嫌なの?」

「そりゃ嫌だよ」

二人で笑う。

「でも」

私は言った。

「そのたびに探せばいい」

「毎日?」

「毎日」

「面倒」

「愛するって、奥が深いから」

「何それ」

「今思いついた」

響が笑った。

私はその笑顔を見た。

半年間、

見たかったもの。

でも、

笑顔そのものが欲しかったわけではないのだと思う。

この人が、

ここにいる。

その事実が欲しかった。

「ねえ響」

「うん」

「愛って、たぶん嘘だね」

響が眉を上げた。

「いきなり何」

「永遠に分かり合えるとか、ずっと一緒とか」

「重い話するなあ」

「証明できないじゃん」

「まあ」

「未来のことなんて分からないし。明日、私が響を嫌いになるかもしれない」

「やめてよ」

「響が私を嫌いになるかもしれない」

「もっとやめて」

私は笑った。

「でも、それでも今『好き』って言う」

響は黙った。

「それって、素敵な嘘じゃない?」

少し考えて。

「嘘っていうか」

「うん」

「約束じゃなくて、選択なんじゃない」

「選択?」

「今日、好きって選ぶ」

彼は私の手を握る。

「明日も、また選ぶ」

私は胸の奥が熱くなった。

「それ、もっとずるい」

「何が」

「私よりいいこと言った」

響は笑った。

その瞬間、

私は思った。

愛は完成されたプログラムではない。

一度書けば永遠に動くコードではない。

バグが出る。

更新する。

昨日動いたものが今日は動かない。

環境が変わる。

人も変わる。

だから修正する。

でも、

修正する意思がある限り、

エラーは終わりではない。

ただの通知だ。

ここには、今、答えがありません。

それだけ。


「味噌汁」

響が言った。

「何」

「冷めた」

「誰のせいよ」

「紬」

「響でしょ」

「半々」

半年ぶりの口喧嘩だった。

私は笑った。

嬉しかった。

本当に、

馬鹿みたいに。


エピローグ 未完成な私たちの、明日の朝食

翌朝。

私はトーストを焼いた。

響が起きる。

足音。

以前なら、

そこから沈黙が始まった。

今日は。

「おはよう」

私が言う。

響は少し驚いた顔をした。

「……おはよう」

それだけ。

なのに、

部屋の空気が変わった。

二人でテーブルへ座る。

昨日の味噌汁を温め直した。

響が飲む。

「薄くなってない?」

「温め直したからかな」

「いや、昨日からちょっと薄かった」

私は箸を置いた。

「朝一番に文句?」

「感想」

「不満でしょ」

「感想」

「じゃあ自分で作って」

「怒った?」

「ちょっと」

「言ってくれてよかった」

私は一瞬止まる。

それから笑った。

「こういうの、毎回確認するの?」

「しばらくは」

「面倒」

「愛するって奥が深いから」

「それ私の台詞」

響が笑う。

私も笑った。

完璧な会話ではない。

これから喧嘩もする。

たぶん、

昨日「分かった」と思った響の気持ちが、

今日にはまた分からなくなる。

私自身についても同じ。

昨日の私は、

今日には少し違う。

人間の心にはパーマリンクがない。

それは不便で、

不安で、

時々残酷だ。

でも。

だからこそ、

昨日の失敗に永遠に閉じ込められなくて済む。

昨日の「もう無理」が、

今日も同じとは限らない。

昨日「分からなかった」相手と、

今日また出会える。

私はそれを、

少しだけ希望と呼んでもいいと思う。

食後。

響がマグカップを洗っている。

私は背後から言った。

「ねえ」

「何」

「明日も、私の決めつけ壊してね」

水道の音。

響が振り返る。

「注文多いな」

「恋人だから」

「関係ある?」

「ある」

「じゃあ紬も」

「何を?」

「僕の諦め、壊して」

私は黙った。

それから、

「努力します」

と答えた。

「何そのビジネスメール」

「絶対って言ったら嘘になるから」

響は笑った。

そして、

濡れた手のまま私の手を取った。

私は嫌がるふりをした。

「冷たい」

「じゃあ離す?」

「嫌」

矛盾。

でも、

それでいい。

冷たい。

でも離したくない。

自由でいたい。

でも触れていたい。

分からない。

でも好き。

人間には、

矛盾しながら正しいことがいくつもある。

愛は、

その矛盾を一つの答えにまとめることではないのかもしれない。

むしろ、

矛盾したまま、

同じテーブルに座ることなのかもしれない。

朝の光が、

四〇四号室へ入ってくる。

ここにはもう、

透明な恋人はいない。

完全に理解された恋人もいない。

いるのは、

今日の響。

今日の私。

そして明日にはまた、

少し違う二人。

私は彼の手を握り返した。

もし明日、

また彼が分からなくなったら。

そのときは、

もう一度探そう。

見つからなくても。

エラーが出ても。

昨日の場所が消えていても。

別の入り口があるかもしれない。

声。

目。

手。

味噌汁。

笑顔。

沈黙。

どれでもいい。

完全な理解へ辿り着くためではない。

何度でも、

あなたに触れ直すために。

四〇四号室。

NOT FOUND。

それは、愛がなくなったという意味ではない。

ただ、

昨日までの答えが、

そこにはもうないということ。

だったら今日の私たちは、

今日の答えを探せばいい。

たとえその答えも、

明日には消えてしまうとしても。

そのたびにもう一度、

あなたを選べばいい。

愛という、

証明不能で、

不完全で、

どうしようもなく素敵な嘘を、

今日も二人で信じながら。

紫の渡り廊下

 



第一章 無菌室の彼氏と、紫色の渡り廊下

私と長谷川律は、一応、付き合っている。

「一応」と言うと、友達は決まって嫌な顔をする。「半年も付き合ってて一応って何?」と。でも、ほかに適当な言葉が見つからないのだから仕方がない。

恋人同士、と呼ぶには、私たちはあまりに静かだった。

喧嘩をしたことがない。待ち合わせに遅れても律は怒らない。私が映画館の席を勝手に決めても、注文する料理を変えても、「茜がいいならそれでいいよ」と微笑む。私が不機嫌でも、面倒そうな顔をしない。泣いても困らない。怒っても怒り返さない。

それを友達は、優しい彼氏、と呼んだ。

私は、気味の悪い彼氏、と呼びたかった。

もちろん口には出さなかった。

律は整っている。顔も、服も、言葉も、暮らしも。建築学科らしく、彼の部屋には余計なものがない。白い壁。木目の机。灰色のカーテン。黒いスチールラック。観葉植物まで「ここに置かれるために育ったのではないか」と思うほど正しい位置にある。

私が映像学科の課題で使うケーブルやレンズやメモリーカードを床へ散乱させていると、律は無言で拾ってくれる。そこにも苛立ちはない。

だから私は、ときどき彼の部屋で息ができなくなる。

モデルルームには生活する人間がいない。

人間が住み始めた瞬間、そこには髪の毛が落ちる。油が飛ぶ。コップに茶渋がつく。洗濯物が乾ききらない日がある。冷蔵庫の奥で野菜が萎れる。誰かが機嫌を悪くする。返事をしたくない夜もある。

でも律の愛情には、そういう染みがなかった。

綺麗すぎるものは、ときどき、存在していないのと似ている。

「ねえ律。私が他の男と二人で飲みに行ったら嫌?」

春の終わり、神保町のカフェでそう聞いたことがある。

律はアイスコーヒーのストローから口を離し、少し考えた。

「茜が行きたいなら、いいんじゃない?」

「嫉妬しない?」

「信用してるから」

正解だった。

百点。

模範解答。

だから私は、ひどく腹が立った。

「じゃあ、私がその人のこと好きになっても?」

律は少しだけ目を細めた。

やっと。

何か出る。

そう思った。

けれど彼は微笑んだ。

「そのときは、茜の気持ちを尊重するよ」

私は笑った。

「そっか」

その日の夜から、夢を見るようになった。


夢には、紫色の渡り廊下がある。

なぜ紫なのかは知らない。ワインを水で薄めたような紫。夕暮れと内出血の中間みたいな色。床板は古く、歩くと湿った音がする。左側には窓が並んでいるのに、その向こうには景色がない。ただ乳白色の霧だけが広がっている。

右側の壁には、額縁が並んでいる。

私は最初の夜、その一枚を見て足を止めた。

絵の中には私がいた。

二日前、律と行った水族館。

巨大水槽。

青い光。

私。

隣には律らしい男。

けれど、顔が塗りつぶされていた。

「趣味悪」

夢の中の私はそう呟いた。

次の絵は、三日前のコンビニ。

さらに次は、大学の中庭。

全部、私の記憶だ。

でも完全には同じではない。

実際の水族館では、私は律の袖を掴まなかった。絵の中の私は掴んでいる。現実では律は笑っていた。絵の中では、口元だけが黒い線で裂けている。

夢は嘘をつく。

でも、ただの嘘ではない。

現実を少しだけ歪めることで、むしろ私が見たくなかったものを見せてくる。

廊下の奥から、男が歩いてきた。

顔がない。

目も、鼻も、口もない。

ただ皮膚のような滑らかな平面がある。

なのに、そいつが私を見て笑っていることだけは分かった。

「何笑ってんの」

男は答えない。

私は怖くなかった。

ただ、歩けなくなった。

足が床へ縫いつけられたようだった。

顔のない男は、私の目の前まで来た。

そして、私の肩をぽんと叩いた。

それだけで目が覚めた。

午前四時十二分。

隣ではない。

私は自分の部屋にいた。

天井。

エアコン。

カーテンの隙間。

夢だった。

分かっているのに、肩にはまだ触れられた感覚が残っていた。

私はスマートフォンを開いた。

律からメッセージが来ていた。

《今日はありがとう。楽しかった。おやすみ》

やっぱり正しい。

私は返信しなかった。

その代わり、

「腹立つ」

と呟いた。

誰に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。


映像学科では、夢は便利な素材だ。

教授は「夢を映像化すると陳腐になる」と言う。夢そのものは、本人にしか理解できない文法で作られているからだ。象徴を象徴として説明した瞬間、それはただの記号になる。

私はそれを分かっていながら、ノートに書いた。

紫色の渡り廊下。

壁の絵。

顔のない男。

その横へ、

律?

と書いた。

そして線を引いて消した。

顔がないということは、律ではないのかもしれない。

むしろ、私が律に「顔を与えていない」のかもしれない。

私は彼を、

優しい。

穏やか。

完璧。

何を言っても怒らない。

という表面だけで見ている。

でも、それは彼のせいでもある。

見せないのだから。

翌日、私は律へ言った。

「ねえ」

「うん」

「あなたって、本当は何が嫌いなの?」

彼は笑った。

「急だね」

「答えて」

「……人を傷つける人?」

「そういう道徳の教科書みたいなのじゃなくて」

「じゃあ、満員電車」

「違う」

「何が聞きたいの?」

私は彼を見た。

その瞬間、顔のない男を思い出した。

「私の何が嫌い?」

律の笑顔が止まった。

ほんの一秒。

でも見た。

「嫌いなところなんてないよ」

また正解。

私は吐き気がした。


第二章 ピンクのガラス玉

夢の渡り廊下には二階があった。

二階、と言っていいのかは分からない。階段を上った記憶はないのに、次の夢では私はそこにいた。

廊下の端に、一人の老婆が座っていた。

白い寝間着。裸足。細い髪。手の甲には黒い染みがある。爪の間には泥のような汚れが詰まっていた。

彼女は咳をした。

「大丈夫?」

夢の中でまで私は無難なことを言う。

老婆は私を見る。

「お前は?」

「何が?」

「大丈夫なのか」

私は笑った。

「知らない」

老婆は手を差し出した。

汚れている。

私は触れたくなかった。

すると背後から、顔のない男が現れた。

今回はバッグを持っていた。

黒い革のバッグ。

そいつは中を探り、小さなものを取り出した。

ピンク色のガラス玉。

ビー玉だった。

男は老婆の掌へ置いた。

老婆はそれを光にかざした。

紫色の廊下の中で、ピンクだけが妙に生々しかった。

安っぽい。

子どものおもちゃみたい。

宝石でもない。

でも、綺麗だった。

老婆が私へ差し出す。

私は受け取った。

冷たい。

ガラスなのに、しばらく握っていると温かくなった。

「これ何?」

老婆は答えない。

「象徴?」

自分で言って笑った。

「メタファー? 愛? 欲望? 子どもっぽさ? 何なの」

顔のない男が肩を揺らして笑っていた。

「笑うなよ」

私はそいつに近づいた。

顔がない。

何もない。

そこへ、自分の顔がうっすら反射している。

突然、

腹が立った。

「私にもくれよ」

声が低くなる。

「何かあるんでしょ。本当は」

男は動かない。

「怒れよ。嫉妬しろよ。面倒くさいって言えよ。私が嫌なら嫌って言えよ」

喉が痛い。

「何でもいいから、あなたの色で私を汚してよ」

男の平らな顔へ、

初めて一本の亀裂が入った。

目が覚めた。


その日の午後、律と大学の食堂で会った。

「寝不足?」

「夢見た」

「どんな?」

「あなたが顔のない男になってた」

律は笑った。

「怖いな」

「怖くない」

「じゃあ何?」

私は箸を置いた。

「ムカつく」

律が瞬きをした。

「俺が?」

「夢の中のあなたが」

「夢の俺に怒られても」

「現実のあなたにも怒ってる」

沈黙。

私は期待した。

また。

何かが出ることを。

でも、

「ごめん」

だった。

「何に謝ってるの?」

「茜を嫌な気持ちにさせたなら」

「それ!」

少し声が大きくなった。

周囲の学生が見る。

律は困った顔をした。

私はさらに腹が立った。

「何でいつもそうなの?」

「どういう意味?」

「私が怒ったら謝る。私が迷ったら『好きなようにしていい』。私が泣いたら『大丈夫』。あなた自身はどこにいるの?」

「いるよ」

「どこ?」

「ここ」

「そういう話じゃない!」

律は黙った。

私は息を吸った。

喉の奥に何かが引っかかっている。

吐き出したい。

でも怖い。

本音というものは、口から自然に出てくるものではない。

喉の奥に刺さっている。

取り出すには、

肉ごとえぐる必要がある。

私は結局、

「もういい」

と言った。

そして逃げた。

最低だった。

本音を求めているくせに、

自分の本音は最後まで言わない。

夢の老婆の汚れた手が浮かんだ。

綺麗な手だけ握ろうとする人間に、

綺麗じゃない関係なんて作れるわけがない。

その夜、

律から、

《今週末、うち来る?》

と届いた。

私は、

《行く》

と返した。

今度こそ、

喉を切り開くつもりだった。


第三章 黄ばんだ真実

律の部屋は、相変わらず整っていた。

私はそれが嫌で、

入ってすぐバッグを床へ置いた。

わざと少し乱暴に。

律は拾わなかった。

珍しい。

「何?」

私が聞く。

「別に」

「何その言い方」

「普通だけど」

小さかった。

でも。

初めて聞いた。

律の不機嫌。

胸が少し高鳴った。

嬉しいと思った自分が、

気持ち悪かった。

夜は長かった。

私たちは映画を一本見た。途中で内容が頭に入らなくなった。冷蔵庫のワインを少し飲んだ。私は律の肩にもたれた。彼は私の髪を触った。

そのあとについては、細かく語る必要はないと思う。

ただ、私たちはこれ以上近づけないくらい近づいた。

それでも、

私は遠かった。

夜中。

部屋は暗い。

カーテンの隙間から満月。

律は隣で背中を向けた。

裸の背中。

肩甲骨。

呼吸。

近い。

手を伸ばせば触れられる。

でも、その背中は巨大な壁に見えた。

窓の外から、

声がした。

女の声。

泣いているのか、

笑っているのか、

別の何かなのか、

分からない。

私は突然、

夢の中に戻ったような気がした。

「律」

返事がない。

「起きてるでしょ」

「……うん」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「嘘」

「怒ってないよ」

私は笑った。

「またそれ」

「何」

「何でもない顔」

律が寝返りを打った。

こちらを見る。

月明かり。

「茜、今日は疲れてるんじゃない?」

「私ね」

私は言った。

「夢を見るの」

「前に言ってたやつ?」

「紫色の渡り廊下」

律は黙っている。

「壁に私たちの絵がある。二、三日前のことが、少しだけ違う絵になってる」

「うん」

「それで、あなたみたいな男が来る」

「顔がない?」

「そう」

「俺、顔ないんだ」

その言い方。

少し傷ついた声。

私は初めて気づいた。

「あるなら見せてよ」

「……」

「ピンクのガラス玉くれるの」

律の身体が、

ほんの少し固くなった。

「何?」

「いや」

「今、反応した」

「してない」

「した!」

私は起き上がった。

「律」

「何」

「私、あなたの優しさが嫌い」

言った。

とうとう。

「大嫌い」

律の顔が動いた。

「何言っても怒らない。何してもいいって言う。私が誰かを好きになっても尊重するって言う。そんなの愛じゃない!」

「……」

「私はあなたに愛されてるのか分からない!」

声が震えた。

「嫉妬してほしい。嫌だって言ってほしい。私が面倒くさいなら面倒くさいって言ってほしい。今日だって、本当は何か不機嫌だったんでしょ!」

「茜」

「綺麗な答えいらない!」

涙が出た。

止めなかった。

「私だって綺麗じゃない。あなたが他の女と話してたら腹立つ。私より可愛い女見てたら嫌。あなたを試すようなことばっかり言ってる。私、面倒くさいよ。醜いよ。嫉妬深いよ!」

喉が痛い。

でも、

まだある。

もっと奥。

「それでも!」

息を吸う。

「あなたの中にも同じくらい汚いものがあるって思いたいの!」

言った瞬間、

自分の言葉の酷さに気づいた。

でも取り消さなかった。

「私だけ裸みたいなんだよ!」

そのとき、

律が起き上がった。

乱暴だった。

ベッドが揺れた。

「じゃあどうすればいいんだよ!」

声。

初めて聞いた。

律の大きな声。

私は動けなかった。

「怒れば満足!? 嫉妬すれば愛してることになる!? 束縛すればいいの!?」

「そういう意味じゃ」

「じゃあ何だよ!」

律の顔。

初めて、

崩れていた。

眉間。

歪んだ口。

濡れた目。

「僕だって怖いんだよ!」

私の胸が止まった。

「茜は、平気で人の中に入ってくる」

「……」

「映画の感想でも、人間関係でも、何でも『本当はどう思ってるの』って聞く。でも僕はそんなに立派な本音持ってない!」

息が乱れている。

「嫉妬するよ。腹も立つ。茜が他の男の話したら嫌だよ。でも言ったら嫌われると思った!」

「私に?」

「そうだよ!」

律の声が掠れた。

「小さい頃から、怒ったら嫌われるって思ってた。母親が機嫌悪くなると家の中めちゃくちゃだったから、僕は何でも『いいよ』って言えばいいって覚えたんだよ!」

私は何も言えない。

「誰かが怒ってたら謝る。欲しいものが違ったら譲る。相手に決めてもらう。そうすれば捨てられない!」

「律……」

「僕は優しいんじゃない!」

彼の目から涙が落ちた。

「怖いだけなんだよ!」

その瞬間、

私は、

胸の奥で何かが壊れる音を聞いた。

綺麗な律。

完璧な律。

優しい律。

全部、

剥がれた。

残ったのは、

泣いている二十歳の男だった。

みっともない。

怒っている。

自分勝手。

怯えている。

私を欲しがっている。

私に嫌われることを怖がっている。

そして私は、

その顔を見て、

どうしようもなく愛しいと思ってしまった。

「……最悪」

私が言うと、

律が笑いかけて、

泣いた。

「何が」

「あなた」

「うん」

「すごい面倒くさい」

「知ってる」

「知らなかったよ」

私は泣きながら笑った。

「今知った」


しばらくして、

律が机へ行った。

引き出しを開ける。

「何?」

「変な話していい?」

「今さら?」

彼が戻ってきた。

手の中に、

ピンク色のガラス玉。

私は、

息を止めた。

「……それ」

「子どもの頃の」

律が言う。

「何で?」

「ずっと持ってる。妹と遊んでたやつ」

私は掌へ乗せてもらった。

夢と同じ。

完全に同じかなんて分からない。

でも、

その瞬間の私には同じだった。

「嘘でしょ」

「何が」

私は説明した。

夢。

老婆。

ガラス玉。

顔のない男。

律は気味悪そうに笑った。

「それ、俺が聞くとホラーだよ」

「私も今そう思ってる」

ガラス玉は安物だった。

中に小さな気泡がある。

表面にも傷。

完璧ではない。

「何で捨てなかったの?」

律が肩をすくめた。

「分かんない」

その「分かんない」が、

妙に嬉しかった。

意味なんてなくていい。

何でも象徴にしなくていい。

人は理由なく何かを残す。

理由なく誰かを好きになる。

夢が全部を説明する必要もない。

私は律の手を握った。

「ねえ」

「何」

「私、間違ってた」

「何が」

「本音を言えば全部良くなるって思ってた」

律が見る。

「違うね」

本音は汚い。

本音を言えば、

傷つけることもある。

嫉妬。

苛立ち。

欲望。

不安。

全部さらけ出せば自動的に誠実になるわけではない。

「でも」

私は続けた。

「綺麗な嘘だけよりは、これから考えられる」

律は頷いた。

「怒ったら?」

「言って」

「嫉妬したら?」

「言って」

「茜が嫌なこと言ったら?」

「それも言って」

「喧嘩するよ」

「するでしょ」

「別れるかもしれない」

私は少し黙った。

「それは」

怖い。

でも。

「それでも、いい」

「いいの?」

「別れたいって意味じゃないよ」

私は彼の額を指で押した。

「関係を守るために本音を殺し続けたら、関係だけ残って中身が死ぬでしょ」

律は、

「建築でもある」

と言った。

「何が」

「外観だけ保存して、中身全部新しくするやつ」

「専門用語?」

「ファサード保存」

「じゃあ私たち、恋愛のファサード保存してたんだ」

二人で笑った。

夜は、

昨日よりずっと汚かった。

ティッシュが床に落ちていた。

水のコップに指紋。

枕は乱れている。

二人とも泣いて鼻が赤い。

何も美しくない。

それなのに、

私は初めて、

この部屋に人間が住んでいると思った。


第四章 明日も私の夢を壊して

次の夜。

私は最後の夢を見た。

紫色の渡り廊下。

同じ場所。

でも少し違う。

壁の絵が変わっている。

そこには、

昨夜の私たち。

泣いている。

怒鳴っている。

醜い顔。

律のシャツは皺だらけ。

私の髪も酷い。

絵の端には、

ピンクのガラス玉。

以前の絵より、

ずっと黄ばんで見えた。

色も濁っている。

でも私は、

その絵から目を離せなかった。

綺麗だったからではない。

私たちだったから。

廊下の奥から男が来る。

私は身構えなかった。

男には、

顔があった。

律だった。

ただし、

いつもの律ではない。

目は腫れている。

鼻も少し赤い。

髪も乱れている。

「ひどい顔」

私が言う。

律の顔をした男が答える。

「茜もね」

「喋れるんだ」

「顔あるから」

「関係ある?」

「夢だし」

私は笑った。

彼は私へピンクのガラス玉を差し出した。

でも今回は、

受け取らなかった。

「いらない」

律が首を傾げる。

「もう持ってるから」

私は自分のポケットから、

同じ玉を取り出した。

夢だから、

そんなこともできる。

二つのピンク。

同じに見えて、

少し色が違う。

「混ぜる?」

律が聞く。

「混ざらないでしょ。ガラスだし」

「じゃあどうする」

私は考えた。

「並べる」

床へ置く。

二つの玉。

触れている。

でも、

一つにはならない。

それでよかった。

愛とは、

溶けて一つになることではないのかもしれない。

黄ばんだ人間と、

黒ずんだ人間が、

互いを完全に洗浄することなく、

隣に置かれることなのかもしれない。

相手の汚れを愛する、

という言い方も、

少し違う。

傷つけることまで肯定する必要はない。

暴力を「本音」と呼んで許す必要もない。

嫌なものは嫌と言えばいい。

離れる自由も必要だ。

それでも。

相手の不完全さを見た瞬間、

理想から外れたからといって、

ただちに愛を撤回しない。

その猶予。

その余白。

その少し濁った時間。

私は、

そこに愛が住める気がした。

「律」

「何」

「明日も私の夢を壊して」

「夢の俺に言ってる?」

「現実のあなたにも」

「どうやって?」

「私が勝手に作った『あなたはこういう人』っていう幻想から、毎回はみ出して」

律は笑った。

「それ、結構大変だよ」

「私もやる」

「茜も?」

「うん。あなたの中の『茜ならこう思う』を壊す」

「迷惑」

「知ってる」

私は彼の手を取った。

夢の中なのに、

温度があった。

「おいで」

「どこへ」

「分かんない」

「道案内できてないじゃん」

「うるさい」

二人で、

渡り廊下を歩いた。

初めて、

足が動いた。


目が覚めた。

朝。

律の部屋。

カーテンの隙間から光。

私は一人だった。

一瞬、

不安になった。

そこへキッチンから物音。

律が戻ってきた。

寝癖。

Tシャツ。

マグカップ二つ。

「起きた?」

「うん」

「コーヒー」

受け取る。

一口。

「薄い」

律が眉をひそめた。

「朝一番に文句?」

「薄いものは薄い」

「茜って本当に感じ悪いよね」

私は目を丸くした。

それから笑った。

「今の、もう一回言って」

「嫌」

「録音したい」

「やめて」

「記念日だから」

「何の」

「律が私に感じ悪いって言った日」

「馬鹿じゃないの」

「それも初めて!」

律は本気で嫌そうな顔をした。

私は嬉しかった。

でも、

すぐに思い直した。

不機嫌なら何でもいいわけではない。

怒れば本物になるわけでもない。

大切なのは、

彼が私の反応を恐れて自分を消さないこと。

私もまた、

刺激が欲しいからと彼を傷つけないこと。

生々しさは、

傷つけ合う免許ではない。

むしろ、

傷つけてしまったときに、

「これは愛だから」

と美化せず、

ちゃんと見つめるためのものだ。

私はコーヒーを飲んだ。

やっぱり薄い。

でも、

昨日より美味しかった。


大学へ向かう途中、

私はふと思った。

映画は、

現実をそのまま映さない。

カメラを置いた瞬間、

世界にはフレームができる。

照明を当てれば影が変わる。

編集すれば時間まで変わる。

だから、

映像は嘘だ。

でも。

嘘だからこそ、

現実では見えなかったものを見せることがある。

夢も同じだ。

夢は私たちを美化した。

少しマシにした。

顔を消した。

老婆を出した。

ピンクのガラス玉に意味があるふりをした。

裸体と叫び声と紫色を混ぜ、

私の恋愛を安っぽいアート映画みたいに演出した。

でも、

その歪みがあったから、

私は現実を直視できた。

夢が真実だったのではない。

夢は、

真実を見るための角度だった。

そして最後には、

その角度すら壊さなければならない。

現実の人間は、

夢よりずっと退屈だ。

律は毎日劇的な秘密を告白するわけではない。

私は毎晩哲学的な本音をぶちまけるわけでもない。

洗濯物を干す。

LINEを既読無視する。

喧嘩する。

謝る。

面倒になる。

会いたくなる。

たぶん、

愛はそういうところで黄ばんでいく。

そして、

新品ではなくなる。

私は以前、

黄ばむことを劣化だと思っていた。

でも今は違う。

時間が触れた証拠でもある。

もちろん、

何でも残せばいいわけではない。

腐ったものは捨てるべきだし、

傷つけ続ける関係からは逃げていい。

でも、

新品ではなくなったという理由だけで、

愛を捨てる必要もない。

黒ずみの中には、

そこを何度も触った指の跡がある。

皺の中には、

何度も抱きしめた形が残る。

ピンクのガラス玉だって、

傷ひとつない新品より、

律が何年も引き出しにしまっていたあの玉のほうが、

私には綺麗だった。

理由は知らない。

そして、

理由が分からないものを、

分からないまま愛してもいい。

それも最近、

ようやく覚えた。

その日の夕方、

律からメッセージが来た。

《今日、会える?》

私は、

《会える》

と返した。

少し考えて、

もう一つ。

《ただしコーヒーは濃くして》

しばらくして、

《注文多い》

と返ってきた。

私は笑った。

画面の向こうに、

顔のある律がいた。

綺麗すぎない。

完璧でもない。

たぶん今後もっと面倒になる。

私も。

それでいい。

紫色の渡り廊下は、

もう夢に出てこない。

でも、ときどき思い出す。

もしまた私が律を、

「優しい彼氏」

「冷たい男」

「臆病な人」

そんな一枚の絵に閉じ込めそうになったら、

あの廊下へ戻ればいい。

壁の絵を見て、

笑えばいい。

現実の人間は、

どんな額縁からも少しずつはみ出す。

そのはみ出した部分にこそ、

たぶん、

私が愛したかったものがある。

だから律。

明日も、

私の都合のいい夢を壊して。

そして私も、

あなたの夢を壊す。

壊れたあとに残った二人が、

昨日より少し黄ばんで、

少し黒ずんで、

それでも今日のほうが愛しいと言えるなら。

私たちはきっと、

綺麗な恋人にはなれなくても、

本当に存在する二人にはなれる。

遠い雨に祝福を――忘れられた歌について

 



――硝子の街を離れ、始源の島へ

第一章 深夜十二時半のフライトと、耳底の太鼓

桐生葵は、音を聴かなくなって久しかった。

もちろん、耳が聞こえなくなったわけではない。むしろ逆だった。二十歳になった彼女の耳は、以前よりずっと多くのことを聞き分けられる。四十四・一キロヘルツで記録された音源と九十六キロヘルツのそれを比較し、高域の質感を言語化できた。スタジオの空調が発する六十ヘルツ付近の低い唸りを聞き取り、コンプレッサーがヴォーカルのアタックを何ミリ秒潰したかまで、おおよそ推測できる。都内の大学でサウンドデザインと音響工学を学ぶ彼女にとって、音は周波数であり、振幅であり、時間軸上に配置された情報だった。

だからこそ、音楽を聴いて泣けなくなった。

以前は違った。中学生の頃、安物のイヤフォンから流れてきたピアノの一音だけで、理由も分からず胸が痛くなることがあった。高校生の頃には、雨の音を録音するために窓を開け、制服の袖が濡れるのも忘れてマイクを外へ向けた。電車の走行音にまで「寂しい」と感じていた。けれど大学に入り、音響を体系的に学ぶほど、世界は解体されていった。泣きそうになる弦の響きは倍音構造になり、夕方の駅に漂う切なさは残響時間になり、恋人同士の囁きさえダイナミックレンジの狭い小さな波形としてモニターに表示された。

分かることが増えるほど、感じることが減った。

十二月の夜、葵は大学の防音スタジオで一人、巨大なディスプレイを見つめていた。画面には、録音した太鼓の波形が表示されている。講義の課題で使う民族打楽器のサンプルだった。彼女は低域を解析し、二つのピークへ印をつけた。ひとつは基音、ひとつは共鳴。クリック。拡大。数値。保存。

そのときだった。

どん。

葵は顔を上げた。

どん。

ヘッドフォンを外す。スタジオは完全防音だ。蛍光灯の微かな電源音以外、何も聞こえない。

どん。

今度は、胸の奥からだった。

心臓ではない。もっと深い。耳で聞いているのでもない。身体のどこか、まだ名前のついていない場所で、誰かが太鼓を叩いているようだった。

葵は机へ手をついた。

「……また」

最近、ときどき聞こえる。疲れているのだと思っていた。けれど、その音は不思議なくらい怖くなかった。むしろ懐かしかった。行ったことのない土地の音なのに、幼い頃から知っていたような気がする。

どん。

戻っておいで。

そう言われている気がした。

葵は苦笑した。ひどく非科学的だ。脳疲労か、耳鳴りか、ストレス性の錯覚か。いくらでも説明候補はある。彼女はそれらを頭の中へ並べ、それから、そのどれにも安心できない自分に気づいた。

怖かった。

音が聞こえることではない。

自分が、音を「説明すること」でしか受け止められなくなっていることが。

大学一年の夏、親友から失恋したと電話がかかってきた。泣きじゃくる声を三十分聞きながら、葵は心の片隅で「通話音声は帯域が狭いから、泣き声の高域成分がかなり失われる」と考えていた。それに気づいた瞬間、自分が恐ろしくなった。目の前の人間より波形を見ている。悲しみより現象を見ている。なのに、それを止められない。

私は、何になってしまったんだろう。

それ以来、その問いは葵の内部で小さな空洞を広げ続けていた。

その夜、スタジオを出たところで、スマートフォンが震えた。

《着いた。0:30。羽田。》

送り主は、逢坂朔。

葵はその名前をしばらく眺めた。

朔とは小学生の頃、一度だけ会ったことがある。母方の祖父の故郷である南方の島へ家族旅行したとき、浜辺で一緒に遊んだ少年。記憶に残っているのは、彼がよく笑う子だったことと、妙に静かなところがあったこと。そして、拾った貝殻を耳に当てて「海は中にいるんじゃなくて、君の耳が思い出してるんだよ」と言ったこと。

十二歳の少年にしては妙な言い方だった。

八年ぶりに連絡をくれた理由は、数日前に届いた短いメールに書かれていた。

《祖父の楽器を直したい。君に手伝ってほしい。》

深夜十二時半の羽田空港は、昼間より巨大に感じられた。人が減ると建築物は本来の大きさを取り戻す。天井の照明、長い動く歩道、ガラス越しに見える滑走路。葵は到着口の前に立ち、出てくる人々を眺めていた。

やがて、一人の青年が現れた。

逢坂朔は、写真で見たより背が高かった。黒いコートに、使い込まれた帆布のバッグ。右手には、細長い木製のケースを抱えている。表面には無数の傷があり、金具には青錆が浮いていた。

「久しぶり」

朔は言った。

「八年ぶりに言うには普通すぎない?」

「じゃあ、ただいま」

「ここ、あなたの家じゃないでしょ」

「葵がいるから」

あまりにも自然に言うので、返事に困った。

二人は空港内のカフェへ入った。朔はケースを椅子の横に置いた。

「それ?」

「うん」

「楽器?」

「たぶん」

「たぶん?」

朔が笑った。

「音が出ないから、もう楽器って呼んでいいのか分からない」

ケースを開く。

中に入っていたのは、葵の知らない形の弦楽器だった。胴は細長く、木目が深い。弦は四本。共鳴胴にはひびがあり、駒も欠けている。

「島では、雨の木って呼んでる木で作る」

「樹種名は?」

「さあ」

「さあって」

「島の呼び方しか知らない」

葵は楽器を持ち上げた。軽い。乾燥しすぎている。側板の接着も浮いている。彼女はスマートフォンを出し、録音アプリを開いた。

朔がその手を見た。

「何するの」

「まずタップトーン。共鳴の傾向を見る」

葵は指で胴を軽く叩いた。

こん。

乾いた音。

もう一度。

こん。

その瞬間。

どん。

耳の奥の太鼓。

葵の指が止まった。

朔が言った。

「聞こえた?」

「……何が」

「太鼓」

葵は顔を上げた。

「なんで知ってるの」

朔は答えず、窓の向こうを見た。滑走路に航空機が止まっている。月明かりが翼の上で白く光っていた。

「島に帰ろう」

「誰が?」

「葵が」

「私は東京に住んでるんだけど」

「だから」

朔は淡々と言った。

「帰る場所って、住所のことじゃないよ」

葵は笑おうとした。

笑えなかった。

「私、今、自分が嫌いなの」

ぽつりと出た。

朔は黙っている。

「何を聞いても分析する。誰かが泣いてても、その声の音質を考える。昔はもっと……何ていうか、くだらないことで泣けた。空が綺麗とか、歌が寂しいとか。それが今は全部、構造に見える」

「うん」

「私、冷たくなった」

「うん」

「怖いんだよ」

初めて、その言葉を人に言った。

「自分が、どんな人間になってるのか」

朔はしばらく何も言わなかった。そして楽器ケースを閉じた。

「じゃあ確かめに行こう」

「何を」

「本当に冷たくなったのか」

「どうやって」

「雨に濡れれば分かるかも」

「適当すぎない?」

「島は雨、多いよ」

葵は呆れた。

それでも、二日後。

大学へ休学届を出すほど大げさなことはせず、冬季休暇を利用する形で、彼女は朔と南へ向かう飛行機に乗った。

スマートフォンの電源を切ったのは、離陸のためだけではなかった。

一度、世界から切り離されてみたかった。

そして、もし本当に自分の中に帰る場所があるのなら、そこへ向かってみたかった。


第二章 忘れられた旋律

島の雨は、東京の雨とは違っていた。

東京の雨は屋根やアスファルトや傘に当たり、都市の表面を滑って排水口へ消える。島の雨は、森へ吸い込まれていった。葉を打ち、幹を伝い、土へ入り、川へ流れ、また霧になって山へ戻る。降るというより、島全体が雨を呼吸しているようだった。

空港から古いバスに揺られて二時間。さらに軽トラックの荷台。最後は徒歩。たどり着いた集落は、地図上では一つの点にしか見えない場所だった。

古条老人の工房は森の縁にあった。杉板張りの小屋。軒先には乾燥中の木材が積まれ、内部には工具と楽器がぎっしり並んでいる。大小さまざまな弦楽器。太鼓。笛。名前の分からないもの。

古条は、七十代後半に見えた。白髪。細い身体。手だけが異様に厚い。

朔がケースを置く。

「じいちゃんの」

古条は開けた。

楽器を触る。

指先で木を撫でる。

叩く。

耳を近づける。

葵はその一連の動作を見ていた。

「修復できますか」

古条は答えない。

「材の含水率を測って、共鳴特性を」

葵はノートパソコンを開いた。

古条の手が伸びた。

ぱたん。

画面を閉じられた。

「ちょっと」

「うるさい」

「まだ何も鳴らしてません」

「お前の頭がうるさい」

葵は眉をひそめた。

「分析しないでどうやって直すんですか」

「分析するなとは言ってない」

「じゃあ」

「順番が逆だ」

古条は楽器を持ち上げた。

「お前は木を聞く前に、木を説明しようとする」

「説明できるものは説明したほうが」

「雨を説明して濡れなくて済むなら、そうすりゃいい」

葵は黙った。

古条は彼女の顔を見た。

「都会で何を置いてきた」

「何も」

「じゃあ何でそんな顔してる」

腹が立った。

初対面の老人に何が分かる。

「私は音響を勉強してるんです。感覚だけで修理するより」

「感覚だけでやれとも言ってない」

老人は笑った。

「数字は便利だ。だが数字は木じゃない。波形は音じゃない。お前が記録した泣き声は、泣いている人間じゃない」

葵の身体が固まった。

「……朔、何か言った?」

「何も」

朔は壁際にいる。

古条が言った。

「顔に書いてある」

葵は立ち上がった。

「帰ります」

「どこへ」

「宿」

「都会へじゃないのか」

「……」

老人は工房の裏手を指した。

山。

雲に隠れた巨大な影。

「登ってこい」

「は?」

「明日」

「何のために」

「知らん」

「知らないって」

「お前が知るんだろ」

葵は心底腹が立った。

しかし翌朝、登山靴を履いていた。

自分でも馬鹿だと思う。

山へ入る道で、朔はほとんど話さなかった。

濡れた木の根。シダ。巨大な葉。鳥。虫。沢。東京では絶対に聞けないほど複雑な音が、四方から押し寄せる。

葵は最初、それらを分類した。

右手の沢、おそらく二百ヘルツ付近に主成分。頭上の鳥は三キロから五キロ。葉を叩く雨は広帯域ノイズ。

途中で、疲れた。

分類しきれない。

音が多すぎる。

「あのさ」

葵が言った。

「島の人って、これ全部聞き分けてるの?」

朔が笑った。

「聞き分けない」

「じゃあどう聞くの」

「一緒に聞く」

葵は意味が分からなかった。

「音って分けないと」

「分けてもいい。でも最後は戻さないと」

「どこに」

「世界に」

その答えが少し嫌だった。

詩的すぎる。

でも、どこかで覚えていた。

中学生の頃の自分なら、そういう言葉を好きだった気がする。

山腹の小さな祠で休憩したとき、古い石碑があった。文字はほとんど摩耗して読めない。

「何て書いてあるの」

「歌」

朔が言った。

「昔の雨乞い?」

「それもあるし、送り歌でもあるらしい」

「歌詞は?」

「分からない」

「誰も?」

「古条さんなら一部知ってるかも」

「忘れられたの?」

「うん」

葵は石碑を撫でた。

旋律だけが残り、言葉が失われる。

意味だけが失われる。

それでも人は、なぜか歌う。

その構造が、自分自身に似ていると思った。

私は音を知っている。

でも、

音を好きだった理由を失っている。

その夜、山小屋の外で犬の遠吠えが聞こえた。

一匹。

しばらくして、遠くからもう一匹。

そしてまた別の方向から。

葵は眠れず、外へ出た。

朔が岩に座っていた。

「寝ないの?」

「葵も」

「犬?」

「うん」

また遠吠え。

寂しそう、と葵は思った。

すぐに、その言葉を打ち消そうとした。

動物の鳴き声へ人間の感情を投影しているだけ。

でも、やめた。

今日は、それでいいと思った。

「寂しいんだね」

朔が言う。

「科学的には分かんないけど」

「科学的じゃないと寂しがっちゃ駄目?」

葵は少し笑った。

「あなた、古条さんに似てきた」

「嫌だな」

「失礼」

夜の山。

木々。

遠吠え。

葵は自分の胸へ手を置いた。

どん。

耳底の太鼓。

今度は、犬の声と重なった。

自分もずっと、仲間を呼んでいたのかもしれない。

誰にも聞かれない場所で。


第三章 雨に祝福される

翌日の午後、天候が崩れた。

山頂まではあと二時間ほどと聞いていた。空は午前中から鉛色だったが、島の天気は変わりやすいと朔は言っていた。最初は霧雨だった。それが十分もしないうちに、視界を白く潰すほどの豪雨へ変わった。

レインウェアを着ても意味がない。

雨は首から入った。袖から入った。靴の中へ入り、髪から顔を流れた。風まで強くなる。

「戻る?」

朔が叫ぶ。

葵は返事をしようとした。

その瞬間、雷。

轟音。

身体が縮む。

世界全部が震えた。

道は泥になっている。

葵は滑った。

膝をつく。

手のひらが土へ沈む。

「葵!」

朔が戻ってくる。

「大丈夫?」

「……大丈夫」

立とうとする。

また滑る。

「もう嫌」

思わず口に出た。

「何?」

「もう嫌!」

雨音に負けないように叫んだ。

「何でこんなことしてるの!」

朔が黙る。

「山登ったら何が分かるの? 雨に濡れたら人間に戻るの? 木を触ったら優しくなれるの? そんなわけないじゃん!」

息が苦しい。

「私が冷たいのは、都会のせいじゃない! 大学のせいでも、パソコンのせいでもない! 私がそうなったの!」

朔は何も言わない。

「人が泣いてても何も感じないときがある。友達が辛いって言ってても、面倒だって思うときもある。誰かが死んだニュースを見ても、すぐ別の動画を見る。そんな自分がいる!」

雨。

涙かどうか分からない。

「ずっと怖かった」

声が震えた。

「私、もともとこういう人間だったんじゃないかって」

朔が一歩近づく。

「優しいふりしてただけで、本当は誰のことも大事じゃないんじゃないかって」

「葵」

「来ないで」

「うん」

朔は止まった。

その距離がありがたかった。

「私、自分が怖い」

やっと言えた。

「自分が何になってしまったのか、分からない」

それまで押さえていた何かが、崩れた。

葵は両手で顔を覆った。

泣いた。

声を上げて。

子どものように。

雨の中で泣くと、自分の涙がどこまでなのか分からない。空から落ちてくる水と、自分の内側から出てくる水が混ざる。

しばらくして、

肩へ腕が回った。

朔だった。

葵は抵抗しなかった。

彼の胸へ額を押し当てる。

鼓動。

どん。

どん。

耳底の太鼓と同じ速さではない。

でも、

生きた音だった。

「怖いなら」

朔が言った。

「まだ大丈夫だよ」

「何が」

「本当に何も感じないなら、自分が冷たいことを怖がらない」

葵は泣きながら首を振る。

「そんなの慰め」

「うん」

「根拠ない」

「うん」

「適当」

「うん」

「……馬鹿」

「それも」

葵は少し笑った。

その瞬間。

雨が、

冷たいと感じた。

今までずっと雨は「降水」だった。

スペクトル。

ノイズ。

環境音。

でも今は、

冷たい。

肌に当たる。

頬を滑る。

唇へ入る。

土の匂い。

朔のコートの濡れた布。

自分の指。

全部。

葵は顔を上げた。

雨を避けなかった。

目を閉じる。

空へ向く。

降ってくる。

無数に。

世界から。

「寒い」

「うん」

「すごく寒い」

「下りる?」

葵は首を振った。

「もう少し」

彼女は両腕を広げた。

何かを受け取るように。

雨は彼女だけのために降っているわけではない。

山にも。

木にも。

犬にも。

海にも。

朔にも。

知らない誰かにも。

世界は、自分の苦しみに関係なく降り続ける。

それが不思議と救いだった。

私が泣いていても、

世界は世界でいてくれる。

私の感情に合わせて、

空まで壊れる必要はない。

その大きさの中なら、

自分の醜さも、

弱さも、

抱えてもらえる気がした。

葵は小さく言った。

「ありがとう」

「誰に?」

朔が聞く。

葵は笑った。

「知らない」

雨に。

山に。

生きていることに。

あるいは、

まだ自分が何者になるのか決まり切っていないことに。

その全部へ。

夜明け前。

二人は山頂近くの避難小屋へ着いた。

雨は止んでいた。

朝。

雲海。

その上に太陽。

葵は言葉を失った。

分析しようとしなかった。

ただ見た。

それができたことが、

何より嬉しかった。


第四章 時間をかけて、音になる

麓へ戻った葵を見て、古条老人は何も言わなかった。

「何ですか」

「別に」

「何か言いたそう」

「うるさい顔が少し静かになった」

葵は睨んだ。

老人は楽器を差し出した。

「やるぞ」

今度はパソコンを開かなかった。

まず木を触った。

表面。

ひび。

重量。

匂い。

指で叩く。

こん。

前より、

少し違って聞こえた。

数値が頭に浮かばなかったわけではない。

でも、

それだけではなかった。

「ここ」

古条が指を置く。

「薄い」

葵も触る。

「分からない」

「なら百回触れ」

「そんな」

「千回でもいい」

修復は遅かった。

木を削る。

合わせる。

失敗する。

削りすぎる。

やり直す。

接着。

乾燥。

弦。

張力。

駒。

葵は何度も、

計測器を使いたくなった。

古条は別に禁止しなかった。

だから途中から使った。

周波数解析もした。

含水率も測った。

ただ、

数字を最後の答えにしなかった。

木に触れた。

耳で聞いた。

朔にも弾かせた。

古条にも聞いた。

自分の指にも尋ねた。

工学と感覚。

どちらかではない。

両方。

それが、

今の自分にはしっくりきた。

一週間後。

楽器は完成した。

完全ではない。

古いひびは残っている。

新しい補修材の色も、

古い木とは少し違う。

でも、

音が出た。

朔が最初の一音を弾いた。

低く、

温かい音。

部屋の空気が震えた。

葵は、

泣かなかった。

その代わり、

笑った。

「いい音」

それだけ言った。

「解析する?」

朔が笑う。

「あとで」

「するんだ」

「するよ。私、音響やってるんだから」

古条が鼻で笑った。

「それでいい」

葵は少し驚いた。

「数字で木を測るなって言ったじゃないですか」

「数字だけで、と言った」

「言ってない」

「そういう意味だ」

「ずるい老人」

「都会の娘に言われたくない」

工房に笑い声が広がった。

その瞬間、

葵は気づいた。

自分が帰ってきたのは、

「昔の自分」ではない。

感情だけで生きていた少女へ戻ったわけではない。

音響工学を捨てたわけでもない。

都会を否定したわけでもない。

知識を持ったまま、もう一度感じられる場所へ来た。

それは回帰ではなく、

螺旋だった。

同じ場所へ戻ったように見えて、

少し違う高さへ来ている。

島を出る前夜。

海岸。

雨上がり。

遠くで太鼓。

祭りの練習らしい。

どん。

どん。

今度は耳で聞こえる。

朔が隣に座っている。

葵は言った。

「東京戻ったら、また冷たくなるかもしれない」

「なるかもね」

「否定してよ」

「嘘になる」

「ほんと、そういうとこ嫌い」

「知ってる」

「人の話、面倒になる日もあると思う」

「あるよ」

「また何でも分析するかも」

「それは仕事だし」

「じゃあ私、変わってないじゃん」

朔は少し考えた。

「変わるって、別の人になること?」

葵は黙る。

「葵は葵のままで、選び方が増えたんじゃない」

「選び方」

「分析することもできる。感じることもできる。離れることも、近づくことも」

海。

月。

濡れた砂。

「それで十分じゃない?」

葵はしばらく波を見た。

「時間、かかるね」

「うん」

「自分に戻るの」

朔が言った。

「戻るんじゃないかも」

「じゃあ?」

「作る」

葵は笑った。

「それ、音みたい」

「何が」

「録音って、元の音をそのまま保存してるように見えるけど、本当はマイクも空間も機材も全部通って、別のものになる」

「うん」

「それでも、嘘じゃない」

「うん」

葵は楽器ケースへ手を置いた。

「私もそうなのかな」

朔は答えなかった。

答えなくてよかった。

東京へ戻る朝。

空港。

朔は島に残る。

葵は一人で搭乗口へ向かう。

別れ際、

彼女は振り返った。

「朔」

「ん」

「もし百人くらいで私を連れ戻しに来ても」

「何それ」

「私はもう、この音から離れない」

朔は笑った。

「僕からは?」

葵は少し考えた。

「それは……今後の態度次第」

「厳しい」

「でも」

彼女は戻って、

朔の手を握った。

「ありがとう」

「うん」

手の温度。

雨の匂い。

木の感触。

太鼓。

山。

遠吠え。

朝日。

全部が、

彼女の中にある。

飛行機へ乗る。

窓際。

翼。

月ではなく、

朝日が反射している。

離陸。

島が小さくなる。

葵はイヤフォンを耳へ入れた。

録音しておいた雨の音を再生する。

最初、

無意識にスペクトルを想像した。

高域。

低域。

残響。

そして、

笑った。

それから目を閉じた。

ただ聞いた。

雨。

遠い雨。

世界のどこかで、

今も降っている。

自分とは無関係に。

そして、

自分を含むすべてのものへ。

そのことが、

たまらなく愛おしかった。


エピローグ 遠い雨に祝福を

半年後。

大学のスタジオ。

葵は新しい作品を制作していた。

タイトルは、

『Bless the Distant Rain』

音源には、

島で録音した雨。

野犬の遠吠え。

古い楽器。

東京の地下鉄。

信号機。

大学の空調。

友人の笑い声。

自分の呼吸。

全部を入れた。

以前の彼女なら、

異なる音を整理し、

不要なノイズを削り、

完璧なミックスへ近づけただろう。

今は、

少し残した。

ざらつき。

息。

雨の不規則さ。

弦の僅かなビビり。

人間が触った跡。

教授が試聴し、

「ここ、ノイズ残ってるよ」

と言った。

葵は答えた。

「はい」

「消さないの?」

「残します」

「意図的?」

「はい」

教授は少し笑った。

「ならいい」

それだけ。

葵も笑った。

正解ではない。

でも、

自分で選んだ。

夜。

スタジオを出る。

雨。

東京の雨。

アスファルト。

車。

傘。

コンビニ。

ネオン。

以前なら、

島の雨とは違うと思った。

今は、

違っていていいと思う。

東京の雨も、

雨だ。

葵は傘を閉じた。

少しだけ。

濡れる。

冷たい。

笑う。

通行人が怪訝そうに見る。

どうでもいい。

スマートフォンが鳴った。

朔。

《雨降ってる?》

葵は返信する。

《うん》

少し考えて。

《こっちの雨も、悪くない》

送信。

そして、

空を見上げた。

自分が何者なのか、

今も完全には分からない。

優しい人間なのか。

冷たい人間なのか。

どちらでもあるのかもしれない。

人間は、

そんな一語では測れない。

傷つきたくない日もある。

誰かの涙を面倒だと思う日もある。

それでも、

次の瞬間、

手を伸ばせることもある。

その可能性まで、

自分から奪わなくていい。

自己とは、

発見するものではなく、

時間をかけて作り続けるものなのだ。

葵はようやく、

それを少しだけ信じられるようになった。

雨が頬を流れる。

涙ではない。

でも、

涙と区別する必要もない。

遠い島にも、

ここにも、

同じ空から水が落ちてくる。

乾いた土へ。

木へ。

街へ。

そして、

まだ完成していない人間の上へ。

葵は小さく呟いた。

「祝福を」

誰にともなく。

雨に。

朔に。

冷たかった自分に。

これから変わっていく自分に。

そして、

何度乾いても、

また濡れることのできる世界に。

彼女は傘を開き直し、東京の光の中へ歩いていった。

もう始源の島へ逃げ帰る必要はなかった。

雨は、

彼女の内側にも降り始めていた。

台座の上の英雄

 



第一章 神殿のガラスと、ファインダーの傷

私には、世界と直接触れ合わないための方法がある。

右手でカメラを持つ。

左手でレンズを支える。

人差し指をシャッターへ置く。

右目をファインダーへ押し当てる。

それだけで世界は、縦二十四ミリ、横三十六ミリ程度の安全な四角形になる。

泣いている人も。

怒っている人も。

殴られている人も。

自分を必要としている人も。

全部、

「被写体」

になる。

被写体なら、助けなくていい。

露出を合わせればいい。

ピントを合わせればいい。

構図を決めればいい。

世界がどれだけ醜くても、ファインダーの中なら私は観客でいられた。

それが、

佐倉結衣、十六歳。

私立聖華学園高等部二年。

写真部。

そして、

たぶん、

卑怯者。

聖華学園には神様がいる。

もちろん、宗教上の話ではない。

校内で彼女の名前を出せば、誰もが同じ顔をする。

少し誇らしそうに。

少し安心したように。

「鳳条先輩がいるから大丈夫」

生徒会長。

剣道部主将。

学年主席。

鳳条冴。

十八歳。

黒髪は腰近くまで真っ直ぐ伸びている。

制服の襟はいつも正しい位置。

歩き方に無駄がない。

声を荒らげない。

なのに誰も逆らえない。

昨年、教師が黙認していた部活動内のいじめを内部調査し、学校法人まで動かした。

その前は、女子生徒だけに不利だった服装規定を改定させた。

さらに前には、生徒会予算の不透明な流用を突き止めた。

誰かが困れば現れる。

誰かが泣けば手を差し出す。

理不尽なものがあれば立ち向かう。

だから人々は彼女を呼んだ。

「台座の上の英雄」

最初にそう書いたのは校内新聞だったらしい。

それから言葉は一人歩きした。

冴先輩なら大丈夫。

冴先輩なら負けない。

冴先輩は折れない。

冴先輩は正しい。

冴先輩は。

冴先輩は。

冴先輩は。

気づけば、

人間一人が持つにはあまりにも多すぎる文章が、

彼女の肩に積まれていた。

当時の私は、

その文章を疑わなかった。

むしろ、

喜んで一つ加えていた。

鳳条冴は、私とは違う。

写真部では、文化祭用の企画として、

『聖華をつくる人々』

という写真展を準備していた。

教師。

用務員。

生徒。

部活動。

購買のおばさん。

そして当然、

鳳条冴。

私は彼女の撮影担当になった。

理由は単純。

写真部で一番人物撮影が上手いから。

「佐倉さん」

初めてカメラを向けた日。

冴先輩は、生徒会室の窓際に立っていた。

夕日。

黒髪。

白いシャツ。

完璧だった。

「もう少し左を向いてもらえますか」

「こう?」

「はい」

シャッター。

カシャ。

「少し笑ってください」

冴先輩は笑った。

カシャ。

完璧な笑顔。

誰に見せても、

「鳳条冴らしい」

と言うだろう。

なのに私は、

カメラを下ろした。

「どうしたの?」

「いえ」

何かがおかしい。

写真には、

人が隠しているものが写ることがある。

まばたきの直前。

口角が落ちる一瞬。

視線が逃げる方向。

私はそういうものを拾うのが好きだった。

冴先輩には、

それがない。

何もないのではない。

何も漏らさない。

「続けます」

「ええ」

カシャ。

その日、

二百八十三枚撮った。

家に帰ってモニターへ並べる。

全部きれいだった。

そして、

全部、

少し怖かった。

私は昔、

写真なんて撮らなかった。

中学二年生の頃。

親友がいた。

水瀬莉子。

明るくて、

少し空気が読めなくて、

だからクラスの中では浮いていた。

最初は、

筆箱を隠される程度だった。

次は上履き。

次は机。

笑い。

無視。

SNS。

私は知っていた。

全部。

知っていて、

何もしなかった。

怖かった。

次は自分かもしれない。

だから、

莉子の横に座らなくなった。

メッセージの返信を遅らせた。

「ごめん、今日は用事ある」

と嘘をついた。

最後に莉子から来たメッセージは、

短かった。

《結衣も、私のこと嫌いになった?》

返せなかった。

翌月、

莉子は転校した。

それから私は、

人間の顔を見るのが怖くなった。

カメラを始めたのはその頃だ。

レンズ越しなら、

近づかなくても、

見ているふりができる。

私は、

世界の観客になった。

冴先輩の「本当の写真」を撮ったのは、

六月の雨の日だった。

旧校舎。

礼拝堂。

聖華学園は、戦前に設立されたミッション系女学校を母体としている。

今では形式的な礼拝しか行われない古い石造りの礼拝堂が、

旧校舎の奥に残されていた。

私は雨を撮りに行っていた。

ステンドグラス。

濡れた石畳。

曇天。

いい写真が撮れそうだった。

中から、

音がした。

ゴッ。

ゴッ。

何かを叩く音。

私は扉を開けた。

薄暗い礼拝堂。

祭壇。

その前。

冴先輩がいた。

最初、

何をしているのか分からなかった。

右手。

石の縁。

拳。

ゴッ。

「先輩……?」

冴先輩の身体が止まった。

振り返る。

右手には傷があった。

赤い。

私は息を呑んだ。

「何してるんですか」

「……佐倉さん」

冴先輩は、

いつもの笑顔を作ろうとした。

失敗した。

その瞬間だけ、

私は初めて彼女の年齢を見た。

十八歳。

ただの。

疲れ切った少女。

「見なかったことにして」

声が掠れている。

「できません」

「できるわ」

「血が」

「たいしたことない」

私は一歩近づく。

冴先輩は下がった。

まるで、

私のほうが危険なもののように。

「来ないで」

「保健室へ」

「必要ない」

「必要あります」

「佐倉さん!」

声が響いた。

礼拝堂。

ステンドグラス。

聖人の像。

その中央で、

英雄が震えていた。

「私は」

冴先輩は胸を押さえた。

呼吸が浅い。

「もっと正しくならなきゃいけないの」

「……何を言ってるんですか」

「まだ足りない」

「何が」

「全部」

彼女は、

笑った。

壊れた笑いだった。

「私がもっとちゃんとしていれば、誰も傷つかない」

私はカメラを持っていた。

癖で。

指がシャッターへ動いた。

でも、

押せなかった。

ファインダーを覗けば、

この光景も安全な四角形になる。

私はそれを知っていた。

だから、

カメラを下ろした。

初めて。

世界を、

裸眼で見た。

冴先輩は泣いていなかった。

泣くことさえ、

許していないように見えた。

そして私は思った。

この人は、

英雄なのではない。

英雄という言葉の中に、

閉じ込められている。


第二章 正義という名の牢獄

「頼みがある」

翌日。

屋上。

私を呼び出したのは、

一ノ瀬蓮先輩だった。

鳳条冴の幼馴染。

同じ三年生。

ぱっと見は冴先輩とは正反対。

ネクタイは緩い。

髪も少し長い。

生徒会にも部活にも所属していない。

でも、

冴先輩の話になると目だけが真剣になる。

「何ですか」

「冴を」

彼は言った。

「台座から引きずり下ろしてくれ」

私は意味が分からず、

しばらく黙った。

「それ、幼馴染が言う言葉ですか」

「幼馴染だから言ってる」

蓮先輩はフェンスに背中を預けた。

「このままじゃあいつ、壊れる」

「昨日のこと、知ってるんですね」

「昔からだ」

風。

校庭。

部活の掛け声。

「冴には妹がいた」

蓮先輩が言った。

七歳下。

名前は美羽。

冴が十歳の夏。

近所の川。

妹が水際へ行った。

冴は、

ほんの少し目を離した。

事故だった。

大人たちは言った。

冴のせいではない。

子どもだった。

誰にも防げなかった。

でも。

十歳の冴だけは、

それを認めなかった。

「私が見ていれば」

それが、

彼女の世界の中心になった。

誰かが怪我すると、

自分が気づかなかったから。

誰かが泣くと、

自分がもっと早く動かなかったから。

誰かが傷つくたび、

十歳の夏へ戻る。

「それで」

蓮先輩は吐き捨てるように言った。

「正しい人間になろうとした」

勉強。

剣道。

生徒会。

規則。

倫理。

誰かを守る。

誰かを救う。

一度も間違えない。

誰も見捨てない。

「そんなの無理です」

私が言った。

「そうだよ」

「じゃあ先輩が言えば」

「言った」

蓮先輩は笑った。

「百回くらい」

「……」

「でも俺の言葉は、もう届かない」

「どうして」

「幼馴染だから」

それが答えになるのか、

私には分からなかった。

「俺は冴の過去を知りすぎてる。あいつからすると、俺が『休め』って言うのは、『美羽を忘れろ』に聞こえるんだと思う」

蓮先輩は私を見る。

「だから」

「私なら?」

「お前は冴の現在を撮ってる」

私はカメラを握った。

「写真部だからって、人を救えるわけじゃ」

「救わなくていい」

即答だった。

「え」

「冴が一番壊れた理由、たぶんそれだから」

彼は空を見る。

「誰か一人が誰かを救い切れるって思ったこと」

その言葉が、

胸の奥に刺さった。

数日後。

冴先輩に関する噂が出た。

《生徒会会計を私的流用》

《推薦枠を不正に操作》

《教師への圧力》

最初は匿名投稿。

次にスクリーンショット。

次に「内部資料」。

よくできていた。

写真部の私は、

画像を見るのが仕事だ。

違和感に気づいた。

フォント。

圧縮ノイズ。

影。

時刻表示。

どこかがおかしい。

でも決定的ではない。

噂の中心にいたのは、

昨年の生徒会執行部から外された元役員たちだった。

冴先輩が不正を指摘したことで処分された生徒。

報復。

たぶん。

「先輩、これ偽物じゃ」

私は生徒会室へ行った。

冴先輩は机に座っていた。

顔色が悪い。

「知ってる」

「え」

「偽物よ」

「なら反論してください」

「しない」

「何で」

「もういいから」

「何がいいんですか」

冴先輩は静かに書類を閉じた。

「文化祭の開会式で、辞任を発表する」

「辞任?」

「それから」

わずかに間。

「退学届を出す」

「は?」

声が出た。

「何言ってるんですか」

「責任を取るの」

「何の!」

「全部」

また。

全部。

礼拝堂と同じ言葉。

「やってないことまで?」

「それで収まるなら」

「収まるわけないでしょう!」

「佐倉さん」

彼女は笑った。

完璧な笑顔。

「私はね」

静かな声。

「そういう役なの」

「役?」

「誰かが責任を取らなきゃいけない」

「だからって」

「私なら耐えられる」

私は、

その言葉で分かった。

違う。

この人は耐えようとしているのではない。

罰されようとしている。

「先輩」

「なに」

「死にたいんですか」

冴先輩の瞳が動いた。

私は自分でも驚いた。

言ってはいけない言葉だったかもしれない。

でも、

目を逸らしたくなかった。

「私は」

冴先輩は長く黙った。

「そんなこと言ってない」

確かに。

でも、

自分を壊す方向へ歩いている。

その事実は変わらない。

「あなたは」

私は言った。

「正義のために生きたいんじゃなくて、正義のために消えたいんじゃないですか」

初めて、

冴先輩が私を睨んだ。

「帰って」

「先輩」

「帰って!」

机が震えるほどの声。

私は動けなかった。

でも、

最後には出ていった。

廊下へ。

扉が閉じる。

そして。

私はまた、

何もできなかった。

中学二年生。

莉子。

《結衣も、私のこと嫌いになった?》

未返信。

その画面が蘇る。

足が止まる。

「まただ」

呟いた。

私はまた、

誰かが壊れていく前で、

立っているだけ。

ファインダー。

観客席。

安全圏。

逃げるための距離。

自分には救う資格がない。

だから、

助けなくていい。

ずっとそう思っていた。

でも。

突然、

別の問いが浮かんだ。

救う資格って何だ?

誰が発行するんだ。

どこでもらえる。

失敗した人には二度と与えられないのか。

一度逃げた人間は、

永遠に逃げ続けなければならないのか。

私は、

写真部室へ走った。


第三章 未来の私を起こすもの

パソコンを開く。

外付けSSD。

フォルダ。

《鳳条冴》

二千四百六十一枚。

私は、

全部見た。

最初の生徒会室。

剣道場。

校門。

廊下。

文化祭準備。

笑顔。

横顔。

演説。

握手。

そして、

誰にも見せる予定のなかった写真。

夕方、

生徒会室で眠ってしまった冴先輩。

誰もいない廊下で、

壁に手をついて息を整えている姿。

包帯。

コンビニのおにぎりを、

一口だけ食べて残した日。

他人の相談を聞いたあと、

一人になった瞬間だけ目を閉じた顔。

全部。

神ではなかった。

十八歳。

疲れていた。

怖かった。

それでも、

誰かの前では笑った。

私は写真を見ながら、

泣いていた。

そして、

気づいた。

私は、

冴先輩を憧れていたのではない。

使っていた。

「鳳条冴は特別な人間だからできる」

そう思えば、

自分が動かない理由になる。

「私は英雄じゃないから」

そう言えば、

また莉子を見捨てた自分を、

永遠に固定できる。

卑怯者。

観客。

それで完成。

変わらなくていい。

「最低だ」

声が震える。

先輩を台座に載せたのは、

学校だけじゃない。

私も。

上から光が当たる場所へ押し上げて、

「眩しいなあ」と見ていた。

その台座には、

階段がなかった。

降りたら、

失望される。

泣いたら、

神話が壊れる。

休んだら、

誰かが傷つく。

だから先輩は、

上で死のうとしている。

「そんなの」

私はカメラを握った。

「絶対、おかしい」

でも。

何ができる。

私は十六歳。

写真部。

権力もない。

剣道もできない。

生徒会でもない。

英雄ではない。

そこで、

ふと笑った。

「まだ言ってる」

英雄じゃないから。

英雄じゃないから。

英雄じゃないから。

なら、

英雄にならなくていい。

一人を全部救えなくていい。

世界も。

学校も。

冴先輩の過去も。

救えない。

でも。

次の一歩だけなら、選べる。

それが、

未来の自分を作る。

今の私が、

明日の私を起こす。

そう考えた瞬間、

私は初めて、

未来の自分を少しだけ信じた。

調べた。

画像。

投稿履歴。

ファイル。

元データ。

加工痕。

元生徒会メンバーのSNS。

文化祭実行委員会の共有サーバー。

私はハッキングなんてできない。

でも、

公開されているものを見ることはできる。

写真部だから、

画面の違和感を見つけられる。

捏造された領収書画像には、

二種類の撮影条件が混在していた。

影の方向。

JPEG圧縮。

EXIF。

生徒会室で使われているスキャナの特徴とも違う。

さらに、

「冴先輩が教師へ送った」とされるメール画面。

時刻表示と、

その日の学校システムのメンテナンス時間が矛盾している。

一人では足りない。

「蓮先輩」

電話。

「何」

「手伝ってください」

沈黙。

「何すればいい」

それだけだった。

次に写真部。

部長。

情報処理部。

文化祭実行委員。

少しずつ、

人に頼った。

怖かった。

断られたら。

笑われたら。

でも、

一人ずつ。

一つずつ。

世界は、

ファインダーの外でも、

全部敵ではなかった。

最後に、

私は元生徒会役員の一人と会った。

捏造グループにいた女子生徒。

顔色が悪かった。

「何で私に」

「写真があります」

私は言った。

彼女が加工前データを受け取っている場面。

決定的ではない。

でも、

問いかけるには足りる。

「脅すの?」

「違います」

私はカメラを机に置いた。

「やめてほしいんです」

「鳳条に頼まれた?」

「先輩は何も知りません」

彼女は笑った。

「ヒーロー様を守るんだ」

その言葉。

私は首を振った。

「違います」

「何が」

「鳳条先輩はヒーローじゃありません」

自分で言って、

胸が痛んだ。

でも。

「ただの女の子です」

「……」

「あなたたちが嫌いでもいい。恨んでてもいい。でも」

私は息を吸う。

「先輩を人間として壊すところまでやったら、たぶんあなたも戻れなくなる」

「説教?」

「違う」

「じゃあ何」

少し考えた。

「お願いです」

それしかなかった。

正しさで殴らない。

証拠で脅さない。

ただ、

頼む。

その女子生徒は、

長く黙った。

そして、

USBを一つ出した。

「これ」

「何ですか」

「元データ」

私は見た。

「何で」

「……鳳条が嫌いなのは本当」

彼女は言った。

「でも、退学まで行くと思ってなかった」

人間は、

いつも途中で気づく。

やりすぎた。

戻りたい。

でも戻れない。

私は、

そのUSBを受け取った。

手のひら。

小さい。

でも、

未来の向きを変えるには、

十分だった。


第四章 台座を降りた少女

文化祭初日。

大講堂。

全校生徒。

保護者。

教師。

ステージ。

巨大なスクリーン。

鳳条冴は、

中央に立っていた。

制服。

長い黒髪。

完璧な姿勢。

英雄。

最後の演説。

「本日は」

声。

静か。

「生徒会長として、皆さんへお伝えしなければならないことがあります」

私は講堂後方にいた。

カメラ。

ノートパソコン。

蓮先輩。

写真部。

みんな。

心臓がうるさい。

逃げたい。

今でも。

「私に関して現在流布されている件について」

冴先輩は言う。

「責任はすべて私にあります」

ざわめき。

違う。

「私は本日付で生徒会長を辞任し」

違う。

「学園を」

私はキーを押した。

照明。

暗転。

スクリーンが切り替わる。

「……え?」

冴先輩が振り返る。

最初に映したのは、

証拠だった。

加工前データ。

比較画像。

時刻。

履歴。

捏造。

事実。

ざわめきが広がる。

でも、

それだけでは終わらせなかった。

次。

写真。

誰もいない生徒会室。

疲れて眠る冴先輩。

次。

包帯。

次。

剣道場。

一人だけ残って掃除している姿。

次。

窓際。

作り笑いではない、

ぼんやりした横顔。

次。

礼拝堂。

そこだけは、

傷そのものを直接見せなかった。

雨に濡れた床。

落ちた包帯。

祭壇。

そして。

最後。

夕方。

冴先輩が小さな子どもに傘を貸したあと、

自分は濡れながら笑っていた写真。

「何を」

冴先輩の声が震える。

私は、

中央通路を歩いた。

途中から走った。

カメラが揺れる。

観客席。

舞台。

全部越える。

「鳳条先輩!」

声が講堂へ響く。

冴先輩が私を見る。

「やめなさい」

「嫌です!」

「佐倉さん!」

「先輩!」

息。

苦しい。

でも。

言う。

「台座から降りてください!」

静寂。

私は階段を上る。

「あなたは神様じゃない!」

冴先輩の顔が、

崩れかける。

「世界なんて救わなくていい!」

「やめて」

「全員を守らなくていい!」

「やめて……」

「誰にも嫌われない正義なんて、ない!」

冴先輩の目から、

初めて涙が落ちた。

「私は」

声が小さい。

「私がやらなきゃ」

「何で!」

「また誰かが」

「それでも!」

私は叫んだ。

「全部あなたの責任じゃない!」

冴先輩が首を振る。

「違う」

「違わなくても!」

自分でも、

何を言っているのか分からなかった。

でも。

「もし先輩に責任があることがあっても!」

一歩。

「それで先輩が一生、自分を罰し続けなきゃいけない理由にはならない!」

一歩。

「間違ったら、後悔して、謝って、次を選べばいい!」

冴先輩が泣いている。

「私は……」

「英雄じゃなくていい!」

とうとう、

目の前。

私は、

手を伸ばした。

震えている。

先輩の手も。

「私は」

喉が詰まる。

「あなたの本当の笑顔が見たい」

その一言は、

世界を救わない。

学校も。

過去も。

妹も。

何も救えない。

ただ、

一人へ届くための言葉。

それでよかった。

冴先輩の手を握る。

冷たい。

「降りてください」

私は言った。

「一緒に」

冴先輩は、

初めて、

ステージ中央の演台から一歩下がった。

たった一段。

それだけ。

でも、

その一段は、

誰よりも遠かった。

彼女は私の肩へ額をつけた。

そして。

泣いた。

声を上げて。

十八歳の少女として。

誰も拍手しなかった。

よかったと思う。

あれは、

見世物ではなかった。

英雄の帰還でもない。

ただ、

人間が人間へ戻る時間だった。


エピローグ その笑顔に逢える日まで

秋。

鳳条冴は生徒会長を辞任した。

退学はしなかった。

剣道部主将も後輩へ譲った。

学校は、

驚くほど普通に回った。

最初、

みんな困った。

「鳳条先輩ならどうする?」

という言葉が口癖になっていたから。

でも、

少しずつ変わった。

生徒会は複数人で仕事を分担した。

相談窓口には生徒だけでなく教師も入った。

問題が起きれば、

一人の英雄ではなく、

何人かで考えるようになった。

効率は悪くなった。

会議は長くなった。

意見も割れた。

でも、

誰か一人が壊れるまで背負うことは減った。

私は、

それを少し気に入っている。

放課後。

旧校舎屋上。

冴先輩。

制服。

風。

髪。

私はカメラを構える。

「撮ります」

「待って」

「何ですか」

「髪」

「そのままでいいです」

「写真部のくせに雑ね」

「自然体」

「便利な言葉」

カメラ。

ファインダー。

以前と同じ。

でも、

少し違う。

私はもう、

四角形の中へ逃げるためにカメラを構えていない。

近づくために使っている。

「先輩」

「何」

「笑ってください」

冴先輩は、

昔の完璧な笑顔を作ろうとした。

やめた。

「無理」

「え」

「今日は、うまく笑えない」

私は、

シャッターを押した。

カシャ。

「今撮ったでしょう」

「はい」

「ひどい顔だった」

「いい顔でした」

「嘘」

「本当です」

「逆光よ」

「いいんです」

「何が」

私はファインダーを覗く。

逆光。

白く滲む輪郭。

少し困った顔。

泣いた跡などもうない。

でも、

以前より柔らかい。

「このほうが」

私は言った。

「先輩が、人間に見えるから」

冴先輩は呆れた。

それから、

笑った。

今度は、

少しだけ。

完璧ではない。

左右も揃っていない。

目も少し細くなる。

それでも。

私はシャッターを切った。

カシャ。

「佐倉さん」

「はい」

「あなたは英雄になりたい?」

突然だった。

私はカメラを下ろす。

以前なら、

即答した。

なりたくない。

なれるわけがない。

資格がない。

でも。

「分かりません」

と答えた。

先輩が笑う。

「そう」

「でも」

私は少し考えた。

「英雄って、たぶん人の種類じゃないと思います」

「どういう意味?」

「そのとき、その人が何を選ぶかじゃないですか」

莉子。

あのとき。

私は逃げた。

その事実は消えない。

多分、

一生消さなくていい。

でも、

あのとき逃げた私は、

今日の私を永遠に決める法律ではない。

過去の私は、

未来の私を拘束する判決ではない。

私は、

次の瞬間に、

別の選択ができる。

「誰かの中に」

私は言う。

「まだ会ったことのない未来の自分がいるんだと思います」

冴先輩は、

黙って聞いている。

「怖くても、一回だけ手を伸ばしたら、その未来の自分が起きる」

「それが英雄?」

「たぶん」

私は笑う。

「知らないですけど」

「適当ね」

「先輩に言われたくないです」

風。

夕焼け。

街。

少しして、

冴先輩が言った。

「美羽のこと」

私は何も言わない。

「まだ、夢に見る」

「はい」

「私のせいだったって思う日もある」

「はい」

「前より楽になったわけじゃない」

「はい」

「でも」

冴先輩は、

自分の手を見る。

「苦しいからって、自分を罰することが、美羽を愛することじゃないのかもしれない」

私は、

ゆっくり頷いた。

「忘れる必要もないと思います」

「うん」

「痛いままでも」

「うん」

「生きていいんじゃないですか」

冴先輩は空を見る。

「それ、誰に教わったの?」

私は考える。

莉子。

冴先輩。

蓮先輩。

カメラ。

失敗した自分。

全部。

「たぶん」

答える。

「痛かった人たちに」

夕日が落ちる。

冴先輩は、

以前なら最後まで屋上に残って仕事へ戻った。

今日は、

「帰ろうか」

と言った。

それだけのことが、

私は嬉しかった。

階段を下りる。

英雄は、

台座から降りた。

だから、

小さくなったのではない。

初めて、

隣を歩ける高さになった。

英雄という言葉は、

遠くから見ると美しい。

光。

旗。

正義。

勝利。

でも、

台座の下から見上げている限り、

その人の足が震えていることには気づけない。

尊敬は、

時々、

人を孤独にする。

期待は、

時々、

鎖になる。

「あなたならできる」

という言葉が、

「あなたはできなくてはならない」

へ変わる瞬間がある。

だから。

もし誰かが台座の上で、

あまりにも美しく見えたなら。

一度、

近づいてみればいい。

そこにいるのは、

神ではないかもしれない。

泣きたいのに泣けない人。

怖いのに強く立っている人。

間違える人。

後悔する人。

誰かを救いたいと願うあまり、

自分を救うことを忘れた人。

そんな、

ただの人間かもしれない。

そして。

人間なら、

手を伸ばせる。

人間なら、

一緒に降りられる。

人間なら、

未来へ変わっていける。

私は屋上の扉を閉める前に、

振り返った。

夕日。

空だけが残っている。

かつてそこには、

台座の上の英雄がいた。

今はいない。

だからこそ、

明日からは、

一人ひとりが少しずつ、

自分の中にいる何かを起こさなければならない。

世界を救うためではない。

隣にいる、

たった一人の笑顔に、

もう一度逢うために。

刻の海を越えて



――傷だらけの世界で、純粋な時間を

第一章 宇宙の傷口

星ヶ丘町には、空から見なければ分からない傷がある。

山あいの町を抱くように連なる丘陵。その北側を、誰かが巨大な匙で抉り取ったような窪地がある。

直径八百メートル。

深さ四十七メートル。

二十年前に起きた「アストライア観測所事故」の跡だった。

町の古い地図には、そこに天体観測施設の名前が残っている。

新しい観光案内図では、ただ薄い灰色で塗りつぶされている。

まるで、

最初から何もなかった場所

のように。

でも佐倉澪は知っていた。

何もなかったのではない。

あそこには人がいた。

夢があった。

間違いがあった。

死があった。

そして、

父がいた。

「佐倉。進路希望票」

担任の声で、澪は顔を上げた。

放課後の教室。

窓の外では十一月の光が傾いている。

「明日までだぞ」

「はい」

返事だけした。

机の中から紙を取り出す。

第一希望。

第二希望。

第三希望。

全部、白い。

クラスメイトたちはもう、

東京。

仙台。

地元国立。

専門学校。

就職。

それぞれ未来に名前を書いている。

澪だけが、

白紙のままだった。

「まだ決められない?」

担任が聞く。

「……はい」

「天文学は?」

澪の指が止まった。

先生は悪くない。

悪意なんてない。

それでも、

その言葉だけで教室の空気が少し変わる。

近くにいた生徒が、

聞こえないふりをする。

澪にはそれが分かった。

佐倉。

天文学。

事故。

父親。

二十年前。

この町では、その単語は一本の糸でつながっている。

「考えておきます」

澪は紙を折った。

先生は何か言いたそうだったが、

「そうか」

だけで去った。

夕方。

澪は町の北側へ向かった。

立入禁止の柵。

錆びた看板。

《危険・旧観測施設跡》

柵の脇には、

人が一人だけ通れる隙間がある。

誰かが作った。

誰なのかは知らない。

澪は制服のスカートを押さえながら、そこを抜けた。

坂を上る。

雑草。

割れたコンクリート。

錆びたレール。

そして、

旧観測所。

半球状のドームは片側が潰れ、

外壁には黒い焼け跡が残っている。

その向こう。

巨大なクレーター。

夕日の下では、

底に溜まった雨水が赤く光っていた。

澪はいつも、

あれを見るたびに思う。

宇宙にも、

傷口があるのだろうか。

星は爆発する。

惑星は衝突する。

銀河は互いを引き裂く。

なのに人間だけが、

自分たちの傷を、

あってはならないもののように隠す。

澪はドーム内へ入った。

奥に、小さな作業机。

布をめくる。

円形のガラス。

直径三十センチほど。

父が遺した未完成のレンズだった。

澪は鞄から研磨布を取り出す。

ゆっくり、

ガラスを磨く。

しゃり。

しゃり。

しゃり。

単調な音。

その時間だけ、

頭の中が静かになる。

父の佐倉譲は、

この観測所の主任研究員だった。

事故報告書によれば、

打ち上げ補助システムの設計変更を急いだ。

複数の安全確認を短縮した。

観測衛星の姿勢制御が失敗。

軌道を外れた機体が地上施設へ落下。

火災。

爆発。

死者。

負傷者。

町は壊れた。

父は法的責任を問われ、

研究者としての職を失った。

澪が覚えている父は、

それから数年後の人だ。

痩せた背中。

散らかった机。

夜中まで何かを書いている手。

そして、

望遠鏡を覗くときだけ、

少年のようになる横顔。

「人間はね」

父は一度だけ言った。

「間違える」

幼かった澪には意味が分からなかった。

「じゃあ、間違えないようにすればいいじゃん」

父は笑った。

「そうだね」

少し間を置いて。

「でも、間違えたあとに何をするかも、人間の仕事なんだよ」

その父も、

もういない。

亡くなる少し前。

最後まで事故について、

「自分は悪くない」

とは言わなかった。

だから澪も、

父を無罪だとは思っていない。

それが苦しい。

悪人だったと思えれば、

嫌えばいい。

無実だったと思えれば、

庇えばいい。

でも父は、

間違えた人だった。

それでも、

澪を愛していた。

星を愛していた。

未来を信じていた。

人間は、

そんなふうに矛盾している。

「……ずるいよ」

澪はレンズを磨きながら呟いた。

「簡単に嫌いにならせてくれたらいいのに」

返事はない。

ただ夕日が、

ガラスの表面を淡く滑っていった。

「相変わらず不法侵入」

背後から声。

澪は振り向いた。

一ノ瀬慧。

制服の上に古い作業ジャケット。

手には工具箱。

「そっちもでしょ」

「俺は修理」

「誰に頼まれたの」

「自分」

「じゃあ同罪」

慧は肩をすくめる。

小学生の頃から、

こういう人だった。

静か。

器用。

何かが壊れていると、

口より先に手を出す。

時計。

ラジオ。

カメラ。

双眼鏡。

何でも直す。

「レンズ、どう」

「少し」

慧が覗き込む。

「端、曇り取れてきた」

「分かる?」

「分かる」

「適当」

「じゃあ聞くなよ」

澪は少し笑った。

慧はその笑顔を見て、

何も言わなかった。

それがありがたかった。

第二章 今だけを世界にしない

十二月。

町役場から正式発表が出た。

旧観測所跡地再開発事業。

クレーター埋め立て。

旧施設撤去。

防災公園および商業施設建設。

新聞には、

《二十年越しの再生へ》

という見出し。

町長は会見で言った。

「未来へ進むためには、過去を整理する必要があります」

テレビの前で、

澪は笑った。

整理。

便利な言葉だと思った。

捨てることを、

整理と言えば、

きれいに聞こえる。

役場の説明会。

澪は一人で質問した。

「クレーター全部埋めるんですか」

会場の視線が集まる。

担当者が答える。

「安全性を考慮しまして」

「旧観測所も?」

「老朽化が著しいため」

「事故資料の保存は?」

少し沈黙。

「一部は郷土資料館に」

「一部って?」

後ろから小さな声。

「また佐倉さんか」

聞こえた。

澪の背中が固くなる。

「もういいでしょう」

別の年配男性。

「いつまであんな事故を町の真ん中に置いておくんだ」

澪は振り向く。

「消せばなくなるんですか」

「誰もそんなこと言ってない」

「じゃあ、どうして埋めるんですか」

「若い君には分からんよ」

その言葉で、

何かが切れた。

「分からないのはそっちでしょ!」

会場が静まった。

「全部隠して、なかったことみたいにして! それで未来って何なの!」

係員が制止する。

澪は椅子を蹴るように立ち、

会場を出た。

雨だった。

いつの間にか。

傘も差さず、

澪はクレーターへ向かった。

柵。

坂。

泥。

制服。

全部濡れる。

クレーターの縁へ立つ。

底は暗い。

雨粒で水面が崩れる。

「もう嫌」

声が出た。

父。

町。

事故。

進路。

全部。

「何で私が」

涙と雨の区別がつかない。

「何で私が、これ全部持たなきゃいけないの」

返事はない。

だから、

誰かに怒ってほしかった。

世界に。

父に。

町に。

自分に。

そのとき、

肩に何かが触れた。

温かい。

慧だった。

傘も差していない。

「……何してんの」

澪が言う。

「それ、こっちの台詞」

「帰って」

「嫌」

慧は澪の横に立つ。

肩と肩。

ほんの少しだけ触れる。

それ以上は近づかない。

慰めようともしない。

「何か言ってよ」

澪が言った。

「何を」

「大丈夫とか」

「大丈夫じゃないだろ」

澪は唇を噛んだ。

「じゃあ何」

慧はしばらく黙った。

雨。

水。

風。

「手」

「え?」

「冷たい」

澪の手を取る。

両手で包む。

びっくりするほど、

慧の手は温かかった。

「……あったかい」

「生きてるから」

当たり前。

でも、

その当たり前が、

今の澪には痛かった。

「澪」

「何」

「今見えてるものだけで、世界全部決めなくていい」

「何それ」

「今は最悪」

「うん」

「町も最悪」

「うん」

「おじさんも間違えた」

澪の目が動く。

慧は逃げない。

「でも」

手を少し強く握る。

「それだけじゃない」

「……」

「時間って、今だけじゃないから」

雨の向こう。

クレーター。

「ここが事故の跡なのも本当」

「うん」

「おじさんが星好きだったのも本当」

「うん」

「澪が今ここで泣いてるのも本当」

「……うん」

「俺の手があったかいのも」

澪は笑った。

泣きながら。

「何それ」

「本当だろ」

「うん」

慧が言った。

「今だけ見て、全部悲しくしなくていいんじゃない」

その言葉は、

救いにはならなかった。

でも、

小さな穴を開けた。

真っ暗な部屋に。

光が入るほどではない。

ただ、

外側があると分かるくらいの穴。

澪はクレーターを見る。

「時間って海みたい」

突然言った。

慧が眉を上げる。

「何」

「今って、一波だけなのかも」

「急に詩人」

「うるさい」

でも、

そう思った。

今は暗い。

でも、

今は永遠ではない。

過去だって、

「事故」だけではない。

父の失敗。

父の情熱。

街の繁栄。

犠牲。

隠蔽。

愛。

全部ある。

未来も、

埋め立てるか保存するか、

それだけではないのかもしれない。

「慧」

「ん」

「レンズ、完成させたい」

「うん」

「望遠鏡も」

「うん」

「間に合うかな」

慧はクレーターを見た。

「知らない」

澪が少し笑う。

「そこ、頑張れば間に合うって言うところじゃない?」

「嘘になる」

「そうだね」

「でも」

慧は手を離さなかった。

「やるなら手伝う」

澪は手のひらを見る。

さっきまで冷たかった。

今は少し温かい。

何かを受け取った気がした。

思想でも、

勇気でもない。

ただ、

人間ひとりぶんの温度。

第三章 傷を知ったあとの純粋

工事開始まで、

十三日。

二人は旧観測所へ通った。

放課後。

休日。

朝。

夜。

慧は壊れた赤道儀を分解した。

澪はレンズを磨く。

交換部品がないところは、

慧が旋盤を借りて作った。

昔、観測所で働いていた職人を訪ねた。

最初は断られた。

「もう終わったことだ」

澪は頭を下げた。

「終わってません」

「君のお父さんの話なら」

「父を正しいって言ってほしいんじゃありません」

老人が黙る。

「父は間違えました」

言うのは苦しかった。

でも言った。

「それでも、あそこで作っていたもの全部が間違いだったとは思いたくないんです」

老人は長く澪を見た。

翌日。

工具箱を持ってきた。

三日後。

窓ガラスが割られた。

旧観測所。

壁にスプレー。

《罪人の娘》

澪は立ち尽くした。

床には、

傷つけられたレンズ。

完全には割れていない。

でも縁に細い傷。

怒りが湧いた。

熱い。

身体が震える。

「誰」

答えは分かっていない。

でも、

町の若者グループが最近、

澪の活動を面白半分で撮影していた。

慧が外へ出ようとする。

澪が腕を掴んだ。

「どこ行くの」

「探す」

「何するの」

慧は答えない。

「やめて」

「でも」

「やめて!」

自分でも驚く声。

澪は傷ついたレンズを見る。

涙が出る。

「悔しいよ」

「うん」

「壊したいくらい腹立つ」

「うん」

「でも」

涙を拭う。

「それやったら、同じになる」

慧は黙る。

その日の夕方、

案の定、

三人が来た。

高校生。

卒業生。

スマートフォン。

「まだやってんの?」

笑う。

「町の恥を観光地にする気?」

澪は立つ。

怖い。

でも、

逃げなかった。

「ここが人の過ちの場所なのは認める」

相手の笑いが止まる。

「父が間違ったことも」

「じゃあ何で」

「だから残すの」

「意味分かんね」

「分からなくていい」

澪はレンズを抱く。

「人間が間違えるって知るために残す」

息を吸う。

「でも」

声が震える。

「間違ったからって、人間に気高さがないってことにはならない」

自分でも、

大きなことを言っていると思った。

「父は間違えた。でも星を見てた気持ちまで嘘じゃない」

涙が落ちる。

「人を傷つける人がいる。でも誰かを守る人もいる」

慧を見る。

老人を見る。

集まり始めた町の人を見る。

「両方が人間なんだよ」

誰も何も言わない。

「私は」

澪は続けた。

「人間が綺麗だなんて思ってない」

初めて、

その言葉を口にした。

「でも、汚いだけだとも思わない」

風が吹く。

「それくらいは、信じていたい」

三人は、

何も言わず帰った。

勝ったわけではない。

論破したわけでもない。

でも翌日、

そのうち一人が来た。

無言で。

割れた窓のガラスを片づけ始めた。

人が増えた。

元研究員。

大工。

高校生。

近所の主婦。

事故当時、

家族を失った人もいた。

その人は澪へ言った。

「あなたのお父さんを許したわけじゃない」

澪は答えた。

「はい」

「たぶん、ずっと許さない」

「はい」

「でも」

その女性は、

古い望遠鏡の台座を拭いた。

「壊すだけが答えでもないと思った」

澪は、

ありがとう、

とは言わなかった。

それは違う気がした。

ただ一緒に、

布を濡らして台座を拭いた。

それでよかった。

夜。

作業のあと。

澪と慧はドームの床に座っていた。

「純粋って何だと思う?」

澪が聞く。

慧はしばらく考える。

「水?」

「小学生?」

「難しい」

「私も」

澪は天井を見る。

穴の開いたドームから、

星が一つ見える。

「昔はさ」

「うん」

「純粋って、何も知らないことだと思ってた」

「うん」

「人は優しいとか。夢を信じれば叶うとか」

「うん」

「もう無理だよね」

父の事故を知った。

町の冷たさも知った。

人の悪意も。

自分の怒りも。

もう、

何も知らなかった頃には戻れない。

「でも」

澪は言った。

「知ったあとでも、星が綺麗って思えるなら」

慧が見る。

「それも純粋って言っていいのかな」

慧は少し考えた。

「いいんじゃない」

「軽い」

「じゃあ駄目?」

「それも嫌」

慧が笑う。

澪も笑った。

穴の向こうで、

星は何も知らない顔で光っている。

でも多分、

星だって傷だらけだ。

表面。

内部。

爆発。

衝突。

それでも光る。

澪は、

それを少し好きだと思った。

第四章 手のひらから明日へ

工事前夜。

観測会。

町の人が百人以上来た。

誰が呼んだのか、

SNSで拡散されたらしい。

「嫌いじゃなかったの?」

澪が以前の妨害者に聞く。

「今も別に好きじゃない」

「じゃあ何で」

「最後なら見とこうかなって」

「そっか」

それでいい。

全員が同じ意味を持つ必要はない。

午後七時三十分。

雲。

最悪。

「見えない」

澪は空を見る。

慧が横。

「待つしかない」

「工事、明日の朝だよ」

「雲に言え」

「今すぐどいてくださいって?」

「敬語ならいけるかも」

「馬鹿」

八時。

九時。

人が少しずつ帰る。

九時四十三分。

風向きが変わった。

老人が言う。

「開くぞ」

雲が裂ける。

最初に一つ。

次に三つ。

そして。

満天。

誰かが声を上げた。

望遠鏡。

修復した架台が動く。

澪が調整。

慧が固定。

古い職人が目盛りを読む。

「いける」

澪が覗く。

星。

揺れる。

でも、

見える。

「投影側、開けるよ」

慧。

澪が頷く。

父のレンズ。

未完成だった設計。

父は、

観測光の一部を地上へ再投影する実験を考えていた。

単なる科学実験。

でも、

今夜だけは、

別の意味になる。

光路を調整。

反射板。

クレーター底。

集水池。

「三」

慧。

「二」

澪。

「一」

光。

最初は、

細い。

一本。

クレーターの底へ。

水面へ触れる。

そして。

広がった。

星明かりが反射し、

暗い窪地の底へ、

無数の光点を散らす。

風で水面が揺れる。

星も揺れる。

地上に、

もう一つの夜空。

上にも星。

下にも星。

クレーター全体が、

巨大な光の盃になった。

誰も話さなかった。

事故の傷。

町が消そうとしていた場所。

そこが、

最も美しく星を受け止めている。

澪は泣いた。

「お父さん」

小さく。

「これ、見たかったの?」

答えはない。

父の意図は、

もう分からない。

勝手に美しい物語にしてはいけない。

だから、

それでいい。

父が何を思っていたかは、

完全には分からない。

ただ、

レンズは残った。

設計図も。

傷も。

そして今、

光がある。

隣で、

事故遺族の女性が泣いていた。

澪は声をかけられなかった。

しばらくして、

女性のほうから言った。

「綺麗ね」

「……はい」

それだけ。

許しではない。

和解でもない。

でも、

同じ光を見ている。

それで十分だった。

数週間後。

町は埋め立て計画を凍結した。

全面保存ではない。

危険区域の一部は整備。

旧観測所も補強が必要。

公園化。

事故資料室。

天体観測。

防災教育。

計画は、

理想ほど綺麗ではなかった。

澪はそれを気に入った。

完全な答えではないから。

人間らしいと思った。

エピローグ 途上の朝

春。

卒業式の翌朝。

澪と慧は丘にいた。

旧観測所。

クレーター。

朝日。

まだ冷たい空気。

「進路」

慧が言う。

「出した?」

「出した」

「どこ」

「天文学」

「結局」

「悪い?」

「別に」

「慧は?」

「光学」

「結局」

二人とも笑う。

澪は手を差し出した。

「何」

「手」

慧が握る。

「意味ある?」

「ある」

「何」

「確認」

「何を」

澪は少し考える。

「今、ここにいること」

手のひら。

温度。

十七歳。

朝。

傷の残る町。

完璧ではない未来。

全部、

途中。

「ねえ慧」

「ん」

「私たちって、何も解決してないよね」

「してない」

即答。

「父の事故も消えない」

「うん」

「怒ってる人もいる」

「うん」

「また人間は間違える」

「多分」

「夢ないね」

「でも」

慧は朝日を見る。

「手渡すことはできる」

「何を」

「知ったこと」

澪は黙る。

事故。

愛。

失敗。

光。

怒り。

手の温度。

全部。

「そっか」

人間は、

完成できないのかもしれない。

歴史も。

社会も。

自分も。

いつも途中。

何かを受け取り、

少し変えて、

次へ渡す。

その繰り返し。

だから、

途中であることは、

欠陥ではない。

むしろ、

未来が入り込める余白なのだ。

澪はクレーターを見る。

昔は、

傷口にしか見えなかった。

今も、

傷口ではある。

ただ。

傷口だからこそ、

そこから見えるものもある。

間違い。

喪失。

そして、

それでも人間が何かを残そうとした跡。

「私」

澪が言う。

「人間を信じることにする」

慧が眉を上げる。

「でかいな」

「全部じゃないよ」

「じゃあ何を」

澪は考える。

「人間が」

ゆっくり。

「間違ったあとでも、気高くなろうとすること」

慧は少し笑った。

「それなら、まあ」

「何その上から」

「俺も信じる」

風が吹く。

朝日が、

二人の手を照らす。

父の手。

慧の手。

自分の手。

いつか、

別の誰かの手。

命は、

たぶんそうやって、

時代を越える。

大きな理念ではなく。

温度として。

傷として。

技術として。

記憶として。

誰かが磨いたレンズの表面に、

次の誰かが触れる。

それでいい。

澪は深く息を吸った。

「行こうか」

「どこへ」

「知らない」

「進路決めたんじゃなかった?」

「それとこれとは別」

丘を下りる。

道はまだ、

朝靄の中。

全部は見えない。

でも、

足元くらいは見える。

それで十分だった。

泣きながらでも、

迷いながらでも、

人は進める。

純粋であるとは、

何も知らないことではない。

傷を知り、

過ちを知り、

それでもなお、

誰かの心の中に気高さがあると信じること。

世界の傷口を見たあとでも、

星を美しいと思えること。

そして、

受け取った熱を、

自分だけのものにしないこと。

澪は慧の手を握ったまま、

朝の光へ歩き出した。

完成された楽園は、

どこにもない。

だからこそ、

私たちはまだ、

明日を作る途中にいる。

喋らない僕と、あの男の365日

  『匂いの記憶』 第一章 薄れていく匂いと、固い床 僕の鼻は、たいていのことを知っている。 人間は目で世界を見ているらしい。あの男は朝になると四角い板を開き、そこに並んだ小さな模様を長いあいだ眺めている。外を歩けば、赤や青に光るものを見て立ち止まり、紙の束を見ながら眉間にしわを...