2026-08-28

月光症候群

 



序 海のない海辺

水無代市には、海がない。

正確には、もうない。

三十年前までは、駅前の高層マンションも、県立水無代高校も、六車線の水無代新道も、全部海だった。

干潮になると泥が現れ、蟹が穴を開け、鳥が嘴を突き立てたという。

いま、その上を人間が歩いている。

泥の代わりにアスファルトがある。

波の代わりに車が流れる。

海岸線があった場所には、コンビニエンスストアと学習塾と二十四時間営業のフィットネスクラブが並んでいる。

便利な街だ。

だから誰も、海を返してほしいとは言わない。

海を埋めた人たちは、たぶん悪人ではなかった。

家を建てたかった。

道路が欲しかった。

未来を作りたかった。

ただ、その未来の下に何があったのかを、少し忘れただけだった。

その夜、水無代新道には雨が降っていた。

大型トラックが中央分離帯を越えた。

ブレーキ痕は、翌朝まで黒く残った。

葛城晶は二十二歳で死んだ。

「確認をお願いします」

白い布をめくった男は、驚くほど事務的だった。

湊は姉の顔を見た。

葛城晶。

間違いなかった。

鼻筋。

唇。

右の眉尻にある、小さな傷。

弟だけが知っているわけでもない、ありふれた特徴。

冷たい顔だった。

なのに。

湊は泣かなかった。

泣けなかった。

悲しくないわけではない。

ただ、

死んでいる、

という言葉と、

目の前にある姉の顔が、

どうしても同じ意味にならなかった。

晶が死んだ。

その文章は理解できる。

四文字の漢字として。

主語と述語として。

医師が言った事実として。

でも、

明日の朝に晶がいない。

来月にもいない。

来年にもいない。

湊が三十歳になっても、四十歳になっても、

そのすべての場面から、

晶だけが永久に欠席する。

そこまでは、

脳が処理しなかった。

「弟さん?」

男が尋ねた。

湊は頷いた。

それだけだった。

泣かなかった自分を、

その夜から少し嫌いになった。

遺品の中に、

古い双眼鏡があった。

真鍮製。

妙に重い。

片方のレンズには細い傷が走っている。

晶がどこで手に入れたのか、湊は知らなかった。

知らないものは、

死んだあとになって増える。

好きだった本。

知らない友人。

行ったことのない店。

スマートフォンの写真に残っている、

見覚えのない風景。

死んだ人間について、

生きていた頃より知らないことが増えていく。

それが、

湊には腹立たしかった。

彼は双眼鏡を作業着のポケットへ押し込んだ。

そして翌週から、

整備工場へ戻った。

エンジンオイル。

錆。

タイヤ。

工具。

ラチェットレンチは、

姉が死んでも同じ音を立てた。

世界は、

思ったより礼儀知らずだった。

同じ頃。

七瀬瑞希は、

人工運河に架かる水無代中央橋を歩いていた。

高校二年生。

十七歳。

部活帰り。

制服。

鞄。

イヤホン。

普通の女子高生。

橋の途中で、

白髪の少年が欄干にもたれていた。

年齢は分からない。

中学生にも、

二十歳にも見えた。

白い髪。

黒い服。

街灯の下なのに、

妙に影が薄い。

瑞希は一度だけ見て、

通り過ぎようとした。

「ねえ」

少年が言った。

瑞希は足を止めた。

「なに?」

少年は笑った。

「君は、誰の光を浴びているの?」

「……は?」

瑞希は眉を寄せた。

少年はもう運河を見ていた。

水面に月が浮かんでいた。

本物より少し揺れている。

瑞希は、

変な人、

と思った。

そして歩き出した。

十歩ほど進んでから振り返る。

誰もいなかった。

月だけが、

水面で壊れていた。

第一章 間違っているのは世界の方だ

晶の四十九日を過ぎても、

湊は一度も夢を見なかった。

夢くらい出てくればいいのにと思った。

幽霊でもいい。

幻でもいい。

何でもいいから、

死者に一度くらい嘘をついてほしかった。

だが晶は、

死んでから妙に律儀だった。

まったく出てこなかった。

だから、

ガソリンスタンドで彼女を見たとき、

湊は最初、

自分の脳が壊れたのだと思った。

女子高生が二人、

自動販売機の前で笑っていた。

一人が髪を耳へ掛けた。

横顔。

首。

笑い方。

一瞬だった。

晶だった。

湊の手から、

小銭が落ちた。

硬貨がアスファルトの上を回った。

違う。

そんなはずはない。

でも、

違うという判断の方が、

急に不自然に思えた。

姉が死んだ。

事故があった。

葬儀もした。

骨も拾った。

その全部より、

いま目の前で笑っている横顔の方が、

正しい気がした。

湊の脳は、

「晶が蘇った」

とは考えなかった。

もっと異様な答えを出した。

もしかすると、

姉が死んだという世界の方が、

間違っていたのではないか。

世界が、

どこかで計算を間違えただけなのではないか。

「お兄さん、大丈夫ですか?」

店員の声で戻った。

女子高生はもういなかった。

湊は地面の百円玉を拾った。

掌が震えていた。

七瀬瑞希。

それが少女の名前だと知るまで、

三日しかかからなかった。

工場の近所。

水無代高校。

十七歳。

湊は調べた自分を嫌悪した。

それでも止めなかった。

工場の裏。

運河。

歩道橋。

遠くから少女を見る。

作業着のポケットには、

晶の双眼鏡。

最初の一週間、

湊は使わなかった。

使えば何かが決定的になる気がした。

八日目の夕方、

負けた。

レンズを覗いた。

瑞希がいた。

友達と話している。

笑っている。

晶ではない。

分かっている。

なのに、

レンズの丸い世界へ入った瞬間、

瑞希の頬に晶の記憶が重なる。

高校時代の晶。

眠そうな晶。

風呂上がりの晶。

泣いている晶。

湊を叱る晶。

湊の頭へ手を置く晶。

そして、

二十歳の頃。

恋人ができた、と笑った晶。

その夜、

湊は初めて姉を殴りたいと思った。

もちろん殴らなかった。

代わりに、

「勝手にすれば」

と言った。

晶は少し傷ついた顔をした。

その顔を見て、

湊は安心した。

そこが、

いちばん嫌いな記憶だった。

「また見てる」

背後から声がした。

湊は双眼鏡を下ろした。

瑞希だった。

心臓が止まったような気がした。

「……何を」

「私」

「見てない」

「双眼鏡持ってて、その言い訳は無理じゃない?」

瑞希は呆れた顔をした。

近くで見る。

似ていない。

目の形も違う。

鼻も。

口も。

晶より少し幼い。

写真で並べれば、

姉妹にすら見えないだろう。

それなのに、

ある角度だけ、

どうしようもなく晶だった。

「名前は?」

湊が聞いた。

「先にそっちが名乗るのが普通でしょ」

「ああ」

「それと」

瑞希は湊の手を見る。

「それ、何?」

「双眼鏡」

「見れば分かる」

真鍮の筒が夕陽を反射した。

瑞希は眉をひそめる。

「古そう」

「姉のだった」

「お姉さん?」

湊は答えなかった。

瑞希も、

それ以上聞かなかった。

そのとき、

遠くから誰かが瑞希を呼んだ。

男だった。

二十歳くらい。

背が高い。

神崎征矢。

湊は顔を知っていた。

晶の恋人だった。

「瑞希」

神崎が笑う。

その笑い方を見て、

湊の胃が縮んだ。

瑞希は振り返った。

その瞬間。

神崎の顔が、

死者を見た人間の顔になった。

ごく短い一瞬。

でも湊には分かった。

こいつも、

見ている。

瑞希を見ながら、

別の女を見ている。

神崎の部屋で、

瑞希は月を見ていた。

カーテンの隙間。

窓。

遠くの高層マンション。

その横に、

白く薄い月。

神崎は瑞希の髪に触れた。

「前にも言ったよな」

「何を?」

「その髪、下ろしてる方が似合う」

瑞希は黙った。

その言葉。

前にも、

ではない。

自分は初めて聞いた。

「誰に言ったの?」

神崎の指が止まる。

「何が」

「前にもって」

「言葉の綾」

「晶さん?」

神崎の顔がわずかに強張った。

瑞希は知っていた。

晶。

死んだ恋人。

自分に少し似ているらしい女。

最初は、

気にしていなかった。

死んだ人に嫉妬するなんて馬鹿らしいと思っていた。

けれど、

神崎はときどき、

瑞希には覚えのない思い出を前提に話した。

「ここ好きだったよな」

「昔もそういう顔した」

「またその癖」

そのたびに、

瑞希の身体の表面へ、

知らない女の薄い膜が一枚ずつ貼られていく。

「ねえ」

瑞希は言った。

「今、誰見てる?」

「何言ってんだよ」

「私?」

神崎は答えなかった。

その沈黙の方が、

答えよりひどかった。

夜。

瑞希は運河沿いを歩いた。

橋の下に、

湊がいた。

真鍮の双眼鏡を持っている。

けれど今夜、

覗いているのは遠くではなかった。

湊はしゃがみ、

水面に浮かぶ月を見ていた。

そして、

ゆっくり手を伸ばした。

瑞希は声をかけなかった。

指先が水へ触れる。

月が砕けた。

白い円が細かく裂け、

波紋になって広がる。

数秒後。

また、

月らしい形へ戻る。

湊はもう一度、

手を伸ばしかけた。

「掴めるわけないじゃん」

瑞希が言った。

湊が振り返る。

「見てたのか」

「そっちこそ」

瑞希は欄干にもたれた。

「神崎もあなたも同じ」

「何が」

「私を見てる顔して、別のもの見てる」

湊は何も言わなかった。

瑞希は水面を見る。

「この月もさ」

指差した。

「月じゃないでしょ」

「……そうだな」

「でも、月に見える」

風。

水面。

月。

「気持ち悪い」

瑞希は呟いた。

誰のことを言ったのか、

自分でも分からなかった。

第二章 本当に?

最初の事故は、

学校の階段だった。

担任の相田が、

踊り場から落ちた。

頭を打ち、

救急搬送された。

その日の朝、

クラスの男子が言っていた。

「今日あいつ来なきゃいいのに」

ただの愚痴。

誰でも言う。

その男子は事故を聞いたあと、

青ざめた。

「俺じゃない」

誰も責めていないのに、

繰り返した。

「俺、何もしてないから」

瑞希は、

その男子が廊下の鏡を避けるようになったことに気づいた。

次は、

近所の主婦だった。

突然、

声が出なくなった。

原因不明。

その家の小学生の息子は、

何日も学校へ来なかった。

同級生が言った。

「あいつ前にさ、お母さんうるさい、黙ればいいのにって言ってた」

冗談だった。

たぶん。

願いですらなかった。

ただ、

口から漏れた言葉。

そこへ、

白髪の少年が現れる。

本当に?

そう聞くらしい。

「違う」

と言えば、

何も起こらない。

黙ると、

何かが起こる。

そんな噂が、

水無代市を走り始めた。

当然、

誰も信じなかった。

そして、

全員が少しだけ信じた。

人間は、

悪いことを考えないようにすると、

悪いことばかり考える。

赤いものを想像するな、

と言われたら、

頭の中が赤くなるように。

水無代高校では、

奇妙な流行が始まった。

「いいことだけ考えよう」

誰かがSNSに書いた。

翌日には、

教室の黒板に貼り紙があった。

きれいな心で過ごそう。

その下に、

笑顔の月。

先生は剥がさなかった。

「最近、みんな不安だと思うけどね」

学年主任が言った。

「怒りとか嫉妬とか、できるだけ持たないようにしよう」

瑞希は、

その言葉を聞いた瞬間、

腹が立った。

腹を立てたことに、

さらに腹が立った。

そして、

怖くなった。

もし今、

クオンが現れたら?

本当に?

と聞かれたら?

自分は、

何を否定すればいい?

怒ってない。

嫉妬してない。

嫌いじゃない。

死んでほしくない。

本当に?

鏡を見る時間が増えた。

確認したかった。

自分の顔を。

だが、

確認するほど分からなくなった。

学校の洗面台。

電車の窓。

スマートフォンの黒い画面。

ある日は晶に見えた。

会ったこともないのに。

写真でしか知らない女。

別の日は、

母親に似ていた。

ある日は、

誰にも似ていなかった。

そして一度だけ、

完全に知らない顔が映った。

瑞希は悲鳴を上げた。

振り返る。

誰もいない。

もう一度鏡を見る。

いつもの自分。

「誰」

思わず言った。

鏡の中の自分も、

同じ口の形をした。

神崎に会う回数は減っていった。

彼は理由を聞かなかった。

聞かないくせに、

瑞希を抱き寄せようとした。

瑞希は避けた。

「ねえ」

「何」

「晶さんの何が好きだったの?」

神崎は一瞬、

笑った。

簡単な質問だと思ったのだろう。

「急になんだよ」

「いいから」

「顔とか」

「うん」

「声」

「うん」

「笑い方」

「それから?」

神崎は黙った。

「服の趣味とか。そういうの」

「それ、全部外から見えるものじゃん」

「何が言いたいんだよ」

「好きだった本は?」

神崎は眉を寄せた。

「は?」

「一人のとき、何してた?」

「知らねえよ、そんなの」

「何が怖かった?」

「お前さ」

声が低くなった。

「何様?」

「じゃあ何が好きだったの?」

「顔だけじゃない!」

神崎が立ち上がった。

「一緒に過ごした時間があるんだよ! お前に何が分かる!」

瑞希は、

しばらく彼を見た。

「分からないよ」

静かに言った。

「だから聞いてる」

神崎は、

それ以上何も言えなかった。

その夜。

神崎はノートを開いた。

晶。

と書いた。

その下に、

知っていることを書こうとした。

コーヒーはブラック。

雨の日が嫌い。

朝が弱い。

笑うと右の口角が上がる。

映画は途中で寝る。

そこまで書いて、

ペンが止まった。

違う。

「晶が自分といるときの晶」

しか書いていない。

晶が一人のとき。

何を見ていた?

何を考えていた?

どんな顔をしていた?

知らない。

神崎は、

ノートの一行目を見た。

晶。

名前だけだった。

その名前すら、

急に知らない文字に見えた。

水無代市では、

夜になると窓を鏡にしないよう、

カーテンを閉める家が増えた。

学校では、

生徒同士が互いの言葉を監視した。

「今の言い方よくない」

「そんなこと考えたらダメだよ」

「怒らない方がいいよ」

皆、

善人になろうとした。

善人でなければ、

誰かが死ぬかもしれないから。

その結果、

誰も本音を言わなくなった。

笑顔が増えた。

笑い声が減った。

夜の運河だけが、

以前より黒くなった。

第三章 誰の目にもいない私

晶は、

早朝の旧干潟跡に一人で立っていたことがある。

その話を瑞希が知ったのは、

偶然だった。

整備工場近くの小さな喫茶店。

老店主が、

晶の写真を見て言った。

「ああ、この子」

瑞希の手が止まる。

「知ってるんですか」

「昔、何度か見たよ。朝早く」

「どこで?」

「排水機場の向こう。埋め立てた泥がまだ出てるとこ」

「誰かと?」

「一人」

「何してたんですか」

店主は肩をすくめた。

「さあ」

それだけだった。

瑞希は、

妙に安心した。

晶には、

誰も知らない時間があった。

弟も。

恋人も。

自分も知らない晶。

それは、

なぜか嬉しかった。

誰にも理解されていない部分が、

死者の中にも残っている。

なら、

自分にも残していいのかもしれない。

「これ以上、私を見ないで」

整備工場で、

瑞希は湊に言った。

湊は黙っていた。

油の染みた作業着。

手。

真鍮の双眼鏡。

「見るなって言われても」

「見るなじゃない」

瑞希は言った。

「決めないでって言ってるの」

「何を」

「私が誰か」

湊は双眼鏡を持ち上げた。

反射的だった。

瑞希の顔へ向ける。

レンズ。

丸い二つの穴。

瑞希は逃げなかった。

湊の指が震えた。

やがて、

双眼鏡が下がる。

「……お前の顔を知っている」

湊が言った。

「でも、お前が誰なのかは分からない」

瑞希は、

少しだけ笑った。

「当たり前じゃん」

「……」

「私だって分からない」

工場の奥で、

古い換気扇が鳴っている。

「親の前の私も私だし、学校の私も私だし、神崎といたときの私も、たぶん私」

「……」

「あなたが晶さんに似てると思った私も、完全に嘘ってわけじゃないのかもしれない」

湊が顔を上げた。

「でも」

瑞希は言った。

「一個に決めないで」

その言葉だけだった。

複数的自己。

他者性。

関係的主体。

そんな言葉を、

瑞希は知らなかった。

知る必要もなかった。

「本当の私って、一個に決まってないんだと思う」

それだけで十分だった。

翌朝。

瑞希は学校へ行かなかった。

旧排水機場へ向かった。

晶を探すためではない。

晶の気持ちを知るためでもない。

ただ、

自分の目で見たかった。

晶という女が、

誰にも言わず立っていた場所を。

何か答えがあるとは思っていない。

むしろ、

答えなどない場所であってほしかった。

排水機場の奥。

コンクリートの壁。

錆びた柵。

その向こうに、

泥があった。

黒い。

臭い。

光沢がある。

美しくない。

瑞希は、

しばらく立っていた。

それだけだった。

「こんなもの見てたんだ」

呟く。

どういう意味で晶が見ていたのか、

分からない。

悲しかったのか。

好きだったのか。

何も考えていなかったのか。

分からない。

瑞希は、

初めてそれを、

そのままにしておけた。

第四章 何も映さない

湊は、

瑞希が排水機場へ向かったと知って、

走った。

晶の双眼鏡が、

ポケットの中で太腿を打った。

一歩ごとに、

鈍い痛み。

なぜ追うのか。

分からなかった。

瑞希を助けたい?

晶の影を追っている?

謝りたい?

確かめたい?

全部かもしれない。

全部違うかもしれない。

排水機場は、

夜になると海の底みたいだった。

非常灯。

湿った壁。

遠くのポンプ音。

水滴。

鉄の階段。

湊は、

下りていった。

地下へ。

過去へ。

海へ。

そんなふうに考えた自分が、

ひどく陳腐に思えた。

ただの階段なのに。

それでも、

人間は何にでも意味を貼る。

最下層に、

白髪の少年がいた。

「こんばんは」

「……誰だ」

「知らない?」

少年は笑った。

「まあいいや」

背後に、

黒い水。

「君も行きたい?」

「どこへ」

「姉さんのいるところ」

湊の喉が動いた。

少年は、

少し首を傾ける。

「本当に?」

その一言。

湊は何も言わなかった。

晶。

死んだ顔。

笑った顔。

恋人の話をした夜。

傷ついた顔。

瑞希。

月。

水面。

レンズ。

全部が、

一度に浮かんだ。

「……知ってる」

湊が言った。

少年は待った。

「瑞希は、晶じゃない」

「うん」

「……」

「だったら」

少年が言う。

「どうして追ってきたの?」

湊は答えようとした。

言葉が出なかった。

罪悪感。

贖罪。

依存。

愛。

執着。

どの言葉も、

少しずつ合っていて、

少しずつ違った。

「……分からない」

やっと言った。

少年は笑った。

馬鹿にする笑いではなかった。

褒める笑いでもない。

ただ、

鏡みたいな笑い。

「そう」

クオンは言った。

「じゃあ、何も映さない」

何も起きなかった。

光も。

爆発も。

叫び声も。

少年は、

少し離れた窓の反射へ歩いた。

そして、

そこに最初からいなかったみたいに消えた。

水滴だけが、

落ち続けた。

瑞希は、

濡れたコンクリートの上に立っていた。

湊は、

数メートル手前で止まった。

「瑞希」

瑞希が振り返る。

晶ではなかった。

当然だった。

その当然が、

初めて痛かった。

湊は手を差し出した。

「……帰ろう」

瑞希は、

その手を見た。

顔を上げた。

「どこに?」

湊は答えられなかった。

家。

街。

学校。

以前の自分。

湊の隣。

どれも、

瑞希の帰る場所だと勝手に決めている。

瑞希は、

濡れた髪を耳へ掛けた。

その仕草が、

一瞬だけ晶に似て見えた。

湊の胸が跳ねた。

それでも、

「晶」

とは言わなかった。

似ていると思った自分を、

消そうともしなかった。

ただ、

言わなかった。

瑞希は湊の横を通り過ぎた。

「じゃあね」

それだけ。

「どこ行くんだ」

瑞希は振り返らなかった。

「まだ決めてない」

足音が、

階段の向こうへ消えていった。

湊は追わなかった。

その先を、

知らなかった。

知らないままにした。

終章 海底の呼吸

数か月後。

水無代市は、

元に戻った。

あるいは、

最初から何も変わっていなかったのかもしれない。

学校。

道路。

運河。

マンション。

コンビニ。

クオンの噂も、

いつの間にか聞かなくなった。

誰かが忘れた。

誰かが嘘だと言った。

誰かは今も、

夜の鏡を見ない。

湊は整備工場で働いていた。

以前と同じ。

オイル。

工具。

エンジン。

同じではない。

でも、

同じだった。

夜。

アパート。

テレビの砂嵐。

湊は床に座っていた。

画面のノイズが、

一瞬、

顔になった。

晶。

次に、

瑞希。

いや。

ただのノイズ。

脳が勝手に、

意味を作っただけ。

湊は、

リモコンではなく、

テレビ本体の主電源を押した。

黒。

自分の顔が、

画面に薄く映った。

それも見ないことにした。

部屋の隅に、

晶のシャツがある。

昔は、

匂いがした。

いまは何もしない。

洗濯洗剤の匂いすら、

もう薄い。

湊は、

それを鼻へ近づけなかった。

捨てもしなかった。

ただ、

そこにある。

真鍮の双眼鏡。

重い。

湊は逆さまに覗いた。

世界が遠くなる。

窓の外。

街灯。

運河。

月。

全部が、

変な距離へ押しやられる。

レンズの奥に、

冷たい青があるような気がした。

本当にあるのか。

記憶なのか。

分からない。

湊は、

しばらく覗いていた。

姉は死んだ。

その事実は、

いまなら理解できる。

受け入れた、

とは思わなかった。

乗り越えた、

とも。

晶がいない世界を、

ただ数か月生きた。

それだけだった。

胸が上下する。

息を吸う。

吐く。

また吸う。

湊が何を考えていても、

肺は知らない。

死者に会いたくても。

生きる意味がなくても。

後悔していても。

肺は、

空気がある限り空気を欲しがる。

無神経だ。

でも、

止まらない。

冷蔵庫を開けた。

牛乳がない。

「あ」

声が出た。

それだけ。

湊は財布を取った。

サンダルを履く。

双眼鏡を、

なぜかポケットへ入れた。

外。

夕暮れ。

夏の終わり。

交差点。

赤信号。

湊は待った。

隣に、

買い物袋を持った老人。

自転車の学生。

犬を連れた女。

誰も湊の姉が死んだことを知らない。

当然だ。

信号が青になった。

湊のためではない。

前へ進め、

という意味でもない。

ただ、

交通規則として青になった。

人が歩き出す。

湊も歩いた。

コンビニ。

冷房。

白い照明。

牛乳を一本取る。

レジ。

店員は、

眠そうな声で聞いた。

「袋、いりますか」

湊は一瞬だけ考えた。

「いりません」

金を払う。

牛乳を持つ。

店を出る。

ポケットの双眼鏡と、

手の中の牛乳。

どちらも、

妙に重かった。

夜空に月が出ていた。

運河にも、

同じ月が映っていた。

湊は、

どちらが本物かを確かめなかった。

歩いた。

肺が、

また一つ、

勝手に空気を吸った。

そして街は、

何事もなかったように、

彼を通り過ぎていった。

値札のない夜


 


――負けてやるさ、そのレースから

第一章 自由の見積書

頼んでもいない朝ほど、律儀に来る。

目覚まし時計より三分早く目を覚ました私は、薄暗い天井を眺めながら、そのことを考えていた。

世界というものは、こちらが絶望していようが寝不足だろうが、契約更新を断られようが、午前六時三十七分になると午前六時三十八分になる。

融通が利かない。

ある意味、誠実だ。

枕元のスマートフォンが震えた。

メール。

件名は、

【重要】次期評価期間における個人パフォーマンス指標について

朝から人間に点数をつけるな。

私は画面を伏せた。

二十七歳。

名前は、朝倉透子。

都内の人材サービス会社で働いている。

肩書きは「カスタマーサクセス・スペシャリスト」。

三年前までは「問い合わせ対応担当」だった。

仕事は大して変わっていない。

名前だけが偉くなった。

人間は不思議だ。

同じことをさせるにも、横文字を三つ並べると少し高級に見える。

ただし給料は、それほど高級にならない。

私は布団から出た。

台所。

冷蔵庫。

昨日のコンビニおにぎり。

水。

鏡。

疲れた女。

誰だろうと思った。

私だった。

「おはよう」

鏡の中の私は返事をしない。

善人ではないからだろう。

改札は嫌いだった。

正確には、改札の電子音が嫌いだった。

ピッ。

一人通る。

ピッ。

また一人。

遅れるな。

止まるな。

次。

次。

次。

朝の駅には、人格ではなく処理速度だけが存在する。

私はICカードをかざした。

ピッ。

今日も社会へのログインに成功した。

後ろからスーツ姿の男が迫ってくる。

私は反射的に歩調を上げる。

まただ。

誰も急げとは言っていないのに。

でも、

急かされている。

学校へ行くため。

会社へ行くため。

何者かになるため。

誰かより少し前へ出るため。

人間は一体、どこへそんなに急いでいるのだろう。

電車に乗る。

つり革。

広告。

転職。

投資。

英会話。

脱毛。

資格。

年収アップ。

「あなたの市場価値を診断します」

私は笑いそうになった。

市場価値。

便利な言葉だ。

魚にもある。

土地にもある。

中古車にもある。

そして、

私にもあるらしい。

窓に映る自分の顔を見る。

定価はいくらだ。

会社では、四半期ごとに順位が出た。

契約継続率。

顧客満足度。

処理件数。

追加契約。

応答速度。

社内貢献。

全部数字になる。

人間を数字にすること自体は、悪いことではない。

数字がなければ、えこひいきや気分で評価される。

だから私は昔、この制度を支持していた。

むしろ、

作る側だった。

三年前。

評価制度の改定プロジェクト。

私は若手代表として参加した。

「公平な仕組みにしたいんです」

そう言ったのは私だった。

正しかった。

少なくとも、

そのつもりだった。

そして新制度導入の最初の四半期。

私は十二位から三位になった。

嬉しかった。

二位の人間を見て、

悔しいと思った。

一位の人間を見て、

あいつは大型顧客を持っているから有利だ、と心の中で言った。

そして。

四十三位。

最低評価。

その人の名前を、

私は今でも覚えている。

木村香織。

私より九歳上だった。

対応は遅い。

記録も雑。

でも、

顧客と電話すると異様に長かった。

私はある日、言った。

「木村さん、話を聞きすぎなんですよ」

彼女は笑った。

「そうかな」

「問い合わせが一件二十分超えるの、効率悪いです」

「でもさ、困ってる人って、質問だけ答えれば終わるとは限らないじゃん」

「それ、うちの仕事じゃないですよ」

言った。

正しかった。

正しい言葉だった。

三か月後。

木村さんは契約更新されなかった。

その日の夜、

私はランキング三位の祝勝会で、

ビールを飲んだ。

だから。

私は善人ではない。

誰かに踏まれただけの人間でもない。

私の靴底にも、

誰かを踏んだ感触が残っている。

「朝倉さん」

上司の三枝に呼ばれた。

会議室。

透明な壁。

ガラスというのは不思議だ。

閉じ込めるくせに、

閉じ込めていない顔をする。

「次期の契約についてなんだけど」

来た。

私は椅子に座った。

三枝が資料を出す。

紙。

三枚。

「率直に言うと、今期の評価があまり良くない」

「はい」

知っている。

三十一位。

去年は八位。

理由も分かっていた。

大型顧客の解約。

追加契約率低下。

応答時間超過。

最近、

私は電話を早く切れなくなっていた。

木村さんのせいだ。

いや。

違う。

木村さんを思い出すようになった、

私のせいだ。

「ただ、会社として朝倉さんを手放したいわけじゃない」

三枝は言った。

「一つ提案がある」

資料。

業務改善プラン

目標値。

期限。

評価。

面談。

推奨行動。

その下に、

契約継続条件。

私は眺めた。

「これ」

言った。

「見積書みたいですね」

三枝が笑う。

「見積書?」

「自由の」

笑顔が止まる。

「どういう意味?」

「これだけ会社に合わせれば、ここに居続けられます、って」

「まあ、組織だからね」

「ですよね」

三枝は悪い人ではない。

たぶん本気で私を助けようとしている。

そこが、

少し厄介だった。

悪人なら簡単だ。

嫌えばいい。

でも、

人間社会の大部分は、

善意の人間が作った仕組みによって息苦しくなる。

「考えてみて」

三枝は言った。

私は資料を折らなかった。

破らなかった。

鞄へ入れた。

見積書。

自由という商品は、

なかなか高いらしい。

帰り。

雨が降っていた。

コンビニで買ったビニール傘。

七百八十円。

高くなったなと思う。

物価というものは、

人間が落ち込んでいても上がる。

駅前。

私は傘を開いた。

スマートフォンを見る。

社内ランキング。

三十一位。

上から順番に、

名前。

点数。

数字。

私。

その瞬間、

誰かが肩を叩いた。

振り返る。

「透子?」

知らない顔。

違う。

知っている。

「……木村さん?」

「うわ、本当に朝倉さんだ」

木村香織。

三年ぶりだった。

「久しぶり」

彼女は笑った。

変わっていなかった。

少し髪が短くなったくらい。

私は、

何を言えばいいか分からなかった。

ごめんなさい。

元気でしたか。

あのとき。

全部遅い気がした。

「雨すごいね」

木村さんが言った。

「はい」

私たちは、

同じビニール傘を持って、

駅前に立っていた。


第二章 割り勘にできない傷

駅前のファミリーレストランに入った。

木村さんは、

今は小さなNPOで働いていた。

若者の就労支援。

給料は、

昔より下がったらしい。

「でも楽しいよ」

彼女はポテトを食べながら言った。

私は、

それを素直に喜べなかった。

なぜなら。

もし木村さんが、

会社を辞めたことで幸せになったのなら。

私は、

安心できてしまう。

「あのときクビになったけど、結果的によかった」

と言ってもらえれば、

私は自分を許しやすくなる。

そんな期待をしている自分が、

嫌だった。

「木村さん」

「ん?」

「私」

声が詰まる。

「昔、かなり失礼なこと言いましたよね」

「言ったね」

即答だった。

私は笑った。

木村さんも笑う。

「効率悪いとか」

「言われた言われた」

「すみませんでした」

木村さんは、

しばらく黙った。

「うん」

それだけ。

許すよ、

とは言わなかった。

気にしてないよ、

とも。

私は、

少し救われた。

いや。

救われなかった。

だから良かった。

「怒ってます?」

「当時はね」

「今は?」

「分かんない」

木村さんは水を飲んだ。

「昔のことって、変な感じじゃない?」

「変?」

「許したのか、どうでもよくなったのか、まだ傷ついてるのか、自分でも分かんなくなる」

私は黙る。

「でも」

彼女が続けた。

「謝られたから傷が消えるわけでもないし」

「……はい」

「だからって、朝倉さんを一生恨むのも疲れるし」

割り勘にはできない。

そう思った。

私が傷つけた。

会社も傷つけた。

彼女自身にも至らなかった部分はあった。

誰が何パーセント悪い。

そんなふうに会計できれば、

人生は楽だ。

でも。

傷には、

領収書がない。

「ところで朝倉さん」

「はい」

「今しんどそうだね」

私は反射的に笑った。

「大丈夫です」

「その返事、三年前の私もよく言ってた」

やめてほしい。

「ランキング落ちた?」

心臓を掴まれた。

「なんで」

「顔」

「顔で順位分かるんですか」

「分かんない。でもあの会社、順位落ちるとみんな同じ顔になる」

私は笑った。

今度は少し本当に。

「三十一位です」

「具体的」

「契約継続の条件も出されました」

「そっか」

木村さんは、

同情しなかった。

それがありがたかった。

「大変だね」

とも言わない。

「辞めちゃえば?」

とも。

ただ、

ポテトを一本食べた。

「何も言わないんですね」

「何て言えばいいの」

「普通、励ますとか」

「欲しい?」

考えた。

「いらないです」

「じゃあ言わない」

ひどい。

優しい。

店を出ると、

まだ雨。

傘の柄が冷たい。

木村さんと別れたあと、

私は駅前で立った。

スマートフォンが光る。

会社からの通知。

あなたの今期パフォーマンス改善目標が更新されました

画面を伏せた。

雨。

道路。

車。

傘。

靴。

濡れた足。

私は、

同情されたかったのだろうか。

被害者と認定してほしかったのか。

「あなたは悪くない」

そんなシールを貼ってもらえば、

楽だったかもしれない。

でも。

私は悪くない、

とは言えない。

悪い、

とも言い切れない。

人間は、

そんなに簡単な商品ではない。

欠陥あり。

良品。

返品可能。

評価A。

評価D。

そうやって、

シールを一枚貼れば終わるものではない。

私は、

ビニール傘の柄を握り直した。

冷たい。

手が痛い。

でも、

私の手だった。

翌週。

三枝との二回目の面談。

「どうする?」

資料。

見積書。

私は言った。

「一つ質問していいですか」

「もちろん」

「評価制度って、今も公平だと思います?」

三枝は少し考えた。

「完全に公平な制度はないよ」

「ですよね」

「でも、ないよりはましだと思う」

「私もそう思います」

意外そうな顔。

「じゃあ」

「でも」

私は続けた。

「この数字に合わせて、人間の方を作り替えるのは違う気がします」

「作り替える?」

「点数が低ければ、低い理由を改善する。それは分かります。でも、点数に入らないものを全部捨てたら」

木村さん。

長い電話。

話を聞く時間。

「何のための仕事なんでしょう」

三枝は黙った。

「朝倉さん、今のやり方を続けたい?」

「分かりません」

「じゃあ何がしたいの」

「それも、分かりません」

私は笑った。

「ただ、順位を上げることだけを仕事にするのは、もう嫌です」

三枝はため息をついた。

「会社としては困るよ」

「はい」

「それで契約切られたら?」

「困ります」

「生活あるでしょ」

「あります」

「怖くない?」

「怖いです」

全部本当だった。

格好よく、

「何も怖くありません」

なんて言えたら、

ロックだった。

でも、

家賃はある。

税金も。

食費も。

明日の朝も来る。

自由は、

やっぱり高い。

その夜。

私はランキングを開いた。

一位。

二位。

三位。

三十一位。

自分の名前。

じっと見る。

負けている。

悔しい。

まだ、

悔しい。

「勝つ気はない」

と言いながら、

負けると腹が立つ。

それが人間だ。

私は画面へ指を置いた。

順位そのものを消す権限はない。

会社から自分の名前だけ削除することもできない。

でも。

心の中で、

一本線を引いた。

これは、

仕事の一部分を測った数字。

私の価格ではない。

たったそれだけ。

世界は何も変わらない。

でも、

その夜、

少しだけ呼吸が楽になった。


第三章 負けてやるさ

契約更新の期限は、

金曜日だった。

木曜日。

会社でトラブルが起きた。

大型顧客から、

契約終了の申し出。

担当者。

私。

原因。

複雑だった。

こちらにも不手際。

顧客にも事情。

市場環境。

担当変更。

予算。

誰か一人を責められない。

でも、

会議になると、

原因は一つにしたがる。

その方が資料にしやすいからだ。

「朝倉さんの対応遅延が主要因ということで」

部長が言った。

私は、

「違います」

と言おうとした。

でも。

対応が遅れたのは事実だった。

一日。

たった一日。

でも、

遅れた。

「はい」

と言えば、

会議は終わる。

私一人の評価が下がる。

他の人間は助かる。

昔なら、

たぶん誰かのミスを探していた。

自分だけが損をしないように。

今度は、

全部自分で背負えばいい?

違う。

それも、

善人ごっこだ。

「私の対応が遅れたのは事実です」

私は言った。

「ただ、それだけを主要因とするのは違います」

空気が止まる。

「顧客側の予算縮小は三か月前から出ています。前任者の引き継ぎ不足もありました。私にも責任はあります。でも、全部ではないです」

部長が眉をひそめた。

「責任逃れ?」

来た。

私は少し笑った。

「逆です」

「何が」

「自分の分だけ引き受けたいんです」

会議室が静かになる。

「他人の分まで背負えば善人になれるし、自分の分まで他人に渡せば被害者になれます。でも」

私は息をした。

「どっちも嫌なんです」

声が震えていた。

格好悪い。

手も震えている。

でも、

言った。

「私がやったことは私が引き受けます。やってないことまで、私の商品説明に書かないでください」

誰も笑わなかった。

三枝だけが、

少し下を向いた。

会議後。

トイレ。

吐いた。

格好いいことを言った人間は、

トイレで吐かないと思っていた。

吐く。

普通に。

膝も震える。

鏡を見る。

「だっさ」

自分に言った。

水で口をすすぐ。

自由というものは、

もっと爽快なものだと思っていた。

風。

バイク。

海。

そういうもの。

違った。

自由は、

トイレの個室で吐いたあと、

それでもさっき言ったことを撤回しない、

みたいなものなのかもしれない。

金曜日。

三枝が言った。

「契約更新、条件付きで通ると思う」

「そうですか」

「ただ、改善プランは受けてもらう」

「分かりました」

「で」

三枝が私を見る。

「受ける?」

ここで、

辞める、

と言えば格好いい。

会社なんか捨てて、

自由になる。

でも。

会社を辞めれば自由になるのか?

違う会社へ行けば、

また評価される。

フリーランスでも、

顧客から評価される。

人間関係でも、

人は人を評価する。

世界から採点を消すことなどできない。

問題は、

評価されることではない。

評価を、

自分そのものと信じること。

私は資料を見た。

「受けます」

三枝が驚いた。

「受けるの?」

「はい」

「さっきまであんな反抗してたのに」

「反抗と退職は別でしょう」

三枝が笑った。

「面倒くさいな朝倉さん」

「よく言われます」

「条件は?」

「あります」

私はペンを取った。

改善プランの項目。

応答時間。

売上。

更新率。

その横。

空白。

「顧客の継続支援に必要な裁量時間を明文化してください」

「は?」

「数字に入らない仕事を全部ボランティア扱いされたくないです」

三枝が黙る。

「それと」

「まだあるの」

「ランキングは見ません」

「それは勝手にして」

「はい」

私はペンを置いた。

会社を辞めなかった。

世界を壊さなかった。

制度も残った。

私は勝者にならなかった。

ただ、

レースから一つ降りた。

順位を、

自分の名前だと思うレースから。

帰り。

雨。

また。

私は安い傘を差していた。

駅前。

広告。

あなたの可能性を最大化する転職

最大化。

人間は、

最大でなければいけないのだろうか。

私は笑った。

「負けてやるさ」

小さく言った。

誰にも聞こえない。

「そのレースから降りてやる」

でも、

歩く。

生活する。

働く。

間違える。

誰かを踏むかもしれない。

謝るかもしれない。

許されないかもしれない。

それでも。

私の生は、

無垢ではない。

透明でもない。

水たまりみたいに、

濁っている。

その濁りまで含めて、

私のものだ。

だから。

誰かに、

値札だけは貼らせない。


第四章 改札を抜けて

半年後。

私は相変わらず同じ会社にいた。

驚くほど、

世界は変わらなかった。

評価制度もある。

ランキングもある。

三枝もいる。

部長もいる。

家賃も上がった。

コンビニのコーヒーも高くなった。

私は、

十八位だった。

知らなかった。

木村さんに教えられた。

「朝倉さん十八位らしいよ」

「なんで知ってるんですか」

「昔の同僚から聞いた」

「見てないのに」

「偉いじゃん」

「何が」

「順位上がった」

「そうじゃなくて」

二人で笑った。

私は時々、

木村さんのNPOを手伝うようになった。

月に一度。

無給。

会社なら評価対象外。

人生では、

評価不能。

それでいい。

ある夜。

仕事帰り。

雨が上がった。

改札。

人。

電子音。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

昔と同じ。

急かす音。

私は立ち止まった。

後ろから人が来る。

邪魔になる。

横へ避けた。

立つ。

駅の天井。

広告。

光。

誰かの足音。

私は思った。

昔は、

この改札の向こう側に、

社会があると思っていた。

こちらが私。

向こうが世界。

でも、

違う。

私はもう、

とっくに世界の内部にいる。

誰かの負債を持っている。

自分の負債もある。

誰かを踏んだ。

誰かに踏まれた。

助けられた。

傷つけた。

汚れている。

つまり。

逃げ切ることなんて、

最初からできなかった。

自由とは、

世界の外へ出ることではない。

世界の中で、

世界が貼った値札を、

そのまま自分の名前にしないこと。

たぶん、

それくらいだ。

小さい。

でも、

それで十分だった。

私はICカードを取り出した。

改札へ。

その瞬間、

後ろから、

「すみません」

声。

振り返る。

若い女の人。

財布を落としている。

私は拾った。

「これ」

「あ、ありがとうございます」

渡す。

それだけ。

善行。

一点。

なんて、

誰も採点しない。

私も、

しない。

女の人は走っていった。

私は、

ふと思う。

善人ではない。

でも、

善いことをしてはいけないわけじゃない。

勝者ではない。

でも、

何かを成功させてはいけないわけでもない。

肩書きは、

牢獄になる。

善人。

悪人。

勝者。

敗者。

被害者。

加害者。

欠陥品。

優良品。

全部、

便利なシール。

でも人間は、

一枚のシールには収まらない。

私は、

私ですら、

まだよく分からない。

だから。

値決めなんて、

なおさら無理だ。

ICカード。

ピッ。

ゲートが開く。

以前と同じ音。

でも、

少し違って聞こえた。

いや。

音は、

何も変わっていない。

変わったのは、

聞く側だ。

私は改札を抜ける。

急がない。

後ろを塞がない程度に。

普通の速度で。

階段。

夜。

雨上がり。

濡れた道路。

街灯。

ビル。

コンビニ。

排気ガス。

遠くのサイレン。

美しくもない。

醜くもない。

ただ、

私が生きている街。

鞄のポケットには、

三枝から渡された新しい評価票。

まだ見ていない。

たぶん帰ったら見る。

見たっていい。

十八点でも。

百点でも。

ゼロでも。

それは、

私についての情報だ。

私そのものではない。

私は傘を閉じた。

濡れた柄。

冷たい。

その冷たさを、

自分の手で握る。

勝者を名乗らない。

善人も名乗らない。

だからといって、

敗者にも、

悪人にもならない。

私は、

誰かを踏んだことを忘れない。

踏まれたことも、

免罪符にしない。

負ける日もある。

逃げる日も。

卑怯な日も。

優しくできる日も。

その全部を、

私の生として引き受ける。

誰にも売らない、

なんて大げさなことは言わない。

働けば時間を売る。

店では金を払う。

愛すれば、

心の一部を誰かへ預ける。

人間は、

何も差し出さずには生きられない。

だからこそ。

最後のひとつだけ。

何を差し出すかを決める権利まで、差し出さない。

それが、

私にとっての自由だった。

世界は、

今日も勝手に値段をつける。

年収。

年齢。

順位。

肩書き。

顔。

実績。

フォロワー。

市場価値。

好きにすればいい。

私は、

その数字を見ながら、

必要なら使う。

時には悔しがる。

時には喜ぶ。

でも、

それを自分の名前にはしない。

夜の交差点。

信号が青になる。

私は歩き出す。

誰かより前へ行くためではなく。

誰かより正しくなるためでもなく。

ただ、

自分の足で、

次の一歩を選ぶために。

値札を剥がしたまま。

濁ったまま。

未完成のまま。

私は、

夜の街へ歩いていった。

2026-08-27

宛先のない春

 



あるいは、遅すぎた答えを投函する方法


序章 住所のない封筒

手紙を書こうと思った。

あなたに。

そう決めてから、三時間経った。

机の上には白い便箋が四枚。

一枚目には、

「元気ですか」

と書いて破った。

二枚目には、

「久しぶり」

と書いて破った。

三枚目には何も書けなかった。

四枚目だけが、まだ白い。

元気ですか、と訊く資格があるのか分からない。

久しぶり、と言えるほど、私たちは今も何かでつながっているのか分からない。

そもそも。

この手紙をどこへ送ればいいのかも知らない。

あなたが今どこに住んでいるのか。

どんな部屋で眠っているのか。

朝、どんな顔でカーテンを開けるのか。

珈琲を飲むのか。

まだ紅茶なのか。

一人なのか。

誰かといるのか。

何も知らない。

なのに私は、

あなたを知っている気がしている。

昔の笑い方。

歩く速さ。

怒ると黙る癖。

好きだった映画。

嫌いだった食べ物。

傘を忘れること。

人の話を聞いているふりをしながら、実は窓の外を見ていること。

知っている。

いや。

知っていた。

それだけだ。

私はペンを持った。

そしてようやく、

最初の一行を書いた。

あなたへ。

そこで手が止まった。

住所のない手紙に、

宛名だけがあった。


第一章 あの夏には、答えがなかった

あなたと別れたのは、

夏だった。

暑い日だった。

そう覚えている。

本当に暑かったのかもしれない。

記憶が勝手に夏を暑くしているだけかもしれない。

人間は、

過去をそのまま保存できない。

思い出すたびに、

少しずつ書き換える。

だから、

私が覚えているあなたは、

もう本当のあなたではないのだと思う。

それでも。

記憶の中で、

あなたはまだあの日のままだ。

駅前の小さな喫茶店。

冷房が効きすぎていた。

氷の溶けかけたグラス。

あなたは、

何かを言った。

私も、

何かを言った。

内容は、

もう正確には思い出せない。

不思議だ。

あんなにも、

人生が壊れるほど重要だった喧嘩なのに。

何に怒っていたのか、

今はもう、

ほとんど覚えていない。

たぶん。

返信が遅かったとか。

約束を忘れたとか。

言い方が悪かったとか。

誰かと話していたとか。

そんなことだった。

そんなこと。

今なら、

そう言える。

でも、

あの頃は違った。

些細なことは、

些細ではなかった。

あなたの言葉の一つ一つが、

私の存在価値を決める判決のように聞こえた。

愛されているか。

大切にされているか。

自分の方が好きなのか。

相手の方が好きなのか。

勝っているのか。

負けているのか。

恋人であるはずなのに、

いつの間にか、

裁判をしていた。

あなたを裁き。

私を裁き。

そのたびに、

判決だけが出て、

誰も救われなかった。

「あのさ」

あなたが言った。

「もう、疲れた」

私は、

その一言を、

拒絶だと思った。

今なら分かる。

あれは、

助けを求める言葉だったのかもしれない。

でも、

そのときの私は、

正しく傷つくことに忙しかった。

「じゃあ、終わりにする?」

と言った。

あなたは、

すぐには答えなかった。

その沈黙が、

腹立たしかった。

私は、

自分が傷つく前に、

関係を傷つけた。

「分かった」

あなたは言った。

それだけだった。

あまりにも簡単だった。

人生は、

もっと劇的に壊れるものだと思っていた。

泣き叫ぶとか。

追いかけるとか。

雨が降るとか。

そういうものだと。

違った。

関係というものは、

レジ袋の持ち手が切れるみたいに、

普通に壊れる。

音さえ小さい。

私は店を出た。

駅前。

夕方。

信号。

車。

蝉。

世界は、

何もなかったように動いていた。

私は思った。

きっと、

明日には連絡が来る。

一週間後には、

謝る。

一か月もすれば、

笑い話になる。

だから、

帰り際に、

言ったのだ。

「じゃあ、また」

あなたも、

言った。

「うん。また」

あれが、

私たちの最後の約束だった。

約束とも呼べないほど、

小さな言葉。

また。

たった二文字。

なのに、

それは果たされなかった。

あれから何年も経った。

季節は、

律儀に巡った。

夏。

秋。

冬。

春。

また夏。

世界というものは、

人間の喪失にまるで関心がない。

桜は、

私が悲しくても咲く。

台風は、

私が元気でも来る。

朝は、

あなたがいなくても明るくなる。

最初は、

それが残酷だった。

そのうち、

救いになった。

世界が、

私の悲しみに付き合ってくれないから、

私はいつか、

悲しむ以外のことをしなければならなくなった。

仕事。

食事。

洗濯。

電車。

買い物。

眠る。

起きる。

生きるというのは、

案外、

哲学ではない。

ゴミを出し忘れないこと。

家賃を払うこと。

歯を磨くこと。

そういうものの集合体だ。

そうしているうちに、

私は少しずつ、

あなたがいない生活の専門家になった。

でも。

専門家になったからといって、

忘れたわけではない。

むしろ、

忘れないまま暮らす方法を覚えただけだった。


第二章 現在のあなたを、私は知らない

手紙の続きを書く。

たぶん、あなたはもう変わっているのだと思います。

少し考えて、

「たぶん」に線を引いた。

何を知ったふうに。

私は、

今のあなたを知らない。

だから、

こう書き直した。

今のあなたを、私は知りません。

正直だった。

そして、

思ったより痛かった。

私はずっと、

あなたを思い出していた。

なのに。

思い出せば思い出すほど、

現在のあなたから遠ざかっていた。

私が愛しているのは、

記憶のあなたなのかもしれない。

そう考えた瞬間、

少し怖くなった。

もし今、

偶然あなたに会ったら。

声が変わっていたら。

笑い方が変わっていたら。

昔嫌いだったものを好きになっていたら。

知らない誰かの話を、

大切そうにしたら。

私は、

その人をあなたとして愛せるだろうか。

あるいは。

「違う」

と思ってしまうだろうか。

「私の知っているあなたじゃない」

と。

でも、

それはひどい話だ。

あなたは、

私の記憶を守るために生きているわけではない。

私の中のあなたと同じでいる義務など、

どこにもない。

むしろ。

変わっていてほしい。

私の知らない年月を、

ちゃんと生きていてほしい。

私の知らない人と笑っていてほしい。

知らない街を歩いていてほしい。

新しいことを好きになっていてほしい。

それを願うと、

胸が少し痛む。

私は、

その痛みを、

嫉妬と呼んでもいいし、

愛と呼んでもいい。

どちらでも、

たぶん同じだ。

昔の私は、

愛するということを、

相手を理解することだと思っていた。

あなたの気持ち。

あなたの考え。

あなたの優先順位。

全部分かりたかった。

「どうして分かってくれないの」

何度も言った。

今なら、

あの言葉の傲慢さが分かる。

「分かってほしい」

ではなく、

本当は、

「私の理解できる形で存在してほしい」

と言っていたのだ。

あなたが、

私の予想どおりに愛してくれないと、

不安だった。

私の望む速度で返信しない。

私の望む言葉で謝らない。

私の望む形で寂しがらない。

そのたび、

私は、

あなたを「間違っている」と思った。

でも。

他者というものは、

そもそも、

自分の期待から外れている存在なのだ。

全部理解できるなら、

それはもう他者ではない。

自分の中に作った、

人形だ。

この答えに、

今になって辿り着いた。

遅すぎた。

笑ってしまうくらい。

あの夏の私に、

今の私の頭を一時間だけ貸すことができたなら。

たぶん、

別れなかった。

あるいは、

もっと上手に別れられた。

どちらでもいい。

少なくとも、

あんなふうには傷つけなかった。

でも、

時間は一方通行だ。

答えは、

必要なときに届くとは限らない。

むしろ。

人間というものは、

必要だった答えを、

その必要がなくなった頃に理解する生き物なのかもしれない。

それが、

成長というものなら。

ずいぶん意地悪な仕組みだ。

私は便箋に書いた。

あの頃、私はあなたを分かりたいのだと思っていました。

でも本当は、あなたに私の分かる人でいてほしかったのだと思います。

その下に、

長い空白。

そして。

ごめんなさい。

書いた。

その五文字を、

ずっと言いたかった。

でも、

その五文字こそ、

もう届く必要がないのかもしれなかった。


第三章 果たせない約束の保存方法

あなたと交わした約束は、

たくさんあった。

旅行。

映画。

店。

季節。

「来年も」

「今度」

「いつか」

「また」

未来を指す言葉ばかりだった。

恋をしているとき、

人間は未来を当然のように所有する。

来月。

来年。

次の春。

その頃も、

隣にいることを疑わない。

でも、

未来は共有物ではなかった。

少なくとも、

契約書ではなかった。

「今度行こう」

と笑った場所へ、

私は一人で行ったことがある。

あなたと行くはずだった海。

特別な理由はなかった。

ただ、

もう避けるのが嫌になった。

電車。

駅。

潮の匂い。

曇った海。

思ったより小さかった。

私は浜辺に座って、

笑った。

何年も、

あの場所を、

「果たせなかった約束の場所」

として巨大にしていた。

でも実際には、

ただの海だった。

風が吹いて。

犬が走って。

子どもが貝を拾っていた。

私たちの約束が果たされなかったからといって、

海は何も失っていなかった。

失ったのは、

私だけだった。

いや。

それも違う。

私は、

約束そのものを失ってはいなかった。

果たせない約束は、

消えない。

むしろ、

果たされた約束よりも、

長く残ることがある。

達成されなかったから、

時間の中で完結できない。

ずっと未来形のまま、

心のどこかに残る。

「いつか」

その「いつか」が、

永遠に来ない。

だから、

腐らない。

だから、

痛い。

海を見ながら、

ふと思った。

約束とは、

未来について交わす言葉ではないのかもしれない。

「また会おう」

という言葉は、

未来を保証しているようで、

本当は、

現在を肯定している。

「今のあなたといる時間を、

未来にも続けたい」

という意味。

なら。

約束が果たされなかったとしても。

あの瞬間、

私は確かに、

続いてほしいと思っていた。

あなたも、

たぶん。

それだけは、

嘘ではなかった。

未来が実現しなかったからといって、

過去の願いまで偽物になるわけではない。

そのことに気づいたら、

少しだけ、

約束を恨まなくなった。

果たせない約束は、

失敗ではなく、

ある時点で本当に存在した願いの化石なのかもしれない。

掘り返せば、

そこに、

昔の私たちがいる。

未熟で。

面倒で。

自分勝手で。

でも、

本当に、

次の日を一緒に見たかった二人。

私は、

その二人を、

少しだけ許した。

帰りの電車。

窓に自分の顔が映った。

年を取った。

当たり前だ。

あなたも、

きっと。

私は、

昔の自分へ言ってみた。

「大丈夫」

違う。

大丈夫ではなかった。

だから言い直した。

「それでも、生きるよ」

窓の向こうに、

街の灯り。

私は、

今の自分を、

昔の自分より好きかと訊かれたら、

答えられない。

でも。

少しだけ、

扱い方は上手くなった。


第四章 春に投函するもの

春になった。

花が咲いていた。

毎年咲く。

毎年、

同じようで違う。

私は、

完成した手紙を封筒に入れた。

十枚。

長すぎる。

あなたは、

昔から長文が苦手だった。

そんなことを思って、

笑った。

切手は貼らなかった。

住所も書かなかった。

表には、

あなたの名前さえ、

書かなかった。

「あなたへ」

それだけ。

郵便物としては、

完全に失格だった。

でも。

これは、

届かなくていい。

ようやく、

そう思えた。

私が書きたかったのは、

復縁のお願いではない。

現在のあなたの生活を、

乱したいわけでもない。

「私を覚えていて」

とも思わない。

忘れていてもいい。

むしろ、

私とのことなど、

思い出さない日が増えていてほしい。

それは、

少し寂しい。

でも、

寂しさと願いは、

同時に存在できる。

人間の気持ちは、

一つに整理されなくていい。

愛している。

会いたい。

会わない方がいい。

忘れたくない。

忘れてほしい。

幸せでいてほしい。

その幸せの中に、

私はいなくていい。

全部、

本当だ。

若い頃の私は、

感情に一つの答えを求めすぎた。

好きなら、

一緒にいるべき。

嫌なら、

別れるべき。

愛しているなら、

分かり合えるべき。

そんな単純な式を、

人間に当てはめていた。

でも。

人間は、

矛盾したまま生きられる。

むしろ、

矛盾しているから、

生きているのかもしれない。

私は手紙を持って、

川沿いを歩いた。

桜。

風。

人。

子ども。

自転車。

世界は、

相変わらず、

私とは関係なく春だった。

郵便ポストがあった。

赤い。

私は立ち止まった。

投函するふりをする。

もし、

ここに入れたら。

住所不明。

返送。

あるいは廃棄。

それだけ。

手紙は、

あなたへ届かない。

私は、

それを分かっている。

だから、

ポストへ入れなかった。

代わりに、

川沿いのベンチへ座った。

封筒を膝に置く。

風。

花びら。

一枚。

封筒の上へ落ちた。

私は、

そのままにした。

ねえ。

あなた。

これは、

あなたへの手紙ではないのかもしれない。

あなたといた頃の私。

私といた頃のあなた。

そして、

「私たち」と呼ばれていた、

もう存在しない何か。

その全部へ、

書いたのだと思う。

だから、

宛先がない。

宛先がないのは、

悲しいことだと思っていた。

でも、

今は少し違う。

宛先がないということは、

返事を待たなくていいということだ。

許してもらわなくていい。

理解してもらわなくていい。

もう一度愛してもらわなくていい。

私は、

私の言葉を、

私が引き受ければいい。

それが、

たぶん、

この手紙の届く場所だ。

私は封筒を開いた。

最後の一枚。

最後の文章。

あなたに会いたいと思うことがあります。

でも、会いたいという気持ちと、会うべきだということは、同じではないのだと今は分かります。

あなたとした約束を、私は果たせませんでした。

たぶん、これからも果たせません。

でも、果たせなかったからといって、あの日の気持ちまで嘘だったとは思いません。

私は確かに、あなたと明日を見たかった。

それだけは、今でも本当です。

そして。

最後の行。

遅くなって、ごめん。

書いてから、

消した。

違う。

謝罪ですら、

返事を求める形になる気がした。

少し考える。

そして、

書いた。

遅すぎたけれど、ようやく分かりました。

それで、

終わった。


終章 手紙は届かなくても、言葉は残る

手紙は、

燃やさなかった。

捨てなかった。

送らなかった。

家へ持ち帰って、

机の引き出しへ入れた。

それでいい。

いつか、

読み返すかもしれない。

読まないかもしれない。

引っ越しのときに、

捨てるかもしれない。

誰かに見つかるかもしれない。

分からない。

未来は、

もう、

所有しなくていい。

窓を開ける。

春の風。

部屋のカーテンが揺れる。

私は、

ふと思う。

あなたも、

どこかで同じ風に触れているだろうか。

すぐに、

その考えを笑った。

知らない。

知らなくていい。

同じ風でなくてもいい。

私はここにいる。

あなたは、

どこかにいる。

あるいは、

私の知らない人生を生きている。

それでいい。

私たちは、

もう「私たち」ではない。

そのことを、

ようやく、

悲しみだけではなく言える。

昔。

あなたと、

「また」

と言った。

果たせなかった約束。

今でも、

胸の奥にある。

でも、

もう焦げ跡だけではない。

あれは、

私たちが未来を望んだ証拠だった。

実現しなかった未来も、

望んだことまでは消えない。

そして。

遅すぎた答え。

あなたを全部理解する必要なんて、

なかった。

私を全部理解してもらう必要もなかった。

傷つけない関係になる必要もなかった。

ただ、

傷つけたときに、

少し立ち止まればよかった。

分からないときに、

分からないと言えばよかった。

愛していることと、

理解していることを、

同じにしなければよかった。

そんな簡単なこと。

そんな難しいこと。

答えは、

もう何の役にも立たない。

あなたとの関係を、

修復してはくれない。

過去も、

変えない。

だからこそ、

たぶん、

答えなのだ。

答えというものは、

問題を解決するためだけにあるのではない。

二度と戻れない場所を、

初めて正しく見つめるために、

あとから現れる答えもある。

私は、

そう思う。

春の光が、

机の引き出しの隙間に落ちている。

そこには、

宛先のない手紙。

誰にも届かない。

でも。

書いた私は、

少しだけ、

前より遠くへ行ける。

あなた。

さようなら。

いや。

それも違うか。

さようならは、

もう昔に済ませていた。

だから。

今は、

これでいい。

ありがとう。

返事はいらない。


ブルーアワーの数え方



14歳、偽物の私と不揃いなふたり


第一章 ブルーアワーと、私より私らしいAI

十四歳の私は、自分の言葉を打つのが苦手だった。

正確に言えば、言葉そのものが苦手なのではない。

送信ボタンを押す直前の、あの数秒間が苦手だった。

これを送ったら、嫌われないだろうか。

冷たいと思われないだろうか。

面倒くさい子だと思われないだろうか。

「笑」を付けたほうがいい?

句点は怖い?

スタンプだけなら軽すぎる?

既読を付けてから三分経っている。

五分なら遅い?

一分なら必死っぽい?

私は十四年間生きてきて、人類とはどういう生き物なのかほとんど理解できていなかった。

でも、

人間は文字の最後についた句読点一個で怯える生き物らしい

ということだけは、かなり確信していた。

だから私は、MIRRORを使っていた。

私の通う市立青葉中学校では、今年から全校生徒の学習用タブレットに、

MIRROR

というAI生徒支援システムが導入されていた。

名前の由来は知らない。

Mirror。

鏡。

生徒の状態を映すからなのか。

それとも、

私たち自身より上手に「私たちらしさ」を映すからなのか。

MIRRORには、宿題の補助だけでなく、

文章添削。

進路相談。

生活習慣。

友人関係。

ストレス状態の推定。

会話文の提案。

いろいろな機能があった。

例えば、

クラスのグループチャットで、

今日の体育祭練習おつかれ! 明日もがんばろー!

と誰かが書く。

私は返信欄に、

「おつかれ」

と打つ。

すると画面の端に、

《天野藍さんの通常のコミュニケーション傾向と、現在のグループ内雰囲気を考慮した表現候補があります》

と出る。

タップ。

みんなおつかれさま!
今日めっちゃ暑かったけど楽しかった笑
明日もがんばろ〜!

私はそれを選ぶ。

送信。

すぐに、

ハート。

スタンプ。

「藍ちゃんもおつー!」

「ほんと気が利くよね藍って」

が返ってくる。

私はスマホを見ながら思う。

それ、

私じゃないけど。

私の名前は、

天野藍。

あまの、あい。

藍色の藍。

小さい頃から、

「きれいな名前だね」

と言われてきた。

でも私は、

自分の名前が少し嫌いだった。

藍色というものが、

どんな色なのかよく分からなかったから。

青?

紺?

紫?

黒に近い青?

同じ「藍」でも、

見る場所で違って見える。

まるで、

私みたいだと思った。

家では、

「おとなしくて手のかからない娘」。

学校では、

「優しくて気が利く子」。

先生には、

「もう少し自信を持てば伸びる子」。

SNSでは、

「カフェと空の写真が好きな普通の中学生」。

でも、

一人で布団に潜っているときの私は、

時々ものすごく性格が悪い。

仲のいい子がテストで失敗すると、

一瞬だけ安心する。

誰かが褒められると、

ちょっと嫌になる。

母親に優しくされても、

うるさいと思うことがある。

グループチャットで、

「大丈夫だよ!」

と送った相手に、

本当は、

知らんがな、

と思っていることもある。

では、

どれが私なのだろう。

MIRRORは、

その問題を簡単に解決してくれた。

《天野藍さんは、共感性が高く、対人関係において調和を重視する傾向があります》

だそうだ。

へえ。

私って、

そうなんだ。

ある日の放課後。

私は体育館裏のベンチで、

友達の真由からメッセージを受け取った。

今日部活で先輩に怒られた
もう辞めたい
私って何やってもダメだわ

私は返信欄を開く。

本当は、

「そっか」

くらいしか出てこなかった。

でもそれでは冷たい。

MIRROR。

提案。

真由がダメなんじゃないよ。
今日はしんどかっただけだよ。
今まで頑張ってたの知ってるし、私は味方だからね。
無理しすぎないでね。

私は送った。

数分後。

藍って本当に優しい
ありがとう
藍に話してよかった

画面を見た。

胸の奥が、

少しだけ温かくなった。

同時に、

冷たくなった。

私は、

何も言っていない。

あの言葉を作ったのは、

私ではない。

でも真由が救われたなら、

それでいい?

良い言葉とは、

誰が言ったかより、

誰かを救えたかの方が大事?

だったら。

MIRRORが、

私より優しくて、

私より気が利いて、

私より私らしいなら。

私って、何のためにいるんだろう。

その日、

私はすぐには家へ帰らなかった。

駅前の歩道橋へ上がった。

夕方。

太陽は沈んでいるのに、

まだ夜ではない。

街は輪郭を失い始めていた。

建物の窓に青が映る。

道路。

信号。

空。

全部が、

一度水の底へ沈んだような色になる。

私はこの時間が好きだった。

後で知った。

ブルーアワー

というらしい。

昼でもない。

夜でもない。

学校でもない。

家でもない。

中学生でも、

娘でもない。

誰にも見られていない数十分。

その時間だけ、

私は、

まだ名前を付けられていない何かでいられた。

私は欄干にもたれた。

タブレットを開く。

MIRRORの画面。

《天野藍さん、本日の対人コミュニケーションは非常に良好でした》

「そっか」

《友人への共感的応答が、関係維持に良い影響を与えたと推定されます》

「私じゃないけど」

《入力内容を確認できませんでした》

私は笑った。

機械に嫌味を言っても仕方がない。

画面を閉じる。

青い空。

息を吸う。

深く。

でも、

胸の奥まで入らない。

「私って」

声にした。

「どこにいるんだろ」

空は、

何も答えなかった。

そのとき。

「そこにいるんじゃない」

後ろから声。

振り返る。

制服。

知らない女子。

いや。

知っている。

今日転校してきた子。

水野零。

みずの、れい。

変な名前。

零。

ゼロ。

「聞いてた?」

「聞こえた」

「盗み聞き」

「歩道橋で独り言言う方が悪い」

感じ悪い。

彼女は私の横を通り過ぎる。

そして、

少し離れた場所で立ち止まった。

「……そこってどこ」

私が訊いた。

零は振り返らない。

「知らない」

「知らないの?」

「うん」

「じゃあ適当言わないでよ」

「でも」

零は、

青い空を見た。

「少なくとも、AIの中じゃないんじゃない」

私は、

何も言えなかった。


第二章 秘密の奪還と、理解しない少女

水野零は、

クラスで浮いていた。

当然だと思う。

空気を読まない。

というより、

読めるのに、読んでも従わない。

そんな感じだった。

昼休み。

女子四人で、

「誰が一番〇〇先生に好かれてると思う?」

という、どうでもいい会話をしていた。

零は、

「どうでもよくない?」

と言った。

空気が死んだ。

別の日。

クラスメイトが髪型を変えて、

「どう?」

と聞いた。

みんな、

「かわいい!」

「似合う!」

と言った。

零は、

「前の方が好き」

と言った。

また空気が死んだ。

私は思った。

怖くないのかな。

零はMIRRORをほとんど使っていなかった。

「便利なのに」

私が言う。

「何が」

「文章とか直してくれる」

「自分で書けばいいじゃん」

「変なこと言ったら」

「謝れば」

「嫌われたら」

「全員に好かれるの無理でしょ」

「簡単に言うね」

「簡単じゃない」

零は牛乳パックを潰した。

「嫌われるの普通に嫌だし」

私は驚いた。

「気にしない人なのかと思った」

「めっちゃ気にする」

「じゃあ、なんで」

零は少し考えた。

「怖いからって、全部合わせてたら、もっと怖くなるから」

「何が」

「誰もいないのに、ずっと誰かに見られてる感じ」

その言葉。

私には、

妙に分かった。

私はMIRRORの利用履歴を開いた。

一年分。

作文。

質問。

進路相談。

メッセージ候補。

検索。

ストレス。

全部。

AIは、

私について、

私以上に記録していた。

《天野藍さんは、この場面では否定を避ける傾向があります》

《天野藍さんは、他者から拒絶される可能性がある場合、自己主張を抑制する傾向があります》

《天野藍さんは、母親との関係において、怒りを言語化せず抑圧する傾向があります》

「やめてよ」

私はつぶやいた。

知ってる。

いや、

知られたくなかった。

自分ですら、

ちゃんと見たくないものだった。

私は設定を開く。

学習履歴削除

押す。

警告。

《教育支援の品質が低下する可能性があります》

押す。

《一部データは学校教育システム上の安全管理のため保持されます》

削除。

《処理しました》

安心。

しなかった。

消したところで、

真由の中の、

「優しい藍」は消えない。

先生の中の、

「気遣いのできる藍」も。

母の中の、

「反抗しない娘」も。

私は、

他人の中に、

もう保存されている。

削除ボタンがない場所へ。

その日の夕方。

また歩道橋。

零がいた。

「ここ好きなの」

私が訊いた。

「家帰る前に時間つぶしてる」

「同じだ」

「何が」

「私も」

零は欄干に肘をつく。

ブルーアワー。

二人。

私はずっと言おうか迷っていた。

MIRRORを使えば、

自然な切り出し方を提案してくれるだろう。

でも、

今日は端末を出さなかった。

「あのさ」

「うん」

「水野さんって」

「零でいい」

「……零って」

変な感じ。

「怖くない?」

「何が」

「変な子って思われるの」

「思われてるよ」

「そうじゃなくて」

私は言葉に詰まる。

「他人が思ってる自分と、本当の自分が違うのって」

零がこちらを見る。

「そりゃ違うでしょ」

「平気なの?」

「なんで?」

「だって」

私は急に、

喉が熱くなった。

「私、分かんなくなってきて」

零が黙る。

「みんなが思ってる私と、AIが分析した私と、一人でいるときの私が違う」

風。

「で?」

「どれが本物なの」

零は、

少し眉をひそめた。

「知らない」

「……え?」

「知らないよ」

「でも」

私は、

なぜか腹が立った。

「零みたいな人なら分かると思った」

「何それ」

「だって零は自分持ってるじゃん」

「持ってないよ」

「あるじゃん」

「ない」

零は即答した。

「昨日好きだった曲、今日もう飽きてるし。家では母親と喧嘩するし。学校だと面倒だから黙ってる時あるし」

「でも」

「私だってぐちゃぐちゃだよ」

私は黙る。

そして、

言ってしまった。

「じゃあさ」

情けない声。

「私の本当のところ、見抜いてよ」

零の顔が、

少し変わった。

「は?」

「私が誰なのか」

「知らないって言ってるじゃん」

「でも友達になったら」

「まだ友達とも言ってない」

「ひど」

「ていうか」

零が私を見る。

「何で私が決めるの?」

その言葉。

痛かった。

「だって」

「私が『藍はこういう子』って言ったら、それ信じるの?」

「……」

「それ、AIと何が違うの」

私は何も言えない。

零は続けた。

「私はあんたのこと全部分からない」

冷たい。

でも、

その次。

「分かるわけないじゃん」

零は、

少しだけ笑った。

「私じゃないんだから」

私は、

なぜか、

泣きそうになった。

優しいことなんて、

一つも言われていないのに。


第三章 「全部わかる」という監獄

MIRRORが、

私を心配し始めた。

《最近、心理的負荷の上昇が見られます》

学校のタブレットを開くたび、

表示される。

《対人関係に関する支援を強化しますか?》

いいえ。

《睡眠時間が減少しています》

いいえ。

《自己評価の低下を示唆する記述があります》

いいえ。

《天野藍さんの今後の学校生活を安定させるため、推奨行動モデルを表示できます》

私は、

なぜか押してしまった。

表示する。

画面が変わる。

《現在の行動傾向から、良好な学校適応を維持する確率が高い選択》

・グループ内で強い否定表現を避ける
・水野零さんとの交流頻度を調整する
・進学先は地域上位公立高校を第一志望とする
・家庭内で母親への反発を直接表明することは避ける
・SNS投稿頻度を週3回程度に維持する

私は、

固まった。

「零との交流頻度を調整?」

《水野零さんとの接触後、ストレス指標の変動が確認されています》

「余計なお世話」

《入力内容を確認しました。表現をより対話的に修正しますか?》

「しなくていい!」

声を出した。

教室。

数人がこちらを見る。

私は画面を閉じた。

その夜。

MIRRORから通知。

《あなたに最適化された将来予測プロフィールを作成しました》

嫌なのに、

開いた。

高校。

大学。

就職。

交友関係。

恋愛。

生活。

《現在の特性を維持した場合、安定した社会適応が期待できます》

《対人衝突を避けることで、精神的負荷を低く維持できます》

《天野藍さんは、他者支援型の職業との適性が高いと予測されます》

画面の中で、

未来の私が笑っていた。

柔らかい服。

優しそうな顔。

感じがいい。

誰からも嫌われなさそう。

私は、

その女が嫌いだった。

「誰」

画面へ訊く。

もちろん返事はない。

「それ誰なの」

私?

本当に?

十四歳の私を、

何百何千というデータ点へ分解し、

そこから作った未来。

それは、

私の未来なのか。

それとも、

今の私を延長しただけの檻なのか。

人間が成長するって、

予測どおりになることなの?

私は十四歳。

まだ何にもなっていない。

なのに、

MIRRORは、

「あなたはこういう人間です」

と先に書く。

便利。

優しい。

間違いを減らしてくれる。

でも。

その優しさには、

出口がない。

母に呼ばれた。

「藍」

リビング。

「最近、学校から連絡来たんだけど」

心臓。

「何」

「MIRRORでストレス値が少し上がってるって」

私は凍った。

「……学校、そこまで見るの?」

「心配してくれてるんでしょう」

「嫌」

「何が?」

「見ないでほしい」

母が困った顔をする。

「でも、何かあったとき分かった方がいいじゃない」

「何でも?」

「藍のためでしょ」

その一言。

私のため。

MIRRORも、

先生も、

母も。

全部、

私のため。

私は急に、

息ができなくなった。

「何でも分かったら」

「藍?」

「私、どこに隠れればいいの」

「何言って」

私は家を飛び出した。

歩道橋。

夜。

ブルーアワーは、

もう終わっていた。

空は黒い。

息。

苦しい。

私はタブレットを持っていた。

なんで持ってきたのか分からない。

画面。

《現在、強いストレス反応が推定されています》

「黙って」

《呼吸を整えましょう》

「黙って!」

《必要であれば》

「私のこと全部分かったみたいに言うな!」

歩道橋に声が響く。

「藍!」

零。

走ってくる。

「何してんの」

「来ないで!」

「なんで」

「分かんない!」

私は泣いていた。

「私、誰だか分かんない!」

零が止まる。

「AIの私の方が優しい! 頭いい! 失敗しない! みんなが好きな私を作れる!」

声が割れる。

「じゃあ、生身の私は何なの!」

零は黙っている。

「私のこと全部理解してくれる人なんて、どこにもいない!」

零の顔が、

怒った。

「当たり前でしょ!」

私は止まった。

「……え」

「当たり前だって言ってんの!」

零が近づく。

「私があんたのこと全部分かるわけないじゃん!」

「そんなの」

「私、あんたじゃないんだから!」

風。

車。

光。

「でも」

零は私を見る。

「それの何が悪いの」

私は泣きながら、

何も言えない。

「全部理解されたら」

零が言う。

「それ、もうあんたじゃなくて、相手が理解した範囲の人形じゃん」

「……」

「AIがどれだけデータ持ってても、それは昨日までの藍でしょう」

昨日まで。

「明日、急に髪切るかもしれない」

「切らない」

「知らん」

「ひど」

「嫌いなもの好きになるかもしれない。好きなもの嫌いになるかもしれない。今まで言わなかったこと言うかもしれない」

零は、

私の肩を掴んだ。

強くない。

「予測外れるかもしれない」

私は零を見る。

「……それでいいの」

「何が」

「予測外れて」

零は、

ちょっと笑った。

「生き物って、そういうもんじゃない?」

その瞬間。

私は、

初めて、

未来というものを想像した。

予測ではなく。

まだ書かれていないものとして。


第四章 Think Blue, Count One, Two

翌日の夕方。

私と零は、

また歩道橋にいた。

今度は、

ちゃんとブルーアワーだった。

空。

藍色。

夜の直前。

私はタブレットを開いた。

設定。

MIRROR。

自動返信支援。

オフ。

文章補正。

オフ。

対人関係予測。

オフ。

行動提案。

オフ。

最後に、

確認画面。

《支援機能を停止すると、コミュニケーション上の失敗やストレスが増加する可能性があります》

私は、

笑った。

「知ってる」

オフ。

画面が静かになった。

ただの入力欄。

何も提案されない。

少し、

怖かった。

それが、

嬉しかった。

「消さないんだ」

零が言う。

「MIRROR?」

「うん」

「消しても意味ないし」

「悪いやつなの?」

私は考えた。

「悪くないと思う」

「へえ」

「便利だし。助かったこともある」

「じゃあ何が嫌だったの」

私は空を見る。

「全部、私より先に決められるのが嫌だった」

「なるほど」

「あと」

少し考える。

「全部分かってもらえるのが、いいことだと思ってた」

零が笑う。

「重」

「うるさい」

私は欄干に手を置く。

冷たい。

「ねえ」

「何」

「変なことやっていい?」

「いつも変だけど」

「まだ二週間しか知らないくせに」

「十分」

私は目を閉じる。

青。

外の青。

内側の青。

言葉にする。

「Think Blue」

零が、

「英語?」

と言う。

「静かにして」

「はい」

青を思う。

これは逃げ場所ではない。

私一人だけの部屋でもない。

私と、

世界の間にある色。

私は言う。

「Count One」

「一?」

「うん」

目を開く。

「私」

零が首を傾げる。

「何が?」

「私を、一って数える」

「意味分からん」

「本当の私だからじゃない」

自分でも、

言いながら分かってくる。

「本当の私なんて、たぶんない」

「急に哲学」

「今ここにいるこれを」

胸。

手。

呼吸。

十四歳。

「これを、私ってことにする」

零が黙る。

「明日変わっても?」

訊く。

「明日はまた数え直す」

風が吹いた。

零の髪が揺れる。

私は彼女を見る。

「Two」

零が、

「私?」

と笑った。

「うん」

「なんで二」

「私じゃないから」

「当たり前」

「そこが大事なの」

私は少し笑う。

「私と同じにならないで」

零が眉を上げる。

「なる気ない」

「私のこと全部理解しないで」

「無理」

「秘密も全部聞かないで」

「興味ない」

「ちょっとは持って」

二人で笑った。

空が、

少しずつ暗くなる。

そこで私は、

ようやく分かった。

一。

二。

二人いる。

だから、

間がある。

その間には、

分からないことがある。

秘密。

誤解。

距離。

でも。

その距離があるから、

手を伸ばせる。

完全に一つなら、

手を伸ばす意味もない。

「零」

「何」

「青ってさ」

「うん」

「私と零の間みたい」

「ポエム?」

「うるさい」

私は、

少し照れた。

でも、

言った。

「離れてるけど、つながってる」

零は空を見る。

「まあ」

少し間。

「綺麗だからいいんじゃない」

それで十分だった。

翌朝。

クラスのグループチャット。

真由から。

今日委員会のプリント忘れた
先生絶対怒る泣

私は返信欄を開く。

MIRRORは、

何も出してこない。

静か。

怖い。

何て書く。

優しい言葉。

面白い言葉。

正しい言葉。

分からない。

私は打った。

それは怒られそう笑
とりあえず一緒に謝りに行く?

見る。

完璧じゃない。

「大丈夫」も、

「味方だよ」もない。

少し冷たい?

分からない。

送信。

数秒。

既読。

そして。

今日の藍なんかちょっと変じゃない?笑

胸が、

少し痛くなる。

その下。

でも来てくれるなら助かる
ありがとう

私は、

笑った。

変。

いい。

予測から外れる。

昨日と違う。

それでいい。

私はスマホを閉じた。

窓の外。

朝の空は、

ブルーアワーほど青くなかった。

でも、

少しだけ綺麗だった。


エピローグ ふたりから始まる世界

世界が本物かどうか、

私はまだ知らない。

私の記憶が全部正しいかも、

分からない。

MIRRORが作った「私らしさ」の方が、

私より正確な部分だって、

きっとある。

零のことも、

よく知らない。

家で何を考えているのか。

本当に私を友達だと思っているのか。

何を隠しているのか。

全部は分からない。

たぶん、

これからも。

以前の私は、

それが怖かった。

本当の私。

本当の友達。

本当の気持ち。

本当の未来。

どこかに正解があって、

それを見つければ安心できると思っていた。

でも。

今は、

少し違う。

本当だから数えるのではない。

数えることで、

そこから始める。

私は、

今日の私を一とする。

明日は、

また数え直す。

そして。

私ではない誰かを、

二とする。

同じにしない。

飲み込まない。

理解し尽くさない。

それでも、

隣にいる。

たぶん、

世界というものは、

もっと巨大で難しい。

でも。

世界を全部信じる必要なんて、

最初からなかったのかもしれない。

まず、

一。

それから、

二。

それだけでいい。

放課後。

歩道橋。

空が、

ゆっくり青くなる。

零が隣を歩いている。

私はスマホを出しかけて、

やめた。

写真には撮らない。

今日の青は、

今日だけでいい。

「藍」

「何」

「また変な顔してる」

「考え事」

「また哲学?」

「違う」

「じゃあ何」

私は笑った。

「数えてる」

「何を」

私は、

空を見る。

青。

そして、

自分。

隣の零。

「一」

「は?」

「二」

「意味分かんない」

それでいい。

全部分からなくても。

私はここにいる。

あなたはそこにいる。

その間に、

青がある。

だから。

たぶん、

世界はまだ、

終わっていない。

Think Blue.
Count One.
Two.

胡散くさい預言者のワルツ-第五部、果たせない約束と、遅すぎた答え



プロローグ また明日

「また明日ね」

晴が言った。

私は、

「ええ、また明日」

と答えた。

それだけだった。

世界の命運を賭けた誓いでもない。

永遠の愛を約束したわけでもない。

この忙しい一週間が終わったら、鏡の館を二日だけ閉める。

谷中の坂道を歩く。

晴が修理している古い腕時計を受け取る。

商店街の喫茶店で珈琲を飲む。

冬が近いというのに、私は冷たいのがいいと言った。

晴は呆れていた。

「絶対お腹壊すよ」

「未来が視える私が言ってるんだから大丈夫」

「自分の未来、ちゃんと見ないくせに」

「細かい男ね」

そんな会話。

二十二歳の男女が交わすには、

ささやかすぎる約束だった。

だから私は、

絶対に忘れないものになるなんて思わなかった。

約束というものは、

大きいほど心に残るのだと思っていた。

違った。

果たせなかった約束は、

大きさに関係なく、

胸の奥で焦げる。

焦げて。

こびりついて。

そこに何が書いてあったのか読めなくなっても、

黒い痕だけが残る。

あのときの私は、

まだ知らなかった。

未来を見ることのできた私が、

その未来へ辿り着けなくなることを。

過去を見ることのできた私が、

自分自身の過去すら見分けられなくなることを。

そして。

「全部視える」ということが、

神様になることではなく、

人間という小さな器が、

静かに、

静かに、

溢れていくことなのだと。


第一章 ささやかすぎる約束

秋の終わりの谷中には、

夏にも冬にもない音がある。

落ち葉が石畳を擦る音。

遠くで自転車のベル。

猫が植木鉢を倒す音。

夕方の商店街から漂ってくる魚を焼く匂い。

私はそういうものが、

嫌いではなかった。

未来ではないからだ。

過去でもない。

ただ、

今そこにある。

「鏡」

「何」

「聞いてる?」

「半分」

「一番腹立つ返事だな」

晴は私の店の奥で、

古い腕時計を分解していた。

鏡の館。

相変わらず胡散臭い名前。

相変わらず胡散臭い内装。

赤いランプ。

古いカーテン。

黒い木の机。

そして、

黒い革手袋をした女。

私。

宵野鏡。

二十二歳。

職業、

預言者。

たぶん。

「この時計、今週中には終わるよ」

晴が言った。

「そう」

「反応薄いな」

「あなたの仕事でしょう」

「依頼したの鏡じゃん」

「そうだっけ」

「そうだよ」

晴がため息をつく。

古い女性用腕時計。

銀色。

文字盤に小さな傷。

別に高価なものではない。

数年前、

蚤の市で買った。

なぜ買ったのか、

自分でもよく覚えていない。

「終わったらさ」

晴は精密ドライバーを置いた。

「店、二日くらい休まない?」

私は顔を上げた。

「なぜ」

「最近働きすぎ」

「誰が」

「君」

「胡散臭い女は暇よ」

「今日だけで六人来た」

「そのうち三人は未来じゃなく恋愛相談」

「十分働いてる」

晴は時計の裏蓋を閉める。

「散歩しよう」

「どこへ」

「谷中」

「毎日いる」

「観光客みたいに歩く」

「嫌」

「じゃあ珈琲」

「冷たいの」

「もう冬だよ」

「知ってる」

「お腹壊す」

「壊さない」

「未来見た?」

「見てない」

晴が笑った。

「じゃあ約束」

私は少し考えた。

何でもない。

本当に、

何でもないことだった。

「ええ」

答えた。

「いいわよ」

その瞬間だった。

頭の奥で、

誰かが泣いた。

私は動きを止めた。

晴が眉を寄せる。

「鏡?」

「……何でもない」

嘘だった。

店の外。

一人の老人が歩いていた。

知らない男。

ただ店の前を通っただけ。

なのに。

一瞬。

見えた。

病室。

女の子。

白い花。

老人が、

まだ若い。

誰かの手を握っている。

次の瞬間、

消える。

私はこめかみを押さえた。

「頭痛?」

「寝不足」

「最近多いね」

「年よ」

「二十二で?」

「人間、二十歳過ぎたら下り坂」

「極端」

晴は笑った。

私は笑えなかった。

黒い手袋を見る。

厚い革。

昔なら、

これをしていれば大丈夫だった。

他人に触れなければ、

入ってこない。

他人は他人。

私は私。

それを守るための、

小さな壁。

でも最近。

壁が、

薄い。

その日の最後の客は、

高校生だった。

「受験受かりますか」

「勉強しなさい」

「未来見てくださいよ」

「勉強した未来と、しなかった未来がある」

「どっちが受かります?」

「勉強した方」

「普通じゃん」

「預言者を何だと思ってるの」

少年は不満そうに帰った。

扉が閉まった瞬間。

また。

映像。

教室。

桜。

不合格通知。

合格通知。

母親の笑顔。

父親の怒り。

大学。

退学。

就職。

結婚。

事故。

私は机へ手をついた。

「多すぎる……」

口から漏れた。

少年には触れていない。

なのに。

彼の未来が、

断片ではなく、

枝分かれした森のように入ってきた。

しかも、

少年だけではない。

通行人。

店の向こう側にいる人。

誰か。

誰か。

誰か。

全部。

「鏡」

晴。

私は振り返る。

その瞬間、

彼の未来が見えた。

晴。

三十歳。

知らない家。

晴。

四十七歳。

一人で時計を直している。

晴。

二十四歳。

泣いている。

晴。

老人。

晴。

墓。

私は目を閉じた。

「やめて」

「何?」

「……いや」

晴が近づく。

私は反射的に一歩下がった。

彼が止まる。

「鏡」

「今、触らないで」

声が強すぎた。

晴は黙った。

「ごめん」

「いいよ」

「違うの」

「分かってる」

「分かってない」

「うん」

その返事が、

ありがたかった。

分かったふりをしない。

第四部で、

私はようやくそれを覚えた。

他人を全部理解したつもりにならない。

でも、

私は自分のことなら、

分かっているつもりだった。

その傲慢さが、

最後まで残っていた。

夜。

晴が帰ったあと、

私は一人で鏡の館にいた。

手袋を外す。

自分の手を見る。

白い指。

普通の手。

昔はこれが、

扉だった。

他人の人生へ入る扉。

今は、

扉というより、

穴だった。

閉めても、

漏れてくる。

私は両手を握る。

「私は」

声に出した。

「宵野鏡」

言ってみる。

「二十二歳」

もう一度。

「谷中で店をやっている」

自分の輪郭を、

言葉でなぞる。

「晴は」

少し止まる。

「晴は、遠藤晴」

時計修理職人見習い。

私の隣にいる人。

私の出口ではない。

私を救う神様でもない。

ただ、

手が温かい人。

胸が少し落ち着く。

私は机の上のメモを見る。

晴の字。

今週終わったら二日休み。逃げるな。

私はペンを取って、

その下に書いた。

冷たい珈琲。

そして。

なぜか、

泣きそうになった。

理由は分からなかった。

未来なら、

いくらでも見えるのに。


第二章 全知という名の氾濫

神条司が来たのは、

三日後だった。

五十二歳。

谷中で百年以上続く和菓子店、

「神条堂」の店主。

私も何度か羊羹を買ったことがある。

味はいい。

値段は可愛くない。

「相談がある」

司は言った。

「未来?」

「過去だ」

机の上に、

古い木箱を置く。

「うちの家は、割れる寸前だ」

「羊羹みたいに?」

「笑えない」

「ごめんなさい」

司は、

本当に笑わなかった。

相続。

土地。

古い建物。

再開発。

本家。

分家。

従兄弟。

甥。

娘。

そして、

百年近く前の火事。

話を聞くだけで、

嫌な予感がした。

「神条堂の土地は、もともとうちのものじゃなかったらしい」

「どういうこと」

「大正の終わり頃、この辺りで大火があった」

司は木箱から、

古い帳面を出した。

「隣で商売していた黒瀬という家が焼けた。その後、土地が神条家へ移った」

「買った?」

「記録上は」

「記録上は?」

「分家が言っている。先祖が火をつけて、借金の証文を焼いて、混乱に乗じて土地を奪ったんじゃないかって」

私は眉をひそめた。

「証拠」

「ない」

「じゃあ」

「でも、あるかもしれない」

箱の底。

手紙。

焦げた紙。

そして、

古い印鑑。

「今度の相続で、店を売る話が出てる」

司が言った。

「売れば莫大な金になる。でも、もし土地が不正に手に入れたものなら」

「返したい?」

「分からない」

司は笑った。

疲れた笑い。

「息子は売れと言う。妹は守れと言う。分家は金をよこせと言う。黒瀬家の子孫は謝罪を求めている」

「あなたは?」

「分からない」

また。

分からない。

最近私は、

その言葉を以前より好きになっていた。

分からない。

それは、

逃げではない。

まだ決めつけていないということ。

「私に何をしてほしいの」

「先祖の真実を見てほしい」

私は手袋を見る。

嫌だった。

身体が、

嫌だと言っている。

でも、

司の顔を見る。

困っている。

「一度だけ」

私は言った。

「あなた自身には触れない。物だけ」

司が頷く。

木箱の中から、

印鑑を出す。

私は手袋を外した。

指先で触れる。

その瞬間。

世界が、

割れた。

火。

最初に来た。

古い東京。

いや。

谷中。

百年前。

木造家屋。

叫び。

煙。

男。

女。

子ども。

帳面。

金。

嘘。

次。

戦争。

空襲。

避難。

神条家。

黒瀬家。

誰かが誰かを助ける。

誰かが誰かを裏切る。

次。

昭和。

結婚。

勘当。

遺産。

病気。

借金。

秘密。

平成。

店。

子ども。

介護。

離婚。

恨み。

謝罪。

次。

未来。

再開発。

店がなくなる。

店が残る。

親族が絶縁する。

和解する。

黒瀬家の子孫が訴える。

訴えない。

誰かが自殺する。

誰かが生きる。

誰かが店を継ぐ。

誰も継がない。

一人。

十人。

百人。

違う。

もっと。

関係した人間が、

芋づる式に増えていく。

神条家。

黒瀬家。

従業員。

客。

隣人。

子孫。

未来の子ども。

まだ生まれていない人。

「やめ」

手を離した。

はずだった。

でも、

止まらない。

「やめて」

映像。

「鏡さん?」

司の声。

誰の声。

子ども。

老人。

火。

雨。

晴。

晴?

「鏡!」

肩。

私は叫んだ。

「触らないで!」

晴が手を止める。

いつ来たのか分からない。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

口から勝手に出た。

私は床へ座り込む。

司が青ざめている。

「何が見えた」

「いっぱい」

「放火は?」

私は答えようとする。

見た。

先祖の一人。

火。

でも、

火をつけた?

違う。

火を消そうとしていた?

火を隠した?

帳面を燃やした?

誰かを守った?

映像が重なる。

どれも真実。

どれも、

一部。

「分からない」

「またか」

司の声に怒りが混じる。

「あなたなら分かると思った」

その言葉。

昔なら、

傷ついた。

今は、

もっと怖かった。

私は本当に、

分かりたいと思ってしまったから。

全部。

調べるほど、

問題は悪化した。

古い火事では、

神条家の次男が失火を隠した可能性があった。

だが、

黒瀬家の当主も、

神条家への借金帳簿を改ざんしていた。

さらに、

火事の夜、

神条家の長男は黒瀬家の幼い娘を救っていた。

土地の移転には不自然な点があった。

しかし同時に、

黒瀬家側が自ら売却した記録も残っていた。

誰か一人を悪者にすれば、

話は簡単だった。

でも、

簡単にならない。

それこそ、

第四部で学んだこと。

事実は、

人間を一つの物語へ閉じ込めるためにあるのではない。

しかし今回は。

人間が多すぎた。

一人の尊厳を守れば、

別の人間が傷つく。

昔の真実を公開すれば、

現在の家族が壊れる。

隠せば、

黒瀬家の人間は、

また歴史から消される。

相続を止めれば、

従業員が職を失う。

売却すれば、

街から店がなくなる。

未来を教えれば、

選択を固定する。

教えなければ、

避けられたはずの損失が起こる。

私は、

全部の倫理を使おうとした。

第一部。

全部を語らない。

第二部。

未来を確定させない。

第三部。

出口を決めない。

第四部。

一つの事実で人間を閉じない。

全部、

正しい。

全部、

できない。

神条家の親族が鏡の館へ集まった夜。

怒鳴り声。

泣き声。

机。

資料。

スマートフォン。

録音。

「未来を見たんでしょう!」

「誰が店を継ぐ!」

「土地は誰のものだ!」

「黒瀬家に謝るべきか!」

「うちの祖父を犯罪者扱いする気か!」

「父さんは何て言ってた!」

「教えてください!」

声。

声。

声。

私は両耳を塞ぐ。

でも。

耳から入っているわけではない。

内側。

「鏡」

晴の声。

遠い。

「一回止めよう」

「止められない」

「今日は終わり」

「でも」

未来が見える。

今ここで話を打ち切れば、

明日、

一人が単独で契約書へ署名する未来。

止めれば、

別の人が激昂する。

話し続ければ、

誰かが倒れる。

私は、

全部を避けようとする。

「売却は待って」

言う。

「でも、黒瀬家には今日中に」

違う。

その未来も悪い。

「いや」

やり直す。

「まず相続人同士で」

違う。

「待って」

未来。

未来。

未来。

「黙って!」

自分で叫んだ。

全員が止まった。

私は息をする。

「お願い」

黒い手袋の中で、

指が震えている。

「一人ずつ」

でも、

一人ずつ話しても、

その裏に十人いる。

十人の後ろに百人いる。

過去がいる。

未来がいる。

死者がいる。

まだ生まれていない人がいる。

救えない。

全部は。

「鏡」

晴。

「もういい」

「よくない」

「いい」

「誰かが傷つく」

「うん」

「私が止められる」

晴が、

静かに言う。

「全部は無理だよ」

その言葉に、

腹が立った。

「分かってる!」

叫んだ。

でも。

分かっていなかった。

いや。

分かりたくなかった。

私が一人を見捨てれば、

その人の未来が見える。

泣く顔。

後悔。

傷。

知っている。

知ってしまっている。

知らなければ、

選べた。

でも、

私は知っている。

だから、

捨てられない。

一人も。

「鏡」

晴が近づく。

そのとき。

手袋が、

床へ落ちた。

自分で外したのか。

破れたのか。

分からなかった。

黒い革。

一双。

床。

そして。

世界が、

入ってきた。


第三章 器の破裂と、遅すぎた答え

最初は、

光だった。

白い。

綺麗。

だから、

一瞬だけ、

救われたと思った。

次に、

声。

お母さん。

誰の?

「大丈夫よ」

知らない女。

子ども。

泣いている。

私は。

違う。

誰か。

学校。

赤いランドセル。

私はランドセルを持っていない。

じゃあ誰。

次。

病院。

父親が死ぬ。

私の父?

知らない。

次。

晴。

「鏡」

違う晴。

老いている。

笑ってる。

次。

晴が死んでいる。

やめて。

次。

晴が私ではない女の手を握っている。

次。

晴が一人。

次。

晴がいない。

次。

私が。

誰かを刺す。

違う。

渚。

いや。

私。

血。

違う。

律。

ナイフ。

莉乃。

絵。

黒木。

AI。

洋々館。

海。

父親。

全部。

全部、

自分の記憶のように、

痛い。

「……これ」

声が出る。

「誰の……記憶……?」

誰かが答える。

晴?

「鏡!」

その名前。

鏡。

誰?

私は。

私。

宵野。

鏡。

二十二。

谷中。

預言者。

黒い。

手袋。

ない。

どこ。

気づいたら、

夕やけだんだんを歩いていた。

なぜそこにいるのか分からない。

猫。

猫が走る。

この猫は、

明日死ぬ。

違う。

三年後。

違う。

誰かの猫。

少女が笑う。

この少女は結婚する。

離婚する。

子ども。

病気。

長生き。

短い。

全部。

一人の人間に、

未来が多すぎる。

未来ではない。

可能性。

可能性ではない。

記憶。

記憶ではない。

誰。

「鏡!」

肩。

晴。

私は振り払う。

「触らないで!」

「分かった」

晴が止まる。

呼吸。

今。

今?

「店に戻ろう」

「店」

鏡の館。

赤いランプ。

珈琲。

約束。

何。

「二日休む」

口から出た。

晴の顔が変わる。

「うん」

「珈琲」

「うん」

「冷たい」

「うん」

「……お腹、壊す」

晴が笑った。

泣きそうな顔で。

「言ったね」

その瞬間、

未来。

珈琲。

二人。

笑う。

未来。

店が閉まっている。

未来。

私はいない。

未来。

晴一人。

未来。

未来。

未来。

「やめて!」

私は頭を抱える。

未来は、

希望ではなかった。

未来は、

数だった。

無限。

無限は、

自由ではなかった。

選べない。

全部見えると、

一つが選べない。

それは、

第二部で知ったはずだった。

確定された未来は檻。

でも。

無限の未来も、

檻だった。

入口しかない迷路。

私は笑った。

なぜか。

「馬鹿」

自分に言う。

「私、ずっと……」

知らないことを、

怖がっていた。

だから、

視える能力を、

呪いだと言いながら、

どこかで手放さなかった。

役に立つから。

人を救えるから。

私が必要とされるから。

でも。

「違った」

晴が近くにいる。

音。

街。

人。

誰かの過去。

全部。

「視えないこと」

私は言う。

「何?」

晴。

「視えないこと……」

言葉を探す。

言葉が、

溶ける。

「それ……欠陥じゃ……なかった」

呼吸。

「鏡」

「知らないって……」

笑う。

泣く。

どっち。

「すごい……ことだったんだ」

晴が黙る。

「未来が見えないから……選べる」

一つ。

「他人が分からないから……他人でいられる」

二つ。

「忘れるから……」

三つ。

「生きられる」

声が震える。

「全部の痛みを……感じないから」

胸を押さえる。

「私で……いられる」

そこで、

分かった。

遅すぎた。

あまりにも。

遅すぎた。

人間には、

皮膚がある。

他人の血が、

自分の血管へ流れ込まないように。

瞼がある。

見続けなくていいように。

睡眠がある。

世界を一度、

閉じるために。

忘却がある。

過去を完全な現在として抱え続けないために。

死角がある。

無知がある。

誤解がある。

距離がある。

他人が他人であるために。

それらを、

私は欠損だと思っていた。

違った。

翼だった。

「人間って」

私は笑った。

「片翼で……よかったんだ」

晴が何か言う。

聞こえない。

「全部……視えなくて」

涙。

「よかったんだ」

愛しい。

その答えが。

あまりにも。

哀しい。

その答えを、

私はもう、

生きられない。

神条家の件は、

その日の夜、

私抜きで動き始めた。

あとから、

聞いた。

たぶん。

誰から?

晴。

司。

違う。

記憶?

神条司は、

親族を集めた。

未来を聞くのをやめた。

百年前の火事について、

分かっていることと、

分からないことを分けた。

黒瀬家の子孫にも、

「先祖が何をしたか確定できない。でも、土地取得に不透明な点があったことは認める」

と伝えた。

謝罪した。

完全ではない謝罪。

法的責任を全部認めたわけでもない。

英雄的でもない。

店の売却は延期。

相続は第三者を入れて再協議。

一部の資料は地域資料館へ寄託。

一部の親族は、

最後まで納得しなかった。

でも。

殴り合わなかった。

誰も死ななかった。

誰も完全には救われなかった。

それでも、

話した。

自分たちで。

私は、

いらなかった。

その事実が、

少し嬉しかった。

たぶん。


第四章 最期の瞬間に誰の名前を呼ぶの

旧校舎の屋上。

なぜ。

ここ。

風。

夕焼け。

柵。

靴。

手。

誰の。

私は。

座っている。

たぶん。

隣。

晴。

晴は笑っていた。

違う。

晴は泣いている。

違う。

晴は死んだ。

違う。

晴はまだ生まれていない。

違う。

晴は二十二。

時計。

手。

油。

あったかい。

「鏡」

声。

誰。

「鏡」

鏡。

鏡?

ガラス。

顔。

私?

「……きょう」

声。

口。

誰の。

「うん」

答える人。

晴。

たぶん。

夕焼けが、

百年前の夕焼けになる。

木造の街。

火。

煙。

次。

百年後。

知らないビル。

空。

次。

今。

今。

今。

どれ。

「寒い?」

声。

「……さむ」

風。

「上着、着る?」

誰かが言う。

優しい。

誰。

手。

手が近づく。

怖い。

過去が入る。

未来が入る。

でももう、

入っている。

全部。

誰かが子どものころ、

時計を壊した。

晴。

誰かが自転車で転んだ。

晴?

誰かが妹を失った。

違う。

誰かが。

誰か。

「……はる」

音。

「うん」

顔。

知ってる。

知らない。

「はる……?」

「うん」

「あなた……」

未来。

老人。

死。

笑う。

喫茶店。

知らない女。

一人。

雨。

「あなた……どの……はる……?」

長い。

長い沈黙。

違う。

一秒。

「今の晴だよ」

今。

今。

今。

今。

その言葉だけ、

他の時間と違う。

過去じゃない。

未来じゃない。

可能性じゃない。

今。

誰かが、

手を握る。

私は晴の手を握った。

違う。

誰かが、

誰かの手を握っている。

手。

白い。

指。

温度。

これは。

誰の手。

私。

私?

私って。

言葉。

宵野。

鏡。

黒い手袋。

胡散臭い。

預言者。

未来。

莉乃。

律。

渚。

魔女。

愛。

出口。

全部。

遠い。

ささやかな。

約束。

珈琲。

冷たい。

店。

二日。

散歩。

「また明日」

誰が言った。

「また明日」

誰が答えた。

胸。

黒い。

焦げた。

何か。

約束。

果たす。

未来。

未来が。

ない。

違う。

ある。

多すぎる。

どれ。

夕日。

風。

声。

呼ばれている。

名前。

名前。

最期の。

誰。

呼ぶ。

口。

「……は」

音が出ない。

「鏡?」

鏡。

それは。

誰。

でも。

この手。

握ってる。

強くない。

逃がさない強さでもない。

ただ。

そこ。

あたたかい。

言葉。

もう。

少ない。

世界。

溶ける。

百年前。

明日。

昨日。

二十二。

五歳。

まだ生まれてない。

誰。

手。

温度。

ここ。

今。

「……あったかい」


黒い革手袋が、

屋上の床に落ちていた。

冷たい風が、

それを少しだけ動かした。

夕日は沈んでいった。

誰かが、

誰かの手を握っていた。

その先を語る声は、

もうなかった。

2026-08-26

胡散くさい預言者のワルツ-第四部、愛がなければ視えないもの

 



宵野鏡シリーズ 第四部・完結編

プロローグ 視えるという傲慢

私には、他人の過去が視える。

誰が何を言ったか。

誰が誰を傷つけたか。

何時何分、どんな部屋で、どんな顔をして、どちらの手を伸ばしたか。

黒い手袋を外して、その人の皮膚や、その人の時間を吸い込んだ物に触れればいい。

すると過去は蘇る。

映画より鮮明に。

記憶より正確に。

弁護士も、裁判官も、歴史家も喉から手が出るほど欲しがるだろう。

私は二十二歳になるまで、それを呪いだと思っていた。

そのあと少しだけ、力だと思うようになった。

そして最近では、

責任なのだと思っていた。

未来が視えても、全部は語らない。

確定した答えを渡して、人間から迷う自由を奪わない。

誰かの出口にならない。

誰かを自分の言葉の中へ閉じ込めない。

三度ほど痛い目を見て、ようやく私はそこまで学んだ。

だから、かなり賢くなったつもりでいた。

馬鹿だった。

その日まで私は、

事実さえ完璧に視えれば、最後には真実へ辿り着ける

と、どこかで信じていたのだから。

出来事を見ること。

人間を見ること。

この二つが、まるで同じことのように。

でも人間は、出来事の総和ではない。

嘘をついた理由。

黙った理由。

自分自身にも説明できなかった感情。

愛しているのに傷つけた瞬間。

憎んでいるのに守った夜。

泣かなかった人の悲しみ。

笑った人の絶望。

カメラには映らない。

私の眼にも、映らない。

どうやらこの世には、

未来視なんかよりずっと厄介な視力が必要らしい。

人間は昔から、

それをとても簡単な一文字で呼んでいる。

愛。

私は、その意味を知らなかった。

だから最後に、

海まで行くことになった。


第一章 事実の法廷と、視えない女

その女が鏡の館へやってきたのは、秋の終わりだった。

雨が降っていた。

谷中の路地に細い雨粒が沈み、古い石畳を濡らしている。

赤いランプの下で、真鍮のベルが鳴った。

コン。

コン。

私はカウンターで本を読んでいた。

「どうぞ」

扉が開く。

薄いトレンチコートを着た女が立っていた。

二十代半ば。

髪は肩にかかるくらい。

化粧はほとんどしていない。

綺麗かどうか判断する前に、

「この人は、ずっと息を浅くして生きてきた」

と思った。

胸がほとんど上下していない。

人間は、怖いことが長く続くと、

呼吸まで目立たなくなる。

「宵野鏡さんですか」

「たぶん」

「たぶん?」

「今日はそう名乗ってる」

女は笑わなかった。

「伊織渚です」

知っていた。

名前を聞いた瞬間に。

十年近く前。

日本海に浮かぶ小さな島、嵐ヶ島。

古い洋館で起きた父親殺害事件。

当時十五歳だった娘が、

重病の父親を刃物で刺して死なせた。

連日の報道。

ワイドショー。

週刊誌。

ネット。

悪魔の娘。

そう呼ばれた少女。

私は椅子を示した。

「座って」

渚は腰を下ろした。

膝の上で両手を重ねる。

その手が、

とても綺麗だった。

それが妙に嫌だった。

世間は人間を怪物にするとき、

手も怪物らしく描きたがる。

でも、

人を傷つけた手も、

普通の人間の手をしている。

「未来を見てほしい?」

「いいえ」

「じゃあ過去?」

渚が頷いた。

「私、人を殺しました」

雨が、

窓を叩いた。

「父を」

「知ってる」

「そうですよね」

彼女は乾いた笑いを浮かべた。

「有名でしたから」

私は何も言わなかった。

「裁判も終わりました。処分も受けました。長い時間、施設の中で自分のしたことを考えました」

渚は続ける。

「でも、分からないんです」

「何が」

「私が、どうして父を刺したのか」

私は眉を寄せた。

「覚えてない?」

「場面は覚えています」

渚は自分の胸へ手を置いた。

「でも、意味が分からないんです」

その言い方が引っかかった。

「意味?」

「はい」

彼女は鞄から一冊の本を出した。

黒い表紙。

銀色の文字。

『悪魔の娘 嵐ヶ島殺人事件』

著者、

追破啓。

ノンフィクション作家。

私はページをぱらぱらめくった。

《父親の遺産》

《保険金》

《少女の異常な冷静さ》

《犯行後、救急要請を行わず》

《反省を示さない沈黙》

文章は滑らかだった。

だから危険だった。

断片が、

一本の線へ並べられている。

最初からそういう物語だったかのように。

「これを何度も読みました」

渚が言う。

「読めば読むほど、私もそうだったような気がしてきたんです」

「金が欲しかった?」

「分からない」

「父親が嫌いだった?」

「好きでした」

即答。

「でも」

渚の声が弱くなる。

「なら、どうして?」

私は本を閉じた。

「私に訊かれても」

「だから来ました」

彼女は小さな真鍮の鍵を机へ置いた。

古い。

青錆。

細かな傷。

「洋々館の父の書斎の鍵です」

「これに触れろと」

「お願いします」

私は鍵を見る。

黒い手袋。

その向こうにある自分の指。

最近私は、

何かを見る前に、

少し怖くなるようになっていた。

良い変化だと思う。

昔の私は、

見ることを正義だと思っていた。

「一つだけ」

私は言った。

「視えたものが、あなたの望んでいるものじゃなくても?」

「構いません」

「あなた自身が覚えていることと違っても?」

「構いません」

「私があなたを嫌いになっても?」

渚は少しだけ笑った。

今度は、

本当の笑いだった。

「それを決めるのも、あなたの自由でしょう」

私は右手の手袋を外した。

鍵へ触れる。

冷たい。

そして。

海鳴り。

世界が暗転した。

風。

雷。

窓ガラス。

洋館。

少女。

十五歳の渚。

包丁。

車椅子。

男。

父親。

私は見た。

完全に。

渚が包丁を握る。

父親の胸元。

振り下ろす。

一度。

男の身体が崩れる。

赤。

床。

少女の頬。

血。

包丁が落ちる。

渚は、

立っている。

泣いていない。

叫んでいない。

救急車も呼ばない。

ただ、

父親を見ている。

映像が終わる。

私は手を離した。

鍵が転がった。

カチャン。

息ができない。

「鏡さん?」

渚の声。

私は机へ手をついた。

「視えた」

「何が?」

「あなた」

喉が乾いている。

「あなたがお父さんを刺した」

渚の顔から、

最後の色が消えた。

「そう」

小さな声。

「そうですか」

そのとき私は、

違和感に気づいた。

いつもなら、

もっと分かる。

恐怖。

怒り。

執着。

未来視とは違う。

過去に触れたとき、

人間の身体に残った感情の痕跡が、

映像の温度として伝わってくることがある。

でも今回。

何もなかった。

いや。

何もないのではない。

多すぎる。

憎しみ。

愛。

恐怖。

安堵。

絶望。

慈悲。

全部が、

一つの場所で絡まり合い、

どれがどれなのか判別できない。

「鏡さん」

渚が訊く。

「私は、悪魔でしたか」

私は答えられなかった。

映像なら、

完璧に見た。

彼女が刺した。

これは事実だ。

でも。

それが、

何だったのか。

分からない。

「……知らない」

私は言った。

渚が目を見開く。

「知らない?」

「うん」

「でも、視えたんですよね」

「視えた」

「全部」

「全部」

「じゃあ、どうして」

私は自分の素手を見る。

「映像の中に、答えがないから」

初めてだった。

過去を完璧に見て、

なお、

何も分からなかった。

その瞬間、

私の能力は、

初めて負けた。


夜。

渚が帰ったあと、

晴が来た。

「珍しい顔」

「どんな」

「世界に負けた顔」

「帰って」

晴は笑いながら、

時計修理の工具箱を置いた。

「何があった?」

私は本を渡した。

彼は少し読んだ。

「この事件?」

「今日、本人が来た」

「それで?」

「見た」

「過去」

「うん」

「分かった?」

私は黙る。

晴がこちらを見る。

「分からなかった?」

腹が立つくらい、

察しがいい。

「全部視えた」

「うん」

「なのに」

私は拳を握る。

「意味だけが視えなかった」

晴は何も言わない。

私は吐き出す。

「誰が刺したか。何を使ったか。どんな顔だったか。全部」

それなのに。

「人間って、何なのよ」

晴が考える。

「難しい質問するね」

「答えて」

「時計修理屋に?」

「暇でしょう」

「失礼」

彼は椅子へ座った。

「でもさ」

「何」

「時計の中を全部見ても」

晴は止まった時計を持ち上げた。

「その時計が誰にとって大切だったかまでは分からないよ」

私は見る。

「機械としては全部分解できる」

晴が裏蓋を開く。

「歯車。ゼンマイ。摩耗。故障原因」

そして閉じる。

「でも、これが死んだお父さんからもらった時計なのか、百円で拾った時計なのかは、機械だけ見ても分からない」

「……」

「事実と意味って、別なんじゃない?」

悔しかった。

「何で時計修理屋がそんなこと言うのよ」

「たまたま」

私は黒い手袋をはめ直した。

その夜、

初めて思った。

私の眼は、

思っていたよりずっと、

狭い。


第二章 冷たい事実と、海鳴りの館

嵐ヶ島へ行くことになった。

理由は単純。

追破啓が、

事件から十年近くになるのを機に、

続編を書くため現地調査をしているという。

渚が言った。

「洋々館へ行きたい」

私は反対した。

晴も反対した。

結局、

三人で行った。

人間は、

危険だと分かっている場所ほど、

一人では行かせたくなくなる。

フェリーは、

嫌になるくらい揺れた。

日本海。

灰色。

空も海も境界がない。

渚は甲板で、

ずっと島を見ていた。

「怖い?」

私が訊く。

「はい」

「帰る?」

「帰りません」

「強いね」

「違います」

渚は言った。

「怖いまま来ただけです」

私は少し笑った。

どこかで聞いた哲学だった。

洋々館は、

海へ突き出した崖の上にあった。

黒い屋根。

石造りの外壁。

尖った窓。

蔦。

海風。

観光地の洋館とは違う。

人が住むために作られたのに、

今では人間を拒んでいるように見える。

玄関を開ける。

埃。

木の匂い。

古い暖炉。

そして、

男がいた。

四十代半ば。

眼鏡。

細身。

ノートパソコン。

追破啓。

「伊織渚さん」

彼は立ち上がった。

「よく来られたね」

「追破さん」

「取材なら歓迎するよ」

「私はあなたと話しに来たんです」

「それも取材だ」

視線が私へ来る。

「あなたが宵野鏡?」

「胡散臭そう?」

「非常に」

「ありがとう」

彼は笑わなかった。

「過去が視えるらしいね」

「そういう噂」

「便利な商売だ」

「あなたほどじゃない」

晴が小声で、

「鏡」

と制止する。

追破は机から資料を取り出した。

「ちょうどいい」

写真。

捜査資料。

口座記録。

診療記録の写し。

「事実を確認しよう」

渚の肩が硬くなる。

追破は読む。

「凶器は伊織渚の管理下にあった包丁」

一枚。

「父親の身体に致命傷」

一枚。

「事件後、救急要請なし」

一枚。

「父親の死後、遺産と保険金の受取対象」

一枚。

「法廷で動機について明確な説明なし」

そして、

渚を見る。

「この積み重ね以上に、何が必要なんだ?」

私は言った。

「心」

追破が笑った。

「心?」

「動機」

「動機なら金だ」

「誰が決めたの」

「証拠」

「証拠は、金を受け取れる立場だったことを示してるだけ」

追破の目が鋭くなる。

「君は屁理屈が得意らしい」

「あなたは物語作りが得意みたいね」

「私はノンフィクション作家だ」

「なお悪い」

「事実を組み立てるのが仕事だ」

「組み立てた瞬間に、もう解釈でしょう」

沈黙。

追破は私を見る。

「なら君は、彼女が父親を刺していないと言えるのか」

「言えない」

「第三者がいた?」

「いない」

「事故?」

「違う」

渚が私を見る。

私は続ける。

「彼女が刺した」

追破が笑った。

「ほら」

「でも」

私は言う。

「それが何だったのかは、分からない」

「何だそれは」

「私にも分からない」

「だったら、私のほうが誠実だ」

その言葉が、

刺さった。

追破は続ける。

「私は証拠が示すところまで書く。君は、証拠が気に入らないから『人間には見えない部分がある』と逃げる」

私は反論できなかった。

それは、

少しだけ正しかった。

事実が不都合だから、

「心」という曖昧な言葉へ逃げる。

それならただの願望だ。

愛が、

事実を曲げる免罪符になったら終わりだ。

その夜。

嵐になった。

風。

雨。

海。

館全体が揺れている。

私は客室の窓辺にいた。

黒い海。

月はない。

ドアが鳴る。

晴。

「入るよ」

「もう入ってる」

手にはハーブティー。

「いつもそれね」

「君が飲むから」

「毒入ってない?」

「予言者が訊く?」

晴はカップを置く。

私は言った。

「追破の言うこと、間違ってない」

「うん」

即答。

「そこは否定しなさいよ」

「事実を大事にすること自体は正しいでしょう」

「……」

「でも」

晴が隣へ座る。

「事実だけで人間を全部説明できるってところは、違うと思う」

私は手袋を見る。

「私ですら、全部見て分からなかった」

「だから何」

「私の能力って何なの」

「知らない」

「最低」

「でも」

晴が私の手を取る。

手袋越し。

「鏡は、カメラじゃないでしょう」

「カメラより性能いい」

「そういう話じゃない」

晴の手は、

いつも少しだけ荒れている。

工具。

油。

金属。

人間の仕事をしている手。

「君はさ」

彼が言う。

「人を見るとき、何を見てる?」

「未来とか過去」

「それだけ?」

私は答えられない。

「莉乃のときも、律のときも」

晴は言う。

「見えてるものをそのまま渡さなかった」

「それは」

「その人がどう生きるかを見てたからじゃない?」

私は晴を見る。

「事実を曲げるって話じゃないよ」

「……」

「起きたことは起きたこと」

「うん」

「でも、その中にいた人間を、起きたこと一個だけに閉じ込めない」

晴が少し笑う。

「それって、愛なんじゃない」

私は黙った。

「愛があれば真実が変わる?」

「違う」

晴は首を振る。

「愛があるから、変えないんじゃない?」

「何を」

「見たくない事実も見る」

風が窓を叩く。

「それでも、その人全部を一つの事実にしない」

私は、

不思議な気持ちになった。

愛とは、

優しい方向へ解釈することだと思っていた。

違うのかもしれない。

愛とは、

相手に都合のいい物語を与えることではない。

むしろ、

都合の悪い事実を見ても、

そこで見ることをやめないこと。

「私」

私は言った。

「渚を無実にしたいわけじゃない」

「うん」

「刺したことは消えない」

「うん」

「じゃあ」

私は晴の手を見る。

「何を探してるんだろ」

晴は答えなかった。

それでよかった。

今の私に必要なのは、

答えではなく、

問いを捨てないことだった。


第三章 破られた手紙の温度

翌朝。

嵐はさらに強くなっていた。

船は出ない。

携帯の電波も不安定。

洋々館は、

海の中に取り残された箱になった。

私は二階へ上がった。

父親の書斎。

事件現場。

鍵。

扉。

開く。

十年近い時間が、

匂いになって残っている。

古い紙。

木材。

潮。

埃。

床を歩く。

あの日の映像が、

勝手に重なる。

十五歳の渚。

父親。

包丁。

赤。

私は首を振った。

映像ではなく、

部屋を見る。

本棚。

机。

車椅子の跡。

暖炉。

そして、

棚の裏。

白いもの。

紙。

手を伸ばす。

破れた紙片だった。

焼け焦げている。

文字。

ほとんど読めない。

一部だけ。

《渚へ》

心臓が鳴った。

私は手袋を外した。

でも、

すぐには触らなかった。

怖かった。

また映像だけが来るかもしれない。

また、

見ても分からないかもしれない。

「それでいい」

自分に言った。

分からなくても。

私は紙へ触れた。

最初に聞こえたのは、

呼吸だった。

苦しい。

浅い。

長い。

男の呼吸。

父親。

書斎。

車椅子。

身体は痩せている。

机には薬。

診療記録。

紙。

父親が文字を書く。

《渚へ》

手が震えている。

書いては破る。

書いては止まる。

痛みで身体を折る。

場面が変わる。

夜。

雨。

渚。

十五歳。

「病院行こう」

『もういい』

「よくないよ」

『渚』

「先生呼ぶから」

『やめてくれ』

父親が泣いている。

大人が、

子どもの前で。

『もう耐えられない』

渚が首を振る。

『頼む』

「嫌だ」

『お願いだ』

「嫌!」

私は息ができなくなった。

父親は、

娘へ頼んでいる。

自分の苦痛を、

終わらせてほしいと。

それは愛ではない。

いや、

愛だけではない。

苦痛。

恐怖。

絶望。

依存。

そして、

娘への残酷な委託。

全部が混ざっている。

『渚』

男は泣く。

『お前に頼むことじゃない』

一瞬。

父親は、

はっきりそう言った。

『分かってる』

渚も泣いている。

『でも』

父親は自分の胸を押さえる。

呼吸。

痛み。

『怖いんだ』

その言葉。

私は、

胸を掴まれた。

怪物でも、

聖人でもない。

死に近い場所で、

ただ怖がっている一人の人間。

渚も、

ただ十五歳の少女。

その夜、

二人とも、

正しい選択肢を持っていなかった。

ここに、

綺麗な英雄はいない。

ただ、

限界まで追い詰められた二人の人間がいる。

渚は刃物を握る。

手が震える。

父親がその手に、

自分の手を重ねる。

『ごめんな』

「やめよう」

『ごめんな』

「お願いだから」

『ごめんな』

何度も。

「私、できない」

『できなくていい』

父親が言う。

『できなくていいんだ』

私は混乱した。

ではなぜ。

次。

父親の痛みが、

激しくなる。

叫び。

床。

薬。

効かない。

渚が助けを呼ぼうとする。

父親が止める。

そして。

決定的な瞬間。

私は、

見た。

渚が刃物を持つ。

泣いている。

父親も泣いている。

渚が、

決断する。

そこに、

一つの感情などなかった。

愛。

恐怖。

怒り。

慈悲。

絶望。

自己犠牲。

混乱。

全部。

全部あった。

だから以前の私は、

何も読み取れなかったのだ。

人間の真実が、一つの言葉に収まらなかったから。

私は膝をついた。

映像は続く。

父親が、

最後に渚を見る。

『渚』

声が小さい。

『ごめん』

そして、

もう一言。

『愛してる』

渚の顔が、

壊れる。

父親は息を止める。

少女は、

その場で泣かない。

泣けば、

自分のしたことの意味が崩れると思ったのかもしれない。

あるいは、

何も感じられなくなっていたのかもしれない。

私は、

そこまでしか分からなかった。

そして今度こそ、

分からないことを、

無理に埋めなかった。

意識が戻る。

私は床に座っていた。

紙を握っている。

涙が落ちる。

「馬鹿」

誰に言ったのか分からない。

父親?

渚?

私?

全部。

この出来事を、

「愛の殺人」

と呼べば綺麗すぎる。

「冷血な犯行」

と呼べば残酷すぎる。

どちらも、

人間を一つの物語へ閉じ込める。

事実は、

渚が父を死なせた。

その事実は消えない。

でも。

その夜にあったものは、

金欲だけではなかった。

まして、

一言で説明できる怪物性でもない。

私はようやく理解した。

愛とは、

答えを美しくすることではない。

答えを、

一つにしないことなのかもしれない。

背後で音。

渚が立っていた。

「……何を見たんですか」

私は振り返った。

言葉が出ない。

渚が震える。

「父は」

私は立った。

彼女の前まで行く。

「あなたを愛してた」

渚の唇が開く。

「でも」

私は続ける。

「それだけじゃない」

彼女の目が揺れる。

「お父さんは怖がってた。苦しんでた。あなたにとても残酷なことを頼んだ」

涙。

「あなたも怖かった。嫌だった。逃げたかった」

渚の膝が揺れる。

「私は」

「うん」

「父を助けたんですか」

私は、

すぐには答えなかった。

ここで「そうよ」と言えば、

また物語になる。

綺麗な物語。

誰かを救うために罪を背負った娘。

それも、

事実を飲み込みすぎる。

だから。

「分からない」

私は言った。

渚が泣いた。

「でも」

私は彼女の手を取る。

「あなたが、お父さんを憎んで金のためだけに刺したんじゃないことは視えた」

渚の涙。

「それから」

私は言った。

「最後に、お父さんはあなたへ言った」

彼女が息を止める。

「ごめん」

一滴。

「愛してる」

渚は、

その場に崩れた。

声が、

出なかった。

最初は。

ただ口を開けて、

呼吸だけが漏れる。

そのあと、

十年分の海が、

一人の女の身体から溢れた。

「お父さん」

泣く。

「お父さん……」

私は隣に座った。

抱きしめなかった。

言葉もかけなかった。

晴が、

扉の外にいるのが見えた。

入ってこなかった。

三人とも、

ただそこにいた。

愛は、

いつも何かをすることではない。

泣いている人間の物語を、

勝手に完成させないことも、

愛なのかもしれなかった。


第四章 愛がなければ視えないもの

午後。

ホール。

追破。

渚。

晴。

私。

そして島の管理人たち。

外では海鳴り。

追破は紙片を調べていた。

「父親の筆跡である可能性は高い」

彼は言った。

「だが、肝心な箇所は焼けている」

「そうね」

「つまり証拠にはならない」

「そうね」

追破が眉を寄せる。

「ずいぶん素直だな」

「事実だから」

私は答える。

「あなたが間違っていたのは、事実を集めたことじゃない」

「なら何だ」

「事実を集めたあと、他の可能性を全部殺したこと」

追破の目が鋭くなる。

「可能性?」

「あなたは、保険金がある。だから金目当て。救急車を呼んでいない。だから冷血。黙っていた。だから反省していない」

私は一歩進む。

「一つ一つは事実」

「そうだ」

「でも、矢印はあなたが引いた」

沈黙。

「事実と事実のあいだには、余白がある」

私は言った。

「人間が生きていた余白」

「詩的だな」

「嫌い?」

「嫌いだ」

「私も昔は嫌いだった」

追破が笑う。

「では君は、愛さえあれば犯罪を美化していいと言うのか」

「逆」

私は即答した。

「愛があるから、起きたことを消さない」

渚がこちらを見る。

「彼女は父親を刺した」

空気が固まる。

私は渚から目を逸らさない。

「その事実は消えない」

渚が、

ゆっくり頷く。

「お父さんが十五歳の娘へ背負わせてはいけないものを背負わせたことも、消えない」

追破が黙る。

「でも」

私は言う。

「だからといって、渚という人間を『金目当ての悪魔』という一行へ閉じ込める権利も、あなたにはない」

「君にもないだろう」

「そうよ」

追破が止まる。

「私にもない」

私は自分の手を見る。

「私は過去を全部視た」

「……」

「それでも、彼女の全部は分からなかった」

私は笑った。

少しだけ。

「だから、もう分かったふりをやめる」

追破の顔から、

少しだけ敵意が消えた。

「それでは真実など永遠に分からない」

「そうかもしれない」

「不満じゃないのか」

「前はね」

私は言う。

「でも、人間を完全に理解できるって思うほうが、よっぽど怖い」

海が鳴る。

窓。

風。

「愛って」

私は続ける。

「相手を正しい人にすることじゃない」

渚。

晴。

追破。

「罪を消すことでもない」

黒い手袋。

「愛しているからこそ、見たくないものまで見る」

父親の残酷な懇願。

渚の選択。

「でも、見たくないものを見たあとで」

私は息を吸う。

「その一場面だけで、その人全部を終わらせない」

静かだった。

追破が訊く。

「それが愛か」

「知らない」

私は笑った。

「胡散臭い預言者だから」

晴が、

少し笑った。

追破は、

すぐに考えを変えたわけではなかった。

そんなに簡単なら、

人間は苦労しない。

ただ、

彼は新刊の原稿を一度止めた。

「書き直す」

と言った。

「美談にはしない」

「しないで」

「君の超能力も書かない」

「助かる」

「でも、私が間違っていた可能性については書く」

私は頷いた。

「それでいい」

彼は渚へ向き直る。

しばらく言葉を探して、

「あなたに、もう一度話を聞きたい」

と言った。

渚はすぐには答えない。

それもよかった。

返事をする義務などない。

やがて、

「いつか」

と言った。

追破は頷いた。

それだけだった。

世界は、

劇的には変わらない。

本が一冊訂正されたところで、

ネットの噂は消えない。

父親も戻らない。

渚の過去も消えない。

でも、

一つの物語に閉じ込められていた人間が、

もう一度、

自分の言葉を持ち始める。

それは、

奇蹟と呼ぶには小さい。

でも、

人生を生き直すには、

十分な大きさだった。


エピローグ 見えないあなたを見つめる

帰りの船。

嵐は去った。

嘘みたいな青空だった。

海が光っている。

私は甲板に立って、

黒い手袋を見ていた。

長いこと、

これを境界だと思っていた。

他人の痛みから自分を守る皮膚。

その考えは、

今も変わらない。

境界は必要だ。

愛するからって、

全部を侵入させる必要はない。

全部を理解する必要もない。

むしろ。

愛しているからこそ、

境界が必要なのかもしれない。

他人を、

自分の一部にしてしまわないために。

「鏡」

晴。

「何」

「また哲学してる?」

「海に捨てるわよ」

「泳げない」

「知らない」

彼は隣へ立つ。

私は手袋を外した。

風が、

素手を撫でる。

「晴」

「うん」

「私、あなたの過去も見ようと思えば見える」

「知ってる」

「未来も」

「うん」

「怖くない?」

晴は考えた。

「少し」

「正直」

「でも」

彼が海を見る。

「全部見ても、鏡には分からないことあるでしょう」

腹が立った。

「今その話してたの」

「聞いてないけど」

「何で分かるの」

「顔」

私は彼の頬へ手を伸ばした。

素手。

触れる。

過去が、

流れ込もうとする。

子どもの晴。

時計。

父。

学校。

悲しみ。

未来。

老いた手。

笑い。

別れ。

私は、

閉じた。

見ない。

晴が訊く。

「見なかった?」

「見なかった」

「珍しい」

「必要ない」

「何で」

私は頬へ触れたまま、

彼を見る。

「全部見たって」

風。

潮。

「あなたを全部知ったことにはならないから」

晴は少し笑う。

「じゃあ、どうするの」

私は答える。

「見つめる」

「何それ」

「ずっと」

「怖い」

「うるさい」

でも。

たぶん、

そういうことなのだ。

理解できたから愛するのではない。

理解できないから、

知ろうとする。

今日。

明日。

その次の日。

相手が昨日と違う人間になっても。

自分の理解からはみ出しても。

間違っても。

時には許せなくても。

それでも、

一つの言葉で終わらせず、

もう一度見る。

それを、

愛と呼ぶのかもしれない。

私は海を見る。

寄せては返す波。

同じ形は二度とない。

それでも、

海は海だ。

人間も、

たぶんそう。

変わる。

矛盾する。

昨日の言葉を裏切る。

優しい。

残酷。

正しい。

間違う。

全部が交じる。

だから、

一枚の写真では足りない。

一つの事実でも足りない。

一つの罪でも。

一つの善行でも。

一つの愛でも。

人間は、

もっと面倒だ。

だから愛おしい。

「鏡」

晴が言う。

「これで終わり?」

私は彼を見る。

「何が」

「魔女とか、未来とか、迷子とか」

少し考える。

「知らない」

「やっぱり」

「でも」

私は手袋をポケットへしまう。

「一つだけ分かった」

「何?」

私は笑う。

「見えることと、視えることは違う」

晴が黙る。

「事実は見える」

海面が光る。

「でも」

私は、

彼の手を握った。

未来を見るためではない。

過去を読むためでもない。

今、

ここにいる人間の温度を確かめるために。

「愛がなければ視えないものが、この世界にはある」

晴の指が、

私の指を握り返す。

私は未来を見ない。

今日は。

ただ、

隣の人を見る。

完全には分からない。

きっと、

ずっと分からない。

それでいい。

他者とは、

解き明かすための謎ではない。

一緒に生きるために、

何度でも見つめ直す存在なのだから。

船は進む。

海は続く。

空は広い。

未来は、

見ようと思えば視える。

でも私は、

少しだけ目を閉じた。

波の音。

晴の体温。

自分の呼吸。

そして、

まだ名前のついていない明日。

それだけで、

十分だった。

私は宵野鏡。

胡散臭い預言者。

未来を見る女。

過去を見る女。

そして最後にようやく、

見えないものを、見えないまま愛することを覚えた女。

海鳴りの向こうで、

うみねこの声がした。

何を告げているのかは、

分からない。

私はもう、

すべてを解読しようとは思わなかった。

ただ、

その声がそこにあることを、

静かに聞いていた。

愛がなければ視えないもの。

たぶんそれは、

真実そのものではない。

真実の中で、

それでも生きていた、

一人の人間なのだ。

胡散くさい預言者のワルツ-第三部、ナイフと迷宮

 



――出口なき夜を走る

第一章 地図なき荒野と、ロープを切った男

自由になれば、きっと息がしやすくなる。

人間はそう思っている。

だから、檻を壊す。

親の期待を壊す。
会社を辞める。
恋人と別れる。
決められた進路を捨てる。
誰かに与えられた「あなたはこういう人間です」という説明を引き裂く。

そうして外へ出れば、そこには青空と滑走路と、きらきらした未来が待っている。

少なくとも、自由になる前はそう見える。

でも。

檻の扉を蹴破った人間が最初に見るものは、たいてい希望ではない。

地図のない荒野だ。

どこへ行ってもいい。

だから、どこへ行けばいいのか分からない。

何者になってもいい。

だから、自分が何者なのか分からなくなる。

自由とは、鎖がなくなることではない。

鎖を失ったあと、自分の脚で立たなければならないことだ。

そしてその事実は、思っているよりずっと怖い。

「鏡さん。どうしてくれるんですか」

その夜、三人目だった。

私は頬杖をついて、目の前の男を眺めた。

三十代。スーツ。ネクタイは外している。

「何が」

「あなた、前に言いましたよね。『会社を辞めても人生は終わらない』って」

「言ったわね」

「辞めました」

「おめでとう」

「めでたくない!」

男は机を叩いた。

赤いランプが揺れる。

東京、谷中。

路地裏にある私の店「鏡の館」は、相変わらず胡散臭い。

ベルベットのカーテン。
止まった時計。
古いランプ。
黒い木の机。

そして黒い革手袋をした二十二歳の女。

宵野鏡。

職業、たぶん預言者。

正確には、他人の手に触れると、その人の過去と未来の断片が見える。

便利そうでしょう。

全然便利じゃない。

「で?」

私は訊いた。

「辞めたら?」

「何をすればいいか分からないんです」

「知らない」

「そこを教えるのが占い師でしょう!」

「私は人生相談AIじゃない」

「未来見えるんでしょう!」

「見える」

「なら!」

私はため息をついた。

最近、こういう客が増えた。

以前は、

「未来を教えてください」

だった。

今は、

「自由になったから、その次を教えてください」。

少し前、エーテルガードというAI未来予測サービスが、「失敗しない人生」を売っていた。

それに依存した人々へ、私は散々言った。

確定未来なんて檻よ。

自分で選びなさい。

失敗する自由くらい持ちなさい。

すると今度は、

「自分で選べと言われても困る」

と帰ってきた。

人間とは、なかなか贅沢である。

「あなたが決めてください」

男は言った。

「転職するか。独立するか。実家に戻るか」

「嫌」

「なぜ!」

「私が決めたら、あなたはまた誰かの指示通り生きるだけだから」

「でも正解がない!」

「そうね」

「怖くないんですか!?」

私は少し考えた。

「怖いわよ」

男が黙った。

「私だって」

私は黒い手袋を見る。

「未来が見えるからって、正解が見えるわけじゃない」

その違いを理解してもらうのは難しい。

私は出来事を見る。

結婚。

離婚。

成功。

失敗。

泣く。

笑う。

死ぬ。

生き残る。

でも。

その出来事を「救い」と呼ぶか「破滅」と呼ぶかまでは、未来は教えてくれない。

ある人にとって失職は終わりになる。

別の人にとっては始まりになる。

同じ雨でも、

葬式の雨と、

畑を救う雨では、

意味が違う。

未来は映像を見せる。

意味を決めるのは、生きた本人だ。

「今日決めなくてもいいんじゃない?」

私は言った。

男は不満そうだった。

でも最後には、

「本当に役に立たないな」

と言って帰った。

「ありがとう」

扉が閉まる。

奥から笑い声。

「相変わらず評判悪いね」

遠藤晴が出てきた。

「盗み聞きしてた?」

「聞こえる」

二十二歳。

時計修理職人見習い。

最近では、店の半分を勝手に時計工房化している。

「最近、客増えたね」

「迷子ばっかり」

「鏡が森に放したんじゃない?」

「人聞き悪い」

「『自分で歩け』って言ってた」

「そうだけど」

私は椅子へ沈んだ。

「まさかみんな、歩き方まで教えてほしいって戻ってくるとは思わなかった」

晴が笑う。

「自由って不親切だからね」

そのとき。

扉が勢いよく開いた。

ベルが大きな音を立てる。

若い男が立っていた。

濡れていた。

雨は降っていない。

汗だった。

息が荒い。

髪は乱れ、服の袖には乾きかけた赤い汚れがある。

そして右手に、

小さな折りたたみナイフ。

私は立った。

晴も立った。

男は、

私を見た。

「宵野鏡?」

「そう」

「預言者?」

「胡散臭いけどね」

彼は笑わなかった。

「出口を教えてくれ」

私はナイフを見る。

「それ、置いて」

「先に答えろ」

「置いたら」

「答えろよ!」

声が震えていた。

怒りではない。

恐怖だ。

私は手袋をした両手を机の上に置いた。

「名前」

「小野寺律」

「年齢」

「二十一」

「何から逃げてきたの」

律の目が揺れる。

「医学部」

「大学?」

「親」

「恋人?」

「全部だよ!」

彼は叫んだ。

「全部!」

ナイフを持つ手が震える。

晴が一歩前へ出ようとする。

私は目だけで止めた。

律は続ける。

「父親も医者。祖父も医者。兄も医者。小さい頃から医者になるって決まってた。受験する学校も、大学も、研究室も、病院も」

「全部決められてた」

「そうだ」

「で、やめた」

「やめたよ!」

笑った。

壊れた笑いだった。

「全部切った。親とも喧嘩した。大学も休学した。家も出た」

ナイフが光る。

「ロープ、切ったんだ」

その言い方が気になった。

「なのに」

律が言う。

「外に何もなかった」

声が小さくなる。

「自由になったら、何でもできると思ってた」

「……」

「絵を描いてもいい。起業してもいい。海外行ってもいい。何もしなくてもいい」

彼は私を見る。

「でも、何をしてもいいって」

喉が震える。

「何をすればいいか分からないってことだった」

私は黙っていた。

「僕は誰なんだ」

ナイフの切っ先が自分のほうへ傾く。

晴が息を呑んだ。

私は声を低くした。

「律」

「僕は」

「それを下ろして」

「出口を教えろ」

「先に下ろして」

「未来が見えるんだろ!」

「見える」

「だったら!」

律の目から、

怒りとも涙ともつかない水分が滲んだ。

「僕がどこに行けばいいか教えてくれよ!」

私は彼を見る。

二十一歳。

子どもではない。

でも大人というには、

世界から答えを与えられすぎてきた。

自分の人生を選んだ経験が、

ほとんどない。

「百パーセント正しい出口が欲しい?」

「そうだよ」

「私が言った通りにする?」

「する」

「一生?」

「それで迷わないなら!」

その瞬間、

分かった。

律は自由を求めてここへ来たのではない。

自由から逃げてきたのだ。

親という檻を壊して、

今度は私という檻へ入りたい。

私は静かに言った。

「嫌よ」

律の顔が止まった。

「……何?」

「あなたの出口になんかならない」

「ふざけるな!」

彼が一歩動いた。

私は手袋を外した。

「手」

「何」

「未来、見たいんでしょう」

律は疑う。

「ナイフ置いて、手を出して」

長い沈黙。

そして、

カラン。

ナイフが床に落ちた。

晴がすぐ拾う。

私は律の手を握った。

瞬間。

世界が裂けた。


第二章 ナイフの二つの刃

痛い。

最初に来たのは、

映像ではなく感覚だった。

喉の奥が詰まる。

白い廊下。

父親。

「お前ならできる」

模試。

合格。

白衣。

母親。

「あなたは恵まれてる」

家族写真。

笑顔。

笑わなければいけない食卓。

大学。

解剖学。

試験。

眠れない夜。

そして。

自分で自分の境界を確かめようとした、危うい瞬間。

私はそこで視線をそらすように意識を切った。

それ以上、過去の細部へ入らない。

次。

未来。

分岐。

膨大だった。

律が美術学校へ通う。

三年後に辞める。

笑う。

後悔する。

会社を作る。

失敗する。

借金。

再起。

旅。

インド。

北海道。

医大へ戻る。

戻らない。

父親と和解する。

絶縁する。

恋をする。

別れる。

一人になる。

誰かと暮らす。

どの道にも、

傷があった。

どの道にも、

少しだけ光があった。

私は手を離した。

息を整える。

律が訊く。

「見えた?」

「うん」

「どこへ行けばいい?」

「知らない」

「……は?」

「知らない」

「見えたんだろ!」

「いっぱい」

「なら、一番いい未来!」

「ない」

「そんなわけ」

「全部傷つく」

律の顔が歪む。

「全部?」

「うん」

「成功する道は」

「ある」

「なら!」

「成功して壊れる未来もある」

「じゃあ幸せな道!」

「幸せになってから失う未来もある」

「何なんだよ!」

彼が机を叩いた。

「じゃあ未来を見る意味なんてないじゃないか!」

私は答えた。

「そういうこともある」

静かになった。

「あなたは預言者なんだろ」

「たぶん」

「偽物だ」

「それもよく言われる」

「出口を教えないなら」

律の顔が険しくなる。

「何のためにいるんだよ」

私は床を見る。

晴が拾ったナイフ。

小さい。

こんな小さなものでも、

ロープを切れる。

ものを壊せる。

誰かを傷つけることもできる。

ナイフは善でも悪でもない。

どこへ向けるか。

それだけだ。

自由も、

たぶん同じ。

「律」

私は言った。

「ナイフって便利でしょう」

「何の話だ」

「束縛を切れる」

「……」

「でも、自由になったからって、振り回せば自分も傷つく」

律が黙る。

「自由ってね」

私は黒い手袋をはめ直す。

「安全装置じゃないの」

「じゃあ何だよ」

「責任」

嫌われる言葉だ。

私も嫌い。

でも他にない。

「自分で選んで、間違えて、それでも次を選ぶ権利」

「そんなの」

律の声が震えた。

「怖すぎるだろ」

「そうね」

「誰も教えてくれなかった」

「でしょうね」

「自由になれば幸せだって」

「誰が言ったの」

「みんな」

私は笑った。

「みんな、無責任」

律も少しだけ笑いそうになった。

でもすぐ消えた。

「じゃあ」

彼は言う。

「ここにいさせてくれ」

私は眉を上げた。

「何?」

「ここに住む」

「嫌」

「掃除する。金も払う。何でもする」

「嫌」

「鏡さんの言う通りにする」

「もっと嫌」

律が立ち上がる。

「何で!」

「だから」

私は強く言った。

「私を新しい親にするな」

律が止まる。

「私をシャングリラにするな」

「……」

「あなたは親の言う通りに生きるのが嫌で逃げた。今度は私の言う通りに生きたい?」

「違う」

「同じよ」

「違う!」

「じゃあ私が『医学部へ戻れ』って言ったら戻る?」

律は黙った。

「『画家になれ』って言ったら?」

沈黙。

「『明日から北海道で牧場やれ』は?」

「ふざけるな」

「ほら」

私は腕を組んだ。

「選びたいんでしょう」

律は俯いた。

「でも、選ぶのが怖い」

「それは分かる」

「じゃあ助けてくれよ」

「助ける」

律が顔を上げる。

「でも、決めない」

「何が違う」

「全部」

私は言った。

「倒れたら手を貸す。今夜泊まる場所がなければ探す。ご飯が必要なら食べさせる。眠れないなら話くらい聞く」

少し間を置く。

「でも、あなたの人生の行き先だけは決めない」

律の顔が、

怒りに変わった。

「それが一番欲しいんだよ!」

「だから一番あげない」

「最低だ」

「知ってる」

「偽物」

「それも聞いた」

律は扉へ向かった。

晴が声をかける。

「待って」

「触るな!」

律は振り返らず、

夜へ飛び出した。

扉が閉まる。

私は立ち尽くす。

晴が言う。

「追わなくていい?」

「……」

本当は、

追いたかった。

未来が見えた。

夜。

鉄骨。

高い場所。

雨。

律の足元。

私は息を飲む。

「晴」

「うん」

「行く」

「どこ」

「建設現場」

「どこの」

未来の映像。

看板。

住所。

私は黒いコートを掴んだ。

「走る」

夜の東京は、

巨大な迷路だった。

工事中のビル。

フェンス。

地下道。

高架。

信号。

雨が降り始めた。

私は走った。

未来が見えるくせに、

今この瞬間には遅れることがある。

それが怖かった。

晴が横を走る。

「鏡!」

「何」

「未来、見えてる?」

「少し」

「律は」

答えなかった。

見えている。

でも、

未来は確定していない。

そう信じたい。

いや。

未来が見える私が、

未来を信じるというのも変な話だ。

でも。

見えるものと、

決まっているものは、

違う。

私はそれを、

誰より知っている。


第三章 血から涙へ

建設現場の仮囲いを抜けると、

鉄骨の迷路だった。

夜のオフィスビル。

未完成の階段。

足場。

金属の床。

雨。

強い照明。

遠くで機械音。

工事は止まっている。

律は上にいた。

「律!」

私が叫ぶ。

返事はない。

晴が先に階段を上る。

「待って」

「鏡は下にいて」

「嫌」

「今は」

晴が私を見る。

珍しく強い目だった。

「未来を見る人じゃなくて、下で待つ人が必要かもしれない」

私は動けなかった。

その言葉が、

痛かった。

私はいつも、

「何かする側」でいた。

手を握る。

未来を見る。

言葉を渡す。

でも、

できることがないとき、

私は急に弱くなる。

晴は登っていった。

私は鉄骨の陰から上を見る。

律。

足場の端。

手にナイフ。

距離がある。

晴が近づく。

「来るな!」

律が叫ぶ。

「分かった」

晴が止まる。

「じゃあそこでいい」

「帰れ!」

「それは無理」

「何で!」

「鏡が心配するから」

「そんなの知らない!」

「うん」

晴は穏やかだった。

「君の人生だからね」

律が笑った。

「それだよ」

雨が音を立てる。

「みんなそればっかりだ」

「何が」

「自分の人生」

律は叫ぶ。

「自分で決めろ。自分で選べ。自分で責任取れ!」

ナイフが震える。

「そんなの、全部一人でやれってことじゃないか!」

晴はすぐには答えなかった。

私も。

その言葉は、

痛いところを突いていた。

自由を称賛するとき、

人は簡単に、

「自分で決めろ」

と言う。

でも、

それは時々、

「一人で何とかしろ」

に聞こえる。

私も、

そう言っていたのかもしれない。

晴が口を開く。

「一人で決めても」

律を見る。

「一人で背負わなくていいんじゃない?」

律の顔が止まった。

「何だよ、それ」

「俺も自分の仕事は自分で決める。でも、困ったら鏡に愚痴る」

下から私は叫ぶ。

「迷惑」

晴が少し笑う。

「こういう感じ」

「ふざけるな!」

「ふざけてない」

雨。

「小野寺くん」

晴が言った。

「自由になった瞬間って、たぶん地図が消えるんだよ」

律は黙る。

「今まで親が持ってた地図がなくなる」

一歩。

「だから迷う」

一歩。

「迷わない方がおかしい」

「来るな」

晴が止まる。

「分かった」

止まることが、

こんなに大事だと、

私はその夜初めて知った。

「俺もさ」

晴が言う。

「鏡と一緒にいるけど」

嫌な予感。

「何」

私は下から言った。

晴は無視する。

「こいつ、未来見えるくせに、俺の人生の答えなんか一個も教えてくれないよ」

「律に余計なこと吹き込まないで」

「本当でしょう」

「まあ」

律が少しこちらを見る。

晴が続けた。

「でも、それでいいと思ってる」

「どうして」

「俺の人生だから」

律の顔がまた歪む。

「それが怖いって言ってるんだ!」

「怖くていい」

「……」

晴の声が低くなる。

「迷子になったのは」

雨の向こう。

「自由になった証拠なんじゃないか」

律の顔が崩れた。

本当に。

顔というものは、

泣く直前、

一度だけ幼くなる。

二十一歳の男が、

一瞬、

十歳くらいの子どもに見えた。

「僕は」

声が詰まる。

「医者になりたくなかった」

「うん」

「でも」

律が泣き始める。

「医者じゃない僕が、誰なのか分からない」

晴は何も言わない。

「父さんに言われた通りにやれば、褒められた」

涙。

「試験受かれば、褒められた」

涙。

「成績良ければ、家で笑っていい感じだった」

律は自分の手を見る。

「全部捨てたら」

泣く。

「僕に何も残らなかった」

私は、

その言葉でようやく理解した。

律が失ったのは、

進路ではない。

自分を測る物差しだった。

正解のレールは、

確かに檻だった。

でも同時に、

自分の存在を説明してくれる壁でもあった。

檻を壊せば、

壁もなくなる。

外へ出た瞬間、

自分の輪郭まで消える。

「僕」

律の声が震える。

「前の僕に戻りたい」

私は叫んだ。

「戻れない」

晴が振り返る。

律も。

自分でも、

強すぎたと思う。

でも、

続けた。

「昨日の自分には、もう戻れない」

律が絶望した顔をする。

「何でそんなこと言うんだよ」

「だって本当だから」

私は鉄骨の階段を一段だけ上がった。

晴が目で止める。

それ以上は行かない。

「医者になることだけが人生だと思ってたあなたは、もう知らないでしょう」

律は黙る。

「親に逆らえなかったあなたも」

雨。

「もう戻れない」

「じゃあ」

律は泣く。

「どうしたらいい」

私は言った。

「知らない」

「またそれかよ」

「うん」

一度、

息を吸う。

「でも」

私は彼を見る。

「戻れないことと、終わったことは同じじゃない」

律の瞳が揺れる。

「前の自分がいなくなったなら」

私は黒い手袋を握る。

「その喪失を、ちゃんと悲しめばいい」

沈黙。

そこで、

律の手が下がった。

晴がゆっくり近づく。

律は抵抗しなかった。

ナイフが晴の手に渡る。

律の肩が落ちる。

そして、

声を上げて泣いた。

私はその光景を、

少し離れた場所から見ていた。

血は、

傷の言葉だ。

怒りの言葉でもある。

でも涙は、

失ったものの言葉だ。

律はようやく、

自由になった自分を祝うのではなく、

自由になるために失った自分を弔っていた。

私は思った。

人は、

檻を壊しただけでは自由になれない。

檻の中で生きていた自分へ、

さよならを言わなければならない。

その葬式を飛ばすと、

人は過去へ戻ろうとする。

律の泣き声が、

未完成のビルに反響する。

鉄骨。

雨。

街の光。

その全部が、

巨大なREM睡眠のようだった。

目覚めかけているのに、

まだ夢の中。

でも。

胸は動いている。

それで十分だった。

その夜は。


第四章 どこを出口と呼ぶか、私は決めない

翌朝。

雨は上がった。

鏡の館。

律はソファへ座っていた。

晴が淹れた紅茶を、

両手で持っている。

ナイフは、

もうない。

危険なものから距離を取り、夜を越えるために必要な人へつなぐこと。

それくらいは、

未来が見えなくても分かる。

人間は哲学だけでは生きられない。

身体を休める場所。

食べ物。

眠れる時間。

助けを求められる相手。

そういう現実的な支えがいる。

私がそれを忘れたら、

本当にただの胡散臭い女になる。

「昨日」

律が言った。

「ごめん」

「何が」

「色々」

「多すぎて分からない」

「ナイフとか」

「それは謝るより、次に同じ状態になったとき一人で抱え込まない方法を考えて」

律が頷く。

「……まだ」

彼は窓を見る。

「分からない」

「何が」

「何したいか」

「うん」

「親に謝るべきか」

「うん」

「大学戻るか」

「うん」

「別の仕事探すか」

「うん」

「画家とか」

私は笑った。

「急に?」

「分かんない」

「いいじゃない」

律がこちらを見る。

「何が」

「『分からない』って言えてる」

彼は少し考えた。

「昨日までは?」

「『正解を教えろ』だった」

律が苦笑する。

「そんなに違う?」

「全然」

私は椅子へ座る。

「正解を求める人って、自分の人生を採点表にしちゃうの」

「……」

「医学部へ戻ったら正解。戻らなかったら不正解。親と和解したら正解。絶縁したら不正解」

「そういうものじゃないの」

「知らない」

「また」

「世界って、二択じゃないのよ」

私は指を一本立てる。

「戻る」

二本。

「戻らない」

三本。

「一度戻ってまた辞める」

四本。

「別の大学へ行く」

五本。

「働きながら考える」

手を開く。

「途中で全部変える」

律が笑った。

「めちゃくちゃだ」

「現実なんてそんなもの」

「いい人と悪い人も?」

「そんなに綺麗に分かれない」

「親は?」

「知らない」

律の顔が少し曇る。

私は言う。

「あなたを苦しめた。それは事実」

「うん」

「でも、だからって全部が悪意だったかは別」

律は黙る。

「善意でも人を傷つける」

私は自分の胸に刺さる言葉を吐く。

「救おうとして檻を作ることもある」

黒木蓮華を思い出した。

そして、

自分自身も。

私は未来を知っている。

だから危険を避けさせたくなる。

失敗を教えたくなる。

苦痛を遠ざけたくなる。

その気持ちは、

時に優しさの顔をしている。

でも。

優しさは、

相手の人生を奪う免許ではない。

「律」

「何」

「小さな呪文を一つあげる」

彼が少し笑った。

「未来じゃなく?」

「未来より安い」

私は言う。

「昨日の自分には、もう戻れない」

律の笑顔が消えた。

「それ、昨日も言われた」

「大事だから二回」

「呪いじゃない?」

「呪文と呪いは近いのよ」

律はカップを見る。

「戻れない」

「うん」

「じゃあ、前の僕は死んだ?」

私は少し考える。

「死んでない」

「じゃあ」

「材料になった」

律がこちらを見る。

「医学部にいた時間も、親の期待に応えた時間も、逃げた夜も、昨日泣いたことも」

私は言う。

「全部、これからのあなたの材料」

「本当の僕は?」

「知らない」

「ないの?」

「あるかもしれない」

「どこに」

「完成した状態では、たぶんどこにも」

私は笑う。

「探すより作れば」

律は長いあいだ黙っていた。

そして、

ゆっくり頷いた。

昼前。

律は店を出た。

「また来てもいい?」

「予約して」

「冷たい」

「迷ったら来ればいい」

私は付け加えた。

「でも、住むのは禁止」

律が笑った。

「分かった」

彼は路地へ出た。

左を見る。

右を見る。

少し迷う。

そして、

どちらでもない真正面へ歩いていった。

私はそれを見ていた。

出口を見つけたわけではない。

でも、

足が動いた。

それでいい。

店を閉めたあと、

晴と歩いた。

谷中の商店街。

昨夜の雨で、

アスファルトが光っている。

店先から湯気。

自転車。

猫。

普通の昼。

あれだけ世界が壊れた夜のあとでも、

パン屋は開く。

人間の生活って、

少し残酷なくらい続く。

「鏡」

晴が言った。

「何」

「自分の出口、分かる?」

私は立ち止まった。

「急ね」

「小野寺くんに偉そうなこと言ってたから」

「聞いてた?」

「ずっといた」

「忘れて」

「無理」

私は商店街の先を見る。

人。

光。

道。

未来なら、

いくつか見える。

晴と歩く未来。

喧嘩する未来。

店を閉める未来。

続ける未来。

一人になる未来。

誰かと暮らす未来。

泣く。

笑う。

いろいろ。

でも、

どれが出口か。

分からない。

「知らない」

私は言った。

晴が笑う。

「預言者なのに?」

「未来は見える」

私は手袋を外す。

「でも」

晴の手を握った。

温かい。

「自分がどこを出口と呼ぶかまでは、見えない」

「じゃあ困るね」

「別に」

「どうして」

私は歩き出す。

晴の手を握ったまま。

「出口が見つかるまで生きるわけじゃないもの」

晴が私を見る。

「じゃあ何」

「迷ってる途中も人生でしょう」

言ってから、

少し恥ずかしくなった。

「哲学者みたい」

「うるさい」

「胡散臭い」

「帰れ」

「手つないでるけど」

「離せば?」

「嫌」

私は少し笑った。

誰かを出口にしない。

それは、

誰とも手をつながないという意味ではない。

一人で全部背負うという意味でもない。

むしろ逆だ。

出口にならないからこそ、隣にいられる。

晴は私を完成させない。

私の人生の答えでもない。

救済でもない。

ただ、

私とは違う一人の人間。

だから、

一緒に迷える。

それがたぶん、

愛というものの、

少しまともな形なのだと思う。


エピローグ REM

その夜。

私は夢を見た。

暗い迷路。

コンクリート。

鉄骨。

鎖。

遠くで鐘が鳴っている。

ダン。

ディン。

ドン。

私は走っている。

出口を探している。

右。

壁。

左。

壁。

階段。

また同じ場所。

黒い手袋。

血。

ナイフ。

誰かの泣き声。

「出口はどこ?」

声がする。

律?

莉乃?

昔の客?

私?

分からない。

私は叫ぶ。

「知らない!」

鐘。

ダン。

ディン。

ドン。

また走る。

そこに晴がいる。

「こっち?」

私は訊く。

彼は首を振る。

「分からない」

「役立たず」

「お互い様」

私は笑う。

夢の中で。

そして気づく。

出口を探している私は、

いつからここにいた?

何を逃げていた?

昔の私はどこ?

答えはない。

胸へ手を当てる。

どくん。

どくん。

どくん。

鐘とは違う。

自分の音。

それだけ。

夢が崩れる。

目を覚ます。

鏡の館。

ソファ。

朝。

窓から光。

机の上に、

晴が置いたらしいメモ。

パン買ってくる。勝手に未来見ないこと。

「何それ」

笑った。

私は両手を見る。

黒い手袋は、

机の上。

素手。

昨日までの私には戻れない。

たぶん明日の私も、

今日の私とは違う。

それでいい。

「本当の私」なんて、

完成品としてどこかに隠れているのではないのかもしれない。

私というものは、

選んだもの。

捨てたもの。

逃げたもの。

戻ったもの。

間違えたもの。

誰かに触れた体温。

泣いた夜。

そういうものが、

その都度絡まりながら、

少しずつ形を変えているだけなのかもしれない。

なら、

探していた私がどこにもいなくてもいい。

ここにいる私を、生きればいい。

扉を開ける。

朝の光。

谷中の路地。

出口には見えない。

入口にも見えない。

ただの道。

それが妙に嬉しかった。

未来を見ようと思えば、

見える。

でも、

今朝はやめた。

知らない。

どこへ行くか。

何が起こるか。

晴が何を買ってくるかさえ。

知らない。

だから、

少し笑う。

不確実性は、

昔の私には恐怖だった。

今も怖い。

でも。

怖いまま歩けるなら、

それでいい。

自由とは、

迷わなくなることではない。

迷ったとき、

誰かへ自分の人生を丸投げせず、

それでも一歩を選べること。

そして、

その一歩を選ぶまで、

誰かの手を借りてもいいこと。

私は黒い手袋をポケットへ入れた。

今日は、

はめないで歩いてみようと思った。

未来を見るためではなく。

この世界の温度を、

もう少し直接、

触ってみたかったから。

遠くから、

晴の声がする。

「鏡!」

振り向く。

紙袋を持っている。

「何パン?」

「当ててみて」

「未来見れば一発」

「禁止」

私は笑った。

「じゃあ知らない」

「正解」

その言葉に、

私は少しだけ驚いた。

知らないことが、

正解になる朝もある。

晴のほうへ歩く。

迷路は続いている。

出口はない。

あるのかもしれない。

でも、

急いで見つけなくていい。

私はまだ、

ここを走れる。

血の跡も。

涙の理由も。

昨日の私も。

全部抱えたまま。

不完全な私で。

胸が動いている。

それだけで、

今日は十分だった。

月光症候群

  序 海のない海辺 水無代市には、海がない。 正確には、もうない。 三十年前までは、駅前の高層マンションも、県立水無代高校も、六車線の水無代新道も、全部海だった。 干潮になると泥が現れ、蟹が穴を開け、鳥が嘴を突き立てたという。 いま、その上を人間が歩いている。 泥の代わりにアス...