――話さない私と、見ない君
第一章 404号室の透明な日常
私と遠藤響は、半年ほど前から一緒に暮らしている。
正確には、東京都内の古い賃貸マンション、その四階のいちばん奥にある一LDK、四〇四号室で生活を共有している。玄関は一つ。冷蔵庫も一つ。洗濯機も一つ。ベッドも一つ。家賃は折半。電気料金も水道料金も、毎月共有の口座から引き落とされる。
それなのに私たちは、ほとんど一人暮らしをしていた。
朝七時十三分、私はキッチンでパンを焼く。焦げる寸前まで焼いた食パンへバターを薄く塗っていると、背後でベッドが軋む。響が起きた音だ。
私は振り返らない。
しばらくして、裸足でフローリングを歩く足音がする。響は私の背後を通り、洗面所へ向かう。私も彼も、ほんの数センチだけ身体の位置を変える。肩が触れない程度に。
「おはよう」はない。
彼は歯を磨く。水が流れる。私はコーヒーを淹れる。響が戻ってくる頃には、私はトーストを皿へ移している。
視線は交わらない。
彼は冷蔵庫を開ける。私はマグカップを持って窓際へ移動する。彼が牛乳を取り出す。冷蔵庫のドアが閉まる。私はスマートフォンを見る。
まるで、お互いが空気であるかのように。
ただし、完全な空気ではない。
空気なら、そこにいても避ける必要はない。
私たちは互いを避ける。
つまり、見ないという行為そのものによって、相手の存在を誰より強く意識している。
私はこの生活を、頭の中で「完全透明」と呼んでいた。
響は情報デザインを専攻しているから、以前、冗談めかして「プロトコル・ゼロ」と言ったことがある。
会話しない。干渉しない。目を合わせない。互いに互いの感情へアクセスしようとしない。
衝突しないための最小通信規約。
そして、恋人同士であることをやめきれない二人が作った、奇妙な延命措置。
大学で友人の由衣から、「同棲生活どう?」と聞かれると、私は決まって答える。
「平和だよ」
嘘ではない。
喧嘩は一度もない。
怒鳴らない。泣かない。相手を責めない。何時に帰ろうが誰と会おうが、誰も口を出さない。
完璧な平和。
ただし、墓地も平和だ。
そんなことを考えてしまう私は、たぶん性格が悪い。
「いいなあ」と由衣は言った。「うちなんか彼氏と毎週喧嘩してるよ。既読つけたのに返信ないとか、洗い物しないとか」
私は笑う。
「大変そう」
心の中では思う。
少し羨ましい。
皿を洗ってくれないことで怒れるということは、相手に皿を洗ってほしいと思っているということだ。
期待している。
まだ相手が自分の世界の内部にいる。
私と響は、期待をやめた。
期待しなければ失望しない。
アクセスしなければ、エラーも起きない。
そう思っていた。
半年ほど前までは。
私たちが話さなくなった夜のことを、私は何度も思い出す。
季節は春だった。
まだ同棲を始めて二週間しか経っていなかった。
些細なことが原因だった。
響が友人との飲み会から帰ってきたのが午前一時を過ぎていた。私は連絡がなかったことに腹を立てた。響は「束縛されたくない」と言った。私は「束縛じゃなくて心配」と言った。
そこまでは、よくある恋人同士の喧嘩だった。
問題は、そのあとだった。
私たちは互いの言葉を、「相手の本当の気持ちを解読するための暗号」として扱い始めた。
「束縛されたくないって、つまり私といるのが面倒ってことでしょ」
「違う」
「じゃあ何?」
「そのままの意味だよ」
「そのままの意味って何?」
「だから、一人の時間もほしいってこと」
「じゃあ私は邪魔?」
「そういうことじゃない」
「じゃあどういうことなの!」
言葉を重ねるたび、意味が遠ざかる。
響も苛立った。
「紬こそ、僕のこと何も分かってないじゃん」
「分かりたいから聞いてるの!」
「聞けば分かると思ってる?」
「話さなきゃ分からないでしょ!」
「話しても分かってないじゃん!」
その言葉が刺さった。
私は現代文学を専攻している。
言葉を読む。
文脈を読む。
登場人物が何を言わなかったのかを読む。
そんな勉強を四年間続けてきた。
だからどこかで思っていた。
言葉を尽くせば、人間は分かり合える。
正しい言葉を選べば、相手の内部へ届く。
けれどその夜、言葉は橋ではなかった。
投げ合う石になった。
「響は結局、私と一緒にいたいの?」
「いたいよ」
「じゃあ何でそういう態度になるの?」
「どの態度?」
「そうやって面倒そうにする態度!」
「紬が何でも意味を決めつけるからだよ!」
「決めつけてない!」
「決めつけてる!」
「じゃあ本当は何なの!」
そのとき、響が言った。
「分からないよ」
私は止まった。
「何が?」
「自分の気持ち」
「は?」
「全部、言葉になんてできない」
「でも何かあるでしょ」
「あるよ。でも、言った瞬間、それが全部みたいに扱われるのが嫌なんだよ」
私は理解できなかった。
だからさらに問い詰めた。
結果、もっと分からなくなった。
午前三時近く。
二人とも疲れ果てていた。
響は床へ座り込み、壁にもたれた。
私はソファにいた。
同じ部屋なのに、ものすごく遠かった。
そのとき響が、暗闇でぽつりと言った。
「もう、アクセスするのやめよう」
「……何?」
「互いの中身」
冗談ではなかった。
「分かろうとするたびに壊れるなら、もう見ないほうがいい」
私は何も言えなかった。
「これ以上、壊れる前に」
その言葉だけが残った。
翌朝から、私たちは話さなくなった。
最初は一日だけのつもりだった。
二日。
三日。
一週間。
一か月。
そして半年。
愛というものは、案外しぶとい。
死んでいるように見えても、形式だけは残る。
家賃を折半する。
冷蔵庫を共有する。
洗濯ネットを二つ買う。
相手のシャンプーが切れそうなら、同じものを買っておく。
それらは愛なのだろうか。
ただの習慣なのだろうか。
私は分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
夜、響が隣で眠っていると、
私はいつも思う。
触れたい。
それだけだった。
分かりたい、ではない。
触れたい。
言葉にならないその欲望だけが、四〇四号室の静寂の中で生き残っていた。
第二章 矛盾する正しさと、解離する身体
私は、自分の中に複数の人間がいることを認めたくなかった。
一人になりたい私。
響に抱きしめてほしい私。
自由を尊重されたい私。
「今日は早く帰ってきて」と言いたい私。
話しかけられたくない私。
それでも、「おかえり」と言ってほしい私。
それらは互いに矛盾している。
文学では、矛盾を抱えた人物を「複雑で人間的」と評するくせに、自分自身の矛盾となると私は耐えられなかった。
人間は論理式ではない。
Aでありながら非Aでもある。
孤独を愛しながら、孤独に泣く。
傷つきたくないから距離を取って、距離を取ったことに傷つく。
そういう生き物だ。
でも私は、その矛盾を整理したかった。
卒業論文では、現代文学における「語り得なさ」を扱っていた。
言葉が失敗する場所。
沈黙。
省略。
誤読。
書けば書くほど、笑えてきた。
自分の部屋に、これ以上ない実例がいる。
私は話さない。
響は見ない。
研究対象としては満点だ。
恋愛としては赤点だった。
十一月の終わり。
私は大学図書館に朝から夜までこもっていた。
卒論の提出期限。
就職活動。
友人たちの進路。
自分だけ未来の輪郭がぼやけているような焦燥感。
食事はコンビニ。
睡眠は四時間。
それでも、平気だと思っていた。
身体は、言葉より正直だ。
帰宅したのは午後十時過ぎ。
玄関で靴を脱いだ時点で、少し世界が傾いていた。
私は無視した。
いつものこと。
キッチンで水を飲む。
そのとき視界が白くなった。
次に気づいたとき、
私は廊下に座り込んでいた。
正確には、座っていたのではない。
倒れていた。
身体が鉛みたいに重い。
頭が熱い。
指先だけ冷たい。
足音。
響。
帰ってきていたらしい。
私たちの規則なら、
彼は通り過ぎる。
それが「正しい」。
相手の領域へ入らない。
干渉しない。
私は目を閉じた。
足音が近づく。
止まった。
静寂。
それから。
額に、
手。
少しカサついた掌。
冷たいと思った。
違う。
私が熱いのだ。
響の指が髪を避ける。
私は目を開けなかった。
開けたら、
この瞬間が終わる気がした。
彼は何も言わない。
私も言わない。
ただ、掌がある。
それだけ。
十分だった。
不思議だった。
半年間、
私は響の言葉を待っていた気がする。
謝罪。
愛情。
説明。
「まだ好きだよ」
そういうもの。
でも、その瞬間に欲しかったのは、一つもなかった。
ただ、
触れられている。
それだけで、
涙が出た。
目を閉じたまま泣いた。
響は気づいたのかもしれない。
でも何も言わなかった。
少しして手が離れる。
遠ざかる足音。
冷蔵庫。
棚。
水。
何かを用意する音。
しばらくして、
私の枕元にスポーツドリンク、解熱剤、体温計、氷枕が置かれた。
響はまた離れていった。
私は熱に浮かされながら思った。
私たちは半年間、言葉が危険だと思っていた。
だから言葉を消した。
でも言葉を消しても、
人間は消えなかった。
手は残った。
体温は残った。
冷蔵庫のドアを開ける音も。
スポーツドリンクのペットボトルも。
相手がそこにいるという事実は、
文法より強かった。
私は突然、理解した。
いや、
「理解した」という言い方すら違う。
身体が知った。
私は響を完全に理解したいのではない。
響に触れていたいのだ。
その二つは、
同じではなかった。
翌朝。
熱は少し下がっていた。
響はもう大学へ出ていた。
テーブルに、飲みかけのスポーツドリンク。
ゴミ箱に薬の箱。
私は自分の額へ手を当てた。
当然、
昨日の温度は残っていない。
でも、
記憶はある。
私は笑った。
たった一回触れただけで、
半年間積み上げた思想体系が崩れる。
哲学とは、
熱のある額には弱い。
第三章 昨日のジャンプと、今日の404
私は愚かだった。
昨日、響が私へ触れた。
だから今日も、
何かが起きると思った。
人間はすぐ、昨日の成功を法則にする。
昨日うまくいったことは今日も再現できる。
昨日見つけた場所には今日も同じ道で行ける。
そう思う。
午前八時。
私はわざと廊下に立った。
響が洗面所から戻ってくる時間。
来た。
足音。
心臓。
私は避けなかった。
響が近づく。
昨日なら、
何か起きた。
今日は。
彼は身体を横へずらした。
私に触れないように。
すれ違った。
視線もない。
「……」
声を出しかけて、
やめた。
玄関。
靴。
ドア。
閉まる。
それだけ。
私は廊下に立ったまま、
笑った。
「NOT FOUND」
口にしてみる。
妙に似合った。
昨日はあった。
今日はない。
昨日アクセスできた場所へ、
同じ方法で飛ぼうとした。
でもページは消えている。
存在しない。
それとも、
場所が変わっただけなのか。
人間の心には、
固定されたURLがない。
昨日の響と、
今日の響は、
同じ人間でありながら同じページではない。
昨日の私も、
今日の私ではない。
なら、
一度理解した相手を、
「この人はこういう人だ」
と保存すること自体が、
乱暴なのかもしれない。
文学作品なら、
本文は変わらない。
一度読んだページは、
翌日も同じ文章が載っている。
人間は違う。
生きている限り、
内容が書き換わる。
昨日、
「一人にしてほしい」
と言った人が、
今日は「そばにいてほしい」と思う。
それは嘘ではない。
更新だ。
私はずっと、
響の「本当の気持ち」を探していた。
でも、
本当の気持ちという固定ファイルなど、
最初から存在しないのかもしれない。
あるのは、
その瞬間の響。
その瞬間の私。
それだけ。
なら、
一度見つけた答えへ戻ろうとするのではなく、
毎回、
新しく尋ねなければならない。
面倒だ。
恐ろしく面倒。
でも、
たぶん愛とは、
そういう面倒なものなのだ。
その日の夕方。
私はスーパーへ寄った。
大根。
豆腐。
油揚げ。
味噌。
鮭。
響の好きなものを、覚えていた。
覚えているという事実が少し恥ずかしかった。
帰宅して、
味噌汁を作る。
包丁。
湯気。
出汁。
味見。
少し濃い。
水を足す。
私は自分の分と、
もう一人分を用意した。
テーブル。
向かい合わせ。
その景色が妙に怖かった。
半年間、
私たちは同じテーブルで向かい合って座っていない。
私は付箋を出した。
書く。
《スープ、温かいよ》
そこで止まる。
どうすればいい。
「話したい」?
重い。
「好き」?
もっと重い。
「昨日ありがとう」?
過去へ戻ろうとしている。
しばらく考えて、
こう書いた。
《スープ、温かいよ。美味しいと思ったら、一度だけ私を見て》
馬鹿みたい。
小学生の告白。
でも、
それでいい。
言葉は完全じゃない。
だからこそ、
小さく使えばいい。
全部説明するためではなく、
ドアを一センチ開けるために。
私はテーブルに座った。
待った。
時計。
十九時。
二十時。
二十一時十二分。
鍵。
心臓が跳ねる。
玄関が開く。
響。
私は逃げなかった。
彼も、
一瞬立ち止まった。
それから靴を脱ぐ。
荷物を置く。
テーブル。
料理。
付箋。
彼の手が止まる。
読む。
私は黙って見ている。
響は椅子に座った。
味噌汁。
箸。
一口。
私は呼吸を忘れた。
響が止まる。
それから。
ゆっくり、
顔を上げた。
半年ぶりだった。
目。
遠藤響の目。
私は、
その色を忘れていた。
茶色。
少し赤い。
そして、
涙が落ちた。
第四章 愛という、素敵な嘘
最初に喋ったのは、
響だった。
「……怖かった」
声が、
部屋に響いた。
半年間、
テレビや冷蔵庫や雨音ばかり聞いていた四〇四号室に、
彼の声。
私は、それだけで泣きそうになった。
響は目を伏せた。
「何を言っても、またズレる気がして」
私は黙って聞いた。
「前の喧嘩のとき」
彼は続ける。
「紬が欲しい答えが、全然分からなかった」
「私も分からなかった」
「でも、答えなきゃって思った。ちゃんと説明しなきゃ。僕が何を思ってるのか、正確に言わなきゃって」
彼は笑った。
「できなかった」
「うん」
「自分のことなのに」
「うん」
「それで怖くなった。言葉にしたら、その言葉が僕そのものになる気がした」
私は胸が痛くなった。
あの夜、
私はそうしていた。
響が一つ言うたびに、
「じゃあつまりこうなんでしょ」
と意味を固定した。
私は彼を理解したかった。
でも実際には、
彼を定義したかったのかもしれない。
分からないものを、
分からないまま持っていることが怖かったから。
「私も怖かった」
私は言った。
響が見る。
「何が?」
「分からないこと」
声が震える。
「恋人なのに分からないって、失敗みたいで」
涙が落ちた。
「好きなら分かり合えるはずって思ってた」
「僕も」
「馬鹿だね」
「うん」
二人で、
少し笑った。
それから、
私は手を出した。
テーブルの上。
響のほうへ。
彼は見た。
「触っていい?」
半年ぶりに、
許可を取った。
響は、
ゆっくり手を重ねた。
温かい。
少しカサついている。
あの日、
額に触れた手。
私は指を絡めた。
「完全に分かり合えなくてもいいと思う」
響は黙っている。
「昨日分かったと思ったことが、今日NOT FOUNDになってもいい」
「それは嫌だな」
「私も嫌」
「嫌なの?」
「そりゃ嫌だよ」
二人で笑う。
「でも」
私は言った。
「そのたびに探せばいい」
「毎日?」
「毎日」
「面倒」
「愛するって、奥が深いから」
「何それ」
「今思いついた」
響が笑った。
私はその笑顔を見た。
半年間、
見たかったもの。
でも、
笑顔そのものが欲しかったわけではないのだと思う。
この人が、
ここにいる。
その事実が欲しかった。
「ねえ響」
「うん」
「愛って、たぶん嘘だね」
響が眉を上げた。
「いきなり何」
「永遠に分かり合えるとか、ずっと一緒とか」
「重い話するなあ」
「証明できないじゃん」
「まあ」
「未来のことなんて分からないし。明日、私が響を嫌いになるかもしれない」
「やめてよ」
「響が私を嫌いになるかもしれない」
「もっとやめて」
私は笑った。
「でも、それでも今『好き』って言う」
響は黙った。
「それって、素敵な嘘じゃない?」
少し考えて。
「嘘っていうか」
「うん」
「約束じゃなくて、選択なんじゃない」
「選択?」
「今日、好きって選ぶ」
彼は私の手を握る。
「明日も、また選ぶ」
私は胸の奥が熱くなった。
「それ、もっとずるい」
「何が」
「私よりいいこと言った」
響は笑った。
その瞬間、
私は思った。
愛は完成されたプログラムではない。
一度書けば永遠に動くコードではない。
バグが出る。
更新する。
昨日動いたものが今日は動かない。
環境が変わる。
人も変わる。
だから修正する。
でも、
修正する意思がある限り、
エラーは終わりではない。
ただの通知だ。
ここには、今、答えがありません。
それだけ。
「味噌汁」
響が言った。
「何」
「冷めた」
「誰のせいよ」
「紬」
「響でしょ」
「半々」
半年ぶりの口喧嘩だった。
私は笑った。
嬉しかった。
本当に、
馬鹿みたいに。
エピローグ 未完成な私たちの、明日の朝食
翌朝。
私はトーストを焼いた。
響が起きる。
足音。
以前なら、
そこから沈黙が始まった。
今日は。
「おはよう」
私が言う。
響は少し驚いた顔をした。
「……おはよう」
それだけ。
なのに、
部屋の空気が変わった。
二人でテーブルへ座る。
昨日の味噌汁を温め直した。
響が飲む。
「薄くなってない?」
「温め直したからかな」
「いや、昨日からちょっと薄かった」
私は箸を置いた。
「朝一番に文句?」
「感想」
「不満でしょ」
「感想」
「じゃあ自分で作って」
「怒った?」
「ちょっと」
「言ってくれてよかった」
私は一瞬止まる。
それから笑った。
「こういうの、毎回確認するの?」
「しばらくは」
「面倒」
「愛するって奥が深いから」
「それ私の台詞」
響が笑う。
私も笑った。
完璧な会話ではない。
これから喧嘩もする。
たぶん、
昨日「分かった」と思った響の気持ちが、
今日にはまた分からなくなる。
私自身についても同じ。
昨日の私は、
今日には少し違う。
人間の心にはパーマリンクがない。
それは不便で、
不安で、
時々残酷だ。
でも。
だからこそ、
昨日の失敗に永遠に閉じ込められなくて済む。
昨日の「もう無理」が、
今日も同じとは限らない。
昨日「分からなかった」相手と、
今日また出会える。
私はそれを、
少しだけ希望と呼んでもいいと思う。
食後。
響がマグカップを洗っている。
私は背後から言った。
「ねえ」
「何」
「明日も、私の決めつけ壊してね」
水道の音。
響が振り返る。
「注文多いな」
「恋人だから」
「関係ある?」
「ある」
「じゃあ紬も」
「何を?」
「僕の諦め、壊して」
私は黙った。
それから、
「努力します」
と答えた。
「何そのビジネスメール」
「絶対って言ったら嘘になるから」
響は笑った。
そして、
濡れた手のまま私の手を取った。
私は嫌がるふりをした。
「冷たい」
「じゃあ離す?」
「嫌」
矛盾。
でも、
それでいい。
冷たい。
でも離したくない。
自由でいたい。
でも触れていたい。
分からない。
でも好き。
人間には、
矛盾しながら正しいことがいくつもある。
愛は、
その矛盾を一つの答えにまとめることではないのかもしれない。
むしろ、
矛盾したまま、
同じテーブルに座ることなのかもしれない。
朝の光が、
四〇四号室へ入ってくる。
ここにはもう、
透明な恋人はいない。
完全に理解された恋人もいない。
いるのは、
今日の響。
今日の私。
そして明日にはまた、
少し違う二人。
私は彼の手を握り返した。
もし明日、
また彼が分からなくなったら。
そのときは、
もう一度探そう。
見つからなくても。
エラーが出ても。
昨日の場所が消えていても。
別の入り口があるかもしれない。
声。
目。
手。
味噌汁。
笑顔。
沈黙。
どれでもいい。
完全な理解へ辿り着くためではない。
何度でも、
あなたに触れ直すために。
四〇四号室。
NOT FOUND。
それは、愛がなくなったという意味ではない。
ただ、
昨日までの答えが、
そこにはもうないということ。
だったら今日の私たちは、
今日の答えを探せばいい。
たとえその答えも、
明日には消えてしまうとしても。
そのたびにもう一度、
あなたを選べばいい。
愛という、
証明不能で、
不完全で、
どうしようもなく素敵な嘘を、
今日も二人で信じながら。
終