死者とは誰か
人はひとりで生きているようで、けっしてひとりではありません。
「人間」という言葉をよく見ると、「人」と「間」と書きます。そこには、人と人とのあいだ——すなわち関係が前提とされているのです。孤立した存在ではなく、他者との関係の中に「人間」はかたちづくられていく。私たちは、つねに「誰か」と共にあることで、生きる意味を見いだしているのです。
では、私たちが生きている「関係」とは、どのようなものなのでしょうか。まず思い浮かべるのは、家族や友人、隣人といった「生きている人」とのつながりでしょう。けれども私たちの人生を支える関係は、それだけではありません。
私たちは、生者と死者のあいだに生きているのです。
生者と死者の「関係」
死者との関係とは、お葬式や火葬の別れだけを指すものではありません。法事、彼岸、お盆、仏壇の前で手を合わせる日常の祈り——それらすべてが、死者との静かな対話の場であり、生きている者が死者とかかわる「関係」そのものなのです。
ここで私たちは、一つの問いに行きつきます。
死者とは、いったい誰のことなのでしょうか。
意味ある死者と、一般的な死者
私は、死者にはふたつの相貌があると考えます。
一つ目は「意味ある死者」。これは、家族や親友、深いつながりを持った人々です。彼らの死は、私たちの心に具体的な痛みと記憶を残し、想い出と共に生き続けます。追悼や供養の対象となるのは、たいていこの「意味ある死者」たちです。
もう一つは「一般的死者」。たとえば新聞の事故記事や遠い国の戦争の死者。私たちはその人の顔を知らず、名前さえ記憶に残らない。抽象的な死、つまり個人的な感情のともなわない死です。
このような区別は、哲学者ヴラジミール・ジャンケレヴィッチの「死の人称」という概念にも通じます。彼は死を三つの人称で分類しました。すなわち:
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一人称の死:自分自身の死(だが私たちは、これを経験することができません)
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二人称の死:親しい人の死
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三人称の死:名前も顔も知らない他者の死
私たちが日常的に交わっている死者とは、ほとんどが「二人称の死」、すなわち「意味ある死者」なのです。
死者と出会う「場所」と「時間」
では、「意味ある死者」と私たちが交わる接点とはどこにあるのでしょうか。
まず空間的な接点として、仏壇があります。位牌や遺影、過去帳がそこにあり、まさに死者の象徴が収められた「小さな聖域」です。そしてお墓。お盆や彼岸に訪れるその場所は、遺体や遺骨のある「意味ある場所」として、死者との再会を可能にしてくれます。
また、寺院や霊場(高野山や恐山など)も、死者の霊魂が集うと信じられてきた特別な空間です。あるいは事故現場に立てられた地蔵や花束もまた、死者の気配を感じる場です。
一方で、時間的な接点も存在します。たとえば命日や祥月命日。これらは特定の死者に結びつく「意味ある時間」です。またお盆や彼岸など、社会全体で死者を想う年中行事も、時の中に死者と向き合う契機を刻みます。
こうして私たちは、「意味ある時間」に「意味ある場所」で死者と交わるのです。
儀礼としての出会い
死者との接点では、しばしば儀礼が行われます。
儀礼には二つの型があります。年中行事や人生儀礼といった定期的な儀礼と、葬儀や法事など、個別の出来事に応じて行われる非定期的な儀礼です。
たとえばお盆や彼岸は毎年めぐってくる暦の中の死者との交差点。一方、四十九日や一周忌は人生のある地点に出現する死者との節目です。
そして、儀礼には必ず「想い」があります。死者との関係を絶やさないために、私たちは形ある行為を通して想いを届ける。それは祈りであり、記憶であり、語りかけなのです。
死者とは、忘れえぬ「あなた」
結局、死者とは誰なのか。
それは、私のなかに想いを残す、かけがえのない「あなた」です。顔を思い出せる、声を覚えている、夢に出てきてくれる、何気ない日々の中でふと涙をこぼさせる存在。
死者とは、記憶の奥で静かに呼吸している「生きているあなた」なのかもしれません。私たちは死者によって、今もなお生かされているのです。
死者とは誰か——。
それは、私たちが愛し、想い、忘れないでいるすべての人々のことです。だからこそ、仏壇の前でそっと手を合わせるとき、心のどこかで、その人がそこにいるような気がするのです。
儀礼は形ではありません。生きている者が、いまもなお死者と共にあることを、確かめる行為なのですから。
では、私たちはなぜ「意味ある死者」との関係を保とうとするのでしょうか。なぜ、年中行事や命日に手を合わせ、仏壇の前で静かに語りかけるのでしょうか。
その根底には、単なる慣習や宗教的義務ではない、もっと深い人間的な動機があるように思えます。それは、おそらく、「忘れない」ということ。そして、「忘れたくない」ということ。この「忘れたくない」という情動の奥には、死者を喪ったことによって欠けたものを、日々の中で何とか補おうとする生者の祈りがあるのです。
死者は私たちの記憶の中に住んでいます。けれども記憶というのは、時に揺らぎ、時に風化し、時に重く沈み込むものでもあります。だからこそ、我々は「意味ある場所」や「意味ある時間」において、記憶にかたちを与えるのです。石に刻まれた名、香の煙、季節ごとの花。これらはすべて、記憶という目に見えないものを、今ここにあるものとして呼び戻す行為です。
そしてその呼び戻しの場で、私たちは「交わり」を試みます。すでにこの世にいない人と、言葉を超えたやりとりをする。供養とは、慰霊とは、追悼とは、顕彰とは――どれもが、ただの行為ではありません。それは、「あなたを想っています」「あなたは私の中にまだ生きています」という、静かな応答です。
哲学者ジャンケレヴィッチが言うように、「三人称の死」は、どこか冷たく遠い。他人の死、報道の中の死、数字として数えられる死。しかし「二人称の死」は違います。それは、呼びかける相手がいて、その名を知っていて、その声や癖や歩き方を知っている死です。だからこそ痛みがあり、そしてつながりが残される。
そのつながりを保ち続けるのが、私たち人間の営みなのかもしれません。
死者とは誰か。それは、名前を呼びかけたくなる誰か。記憶の奥に静かに息づき、時折涙や微笑みを通じて私たちに語りかけてくる誰か。そして私たちは、その「誰か」を忘れないことで、自分自身をもまた生きていると確かめるのです。
死者とは、決していない者ではない。姿なき「いる者」として、私たちの中に、そして私たちの生活の中に生き続けている存在です。
だからこそ、命日はただの暦の数字ではなくなり、仏壇はただの家具ではなくなる。
死者とは誰か。
その問いに向かうとき、私たちはまた、生者である自分自身の姿を、そっと見つめ返しているのです。
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