2025-05-11

奈落の花は、音もなく

 奈落の花は、音もなく

海底でボレロが鳴っていた。
ただ一つの旋律が、
波の重力をなだめるように、
静かに、けれど確かに、
沈んだ心を引き上げていった。

ああ、救われたと思ったのだ。
あの旋律が、
過去の罪と、未遂の愛と、
傷口の名残を全部まとめて
音楽にしてくれたのだと。

浮上していく心は、
水圧の重みに別れを告げていた。
光が、ほんの少し見えた気がした。
それは幻だった。
泡だった。
泡は弾け、空気は抜け、
音が——
音が砕けた。

そして、始まった。
いや、終わったのだ、ほんとうは。
浮上した心は、
まるで時限付きの仮初だったのだ。
気づいた瞬間、
その「浮上したはずの自分」が、
そのまま反転し、落下していった

最初の崩落は静かだった。
次第に、音を持ちはじめた。
心が——砕ける音。
記憶が——ちぎれる音。
希望が——叫ばない音。
そしてそれらが混ざり合って、
やがてガラガラと、
大理石の階段を一段ずつ、
地獄のフーガを奏でながら
転げ落ちていくような音になった。

そう、
私は「絶望の底」へと落ちていた。
しかし、すぐに悟った。
この場所は、
「絶望」などという
人間的な名では呼べない。

絶望とはまだ、
光との対話があるものだ。
けれどここは、
光の概念そのものが忘れられた場所だった。

形而上の闇。
無限にのびた無。
沈黙さえ反響しない深さ。
存在すら「なぜ在るのか」と問われる深度。

そんな道中——

咲いていた。

花が。
咲いていたのだ。
私の、
私だけの終わりの風景に。

白い花弁。
薄く透きとおり、
その中心に、
かつて見た温もりのかけらが宿っていた。

ありえない。
ここは咲く場所じゃない。
おまえのようなものが、
ここに存在してはならない。

「咲くな」と、私は叫んだ。

この場所に、
そんなに美しいものがいてはならない。
誰も見ていない、
誰も認めない、
誰も覚えてくれないこの場所で、
どうしておまえは——
咲くという行為を選んだのだ?

それは優しさではなかった。
それは希望ではなかった。
それはむしろ、
無限の残酷だった。

咲いたということが、
すべての問いを無にする。
ここがどんな場所かを知らしめる。
「こんな場所でも咲く」という事実が、
人の魂をどれほど引き裂くか、
おまえは知っているのか?

私は、涙さえ出なかった。
あまりにも美しく、
あまりにも不条理で、
あまりにも本質だったから。

私は膝を折り、
泥を掴み、
声の出ない喉で、
それでも叫びつづけた。

咲かないでくれ。
咲いてしまったなら、もう——

誰かがその花を見つける日など来ない。
その存在は、きっとこの奈落で
永遠に静かに腐るだけだ。
なのに、咲いた。
咲いてしまった。

私は、もう一度砕けた。
救われたはずの心が、
崩れて、崩れて、
それでもその花を見つめてしまった。

なぜならそれは、
もしかすると、私が
生き延びることの理由そのものだったかもしれないから。

咲かないで、と祈りながら、
私は、見つめることを止められなかった。


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ハマス

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