おきよ版モンゴル人の物語・第2巻
裁判沙汰もモンゴル相撲で解決!
空はあくまで青く、大地はどこまでも緑。ウランバートルの新興ジャーナリスト、サランゲレル(二十八歳、信条はペンは剣よりも強し)が、自身のウェブメディアに投下した記事は、さながら無風の大草原に放たれた一匹の狼であった。
『モンゴル保守党、大草原の多様性を見過ごす勿れ!~置き去りにされる性的少数者の声~』
この記事が、モンゴル保守党党首、バトムンフ(五十二歳、趣味は筋肉と伝統)の逆鱗という逆鱗に触れるまで、そう時間はかからなかった。テレビの臨時ニュースで、党首は巨大なチンギス・ハーンの肖像画を背に、鋼鉄の拳を振り上げて吠えた。
「この記事は! 我が党への冒涜であり! 我らが偉大なるモンゴルの伝統への挑戦である! 断じて許さん!」
その怒りはゴビ砂漠の熱風の如く、サランゲレルの元へ裁判所からの召喚状という形で届いたのである。名誉毀損。実に現代的な響きだ。
法廷は、石造りの重々しい建物であった。しかし、中に一歩足を踏み入れたサランゲレルは、我が目を疑った。傍聴席はデール(モンゴルの民族衣装)を着た人々で埋め尽くされ、皆どこか浮き足立っている。まるで、ナーダム(モンゴルの国民的祭典)の開幕を待つ観客のようだ。
やがて、裁判官ガンボルドが入廷する。法服こそ着ているが、その脇に抱えられているのは六法全書ではなく、どう見ても『モンゴル相撲決まり手大鑑・永久保存版』であった。
ガンボルド裁判官は、咳払いを一つすると、高らかに宣言した。
「静粛に! これより、原告バトムンフ、被告サランゲレルによる名誉毀損訴訟を開廷する!……が、しかし! 我らが祖先の魂と、この大地の声に耳を澄ますならば、法廷での舌戦など仔羊の戯れに等しい!」
傍聴席から「おお!」とどよめきが起こる。
「よって本件は、古式に則り、神聖なるブフ(モンゴル相撲)にて、その正邪を決するものとする!」
「決まったァァァ!」と、傍聴席から野太い声が飛んだ。拍手喝采。指笛の嵐。
サランゲレルは、開いた口が塞がらなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください裁判官! ここは法治国家のはずです! 私はジャーナリストで、相撲取りでは……」
「若者よ」ガンボルドは諭すように言った。「ペンが剣より強いと言うのなら、そのペンを握る腕がどれほどのものか、示してみせよ。それがモンゴル人の作法というものだ」
有無を言わさぬとは、このことか。サランゲレルは、自分が近代法ではなく、筋肉と伝統が支配する巨大なビッグウェーブのど真ん中にいることを、ようやく理解したのだった。
決戦は一週間後、裁判所の中庭に特設された土俵にて。
サランゲレルは途方に暮れた。相手は、党のポスターで馬と並んで力こぶを披露しているような男である。勝ち目など、地平線の彼方にも見えやしない。
「それがモンゴルってもんさ」友人たちは馬乳酒を呷りながら笑うだけだ。
そんな彼女の前に現れたのは、近所のゲル地区で「生ける伝説」と噂される元横綱、ゴンボドルジ爺さんであった。
「お嬢ちゃん、ペンで国を動かそうってんなら、まずは自分の身体を動かさんと話にならんわい」
ゴンボドルジの特訓は、常軌を逸していた。羊の群れを全力で追いかけさせられ、巨大なゲルを一人で建てさせられ、挙句の果てには「精神を鍛える」と称して、満点の星空の下でホーミー(喉歌)を延々と聞かされるのだ。
「こ、これ、本当に相撲の役に立つんですか?」
息も絶え絶えのサランゲレルに、爺さんは笑った。
「相撲は力じゃない。魂の対話じゃ。相手の重心、呼吸、そして心の揺らぎを読むんじゃよ」
そして決戦の日。中庭はまさにお祭り騒ぎだ。ホルホグ(羊肉の蒸し焼き)の屋台からは、むせ返るような匂いが立ちこめている。
挑戦者、バトムンフ党首が姿を現した。鷲の刺繍が入った立派なゾドグ(ベスト)とシューダグ(パンツ)を身に着け、その肉体は磨き上げられた岩のようだ。鷹の舞を勇壮に踊り、観衆を沸かせる。
対するサランゲレルは、ゴンボドルジ爺さんから借りたブカブカのゾドグ姿で、心細げに土俵に上がった。まるで、巨大な熊の前に立たされた子ウサギである。
「ドゥーラフ!(始め!)」
ガンボルド裁判官の号令が響く。
バトムンフは、まるで父親が娘をあやすかのように、余裕の構えだ。サランゲレルは特訓を思い出す。羊を追って鍛えた俊敏さで、巨体の周りをちょこまかと動き回る。バトムンフは苛立ち、大振りの技を繰り出すが、サランゲレルはひらりひらりとかわしていく。
「小賢しい!」
業を煮やしたバトムンフが、サランゲレルの腕を掴んだ。万事休すか。
その時、サランゲレルは最後の賭けに出た。鍛え抜いた喉で、ありったけの声を張り上げたのだ。
「党首! あなたの記事への反論は読みました! でも、そこに当事者の声は一つもありませんでした! あなたが守りたい伝統とは、誰かの声を無視して成り立つものなんですか!」
それは、ペンに代わる魂の叫びだった。
その一言は、バトムンフの筋肉の鎧を貫き、その心を一瞬、揺らした。彼が「む……」と怯んだ、その刹那。
サランゲレルは、ゴンボドルジ爺さんに叩き込まれたゲルの建て方を思い出した。中心の柱を立てる時の、あの腰の入れ方だ!
彼女は全体重を乗せ、バトムンフの足を取った。巨体は、スローモーションのように傾いでいく。観客席の最前列で応援していた妻と目が合ったバトムンフの顔に、「あ、やべ」という表情が浮かんだ。
ドォォォン!
地響きと共に、モンゴル保守党党首は、大空を仰いだ。
静寂。そして、爆発するような大歓声。
決まり手は、「正論突き落とし」。
倒されたバトムンフは、しかし、不思議と晴れやかな顔をしていた。ゆっくりと起き上がると、サランゲレルに歩み寄った。
「見事だ、お嬢さん。お前のペンは、その細腕よりもずっと重かったらしい」
サランゲレルは、モンゴルの作法に従い、敗者のゾドグの紐を解き、その腕の下を敬意をもってくぐった。
ガンボルド裁判官が、高らかに判決を言い渡す。
「勝者、サランゲレル! よって、原告の訴えは棄却! 被告の記事は……真実! 以上、閉廷!」
その夜の宴会は、裁判所の庭でそのまま開かれた。バトムンフは、サランゲレルの隣に座ると、大きな肉の塊を差し出しながら言った。
「うむ……確かに、我が党には多様性への配慮が足りなかったのかもしれん。善処しよう。だが、次にもし記事を書くなら、手加減はせんぞ。相撲も、議論もな!」
二人は馬乳酒の盃を、高々と掲げた。
かくして、ウランバートルの平和は、ペンと相撲によって守られた。サランゲレルは思った。ペンは強い。でも、たまには身体を張るのも悪くない。乗るしかないのだ、このビッグウェーブに!
――さて、次なる法廷闘争は、隣家のヤギが我が家の洗濯物を食べた件である。もちろん、これも相撲で決着がつけられるに違いない。モンゴルの日常は、今日も今日とて、たくましく続いていく。
決まり手は、草食動物返し!
モンゴル保守党党首を「正論突き落とし」で土俵に沈めたサランゲレルの名は、今やウランバートル中に轟いていた。「ペンも立つ、相撲も取れるジャーナリスト」。その肩書は、彼女に新たな取材依頼と、そして新たな災難をもたらした。
災難は、ある晴れた日の午後、洗濯物を取り込むサランゲレルの悲鳴から始まった。
「私の……私の勝負デールがァァァッ!」
彼女が大切にしていた、青空色の絹のデール。その裾が見事に、実に美味しそうに、隣家のヤギ「ボルテ」の口の中で咀嚼されていたのである。ボルテはサランゲレルと目が合うと、満足げに「メェ~」と鳴き、最後のひとかけらを飲み込んだ。消化の良さをアピールするかのような、小さなゲップ付きで。
サランゲレルは、怒りに燃えながら隣家のゲルを叩いた。出てきたのは、主婦のオユンチメグ(四十五歳、趣味はアイラグ作りと噂話)。いつもは温厚な彼女だが、愛ヤギのこととなると話は別だった。
「あらサランゲレルさん、どうしたのそんなに顔を赤くして。うちのボルテが何か?」
「何か?どころではありません! 私の勝負デールが、あなたのボルテ君のおやつになりました!」
するとオユンチメグは、まあ、と頬に手を当てて言った。
「あらあら、それはボルテがお腹を空かせていたのねぇ。あなたのデール、よっぽど上質な牧草に見えたのねぇ。光栄に思ってちょうだい」
悪びれる様子が、まったくない。話は完全に平行線ならぬ、ねじれの位置にあった。交渉は決裂。こうなれば行く先は一つしかない。
再び、裁判所の中庭である。
ガンボルド裁判官は、前回にも増して生き生きとした表情で、『モンゴル相撲決まり手大鑑・生活トラブル編』を傍らに置いて宣言した。
「静粛に! これより、原告サランゲレル、被告オユンチメグによる『ヤギの食害に関する損害賠償請求訴訟』を開廷する! 本件もまた、モンゴルの大いなる魂の導きに従い、ブフにてその理非を決するものとする!」
「待ってました!」と、どこからともなくホルホグの串を片手にしたバトムンフ元党首の声が飛んだ。いつの間にか、彼はすっかり相撲裁判の常連客となっていた。
対戦相手は、ふくよかで人の良さそうな主婦、オユンチメグ。サランゲレルは、正直、楽勝だと思っていた。党首を投げ飛ばしたこの私が、主婦に負けるわけがない。
しかし、彼女はその考えの甘さを、すぐに思い知らされることになる。助っ人として馳せ参じたゴンボドルジ爺さんが、深刻な顔で言ったのだ。
「お嬢ちゃん、なめたらあかんぞ。あの女はただの主婦じゃない。毎日百リットルの乳を搾り、巨大な発酵樽を素手でかき混ぜる、ウランバートル最強の握力の持ち主じゃ。『アイラグ・クロー』の異名を持つ女だぞ」
「アイラグ・クロー……」
ゴクリと、サランゲレルの喉が鳴った。
ゴンボドルジ爺さんの特訓は、またしても奇妙奇天烈を極めていた。
「敵を知るには、まず敵になることじゃ!」
爺さんはどこからか、件のヤギ、ボルテを連れてきた。
「今日からお前は、このボルテと生活を共にし、ヤギの全てを学ぶのじゃ!」
サランゲレルは来る日も来る日も、ボルテと睨めっこさせられた。ボルテが草を食めば、同じように四つん這いで草を食む真似をし、ボルテが気まぐれに頭突きをかましてくれば、それを俊敏にかわす練習をした。夜は、ボルテの不規則な寝息に合わせて呼吸を整える訓練だ。
「じ、爺さん……私、ジャーナリストとしての尊厳が……」
「馬鹿者! ジャーナリスト魂とは、どんな相手にでもなりきって真実を探ることじゃろうが! ヤギになりきれん者に、人の心の機微など分かりはせんわ!」
それは、もはや哲学の領域であった。
そして決戦の日。
土俵に上がったオユンチメグは、ゾドグとシューダグを身に着けているものの、その佇まいはやはりいつもの温厚な主婦だ。しかし、ひとたび構えるや、その指先から放たれる圧は尋常ではなかった。
「ドゥーラフ!(始め!)」
開始と同時に、オユンチメグはサランゲレルの腕を鷲掴みにした! まさに万力。これが伝説の「アイラグ・クロー」! 骨がきしみ、血の気が引いていく。
「私の可愛いボルテを悪く言うなんて……あなたも美味しい草にしてあげるわ!」
オユンチメグの目が、獲物を狙う肉食獣のように光る。サランゲレルは絶体絶命のピンチに陥った。
(ダメだ、この握力からは逃れられない……!)
その時、彼女の脳裏に、ヤギになりきったあの日々が走馬灯のように駆け巡った。ボルテとの睨めっこ。頭突きの軌道。そして、ヤギが次の一手を繰り出す直前に見せる、ほんの僅かな癖。
――そうだ、ボルテは……何かを狙う直前、必ず耳をピクッと動かす!
サランゲレルは、オユンチメグの耳に全神経を集中させた。動いた! 次は右からの揺さぶりだ!
サランゲレルは、オユンチメグが力を入れるその一瞬早く、ヤギの頭突きをかわすが如く、スッと身を沈めた。オユンチメグは体勢を崩す。好機!
サランゲレルはヤギ特訓で鍛えたしなやかな足腰を使い、相手の重心の真下に入り込むと、渾身の力で跳ね上げた。
決まり手は、かつて誰も見たことのない、美しき弧を描く一本背負い。
ドサッ!
アイラグ・クローの異名を持つ主婦は、青い空に白い雲が浮かぶのを見ながら、静かに土俵に転がった。
「しょ、勝者、サランゲレル!」ガンボルド裁判官が、大鑑の新しいページをめくりながら叫んだ。「決まり手は……『草食動物返し』! 見事なり!」
割れんばかりの拍手と歓声。
土俵を降りたオユンチメグは、さっぱりとした顔でサランゲレルの手を握った。その握力は、もうただの優しいお母さんのものに戻っていた。
「見事なヤギっぷりだったわ、サランゲレルさん。完敗よ」
「いえ、オユンチメグさんのアイラグ・クロー、本当にすごかったです」
二人は互いの健闘を称え合った。
その日の夜、サランゲレルのゲルには、オユンチメグが新しく仕立てた、夕焼け色の美しいデールと、特大の樽に入った最高級のアイラグが届けられた。そしてその傍らには、なぜかボルテがちょこんと座り、キラキラした瞳でサランゲレルを見つめているのだった。どうやら、すっかり懐かれてしまったらしい。
ペンと伝統、そして時にヤギの知恵が交差するモンゴルの法廷。サランゲレルは、夕焼け色のデールに袖を通し、アイラグを一口呷りながら思うのだった。
乗るしかない! このビッグウェーブに!
たとえそれが、ヤギの起こした波だったとしても。
――かくして、ウランバートルの日常は、今日もまた一つ、新たな決まり手と共に平和に暮れていくのであった。
決まり手は、大自然デバッグ!
ジャーナリスト兼ブフ力士(レスラー)として、サランゲレルの日常は奇妙な安定期に入っていた。朝は記事を書き、昼はヤギのボルテと戯れ(という名の組み手稽古)、夜はゴンボドルジ爺さんのありがたい法話(という名の過去の武勇伝)を聞く。そんな平穏は、ウランバートルにシリコンバレーの風が吹き荒れたことで、あっけなく破られた。
風の名は、テンギス(二十五歳)。米国で成功を収め、故郷に錦を飾った若きIT企業のCEOである。彼が率いる「ノマド・コネクト社」は、全ゲル地区に超高速インターネット網を敷設するという壮大な計画を発表した。問題は、その計画の象徴である巨大な通信アンテナ塔の建設予定地が、住民たちが「聖なる丘」と崇める場所のど真ん中だったことだ。
住民たちの反発は、科学というより詩的だった。
「あのアンテナから出る怪しい電波で、馬乳酒の発酵が早まって酸っぱくなる!」
「鷹の視力が落ちて、兎と二十日鼠を見間違えるようになったらどうするんだ!」
もちろんサランゲレルはこの問題を看過しなかった。渾身の記事をウェブに投下する。
『草原のアルゴリズムか、大地の魂か?~ギガビットの前に揺れる、ゲルの祈り~』
この記事は、テンギスの逆鱗ではなく、彼のAIアシスタントの論理回路に触れた。数分後、サランゲレルの元に、業務妨害と名誉毀損を訴える、極めて無機質で完璧な文面の電子召喚状が届いたのである。
お馴染みとなった裁判所の中庭。しかし、今回の雰囲気は少し違った。原告席に座るテンギスは、伝統のデールではなく、黒のタートルネックにジーンズという出で立ち。手にはタブレット、顔にはスマートグラスを装着し、しきりに指先を宙でスワイプしている。
「ったく、なんて非効率的なシステムなんだ。僕のAIなら、原告と被告の生体データと過去の判例をディープラーニングさせ、3.14秒で最適な判決を出せますよ」
傍聴席のバトムンフ元党首が「なんだとこの若造!」と立ち上がりかけるのを、隣のオユンチメグが「まあまあ」とアイラグ・クローで制している。
ガンボルド裁判官は、いささか困惑気味に咳払いをした。
「えー、原告テンギス。被告サランゲレル。本件もまた、モンゴルの大いなる……」
「裁判官、異議があります」テンギスが遮った。「この訴訟、僕の代理として訴訟特化型AI『ジャッジメント・ボット2.0』に行わせることは可能ですか? 彼はモンゴル法典はもちろん、過去五百年分の決まり手データも全てインプット済みです」
ガンボルド裁判官は、しばし沈黙した後、その威厳ある声で言い放った。
「却下! AIにゾドグとシューダグは着れんじゃろうが! 土俵には、己の肉体で上がるのがモンゴルの作法である!」
「……非合理的だ」テンギスはそう呟くと、仕方なさそうに立ち上がった。そのタートルネックの下には、科学的トレーニングで完璧にビルドアップされた肉体が隠されていた。
ゴンボドルジ爺さんの道場(という名のゲル)は、緊迫感に包まれていた。
「お嬢ちゃん、今度の敵はこれまでとは訳が違うぞ」
爺さんは、テンギスの公開トレーニング動画を、年代物のタブレットで再生しながら唸った。動画の中のテンギスは、センサーを取り付け、己の動きをミリ単位で最適化している。
「奴の動きは、プログラムじゃ。アルゴリズムじゃ。ならば、やることは一つ。奴のシステムを、バグらせるのじゃ!」
サランゲレルの特訓は、「予測不能性の獲得」をテーマに始まった。
第一の特訓は、「風と踊る」。気まぐれに渦を巻き、突然向きを変える草原の風を体で感じ、その不規則な動きをステップに写し取る。
第二の特訓は、「星屑の暗算」。夜空に広がる無数の星をひたすら数えさせ、広大なパターンの中に潜む僅かな「揺らぎ」や「例外」を見つけ出す集中力を養う。
そして最終特訓は、最強の師、ヤギのボルテとの再戦であった。
「見よ、お嬢ちゃん! あのボルテの動きこそ、究極のランダムアクセス! 論理では決して読めん、魂のフェイントじゃ!」
サランゲレルは、気まぐれな頭突きを繰り出すボルテをかわし続け、ついにその動きのリズムとも呼べぬリズムを、体で理解したのだった。
決戦の日。テンギスは、ガンボルド裁判官の「それも肉体の一部じゃろう」という大雑把な許可を得て、スマートグラスを装着したまま土俵に上がった。グラスの内側には、サランゲレルの過去二戦のデータからAIが算出した、リアルタイムの勝利確率と推奨行動が表示されている。
「ドゥーラフ!(始め!)」
テンギスは強い。AIの予測通り、最短・最適の動きでサランゲレルを追い詰める。サランゲレルの動きは、全て読まれているかのようだ。勝利確率は、テンギスのグラスの中でぐんぐん上昇していく。
(ダメだ、私の動きはパターン化されている……!)
絶望しかけたその時、サランゲレルの脳裏に、気まぐれな風と、夜空の星屑と、そしてボルテの「メェ~」という鳴き声が響き渡った。
(そうだ、私は……バグになるんだ!)
サランゲレルは突如、相撲の動きを完全に捨てた。鷹の舞でもない、ゲルの建て方でもない。右に跳んだかと思えば、左にくるりと回り、まるで風に舞う木の葉のように、奇妙で、優雅で、全く予測不能なステップを踏み始めた。
テンギスのスマートグラスに、赤い警告表示が点滅した。
【ERROR: PATTERN NOT FOUND】
【Threat level: CHAOS】
【Recalculating...Recalculating...SYSTEM FAILURE】
AIがフリーズし、テンギスの動きが一瞬、止まった。そのコンマ数秒の硬直。
サランゲレルは見逃さなかった。ヤギのように素早く懐に飛び込むと、星を数えるように研ぎ澄まされた集中力で、相手の重心という一点を完璧に捉えた。
決まり手は、まるでコンピューターの不具合を強制終了させるかのような、鮮やかな内掛け。
ズシャァァッ!
若きCEOは、そのハイテクな頭脳が処理できない衝撃と共に、母なる大地の土俵に背中をつけた。
「勝者、サランゲレル! 決まり手は……『大自然デバッグ』!」
ガンボルド裁判官の、歴史に新たな1ページを刻む声が響き渡った。
土俵に倒れたまま、テンギスは呆然と空を見上げていた。スマートグラスがずり落ち、初めて裸眼で捉えたモンゴルの空が、そこにあった。
「すごい……空って、こんなに解像度が高かったのか……」
サランゲレルが差し出した手を取り、彼はゆっくりと起き上がった。
「完敗です、サランゲレルさん。僕のアルゴリズムには……風や、星や、ヤギの気まぐれはインプットされていなかった」
テンギスはアンテナ塔計画の白紙撤回と、住民との対話を約束した。「僕の技術と、皆さんの知恵…その『魂のAPI連携』ができれば、もっとクールな未来が作れるかもしれません」
その夜の宴で、テンギスはすっかりモンゴルの空気に馴染んでいた。しかし、ゴンボドルジ爺さんに「あなたのその『経験』という膨大なビッグデータを、ぜひ弊社のクラウドサーバーに……」と持ちかけた瞬間、「ワシの魂は月額課金制にはならんわい!」と、雷のような一喝を食らっていた。
そして、宴の片隅では。
サランゲレルの足元にすり寄ってきたヤギのボルテが、テンギスの落としたスマートグラスを、実に美味しそうにカジカジと咀嚼し始めていた。どうやら、最先端技術は、ボルテの好みの味だったらしい。
ハイテクの波も、伝統の波も、ヤギの起こすさざ波も。全部まとめて乗りこなしてこそ、モンゴルのジャーナリスト。サランゲレルは、アイラグの盃を片手に、また一つ大きくなったビッグウェーブの余韻に浸るのだった。
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