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エルサレムを見下ろす丘:デイル・ヤシーン、1948年4月9日の記憶 歴史には、一つの出来事が複数の、時には全く相容れない物語として語り継がれる瞬間があります。1948年4月9日にエルサレム西方の丘で起きた「デイル・ヤシーン事件」は、まさにその典型と言えるでしょう。この日、人口約600人のアラブ人村で起きたことは、ある者にとっては「虐殺」であり、またある者にとっては国家存亡をかけた戦いの一部でした。
この記事では、単にその日の出来事を追うだけでなく、なぜその悲劇が起きたのか、当時の人々がどのような状況に置かれていたのか、その複雑な背景を深く掘り下げていきます。
背景:飢餓に瀕する聖都と、死の回廊 物語は、1948年の凍てつくような春のエルサレムから始まります。前年11月の国連によるパレスチナ分割決議以降、この地は事実上の内戦状態にありました。特に、10万人のユダヤ人住民が暮らすエルサレムは、アラブ勢力によって陸の孤島と化していました。
都市の生命線は、地中海沿岸のテルアビブとを結ぶ一本の細い道だけ。しかし、この道は「バーブ・エル・ワード」(谷の門)と呼ばれ、死の回廊と化していました。道の両脇にそびえる丘や村々に潜んだアラブ人非正規兵が、食料や水を運ぶユダヤ人の輸送隊を執拗に攻撃したのです。道端には、炎上し黒く焼け焦げた装甲トラックの残骸が、まるで鋼鉄の墓標のように点在していました。
エルサレム市内では、水は厳格な配給制となり、パンは砂を混ぜて量を増やすほどの飢餓が迫っていました。街は、文字通り絶滅の危機に瀕していたのです。
この絶望的な状況を打開するため、ユダヤ人主流派の軍事組織「ハガナー」は、総力を挙げた大規模作戦を発動します。 「ナフション作戦」 。その目的はただ一つ、バーブ・エル・ワードを支配し、エルサレムへの道をこじ開けることでした。そのためには、道沿いの高台に位置し、攻撃の拠点となっているアラブ人村落を無力化する必要がありました。
チェス盤の上の村、デイル・ヤシーン この壮大な軍事作戦のチェス盤の上に、デイル・ヤシーン村はありました。エルサレムの街並みを見下ろす戦略的な丘に位置し、石灰岩の採掘で生計を立てる静かな村。伝えられるところによれば、村の長老たちと近隣のユダヤ人地区との間には、互いを攻撃しないという紳士協定が存在していました。
しかし、戦争の現実は、そのような脆弱な約束を容易に飲み込みます。デイル・ヤシーンの戦略的な価値は、誰の目にも明らかでした。アラブ勢力にとって、そこはエルサレムのユダヤ人地区を攻撃するための絶好の砲撃地点であり、実際にイラクやシリアからの義勇兵を含む外国人戦闘員が村を拠点としている、という情報がユダヤ人側の情報網にもたらされていました。ナフション作戦の全体像において、この丘を放置することは、背後を敵に明け渡すに等しい行為でした。
夜明け前の攻撃:イルグンとレヒ デイル・ヤシーン攻略の任にあたったのは、ハガナー本隊ではありませんでした。主流派とは一線を画し、より急進的な民族主義を掲げる二つの武装組織、「イルグン」 と 「レヒ」 です。彼らは、来るべき国家の主導権をめぐりハガナーと対立していましたが、エルサレム解放という共通の目的のため、この作戦に協力しました。
1948年4月9日、金曜日の夜明け前。約130名の戦闘員が、静寂に包まれた村を三方から包囲しました。イルグン側の記録によれば、部隊は装甲車に搭載した拡声器で、住民に退去を警告したとされています。「戦闘が始まる。女子供は東の道から避難せよ」。この声を聞き、実際に村を脱出した住民もいました。しかし、大半の村人は、何が起ころうとしているのかを完全には理解できず、あるいは恐怖から、石造りの家の中にとどまりました。
午前4時半、最初の一発が放たれました。しかし、作戦は初手からつまずきます。アラブ人戦闘員の抵抗は予想以上に激しく、村の入り口に仕掛けられた溝に先頭の装甲車がはまり、行動不能に。指揮官の一人が狙撃されて戦死し、部隊の統制は乱れました。
計画的な軍事作戦は、瞬く間に混沌の渦へと姿を変えます。それは、一軒、また一軒と、家屋を掃討していく、凄惨な市街戦でした。ドアを蹴破り、窓から手榴弾を投げ込み、突入する。暗い家の中で、銃を構えているのが戦闘員なのか、恐怖に駆られて農具を手にしただけの民間人なのか、あるいはただ隅で震えているだけの家族なのか。その区別は、銃弾が飛び交う混乱の中では、しばしば不可能でした。
この地獄のような戦闘の過程で、多くの命が失われました。戦闘に巻き込まれた者、手榴弾の犠牲者、そして一部の証言が語るように、抵抗が終わった後に殺害された人々。しかし、これは一方的な殺戮ではありませんでした。イルグンとレヒの側も、死者5名、負傷者数十名という少なくない犠牲を払っており、戦闘の激しさを物語っています。
二つの物語の誕生:プロパガンダと政治 戦闘が終わった後、デイル・ヤシーンの丘から二つの強力な物語が生まれ、世界を駆け巡りました。
一つは「デイル・ヤシーンの恐怖」 という物語です。アラブ側指導部はこの事件を「女子供を含む254人の無辜の民の虐殺」として大々的に宣伝しました。この報は、アラブ世界のラジオ放送を通じてパレスチナ全土に広まりました。その意図はアラブ諸国の介入を促すことにありましたが、結果として、他の村々の住民に凄まじいパニックを引き起こしました。「次は我々の番だ」と恐れた多くの人々が、戦わずして家を捨て、難民となって流出していく「ナクバ(大災厄)」の大きな要因の一つとなったのです。後の研究では、実際の死者数は100~120名程度とされていますが、一度生まれた「虐殺」の物語は、人々の記憶に深く刻み込まれました。
もう一つは、 ユダヤ人内部の亀裂 の物語です。ハガナーとダヴィド・ベン=グリオン率いる主流派指導部は、この事件を「我々の運動の汚点だ」として、イルグンとレヒを即座に、そして公式に非難しました。これは人道的な観点からだけでなく、新しい国家の規律と主導権を確立するための、冷徹な政治的判断でもありました。
結論:記憶が眠る丘 デイル・ヤシーンで起きたことは、疑いようもなく悲劇です。しかし、その悲劇をどう解釈するかは、今なお立場によって大きく異なります。
エルサレムの飢えた住民と、彼らを救おうとした兵士たちの視点から見れば、それは絶滅の危機を回避するための、やむを得ない軍事行動の一部でした。一方で、家を、家族を、そして命を奪われたパレスチナ人の視点から見れば、それは故郷を追われた記憶「ナクバ」を象徴する、残虐な虐殺以外の何物でもありません。
今日、デイル・ヤシーンがあった丘には、エルサレムの静かな郊外住宅地が広がり、精神医療センターが建っています。かつての村の痕跡はほとんど残されていません。しかし、その土地の下には、1948年4月9日の記憶が、今もなお複数の、そして相容れない物語として、静かに眠っているのです。