独立への道:ユダヤ人国家の誕生
第二次世界大戦後、ホロコーストの悲劇を経て、ユダヤ人たちは自らの国家を持つという夢を強く抱くようになった。長年のシオニズム運動の成果もあり、国際社会はこの願いに耳を傾け始める。1947年11月29日、国連はパレスチナ分割決議(決議181号)を採択。ユダヤ人とアラブ人の居住地を分け、エルサレムは国際管理下に置くという案だった。
この決議はユダヤ人にとって歴史的な一歩だったが、アラブ側は猛反発。翌日からパレスチナでは内戦状態に突入し、ユダヤ人とアラブ人の衝突が激化していった。
英国委任統治の終焉と独立宣言
イギリスはこの混乱を収拾できず、1948年5月14日をもってパレスチナから撤退。まさにその日、テルアビブでダヴィド・ベン=グリオンがイスラエルの独立を宣言した。ユダヤ人たちは歓喜に沸き、ついに自らの国家を手に入れたのだ。
だが、喜びは束の間だった。翌5月15日、エジプト・シリア・ヨルダン・イラク・レバノンなどのアラブ諸国が一斉にイスラエルへ侵攻。第一次中東戦争が勃発した。
戦争の展開:孤立無援の戦い
開戦当初、イスラエルは兵力・装備ともに劣勢だった。だが、民兵組織ハガナーを中心に、海外からの志願兵や武器の密輸によって戦力を強化。特にチェコスロバキアからの武器供給は大きな助けとなった。
戦争は激しく、エルサレムでは旧市街がヨルダン軍に包囲されるなど、ユダヤ人側は苦戦を強いられた。しかし、補給路「ビルマ・ロード」の開通などで持ちこたえ、徐々に反撃に転じていった。
ガザ地区の運命:エジプトの軍事統治へ
戦争の結果、イスラエルは国連分割案を超える領土を獲得。一方、アラブ側は敗北を喫し、パレスチナ人の多くが難民となった。分割案でアラブ人に割り当てられていた地域のうち、ヨルダンが西岸地区を併合し、エジプトはガザ地区を軍事統治下に置いた。
このガザの編入は、国際的な承認を得たものではなく、エジプトによる事実上の支配だった。ガザは以後、エジプトとイスラエルの間で緊張の火種となり続けることになる。
戦争の余波とユダヤ人の視点
ユダヤ人にとってこの戦争は「独立戦争」と呼ばれ、国家の存続をかけた戦いだった。数千年の離散を経て、ようやく手にした祖国。その防衛は、単なる領土争いではなく、民族の尊厳と未来を守るための闘いだった。
一方、アラブ側からは「ナクバ(大災害)」と呼ばれ、パレスチナ人にとっては故郷を失う悲劇となった。この視点の違いが、現在まで続く深い対立の根底にある。
この時代の流れは、まるで激流のように複雑で、感情も入り混じっているね。
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