アラブ連盟とパレスチナ解放機構(PLO)——中東の政治的結節点
アラブ連盟の誕生と構造
1945年3月22日、第二次世界大戦の終焉を目前に、アラブ諸国は地域協力の枠組みとしてアラブ連盟(League of Arab States)を創設した。初期加盟国はエジプト、イラク、トランスヨルダン(現ヨルダン)、レバノン、サウジアラビア、シリア、イエメンの7か国。連盟の本部はカイロに置かれ、理事会が最高決定機関として機能している。
連盟は、政治・経済・社会・文化・軍事など多岐にわたる分野で協力を目指すが、実際には各国の主権尊重が強く、統一的な行動には限界がある。特に中東戦争やパレスチナ問題に関しては、加盟国間の足並みの乱れが顕著だった。
対イスラエル政策と連盟の限界
連盟は創設直後からパレスチナ問題に深く関与し、1948年の第一次中東戦争ではイスラエルの建国に反発する形で軍事介入を行った。しかし、戦争は連盟諸国の敗北に終わり、以後も第二次(1956年)、第三次(1967年)、第四次(1973年)と続く中東戦争において、連盟は一貫してイスラエルに対抗する姿勢を示した。
1973年の第四次中東戦争では、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油供給を制限し、世界的な石油危機を引き起こすなど、経済的手段による圧力も試みられた。しかし、1978年のキャンプ・デービッド合意でエジプトがイスラエルと単独和平を結ぶと、連盟の結束は大きく揺らぎ、エジプトは一時的に連盟から追放された。
パレスチナ解放機構(PLO)の誕生と進化
PLOは1964年、アラブ連盟の首脳会議によって設立された。その目的は、パレスチナ人の民族自決と、イスラエル支配下にあるパレスチナの解放。初代議長は親エジプト派のアフマド・シュケイリで、設立当初はエジプトの影響が強かった。
1969年、ファタハの指導者ヤーセル・アラファートが議長に就任すると、PLOは武装闘争路線を強化し、イスラエルとの対立の中心的存在となった。1974年にはアラブ連盟首脳会議で「パレスチナ唯一の代表」として認定され、国連でもオブザーバー資格を得るなど、国際的な認知を獲得した。
PLOの構造と政治的変遷
PLOは複数の政治・武装組織の連合体であり、最大派閥はファタハ。他にもPFLP(パレスチナ解放人民戦線)やDFLP(民主戦線)などが参加している。最高議決機関はパレスチナ民族評議会(PNC)、執行機関は執行委員会で、議長がそのトップを務める。
1988年には「イスラエルとの共存」を前提としたパレスチナ国家の独立宣言を採択し、1993年のオスロ合意ではイスラエルとの相互承認と暫定自治を約束した。この合意により、PLOは武装闘争路線を放棄し、パレスチナ自治政府(PA)の母体として機能するようになった。
現代におけるアラブ連盟とPLOの位置づけ
21世紀に入り、アラブ連盟の政治的影響力は低下傾向にある。地域統合の動きは湾岸協力会議(GCC)など狭域的な枠組みに移行し、連盟は象徴的な存在となりつつある。
一方、PLOも自治政府の台頭により存在感が薄れつつあるが、国際的には依然としてパレスチナ人の代表機関として認知されている。議長職は現在もマフムード・アッバースが務めており、和平交渉の窓口としての役割を担っている。
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