【世界史ブログ】歴史は最高のエンタメだ!僕らが生きる「今の世界」の“設計図”が描かれた、激動の300年を旅しよう。
「世界史」って聞くと、どんなイメージがありますか?
「カタカナの人名と、謎の年号のオンパレード…」「テストのために必死で覚えたけど、正直あんまり覚えてない…」
うんうん、分かります。僕も昔はそうでした。でも、もし、歴史が単なる暗記科目じゃなくて、現代にまで続く壮大な海外ドラマだとしたら…?
実は、僕たちが今「当たり前」だと思っていること、例えば、
日本やアメリカみたいに、国ごとに政治が決まること(国家主権)
選挙で代表を選んで、議会で物事を決めること(議会制民主主義)
「人は生まれながらに自由で平等だ!」って言えること(基本的人権)
これ全部、16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパで、たくさんの人々の血と涙と情熱の末に生まれた「発明品」なんです。
今日は、そんな僕らの世界の“OS”がインストールされた、激動の300年を巡る旅にご案内します。教科書をそっと閉じて、ポップコーンでも片手にお付き合いください。ここから始まるのは、最高のエンターテイメントですよ!
第一章:絶対王者ハプスブルク帝国に挑んだ者たち 〜「俺たちの国」は、俺たちで決める!〜
始まりは「最強の一族」
物語は16世紀のヨーロッパから始まります。当時、ヨーロッパには「ハプスブルク家」という、とんでもない一族がいました。
どれくらいスゴいかっていうと、今のドイツ・オーストリア周辺を治める「神聖ローマ帝国」の皇帝の座をほぼ世襲し、太陽の沈まぬ国と呼ばれたスペイン王も兼ね、さらには今のオランダやベルギーまで領地にしている…みたいな感じです。もう、ヨーロッパの主要な土地はだいたいハプスブルク家のもの。まさに「絶対王者」でした。
彼らがどうやってそんなに領土を広げたかというと、合言葉は「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」。武力だけでなく、巧みな結婚政策でじわじわと勢力を拡大していったんですね。
でも、強すぎる力は、必ずどこかで歪みを生みます。その最大の原因が「宗教」でした。
「俺たちハプスブルク家は敬虔なカトリックだ!だから領民も全員カトリックを信仰しろ!」
この「カトリック強制」に、「いや、俺たちはプロテスタントを信じる!」と立ち上がった人々がいたのです。これが、ヨーロッパ全土を巻き込む大乱の火種となりました。
小さな国の、80年にも及ぶ独立戦争
最初の反乱の狼煙(のろし)が上がったのは、ネーデルラント(今のオランダやベルギー)。当時スペイン・ハプスブルク家の支配下にあったこの地域は、商業が盛んでプロテスタントの商人も多かったんです。
スペイン王フェリペ2世が「プロテスタントは許さん!税金ももっと払え!」と圧力をかけると、ネーデルラントの人々の不満は爆発。80年(!)にもわたるオランダ独立戦争が勃発します。
この長い戦いの末、ネーデルラント北部の7州はついに独立を勝ち取り、「オランダ共和国」を建国しました。巨大帝国を相手に、小さな商人たちの国が勝利したこの出来事は、ヨーロッパ中に衝撃を与えました。「王様の言うことが絶対じゃない」「自分たちのことは、自分たちで決めていいんだ!」という考えが、少しずつ広まっていったのです。
ヨーロッパを焼き尽くした「三十年戦争」
オランダの独立は、まだ序章に過ぎませんでした。
次なる火種は、神聖ローマ帝国の領地だったボヘミア(今のチェコ)で起こります。ハプスブルク家から派遣された役人が、またしてもカトリックを強制しようとしたことにプロテスタントの貴族たちが激怒。なんと、王の使者を城の窓から放り投げるという衝撃的な事件が起こります(プラハ窓外放出事件)。
これが引き金となり、ヨーロッパ最後の、そして最大の宗教戦争である「三十年戦争」が始まりました。
最初は宗教戦争だったはずが、途中からは「ハプスブルク家がこれ以上強くなるのはマズい!」と考えたフランス(カトリック国なのに!)がプロテスタント側につくなど、各国の思惑が絡み合った、まさにヨーロッパ中を巻き込む大戦争へと発展。30年もの間、ヨーロッパのど真ん中で続いた戦争は、各地を荒廃させ、数えきれないほどの命を奪いました。
もう、みんなクタクタでした。「宗教の違いで殺し合うのは、もうやめにしよう…」。
1648年、戦争を終結させるために結ばれたのがウェストファリア条約です。これが、めちゃくちゃ重要。この条約で、以下のことが決まりました。
スイスとオランダの独立が、国際的に正式承認される。
神聖ローマ帝国内にあった約300の国(領邦)に、ほぼ完全な主権(自分たちの国のことを自分で決める権利)が認められる。
これは、歴史の大きな転換点でした。
一人の皇帝や王がヨーロッパ全体を支配する時代は終わり、大きさに関わらず、それぞれの国が対等な主役として存在する「主権国家体制」という、現代に続く国際関係の基本ルールが生まれたのです。国連の会議で、大国も小国も一つの国として議席を持っている、あの光景の原点がここにあるんですね。
第二章:王様か、議会か? イギリスが発明した「新しい政治のカタチ」
ヨーロッパ大陸が三十年戦争で大変なことになっている頃、海を隔てた島国イギリスは、ちょっと違うテーマで揺れていました。それは、「この国のトップは、王様なのか?それとも、国民の代表である議会なのか?」という、国のあり方をめぐる戦いです。
きっかけは、やっぱり宗教だった
絶大な人気を誇ったエリザベス1世が亡くなった後、スコットランドからやってきたジェームズ1世、そしてその息子のチャールズ1世が王位につきます。彼らは「王の権力は神から授かったものだ!(王権神授説)」と信じて疑わず、議会を無視して政治を行おうとしました。
さらに、彼らは国民に「英国国教会」のやり方を強制しようとします。
これに「ふざけるな!」と猛反発したのが、議会、そして熱心なプロテスタント(ピューリタン)たちでした。王と議会の対立はどんどん深まり、ついに内戦へと突入します(ピューリタン革命)。
この革命は、なんと国王チャールズ1世が処刑されるという衝撃的な結末を迎えます。国民が自分たちの手で王を裁き、処刑するなんて、ヨーロッパ中の王様たちを震え上がらせました。
「血を流さない革命」という偉大な発明
しかし、王様をなくした後のイギリスは、革命を指導したクロムウェルの独裁政治に陥るなど、混乱が続きます。「やっぱり、王様がいないとまとまらないかも…」という空気の中、亡命していたチャールズ1世の息子が王として迎えられます(王政復古)。
ですが、その次の王様がまたカトリックを復活させようとしたり、議会を無視したりしたので、国民の不満が再燃。
「もう、あんな血なまぐさい革命はこりごりだ…」
そう考えた議会は、今度はもっとスマートな方法を考えます。王様を追放し、オランダから新しい国王夫妻(メアリ2世とウィリアム3世)を平和的に迎え入れたのです。これが「名誉革命」です。
ただ、議会はタダで王冠を渡したわけではありません。新しい国王に、ある約束をさせました。それは「権利の章典」という文書です。
国民の代表である議会の承認なしに、法律を作ったり、税金を集めたりしちゃダメ!
つまり、「王様といえども、法の下にいる。国の政治の中心は、議会ですよ」というルールを、国王に認めさせたのです。
これは、政治の歴史における大発明でした。王様が絶対的な権力を持つ「絶対王政」が当たり前だった時代に、国民の代表が話し合って国の未来を決める「議会制民主主義」の土台を、イギリスは世界で初めて作り上げたのです。
第三章:自由・平等・友愛! フランス革命が世界に灯した希望の光
さて、物語の舞台は、いよいよクライマックスへ。18世紀末のフランスです。ここから始まるのは、ヨーロッパの歴史、いや、世界の歴史を根底から揺るがした、最も劇的で、最も血に濡れた革命の物語です。
革命の火薬庫「アンシャン・レジーム」
当時のフランスは、ブルボン家が治める絶対王政の国でした。しかしその内情は、矛盾だらけの火薬庫のようでした。
当時のフランスの身分制度は「アンシャン・レジーム(旧体制)」と呼ばれ、大きく3つに分かれていました。
第一身分(聖職者): 人口の約0.5%。広大な土地を持ち、税金は免除。
第二身分(貴族): 人口の約1.5%。重要な役職を独占し、税金はほぼ免除。
第三身分(平民): 人口の約98%。商人から農民まで様々。国の全ての税金を負担している。
おかしいですよね? 国の人口のたった2%の特権階級が富を独占し、残りの98%の平民がその生活を支えている。そんな不満が、マグマのように溜まっていました。
決定的な引き金を引いたのは、またしても「財政破綻」でした。度重なる戦争や、マリー・アントワネットに代表される宮廷の豪華絢爛な暮らしで、フランスの国家財政は火の車。
国王ルイ16世は「さすがにヤバい…特権階級からも税金を取ろう!」と考えますが、貴族たちは猛反発。進退窮まった王は、三つの身分の代表が集まる「三部会」を実に175年ぶりに招集します。
しかし、議決方法をめぐって議論は紛糾。しびれを切らした第三身分の代表たちは、「我々こそが国民の代表だ!」と宣言し、「国民議会」を設立。ヴェルサイユ宮殿の球戯場に集まり、「憲法を制定するまでは、絶対に解散しない!」と誓い合いました(球戯場の誓い)。
革命の炎、バスティーユへ
この動きに、王や貴族たちは軍隊を集めて圧力をかけようとします。パリの民衆の間に「国民議会が弾圧されるぞ!」という噂と緊張が広がる中、ついに運命の日がやってきます。
1789年7月14日。
武器を求めたパリの民衆が、圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄を襲撃。これが、フランス革命の始まりの合図となりました。
この熱狂はフランス全土に広がり、国民議会は歴史的な宣言を発表します。それが「人権宣言」です。
「人は、生まれながらにして自由であり、平等な権利を持つ」
「国の主権は、国民に存する」
現代の私たちにとっては当たり前の言葉ですが、王様や貴族が全てを決めるのが当然だった時代に、これは世界を揺るがすほどのインパクトがありました。個人の尊厳や、自由、平等といった、近代社会の最も重要な価値観が、ここで高らかに宣言されたのです。
革命はどこへ行く? 混乱、恐怖、そして英雄の登場
しかし、革命は綺麗な理想だけでは進みません。
革命の波が自分たちの国に及ぶことを恐れたオーストリアやプロイセンが戦争を仕掛けてきます(フランス革命戦争)。最初は負け続きでしたが、「祖国は危機にあり!」と立ち上がったのは、パリの市民たち(義勇兵)でした。彼らの力でフランスは奇跡的な勝利を収め、その勢いのまま、ついに王政は倒され、フランスは共和国となります。そして、国王ルイ16世は国民の名の下に、ギロチンで処刑されました。
しかし、強力なリーダーを失ったフランスは、大混乱に陥ります。革命を急進的に進めようとするジャコバン派が権力を握ると、ロベスピエールを中心に「反革命的だ」とみなした人々を次々とギロチンにかける「恐怖政治」が始まりました。
自由と平等のための革命が、いつしか互いを監視し、粛清しあう暗い時代へと突入してしまったのです。
この混乱と恐怖の中から、人々は一人の強力なリーダーを求めるようになります。
「誰か、この混乱を収めて、フランスに安定と秩序を取り戻してくれ…!」
そんな時代の要請に応えるかのように、歴史の舞台に颯爽と登場したのが、コルシカ島出身の若き軍人、ナポレオン・ボナパルトでした。彼の登場によって、フランス、そしてヨーロッパの歴史は、また新たなステージへと進んでいくことになるのです。
旅の終わりに:歴史が僕たちに教えてくれること
お疲れ様でした。激動の300年を巡る旅は、これにて一旦終了です。
振り返ってみると、この時代に起こった3つの大きなドラマは、それぞれがパズルのピースのように組み合わさって、僕たちが今生きる「現代社会」の土台を形作っていることが分かります。
ハプスブルク家への反抗から生まれた「国家主権」
イギリスの革命から生まれた「議会制民主主義」
フランス革命が掲げた「基本的人権」
私たちが当たり前に国という単位の中で暮らし、選挙に行き、「個人の自由」を主張できるのは、何百年も前に、名もなき人々を含むたくさんの先人たちが、悩み、戦い、そして命をかけて「もっと良い世界があるはずだ」と信じて行動してくれたおかげなのかもしれません。
そう考えると、ニュースで見る国際問題も、選挙の投票用紙も、少し違って見えてきませんか?
歴史は、決して過去の出来事を暗記するだけの退屈な学問ではありません。なぜ世界は今の形になったのか?そして、僕たちはこれからどこへ向かうべきなのか?を考えるための、最高のヒントが詰まった壮大な物語です。
このブログが、あなたの知的好奇心を少しでも刺激できたなら、これ以上に嬉しいことはありません。また次の歴史の旅で、お会いしましょう!
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