タイトル:『条約(トリーティ)と世論(パブリック・オピニオン)』
キン、コン、カン、コーン。
予鈴でも本鈴でもない、中途半端なチャイムが鳴る。昼休み開始の号砲だ。
空気が、一瞬で沸騰する。
さっきまで数学教師の催眠術的な解説に沈んでいた教室が、まるで圧政下にあった市民革命前夜みたいに、一瞬にして活気と無秩序を取り戻す。
「嘉奈(かな)! 行こ! 今日こそ限定メロンパン!」
「ん、今行く」
親友の早紀(さき)が、すでに鞄を肩にかけた万全の臨戦態勢で私の机を叩く。彼女の関心は、いつだって明確だ。限定メロンパン。明確で、健全で、とても「今」を生きている。
私は、さっきまでこっそり読んでいた文庫本――『ハプスブルク帝国と民族問題』――のページに、そっと付箋を挟む。
早紀に腕を引かれ、私たちは教室(テリトリー)を飛び出す。
廊下は、すでに飽和状態だ。購買部という「資源地帯」を目指す勢力と、食堂という「穀倉地帯」を目指す勢力がぶつかり合い、カオスな交通渋滞(ボトルネック)を生み出している。
「うわ、3年男子サッカー部、邪魔すぎ!」
「あそこは強行突破しないで、裏階段から行こ。あっちのほうが早い」
「さっすが嘉奈!」
早紀は私の機転を褒めてくれるけど、これは機転じゃない。ただの分析だ。
数ヶ月前の私なら、この光景を「わー、人がいっぱい」としか思わなかっただろう。
でも、最近の私は違う。
(……これは、典型的な地政学リスクだ)
私の頭は、勝手に分析を始める。
3年男子サッカー部という「大国」が、廊下という「戦略的要衝」を占拠している。彼らは意図していないだろうけど、結果として彼らの存在が他の小国(私たちみたいな一般生徒)の通商(移動)ルートを遮断している。
私たちは、大国との直接衝突(クラッシュ)を避け、迂回ルートを選択する。これは、小国が生き残るための常套手段だ。
「あ、見て嘉奈! 2組のカップル、別れたっぽいよ。昨日までラブラブだったのに」
「ふーん……」
早紀が指差す先で、昨日まで「同盟」を結んでいたはずの二人が、冷え切った表情ですれ違っていく。
(……不可侵条約の破棄、か)
世界史にハマり始めてから、私にとって「学校」は巨大なシミュレーションゲームの盤面に変わった。
教室で繰り広げられるグループの形成と解体。
それは、まるで19世紀ヨーロッパの勢力均衡(バランス・オブ・パワー)だ。
あそこの一軍女子グループは、ビスマルク体制みたいに複雑な同盟網でかろうじて平和を維持している。
あそこの運動部男子たちは、古代ギリシャのポリスみたいに、普段は対立しているくせに「体育祭」という共通の脅威(ペルシア)が現れると、一時的に団結(アテナイ・スパルタ同盟)する。
世界史は、死んだ人間の記録じゃない。
今、ここで、目の前で、生きて動いている人間の「欲望のパターン」そのものだ。
彼らの行動原理は、100年前の政治家とも、1000年前の王様とも、根本は何も変わらない。
承認欲求、支配欲、安全保障、そして――恋愛感情という名の、最も予測不可能な外交カード。
(問題は、私だ)
早紀と並んで階段を駆け下りながら、私は自分の立ち位置を測りかねる。
私は、この世界史(ハイスクール)の登場人物(プレイヤー)なのか?
それとも、ただの歴史家(オブザーバー)気取り?
「……嘉奈、最近またマニアックな本読んでるでしょ」
不意に、早紀が立ち止まる。
「え?」
「なんかさ、返事が全部『ふーん』とか『なるほど』とか。心ここにあらずって感じ。歴史オタクもいいけどさー」
ドキリとする。
図星だ。私の思考は、いつも過去のどこかの帝国に飛んでいる。
早紀が、ちょっと拗ねたように私を見る。
「私との同盟、破棄する気?」
その言葉に、私は思わず噴き出した。
「まさか」
私は早紀の腕を掴み直す。
「私たちのは、ただの同盟じゃない。血の誓い(ブラッド・オース)……ううん、『相互防衛義務を伴う、不可侵の永久友好条約』だよ」
「何それ、重っ!」
早紀は笑うけど、私は本気だ。
歴史が教える最も重要な教訓。
それは、どんな大国も、どんな強固な同盟も、いつかは終わるということ。永遠なんてないということ。
でも。
だからこそ、今、この瞬間に結んでいる「条約」は、本物だ。
「ほら、急ぐよ、早紀! 私たちの『パンの領有権(レベンスラウム)』が奪われる!」
「だからその言い方やめなさいって!」
私たちは、再び走り出す。
昼休みという名の、短くも激しい戦間期を。
私の「世界史」は、まだ始まったばかりだ。
なんとか購買のおばちゃん(オスマン帝国末期のスルタンみたいに、殺到する要求に疲弊しきっている)から限定メロンパン(バルカン半島の利権)を確保し、私たちは中庭(緩衝地帯)へと撤退した。
「あっぶなー! 最後の一個だったよ!」
「早紀の突進力、ハンニバルのアルプス越えみたいだったね」
「何それ? とりあえず褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
私たちはベンチに腰掛ける。平和が訪れた。
早紀が幸せそうにメロンパンを頬張る隣で、私は持参したおにぎりを口に運ぶ。
ふと、視線の先に、クラスメイトの男女グループが見えた。
中心にいるのは、高坂くんだ。
バスケ部のエースで、成績もそこそこ。誰にでも平等に笑いかける、絵に描いたような「主人公(ヒーロー)」属性。
(……カエサル、だな)
民衆(クラスメイト)の支持を背景に、圧倒的なカリスマでクラスという名の「ローマ」を掌握している。彼が「体育祭、頑張ろうぜ」と一言言えば、元老院(先生たち)の意向とは別に、クラスの空気(世論)はそちらへ流れる。
早紀が、私の視線に気づいた。
「ん? 嘉奈、高坂くん見てるの? ……もしかして?」
「違う違う。見てたのは、その隣」
私が指したのは、高坂くんのグループの端っこにいる、篠宮(しのみや)さんだ。
彼女は、いつも一人で本を読んでいる。グループには一応属しているけれど、会話には入らず、ただ存在しているだけ。高坂くんの光が強すぎて、彼女の影は余計に濃く見える。
「篠宮さん? あー、なんか不思議な子だよね。あの一軍グループにいるのに、全然喋らないし」
「……彼女、あそこにいるの、辛くないのかな」
私のモノローグが始まる。
(彼女は、まるでポーランドだ)
高坂くんという「プロイセン」、活発な女子リーダー格の「ロシア」、お調子者の男子「オーストリア」。
この3つの大国に囲まれて、篠宮さんという「ポーランド」は存在する。
彼女は、そのグループにいることで「どこにも属していない」という孤立のリスクからは逃れられている。でも、その代償として、彼女の「主権(アイデンティティ)」は常に脅かされている。
いつ「分割」されてもおかしくない、危ういバランス。
彼女は笑っているようで、その目は笑っていない。
「……嘉奈?」
「あ、ごめん。なんでもない」
早紀は「?」という顔をしながらも、メロンパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。
早紀は、世界を複雑に考えない。
楽しいか、楽しくないか。美味しいか、まずいか。
そのシンプルさが、私には眩しい。そして、安心する。
(早紀は、私にとっての『大西洋憲章』だ)
どんなに混沌とした世界(学校生活)になっても、「これだけは守る」という絶対的な原則。私たちが恐怖や欠乏(ぼっち)から解放されるための、共通の希望。
午後の5限目。最も眠気を誘う時間帯に、世界史の授業が始まった。
今日のテーマは、「フランス革命後の混乱と、ナポレオンの台頭」。
歴史教師のヤマウチ(通称:ブルボン)は、抑揚のない声で教科書を読み上げる。
「……ロベスピエールによる恐怖政治は、多くの人々をギロチン台に送りました。革命は次第にその理想を失い、国内は混乱の極みに達します。人々が求めたのは、秩序の回復と、強力なリーダーシップでした。そこに現れたのが……」
クラスの大半が、この単調な語り(ブルボン朝の圧政)に意識を沈没させている。
でも、私の思考は、かつてないほどクリアだった。
(恐怖政治……)
私の視線が、教室の隅にあるグループ――さっき篠宮さんがいた、高坂くんのグループとは別の、クラスの最上位カースト女子グループ――に向かう。
彼女たちは、まさに「公安委員会」だ。
彼女たちのグループ内には、厳格な「革命暦」にも似た独自のルールが存在する。
『リーダー格の子より目立つ服は着ない』
『SNSの「いいね」は最速で押す』
『グループ内の男子を好きになってはいけない』
そのルール(法律)を破った者は、「反革命的(グループの和を乱す)」として、容赦なく「粛清」される。昨日は中心にいた子が、今日はギロチン台(既読スルーと仲間外れ)送りだ。
彼女たちは、「平等(みんな仲良し)」というスローガンを掲げているけれど、その実態は、リーダー格の女子(ロベスピエール)による独裁だ。
(そして、みんな秩序を求めている)
だから、高坂くん(カエサル)が人気なんだ。
彼は、恐怖(カースト)ではなく、魅力(カリスマ)で人を惹きつけるから。
この恐怖政治(女子グループのギスギス)に疲れた民衆(クラスメイト)が、強力なリーダー(ナポレオン)の登場を待望している。
ヤマウチが、教科書の次の行を読み上げる。
「ナポレオンは、国民の支持を背景に皇帝に即位します。しかし、彼の覇権も長くは続かず……」
(そう、覇権は続かない)
私はペンを回す。
ロベスピエールは処刑された。ナポレオンも失脚した。
どんなに強固に見える体制(スクールカースト)も、必ず終わりが来る。
問題は、その「終わり」が来た時、自分がどこに立っているかだ。
私は、熱狂する民衆の一人としてギロチン台を見上げているのか?
それとも、失脚した皇帝と共に、エルバ島(クラスの隅っこ)に流されるのか?
いや、どちらも嫌だ。
私は、付箋だらけの資料集のページをめくる。
『ウィーン会議』の項目。
各国の利害が衝突し、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された、戦後処理の会議。
(これだ)
私は、この教室(ヨーロッパ)で、踊る参加者(プレイヤー)にはならない。
かといって、ただの傍観者(オブザーバー)でもない。
私は、この混沌とした勢力図の中で、自分と、そして早紀という「永久友好条約」を結んだ同盟国の「国益」を守り抜く。
誰にも侵されない、確固たる中立国(スイス)になるんだ。
そのためには、もっと知らなくては。
過去のあらゆる失敗(パターン)を。
人間の欲望が、どれだけ愚かで、どれだけ予測可能か。
私は、ヤマウチ(ブルボン)の退屈な解説の裏で、教科書の片隅に小さな文字を書き込んだ。
『ナポレオン法典の成立と限界。功罪の分析』
次の休み時間、図書室に行こう。
世界史オタクへの道は、まだ始まったばかりだ。
放課後のホームルームが終わる。
まただ。空気が変わる。
昼休みが「革命前夜」の熱狂なら、放課後は「講和会議」の始まりだ。
今日という一日(戦争)で得たもの(小テストの結果)と失ったもの(部活のレギュラー争い)を精算し、新たな「条約」――つまり、明日の約束――を結ぶ時間。
「嘉奈、部活ないんだっけ? 今日こそ駅前のクレープ行こ!」
早紀(わが同盟国)が、今日も変わらぬ友好姿勢(笑顔)を見せる。
「ごめん、今日も図書室。ナポレオン法典について調べたくて」
「うげ。またそれ? 本当にハマってんね」
早紀は本気で呆れているが、怒ってはいない。彼女との「同盟」の素晴らしいところは、互いの「内政(趣味)」に不干渉なことだ。
「じゃ、また明日ね!」
「うん。メロンパンの二の舞にならないよう、クレープの限定品(戦略資源)は死守しといて」
「任せろ!」
早紀が嵐のように教室を出ていく。
私は、ゆっくりと資料集とノートを鞄に詰め始める。
これで、私の「スイス」としての時間が始まる。戦後の混乱(教室の騒がしさ)から離れ、永世中立国(図書室)で、客観的な分析(勉強)に没頭するのだ。
――その、はずだった。
「あのさ、篠宮」
空気が、凍った。
声の主は、例の「公安委員会(カースト上位女子グループ)」のリーダー格、佐伯(さえき)さんだ。恐怖政治の執行者(ロベスピEール)。
彼女が、高坂くんのグループの端にいた、篠宮さん(ポーランド)に声をかけた。
教室に残っていた数人が、一斉に動きを止める。
空気が張り詰める。
(……来た)
私の歴史オタクとしての血が、嫌な形で騒ぎ出す。
(これは、公開処刑だ)
佐伯さんは、笑顔だ。それが一番怖い。
「篠宮さ、昨日インスタに上げたカフェの写真、あれ高坂たちと行った時のじゃないよね?」
(……最後通牒だ)
オーストリア=ハンガリー帝国が、セルビアに突きつけた最後通牒。
内容は、どうでもいい。
「セルビア政府は、反オーストリア的なプロパガンダを一切取り締まれ」
「オーストリアの当局者が、セルビア国内で犯人捜査に参加することを認めろ」
無茶苦茶な要求だ。最初から、戦争(関係の破綻)が目的の要求。
篠宮さんの顔から、サッと血の気が引く。
「え……あ、あれは、中学の時の友達と……」
「へえ。私たちとの約束(グループ活動)蹴ってまで? ふーん」
佐伯さんは、高坂くん(カエサル)に気がある。
そして、高坂くんは、誰にでも優しい。篠宮さんにも。
佐伯さんにとって、篠宮さんは「脅威」ですらない。ただ、彼女の「帝国(グループ)」の完全性を脅かす、目障りな「異分子」だ。
(ポーランド分割の始まりだ)
篠宮さんは、3つの大国(佐伯さん、高坂くん、その他のグループメンバー)の狭間で、かろうじて息をしていた。
今、その大国の一つ(佐伯さん)が、領土(篠宮さんの存在)を要求している。
高坂くん(もう一つの大国)は、この場にいない。彼は「同盟(グループ)」には無頓着だ。
篠宮さんは、青ざめた顔で俯く。
「ご、ごめんなさい……」
「別に謝んなくていいよ」と佐伯さんは笑う。「ただ、私たちの『ルール』、わかってるよね?」
篠宮さんは、小さく頷くことしかできない。
完璧な「恐怖政治」だ。
ギロチン台(仲間外れ)の恐怖が、彼女の主権(反論の権利)を奪っている。
私は、その一部始終を、机の影から見つめていた。
(……ひどい)
そう思う。
でも、同時に、冷徹な「歴史家」の私も囁く。
(これが現実だ。勢力均衡が崩れれば、弱小国は食われる。古代ギリシャのメロスがスパルタに滅ぼされた時から、何も変わらない)
佐伯さんグループは、満足したように教室を出ていった。
数分後、教室には、私と、立ち尽くす篠宮さんだけが残った。
私は、息を潜める。
スイスは、介入しない。
戦争難民を受け入れることはあっても、自ら戦地に赴くことはない。
私は、そっと立ち上がった。図書室へ向かうために。
「……岩倉さん」
呼び止められた。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
振り返ると、篠宮さんが、幽霊のような顔で私を見ていた。
「あ……篠宮さん」
(まずい。オブザーバーが、観測対象に認識された)
「見てた……よね?」
「……うん」
嘘はつけなかった。
篠宮さんは、ふらふらと私の机に近づいてくる。
彼女の目は、泣いているようでもあり、怒っているようでもあった。
「岩倉さん、いつも本読んでる。……世界史、好きなの?」
「あ、まあ。中級者レベルだけど」
「じゃあ、教えて」
彼女は、絞り出すような声で言った。
「マリー・アントワネットって、本当に『パンがなければお菓子を食べればいい』って言ったの?」
(……!)
予想外すぎる質問。
だが、私は瞬時にその「問いの真意」を理解した。
これは、歴史のテストじゃない。
これは、彼女の「現在地」の確認だ。
彼女は、自分が「マリー・アントワネット」なのかと聞いているのだ。
特権階級(一軍グループ)にいる自覚もなく、民衆(他のクラスメイト)の痛みも知らず、やがて革命(追放)のギロチン台に送られるべき、愚かな王妃なのか、と。
どう答える?
「歴史家」として、客観的な事実を述べるか?
(「その発言は、後世の創作であるという見解が有力だ。当時のフランスの財政破綻は、アンシャン・レジームの構造的欠陥であり、彼女一人の浪費が直接の原因ではない。しかし、彼女が民衆の苦しみに鈍感であったことは、革命の象徴として利用される一因となった」)
……違う。
彼女が求めているのは、そんな「ファクトチェック」じゃない。
私は、鞄を机に置き直した。
「……言っていない、というのが定説だよ」
「え……」
「あれは、ルソーの『告白』に出てくる言葉で、マリー・アントワSネットが言ったという証拠はない。彼女は、オーストリア(ハプスブルク家)から嫁いできた『敵国の女』だったから、民衆の憎悪の『象徴』として、そういう悪役に仕立て上げられたんだよ」
篠宮さんの目が、わずかに見開かれた。
「彼女は……」私は言葉を選ぶ。「確かに、世間知らずではあったと思う。でも、それ以上に、彼女は『システム』に囚われていた。オーストリアとフランスの『政略結婚』というシステム。ヴェルサイユという『古い体制(アンシャン・レジーム)』のシステム。彼女は、そのシステムから降りられなかった」
「……システムに、囚われていた」
篠宮さんが、私の言葉を繰り返す。
「だから……」私は続ける。「彼女が『愚かだった』のは事実かもしれないけど、彼女一人が『すべての悪』だったわけじゃない。彼女は、ただの『象徴』にされたんだ。憎悪のはけ口として」
篠宮さんの頬を、一筋、涙が伝った。
「……そっか。よかった」
「え?」
「私……私、みんなから『あのグループにいるくせに』って思われてるんじゃないかって……。自分でも、なんであそこにいるのか、わからなくて……」
彼女は、佐伯さん(ロベスピエール)の恐怖政治の「被害者」であると同時に、他のクラスメイトから見れば、カースト上位の「加害者」の一員だ。
彼女は、マリー・アントワネットと同じジレンマに陥っていた。
「岩倉さん、ありがとう」
篠宮さんは、深く頭を下げると、逃げるように教室を出ていった。
一人、教室に残される。
ナポレオン法典を調べるはずだった足は、完全に床に縫い付けられていた。
(……介入、してしまった)
スイスは、永世中立国だ。
でも、今、私は、明らかに「篠宮さん」という名の亡命希望者(難民)に、心情的な「庇護」を与えてしまった。
(これは、外交問題だ)
佐伯さん(フランス革命政府)は、敵国の王妃(マリー・アントワネット)を匿ったオーストリア(私の実家)に宣戦布告した。
もし、私が篠宮さんと話しているところを見られていたら?
私と早紀(わが同盟国)の「平和」は、終わる。
(……ミュンヘン会談だ)
私は、傍観者(オブザーバー)でいることを選んだ。
チェコスロバキア(篠宮さん)が、ナチス・ドイツ(佐伯さん)に解体されるのを、ただ黙って見ていた。
「我々の時代の平和(自分の平穏)」のために。
でも、歴史は知っている。
ミュンヘン会談で得られた「平和」は、一年も持たなかったことを。
傍観は、問題を先送りにするだけで、解決にはならない。
私は、重い足取りで図書室へ向かう。
調べるべき項目が変わった。
『ナポレオン法典』じゃない。
『第二次世界大戦への道――宥和政策の失敗』だ。
世界史オタクの私は、知ってしまった。
歴史は、ただ眺めるだけじゃ済まない。
いつか必ず、自分も「選択」を迫られる時が来るのだ。
あの日、図書室で「宥和政策の失敗」を読みふけってから数日。
私は、重苦しい「戦間期」を生きていた。
篠宮さん(ポーランド)は、佐伯さん(ドイツ)からのあからさまな圧力を受け続けていた。
机をわずかに離される。
掃除当番の仕事を一人だけ押し付けられる。
「ミュンヘン会談」で得た一時的な「平和」――私が彼女に与えた「マリー・アントワネットは悪役だった」という慰め――は、何の役にも立たなかった。
歴史は繰り返す。宥和政策は、侵略者(アグレッサー)の野心を増長させるだけだ。
私はそれを知っている。知っているのに、動けない。
早紀(わが同盟国)を危険に晒すわけにはいかない。私の「永世中立」は、早紀との「永久友好条約」を守るためでもあるのだから。
私は、息苦しい教室(ヨーロッパ)で、ただ次の「侵攻」がいつ始まるかだけを待っていた。
そして、その日は来た。
5限目、現国(現代国語)の授業。
皮肉にも、「他者とのコミュニケーション」という単元だった。
「はい、じゃあ来週、この単元についてのグループ発表をしてもらいます。4人一組になってくださーい」
来た。
教師のその一言は、まさに「宣戦布告」の号砲だった。
教室という「勢力図」が、一瞬で流動化する。
生徒たちは、この「戦時体制」において、いかに有利な「同盟」を組むかに全神経を集中させる。
早紀が、即座に私に向き直る。
「嘉奈、よろしく。あと二人、誰にする?」
「うん。あ……」
私が返事をするより早く、教室の空気が凍った。
佐伯さんのグループだ。
彼女は、取り巻きの二人と、そして――高坂くん(カエサル)に声をかけていた。
「高坂くん、一緒でいいよね? 私たち3人だから、ちょうど4人」
「ん? ああ、いいぜ」
高坂くんは、政治(カースト)に無頓着だ。
彼は、ただ、頼まれたから頷いただけ。
だが、その「カエサルの承認」が、どれほどの意味を持つか、彼は知らない。
佐伯さんが、勝利の笑みを浮かべた。
これで「4人」だ。
彼女の「公安委員会」は、クラス最強のカリスマ(カエサル)を取り込み、完璧な「枢軸」を形成した。
そして。
その「枢軸」から、一人の人間が弾き出された。
篠宮さんだ。
昨日まで、彼女はかろうじて高坂くんのグループの端に「所属」していた。
だが今、彼女は「4人」という絶対的な定数の前で、物理的に「あぶれた」。
佐伯さんによる「ポーランド分割」は、今、完了した。
篠宮さんは、俯いたまま、立ち尽くしている。
誰も彼女に声をかけない。
彼女は、完全に「孤立」した。地図から消された国家だ。
教師が、無慈悲に名簿をチェックする。
「あれ、余ってるの誰だ? ……ああ、篠宮さんか。じゃあ、そこの岩倉さんたち、まだ二人だな? ちょうどいい、篠宮さんと3人で組んで」
(……!)
クラス中の視線が、私と早紀に突き刺さる。
そして、嘲笑と憐憫の目で、篠宮さんに。
佐伯さん(ロベスピエール)が、私を見て、フンと鼻を鳴らした。
『残党処理、よろしく』
その顔は、そう言っていた。
早紀が、私の袖を引く。
「……嘉奈、どうする? 先生に言われたし、いいよね?」
早紀は、善人だ。彼女は篠宮さんを拒否しないだろう。
だが、それは「庇護」ではない。「先生に言われたから」という、受動的な「難民受け入れ」だ。
私は、唇を噛み締めた。
(これで、いいのか?)
私は歴史オタクだ。
私は知っている。
ナポレオンは、アルプス越えという「不可能」を可能にした。
カエサルは、「賽は投げられた」と、元老院(ルール)に逆らって「ルビコン川」を渡った。
彼らは、歴史を「分析」しなかった。
彼らは、歴史を「作った」。
私の目の前には、今、川が流れている。
私の机と、篠宮さんの机の間にある、この数メートルの空間。
これこそが、私の「ルビコン川」だ。
この川を渡れば、「中立国」の平和は終わる。
私は、佐伯さん(革命政府)の明確な「敵」となる。
早紀(同盟国)も、その「戦争」に巻き込むことになる。
だが、渡らなければ?
私は、歴史を知りながら、歴史から学ばなかった愚か者(チェンバレン)として、残りの高校生活(戦後)を生きていくことになる。
篠宮さんが、泣きそうな顔で、おずおずとこちらを見ている。
(……ああ、もう)
(うるさいな、私の頭の中の歴史家(オブザーバー)!)
私は、ガタリと音を立てて、立ち上がった。
「早紀」
「え、な、何、嘉奈?」
私は、早紀の目をまっすぐに見る。
「ごめん。私たちの『永久友好条約』、ちょっと改定する」
「は?」
「『相互防衛義務』を、適用する」
私は、鞄を掴むと、自分の席を離れた。
教室が、シン、と静まり返る。
一歩、また一歩。
私は、教室のど真ん中を横切り――私の「ルビコン川」を渡った。
そして、立ち尽くす篠宮さんの机の前に、仁王立ちになった。
「篠宮さん」
「……いわくら、さん……?」
「先生に言われたから、じゃない」
私は、篠宮さんの机の隣に、自分の椅子を引きずってきて、ドカッと座った。
「私が、あなたと組みたい。だから、一緒にやろう」
「……!」
篠宮さんが、息を呑む。
佐伯さんの顔が、怒りで歪む。
「何、それ。岩倉、あんた……」
私は、佐伯さん(ロベスピEール)を、まっすぐに見据えた。
もう、恐怖はない。
「悪いけど、佐伯さん。あなたの『恐怖政治』、今日で終わりにするから」
「……は?」
佐伯さんだけじゃない。クラス全員が、意味がわからない、という顔をしている。
私は、続けた。
「あなたのそのやり方、アンシャン・レジームなんだよ」
「……あん、しゃん?」
「古い体制。王様(あなた)が、気分一つで臣下(みんな)の運命を決める、絶対王政。……もう、時代遅れだ」
私は、教室全体に聞こえるように言った。
「私たちは、もう『ギロチン台(仲間外れ)』を怖がるのはやめる。私たちは『第三身分(ただのクラスメイト)』だ。私たちは、私たちの意思で、誰と組むかを決める」
それは、私の「テニスコートの誓い」だった。
「何よ、それ……。世界史オタクの戯言? キモい」
佐伯さんが、最後の「ギロチン」を振り下ろそうとする。
「高坂くんも、そう思うよね? こんな訳わかんないこと言ってる奴」
彼女は、最強の同盟国(カエサル)に、同意を求めた。
これで、私が「民衆の敵」として処刑される、はずだった。
高坂くんは、困ったように頭をかいた。
そして、私と、佐伯さんと、篠宮さんを見比べて、
「……わりぃ、佐伯。俺、アンシャン? っての、よくわかんねえけど」
彼は、椅子から立ち上がった。
そして、佐伯さんのグループから離れ、なんと、私の隣に歩いてきた。
「え……高坂、くん?」
高坂くんは、私に向かってニカッと笑った。
「岩倉の言ってること、面白そうだから。俺も、そっちのグループ入っていい?」
――世界が、ひっくり返った。
カエサル(民衆の支持)が、元老院(佐伯さん)を捨て、私(新興勢力)についた。
いや、違う。
彼は、ただ、恐怖(システム)よりも、面白そうな「人間(私)」を選んだだけだ。
佐伯さんは、真っ青な顔で立ち尽くしている。
彼女の「恐怖政治」は、その恐怖の対象(民衆)が、恐怖しなくなった瞬間に、崩壊した。
ロベスピエールは、失脚した。
「あ、あの! 私も!」
今まで、佐伯さんのグループに怯えていた別の女子が、おずおずと手を挙げる。
「私も、岩倉さんたちと……」
「ちょ、待て! こっちは4人!」
早紀が、慌てて私と高坂くんと篠宮さんの元へ走ってくる。
「ちょっと嘉奈! 何してんのよ! 高坂くんまで連れてきて! ていうか、いつの間に『相互防衛義務』発動してんの!」
早紀は、怒っているようで、その目は笑っていた。
「まったく……。仕方ないな。私の『大西洋憲章(プリンシプル)』にかけて、この戦争、付き合ってやるよ!」
篠宮さんが、俯いたまま、震えている。
泣いているのかと思ったら、違った。
彼女は、必死に笑いをこらえていた。
そして、顔を上げ、私を見た。
「岩倉さん……ううん、嘉奈ちゃん。ありがとう」
それは、「ポーランド」が、初めて「独立」を宣言した瞬間だった。
私は、この新しい「同盟国」たちを見回す。
まだ、何も終わっていない。
明日からは、新しい「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」が始まる。
きっと、もっと面倒くさい「外交」が待っている。
でも、それでいい。
私は、もう「スイス」じゃない。
私は、資料集の片隅に書かれた「結果」を読むだけの歴史家(オブザーバー)じゃない。
今、この瞬間。
私は、この教室(せかい)で、血の通った歴史を生きる、当事者(プレイヤー)になったのだ。
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