春の宵、帝都の空を鉛色に塗り潰す分厚い雲塊から、糸を引くような夜雨がとめどなく降り注いでいた。それはまるで、天地開闢の折より積み重なった人間の泥濘む業を、冷酷なまでに洗い流そうとするかのようであり、あるいはまた、この閉塞した屋敷という名の牢獄に囚われた者たちの、声なき慟哭が具現化したかのようでもあった。軒端を打つ雨垂れの音は、単調で陰鬱な律動を刻みながら、屋敷の奥深くに立ち込める異様な熱気と不協和音を奏でている。
陰翳の濃い奥座敷、豪奢な紫檀の机にふんぞり返る代表の口元には、文明開化の象徴である舶来の洋酒菓子『ばっかす』が、卑しい咀嚼音とともに次々と吸い込まれていた。彼の放つ脂ぎった威圧感は、降り頻る雨の冷たさすら跳ね返すほどの醜悪な生命力に満ちている。
「ええゆうてるんちゃうで。海を渡ってやってきたというあの流行り病……異国のネズミが保有し、排泄物に触れるだけで感染するという恐ろしきハンタウイルス。これぞまさに、天与の特効薬や!」
代表は、口の端に菓子の屑をつけたまま、関西弁の濁った声音で嘯いた。彼の目の前には、庭の泥濘から無造作に掬い上げられ、粗末な小瓶に詰められたただの泥水が何十本と並べられている。
「恋すれば何でもない距離やけど、死の恐怖はもっと人と金との距離を縮めるんやで。この小瓶の泥水を『舶来の霊薬』と銘打って法外な値で売り捌けば、蔵が建つ。特効薬がないなら、作ればええだけのこと。SFやで、まったく」
わたしは広間の末席に跪き、白磁の湯呑みに熱い茶を注ぎながら、肺の奥底に淀む冷たい息を必死に抑え込んでいた。
(特効薬など存在しない。それはただの庭の泥水ではないか。人々の恐怖につけ込み、不衛生な汚水を飲ませて命を弄ぶなど……)
唇の端から零れ落ちそうになったその鋭い毒づきを、わたしは慌てて前歯で噛み殺した。誰かに悟られまいと、表情筋を凍結させ、茶を差し出す手つきの流麗さだけを取り繕う。
「……こんなの、ただの泥水じゃないですか……」
思わず無意識に漏れ出た小声に、わたしは弾かれたように両手で口を覆った。幸い、雨音がわたしの呟きを掻き消してくれたようだ。だが、喉の奥で微かに鳴った反抗の音は、わたしの内臓の最も奥深い場所に据えられた「圧力鍋」の底に、青白く冷たい火を静かに、しかし確実に灯していた。
「今日はその話ですか?」
縁側に腰掛け、その狂乱の錬金術を冷ややかな目で見下ろしていたジム総長が、白粉の香りを漂わせながら薄い唇を動かした。息を吐くように嘘とデマを撒き散らす彼女の瞳は、決して真実を映さない。
「流行病も結構ですけれど、アタシ、もっと面白いニュースを聞いたのよ。大英帝国でのこと。ビザの期限が切れる移民たちが、亡命申請を通すために『同性愛者を装うように』と指示されていたらしいの。見た!
アタシそれ、秘密の書簡で確かに見たわ!
こうなること何となく予測してたわ。特には驚かなかったわね。結果としてこの偽装工作で利しているのは、我が党の外交戦略というわけよ」
実際には彼女はそのような書簡など見ていない。ただ風の噂を自らの権威付けのために誇張し、密室に散布しているだけである。しかし、この密室において、彼女の言葉は真実よりも重い引力を持っていた。
その引力に最も哀れな形で絡め取られたのが、落選して無職の身でありながら、己の虚栄心を持て余しているパイプユニッシュであった。 「なんと……!」
パイプユニッシュは、雷火に打たれたかのように両目を見開き、福井弁訛りの大音声を張り上げた。
「大英帝国が男色を以て亡命を許すというのなら、世界の潮流はまさにそこにある!
ならば拙者も、直ちに男色のフリをして、異国のトランプ将軍の懐に飛び込むのだ! この色香と偽りの情交を以て、将軍の魂を我が手に!
党勢拡大は間違いない! 政策で勝負じゃ!」
彼の頭脳の貧困な回路の中で、移民の偽装亡命という深刻な国際問題と、男色、そして新政権の将軍への接近が、いかなる化学反応を起こして結びついたのかは、神仏すら理解の及ばぬところであろう。ただ、彼の中の詰まりきったパイプから、妄想という名の泥水が間欠泉の如く勢いよく噴き出したことだけは確かであった。彼は立ち上がり、見えざる将軍に向けて妖艶な流し目を送るという、身の毛もよだつような滑稽な所作を繰り広げ始めた。
狂気が渦を巻く中、さらに追い打ちをかけるように、ずぶ濡れの伝令が部屋に転がり込んできた。 「ほ、報告いたします!
新興勢力である『チーム未来』の奴らが、帝都の老人たちを荷車に山のように乗せて、次々と票をかっさらっております!」
その報告を聞いた瞬間、代表の顔から卑しい笑みが消え去り、夜叉の如き憤怒がその巨体を支配した。 「ええゆうてるんちゃうでええええっ!!」
代表の鼓膜を劈く怒声が、夜の静寂と雨音を無惨に引き裂いた。太き腕が獰猛な弧を描いた刹那、彼の右手から放たれた透明な合成樹脂の円筒――ペットボトル――は、重く湿った空気を断ち割り、物理法則を嘲笑うかのような残酷な美しさを伴って宙を滑った。
それは、漆黒の天空より堕ちる流星の如き無慈悲な軌道を描き、一直線に、部屋の隅で控えていた『カレーの本質』の顔面へと吸い込まれていく。
「ボ、ボクにお任せを……ッ!」
カレーの本質は、人体の骨格構造を根底から否定する恐るべき前屈姿勢で空中に身を躍らせ、飛来する容器を顎の先で見事に受け止めた。ドグゥ、という鈍い打撃音が密室に木霊し、彼はそのまま泥濘の庭へと真っ逆さまに突き刺さった。
わたしは、畳に点々と散らばったその赤黒い飛沫と泥水を、白い手ぬぐいで無言で拭いながら、深々と頭を下げていた。外から見れば、主の怒りに怯え、恐怖で小刻みに震えている可哀想な秘書にしか見えないであろう。
しかし、その震える背中の下で、わたしは血塗られたペットボトルの破片を握りしめていた。爪が掌の肉に深く食い込み、血の気を完全に失って白蝋のように変色するほど、強く、強く握りしめられていた。わたしの震えは恐怖によるものではなかった。とめどなく湧き上がる怒りが、わたしの全身を痙攣させていたのだ。
(愚か者ども。狂人どもの巣窟。この屋敷の空気は、毒だ。)
握りしめた拳の奥底で、わたしの中の圧力鍋の目盛りが、限界を示す赤い領域へと、ジリジリと跳ね上がっていくのを感じていた。
狂乱の宴が限界に近づきつつあった夜半、屋敷の廊下を乱暴に踏み鳴らす足音が響き、元職員のまきまきが広間に引き立てられてきた。彼女の目は血走り、その精神の均衡がすでに崩壊の危機にあることは一目で知れた。
代表は、血まみれで直立不動を保つカレーの本質を一瞥もせず、まきまきに向けて冷酷極まりない宣告を下した。
「君の夫が放った飛脚便(エックス・ポスト)、あれは我が党に対する重大なる不敬であり、反逆や。党の品位を著しく傷つけた。SFやで。明日から、いや今この瞬間から、君はクビや。二度とその顔を見せるな」
その言葉の持つ絶対的な理不尽さを理解するのに、まきまきの情緒はあまりにも脆すぎた。解雇の理由は彼女自身の過失ではない。夫という外部の人間が記した文書の責めを、連座制として背負わされたのだ。彼女の大きな瞳が見開かれ、やがて肺の底から絞り出された悲痛な絶叫が、夜の闇を劈いた。
「今日もまきまき! 逆から読んでもまさきまき! なのに何でクビなの! 夫は夫、わたしはわたしじゃないの! どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
彼女の叫びは、夜叉の如き凄絶さを帯び、降り頻る雨音を凌駕して屋敷中に響き渡った。しかし、この狂った権力の歯車は、個人の悲鳴など歯牙にもかけない。
代表が顎でしゃくると、顔面に痛々しい痣を残し、鼻血を垂れ流し続けているカレーの本質が無言で動き出した。彼は、泣き叫び、畳を掻き毟るまきまきの両腕を背後から乱暴に掴み上げた。
「離して! 離してよぉぉっ!」
ズルズルと、春の泥濘が果てしなく広がる庭へと、彼女は無惨に引きずり出されていく。雨に打たれ、泥に塗れ、彼女の纏っていた美しい友禅の着物が、見る間に汚泥の色に染め上げられていく。その光景は、権力という名の底知れぬ怪物が、抵抗する術を持たない美しき生贄をゆっくりと貪り食う、阿鼻叫喚の地獄絵図そのものであった。
「結果として、夫の行動で利しているのは敵対勢力なのよ。だから彼女の排除は必然。こうなること何となく予測してたわ。特には驚かなかったわね」
ジム総長が、扇子で顔の半分を隠しながら、冷酷な虚言で事態を糊塗し、自己正当化の論理を完結させる。
その凄惨な粛清の光景を、部屋の隅でただ一人見つめていたわたしの心境は、もはや傍観者のそれではなくなっていた。泥濘に消えていくまきまきの断末魔のような絶叫が、鼓膜を突き破り、わたしの脳髄を直接、激しく揺り動かした。
(次は、わたしだ。)
強烈な危機感。生存本能の根幹を脅かす、氷のような焦燥感。もしわたしが、ほんの少しでも代表の意に沿わぬ茶の淹れ方をすれば。もしわたしが、ジム総長の嘘に相槌を打つのが一秒遅れれば。わたしもまた、あの泥濘の中へと引きずり込まれ、存在そのものを抹消されるのだ。
その恐怖は、これまで心の底の圧力鍋に沈殿していた莫大な怒り、軽蔑、そして自己嫌悪と瞬時に結びつき、致死量のストレスとなって全身の血管を沸騰させた。わたしは臆病だ。おとなしい秘書だ。常に目立たぬよう、己を殺して生きてきた。しかし、この狂気に満ちた密室で、理不尽という名の刃がわたしの喉元に突きつけられたその瞬間、わたしの中の最も深く、最も神聖な何かが、確かな音を立てて千切れた。
ギリ、と奥歯が鳴る。視界が明滅し、世界から一切の色彩が失われ、ただ純白の光だけが満ちていく。 圧力鍋の安全弁が、遂に吹き飛んだのだ。
世界の時間が、泥水の中に沈み込んだかのように、ひどく遅みを帯びた。
泥水で暴利を貪ろうと下品にほくそ笑む代表、男色外交の妄想に涎を垂らして腰をくねらせるパイプユニッシュ、息を吐くように現実を歪曲して冷笑するジム総長、血まみれで直立するカレーの本質、そして庭の泥濘に沈んでいくまきまきの幻影。
すべてが緩慢なスローモーションで流れる中、わたしは己の魂の深淵から湧き上がる、灼熱のマグマのような言葉の塊を明確に認識していた。それは、単なるパニックではない。臆病な傍観者であった己の過去への決別であり、世界を覆い尽くす狂気に対する、血を吐くような魂の抵抗であった。
わたしは、肺を限界まで膨らませ、これまでの一生で一度も出したことのない、地を揺るがすような大絶叫を放った。
「ええ加減にせえええええええええええええええええっ!!!!!」
その叫びとともに、わたしの右腕は、天体の運行を司る神の如き絶対的な速度と質量を伴って空を切り裂いた。放たれた手刀――すなわち『魂のツッコミ』――は、音の壁を易々と突破し、白き真空の刃となって、ふんぞり返る代表の分厚い延髄へと寸分の狂いもなく直撃した。
刹那、眼球を灼くほどの閃光が走った。
月の引力が突如として反転したかのように、代表の巨体が宙に浮き上がり、そのまま数多の襖を紙屑のように突き破りながら、屋敷の奥深くへと弾丸の如く吹き飛んでいく。彼が大事に抱えていた「文明開化の特効薬」たる泥水の小瓶と、舶来の洋酒菓子が空中に撒き散らされた。
泥水は水晶の破片のように美しく煌めきながら弧を描き、洋酒菓子の粉末は金色の星屑となって、床に腰を抜かして崩れ落ちたパイプユニッシュとジム総長の頭上へと、慈雨のように降り注いだ。
「泥水を特効薬などと騙るな! 同性愛偽装で異国の将軍に取り入ろうとするな! そして、理不尽に人のクビを切るなァァァッ!!」
わたしの口から放たれたのは、これまで党を支配していた全ての流言飛語、虚言、狂気を一刀両断にする真実の言葉であった。わたしの咆哮は、庭の空気を浄化し、まきまきを引きずるカレーの本質を宙で静止させた。
それは、スラップスティックな物理的破壊の極致でありながら、なぜか、春の嵐が満開の桜の園を無慈悲に散り急がせるかのような、圧倒的で、暴力的で、涙が出るほどに耽美な光景であった。破壊の美学が、不条理の極点において純文学の領域へと到達した瞬間であった。わたしの全身から、これまで身を縛り付けていた呪いのような臆病さが、真っ白な湯気となって蒸発していくのを感じた。
狂乱の嵐が過ぎ去った後、破壊の爪痕が深く刻まれた屋敷には、再び、無駄に美しい春の夜雨の音だけが、静かに、静かに満ちていった。
倒れ伏す代表のうめき声も、パイプユニッシュの泣き言も、すべてが雨音の底へと沈み、溶けていく。わたしは乱れた息を整えながら、再び元の、あの徒労感に満ちた空気が足元から這い上がってくるのを感じていた。
結局のところ、わたしの一撃が世界を根本から変革することなどないのだ。この不条理に満ちた党も、狂った権力者たちも、夜が明ければ何事もなかったかのように立ち上がり、再び泥水を啜り、嘘を吐き、罪なき者を罰するのだろう。世界は変わらない。わたしの抵抗は、大河に一滴の墨を落とすような無力な行為に過ぎない。
しかし、立ち尽くすわたしの視線は、荒れ果てた部屋の隅に転がっている、一つの物体に釘付けになった。
それは、代表が片時も離さず大事に抱えていた、豪奢な金箔張りの洋酒菓子『ばっかす』の空箱であった。あの流星の如きツッコミの衝撃の余波を受け、その美しく完璧であった箱の角が、ほんの僅か――およそ一ミリだけ、確実に潰れていた。
その一ミリの傷跡。 決して修復されることのない、黄金の上の微かな亀裂。
それは、わたしの臆病な魂が、この狂える不条理な世界に対して刻み込んだ「一パーセントの確かな反逆の証」であった。潰れた箱の角から漂う仄かな洋酒の甘い香りが、夜雨の冷たい匂いと混じり合い、どこまでも深く、耽美に闇へと溶けていく。
わたしは、白く変色していた自分の両手を顔の前に静かに開き、掌に残るその確かな痛みを愛おしむように見つめながら、暗闇の中でただ一人、ひっそりと、小さく微笑んだ。
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