2026-05-09

幕末あさって党狂騒曲 ~飛来する玻璃(ガラス)瓶と嘘つきたちの夜明け~

 障子の隙間から、文明開化を急ぐ瓦斯燈の臭いが微かに吹き込んでくる。


慶応から明治へと時代が寝返りを打とうとする東京の片隅。 ここは「にっぽんぽん・あさっての党」の極秘会議室として使われている、ある藩の古ぼけた評定所である。


わたし、チ~サは、部屋の隅の座布団の上で、膝を抱えてただ震えていた。 怖かったのだ。

新しい時代が怖いのではない。目の前で胡座をかき、そろばんを弾きながら不気味な笑みを浮かべる男が恐ろしいのである。


「……フヒヒ、金や。金が全てや」


この男こそが、当党の「代表」である。 元は一介の商人ながら、持ち前の卑怯な立ち回りと強欲さで貴族院の議席まで買い取った成金的権力者。


「チ~サ君、あの瓦版屋にはもっと袖の下を渡さんかい。ええゆうてるんちゃうで。世間なんて金で買えるSFやで」


代表が口を開くたび、わたしは身を縮こまらせた。

SFが何なのかは全く分からない。ただ、彼の言葉には絶対的な暴君の響きがあった。わたしのような臆病で取り柄のない小娘は、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。


バンッ!!


突如、評定所の重い唐紙が吹き飛ぶ勢いで開いた。


「ウキーーーッ!!!」


飛び込んできたのは、毛むくじゃらのオス猿だった。当党の党員である「ま猿」だ。


「ウキー!聞いたか!メリケンの黒船は全部張りぼてウキ!中身は越後屋の陰謀ウキ!薩長はもう滅亡したウキ!」


息もつかせぬ勢いで、全く根拠のないデマを放り投げるま猿。


「なんやて!?ほんまかそれ!」と代表がそろばんから顔を上げる。


「ウキー!デコバカ!」


ま猿はなぜか代表に向かって謎の暴言を放つと、開けっ放しの唐紙から風のように去っていった。


      *


(……何だったの、今の?)


わたしは冷や汗を拭いながら、暗い畳を見つめた。 全てが嘘だった。誰が聞いても分かるような荒唐無稽なデマ。

しかし、彼があのように狂ったように辻褄の合わない瓦版の噂をわめき散らすのは、果たして単なる「悪意」なのだろうか。


――ふと、わたしの脳裏に奇妙な考えがよぎった。


ひょっとすると、あの猿は「真実かどうか」など気にしていないのではないか?

江戸の街を行き交う無数の瓦版がもたらす「感情の激動」。怒りや恐怖を煽ることでしか己の存在を示せない、ある種の「承認欲求のからくり」に組み込まれてしまっているだけなのではないか?


「お待たせしましたぁ」


わたしの内省を切り裂くように、今度は悠然とした足取りで一人の女性が入室してきた。 ジム総長である。


「アタシ、さっきの話、全部聞いてましたわ。いやぁ、こうなること何となく予測してたわ。特には驚かなかったわね」


いや、貴女は今さっき来たばかりでしょう。聞いていたはずがない。


わたしが心の中でツッコミを入れていると、ジム総長は涼しい顔で続けた。


「今日はその話ですか?ええ、見た!アタシそれ見た!黒船が越後屋の船だったの、この目でばっちり見た!」


「おお!さすが総長や!」と代表が手を叩く。


「ええ。結果として、この越後屋の行動で利しているのは幕府の残党ということになりますわね」


      *


(……違う。息を吐くように嘘をついている)


わたしは座布団の上で、じっと彼女を観察し始めていた。 これまでのわたしなら、「また偉い人が嘘をついている、怖い」と震えるだけだっただろう。


だが、今は少し違って見えた。

ジム総長は、道徳を知らないのではない。「自分の行動にだけ道徳の枷を外すことができる」特異な思考回路を持っているのだ。自らを正当化するため、彼女の脳内では現実が都合よく書き換えられ、そして何ら痛痒を感じていない。

これが……人間の魂が持つ「自己欺瞞の極致」……。


「なんやて!?幕府の残党が利してるやと!?」


突如、代表の顔が朱に染まった。 彼は極度に怒りっぽい。そして、その怒りの沸点は常に自己の利益が脅かされたときに達する。


「ワシの商いのおこぼれを幕府の残党が持っていくいうんか!許さん!」


代表の右手が、床の間に飾られていた舶来品の貴重なラムネ瓶を掴んだ。 青みがかったガラスの瓶。市井の人間なら一生かかっても買えないような高級品だ。


「死ねやあああ!!」


代表がその高価な瓶を、あろうことかジム総長めがけて力任せに投げつけた。


ヒュンッ!


「危ないッ!!!」


そこに横からダイブしてきたのは、「カレーの本質」と呼ばれる男だった。 ガシャンッ!!

鈍い音とともに、カレーの本質の頭部でラムネ瓶が見事に砕け散った。ガラスの破片と甘い液体が飛び散る。


「ボクは……大丈夫です……!」


頭から血とラムネを流しながら、カレーの本質は恍惚とした表情で叫んだ。


「見ましたか皆さん!代表のお手から放たれた、あの見事な放物線を!これこそが党への愛!そしてボクの頭を打ったのは、代表の深き慈悲の表れなのです!」


      *


(……狂っている)


いや、「狂っている」という言葉で片付けるのはあまりにも思考の怠慢だ、とわたしは思い直した。 血まみれで代表をエクストリーム擁護するカレーの本質。

彼は、代表という「権威」への絶対的服従によって、自らの思考を停止させている。アーレントが指摘したような「思考の停止」――これこそが、構造的な虚偽を支える最も凡庸にして強固な柱なのだ。

もはやこの部屋に、確固たる真実は存在しない。あるのは「誰が一番声が大きく、誰が一番心地よい嘘を提供してくれるか」という感情の闘技場だけだ。


「今日もまきまき!逆から読んでもまさきまき!!」


静寂(というよりは異様な空気)を破って、唐突に派手な着物を着た女性が転がり込んできた。 元貴族院候補の「まきまき」である。

彼女の夫が「お代官様は下着泥棒」という不適切な内容の瓦版を市中にばらまいたため、お家取り潰し(クビ)になり、以来彼女は情緒の均衡を失っている。


「ねえ見て見て!世間の皆が、瓦版でまきまきのこと叩いてる!もっと叩いて!まきまきのMはドMのM!」


彼女は自虐的に畳を転げ回っている。


「うるさい!静かにしろ!!」


ドンッ!と大股で入ってきたのは、常に眉間に皺を寄せている党員「ピライ」だ。

彼は転げ回るまきまきと、血まみれのカレーの本質、そろばんを抱える代表を一瞥し、鼓膜が破れるほどの声で怒鳴りつけた。


「うるさい!静かにしろ!!」


そして、そのまま踵を返して出て行ってしまった。


      *


(……なるほど、そういうことか)


わたしは、ゆっくりと姿勢を正した。 心臓の震えは完全に止まっていた。視界が、恐ろしいほどクリアになっていく。


自虐と炎上によってでしか世間とのつながりを感じられないまきまきの「自己消費」。

異論やノイズを暴力的な一言で遮断し、心地よい密室(エコーチェンバー)に引きこもろうとするピライの「思考の拒絶」。

これは特定の邪悪な個人によるものではない。

時代の変化という不安定な液状化社会において、彼らは自らをこの狂った「情報環境」に最適化させただけなのだ。彼らは善悪の彼岸にある、ただの自動書記人形に過ぎない。


「拙者に任せておけ!」


最後に部屋に入ってきたのは、落選して無職の身となった浪人「パイプユニッシュ」だった。 彼は威風堂々と胸を張り、福井訛りで高らかに宣言した。


「拙者には、メリケンの異国商人やトランプ将軍との太い人脈(パイプ)がある!この黒船のパイプを使えば、党勢拡大は間違いない!政策で勝負じゃ!」


自信満々の言葉。だが、誰もが知っている。彼のパイプはとうの昔に泥と埃で詰まっており、メリケン人どころか近所の団子屋にすらツケを断られていることを。


代表が鼻で笑った。 「アホ抜かせ。トランプ将軍やて?恋すれば何でもない距離やけど、お前はただの無職やないか」


「な、なんの!政策で勝負じゃ!」


「やかましいわ!SFやで!!」


代表は激昂し、今度は棚にあった舶来の極太ガラス瓶を鷲掴みにした。


「ええゆうてるんちゃうでええええ!!」


投げ放たれたガラス瓶が空を裂く。 カレーの本質が「ボクが守る!」と飛び込み、 ジム総長が「アタシ、その瓶が飛ぶのを見たわ!」と嘘をつき、

襖の外からま猿が「ウキー!デコバカ!」と顔を出し、 まきまきが「瓶で叩いて!」と身を乗り出す。


パシャアアアアンッ!!!!!


高価なガラス瓶が壁に激突し、粉々に砕け散った。 降り注ぐ無数のガラスの破片が、西日に反射してキラキラと狂気のように輝いている。


その破片の下で、ジム総長が真顔で呟いた。 「結果として、この瓶の行動で利しているのは、瓦斯燈の業者ですわね」


      *


誰もが何かを叫び、誰も人の話を聞いていない。 虚偽と欺瞞、承認欲求と怒りが渦巻く極秘会議室。


わたしは、部屋の隅の座布団の上で、そっと目を閉じた。


かつてのわたしなら、このガラスの破片に怯え、耳を塞いで泣いていただろう。 だが、今のわたしは違う。


この部屋で繰り広げられる滑稽な大騒ぎは、個人の道徳的欠陥による悲劇ではない。

誰もが自らの内なる不安を誤魔化すために、他者をスケープゴートにし、事実を歪め、大義名分(正義)の衣をまとって己のルサンチマンを満たしているに過ぎないのだ。

この評定所という密室は、承認のアルゴリズムに支配された現代社会そのものの縮図(アレゴリー)である。


目を開ける。 代表はまだ暴れており、パイプユニッシュは「党勢拡大!」と泣き叫んでいる。


わたしは懐から矢立を取り出し、静かに帳面を開いた。 もはや彼らを恐れる必要はない。彼らを安易な善悪の二元論で裁くことなど、意味がないのだから。


わたしがすべきことはただ一つ。

この構造的虚偽の真ん中に座り、倫理的緊張感を保ちながら、悲しくも滑稽な「システムに要請されたからくり人形たち」の舞踏を、ただ冷徹に記録し続けること。


「さあ、存分に踊りなさい……」


わたしは誰にも聞こえない声で呟き、筆を走らせた。 障子の外では、新しい時代を知らせる瓦版屋の鈴の音が、空虚に鳴り響いていた。


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