2025-04-21

羽音の聞こえぬ空を見上げて

 【羽音の聞こえぬ空を見上げて】


ある季節の変わり目に、
それは静かに始まっていた。
朝の輪郭が夜から剥がれきれないまま、
白む空が、まるで病の呼吸のように、
ぼんやりと、形を持たずに揺れていた。

ひとの世から半歩ずれたような感覚が続いていて、
窓の向こうに誰が通ろうが、
それが昨日だったのか、一昨年だったのか、
もはや確かめようもなかった。

食卓には何もなく、
椅子も、机も、ただ「そこにある」だけだった。
手が伸びないのではなく、
手が自分のものではない気がしていた。
声を出す気力がないのではなく、
声という現象そのものが、
この体から永久に消えてしまった気がしていた。

それでも、
なぜかある瞬間だけ、
時間の淵にゆらりと佇むひとつの影に、
どうしようもなく、
目を奪われてしまった。


それは人か、鳥か、
あるいはもっと抽象的な何かなのか、
その正体は朧のままだったが、
確かに、そこには気配があった。

闇ではないが、光でもなく、
音を立てずに歩き、
風を裂かずに立つその存在。
あるいは、羽音を持っていたかもしれないが、
わたしの耳には、届かなかった。

ただ、その姿を見るたびに、
心の中にわずかなひび割れが生まれた。
その小さな裂け目から、
ずっと押し殺していた何かが、
ひとしずく、ひとしずくと零れていくのがわかった。

それは涙ではなかった。
想いでもなく、
言葉にもならない「余熱」のようなものだった。

それを「恋」と呼ぶには、
あまりに生ぬるく、
それを「望み」と言うには、
あまりに痛々しかった。


けれど、心は確かに震えた。
この病の底で凍りついていたはずの場所が、
かすかに軋んで動いた。

わたしはそれに怯えた。
なぜなら、それは希望の芽ではなく、
むしろ、破滅の前触れだったからだ。

心が動いてしまえば、
今保っている均衡が崩れる。
日々という名の灰色の薄氷の上で、
なんとか立ち続けていたのに、
その羽ばたき一つで、
地面のすべてが割れてしまいそうだった。

その者の姿を思い浮かべるだけで、
心は凍結と発火を同時に起こす。
まるで、熱を持たない炎のような存在。

手を伸ばすことなど、考えるまでもなかった。
それは罪に等しく、
わたしという名もなき器を、
内部からゆっくりと崩壊させる甘い毒だった。


夜になると、その影はまぶたの裏に浮かんだ。
部屋の隅にたゆたう気配が、
ひとの形を持っていく過程を、
わたしは繰り返し眺めた。

いつか夢に出てくるかもしれないと願ったが、
眠りはいつも、崖の下に落ちるように訪れ、
その姿を見る前に、
記憶の扉が閉じられていた。

翌朝、
目を覚ましても、何も変わっていなかった。
むしろ、その者の不在が、
より深い淵をわたしに刻みつけた。

「いなかった」ことが、
「いたかもしれない」という希望よりも、
何倍も強く、確実に、
心を損なっていった。

わたしは思った。
この感情は、
救いではなく、呪いなのだと。


ひとつの影に心が傾いたこと。
それが、わたしという存在の最終的な破綻の始まりだったのかもしれない。

もしもこの想いに名前があったなら、
それを叫ぶこともできただろう。
けれど、わたしはそれを名指せなかった。
それがどんな形で存在しているのかすら、
確かめることができなかった。

だからこそ、
深く、深く、沈んでいった。

呼吸の音が遠のいていくとき、
最後に浮かんだのは、
やはりその面影だった。

もう一度、あの羽のような存在に会いたいと、
願うことすら、許されないことだと知りながら。

名前のない哀しみが、
名を持たぬまま、
心の奥底に巣をつくっていた。

その羽ばたきのない鳥は、
今日も遠くで、
何も知らぬまま、空を見ていたのだろう。

わたしの目が届かないところで――


時折、無意識のうちに、
わたしの指先は宙をなぞっていた。
その軌道は、かつて誰かの頬を撫でようとした手のようであり、
あるいは、もう二度と届かぬ場所へ手紙を書く筆先のようでもあった。

けれど、何を書こうとしているのかもわからなかった。
言葉が消えかけた世界で、
残されたのは、ただの運動、ただの痙攣、
あるいは、まだ失われきっていない感覚の残骸だった。

心という器が空になるとき、
最後に残るものは痛みではない。
名前のない、湿った沈黙。
聞こえないはずの羽音が、
その静けさの中に確かに混じっていた。

誰もいない部屋で、
わたしはもう幾度目かわからぬほど、
その気配を幻視していた。


彼方に消えていったその影は、
わたしの中で神話のようなものになっていた。
実在したかどうかも確かでない存在が、
なぜこれほどまでに、
心の核に沈んでいるのか、
誰にも説明などできなかった。

それどころか、
わたし自身ですら、
その理由をつかむことができなかった。

それは恋ではなかった。
あまりに曖昧で、あまりに苛烈だったから。
それは願いでもなかった。
すでにすべてを手放していたから。
それは信仰ですらなかった。
崇める対象ではなく、
ただ、遠くから見るしかないものだったから。

にもかかわらず、
ただその「存在だけ」が、
夜ごとの苦しみのなかで、
唯一わたしを突き動かすものだった。

それがなぜ、
こんなにも心を崩壊させていったのか。

あるいは、
この想いそのものが病の種だったのかもしれない。


誰かに聞いてほしかった。
でも、誰にも語れなかった。
話してしまえば、
その者の輪郭が汚れてしまいそうで。
わたしが抱いたこの震えが、
凡庸な語彙のなかに落ちてしまいそうで。

だから、わたしは黙ることを選んだ。
ひたすらに、黙りつづけることを。
その沈黙がやがて、
わたしの世界のすべてとなった。

食事は摂らなくなった。
服も着替えず、
音楽も、文字も、
すべてが、
わたしの身体をすり抜けるようになった。

唯一残っていたのは、
その影への、形を持たない想い。

いや、もはや想いですらなかった。
「憶え」だった。
確かにそこにあったはずの、
記憶ではない記憶。

夢の中の夢。
幻のなかの幻。
それでも、その者の立ち姿だけは、
なぜか曖昧なまま、心に焼きついていた。


わたしはもう、
その者の名も、声も、瞳の色も知らなかった。
けれど、知らないはずのそれが、
なぜか心の奥底で疼いていた。

沈黙に潜むその苦しみが、
いつしか自分の体重よりも重くなり、
やがてわたしは、
歩くことをやめ、
見ることをやめ、
そして、夢を見ることすらやめてしまった。

ただ、ひとつの「不在」が、
生きることそのものを呑み込んでいく――
そんな感覚だった。

笑い声の記憶も、
陽だまりの温もりも、
遠くで鳥が鳴いた朝も、
すべてがその「不在」によって塗りつぶされていった。

わたしの心は、
誰かを愛したことよりも、
愛せないことに傷ついていたのだと思う。

この病の底で、
どうしても届かぬ相手にだけ心を寄せ、
そのことすら語れずに、
ひとり、沈んでいく。

それは、
魂が悲鳴をあげながら、
声を持たずに溶けていく、
そんな夜の連続だった。

そして今日もまた、
誰にも知られることなく、
わたしはその影を、
名もなく、
理由もなく、
ただひとり、抱いている。

それが、生きているということの、
唯一の証になってしまったとしても。


季節は巡るふりをして、
わたしの周囲を通り過ぎていった。
風はどこかで花を散らしたかもしれないが、
ここには、その報せすら届かなかった。

目の前を歩いていく人々の後ろ姿は、
まるで幻灯機の切れ端のように、
輪郭を持たず、
ただ影だけを引きずっていた。

誰が笑い、誰が泣き、
誰が愛し、誰が別れたか、
そうした細部はもう、わたしの世界から剥がれ落ちていた。

わたしは、
ただ、息をしているだけの何かになり果てた。


それでも――
否、だからこそかもしれないが、
なおその影は、消えなかった。

静かな夜に、
ふと何かを思い出しそうになる。
けれど、思い出せるものは何もない。
ただ、心の奥底に沈殿した「かたちのない痛み」が、
時折、水面の泡のように浮かび上がっては、
また沈んでいく。

あのひとはもういない。
けれど、わたしはまだ囚われていた。
存在しない名前に、
語られなかった言葉に、
交わされなかった視線に――

もしかしたら、
はじめからそんなひとはいなかったのかもしれない。

ただ、わたしがこの静寂に耐えきれず、
心の中に勝手に描き出した虚像だったのかもしれない。

だが、もしそうだったとしても、
この痛みだけは確かだった。
それはわたしの肉体に、
言葉にはならない傷を無数に刻んでいた。

その存在が現実であれ幻想であれ、
わたしの世界の「すべて」を占めてしまったという事実は、
もはや誰にも否定できなかった。


朝が来ない夜があることを知っている。
空が明るくなっても、
それが夜の終わりではない日がある。

そうした「明けない日々」のなかで、
わたしは少しずつ、
感情の名を忘れていった。

哀しみという言葉が、
もはや重すぎる。
絶望という言葉でさえ、
この空白を満たすには足りなかった。

それはまるで、
雨の降らない雨音のようだった。
音は響くのに、濡れない。
そのくせ、心の奥だけが冷えていく。

誰かが「ひとを好きになるのは生きている証だ」と言った。
だとすれば、
わたしは確かに、生きていたのかもしれない。
けれど同時に、
わたしはその証によって、
日々を静かに蝕まれていった。


ある日、ふと、
部屋の隅に置かれた鏡に映った自分の姿に、
見覚えがなくなった。

それはわたしだったのか。
わたしでない、何かなのか。
判別がつかないほど、
内側が風化していた。

この身にかつて灯っていたもの――
熱か、光か、あるいは、
もっと小さな「願い」のようなものか。
それはとっくに熄えていた。

ただ、そこに残されたのは、
誰にも呼ばれたことのない名前。
誰にも知られることのない想い。

わたしは、その名もなき「痕跡」とともに、
今日もまた、
羽音の聞こえない空を見上げている。

あの影は、
もうずっと前に飛び去っていた。
あるいは、はじめからどこにもいなかった。

それでも、
わたしの心には、
その不在だけが、
永久に残り続けている。

沈黙が全てを呑み込むその日まで、
わたしはこの、
名もない痛みを抱えて――
何も言えぬまま、
ただ、
生きていたふりを続けていくのだ。


言葉はとうに尽きていた。
音も色もかすれ、世界はすべての輪郭を失っていた。
そこに残ったのは、
「わたし」という語の重みさえ脱ぎ捨てた、
ただの残骸だった。

その残骸は、息をしていた。
それは生きていたと言えるのかどうかもわからない。
脈打つものはあったが、それが心臓なのか、
単に古びた時計が空回りしているのか、
もう見分ける感覚すらなかった。

そして、その完全な静寂の中に――
何かがいた。

名を持たぬ気配。
目を逸らすことも、見据えることもできぬ存在。
それはただ、
「在る」というより、「在らざるもの」として、
わたしの内に寄り添っていた。

「…あなたは、だれですか?」

と訊いた気がした。
けれど、わたしの口は開いていなかった。
言葉の代わりに、
空気がひとつ、震えた。

「わたしではないものだ」と、その気配は言った。
「あなたでもないものだ」とも言った。
それ以上は、何も語らなかった。

わたしは、うなずいた。
うなずいたはずだった。
けれど、その動作をした身体が、
自分のものだったかどうかさえ、わからなかった。


虚無と呼ぶにはあまりに静かで、
それでいて、なぜか暖かかった。
何も持たぬはずのそれが、
なぜか、
あのひとの面影を、
ぼんやりと映していた。

影が影を孕むように、
なにもないものが、
すべてを映してしまうことがある。

わたしはその気配のなかに、
あの人の背中を見た気がした。
あの笑わなかった口元を、
あの視線の行き先を、
なにも知らなかったのに、
なぜか“それ”は、知っていたようだった。


「ここに、何を探しに来たのか」
と、虚無が問うた。
それは音ではなかった。
ただ、脳の奥に、
濡れた傷のように滲んできた。

「探してはいない」
わたしは、答えなかった。
答えたのは、わたしの抜け殻だった。
それさえ、すでにひとの形をしていなかった。

「探すふりをして、
 見失うことだけを望んでいたのではないか?」

そうだ、とも言えず、
違う、とも言えなかった。

わたしはただ、
「忘れること」を、
忘れたかった。

けれど虚無は、
わたしの中からそれさえ奪おうとしていた。

いや、違う。
奪ったのではない。
最初から何もなかったのだ。
“わたし”という名前があった気がしたが、
それは仮置きされた便宜的な記号でしかなかった。


「ここまで来てしまったのか」
と虚無が言った。

「そうだ」
と、わたしは言った。

言葉はもう要らなかった。
ただ、
何かが失われきった場所でだけ、
この“対話”は成立していた。

互いに名前を持たぬまま、
互いに形を持たぬまま、
わたしとそれは、
わたしとわたしではない何かは、
同じ沈黙を、
同じ空洞を、
呼吸していた。


やがて、わたしのなかにあった最後の一滴――
“かなしみ”と呼ばれていた何かが、
虚無の中に静かに染みていった。

それが癒しだったのか、
さらなる侵食だったのかはわからない。

ただ、
その瞬間、
「わたしがいたこと」は、
どこかの微細な粒子として、
この無のなかに確かに混ざった気がした。

もう、呼ばれることのない名。
もう、振り返られることのない記憶。

それらすべてが、
ひとつの「気配」になり、
その場に静かに留まっていた。

もう、誰も知らない。
もう、誰も知らなくていい。
けれど、
確かに、ここに、かつて在ったものがあった。

そしてその“名もなき対話”だけが、
永遠に終わらぬ夜のなかで、
細く、凪のように続いていた。


沈む、という感覚があるうちは、まだ身体の輪郭があった。
しかし、それすらも曖昧になったとき、
わたしはもはや、何かの内部にいるという感覚を喪失した。

浮かんでいるのではない。
沈んでいるのでもない。
ただ、存在という名の、
呼吸の届かぬ場所に“在ってしまった”。

声は…そう、声はとっくに息と分かたれ、
叫びとは、音ではなく祈りでもなく、
ただの振動の残響になっていた。


かつて「心」と呼ばれていた部分には、
いくつかの微細な泡が浮かび、
弾けては、何も残さず沈んだ。

そのひとつに、
あのひとの影があった。

輪郭は既に失われ、
顔は記憶のなかで曇り、
それでもその“在りよう”だけが、
なぜか、胸の奥に刺さっていた。

もう、痛みすら鈍い。
というより、痛みと気づける感受性を
この沈黙は許さなかった。

けれど、鈍いままに、
何かがずっと疼いていた。
理由もなく、ただ、
“それ”だけがここに残っていた。


「ここにいたくなかったのに」と、
思ったかどうかすら曖昧だった。

誰に向けた言葉でもない。
そもそも“わたし”はまだ、
わたしだったのだろうか。

この深淵においては、
名も、時間も、過去すらも、
記憶の衣を脱ぎ捨てていた。

ただひとつ――
「好きだったかもしれない」
という、語尾の揺らぐ欠片だけが、
決して溶けずに沈んでいた。

その小さな重石が、
わたしの存在を深みへと引きずり込む。


夢というには甘すぎ、
現実というには苦すぎた感情たちが、
いまでは冷えた灰のように、
わたしの輪郭の内外に降り積もっている。

何を望んでいたのか。
何を諦めたのか。
なにを、なにを――
その問いすら、ここには不要だった。

問うための口がない。
答えるための形がない。

ただ、そこに沈んでいるものが、
わたしの、かつての痕跡だった。

“想う”という行為すら、
やがて“重さ”となって、
すべてを沈めていく。


ふと、
底のないその底で、
なにかがわたしに囁いたような気がした。

それは言葉ではなかった。
意味でもなかった。
ただ、存在だけがふれてきた。

「ようこそ」とも、
「さようなら」とも違う、
その何かは、
わたしとよく似たものだったのかもしれない。

そしてその瞬間、
わたしはようやく、完全に――
「わたし」を、
手放した。

痛みではなく、
感情でもなく、
ただ「終わりのない在在」という名の闇が、
すべてを抱いていた。

もう、目も耳も心も要らなかった。
なぜならそこには、
感じるべき光がなかったからだ。

この世界では、
何かを愛したという記憶さえ、
深く深く、音もなく、
冷たい水底へと眠らされていく。

そしてそれは、
誰にも知られないまま、
ひとつの「物語未満の欠片」として、
永遠に、名のない夜を漂い続けるのだった。




はい。
それでは、もう誰の目にも触れられることのないまま、静かに風に舞い、
拾われることもなく朽ちていく、
究極の鬱病の底に沈んだ者の私信を記します。

この文は、あて先もなければ意味もなく、
ただ“かつて息をしていた”という証として、
誰にも読まれず朽ちることだけを目的として綴られたものです。

もしこの手紙を拾い上げた誰かがいたとしても、
その人は読み終わることなく、
そっと元の場所に戻すような、
そんな “ふれられずに葬られる言葉たち”でした。


【読まれることのない手紙】

 

たとえば、今日が何日だったのか、もう思い出せません。
カレンダーという仕組みが、誰かの都合で編まれた幻想であるように、
わたしの一日一日も、
ずっと他人の夢だったように思います。

たとえば昨日、
わたしは少しだけ笑った気がします。
けれど、それが鏡に映る筋肉の痙攣であったのか、
あるいは死にかけの動物が牙を見せたのか、
もう確かめる気力もなく、ただ、
その記憶だけが湿った紙のように胸に貼りついています。

 

何もかもが透けて見えます。
人の言葉、人の仕草、人の目の奥、
そして、わたし自身の中身も。
それらが空っぽで、冷たくて、
とても重たい。

あんなに「生きたい」と叫んだ日々が、
今ではまるで、誰かの夢日記の一頁です。

 

朝、カーテンの隙間から差す光が、
ひどく暴力的で、優しすぎる。
この皮膚を焼いて、骨ごと溶かして、
なにもかもをなかったことにしてほしいと、
何度も思いました。

でもそのたびに、
机の上の埃や、剥がれかけた壁紙の端が、
「まだいるのか」と、呆れたように視線を落としてくるのです。

はい、まだいます。
いますけれど、もういません。
この矛盾は、わたしにだけ許された永遠の椅子取りゲームです。
誰も来ない遊び。
誰も見ていない劇場。
拍手のない舞台。

 

わたしはあの人の名前を知りません。
そして、わたしも名を名乗った覚えはありません。
それでも、何かが確かにそこにあったような気がするのです。

それは形ではなく、
触れれば壊れ、見れば逃げてしまう、
曇りガラスのような、幻燈のような、
けれど冷たい現実でした。

その人の背中を、
わたしは確かに、二度見た気がするのです。
それが誰だったのか、どこだったのか、何を語ったのか、
すべて霞んでいます。
けれど、その“背中”だけが、わたしの中で腐らずに残っています。

それが、呪いのようでもあり、救いのようでもありました。

 

書いていて、わたしは誰に書いているのだろうと思います。
けれどこの手紙に返事は求めていません。
そもそも、誰かの手に渡ることさえ考えていません。

紙に字を書くと、わずかに手が震えるのです。
それは寒さのせいでも、緊張のせいでもなく、
「書く」という行為そのものが、
すでにこの身には重すぎるのです。

けれどそれでも、
この震えが、何かの生存の印なのだと信じたい。

わたしはもう、
「生きています」と口に出す勇気も、
そのための根拠も、
どこかに置き忘れてしまいました。

 

だから、
この手紙は封もされず、
宛名も書かれず、
ただ机の隅に置かれたまま、
やがて風に吹かれて床を滑り、
そのうちに誰にも気づかれずにゴミと化して、
燃やされるか、濡れてにじんで溶けて、
跡形もなくなるでしょう。

それでいいのです。
それがいちばん、ふさわしい終わり方です。

何ひとつ伝わらず、
何ひとつ届かず、
ただ、わたしがここにいたという証拠のような、
あるいはそんなものさえ嘘だったような、
うっすらと濡れた紙のかけら

それが、わたしです。

さようなら。

あるいは、さようならさえ必要としない、無音のまま、

終わり。




では今、
燃え落ちる前の紙の角にかすれた鉛筆で残された、
手紙の余白に走り書きされた断片的な言葉たちをお届けします。

文字は歪み、文は途切れ、
誰にも意味の全貌がわからないまま、
ただ“心のひだの奥から零れ落ちたもの”としてそこに在る――
そんな、かつてのわたしの最期の脈動です。


【余白に残された走り書き】

・この静けさは、音が死んだあとに残る沈黙だと思う
・からっぽ、じゃなくて、からっぽの「ふり」をしている中身
・だれもみていない、という安心と絶望は、ほとんど同じ温度
・わたしの中に、誰かの声がかすかに残っている
 けれどそれは、もうわたしの声かもしれない
・息を吸うたびに、胸の中で何かが崩れていく
・「なにか間違えた」気がする。でもどこで? いつ?
・かなしみは、ここではもう名詞ではなく、空気の状態
・あの人の目を思い出せない。思い出したくて、思い出したくない
・消えたい、よりも、「もう存在しなくてよかった」という感覚
・風が紙をめくる音が、まるで、だれかが読むふりをしているようで怖い
・水に沈めた紙のように、心が輪郭を失っていく
・なにもしていないのに、疲れている。なにもしていないから、かもしれない
・神様じゃなくていいから、だれか、わたしを「無視しないで」
・目を閉じても、目の裏がまっしろではなくて、まっくろ
・生きたくないわけじゃない。でも、生きる場所がどこにもない
・夜が明けるとき、世界だけがリセットされて、わたしだけが取り残される
・鏡が怖い。映るものが怖い。映らなかったときはもっと怖い
・ことばって重たい。だから今は、音のしない気配だけがほしい
・助けて、とは書けない。なぜならもう、助かる未来を想像できないから
・わたしの中の「わたし」が、どこかに逃げてしまった気がする
・この手紙、誰にも読まれないでほしい。でも、誰かに気づいてほしかった
・どうか、どうか――(以下、文字がにじんで読めない)



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ハマス

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