タイトル:
「死はどこから来たのか?――神話が語る“人が死ぬ理由”」
第1章:人はなぜ死ぬのかという永遠の問い
「なぜ人は死ぬのか?」という問いは、人類にとって最も根源的な問いのひとつです。人間が自らの死を意識できる唯一の存在であるということは、文明が誕生する以前からこの問いが心の中に根差していたことを意味します。科学的な答えがまだ存在しない時代、人々はこの問いに「神話」というかたちで答えを出そうとしてきました。
神話とは単なる空想話ではありません。そこには、宇宙や自然、そして人間の存在そのものの意味を象徴的に描き出す、深い文化的洞察が込められています。世界中の神話を調べたイギリスの人類学者J.G.フレイザーは、こうした「人はなぜ死ぬのか」という疑問に対する神話的な回答を四つのタイプに分類しました。
第2章:「二人の使者」――伝言ゲームの悲劇
最初に紹介するのは「二人の使者」という類型です。これは、神が「人間は死なない」と伝えるよう、ゆっくり動くカメレオンに命じたところから始まります。しかし、のんびり屋のカメレオンは途中で道草を食い、別の素早い使者――トカゲが代わりに「人間は死ぬ」と先に伝えてしまいます。
この誤伝が運命を変えたのです。カメレオンが遅れて到着した時にはもう遅く、人々はトカゲの言葉を信じ、「人間は死ぬ」と決定づけてしまいました。
この物語が語るのは、伝達の遅れが人間の運命を左右したという寓話的教訓であり、また、真理は誰がいつどのように伝えるかで意味を変えてしまう、という深い哲学をも含んでいます。
第3章:「月の満ち欠け」――死と再生を誤解した兎
次の類型は「月の満ち欠け」にまつわる神話です。月は兎に「人間も月のように死んでもよみがえる」と伝えるよう命じますが、兎はそのメッセージを誤って「人は死んだら終わりだ」と伝えてしまいます。
月は激怒し、兎を棒で打った結果、兎の唇は割れてしまった。そして、兎はいまもなお、月の中を逃げ続けているという物語です。
ここでは、「再生のシンボル」である月と「誤伝」というテーマが融合し、人間が死ぬようになったのは誤った言葉によるものであったという印象的な物語が展開されます。兎の唇が割れているという自然の観察と結びつけたところに、この神話の具体的な力があります。
第4章:「ヘビとその抜け殻」――変化する命の拒絶
三番目は「ヘビとその抜け殻」に象徴される神話です。ある神話では、かつて人間は脱皮をして若返る存在でした。しかし、脱皮して若返った老婆を、孫娘が認識できなかったため、老婆は怒って脱皮をやめてしまいます。これが「人間の死」の始まりだというのです。
この神話の要点は、生命の循環的更新を断念したところに死が訪れたという点にあります。自然界の一部であるヘビが周期的に皮を脱ぎ捨てることと、「死なない存在」としての象徴が結びついている点が興味深いです。
第5章:「バナナと石」――選択の寓話
最後は「バナナ」の神話です。創造主が「不変な命」を象徴する石と、「一代限りの命」を象徴するバナナのどちらかを人間に与えるため、両者を提示します。人間は食べられるバナナを選んだために、命はバナナのように次世代に受け継がれ、自身は死ぬ存在になったとされます。
ここでは、物質的欲望や目先の利益が、永遠の命を捨てさせたという文明批判にも似た示唆があります。「命とは選び取った結果である」という観点が、極めて現代的な倫理性すら帯びています。
第6章:『古事記』にみる日本神話の死生観
もちろん、死の起源に関する神話は日本にもあります。その代表が『古事記』に登場する黄泉の国の物語です。イザナギは死んだ妻・イザナミに会うため黄泉の国へ赴きますが、禁を破ってイザナミの醜い姿を見てしまい、彼女の怒りを買います。最終的に二人は永遠に別れ、イザナミは「一日に千人を殺す」と宣言、イザナギは「一日に千五百人を産む」と対抗します。
この神話は、死が神聖で避けがたい現象であること、そして生と死がせめぎ合う営みとしてこの世に存在するという、深い日本的死生観を表しています。
第7章:死の神話は何を語るのか
ここまで見てきたように、死の起源に関する神話には大きく二つのパターンがあります。
-
偶然や誤解によって人が死ぬようになった(例:「二人の使者」「月の兎」)
-
選択や拒絶によって死が受け入れられた(例:「脱皮をやめた老婆」「バナナと石」)
いずれの神話も、共通して「本来は人間は死なない存在だった」という前提を持っています。言い換えれば、死というものは“例外”として語られているのです。だからこそ、「なぜ死ぬのか?」という問いは永遠の問いであり続けるのです。
第8章:現代の私たちにとっての「神話」とは
現代人は神話を迷信や童話のように扱いがちですが、それは誤解です。神話とは、その時代、その文化が向き合った最も根源的な人間の問題への回答だったのです。
「死とは何か」「生きるとは何か」――そうした問いに対して、科学が全ての答えを与えてくれるわけではありません。だからこそ私たちは今もなお、神話に耳を傾けることで、自分自身の死と生について、何か大切なことを学べるのではないでしょうか。
結びにかえて:人はなぜ死ぬのか
人間が「死ぬ存在」になったという神話的回答は、それ自体が我々の文化的想像力の証です。それは恐怖の物語であると同時に、生きるということの意味を逆照射する物語でもあります。
死を語ることは、生を問い直すことです。神話という鏡を通して、私たち一人ひとりが「死とともに生きる」知恵を得てゆけることを願って、この長い探求の旅を終えたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿