■プロローグ 夢のなかの名前
ときどき、夢を見る。
名前のない夢。
顔も、輪郭も、時間さえも曖昧で、ただひとつだけ──
遠くで私を呼ぶ声だけが、くり返し響いている。
けれど、その声が届く直前で、私はいつも目を覚ます。
まるで、どこかにいる「もう会えない誰か」を、夢のなかでも見失うように。
目が覚めたあとの朝は、きまって光が薄く感じる。
部屋のカーテン越しに差し込む陽の光も、どこか白々しく、熱を持たない。
私のなかには、ずっと昔から一つの欠けた場所があって、
そこには名前を呼ばなかった記憶が、静かに横たわっている。
会えなかった人のことを、
声にできなかった想いのことを、
私は今日もまた、黙ったまま、生きている。
■第一章 静かな子
私は、小さなころから静かな子だった。
赤ん坊の頃の私は、あまり泣かなかったらしい。
母は「育てやすかったわよ」と笑って言うけれど、それは「感情が表に出ない子だった」とも言える。
私自身、怒ったり、泣いたり、誰かを困らせたりした記憶があまりない。
かわりに、ずっとぼんやりと、風や天井や遠くの光を見つめていたように思う。
幼稚園では、砂場の端っこで一人遊びをしていた。
誰かが声をかけてくれても、どう返したらいいのかわからなかった。
笑えばいいのか、手を振ればいいのか。
どれも正解のようで、どれも嘘のようだった。
「なぎさちゃんって、おとなしいね」
「なんか、ちょっとへんな子じゃない?」
そんな声が耳に入るたび、私は透明になっていくような気がした。
空気のように、誰にも気づかれないままでいられたら、それは少しだけ楽だった。
小学校に上がってからも、私は相変わらず「静かな子」だった。
黒板の文字を写すのは好きだったけど、グループ活動や音読の時間は苦手だった。
自分の声が、教室に浮いてしまうような気がしてならなかった。
ひとりでいる時間が好きだった。
けれど、孤独が好きだったわけじゃない。
誰かと一緒にいたいと思ったことだって、何度もある。
だけど、誰かといると疲れてしまうのだ。
息を合わせて、言葉を探して、微笑んで──
そのすべてが、私には少しだけ重かった。
母に連れられて、小児科の先生に相談したこともあった。
先生は「気質の問題でしょう」と言って、少し笑った。
その言葉が、私を決定づけたような気がする。
──気質。つまり、これは私の「つくり」なのだと。
そうやって私は、静かな子として、生きることを選んだ。
選んだというより、ただ、そう在るしかなかったのかもしれない。
でも──
そんな私のなかに、一度だけ光が射しこんだことがある。
たったひと夏、ほんのわずかに、世界が色づいた瞬間。
それが、あの山の家で出会った彼だった。
■第二章 山の家
夏休みがはじまってすぐ、母が言った。
「今年はおばあちゃんの家に行くからね。茨城の山のほう。覚えてる?」
私は小さくうなずいた。けれど、ほんとうは、よく覚えていなかった。
小さなころに一度だけ連れて行かれた記憶があるけれど、それは写真のなかの光景のようにおぼろげだった。
本家──それは母の実家筋の古い家系で、田畑を代々守ってきた家だという。
今はもう、年老いた伯母と、そのまた伯母──つまり私にとっては祖母にあたる人たちだけが住んでいるらしい。
私は電車の窓から流れていく田んぼを見ながら、少しだけ胸がざわつくのを感じていた。
知らない場所。知らない人たち。
でも、知らない自分に出会えるかもしれない場所。
そんな予感が、どこかにあった。
本家は、駅から車で三十分ほど山を登ったところにあった。
木々の濃い緑に囲まれ、蝉の声が途切れなく耳に押し寄せてくる。
白い漆喰の壁に、瓦屋根。
玄関に続く石畳は、湿気を含んで冷たかった。
「久しぶりねえ、なぎさちゃん」
迎えてくれた伯母は、笑顔の奥にどこか懐かしさをたたえていた。
「もう高校生? きれいになったわねえ」
そう言われても、私はただ曖昧に笑って、足元を見つめた。
家の中は、ひんやりとした空気に包まれていた。
畳の匂い、木のきしむ音、天井の高い暗がり。
そのすべてが、私には新鮮で、少しだけ怖かった。
その日の夕方、私はひとりで縁側に出た。
太陽が西の山に沈みかけ、空はゆっくりと赤く染まりつつあった。
手すりにもたれながら、私はただ、その色を見ていた。
そのとき、ふいに声がした。
「……こんばんは」
振り向くと、そこにひとりの男の子が立っていた。
年は私より少し上に見えた。
長身で、白いシャツを着ていて、髪が少しだけ乱れていた。
「あ、俺、嘉也。たぶん、なぎさちゃんとは『はとこ』になるのかな。よくわかんないけど」
そう言って、彼は笑った。
私は、うまく返事ができなかった。
けれど、彼のその笑顔が、なぜだかわからないけれど、とても懐かしいものに思えた。
「となり、いい?」
彼は私の隣に座ると、何も言わず、ただ夕焼けを見つめた。
しばらく沈黙がつづいたあと、彼がぽつりとつぶやいた。
「夏の終わりの空って、なんでこんなにさびしくなるんだろうね」
私は答えられなかった。
けれど、その言葉が、胸のどこかにやさしく染みこんでいくのを感じていた。
──この人と、話してみたい。
生まれて初めて、そう思った気がする。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
障子の向こうで鳴く虫の声を聞きながら、嘉也という名前を何度も心のなかでつぶやいていた。
まるで魔法の呪文のように、彼の名前が、私の内側の暗闇に火を灯していく気がした。
■第三章 嘉也
次の日も、その次の日も、嘉也は当たり前のように、私のそばにいた。
といっても、私たちは特別なことをしたわけではない。
観光地に出かけるでもなく、写真を撮るでもなく──
ただ、庭の縁側に座って、風の通り道を感じながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
「なぎさちゃん、さ、考えごと多そうだよね」
ある午後、嘉也がぽつりと言った。
私は一瞬、ドキリとした。
言い当てられたような気がして、恥ずかしかった。けれど、うなずくしかなかった。
「……うん。いろいろ、考えすぎちゃう」
「俺も、そうだった。今も、ちょっとそうかも」
嘉也の言葉は、まるで湯船の中に沈めた指先みたいに、じんわりと染みてくる。
圧迫しないのに、確かに届く。
「たとえば?」
と、私は勇気を出して聞いた。
すると嘉也は、ちょっと目を細めてから、空を見上げて答えた。
「歩いてるとき、いまこの道を誰かも歩いたかな、とか考える」
「この石を踏んだ足音が、どこまで響いたのかな、とか」
「この空気は、何年前の光と同じ粒を含んでるのかな、とか──」
そのとき、胸の奥で、何かがふるえた。
私はその人と、似ている。
もしかすると、世界を同じ距離で眺めているのかもしれない──そんな予感がした。
別の日。ふたりで裏山の沢まで歩いた。
沢の水は澄んでいて、小さな魚が群れを成していた。
嘉也はしゃがみこんで、石を指さした。
「見て。これ、苔の生え方が妙に左右対称じゃない?」
私は笑ってしまった。
そんなところを気にする人、はじめてだった。
でも、笑ったあとの胸の中が、妙にあたたかかった。
帰り道、嘉也が言った。
「たぶん、君って、ずっと自分の居場所を探してきたんじゃない?」
「……うん」
私はすぐに頷けた。
それは誰にも言ったことのない感覚だったのに、彼には伝わると思えた。
「誰かのそばにいたいって思っても、そこにいると疲れちゃう。でも、ひとりでいると、どこか寂しい。そんな感じ」
私は、黙ってうなずいた。
「うん。そう」
「でも、俺はね、いまは少し楽」
「どうして?」
「君が、ちゃんと黙ってくれるから」
不思議な言い方だと思った。
でも、それはまるで、私の心に合わせて鍵を開けてくれるような言葉だった。
私たちは、たくさんを語り合ったわけではない。
だけど、その沈黙の中にこそ、私たちの呼吸は溶け合っていた。
夜。布団に横たわって目を閉じると、嘉也の声が、頭の奥で繰り返し再生された。
「君って、ちゃんと黙ってくれるから」
それは、これまでの人生で一度も得たことのなかった肯定だった。
この夏だけは、忘れたくない。
この時間だけは、壊したくない。
その想いが、静かに、でも確かに、胸の奥で育っていた。
私は──
この人に、恋をしていた。
■第四章 さよならを言わないまま
八月の終わりは、いつも突然やってくる。
空気がすっと冷たくなって、夜の虫の声が濃くなる。
蝉の鳴き声がすこしずつ遠ざかり、太陽の角度が変わっていく。
私はそれが嫌いだった。
季節が変わってしまうことが、まるで自分の居場所を剥がされるようで怖かった。
でも、この年の夏の終わりは、いつも以上に怖かった。
それは、嘉也との時間が終わってしまうという予感が、毎朝、喉の奥にひっかかっていたから。
「あと何日?」
そう聞いたのは、ある夕方だった。
縁側で麦茶を飲んでいた私の隣で、嘉也が静かに指を折って言った。
「三日くらいかな。大学が始まるし、バイトもあるし」
「そっか」
私はそれ以上、何も言えなかった。
彼を引き止める資格なんてない。
でも、それでも──もっと一緒にいたかった。
その晩、私は眠れなかった。
布団に潜って、ひとりで息を殺した。
喉の奥が痛くて、目を閉じても涙がこぼれそうになった。
ねえ、嘉也くん。
ねえ、呼んでもいい?
ねえ、あなたを、好きになってしまった。
そんなふうに、言ってもいい?
……でも、私にはできなかった。
声にしてしまえば、何かが壊れてしまうような気がして。
だから私は、何も言わないまま朝を迎えた。
最終日、駅までの道は陽が強くて、影が濃かった。
嘉也の後ろ姿が、やけに遠くに感じた。
駅のホームで「またね」と言われて、私は頷いたけれど、
ほんとうは、「また」はないのかもしれないと思っていた。
列車が動き出す。
私はホームの端まで歩いて、最後まで彼の姿を見送った。
手は、振らなかった。
名前も、呼ばなかった。
ただ、胸の中でそっと──何度もつぶやいた。
嘉也くん、嘉也くん、嘉也くん。
声にならないその名が、私の中でいちばん大切な響きになった。
その夜、私は夢を見た。
どこか遠い場所で、誰かの背中を追いかける夢だった。
何度呼んでも、振り返ってはくれなかった。
目が覚めたとき、涙が頬をつたっていた。
それなのに、胸の奥は、なぜかあたたかかった。
もしかしたら、これはきっと──
最初で最後の、私だけの恋だったのだと思った。
■第五章 翌年の夏
もう一度、あの夏が来れば──
そう思いながら、私は春を過ごし、初夏を越え、梅雨の重さに肩を縮めた。
そして、また夏が来た。
部活の仲間たちが海だのフェスだのと浮かれているのを横目に、私は今年もまた、ひとりで茨城の本家へ向かった。
去年と同じ駅、同じ風、同じ景色。
本家の門をくぐったとき、蝉の声が胸にぶつかってきた。
変わっていない──
そう思ったのに、玄関を開けて伯母の顔を見た瞬間、なにかが少しずつずれているのに気がついた。
「いらっしゃい、なぎさちゃん。ひとりで来てえらいわね」
伯母は去年と同じようにやさしく笑った。
だけど、その笑顔のなかに、ほんのわずかな“ごまかし”のような影が見えた。
私は、思い切って聞いた。
「嘉也くんは……今年は、来ないんですか?」
そのときの伯母の手の動きが、ふと止まったのを私は見逃さなかった。
彼女はお茶を入れる手を再び動かしながら、こう言った。
「今年は……来ないみたいよ。忙しいんでしょう、大学とか……」
それは、きっと本当だったのだろう。
でも、それ以上でも、それ以下でもない答えだった。
私はうなずいた。
それ以外に、何も言えなかった。
ひとりで沢まで歩いた。
去年、嘉也と並んで石を飛び越えた場所。
指差して笑った苔石。
並んで座った木の根元。
すべてが、まるでそのまま残っていた。
でも、彼の気配だけが消えていた。
空気の密度が違っていた。
私はしゃがみこみ、流れる水をずっと見ていた。
小さな魚が群れを成しているのを見ながら、言葉にならない不安が胸にたまっていった。
あの時間は──幻だったんだろうか。
もともと彼なんていなかったんだろうか。
そんなふうに、現実の記憶さえぐらつくような孤独が、私の中に広がっていた。
夜。虫の声が耳の奥で鳴っていた。
去年と同じ蚊帳、同じ布団、同じ天井。
けれど、私はひとりだった。
その夜、私は名を呼んだ。
小さな声で、部屋の中にそっと放った。
「嘉也くん……」
返事はなかった。
でも、その言葉が唇を通りすぎた瞬間、私の中で何かが確かに壊れていくのがわかった。
次の朝、私は何も言わずに帰ることにした。
伯母が「もう帰るの?」と驚いた顔をした。
でも、私は笑ってうなずいた。
これ以上ここにいても、何も戻ってこないことがわかっていたから。
列車の窓から見た山の稜線は、少しかすんでいた。
私は指先で、ガラスに名前を書くふりをした。
けれど、最後まで、それを文字にすることはできなかった。
それでも、私は信じていた。
来年の夏にはきっと──
彼は、またそこにいるはずだと。
そのときは、ちゃんと名前を呼ぼう。
ちゃんと、伝えよう。
そんなふうに、何度も自分に言い聞かせながら。
でも、そうして迎えた来年の夏も──
彼は、いなかった。
■第六章 時間のしじま
夏はまた、やってきた。
だけど、その夏も、嘉也はいなかった。
いないのが、あたりまえになってしまっていた。
本家の縁側に座ると、風が通り抜けていく。
蝉の声も、あの頃とは違うように感じられた。
時間の流れが止まったような、そんな静けさ。
高校生になった私は、学校でも家でも、どこかぽっかり穴が開いたままだった。
友達はいる。勉強もできる。成績は悪くなかった。
だけど、心の奥底は、凍りついていた。
誰かと笑っていても、私はその笑顔を全部、遠くから見ているだけだった。
居場所がなくて、空気に溶けていくような感覚。
それが、ますます私を孤独に沈めていった。
嘉也に会えないことを、誰にも言わなかった。
話したら、きっと変だと思われる。
私はただ、ひとりで抱えて、日々をやり過ごしていた。
夜、眠れなくなることが増えた。
胸が苦しくて、息が浅くなった。
頭の中の雑音が、止まらなかった。
病院に行く決心をしたのは、その頃だ。
診断は「自律神経失調症」。
理由ははっきりしないけれど、体がうまく調整できていないらしい。
薬をもらって、少しだけ症状が和らいだ気がした。
それでも、心の闇は深かった。
昼間は何とか笑えても、夜はひとりで苦しんだ。
「反復性鬱病性障害」という新しい言葉を聞いたのは、ずっと後のことだった。
私は社会に出て、仕事を始めた。
でも、いつも不安と焦りがつきまとい、体も心も疲れていった。
汗が勝手に流れることもあった。
眠れない夜も多かった。
医師から告げられたのは、「抑うつ神経症」という診断。
その後も治らず、やがて「反復性鬱病性障害」と診断名が変わった。
私は働けなくなった。
会社を辞め、障害年金を受けながら、ひっそりと生きている。
誰にも会わず、誰とも話さず、
ただ、静かに、時間のしじまに沈んでいる。
だけど、胸の奥底には、まだ、あの夏の光が小さくとも灯っている。
忘れられない人の名前が、静かに繰り返されている。
たとえ会えなくても、もう二度と会えなくても、
私はその光を、抱きしめて生きていくのだと、どこかで思っている。
■第七章 消えた場所
いつの間にか、あの山奥の家は姿を消していた。
いや、正確には、私がそこに行けなくなったのだ。
老朽化した家は取り壊され、雑草に飲み込まれ、まるで何もなかったかのように風景から消えていった。
私はその知らせを、伯母から電話で聞いた。
声は淡々としていて、まるで遠い世界のことのようだった。
「なぎさちゃん、もうあの家はないのよ」
その言葉が、胸を深く刺した。
あの夏の日々、嘉也と過ごした縁側、沢の流れ、苔むした石。
どれも、記憶のなかだけに残されてしまう。
失われた場所を思うたび、胸が締めつけられた。
消えてしまったものに触れられない無力さ。
そこにあった温もりも、声も、もう手の中にはないことを知ってしまった喪失感。
私はよく夢を見る。
あの家がまだそこにあって、嘉也が笑いかけてくれる夢。
でも、朝が来るたびに、それは消えていく。
この世界に確かなものは少ない。
目に見えるものも、触れられるものも、ほんの一瞬で消えてしまう。
でも、私の心の中には、確かにあの夏の光が燃えている。
生まれつきの鬱っ気が私を縛りつけても、
会えなかった嘉也のことを想い続けても、
私は生きていくしかない。
忘れられない名前を胸に、
消えた場所の記憶を抱えて、
私はゆっくりと歩き続けるのだ。
■第八章 影のなかで
日々は静かに流れていく。
私の時間も、まるで水面に映る影のように、ゆらゆらと揺れていた。
障害年金を受け取り、ひとりで暮らす部屋は小さく、窓からは街の喧騒が遠く聞こえる。
だけど、私はそこにいても、どこか遠くにいるようだった。
体の中に重く沈む疲れと、頭の中をぐるぐる回る思考の渦。
眠れない夜は、暗闇のなかで嘉也の声を探した。
「君って、ちゃんと黙ってくれるから」
あの言葉が、繰り返し心を撫でる。
それは、かつて私を認めてくれた唯一の証のように感じられた。
会えなかった彼を想いながらも、
私は現実に縛られ、日々の苦しみと向き合っていた。
誰も知らない、誰にも話せない心の闇。
だけど、私はその闇の中に、微かな光を見出そうとしていた。
それは、あの夏の記憶の欠片。
それは、失われた場所の名残。
それは、決して消えない「光」だった。
■終幕 光のほうへ
もう二度と会えないことを、
私は知っている。
名前を呼べなかったことを、
悔やんでいる。
それでも私は、
歩き続ける。
闇に閉ざされそうな時も、
孤独に押しつぶされそうな時も、
胸の奥で灯る光を頼りに、
「光のほうへ」向かって、ゆっくりと。
愛しい人よ、あなたの声は遠くても、
私の中に確かに響いている。
ありがとう、さよなら、そしてさよなら。
それは悲しみだけじゃない。
生きることの証し。
私は、今日も、ここにいる。
季節は巡り、私はひとり、窓辺に座っていた。
遠い山の家の跡地はもうない。
しかし、心の底に沈んだ記憶は、まるで水面に映る月のように揺れながらも消えない。
夜の静けさに耳を澄ませば、嘉也の声がかすかに響く気がした。
それは幻かもしれない。けれど、私は信じたい。
人生は儚く、そして美しい。
どんなに遠く離れても、私たちは確かに繋がっていると。
目を閉じれば、あの夏の日の風景がやさしく蘇る。
苔むした石、流れる水の音、そして彼の笑顔。
過ぎ去った時間は戻らない。
けれど、その光が私を照らし続ける限り、私は歩き続けられる。
「光のほうへ」──そう、私はいつもそう願いながら。
部屋の明かりを落として、私は静かに窓辺に座った。
外では夏の虫たちが囁くように鳴いている。
その声に混じって、遠い山の風が、昔の記憶を運んでくる気がした。
幼い日の不安や孤独。
嘉也の優しい笑顔と声。
一緒に過ごした短い夏の日々。
それらはもう形としては存在しなくても、心のなかでは永遠に生きている。
涙が頬を伝うけれど、決して悲しみだけではなかった。
むしろ、それは静かな感謝の涙。
失われたものを抱きしめて、生きる強さの証。
明日も、私はこの光を頼りに歩き続ける。
どんな暗闇の中でも、光は必ず見つかると信じて。
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