灰色の夕暮れの教室で、私は黒板にチョークを走らせていた。
「中立とは、空白ではない。構えである。」
字を刻みながら、内心の苛立ちが滲み出るのを抑えられなかった。
学生たちは黙ってノートを取っていた。だが、一人だけ小さく息を吐く声がした。
加奈子だ。彼女は机に頬杖をつきながら、ぽつりと呟いた。
「でも先生……中立でいるのが一番安全じゃないですか?」
教室に薄い緊張が走った。私はチョークを止め、振り返る。
安全。そう、まさにその言葉が私を苛立たせる。
「安全のために沈黙を選ぶことが、中立じゃない。
それはただの回避よ。責任から、そして誰かの痛みから」
言葉を吐きながら、私自身が震えているのを感じた。
数日後。
旧友の佐伯と再会したのは、街角の小さな喫茶店だった。新聞記者として忙しい彼は、どこか疲れた目をしていた。
「お前は理想論を語れる立場でいいよな。俺たちは記事を書かなきゃいけない。どちらにも与さない“中立報道”が求められるんだ」
彼の声には、諦めとも正当化ともつかない響きがあった。
私は思わず笑った。乾いた、ひどく苦い笑いだった。
「真一、それは中立じゃない。空白だよ。
お前は誰の声を拾って、誰の声を削ってる?」
彼は目を伏せた。その沈黙が、答えだった。
さらに数週間後。
街頭で声を張り上げる田嶋透と出会った。
彼の目は燃えていた。
「沈黙は加担だ。中立を気取る奴は、結局は権力の味方になる!」
彼の激しさは、ときに私を突き放す。
だが彼の叫びは、私の胸の奥に居座る疑念をえぐり続けた。
「透、偏りすぎるのも危ういのよ」
そう言ったとき、彼はにらみつけ、しかし声を和らげた。
「偏らなきゃ見えない現実があるんだ」
季節は冬に移ろい、加奈子が私の研究室を訪ねてきた。
彼女の目には迷いがあった。
「先生……。友達がいじめられてるんです。でも私が声をあげたら、私まで狙われるかもしれなくて」
私はしばらく言葉を失った。
彼女の不安は、私が抱えている問題の縮図だった。
「加奈子。中立は“立場を持たないこと”じゃない。
自分の立場を自覚したうえで、どう責任を引き受けるかを選ぶことよ」
そのとき初めて、彼女は涙を見せた。
彼女の震える声が、私の胸を刺した。
「……じゃあ、私、友達の隣に立ちたい」
年の瀬。
佐伯が一本の記事を送ってきた。
弱者の声を丁寧に拾い、権力の歪みを真正面から書いた記事だった。
「これで記者生命は終わるかもな」
電話口の彼は苦笑していた。
だがその声は、どこか誇らしげでもあった。
そして新学期。
教室に立つ私は、再び黒板にチョークを走らせた。
「中立とは、責任を引き受ける構えである。」
その文字は、かつての空白を埋めるように、濃く、強く刻まれていた。
私は振り返る。
学生たちの顔には緊張と、そしてかすかな光が浮かんでいた。
その瞬間、私は確信した。
中立は沈黙ではない。
中立は、選択である。
そして私は、もう空白ではいない。
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