2025-09-02

中立という名の空白に

 灰色の夕暮れの教室で、私は黒板にチョークを走らせていた。

中立とは、空白ではない。構えである。

字を刻みながら、内心の苛立ちが滲み出るのを抑えられなかった。

学生たちは黙ってノートを取っていた。だが、一人だけ小さく息を吐く声がした。
加奈子だ。彼女は机に頬杖をつきながら、ぽつりと呟いた。

「でも先生……中立でいるのが一番安全じゃないですか?」

教室に薄い緊張が走った。私はチョークを止め、振り返る。
安全。そう、まさにその言葉が私を苛立たせる。

「安全のために沈黙を選ぶことが、中立じゃない。
それはただの回避よ。責任から、そして誰かの痛みから」

言葉を吐きながら、私自身が震えているのを感じた。


数日後。
旧友の佐伯と再会したのは、街角の小さな喫茶店だった。新聞記者として忙しい彼は、どこか疲れた目をしていた。

「お前は理想論を語れる立場でいいよな。俺たちは記事を書かなきゃいけない。どちらにも与さない“中立報道”が求められるんだ」

彼の声には、諦めとも正当化ともつかない響きがあった。
私は思わず笑った。乾いた、ひどく苦い笑いだった。

「真一、それは中立じゃない。空白だよ。
お前は誰の声を拾って、誰の声を削ってる?」

彼は目を伏せた。その沈黙が、答えだった。


さらに数週間後。
街頭で声を張り上げる田嶋透と出会った。
彼の目は燃えていた。

「沈黙は加担だ。中立を気取る奴は、結局は権力の味方になる!」

彼の激しさは、ときに私を突き放す。
だが彼の叫びは、私の胸の奥に居座る疑念をえぐり続けた。

「透、偏りすぎるのも危ういのよ」
そう言ったとき、彼はにらみつけ、しかし声を和らげた。

「偏らなきゃ見えない現実があるんだ」


季節は冬に移ろい、加奈子が私の研究室を訪ねてきた。
彼女の目には迷いがあった。

「先生……。友達がいじめられてるんです。でも私が声をあげたら、私まで狙われるかもしれなくて」

私はしばらく言葉を失った。
彼女の不安は、私が抱えている問題の縮図だった。

「加奈子。中立は“立場を持たないこと”じゃない。
自分の立場を自覚したうえで、どう責任を引き受けるかを選ぶことよ」

そのとき初めて、彼女は涙を見せた。
彼女の震える声が、私の胸を刺した。

「……じゃあ、私、友達の隣に立ちたい」


年の瀬。
佐伯が一本の記事を送ってきた。
弱者の声を丁寧に拾い、権力の歪みを真正面から書いた記事だった。

「これで記者生命は終わるかもな」
電話口の彼は苦笑していた。
だがその声は、どこか誇らしげでもあった。


そして新学期。
教室に立つ私は、再び黒板にチョークを走らせた。

中立とは、責任を引き受ける構えである。

その文字は、かつての空白を埋めるように、濃く、強く刻まれていた。

私は振り返る。
学生たちの顔には緊張と、そしてかすかな光が浮かんでいた。

その瞬間、私は確信した。
中立は沈黙ではない。
中立は、選択である。
そして私は、もう空白ではいない。

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