「ひぃぃっ!」
わたし、チ~サが悲鳴を上げた瞬間、耳元を鋭い風が切り裂いた。
背後の漆喰の壁に、西洋渡りの舶来水筒――通称『ペット・ボトル』が激突し、派手な音を立てて床に転がる。
「ワシの机の上に置いてあったはずのカステラが減っとるやないか! 誰や食うたんは! ええゆうてるんちゃうで!」
朝の八時。文明開化の足音がそこかしこで鳴り響く明治初期の帝都・東京。
ここは、とある路地裏に佇む由緒正しき蔵を間借りして作られた政治結社『にっぽんぽん・あさっての党』の本部である。
怒鳴り声を上げているのは、この党の代表だ。お金が大好きで、何かとすぐにペットボトルを投げてくる卑……ごほん、激情家のお方である。
「カステラを盗むやなんて、SFやで! 誰や! 出てこい!」
「だ、代表……わたしは食べてません! わたしはさっきから、ただ床の雑巾がけをしていただけで……」
臆病でおとなしいわたしが震え上がっていると、ふすまの奥から一人の男性がシュババッと滑り込んできた。彼こそ「カレーの本質🍛」。代表を命がけでエクストリーム擁護する恐るべき男だ。
「代表! 素晴らしい投擲フォームです! チ~サ君、君がそこにいたせいで代表の神聖なるペットボトルが壁に当たってしまったじゃないか!
ボクは命がけで代表を擁護する!
カステラが減ったのは、物理法則が代表の食欲に追いついていない証拠だ!」
「(どういう理屈……?)」
わたしの小さな心の声は、またしても豪快に開かれた襖の音にかき消された。
「今日もまきまき! 逆から読んでもまさきまき!」
異様なテンションで躍り出てきたのは、元・党の書生であり、先日、大坂の府議会だかの選挙に公認で出馬して見事に落選した『まきまき』さんだった。
さらに言うなら、彼女は旦那さんが飛脚に託した手紙(エックス・ポスト)がなぜか世間に出回ったことで正式にクビになったはずなのだ。なぜ堂々と党本部に顔を出しているのか。
「あ、あの……まきまきさん? あなたはクビに……」
「もっと叩いて! まきまきのMはドMのM!」
情緒が崩壊している。しかも、まきまきさんの顔をよく見ると、右の眉毛がきれいさっぱり消滅していた。
「まきまきさん……眉毛、どうしたんですか?」
「ああ、これ?
百文均一の店で買った安物の墨の筆(アイブロウ)を使ったら、反対側のぽんぽんするやつ(チップ)がどこかに弾け飛んじゃったのよ!
しかも夏の辻立ちで汗ですぐ消えるから、今は西洋の『2Bの鉛筆』でガリガリ描いてるの! 痛い! 痛い! でも事実しか言ってないのに悪口って言われるの!」
2Bの鉛筆で顔面を削っているから物理的に痛いのだと思う。
まきまきさんが一人でパニックになっていると、廊下から涼しい顔をしてジム総長が現れた。天然ボケで、口を開けば嘘ばかりつくおそろしい女性だ。
「あら。今日はその話ですか?」
「そうよ総長! アタシの瓦版(ポスター)! なんであんな、半目で歯を剥き出しにした醜い似顔絵を選んだのよ! 絶対に意図的だわ!」
まきまきさんの剣幕に、ジム総長は手元の茶碗を傾けながらしれっと答える。
「見た! アタシそれ見た!」
「えっ、ホントに選ぶところ見たの!?」
「見てないけど、見た!
こうなること何となく予測してたわ。特には驚かなかったわね。結果としてまきまきの行動で利しているのは対立候補よ」
見ていないのに適当な総括をしないでほしい。 まきまきさんは頭を抱えてシクシク泣き出した。
「わあぁぁぁん! これが岩月先生の草紙に書いてあった『女が女に向ける嫉妬』なのね! 娘がいやがる間違いだらけの愛なのよ! 理不尽な権力勾配だわ!」
「うるさい!静かにしろ!」
ドンッ!! 突然現れたピライさんが一言だけ怒鳴り散らし、また襖を強く閉めて去っていった。嵐のような人だ。
「ウキー! 瓦版の絵師は実は異国のスパイで、眉毛を消すことで日本を滅ぼそうとしてるウキ!(デマ) デコバカ!」
窓の外から、ま猿🐒が木の枝にぶら下がりながら完全なデマを叫び、またどこかへ飛び去っていった。
カオス。あまりにもカオスだ。これが我が国の未来を憂う者たちの集まりなのだろうか。
「代表! なにか言ってください!」
わたしがすがるように見ると、代表は懐のそろばんを弾きながらニヤニヤしていた。
「恋すれば何でもない距離やけど!」
「急にポエミー! 距離の話はしてません!!」
「ええゆうてるんちゃうで!
ワシには関係ない話や。ところでこの自慢の六百両した『木彫りの欄間(らんま)』、メルカリでなんぼで売れるかな……」
「明治時代にメルカリはないですし、党の財産を切り売りしないでください!」
わたしが泣きそうになっていると、さらに襖が開き、福井弁を操る偉そうな男、パイプユニッシュさんが堂々と胸を張って入ってきた。
「拙者、海の向こうの異人、トランプ大統領殿とぶっといパイプがあるんやざ!」
「あの、パイプユニッシュさん……そのパイプ、思いっきり泥と錆で詰まってますけど……」
「あっ、ほんとやざ! まったく通ってないざ! だが関係ない! 党勢拡大は間違いない! 政策で勝負じゃ!」
もう、ツッコミが追いつかない。 わたしは膝から崩れ落ちそうになった。しかし、そこで不意に、まきまきさんが真顔になってぽつりと呟いたのだ。
「でもね……わたし、代表のことは憎みきれないの」
「え?」
まきまきさんは遠くを見るような目で、六百両の欄間の向こうを見上げた。
「代表は昔、『探偵!夜の辻占(ナイトスクープ)』という瓦版の企画で、病で髪が抜けるお母さんが丸坊主になるという悲しい依頼を、たった一人で『絶対にやる!』って押し通したのよ。周りの絵師やスタッフが重すぎると言って全員逃げたのに……。あの怪物の底にある、人間としての深い慈悲……」
急に文芸的なトーンになった。 代表はバツが悪そうにそっぽを向き、手元のペットボトルをいじり始めた。
「……フン。あんなもん、ワシの才能からしたらSFやで。ええゆうてるんちゃうで」
「代表ォォォ!!」
カレーの本質が号泣しながら代表の足元にすがりついた。
「照れ隠し! まさに照れ隠しの暴言! この矛盾こそが代表のカリスマ! ボクは命がけで擁護するッ!!」
「うるさい! 静かにしろ!」(ピライさんが再び襖を開けて閉めた)
「……よし! 感動したから、畑でスナップエンドウ食べるね、まきまき!」
まきまきさんはコロッと表情を変え、縁側の外にある自然農法の畑へと飛び出していった。
わたしも慌てて後を追う。
「まきまきさん! 勝手に畑のものを食べちゃダメですよ!」
庭に出ると、モグラが掘り返した柔らかな土の上に、空豆やスナップエンドウが、まるで重力に逆らうように空に向かって鋭い角度でそびえ立っていた。
まきまきさんは、そのひとつをもぎ取ると、洗うことも筋を取ることもせず、そのまま口に放り込んだ。
シャキッ。 瑞々しい音が響く。
「甘い! 甘い! 筋ごといけるわ! もっと叩いて! まきまきのMはドMのM!」
いや、豆を食いながら言うセリフではない。 すると、背後からジム総長が庭を眺めて言った。
「見た! アタシそれ見た! その甘い豆は、幕府を弱体化させるために異国が撒いた工作用の甘味よ」
「拙者のパイプを使って取り寄せた幻の豆やざ!党勢拡大は間違いない!」
「ウキー! その豆を食べると頭から双葉が生えて人間盆栽になるウキ!(デマ) デコバカ!」
相変わらずのノイズだ。政治的闘争と、嘘と、デマと、嫉妬。 そのすべてが、この静謐な空間の裏庭で、ちっぽけな騒音として響いている。
代表が怒り狂って窓から叫んだ。
「ワシの畑の豆を勝手に食うな! 金払え! 恋すれば何でもない距離やけど、豆の代金は別や! ええゆうてるんちゃうで!!」
ビュンッ! とペットボトルが飛んでくる。 わたしは無言で首を傾け、その放物線を躱した。
(あ、カステラ食べたの、わたしだ)
不意にそんな記憶が蘇ったが、黙っておくことにした。 わたしは、まきまきさんの真似をして、そびえ立つ空豆を一つもぎり、静かに口の中へ入れた。
……甘い。 暴力的なまでの、圧倒的な青さと甘み。 この豆の根源的な生命力に比べたら、この党で起きているゴタゴタなど、あまりにも虚しくて、滑稽だ。
「おい、チ~サ! お前も食うとるやないか! SFやで!」
「ボクは代表の怒りを命がけで擁護する!」
わたしはもう、ビクビクするのをやめた。 口の中の豆をゆっくりと咀嚼し、堂々と振り返って言い放った。
「代表、うるさいですよ。ペットボトル、片付けますからね。総長、息をするように嘘をつかない。パイプユニッシュさん、パイプ掃除しましょう。まきまきさん、鉛筆で眉毛を描くと痛いから後で墨汁貸しますよ」
一瞬、全員がポカンとした。 いつも怯えていたわたしが、あまりにもあっさりと逆襲したからだ。
「ピライさん!」 わたしが叫ぶと、縁側の向こうのふすまがバンッと開いた。
「うるさい! 静かにしろ!」 バンッ!
にっぽんぽん・あさっての党の朝は、今日も賑やかに明けていく。 薄暗い天井に鎮座する六百両の欄間は、ただ黙って、私たちの愚かな業を見下ろしていた。
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