浅葱色から緋色へと空が移ろう頃、帝都・東京は瓦斯灯の残り香と、遠くで響く蒸気機関の白煙に優しく包まれていた。昨夜の通り雨に濡れた石畳に反射する暁光は、新時代の幕開けを祝福するかのようである。遠くの寺で鳴る鐘の音が、冷たい朝の空気を震わせている。
わたしは、チ~サ。この静寂が永遠に続くことを祈りながら、縁側で震えていた。
「ワシの机の上に置いてあった南蛮渡来の洋菓子、誰や食うたんは! ええゆうてるんちゃうで!」
ドゴォォォン!! 美しい朝の静寂は、ふすまを突き破って飛来した硝子製の水筒――通称『ペット・ボトル』によって無残にも粉砕された。
ここ『にっぽんぽん・あさっての党』の党本部は、大正……いや、幕末から明治にかけて建てられた古風な蔵を間借りした場所である。
顔を真っ赤にして怒鳴り散らしているのは、我が党の代表にして貴族院議員。お金が大好きで、機嫌が悪くなるとすぐにペット・ボトルを投擲してくる、情緒の読めないお方だ。
「誰や! 出てこい! 盗み食いなんてSFやで! 恋すれば何でもない距離やけど、お菓子の恨みは海より深いで!」
「だ、代表……わたしは食べてません!
わたしはただ、震えることしかできなくて……」
わたしが部屋の隅で膝を抱えていると、廊下の端から「ボクが代表をお守りする!」という奇声と共に、一人の男が物理法則を無視した弾道で跳躍してきた。カレーの本質さんだ。
彼は空中で体を捻り、代表が次弾として投げたペット・ボトルを顔面で受け止めると、そのままの勢いで漆喰の壁に深くめり込んだ。ズボッ、という鈍い音が響く。
「代表ォォ! 素晴らしい投擲フォームです! チ~サ君、君がそこにいたせいで代表の神聖なるボトルが壁に当たってしまったじゃないか! ボクは命がけで代表を擁護する!
洋菓子が減ったのは、物理法則が代表のカリスマに追いついていない証拠だ!」
どういう理屈か全くわからない。わたしが絶句していると、今度は廊下の奥から、顔面を真っ黒に染めた女が這い出てきた。
「今日もまきまき! 逆から読んでもまさきまき! ああっ、痛い! 痛いわ!」
元党職員であり、先日大坂の選挙で落選し、夫の飛脚の手紙(エックス・ポスト)が原因でクビになったはずの、まきまきさんだ。
彼女はなぜか、顔の右半分からタラタラと鮮血を流している。
「ま、まきまきさん……! その顔、どうしたんですか!?」
「百文均一の店で買った安物の眉墨を使ったら、反対側のぽんぽんするやつが弾け飛んじゃったのよ!
だから舶来の『2Bの鉛筆』で顔を削って眉を描いてるの! 見て、この血と黒鉛のハーモニー! もっと叩いて! まきまきのMはドMのM!」
自己犠牲とマゾヒズムが極限に達している。痛々しすぎて見ていられない。
そこへ、涼しい顔をしてジム総長が縁側から上がってきた。彼女は党の運営を握る実力者だが、天然ボケと虚言癖のハイブリッドという恐ろしい存在である。
「あら、今日はその話ですか?」
「そうよ総長! あなたが絵師に命じてバラ撒かせた、わたしのかわら版!」
まきまきさんは血だらけの顔をさらに歪ませた。
「わたし、『どうか歯並びの悪さを見せないでほしい』って懇願したわよね!? なのに、なんで半目を開いて歯を剥き出しにした、あんな醜悪な似顔絵を選んだのよ!
女性間の粘着質で陰湿なマウンティングと嫉妬だわ!」
まきまきさんの悲痛な叫びに対し、ジム総長は着物の襟を優雅に正して嘯いた。
「見た! アタシそれ見た! かわら版の絵が醜い?
でも、こうなること何となく予測してたわ。特には驚かなかったわね。結果としてまきまきの行動で利しているのは対立候補よ」
絶対見てない。息を吐くように歴史を改竄しないでほしい。 まきまきさんが「ああああっ!」と頭を抱えて発狂しそうになったその時、突然、背後のふすまがバーンと開いた。
「うるさい! 静かにしろ!」
ピライさんだ。一言だけ怒鳴り散らし、彼はそのまま旋風のように去っていった。何しに来たんだ。
「ウキー! まきまきの眉毛が消えたのは、西洋の呪いのせいウキ! 眉毛から日本が侵略されるウキー! デコバカ!」
庭の松の木にぶら下がった、ま猿さんが根拠ゼロのデマを喚き散らし、これまたすぐにどこかへ消え去った。
カオス。狂乱。エントロピーの増大。
この混沌を象徴するかのように、部屋の上部にはかつて六百両(現代の価値で六百万円)の値がついたという見事な木彫りの『欄間(らんま)』が飾られ、奥には富士山が描かれた極彩色のガラス屏風が鎮座している。表向きは清貧を謳う党だが、無駄に絢爛豪華なこの空間こそが、彼らの内部に渦巻く欲望のメタファーなのだ。
「拙者の、異国のトランプ将軍へのパイプは強固である! 党勢拡大は間違いない! 政策で勝負じゃ!」
いつの間にか部屋に上がり込んでいたのは、無職の元衆議院議員、パイプユニッシュさんだ。自信満々に胸を張っているが、彼が肩に担いでいる物理的な鉄パイプからは、赤錆と泥水がボトボトと畳にこぼれ落ちている。完全に詰まっているじゃないか。
「もういい! わたしは土に還るわ!」
限界を迎えたまきまきさんが、血まみれの顔のまま庭へと飛び出していった。
そこは、夫のたかしさんが河川敷から『モグラの土』をわざわざ運んできて作ったという自然農法の畑である。
まきまきさんは狂ったように土を掘り返すと、ふと視線を上に向けた。
「見て! この空に向かってそびえ立つ空豆の角度! 素晴らしいわ、重力に逆らうこの生命力!」
まきまきさんは恍惚とした表情を浮かべると、隣に生えていた生のスナップエンドウを大量にむしり取った。そして、洗うことも筋を取ることもせず、そのまま口に放り込んで獣のように噛み砕き始めた。
シャキッ、シャキッ、シャキッ……!
「甘い……甘いんです……!」
さっきまでの政治的悲哀はどこへ行ったのか。ただの食欲と不条理に支配されている。
わたしが呆然と見守っていると、まきまきさんはそのまま、庭の奥にある、たかしさんの『からくり部屋(ラジコン部屋)』へと足を踏み入れた。
そこは無数のからくり飛行機模型が所狭しと並ぶ、狂気の工房であった。 しかし、まきまきさんは部屋の隅を見るなり、再び金切り声を上げた。
「ああっ! なぜこんなところに異人の女たちが! キャサリン! スーザン! ナンシー! たかし、貴方という人は……別宅に異国の姫を囲っていたのね!!」
まきまきさんが錯乱して床を転げ回り始めた。
だが、わたしの目には、それがからくり飛行機の尾翼に貼られた『グラマーな白人女性の装飾シール』にしか見えない。事実確認を怠り、虚構の敵を作り出して憤る、あまりにも滑稽な被害妄想だ。
「もう許せない! わたしは狂うわ!
異国の姫・フィーフィーが酒に酔って炎上したように見せかけて、実は高度な計算でアルゴリズムを支配したように、わたしも緻密なメディア戦略で狂乱してやるわ!」
もはや自分が何を言っているのか分かっていないのだろう。狂気と知性の境界が消失している。
まきまきさんは部屋の隅にあった『自立する逆さ傘』を頭に被り、三十糎(センチ)もあるサンタクロースの巨大な靴を両足に突っ込んで暴れ始めた。
「さようなら! わたしは最新式の五右衛門風呂に浸かって全てを忘れるわ!」
彼女は庭先に置かれた巨大なドラム缶に向かって、身を躍らせてダイブしようとした。 「ま、まきまきさん! それはお風呂じゃなくて、燃え盛る焼却炉です!!」
わたしは間一髪のところでまきまきさんの帯を強く引っ張り、彼女が物理的に「炎上」するのを防いだ。 ぜえぜえと息を切らすまきまきさんを、広間まで引きずって戻す。
広間では、代表がまだペット・ボトルを握りしめ、パイプユニッシュさんが泥水を垂れ流し、ジム総長が優雅に嘘をついていた。
その阿鼻叫喚の中心で、まきまきさんがふと、憑き物が落ちたような静かな声で呟いた。
「……でもね。わたし、代表のことは憎みきれないの」
「えっ?」
夕日を背に浴びて、まきまきさんは語り始めた。
「代表はかつて、『探偵!夜の辻占(ナイトスクープ)』というかわら版の企画で、病で髪が抜ける母親が丸坊主になるという悲しい依頼を受けたの。周りの絵師やスタッフが『重すぎる』と逃げ出す中、代表ただ一人が『絶対にやる』と周囲をねじ伏せ、その命の最期の輝きを永遠の記録に残した……。あの政治的非情さの中に隠された、底知れぬ慈悲。あの人間としての深さが、わたしを狂わせるのよ……」
美しく、情緒的な純文学の空気が部屋を包み込んだ。 代表はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「……フン。あんなもん、ワシからしたらSFやで。ええゆうてるんちゃうで」
「代表ォォォ! 照れ隠しですか! ボクは命がけで感動を擁護するッ!!」
カレーの本質が号泣しながら代表の足にしがみついた。
バンッ!!!
「うるさい! 静かにしろ!」
ピライさんが三度登場し、せっかくの文学的な余韻を完全にぶち壊して去っていった。
「見た! アタシその慈悲深い話、見た! (見てない)」
「ウキー!代表の正体はカラクリ人形ウキー! デコバカ!」
「拙者のパイプも慈悲で開通するじゃろか!」
再び渦巻く、極限のシュールレアリズムと不条理。
無力な一般市民の象徴として、わたしはずっと部屋の隅で震えていた。だが、エントロピーの法則に従い崩壊していく彼らを見ているうちに、わたしの内部で何かが決定的に弾けた。
わたしは、ゆっくりと立ち上がった。 そして、六百両の欄間を揺るがし、富士のガラス屏風をヒビ割れさせるほどの、圧倒的な声量で叫んだのである。
「ええ加減にせんかァァァァァァァァッ!!!」
わたしの放ったツッコミの衝撃波は、代表が投げようとしていたペット・ボトルを空中で静止させた。
狂気に満ちた「にっぽんぽん・あさっての党」のメンバー全員が、そのただ一つの常識の楔(くさび)の前に、ピタリと動きを止めた。
西の空に沈む夕日が、静まり返った古民家を朱色に染め上げている。 遠くで、カラスが一声鳴いた。 わたしは、少しだけ痛む右手をさすりながら、静かに悟ったのである。
狂った世界で正気を保つためには、この声(ツッコミ)を上げ続けるしかないのだ、と。
今日もまた、帝都の夜がふけていく。
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