【19世紀ヨーロッパの国際秩序とウィーン体制:ナポレオン戦争の終焉から多民族国家の危機と新たな勢力均衡まで】
【1.序論:ナポレオン戦争がヨーロッパにもたらした衝撃と「戦後処理」の不可避性】
18世紀末のフランス革命に端を発し、その後のナポレオン・ボナパルトの台頭によって引き起こされた一連の戦争は、ヨーロッパ全土の国境線を暴力的に書き換え、既存の社会秩序を根本から揺るがす未曾有の歴史的事件であった。ナポレオン戦争は、単なる各国の領土の奪い合いや王朝間の覇権争いにとどまるものではなかった。フランス革命が生み出した「自由主義」や、国民が主権を持つという「ナショナリズム(民族主義)」といった近代的なイデオロギーを、フランス軍の進軍とともにヨーロッパ各地へ物理的に伝播させる決定的な契機となったのである
1814年、ヨーロッパ諸国が結集した「ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)」において致命的な敗北を喫したナポレオンが退位させられると、四半世紀近くにわたる激しい戦乱によって極度に疲弊したヨーロッパには、崩壊した国際秩序を再構築するという極めて困難かつ喫緊の課題が突きつけられた
【2.ウィーン会議の開幕と「踊る会議」:各国のエゴイズムと停滞の深層】
ウィーン会議は、オーストリアの有能な外相(後に宰相となる)クレメンス・フォン・メッテルニヒの主導のもとで開催された
会議において最大の焦点にして最大の難関となったのは、ナポレオンによって恣意的に再編されていた領土の分割問題、とりわけ「ポーランド・ザクセン問題」と呼ばれる東欧・中欧の覇権をめぐる対立であった。ナポレオン打倒に最大の軍事的貢献をしたと自負するロシア帝国は、ナポレオンがかつて建国したワルシャワ大公国(現在のポーランドを中心とする地域)の全域を自国の領土として併合することを強硬に主張した。そしてプロイセン王国は、ロシアのこの要求を支持する見返りとして、自国に隣接するザクセン王国の全土を自国に併合させることを要求したのである。これに対し、ロシアの過度な西方への勢力拡大とプロイセンの強大化を自国の安全保障上の重大な脅威とみなしたイギリスとオーストリアは、この露普の要求に猛反発した。
このような大国間の深刻かつ妥協なき対立により、公式な全体会議はなかなか開かれることがなく、非公式な小規模の会談や密室での駆け引きばかりが延々と繰り返される事態となった
【3.エルバ島脱出の衝撃:ナポレオンの復活と慌てた妥協による議定書成立】
数ヶ月にわたり紛糾を続け、一時はかつての同盟国同士での新たな戦争の勃発すら危惧されたウィーン会議であったが、この絶望的な膠着状態を打破したのは、皮肉にも会議が開催される最大の原因を作ったナポレオン・ボナパルトその人であった。1815年2月下旬、地中海の小島であるエルバ島に流刑となっていたナポレオンが、監視の目を掻い潜って島を脱出し、少数の側近とともにフランス南部に上陸したのである
王政復古を果たしたブルボン朝の反動的な政治に強い不満を抱いていたフランスの民衆や軍隊は、かつての栄光の象徴である皇帝を熱狂的に迎え入れた。差し向けられた討伐軍すらも次々とナポレオンの麾下に寝返り、ナポレオンは一発の銃弾も撃つことなく、またたく間にパリに入城して権力を奪還してしまった。世に言う「百日天下」である。
この「ナポレオン復活」の急報がウィーンの会議場に届くと、ヨーロッパ全土を席巻したかつての恐怖が各国の首脳たちを震え上がらせた。彼らは、直前まで繰り広げていたポーランドやザクセンをめぐる領土分割の対立を即座に棚上げし、ナポレオンという強大な共通の脅威に対抗するために慌てて妥協を重ねたのである
【4.メッテルニヒの保守反動と多民族国家オーストリアの構造的危機】
このウィーン体制の中心的な理念は、フランス革命とナポレオンがヨーロッパ全土にばらまいた自由主義とナショナリズム(民族主義)のうねりを力ずくで抑え込み、革命以前の絶対王政的な旧秩序を徹底的に維持しようとする「保守反動」であった
メッテルニヒがなぜそこまで頑強に保守反動を主導し、ナショナリズムと自由主義の芽を摘み取ることに執念を燃やしたのか。これを深く理解するためには、当時のオーストリア帝国(ハプスブルク帝国)が抱えていた、極めて特殊で脆弱な国家構造を論理的に把握する必要がある。当時のオーストリアは、現在の単一民族的なオーストリア共和国とは全く異なり、中欧から東欧にかけて広大な領土を擁する大帝国であった。しかし、その内部構造は深刻な時限爆弾を抱えていた。政治・経済の実権を握る支配層は少数のドイツ系住民(オーストリア人)であったが、領内にはハンガリー人(マジャール人)、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、クロアチア人、さらには北イタリアの住民など、極めて多数の非ドイツ系民族がひしめき合う典型的な「多民族国家」だったのである
近代においてフランス革命が生み出した「ナショナリズム」とは、すなわち「言語や文化を共有する一つの民族が、自らの一つの独立した主権国家(国民国家)を持つべきである」というイデオロギーである。もしこの革命的な思想がハプスブルク帝国の広大な領内に波及し、被支配民族である多数の各民族が自己決定権を主張して独立運動へと傾斜した場合、それは単なる国内の政治的混乱や暴動にとどまらない。オーストリア帝国という国家そのものの空中分解、すなわち国家の完全なる「崩壊」を即座に意味していたのである
また、「自由主義」が求める憲法の制定、身分制の打破、基本的人権の保障、議会政治の導入といった要求も、皇帝の絶対的権威と貴族の封建的特権を統治の前提とする多民族帝国の体制を根底から揺るがす猛毒に他ならなかった。したがって、メッテルニヒにとって保守反動路線の徹底とは、単なる時代遅れの復古的思考の産物などではなく、オーストリアというモザイク国家の延命を図り、崩壊を防ぐための、冷徹かつ絶対不可欠な生存戦略であったと言える。彼はオーストリア一国の力だけでなく、ヨーロッパ全体に呼びかけて保守反動の中心となり、国際的な軍事介入のネットワークを構築することで、帝国の崩壊を防ごうとしたのである
【5.タレーランの「正統主義」:敗戦国フランスの巧妙な外交戦略】
ウィーン会議において、メッテルニヒの保守反動と並ぶもう一つの強力な基本方針となったのが、フランス代表の外相タレーランが提唱した「正統主義」である
一見すると、この原則は単に旧時代への回帰を唱えるだけの反動思想に思えるかもしれない。しかし、難関大学の入試等において極めて重要となるのは、この正統主義が、敗戦国であるはずのフランスにとってどのような決定的な利点をもたらしたのかという、その高度に政治的で計算された外交戦略の側面である。
通常、ナポレオンのようにヨーロッパ全土を蹂躙し、莫大な被害を与えた敗戦国に対しては、勝戦国による巨額の賠償金の請求や、領土の大規模な割譲、最悪の場合は国家の分割という過酷な処罰が下されるのが国際政治の常識である。しかしタレーランは、「一連の戦争と混乱の責任は、簒奪者であるナポレオン個人と非合法な革命政府にある。現在のフランスを統治しているのは復活したブルボン朝の正統な君主であり、フランス国王もまた、他国の君主たちと同じく革命の被害者である」という論理を展開したのである
この見事なまでに問題をすり替える詭弁とも言える外交手腕により、タレーランは、フランスという国家そのものが敗戦国としての重い責任を負わされることを回避することに成功した
さらにタレーランは、前述の「ポーランド・ザクセン問題」でロシア・プロイセン陣営とイギリス・オーストリア陣営が激しく対立した際、密かにイギリス・オーストリア側に接近して秘密裏に同盟を結ぶことで、敗戦国でありながら列強間のキャスティング・ボート(決定権)を握った。正統主義という大義名分を盾にしながら、列強間の対立を巧みに利用することで、タレーランはフランスの国際社会における強国としての発言権を見事に復活させることに成功したのである。これは外交史における最も卓越した立ち回りの一つとして評価されている。
【6.神聖ローマ帝国の解体と「ドイツ連邦」の現実:オーストリアとプロイセンの覇権争い】
正統主義は「フランス革命以前の状態に戻す」ことを大原則としていたが、すべての事象において例外なく厳格に適用されたわけではない
10世紀以来、中央ヨーロッパの広大な領域に存在していた「神聖ローマ帝国」は、1806年にナポレオンの軍事的圧力によってすでに解体させられていた。もし正統主義の原則を中欧においても完全に貫徹するのであれば、当然ながらこの神聖ローマ帝国も復活させるべきであった。しかし、ウィーン会議において神聖ローマ帝国が復活することは決してなかったのである
その最大の理由は、ドイツ地域内においてすでにオーストリアとプロイセンという二つの巨大な主権国家(強国)が台頭しており、いまさら彼らを中世的な帝国の古い枠組みの中に押し込め、従属させることは物理的にも政治的にも不可能であったからである
神聖ローマ帝国の復活に代わって、ドイツ地域の新たな枠組みとしてウィーン会議で創設されたのが「ドイツ連邦」である
しかし、この「ドイツ連邦」は、強力な中央政府や統一された軍隊、共通の憲法を持つ単一の近代国家や連邦国家では全くなかった。各邦国の主権が極めて強く残された、非常に緩やかな同盟関係に過ぎなかったのである
さらに致命的であったのは、このドイツ連邦内部における権力構造である。連邦議会における議長国の地位は伝統と格式を誇るオーストリアが独占したが、経済的・軍事的な実力においてはプロイセンが急速に力をつけて台頭していた。事実上、ドイツ連邦という枠組みの中は、オーストリアとプロイセンという二大国による激しい主導権争いの舞台となってしまったのである
後にドイツ民族の統一を求める運動が高まった際、多民族国家であるがゆえにドイツ人以外の領土を切り離せないオーストリアを含めようとする「大ドイツ主義」と、オーストリアを完全に排除して純粋なドイツ人中心のプロイセンを盟主とする「小ドイツ主義」が激しく衝突し、最終的に普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争)へと発展することになるが、その構造的な萌芽と悲劇の種は、このウィーン会議における神聖ローマ帝国の不復活とドイツ連邦の創設の時点ですでに決定づけられていたのである
【7.ウィーン議定書における領土のやり取りと「勢力均衡」の意図(最重要ポイント)】
ウィーン会議におけるもう一つの重要な指導原理が「勢力均衡」である
テキスト内でも「諸国の利害調整のために領土のやり取りも行われた」と簡潔に触れられているが
・イギリスの領土獲得と海洋覇権の確立
イギリスは旧オランダ領であったセイロン島(現在のスリランカ)とケープ植民地(南アフリカ南部)を正式に獲得したほか、地中海における戦略的要衝であるマルタ島、およびイオニア諸島の領有を認められた
・ロシアの西方拡大と東欧の覇権
ロシアは、対立の火種であったワルシャワ大公国の大部分を獲得して「ポーランド立憲王国」として再編し、ロシア皇帝がそのポーランド王位を兼任するという事実上の属国化(同君連合)を達成した
・プロイセンの領土拡張と工業化への布石
プロイセンは、自国の東側でワルシャワ大公国の一部(ポズナン地方)を獲得したほか、ザクセン王国の北半分、および西側のライン川流域である広大なラインラントを獲得し、さらに北欧ではスウェーデン領であったポメラニアを獲得して領土を東西に大きく拡張した
・オーストリアの領土再編とイタリア支配
オーストリアは、遠隔地でありフランスの脅威に晒されやすく防衛が困難であった飛び地の南ネーデルラント(現在のベルギー地域)を思い切って放棄した
・オランダの緩衝国化とベルギー併合
オランダは、オーストリアが放棄した南ネーデルラント(ベルギー)を獲得し、両地域を合わせたオランダ立憲王国を形成することとなった
・スウェーデンの領土変動
スウェーデンは、東の強国ロシアにフィンランドを、南のプロイセンにポメラニアを割譲せざるを得なかったが、その代償として、ナポレオン側に最後まで味方していたデンマークからノルウェーを獲得した
この他にも、ヨーロッパの中心に位置するスイスを永世中立国として国際的に承認し、大国間の紛争を和らげる緩衝地帯として機能させることが決定された
【8.ウィーン体制を維持するための国際的な抑圧機構】
ウィーン議定書によって再構築された保守的なヨーロッパの秩序を恒久的なものにし、いかなる革命の再発も防ぐため、各国の君主たちは二つの重要な国際的同盟を締結した。
第一に、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱によって1815年に結ばれた「神聖同盟」である。これはキリスト教の正義と博愛、平和の精神に基づき、君主同士が互いに兄弟のように協力し合い、国内外の平和を維持するという、一種の精神的・道徳的な盟約であった。イギリス王(独自の議会政治の原則と合致しないため)、ローマ教皇(プロテスタントや正教会の君主と同格になることを嫌ったため)、そしてキリスト教徒ではないイスラーム教徒のオスマン帝国皇帝を除く、ヨーロッパの全君主がこれに署名し参加した。
第二に、より実務的で強力な軍事介入の根拠となったのが「四国同盟」である。ナポレオン打倒の中心となったイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの四カ国によって結ばれ(後に復古したフランスが体制順応を認められて加入し五国同盟へと発展する)、ナポレオン家の復活を永久に防止すること、そしてウィーン体制の根幹を脅かすような自由主義革命運動や民族運動がどこかの国で勃発した際には、同盟国が共同で軍隊を派遣し、これを徹底的に武力弾圧することを主目的としていた。
この同盟を通じて、問題が起きるたびに定期的に国際会議を開いてヨーロッパ全体の諸問題を協議するという「会議体制」が確立された。これは、大国間の協調によって国際紛争を未然に防ぐという点において、後の国際連盟や現代の国際連合へと連なる国際協調路線の歴史的な先駆けとも評価できる側面を確かに持っていた。
【9.抑圧に対する反発:自由主義・ナショナリズムの波及と体制の動揺】
メッテルニヒの周到な計画と軍事同盟の圧力により、ウィーン体制は鉄の結束をもってヨーロッパを支配したかのように見えた。1820年代には、ドイツの大学生たちによるブルシェンシャフト(自由と祖国の統一を求める学生組合)の運動や、イタリアにおける秘密結社カルボナリ(炭焼党)の蜂起、ロシアの青年将校たちによるデカブリスト(十二月党員)の乱、そしてスペインにおける立憲革命など、各地で自由と憲法制定を求めるうねりが相次いで生じた。しかし、これらはすべてメッテルニヒの指導のもと、四国同盟(五国同盟)の軍事介入によってことごとく冷酷に鎮圧され、関係者は処刑や流罪となった
だが、人間の本性として一度目覚めてしまった自由への渇望と、抑圧された民族の誇りを、軍事力だけで永久に押さえつけることは不可能であった
そして、ウィーン体制の崩壊に向けたさらなる大打撃となったのが、1830年にかつての革命の震源地であるフランスで再び発生した「七月革命」である
このフランスにおける二度目の革命の成功は、抑圧されていたヨーロッパ中の民族に多大な勇気を与え、ナショナリズムの炎が瞬く間に各地へ燃え広がった
また、ロシアの過酷な支配下にあったポーランド立憲王国でも大規模な武装蜂起(ワルシャワ蜂起)が発生した
【10.結論:1848年革命とウィーン体制の最終的崩壊】
1830年の七月革命を経ても、東欧や中欧におけるハプスブルク家やロマノフ家などの帝国支配はかろうじて維持されていたが、その内実はすでに限界に達していた
そして1848年、ついにウィーン体制に完全な引導を渡す大爆発が起きる。フランスでの二月革命(七月王政の打倒と第二共和政の樹立)を契機として、その革命の波は瞬く間にウィーンやベルリンをはじめとするヨーロッパ全土へと波及した。世に言う「諸国民の春」である。オーストリアの首都ウィーンでは、ついに労働者や学生、市民が武装蜂起して激しい市街戦となり、30年以上にわたって保守反動体制の絶対的な象徴として君臨し続けたメッテルニヒはついに失脚し、イギリスへの亡命を余儀なくされた。ここに、事実上ウィーン体制は完全なる崩壊を迎えたのである。
さらに、ドイツ連邦においてはフランクフルト国民議会が開催され、君主の意思とは無関係にドイツ国民の代表による統一国家の樹立と憲法制定が試みられた
ウィーン会議から始まった「ウィーン体制」は、大国間の妥協と勢力均衡のメカニズムによって、1914年の第一次世界大戦勃発までの約100年間にわたり、ヨーロッパ全土を巻き込むような破壊的な全面戦争を防いだという点において、外交史および国際関係史において極めて高く評価されるべき側面を持っている。しかしその一方で、台頭する市民の基本的人権(自由主義)と民族の自己決定権(ナショナリズム)という不可逆的な近代化の歴史の潮流を、「正統主義」という時代遅れの建前によって無理やり抑え込もうとした点に、決して逃れることのできない構造的な欠陥があったと言える
結局のところ、ウィーン会議が作り出した「パズル」のような人為的な国境線は、その後数十年の間に、イタリア統一運動(リソルジメント)や、普墺戦争・普仏戦争を経たドイツ帝国の成立といった、力と血の流れる現実政治(リアルポリティクス)によって徹底的に破壊され、書き換えられていくこととなる
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