たぶん、何かを間違えた。
そんな気がしている。
それも、昨日コンビニで違う飲み物を買ったとか、メールの宛先を取り違えたとか、そんな小さな話ではない。
もっと古い。
もっと深い。
いま立っている場所から振り返ると、遠くのどこかで一本の分岐を間違え、そのまま何年も歩いてきてしまったような気がする。
けれど、どの角だったのかわからない。
右へ行くべきところを左へ行ったのか。
立ち止まるべきところで歩いてしまったのか。
逃げるべきところで耐えてしまったのか。
それとも、耐えるべきところで逃げたのか。
地図を広げても、「ここです」と赤い丸をつけられる場所がない。
ただ、現在だけが妙に暗い。
だから過去のどこかに、原因があるはずだと思う。
鬱というものは、ときどき奇妙な考古学者になる。
現在の苦しさを説明するために、過去を掘り始める。
あのときの選択。
あの人への言葉。
辞めたこと。
続けたこと。
黙ったこと。
言い返したこと。
愛したこと。
嫌ったこと。
忘れたこと。
一つ掘り出すたびに、
「これだったのではないか」
と思う。
しかし、少し土を払ってみると、それだけでは説明できない。
また掘る。
さらに古い層へ行く。
いつの間にか人生全体が発掘現場になっている。
そして恐ろしいのは、過去というものが、掘れば掘るほど正確になるわけではないことだ。
記憶は化石ではない。
掘り出した瞬間にも形を変える。
現在の光を当てるたび、昔の出来事は別の色になる。
だから、
「あのとき私は間違えた」
という文章の中には、
当時の自分だけではなく、
現在の自分も混ざっている。
もしかすると、取り返しのつかない間違いとは、一つの巨大な失敗ではないのかもしれない。
紙を一枚ずつ重ねていくようなものだったのかもしれない。
今日は少し無理をする。
明日も少し我慢する。
本当は嫌だったことを、「まあいいか」と飲み込む。
疲れていることを認めない。
助けを求めるほどではないと思う。
もう少しだけ頑張れると思う。
期待に応える。
予定を守る。
壊れていない顔をする。
そうして一枚ずつ積み重なった紙が、ある日、机の脚より高くなる。
最後の一枚を置いた瞬間、山が崩れる。
すると人は最後の一枚を見て、
「これが原因だった」
と思う。
でも、本当は最後の一枚だけが悪かったのではない。
その一枚は、山が山であることを明らかにしただけだ。
だから、
「何を間違えたのかわからない」
というのは、記憶力が足りないからではないのかもしれない。
そもそも答えが一点に存在しないのかもしれない。
人生は裁判ではない。
判決文のように、
原因一、
原因二、
原因三、
と整理されてはいない。
もっと湿っている。
もっと絡まっている。
天気。
身体。
偶然。
時代。
他人の言葉。
自分の性格。
選ばなかった道。
選べなかった道。
その全部が地下水のようにつながっている。
そして地面が沈んだあとで、
「どの雨粒が地盤を崩したのですか」
と訊いても、
たぶん誰にも答えられない。
それでも人は答えを欲しがる。
なぜなら、
原因がわかれば、世界を再び制御できる気がするからだ。
「これをしなければよかった」
と言えれば、
少なくとも世界には規則がある。
次は避ければいい。
二度と同じことをしなければいい。
しかし、
何を間違えたのかわからない苦しみには、その慰めがない。
敵の姿が見えない。
だから自分全体が敵になる。
あの選択も駄目だった。
この性格も駄目だった。
そもそも自分という人間の作りが間違っていたのではないか。
原因探しが、いつの間にか自己否定へ変わっていく。
ここがいちばん暗い。
失敗を探していたはずなのに、
最後には自分自身を失敗作として発見してしまう。
けれど、人間は完成後に検品される工業製品ではない。
完成品として生まれて、どこかで壊れたわけでもない。
そのとき持っていた知識で選び、
そのとき持っていた体力で耐え、
そのとき見えていた景色の中で歩いてきた。
現在の自分は、過去のすべてを知っている。
過去の自分は知らなかった。
この非対称を忘れると、
現在の知識を持った裁判官が、
何も知らなかった昔の自分を裁き始める。
「なぜ気づかなかった」
「なぜ逃げなかった」
「なぜあんなことをした」
しかし過去の自分には、
今ここから見えている地図はなかった。
その人は、
霧の中にいた。
では、何も間違えていなかったのか。
たぶん、それも違う。
間違えたことはあるだろう。
人を傷つけたことも。
自分を傷つけたことも。
戻せないものもある。
取り返しのつかない出来事は、本当に存在する。
時間は巻き戻らない。
言ってしまった言葉は、言わなかったことにはできない。
失ったものが全部帰ってくるわけでもない。
だから、
「全部大丈夫だったことにしよう」
という救い方は、たぶん残酷だ。
でも、
取り返しがつかないことと、
人生の続きを生きられないことは、
同じではない。
割れた器は、割れる前の器には戻らない。
接着すれば線が残る。
欠けも残る。
それでも、その器を机の上に置くことはできる。
以前とは違う使い方になるかもしれない。
何も入れず、ただ窓辺に置いておくかもしれない。
それでも、
割れたことだけがその器の全履歴ではない。
もしかすると今必要なのは、
「どこで間違えたか」
を完全に突き止めることではないのかもしれない。
もちろん、わかることは考えればいい。
反省できることは反省すればいい。
償えることがあるなら償えばいい。
でもその作業と、
自分を永遠に被告席へ座らせることは違う。
原因が特定できなくても、
今日の身体はここにある。
カーテンの隙間から光が入る。
水を飲む。
布団が重い。
外で車が走る。
夜になる。
また朝になる。
世界はこちらの結論を待たずに続いている。
それは冷酷にも見える。
けれど同時に、
少しだけ救いでもある。
人生は、
自分が過去について正しい判決を下すまで、
停止して待ってはいない。
私は何を間違えたのだろう。
まだ、わからない。
ひょっとすると明日もわからない。
十年後にも、
完全な答えはないかもしれない。
それでも、
「わからない」という場所に立つことはできる。
そこは答えのない荒野だけれど、
行き止まりではない。
間違えた場所を特定できなくても、
次の一歩を置く地面くらいは探せる。
大きな決意ではなくていい。
正しい人生を始め直さなくてもいい。
ただ、
今日の自分がこれ以上沈まない場所へ、
足を置き直してみる。
もしかすると人生とは、
正しい道を一度も間違えず歩くことではない。
地図を失い、
自分の足跡さえ疑い、
それでも地面の感触を確かめながら、
道と呼べるものを後から作っていくことなのかもしれない。
そしていつか振り返ったとき、
あの暗い場所に、
答えではなく、
一本の足跡だけが残っている。
「何を間違えたのか」は、
まだわからない。
でも、
ここから歩いた。
その事実だけは、
たぶん間違いではない。