『匂いの記憶』
第一章 薄れていく匂いと、固い床
僕の鼻は、たいていのことを知っている。
人間は目で世界を見ているらしい。あの男は朝になると四角い板を開き、そこに並んだ小さな模様を長いあいだ眺めている。外を歩けば、赤や青に光るものを見て立ち止まり、紙の束を見ながら眉間にしわを寄せる。あの甘い匂いのひともそうだった。僕にはただ白く平たいものにしか見えない紙を眺めて、笑ったり、困った顔をしたり、ときどき目から水を落としたりしていた。
僕にはよく分からない。
僕に分かるのは、もっと別のことだ。
雨が来る前には土の奥が冷たくなる。あの男が疲れて帰ってくる日は、玄関が開くより前に、階段の下から靴と汗と鉄の匂いが上がってくる。機嫌のいい日は歩く音が軽い。困っている日は、右足だけ少し遅れる。
そして、あの甘い匂いのひとがいた頃、この家には三つの大きな匂いがあった。
僕。
あの男。
そして、あのひと。
僕は、自分の匂いについてはあまり考えない。日なたに干した毛布と土と、少しだけ草のような匂いがするらしい。あのひとは僕の首のところへ鼻を埋めて、「ハル、今日もいい匂い」と笑った。僕には、人間がどうして僕を嗅ぐのかよく分からなかった。僕が人間を嗅ぐのは、その人が今日どこに行ったか、何を食べたか、誰と会ったか、元気かどうかを知るためだ。けれど彼女は、ただ僕の匂いを嗅いで喜んだ。
変なひとだった。
あの男は、少しだけ煙の匂いがした。煙といっても、火の匂いではない。外の空気、電車、紙、雨に濡れたコンクリート、それから珈琲。毎日違うものを身体につけて帰ってきた。
でも、あのひとの匂いは分かりやすかった。
花。
石鹸。
濡れた髪。
皮膚の温度。
そして、とても小さな甘い匂い。
僕はその匂いが好きだった。
家のどこにいても、彼女が動けば分かった。台所。浴室。寝室。ソファ。廊下。僕は目を閉じていても追いかけられた。
だから、その匂いが少しずつ消えていったことに、誰より早く気づいたのも僕だった。
最初の日、僕は玄関で待っていた。
夜になっても、彼女は帰らなかった。
あの男は帰ってきた。
男の服には、いつもとは違う匂いが大量についていた。知らない人間。薬。冷たい布。雨に濡れていないのに、水のような匂い。
男は僕を見た。
僕は尻尾を振った。
あのひとは?
僕は玄関の向こうを嗅いだ。
男は何も言わなかった。
僕の頭を一度だけ撫でた。
それから部屋へ入って、灯りもつけず、床に座った。
変だった。
人間は床より椅子やソファを好む。あの男もそうだった。床に直接座るときは、たいてい僕と遊ぶときだった。
でもその日は遊ばなかった。
僕はしばらく玄関で待った。
階段から、あのひとの匂いは上がってこなかった。
一時間くらいして、僕は男のところへ行った。
彼は背中を壁につけ、両手を膝の上に置いていた。
目が開いている。
でも、何も見ていない匂いがした。
人間の目が何を見ているか、僕には分からない。けれど、見ている人間と見ていない人間は、呼吸で分かる。
僕は男の手へ鼻を押しつけた。
冷たかった。
男は少しだけ指を動かした。
それから僕の頭へ手を置いた。
重かった。
「ハル」
僕の名前。
その日、彼が言ったのは、それだけだった。
僕は嬉しくて尻尾を一度床へ打ちつけた。
その音が、暗い部屋の中で、やけに大きく響いた。
次の日も、あのひとは帰らなかった。
その次の日も。
僕はドアの前で待った。
朝になると、あの男は外へ出る。夜になると帰ってくる。
でも、あのひとは来ない。
僕には、来ない理由が分からない。
人間には、長いあいだ帰ってこないことがある。あの男も、ときどき何日か家を空けた。あのひとも、昔一度だけ、三日間戻らなかったことがある。
だから僕は待った。
待つことは難しくない。
匂いが戻る方向を知っていればいい。
けれど、家の中に残った彼女の匂いは、少しずつ薄くなっていった。
最初に消えたのは玄関だった。
次に台所。
浴室。
枕。
でも、ソファには長く残った。
彼女はよく左端に座った。
そこだけ、柔らかい甘さが沈んでいた。
僕はその場所へ鼻を押しつけて眠った。
そこへ顔を埋めると、昔の時間が近くなった。
彼女の膝。
指。
耳の後ろを掻く爪。
「ハル、重い」
そう言いながら僕をどけない声。
言葉の意味全部は分からない。
でも、声の温度は分かる。
好きな声だった。
夜になると、僕と男は大きなベッドで眠った。
昔は真ん中にあのひとがいた。
僕は足元。
男は右。
あのひとは左。
でも、ときどき僕は夜中に上へ移動して、彼女の膝のあたりへ身体を押しつけた。
今は、真ん中が空いている。
そこには匂いがない。
いや。
少しだけ残っている。
でも日に日に冷たくなる。
男は右端。
僕は左端。
真ん中には、何もない。
それが嫌だった。
ある夜、僕は自分の場所を移った。
男の足の上へ顎を置いた。
彼は眠っていなかった。
呼吸で分かる。
眠る人間は、息が深くなる。
でも彼の呼吸は浅かった。
僕は顎へ少し重みをかけた。
男の足が動いた。
「重い」
低い声。
昔、あのひとも言った。
でも、彼も僕をどけなかった。
僕はそのまま眠った。
人間は、いなくなったものをどうするのだろう。
僕には分からない。
僕なら匂いを探す。
見つからなければ待つ。
待ちながら、今そこにいるものへ身体を寄せる。
それしか知らない。
その頃の男は、僕よりたくさんのことを知っているはずなのに、僕よりずっと困っていた。
だから僕は、せめて彼の足が冷たくならないように、毎晩そこへ顎を乗せた。
第二章 ドアノブの金音と、助手席の風
僕には仕事がある。
玄関へ行くこと。
散歩へ行くこと。
ご飯を食べること。
男が帰ってきたら迎えること。
あのひとが帰ってきたら、たぶん一番最初に見つけること。
最後の仕事だけは、ずっと終わらなかった。
金属のドアノブが鳴る。
カチャ。
僕は走る。
廊下を滑る。
玄関。
匂い。
違う。
男。
今日も男だった。
最初の頃、男は僕を見るたびに、少し変な顔をした。
申し訳なさそうな顔。
僕は理由が分からなかった。
男が帰ってくるのは嬉しい。
だから尻尾を振る。
僕は彼の足に鼻をつける。
会社。
電車。
雨。
知らない人間。
珈琲。
それから少し、悲しい匂い。
僕は顔を上げる。
男は僕の頭を撫でる。
「ただいま」
その言葉は分かる。
昔から何度も聞いた。
ただいま。
あのひとも言った。
だから僕は鼻を伸ばして男の顔を舐める。
帰ってきたなら、それでいい。
週末になると、男は車を出した。
昔は三人で乗った。
男が運転。
あのひとが助手席。
僕は後ろ。
でもある日から、男は僕に言った。
「ハル、前来るか」
助手席。
僕は少し迷った。
そこは、あのひとの場所だった。
匂いがまだ残っている。
布の奥。
シートベルト。
窓側。
薄い。
でも、ある。
僕は座った。
男がエンジンをかけた。
窓が少し開いた。
風。
風はたくさんの世界を運んでくる。
ガソリン。
海。
濡れた土。
草。
別の犬。
鳥。
食べ物。
知らない町。
僕は鼻を窓へ向けた。
耳が風でひっくり返る。
気持ちがいい。
男は少し笑った。
「お前、前のほうが好きだったか」
僕は答えない。
でも尻尾がシートを叩いた。
車は海へ向かった。
あのひとが好きだった場所。
僕はそれを知らない。
ただ、そこへ行くと男の匂いが変わる。
だから何度か来たことがあるのだと思う。
海沿いの道。
光。
塩。
風。
男の手がハンドルを握る。
時々、彼は僕を見る。
正確には、
僕ではない場所を見る。
僕が座っているはずの助手席。
でも、僕よりもっと昔の何かを見ている。
その日、
男の目から水が一滴落ちた。
僕は見た。
人間は目から水を出す。
あのひとも何度かそうした。
嬉しいときにも出す。
悲しいときにも出す。
だから僕には、あれが何なのか正確には分からない。
でも匂いは知っている。
塩。
熱。
苦い。
僕は前足を男の太腿に置いた。
運転中なので、少しだけ。
重さを渡す。
ここにいる。
僕は言葉を持たない。
でも、体重はある。
男は一度だけ僕の足を触った。
「ハル」
名前。
それだけ。
僕は満足した。
海で、男は長いあいだ座っていた。
僕は砂を掘った。
鳥を見た。
波へ少し近づきすぎて濡れた。
男は笑った。
久しぶりだった。
声を出して笑った。
僕は嬉しくなって走った。
男の周りを三回回った。
また笑った。
その笑い声の中に、少しだけ昔の家の匂いがした。
あのひとがいた頃の匂い。
僕には、どうしてそれが出てきたのか分からない。
でも、その日から週末の車は少しずつ変わった。
最初は黙っていた男が、
「今日はどこ行く」
と僕に聞くようになった。
僕は答えない。
だから彼が決める。
でも、たまに僕が窓のほうを向くと、
「そっちか」
と言う。
違うことも多い。
でも人間は、何かを決めるために理由が必要らしい。
僕がその理由になれるなら、それでよかった。
僕は今でもドアノブの音に走る。
もしかしたら。
あのひとかもしれない。
でも最近、男が帰ってきたときも、
前より強く尻尾を振るようになった。
待っているものと、
帰ってきたもの。
僕には、その二つを同時に好きでいることができる。
人間はどうなのだろう。
第三章 ソファの奥のタイムマシン
季節が冷たくなった頃、男が家の中を片づけ始めた。
最初に箱。
次に袋。
それから、クローゼット。
僕はすぐに気づいた。
あのひとの匂いが動いている。
服。
靴。
鞄。
布。
全部、少しずつ別の場所へ移される。
僕は男の後ろをついて回った。
彼は何も言わない。
でも動きが固い。
服を一枚持ち上げるたび、
手が止まる。
鼻を近づけるわけでもない。
匂いを嗅いでいるのではない。
人間は目で思い出すこともできる。
僕にはそれが不思議だ。
写真。
服。
小さな物。
それを見るだけで、
その人がいた時間へ戻れるらしい。
僕には匂いのほうが早い。
男が袋へ入れようとしたものの中に、
毛糸のセーターがあった。
灰色。
あのひとがよく着ていた。
その匂いは、
まだ強かった。
僕はすぐに乗った。
丸くなる。
男が見る。
「ハル」
僕は動かない。
「どけ」
動かない。
男がセーターを少し引いた。
僕は身体へ力を入れた。
絶対に渡さない。
その匂いが消える。
それが嫌だった。
匂いがなくなることと、
いなくなることが同じなのか、
僕には分からない。
でも僕の世界では、
匂いがないものを探すのは難しい。
だから残したかった。
男はしばらく僕を見ていた。
そして、
引くのをやめた。
僕の前へ座った。
床。
またあの頃と同じ。
男はセーターを触った。
指。
手。
やがて、
僕の横へ顔を近づけた。
布に顔を埋める。
その瞬間、
匂いが変わった。
呼吸が崩れた。
肩が動く。
そして男は音を出した。
低く。
割れた音。
人間があんな声を出すのを、僕はあまり聞いたことがない。
僕は起き上がった。
男の顔。
水。
たくさん。
頬。
鼻。
口。
男は僕を見なかった。
ただ、
「ごめん」
と何度も言った。
誰に?
僕に?
あのひとに?
自分に?
僕には分からない。
僕は彼の顔を舐めた。
しょっぱい。
熱い。
少し苦い。
男は僕の首へ腕を回した。
強かった。
少し苦しい。
でも離れなかった。
僕も動かなかった。
そのまましばらく、
男は泣いた。
僕は顔を舐めた。
男はまた泣いた。
僕はまた舐めた。
これでいいのか分からない。
でも他にすることがない。
だからした。
その夜、
男はセーターを捨てなかった。
ソファの端に置いた。
僕はその上で寝た。
夢を見た。
夢の中には、
あのひとの膝があった。
柔らかい。
手。
耳の後ろ。
声。
「ハル」
僕は丸くなる。
眠い。
あのひとの匂い。
それから、
男の声。
遠く。
目を開ける。
現実。
男がソファの横に座っている。
僕の頭を撫でていた。
「お前も覚えてるのか」
僕は答えない。
覚える、
という言葉が何を意味するのか、
僕には知らない。
でも、
匂いはある。
身体が知っている。
あのひとが座るとき、
ソファの左側が少し沈んだ。
僕の頭を撫でる手は小さかった。
笑うと息が少し早くなった。
冬の朝の皮膚は冷たかった。
そういうものが、
僕の中に残っている。
もしそれが「覚えている」ということなら、
僕は覚えている。
夜中。
僕は目を覚ました。
ソファの隙間。
鼻を入れる。
奥。
とても薄い。
でも、
あった。
あの匂い。
僕は目を閉じた。
男は寝室で眠っている。
僕はソファ。
部屋は静か。
匂いだけが、
昔と今をつないでいる。
人間は、時間を時計で測る。
僕には時計は分からない。
でも、
時間には匂いがある。
新しいもの。
古いもの。
薄くなるもの。
変わるもの。
混ざるもの。
その夜、
僕は初めて、
匂いが薄くなることを、
全部なくなることと同じだとは思わなかった。
なぜなら、
セーターの匂いが薄くても、
男がそれを抱いたとき、
彼の身体はあのひとを知っていたから。
匂いがなくても、
身体には残ることがあるらしい。
それは、
僕には少し不思議だった。
第四章 デイ・バイ・デイ
春が来た。
僕の名前と同じ季節。
そういうことを人間は面白がる。
あのひともよく言った。
「ハルの季節だね」
僕には、春が自分のものだとは思わない。
でも好きだ。
草。
土。
花。
風。
いろいろな匂いが一気に増える。
冬の世界は静か。
春は鼻の中が忙しい。
一年が過ぎたらしい。
僕には正確には分からない。
ただ、
ソファの奥にあったあの匂いは、
もう見つからなくなった。
何度嗅いでも、
ない。
代わりに、
僕の毛。
男。
珈琲。
新しく買った布。
窓から入る風。
濡れた芝生。
いろいろな匂いが重なっている。
昔の家とは違う。
でも、
嫌ではない。
男の足音も変わった。
重くない日が増えた。
朝。
「ハル、飯」
器。
粒が落ちる。
カラカラ。
僕は食べる。
「急ぐな」
無理。
散歩。
「ハル、行くぞ」
この言葉も好きだ。
玄関。
首輪。
外。
男はよく僕の名前を呼ぶようになった。
昔より、
たくさん。
僕は名前を呼ばれるたび、
男を見る。
人間は、
名前を呼ぶことで、
そこにいることを確かめるのかもしれない。
僕は鼻で確かめる。
男は声で確かめる。
方法が違う。
でも、
やっていることは似ている。
ある日、
男は公園のベンチに座った。
僕は足元。
桜。
花びら。
あの甘い匂いのひととは違う花の匂い。
男は空を見ていた。
少しだけ、
昔の目をした。
遠くを見る目。
僕は立ち上がって、
膝へ鼻を置いた。
男は僕を見る。
「そうだな」
何がそうなのか分からない。
でも、
頭を撫でる手は温かかった。
昔より。
僕は知っている。
あのひとは帰ってこない。
いや。
僕は本当にそれを知っているのだろうか。
分からない。
ドアノブが鳴れば、
今でも走る。
階段から甘い匂いが上がってこないか、
今でも嗅ぐ。
でも、
それと、
男が帰ってきて嬉しいことは、
矛盾しない。
待つことと、
今を生きることは、
同時にできる。
僕には、
ずっとそうだった。
その夜、
男は新しい毛布をベッドへ敷いた。
昔のものとは違う匂い。
僕はしばらく嗅いだ。
乗った。
男も横になる。
真ん中には、
以前のような冷たい空気の塊はなかった。
もちろん、
あのひとがいるわけではない。
でも、
僕が男の足の上へ顎を置く。
男が僕の背中へ手を置く。
それで、
ベッドは埋まった。
違う形で。
男は言った。
「おやすみ、ハル」
僕は目を閉じた。
人間は、
なくなったものを忘れないと前へ行けないと思うことがあるらしい。
でも僕にはよく分からない。
僕は、
昨日嗅いだ匂いを覚えながら、
今日の匂いも嗅ぐ。
昔好きだったひとを待ちながら、
今帰ってきた男へ走る。
ソファに残った匂いを探しながら、
新しい毛布で眠る。
それで困らない。
僕の世界では、
古い匂いと新しい匂いが、
同じ空気の中に混ざる。
どちらかを消さなくても、
鼻はちゃんと世界を知ることができる。
人間も、
そうなのかもしれない。
次の朝。
ドアノブが鳴った。
カチャ。
僕は走った。
玄関。
男。
今日は買い物へ出ていただけ。
袋の中から、
パン。
牛乳。
肉。
知らない花。
それから、
僕のおやつ。
僕は尻尾を振った。
男が笑う。
「ただいま」
僕は顔を舐める。
ただいま。
帰ってきた。
それだけでいい。
男の顔に、
あのひとが残していったものが少しある。
笑い方。
僕の頭を撫でる手。
ご飯を器へ入れるときの優しい速さ。
僕には、
そういうものが匂いとは違う形で残ることも、
少しずつ分かってきた。
あのひとはいない。
でも、
あのひとがこの家でしていたことは、
男の身体の中に残っている。
男が僕を愛するやり方の中に、
彼女がいる。
だから、
僕はもう、
匂いだけを探さなくてもいい。
もちろん、
ドアノブが鳴ったら走るけれど。
それは僕の仕事だから。
エピローグ あたたかな不在
僕は今でも、
ときどき夢を見る。
柔らかい膝。
花。
濡れた髪。
小さな手。
「ハル」
声。
目を覚ます。
朝。
男の寝息。
僕の鼻先。
窓。
新しい光。
夢の匂いは、
目を覚ますとすぐ薄くなる。
でも、
寂しくはない。
僕は伸びをする。
床へ降りる。
男が起きる。
「おはよう」
僕には返事の言葉がない。
だから、
尻尾を振る。
それで伝わる。
たぶん。
人間は、
いなくなったひとのことを、
「不在」と呼ぶのかもしれない。
僕はその言葉を知らない。
でも、
そこに誰もいない場所には、
ときどき温度がある。
ソファの左側。
助手席。
ベッドの真ん中。
海へ向かう道。
男が空を見る瞬間。
その場所には身体がない。
でも、
男の匂いが少し変わる。
僕の胸の奥も、
少し動く。
だから、
空っぽなのに、
完全な空っぽではない。
それを人間が何と呼ぶのか、
僕には分からない。
でも僕なら、
鼻を近づける。
何も匂わない。
それでも、
知っている。
ここには、
誰かがいた。
誰かを愛した。
誰かに愛された。
その時間が、
まだこの家を少しだけ温めている。
今日も男は仕事へ行く。
「留守番頼むな」
僕は玄関まで送る。
ドアが閉じる。
静かになる。
僕はソファへ戻る。
以前あの匂いが残っていた場所。
今は、
僕の匂いしかしない。
丸くなる。
眠る。
夕方。
階段の下から匂い。
男。
僕は目を開ける。
ドアノブ。
カチャ。
走る。
それは、
昨日もやった。
今日もやる。
明日もたぶんやる。
人間はそれを、
同じことの繰り返しだと思うかもしれない。
でも僕には、
毎回違う。
昨日の男と、
今日の男。
昨日の僕と、
今日の僕。
風。
汗。
雨。
匂い。
全部少し違う。
だから、
一日ずつ。
一日ずつ。
僕たちは、
同じ家で違う日を生きる。
悲しい匂いが残る日もある。
笑う匂いの日もある。
両方の日もある。
それでいい。
僕は走る。
男がしゃがむ。
僕の頭を抱える。
「ハル」
僕は彼の顔を舐める。
しょっぱくない。
今日は、
少し珈琲の味がした。
尻尾が床を叩く。
一回。
二回。
三回。
男が笑う。
部屋のどこかに、
もう匂いのない誰かの時間がある。
そして、
僕と男の新しい匂いが、
その上へ重なっていく。
消すのではない。
隠すのでもない。
ただ、
今日の匂いを足していく。
それが、
僕たちの暮らしだ。
それが、
僕の知っている時間だ。
そしてきっと、
それが、
愛というものなのだと思う。
僕はその言葉を知らないけれど。
今日も、
尻尾はちゃんと動いている。
終
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