――偽者(フェイク)の私と、生きた時間のリアル
第一章 404 NOT FOUNDのオフィス街
「城野さん。これ、誰が書いても同じだよね」
神谷瑞穂さんは、私が三日かけて作った企画書を、ガラス張りの会議室のテーブルへ静かに戻した。
赤字はない。訂正もない。だからこそ、余計に怖かった。
「情報は整理されてる。ターゲット分析も市場調査も悪くない。文章も読みやすい。でも、あなた自身が見えない」
私は喉の奥で小さく息を飲んだ。
また、それか。
「ブランドってね、綺麗な言葉を並べればできるものじゃないの。もっと根っこを掘らないと。その企業にしかないもの。その商品にしかないもの。コピーできない熱。純度百パーセントのオリジナル」
神谷さんは私を見た。
「城野さん自身の熱も、もっと出して」
会議室の向こうには、港区の午後が広がっていた。高層ビル。首都高速。巨大な広告。雲を映しているガラス。どの建物も、自分こそが未来ですという顔をして空へ伸びている。
私は机の下で右手を握った。
本当の私。
オリジナル。
コピーできない熱。
その三つの言葉を頭の中へ入力する。
検索。
検索。
検索。
そして、いつもの画面が浮かぶ。
404 NOT FOUND
心の中のどこを探しても、該当するページが見つからない。
「……修正します」
私が答えると、神谷さんは少しだけ眉を寄せた。
「それも」
「え?」
「『修正します』って、誰にでも言えるよね」
胸の奥で、冷たいエラー音が鳴った。
*
私の勤める会社は「ORIGIN」という。
ひどく皮肉な名前だと思う。
大手ブランディング会社。広告、商品開発、企業理念の再構築、地域再生。私たちは毎日、他人の「起源」を探している。
この会社へ入るために、私は就職活動で自分の起源まで捏造した。
「幼い頃から人の心を動かす物語に興味があり」
嘘。
「大学時代のゼミ活動で、異なる価値観を持つ仲間をまとめ」
盛った。
「私は常に、自分なりの問いを持って行動してきました」
これは自分で書いていて笑いそうになった。
私は、人から聞いた「就活で評価される人物像」をつなぎ合わせただけだった。
エントリーシートを書くための記事を読み、合格者の自己PRを参考にし、面接官が好む言葉を調べた。それらを混ぜ、少し自分の経験を振りかけ、「城野彩乃」という商品を作った。
それで内定した。
だから私は、会社へ出勤するたび、ときどき不思議な気分になる。
採用されたのは、本当に私だったのだろうか。
それとも、私が就活用に制作したレプリカなのだろうか。
*
学生時代、付き合っていた人に言われたことがある。
「彩乃って、本当は何考えてるの?」
その日、私たちは池袋の小さな居酒屋にいた。
「どういう意味?」
「何言っても、それっぽい答え返ってくるじゃん」
「会話なんだから普通でしょ」
「そうじゃなくて」
彼は少し困った顔をした。
「俺が映画面白かったって言えば、彩乃もいいところ探してくれる。つまらなかったって言えば、『分かる』って言う。進路の話しても、俺がどっちに行っても応援するって言う」
「それの何が悪いの?」
「悪くない」
その「悪くない」が怖かった。
「ただ」
彼はグラスの水滴を指でなぞりながら言った。
「本当の彩乃が見えない」
私は何も言えなかった。
では、本当の私を出そう。
そう思った。
しかし、探してみたら、いなかった。
怒っている私。
優しい私。
嫉妬する私。
合わせる私。
一人になりたい私。
捨てられたくない私。
どれが本物なのか分からない。
だから黙った。
その沈黙が答えになってしまった。
三週間後、別れた。
それ以来、私は「本当の私」という言葉が嫌いになった。
*
大型コンペの仕事が入ったのは、入社して八か月目だった。
北関東の小さな町に残る陶磁器産地、鷺峰焼。
千年近い歴史を持つとされる窯元群を、海外市場向けに再ブランディングする案件だった。
神谷さんは言った。
「テーマはORIGIN」
またその言葉。
「千年続く技。土地に根差した土。受け継がれた炎。こういう仕事こそ、表面的なコピーじゃ駄目。徹底的に本物を掘って」
私は資料を抱え、美術館へ向かった。
関連する古陶磁器の展示を見るためだった。
その日は朝から何も食べていなかった。
コーヒー二杯。
エナジードリンク一本。
頭の中には、
本物。
本物。
本物。
本物。
という文字が回っていた。
展示室を出たところで、床が傾いた。
「あ」
と思った。
世界が白くなった。
倒れる直前、誰かの腕が私の身体を受け止めた。
油絵具のような匂いがした。
*
気づいたとき、私はバックヤードの長椅子に寝かされていた。
「起きた?」
知らない男がいた。
二十代半ばくらい。黒い髪。白いシャツの袖を肘までまくっている。指先に、茶色や青や白の細かな汚れがついていた。
「……すみません」
「謝る前に水飲んだほうがいい」
紙コップを渡された。
「貧血?」
「たぶん寝不足です」
「食った?」
「朝は」
「食ってない顔だな」
失礼だと思った。
でも反論する元気もなかった。
男は少し離れた机へ戻った。
そこには古い絵が置かれていた。
半分だけ清掃されている。
右側は黒ずみ、左側は淡い青空が現れていた。
「修復……?」
「そう」
男は綿棒のような道具を持った。
「佐伯蓮」
「あ、私は」
「名札ついてる」
胸元を見る。
ORIGIN 城野彩乃。
「ほんとだ」
少し笑われた。
妙に腹が立たなかった。
佐伯蓮は、また絵へ向き直った。
私はその背中を見ながら思った。
この人のシャツは皺がある。
袖には絵具。
靴も少し汚れている。
それだけで、なぜか安心した。
会社では、汚れているものは提出できない。
ここでは、
汚れているものが仕事になっていた。
第二章 贋作の工房と、上塗りされた空
佐伯修復アトリエは谷中の路地裏にあった。
なぜ私がそこへ通うようになったのか、自分でも正確には説明できない。
最初は、お礼を言いに行っただけだった。
次は、美術館で見た絵の修復について少し質問した。
その次は、近くまで来たから。
四回目には、もう言い訳を考えなかった。
古い木造家屋を改装した工房には、油、ワニス、木、紙、埃の匂いが混ざっていた。壁には修復待ちの絵。棚には顔料。机の上には筆と拡大鏡。
そして一角には、名画の模写が並んでいた。
「これ、本物?」
私が聞くと、蓮は呆れた顔をした。
「見りゃ分かるだろ」
「分からないから聞いてるんです」
「レプリカ」
私は近づいた。
古い西洋絵画を模した風景。
光。
雲。
遠くの塔。
美しかった。
「贋作?」
「贋作っていうのは、本物だと偽って流通させるためのもの。これは模写。最初からコピーだと分かって売る」
「でも偽物ですよね」
蓮の手が止まった。
「偽物って、便利な言葉だな」
「だってオリジナルじゃない」
「じゃあ、オリジナルじゃないものは全部偽物か?」
「……違うんですか」
蓮は答えなかった。
代わりに、奥から一枚の油絵を持ってきた。
十九世紀の風景画だという。
薄暗い丘。
家。
空。
「これを見ろ」
「普通の古い絵にしか」
「X線写真」
タブレットを渡された。
私は画面を見る。
表面の風景の下に、
別の絵がある。
女性らしい輪郭。
さらにその下に、
別の構図。
「え」
「少なくとも二回、描き直されてる」
「同じ画家が?」
「分からない。別人の可能性もある」
「じゃあ、本当の絵はどれ?」
そう聞いた瞬間、蓮が笑った。
「出たな」
「何が」
「本物病」
むっとした。
「じゃあ一番最初に描かれたものが本物じゃないんですか」
「なんで?」
「最初だから」
「最初なら本物なのか?」
「……」
「この絵は二百年近く存在してる。その間に傷がついて、誰かが直して、上から描いて、また剥がれて、修復されてる。お前が言う『純粋な一枚目』に戻すなら、その二百年全部剥がすことになる」
蓮は絵の縁を指でなぞった。
「それは修復じゃない。歴史の破壊だ」
私は黙った。
「一番下だけが真実じゃない。今ここに重なってるもの全部が、この絵の履歴だ」
絵を見る。
さっきまで汚く見えた表面が、
少し違って見えた。
「人間も同じだと思います?」
思わず聞いた。
蓮は筆を置いた。
「急に重いな」
「すみません」
「別に」
私は笑おうとして、
やめた。
「私、自分が偽物に見えるんです」
声にすると、
思っていたより弱かった。
「仕事で書く文章も、人から覚えた表現ばかり。面接で言ったことも、半分は作り話。人に合わせて笑うし、相手が欲しそうな答えを探して言う。自分の本心を探すと」
私は目を閉じた。
「404になる」
「何それ」
「ページが見つかりません」
蓮は少し笑った。
「便利な頭だな」
「笑わないでください」
「いや」
彼は絵へ向き直った。
「本心って、一枚目の下絵みたいにどこかに眠ってると思ってる?」
私は答えられなかった。
「誰かの真似したことない人間なんているのか」
「でも」
「俺だって師匠の筆の持ち方真似した。色の作り方も。昔の画家だって誰かの絵見て覚えた。音楽だってそうだろ。コード進行なんて借り物だらけだ」
「王道進行みたいな?」
「知らん」
「知らないんだ」
「絵描きだからな」
少し笑った。
蓮は続けた。
「型を借りることと、同じものになることは違う」
私は彼を見る。
「同じ型でも、誰が、いつ、何を抱えて使ったかで変わる」
その言葉が、
妙に残った。
*
その日の帰り。
山手線の窓へ自分の顔が映った。
会社用のコート。
きちんと結んだ髪。
買ったばかりのバッグ。
誰かに教わった化粧。
全部、
借りもの。
でも、
その顔で今日まで生きた。
満員電車に乗った。
面接で震えた。
失恋して泣いた。
会社で頭を下げた。
美術館で倒れた。
蓮の工房で笑った。
なら。
借りた色でも、
私のキャンバスに塗られた瞬間から、
少しずつ私の色になるのだろうか。
そんなことを考えた。
まだ信じ切れなかった。
ただ、
404の画面に、
初めて小さな「戻る」ボタンが現れたような気がした。
第三章 偽物の器と、取り消せない涙
鷺峰焼の調査は順調だった。
順調すぎた。
古文書。
地域資料。
過去のパンフレット。
職人への聞き取り。
「千年の伝統」
「一子相伝」
「この土地にしかない釉薬」
資料のどこを見ても、綺麗な物語が並んでいた。
神谷さんは満足していた。
「これよ。こういう核が必要なの」
私は頷いた。
でも、
引っかかった。
一番古い資料ほど、現在売りにしている技法への言及が少ない。
おかしい。
私は休日も図書館へ通った。
古い業界誌。
自治体の記録。
昭和四十年代の新聞。
そして見つけた。
一九七四年。
先代当主がヨーロッパ視察から帰国したあと、
新しい釉薬技法を導入した記録。
さらに、
地元新聞の記事。
《海外陶芸技術を参考に新製品開発》
私は読み返した。
もう一度。
そして、
机へ額をつけた。
「……千年じゃないじゃん」
むしろ、
五十年。
しかも、
模倣。
会社へ戻り、
資料を神谷さんへ見せた。
彼女はしばらく黙った。
「確実?」
「複数資料で確認しました」
「窯元は?」
「現当主は詳しく知らなかったみたいです。先代の頃から『伝統技法』として語られるようになったらしくて」
神谷さんの顔が硬くなった。
「止めましょう」
「え」
「虚偽のストーリーでは出せない」
「でも」
「でもじゃない。ブランドは信頼よ」
それは正しい。
正しいから、
私は何も言えなかった。
「この案件、いったん白紙。クライアントにも説明する」
白紙。
その言葉が、
妙に痛かった。
*
窯元へ事実を伝えた日のことを忘れない。
七十代の職人が、
黙って窯の火を見ていた。
「じゃあ、俺らは偽物だったんかね」
誰かが言った。
誰も答えなかった。
作業場には、
乾燥中の器。
釉薬。
土。
五十年積み重なった棚。
全部急に、
価値を失ったように見えた。
私は胸が苦しくなった。
でも、
嘘を守ることはできない。
それも分かっていた。
帰ろうとしたとき、
奥の部屋で、
一人の老職人が器を磨いているのが見えた。
「それ、何ですか」
「昔の失敗作」
「失敗?」
「色が出過ぎた」
青と灰色が混ざった皿だった。
美しかった。
「捨てないんですか」
老人は笑った。
「女房が好きだったんだ」
それだけ。
次に彼は段ボール箱を指した。
「昔、お客さんから来た手紙がそこにあるよ」
私は一枚だけ読むつもりだった。
一時間経っていた。
結婚祝いでもらった。
亡くなった父が毎朝使っていた。
娘が初めて作った料理を盛った。
離婚したあと、一人暮らしを始めた日に買った。
入院中の母へ食事を運ぶのに使った。
一枚の皿。
一つの湯呑み。
そこに、
誰かの人生があった。
私は手紙を握ったまま、
息ができなくなった。
千年の伝統は、
嘘だった。
これは事実。
だが、
この器を使って笑った人がいた。
救われた人がいた。
家族の記憶を残した人がいた。
それも、
事実。
私は初めて、
「真実」というものを一枚の紙に印刷された判定結果のように考えていた自分に気づいた。
本物。
偽物。
○。
×。
でも世界は、
そんな二色ではなかった。
「違う」
私は呟いた。
老職人が振り返る。
「何が?」
「いえ」
涙が出た。
自分でも驚いた。
「技法の由来が嘘だったことは、ちゃんと訂正しなきゃいけない」
老人は黙っている。
「でも」
私は手紙を見る。
「これまでこの器を大事にした人の気持ちまで、嘘になるわけじゃない」
声が震えた。
「救われたって思ったことは、取り消せない」
その瞬間、
私の中で、
何かがつながった。
あの人が昔、
「好きだよ」
と言ったこと。
あとから別れた。
なら、
あの言葉は偽物だったのか。
たとえ、
未来まで続かなかったとしても。
その夜、
私は嬉しかった。
安心した。
抱きしめられた。
それは起きた。
消せない。
会社の面接で言った言葉だって、
すべてが真実ではなかった。
でも、
それを言うために必死だった私の恐怖。
採用通知を見て泣いたこと。
初出勤の日に手が震えたこと。
それは、
全部起きた。
対象の真偽と、
経験の現実は、
同じではない。
私はようやく分かった。
フェイクから、
リアルが生まれることがある。
だからといって、
フェイクを守っていいわけではない。
嘘は訂正する。
間違いは引き受ける。
でも、
嘘の中で生きた人間の時間まで、
まとめて焼却してはいけない。
私は、
ORIGINへ戻った。
第四章 キャンバスの余白
「この案件、私にもう一度やらせてください」
神谷さんは、
長いこと私を見た。
「白紙にすると言ったはずだけど」
「白紙にはしません」
自分でも驚くほど、
はっきり言えた。
「嘘のまま出すつもり?」
「逆です」
私は企画書を置いた。
表紙。
『伝統ではなく、生存の技法。』
神谷さんが読む。
「千年の技術という表現は全部撤回します」
ページをめくる。
「海外技術を参考にした経緯も公開します。経営難だったことも。先代が模倣から始めたことも」
「それ、ブランドとして弱くなるよ」
「そうかもしれません」
「じゃあ何を売るの?」
私は息を吸った。
「五十年です」
神谷さんが顔を上げる。
「千年じゃなくて?」
「はい」
私は資料を開いた。
古い写真。
失敗作。
職人たち。
窯。
手紙。
「生き残るために他国の技術を真似した。何度も失敗した。そこから自分たちの釉薬へ変えていった。景気が悪くなって、家族が辞めて、それでも窯を閉じなかった。これが五十年続いた」
胸が熱い。
「最初から純粋だったわけじゃない。でも、だから偽物なんでしょうか」
神谷さんは黙っている。
「模倣から始まっても、そのあと五十年手を動かした時間はコピーできない」
私は、
蓮の言葉を思い出していた。
型を借りることと、
同じものになることは違う。
「本物を発掘するんじゃなくて」
私は言った。
「この人たちが、借りたものをどう自分たちの時間へ変えてきたのかを見せたいんです」
会議室が静かだった。
神谷さんは、
企画書を閉じた。
「城野さん」
「はい」
「それ、あなたの言葉?」
胸の奥。
いつもの検索画面が一瞬浮かぶ。
本当の私?
オリジナル?
でも、
今回は検索しなかった。
「借りものも入ってます」
私は答えた。
「佐伯さんっていう修復士に言われたことも。職人さんから聞いたことも。昔読んだ本も。神谷さんから教わったことも」
彼女が目を細める。
「でも」
私は続けた。
「今、この言葉を使うって決めたのは私です」
それで十分だった。
神谷さんは、
しばらく黙ったあと、
小さく笑った。
「じゃあ、やってみて」
*
プレゼンの日。
私は、
「千年」
という言葉を一度も使わなかった。
代わりに、
一九七四年から始めた。
海外から技術を持ち帰った先代。
模倣。
失敗。
経営難。
試作品。
改良。
職人の離職。
新しい釉薬。
顧客からの手紙。
私は最後に、
一枚の写真を映した。
あの青灰色の失敗作。
「これは、当時の職人が失敗だと判断した器です」
審査員たちを見る。
「でも、ある職人の奥様は、この色が一番好きだったそうです」
少し笑いが起きた。
「伝統とは、最初から純粋であることではないのかもしれません」
私は言った。
「借りたもの。間違えたもの。捨てられなかったもの。誰かに愛されたもの。その全部が積み重なって、あとから歴史になる」
声が震えなかった。
「鷺峰焼は千年の秘伝ではありません」
その言葉を、
堂々と言えた。
「五十年間、生き残るために描き直され続けた器です」
静寂。
「その上塗りの履歴こそ、私たちは価値として伝えたい」
プレゼンを終えた。
拍手が起きた。
大きくはなかった。
でも、
本物だった。
いや。
もう、
そう呼ばなくてもよかった。
私は確かに、
嬉しかった。
それで十分だった。
エピローグ 十二色の夕暮れ
週末。
私は谷中へ行った。
蓮は窓際で、
古い絵を直していた。
「どうだった」
「勝ちました」
「そう」
「もっと喜んでください」
「よかったじゃん」
「薄い」
「感情表現苦手なんだよ」
私は笑った。
工房の窓から、
夕方の東京が見える。
寺の屋根。
電線。
ビル。
薄い橙色。
灰色。
紫。
青。
一色ではない空。
私は持ってきたスケッチブックを開いた。
「何描く」
「自画像」
蓮が嫌そうな顔をした。
「重いな」
「嘘。景色」
十二色入りの小さな色鉛筆。
子どもみたい。
私は黄色を取った。
夕焼けへ塗る。
赤を重ねる。
少し汚くなる。
青を入れる。
もっと濁る。
でも、
綺麗だった。
「私」
「うん」
「ずっと、本当の自分がどこかにいると思ってたんです」
蓮は作業を続けている。
「就活で作った自分は偽物。会社で笑ってる自分も偽物。恋人に合わせた自分も偽物。本物はもっと奥にいるはずって」
「見つかった?」
「いませんでした」
「残念」
「でも」
私は色鉛筆を一本選ぶ。
緑。
「いなくてよかったのかも」
蓮が少しだけこちらを見る。
「本物の私が一人だけいたら、その人以外の私は全部間違いになる」
私は笑った。
「嫌ですよ、そんなの」
大学で泣いた私。
面接で嘘をついた私。
会社で愛想笑いした私。
美術館で倒れた私。
工房で説教されて腹を立てた私。
職人の手紙を読んで泣いた私。
プレゼンで自分の言葉を選んだ私。
全部、
同じキャンバスにいる。
塗り直した跡。
消しきれなかった線。
下から透ける色。
それでいい。
「これからも嘘つくと思います」
「開き直るな」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
私は笑った。
嘘は、
嘘として訂正すればいい。
傷つけたなら、
謝ればいい。
間違えたなら、
責任を取ればいい。
でも、
間違った自分を、
人生から切り取らなくていい。
白紙に戻らなくていい。
生きるということは、
たぶん、
修復ではなく上描きに近い。
完全な原状回復なんてない。
昨日の自分へ戻ることもできない。
それでも、
余白は残っている。
その余白へ、
次の色を置ける。
私はスケッチブックに、
蓮の横顔を描き足した。
「勝手に描くな」
「背景です」
「人を背景扱いするな」
「でも、人って誰かの背景でもあるでしょ」
「急に哲学っぽくするな」
「職業病です」
「ブランディング屋だろ」
「似たようなものです」
二人で笑った。
窓の外で、
街の灯りが一つずつ点いていく。
広告。
電車。
コンビニ。
誰かが作った音楽。
誰かが考えた服。
誰かの真似から始まった料理。
誰かの言葉を借りて愛を告げる人。
世界は、
借りものでいっぱいだった。
でも、
借りものだから価値がないわけではない。
C、Am、F、G。
何千回も使われたようなコードでも、
その上で、
まだ誰も歌っていない歌を歌える。
型は借りられる。
言葉も借りられる。
でも、
その型の上で今日を生きることだけは、
誰にも代わってもらえない。
私は最後に、
白い部分を少し残した。
「そこ塗らないの?」
蓮が聞く。
「余白」
「何のための」
私は考えた。
そして、
答えた。
「明日の私が、何色を使いたくなるか分からないから」
蓮は少し笑った。
夕暮れの光が、
修復途中の絵へ落ちる。
古い絵具。
新しい絵具。
傷。
補修。
上塗り。
全部が同じ光を受けていた。
私はもう、
「本物の私」を探さなかった。
検索窓を閉じた。
404でもよかった。
だって、
見つからないなら、
描けばいい。
真実は、
どこかに隠されている完成品ではない。
間違い、
模倣し、
傷つき、
救われ、
誰かの言葉を借り、
それでも今日の色を自分で選んだ、
その時間の重なりの中に生まれてくる。
私の自画像は、
まだ完成していない。
きっと、
死ぬまで完成しない。
だから、
いい。
私は十二色の中から、
まだ使っていなかった一本を取った。
そして、
汚れたキャンバスの余白へ、
新しい線を一本、
描き足した。
それは誰かの絵に似ていたかもしれない。
ありふれた線だったかもしれない。
それでも、
今ここで、
私が選んで引いた。
その事実だけは、
誰にも偽物にはできなかった。
終
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