2026-08-26

胡散くさい預言者のワルツ-第二部、甘い毒を砕け

 



迷いの森の預言者

第一章 菓子の家と、迷い子たちの街

人間は、弱っているときほど甘いものを欲しがる。

砂糖。抱擁。確約。運命。絶対。成功率百パーセント。

言葉は違っても、どれも舌の同じ場所を甘くする。

「あなたは必ず幸せになります」

そんなことを言われたら、誰だって少し嬉しい。

私だって嬉しい。

だからこそ、私は言わない。

未来が見える女が「必ず」と口にした瞬間、その言葉は慰めではなく檻になることを、私は知っているからだ。

東京、谷中。細い路地の奥にある「鏡の館」は、その冬、ずいぶん静かになっていた。

以前なら午後七時を回れば、恋に迷った女、仕事に疲れた男、亡くした誰かの声をもう一度聞きたい老人などが、一人、また一人と真鍮のドアノブを回した。しかし今夜、ベルベットのカーテンの向こうにある待合椅子は空っぽだった。

壁の時計が三つ、それぞれ違う時刻を示している。

一つは九時十二分。

一つは十一時四十七分。

最後の一つは、四時ちょうどで止まっている。

「暇だね」

遠藤晴が、作業机に頬杖をついた。

「あなたが居座ってるから客が入りづらいんじゃない?」

「それは濡れ衣だよ」

晴は、私が拾ってきた古い置時計の裏蓋を外していた。二十二歳。時計修理職人の見習い。どういうわけか、前の事件以来、仕事帰りにここへ寄るのが習慣になっている。

私はカウンターの上のスマートフォンを睨んだ。

原因は分かっていた。

画面には、白い羽根のようなロゴ。

ETHER GUARD

エーテルガード。

いま東京の若者のほとんどが入れていると噂されるAI未来予測アプリだ。

食事、就職、進学、恋愛、資産運用。

利用者の過去の行動履歴、学校成績、購買履歴、位置情報、健康データ、SNS上の発言、交友関係を統合し、「幸福確率」が最大になる行動を一分単位で提示する。

《13:42 このカフェへ入店してください》

《14:06 窓際から三番目の席へ》

《14:18 青いコートの人物へ「この席、空いてますか」と話しかけてください》

《交際成立確率 99.8%》

最初に見たときは、笑った。

二週間後には笑えなくなった。

昼の街を歩けば、同じ時刻に同じ店へ入る人々がいる。

恋人同士がスマホの通知を確認してから手をつなぐ。

高校生が自動販売機の前で十分も立ち尽くしている。アプリが「水」か「お茶」かを計算中だからだ。

失敗しない。

損をしない。

傷つかない。

そのかわり、自分では決めない。

「便利そうだけどね」

晴が言った。

「入れた?」

「入れてない」

「偉い」

「スマホが古くて対応してなかった」

「褒めた私を返して」

晴が笑う。

私は笑わなかった。

エーテルガードの宣伝文句が、どうしても気に入らなかった。

あなたの未来から、失敗をなくします。

未来から失敗をなくす。

そんなものは、未来ではない。

予定表だ。

いや、もっと悪い。

飼育表。

そのとき、扉が鳴った。

コン。

一度。

少し間を空けて、もう一度。

コン。

晴が顔を上げる。

「客」

「見れば分かる」

私は黒い革手袋を整えた。

扉を開ける。

立っていたのは、制服姿の少女だった。

雨は降っていないのに、肩を濡らしたように縮めている。

長い黒髪。絵の具のついたトートバッグ。目の下には、何日も眠れていない人特有の薄い影。

「宵野鏡さんですか」

「そうよ」

少女は私の顔を見て、それから店内を見た。

赤いランプ。

ベルベット。

止まった時計。

古い木の床。

「……本当に怪しい」

「褒め言葉として受け取っておく」

帰るかと思った。

でも少女は、鞄の紐を握りしめたまま言った。

「未来を見てください」

私はため息をついた。

「予約は?」

「ないです」

「今日は暇だからいいけど」

晴が奥で咳払いした。

私は無視した。

少女を椅子へ案内する。

「名前」

「白鳥莉乃。十八歳。高校三年です」

「何が知りたいの」

莉乃は答えず、スマートフォンを差し出した。

画面にはエーテルガード。

そして、冷たく整った文章。

《白鳥莉乃様の長期幸福予測》

《芸術分野継続時》

《社会的成功確率 0.3%》

《経済安定度 8.2%》

《精神的安定度 17.4%》

その下に推奨ルート。

《美術大学受験を中止》

《一般大学へ進学》

《23歳で就職》

《24歳で推奨相手との婚約》

《25歳時点総合幸福確率 99.7%》

私は黙って最後まで読んだ。

「私は」

莉乃が言った。

声が掠れていた。

「小さい頃から絵を描いてきました」

「見れば分かる」

指。

爪の溝。

袖口。

青、赤、黄。

洗っても落ちなかった絵の具が残っている。

「来月、美大の特待生試験があります。でも、エーテルガードを使ったら……」

莉乃は唇を噛んだ。

「才能がないって」

私は端末を机に置いた。

「アプリは才能がないとは言ってない」

「同じです」

「違う」

「成功確率、0.3%ですよ」

「成功と才能は別物」

「でも」

莉乃の声が大きくなる。

「絵を続けて、落ちて、お金がなくなって、親にも迷惑かけて、それで何も残らなかったら?」

十八歳。

まだ子どもだ、と言うのは簡単だ。

でも十八歳の人間にとって、来月は十分に未来の崖である。

「親は?」

「アプリの言う通りにしろって。お母さんもエーテルガード使ってて、去年からずっと」

「友達は?」

「みんな使ってます」

「先生」

「先生も」

莉乃が笑った。

乾いた笑いだった。

「私だけが、わざわざ失敗する道を選ぼうとしてるみたいなんです」

そして、突然泣いた。

「だからお願いです」

彼女は右手を出した。

絵の具のついた手。

「私の未来を見てください」

私はその手を見た。

「私が絵を捨てたら、幸せになれますか」

黒い手袋の内側で、指が冷えた。

「百パーセントの答えが欲しい?」

莉乃は頷いた。

「はい」

菓子の家。

そんな言葉が浮かんだ。

森で飢えた子どもに、

壁まで砂糖でできた家を差し出す。

入っておいで。

食べていいよ。

もう迷わなくていい。

私は手袋を外した。

「後悔しても知らないわよ」

莉乃の手を握った。

そして世界が割れた。

一、二、三。

一、二、三。

過去。

五歳。

クレヨン。

十歳。

母親の似顔絵。

十四歳。

美術部。

十六歳。

初めて自分の絵を破いた夜。

そして未来。

最初の道。

莉乃はキャンバスを捨てる。

一般大学。

就職。

清潔なマンション。

優しい夫。

充分なお金。

笑顔の写真。

誕生日。

旅行。

二十五歳。

ソファへ座る莉乃。

生活には何も欠けていない。

なのに、

彼女の目だけが、

どこにもいなかった。

次の未来。

美大受験。

不合格。

二度目。

また不合格。

安いアパート。

コンビニの夜勤。

泣く。

怒る。

キャンバスを蹴る。

二十五歳。

小さな共同アトリエ。

暖房が壊れている。

莉乃の指は絵の具まみれ。

笑っている。

その後ろに、

まだ何枚も白いキャンバスが立っていた。

そしてさらに。

私は見るのをやめた。

手を離す。

莉乃が縋るように言った。

「どっち?」

私は何も言わない。

「どっちが正しい未来なんですか?」

答えは見えている。

正確には、

二つとも見えている。

それでも私は言った。

「分からない」

莉乃の顔が止まった。

「え?」

「どちらが正解か、私には分からない」

「……嘘」

「そうかもね」

「だって未来が見えるんでしょう!」

「見えるわよ」

「なら!」

莉乃が立ち上がった。

「どっちが幸せか教えてよ!」

その声が、鏡の館の壁を震わせた。

私は彼女を見た。

「嫌」

「どうして」

「あなたが私に人生を渡そうとしてるから」

「そんな」

「そんな、じゃない」

私は黒い手袋をはめ直した。

「あなたはエーテルガードから逃げてここへ来た。そして今、私に同じことをさせようとしてる」

莉乃が黙る。

「AIに決めてもらうのをやめて、胡散臭い預言者に決めてもらう?」

私は鼻で笑った。

「同じ檻よ」

「じゃあ私はどうすればいいの」

「知らない」

「最低」

「知ってる」

私は棚から一枚の素描用紙を出した。

鉛筆も一本。

机へ置く。

「今夜、描きなさい」

「何を?」

「何でも」

「それが何になるんですか」

「知らない」

莉乃の顔が歪む。

私は続けた。

「才能があるか未来に訊くのをやめなさい」

鉛筆を彼女へ押し出す。

「自分が生きてるか、今の手に訊きなさい」

莉乃は長いあいだ鉛筆を見た。

それから、

奪うように掴んだ。

帰り際、

「ほんとに胡散臭い」

と言った。

「ありがとう」

扉が閉まる。

晴が奥から出てきた。

「冷たいね」

「何が」

「あそこまで見えてたんでしょう」

私は答えない。

「絵を続けた未来」

「あなたも未来見えるの?」

「鏡の顔が分かりやすいだけ」

私は手袋を見た。

「未来を教えるって」

言葉が自然に漏れた。

「簡単なのよ」

「うん」

「知ってるものを、そのまま言えばいいだけだから」

「うん」

「だから怖い」

晴は何も言わなかった。

私は机の上のスマートフォンを見る。

エーテルガードの白い羽根。

まるで天使だった。

菓子の家も、

遠くから見れば、

きっと天国に見えたのだろう。


第二章 知らないふり

翌日から、莉乃は毎晩来た。

予約もしない。

占いもしない。

ただ奥の机を借りて絵を描く。

「ここ美術予備校じゃないんだけど」

「家で描くとアプリ見るから」

「スマホ置いてくれば?」

「できたら苦労しません」

「依存症ね」

「鏡さんに言われたくないです」

「何で」

「未来見るのやめられないじゃないですか」

私は黙った。

十八歳のくせに、余計なところだけ鋭い。

莉乃は、描いては消し、消しては描いた。

手。

鳥。

森。

家。

顔のない少女。

「何描いてるの」

「分かりません」

「いい答え」

「褒めてます?」

「少し」

三日目の夜。

莉乃が突然訊いた。

「本当に知らないんですか」

「何を」

「私の未来」

鉛筆の音が止まる。

「知ってるなら、教えてください」

私は紅茶を飲んだ。

「嫌」

「どうしてそこまで意地悪なんですか」

「優しいから」

「自分で言う?」

「誰も言ってくれないから」

莉乃は呆れた顔をした。

私は少し笑った。

「昔話知ってる?」

「何の?」

「ヘンゼルとグレーテル」

「お菓子の家のやつ」

「そう」

私は黒い手袋の指先を見た。

「魔女にかまどへ入れって言われたグレーテルは、『やり方が分からない』って言った」

「知ってます」

「本当は分かってたのにね」

莉乃がこちらを見る。

「知らないふりをした」

「それが?」

「知らないことって、いつも弱さじゃない」

私は言った。

「知ってるくせに知らないふりをすることだって、時には知性なの」

莉乃は少し考えた。

「鏡さんも?」

「何が」

「知らないふりしてる?」

私は答えなかった。

答えないことが答えになる夜もある。

エーテルガードはさらに勢力を拡大していた。

ニュースでは開発者、黒木蓮華が連日取り上げられている。

三十代半ば。

白いシャツ。

黒い髪。

微笑み。

その人の話し方は穏やかだった。

「人間は自由を過大評価しています」

スタジオで蓮華は言った。

「選択肢が多いほど人は幸せになると思われています。しかし実際には、不確実性はストレスを生む。未来予測が十分に正確なら、不要な失敗を避けられる」

司会者が尋ねる。

「人生から失敗をなくせると?」

「はい」

蓮華は迷わなかった。

「私はそのためにエーテルガードを作りました」

その目が、

少しだけ怖かった。

嘘を言っている人間の目ではない。

本気だ。

本気で人間を救おうとしている。

だからこそ怖い。

「鏡」

晴がテレビを見ながら言った。

「この人嫌い?」

「まだ会ってないから分からない」

「嘘」

「未来見なくても分かるのね」

「顔に出てる」

私はテレビを消した。

「嫌いというより」

何と言えばいいだろう。

「似てるのよ」

晴が黙った。

「私と」

未来を知っている。

人を救おうとする。

正しい言葉を与える。

違うのは、

どこまで与えるか。

その境界だけ。

だから私は思った。

私は魔女にはならない。

それは蓮華への批判というより、

私自身への戒めだった。

一週間後。

黒木蓮華は、

本当に鏡の館へ来た。

カメラを連れて。

「取材は受けてません」

「取材ではありません」

蓮華が笑う。

「議論です」

「もっと嫌」

数人のスタッフが路地にいる。

莉乃も店内にいた。

顔が青ざめていた。

蓮華は彼女を見る。

「ああ」

知っているらしい。

「白鳥莉乃さん」

莉乃のスマートフォンが震えた。

《警告》

莉乃の表情が固まる。

私は蓮華を見る。

「何したの」

「何も。アプリが必要な情報を通知しただけです」

莉乃の画面。

《芸術継続により幸福確率低下中》

《推奨進路へ変更してください》

「気味悪い」

私が言うと、

蓮華は笑った。

「あなたに言われたくない」

確かに。

「宵野鏡さん」

「何」

「あなたは、未来が見えると称しているそうですね」

「称してるだけかも」

「そして相談者に未来を語らない」

「必要なことは言う」

「なぜ全部言わない?」

私は答える。

「全部知る必要がないから」

「無責任ですね」

蓮華の声は穏やかなままだった。

「未来の危険を知っていて黙る。避けられる失敗を避けさせない」

「避けることが正しいとは限らない」

「失敗を美化するんですか」

「しない」

私は莉乃を見る。

「失敗は痛い。貧乏も嫌。落第も嫌。失恋も嫌。病気なんてもっと嫌」

「なら」

「でも」

私は蓮華へ視線を戻す。

「痛みをなくすことと、生きることは同じじゃない」

初めて、

蓮華の目が細くなった。

「あなたは痛みを知らないから言える」

その一言。

妙に重かった。

私は何も返さなかった。

蓮華はそのまま帰った。

でも扉の向こうへ消える直前、

彼女の横顔に、

私は一瞬だけ、

何か古い傷の匂いを感じた。

触っていないのに。


第三章 魔女の宴

黒木蓮華が昔、何を失ったのか。

知ったのは晴からだった。

「記事残ってた」

夜。

晴がタブレットを差し出す。

十年前。

二十四歳の蓮華。

スタートアップ企業。

若き天才。

医療支援システム。

事業拡大。

失敗。

巨額損失。

共同創業者との決裂。

そして数年後、その共同創業者は事故で亡くなっていた。

「恋人でもあったらしい」

晴が言う。

私は記事を閉じた。

「だから失敗をなくしたい」

「かもね」

「だからって」

言いかけてやめる。

簡単に責めたくなかった。

甘い家を建てる魔女だって、

昔は飢えた子どもだったかもしれない。

そう考えると、

悪役は少しだけややこしくなる。

その夜、莉乃が泣きながら館へ飛び込んできた。

「鏡さん」

スマートフォン。

画面が赤い。

《最終警告》

《本日23:59までに芸術活動を停止してください》

《従わない場合、長期幸福確率 0.0%》

「……ゼロ」

莉乃が震えている。

「私、ゼロになる」

「落ち着いて」

「幸せになれない」

「数字よ」

「でもみんな当たってるって!」

「莉乃」

「私、怖い!」

彼女は鞄からカッターナイフを取り出した。

そして壁に立てていた自分の絵へ向かった。

「何してるの」

「捨てればいいんでしょ」

「やめなさい」

「そうすれば百パーセント」

「莉乃!」

刃がキャンバスへ向かう。

その手を、

晴が掴んだ。

「離して!」

「嫌です」

「私の人生なの!」

「だったら」

晴が言った。

静かな声だった。

「アプリに捨てさせるな」

莉乃が止まる。

「捨てるなら、自分で決めて捨てろ」

「……」

「描くなら、自分で決めて描け」

「でも未来が」

「未来の確率なんて、過去のデータから作った数字でしょう」

晴はカッターを彼女の手から取った。

「今の君が、今何を選ぶかは、まだ過去にはない」

私は晴を見る。

時計修理屋のくせに。

時々、未来を扱うのが私より上手い。

莉乃が床に崩れた。

泣いた。

私はそばに座った。

触れなかった。

触れれば未来が見えてしまう。

今は、

それをしたくなかった。

「鏡さん」

「何」

「怖い」

「うん」

「失敗したくない」

「私も」

莉乃が顔を上げる。

「鏡さんも?」

「当たり前でしょう」

「未来見えるのに?」

「見えるから余計怖いのよ」

言ってしまった。

自分でも少し驚いた。

私は未来を知っている。

でも、

未来の意味は分からない。

晴と笑っている場面を見ても、

その笑いが永遠に続く保証にはならない。

誰かが成功する未来を見ても、

本人がそれを幸福と呼ぶかは分からない。

未来とは、

完成した答えではない。

ただの映像だ。

そこへ意味を与えるのは、

生きた本人だけ。

「莉乃」

私は言った。

「あなたの未来、二つ見えた」

彼女の目が大きくなる。

「でも言わない」

「……」

「一つだけ言う」

私は彼女の絵を見る。

「どっちの未来にも、あなたはいた」

莉乃が黙る。

「だから今夜、自分で決めなさい」

それだけ言った。

翌日。

美大受験予備校の展示ホールで、エーテルガードの公開イベントが行われることになった。

タイトル。

AIが描く、失敗のない進路

悪趣味。

しかも白鳥莉乃の事例を「若者の合理的進路変更」として公開する予定だという。

私は招待されていなかった。

だから行った。

「鏡、普通こういうの不法侵入って言わない?」

「受付通ったから合法」

「名前なんて書いたの」

「胡散臭い女」

「嘘」

「宵野鏡」

晴がため息をついた。

ホール。

若者たち。

スマートフォン。

巨大モニター。

中央に黒木蓮華。

そして、

莉乃。

その前には、

白いキャンバス。

いや。

昨日まで白くなかった。

莉乃が徹夜で描いた絵だった。

歪んだ森。

赤い家。

黒い鳥。

迷い子。

その中央に、

顔のない女。

荒い。

汚い。

絵の具が垂れている。

でも、

生きていた。

蓮華がマイクを持つ。

「白鳥莉乃さん。最後に確認します」

画面。

《芸術継続時幸福確率 0.0%》

「この未来を選びますか」

莉乃の手が震えている。

私は歩き出した。

「選ぶかどうかを数字に訊かないで」

会場がざわめく。

蓮華が私を見る。

「来ましたか」

「呼ばれてないけど」

私は壇上へ上がった。

莉乃の絵を持ち上げる。

重い。

絵の具がまだ乾いていない。

「見て」

会場へ向ける。

「これが0.3%?」

誰も答えない。

「これが0%?」

私は笑った。

「便利ね、数字って」

蓮華が言う。

「感情論です」

「そうよ」

「未来設計は感情で行うものではない」

「人生を誰が生きると思ってるの」

「本人です」

「なら本人の感情を抜いてどうするのよ」

蓮華の顔が変わった。

私は続ける。

「失敗をなくす?」

「ええ」

「傷つく可能性をなくす?」

「ええ」

「迷わなくする?」

「それが幸福です」

「それ」

私は言った。

「生きてるって言う?」

静まり返る。

「あなたが作ってるのは菓子の家よ」

「何?」

「甘くて、安全で、何でも与えてくれる」

私は巨大画面を指した。

「でも中へ入った人間は、自分で歩けなくなる」

「比喩に意味はない」

「なら数字で言いましょうか」

一歩近づく。

「自由度ゼロ」

蓮華の瞳が揺れた。

「あなたは人間を救ってるんじゃない」

「黙れ」

初めて、

彼女の声が荒れた。

「あなたに何が分かる」

「分からない」

即答した。

蓮華が止まる。

「あなたの傷も。何を失ったかも。全部は分からない」

私は黒い手袋を見る。

「だから、分かったふりはしない」

蓮華は何も言わない。

「でも一つだけ分かる」

私は彼女を見た。

「あなたはもう二度と傷つきたくなかった」

その顔。

泣きそうだった。

でも泣かなかった。

「だから世界中から失敗を消そうとした」

「……何が悪い」

「悪くない」

私は言った。

「怖かったんでしょう」

蓮華の肩が揺れた。

「でも、あなたの恐怖を、みんなの檻にしてはいけない」

その瞬間。

莉乃が動いた。

スマートフォンを床へ落とした。

画面には、

《警告》

「莉乃」

蓮華が呼ぶ。

少女は端末を見る。

そして、

靴で踏んだ。

一度。

画面が割れる。

二度。

黒くなる。

莉乃は絵筆を取った。

赤い絵の具。

未完成のキャンバス。

真ん中へ、

一本。

真っ直ぐではない。

荒い。

強い。

赤い線。

会場のモニターが点滅した。

《予測モデル再計算》

《入力逸脱》

《長期予測信頼度低下》

《再計算》

《再計算》

やがて、

画面いっぱいに、

ERROR

私は吹き出した。

「未来って、エラー出すのね」

晴が後ろで笑った。

でも私は知っていた。

本当はAIが人間の自由に敗北したのではない。

そんな単純な話ではない。

AIはまた学習するだろう。

もっと正確になる。

人間の行動をもっとよく予測する。

だからこそ、

問題は精度ではない。

たとえ99.999%当たったとしても。

残りの0.001%が、

人間には必要なのだ。

そこに、

「私はこうする」

が入る余地がある。

未来は予測されてもいい。

ただし、

命令になってはいけない。

私は蓮華へ黒い手袋のまま手を出した。

「来なさい」

「……どこへ」

「外」

「何がある」

「知らない」

「あなた、預言者でしょう」

「だから言ってるの」

私は笑った。

「知らない未来も悪くないわよ」

蓮華は私の手を見た。

すぐには取らなかった。

それでいい。

手を取るかどうかまで、

私が決めたら意味がない。


第四章 私は魔女にはならない

エーテルガードは消滅しなかった。

これが現実である。

一つのイベントで巨大サービスが世界から消えるほど、世の中は親切ではない。

ただし、

「100%幸福」という宣伝文句は消えた。

利用規約も変わった。

未来予測ではなく、

「意思決定支援」。

推奨行動の表示には、

小さな一文がついた。

これは選択肢の一つです。あなた自身の意思を代替するものではありません。

黒木蓮華は表舞台から一時退いた。

どこへ行ったかは知らない。

本当は、

知ろうと思えば知れるかもしれない。

でも、

知らないことにした。

グレーテルみたいに。

莉乃は特待生試験に落ちた。

結果を聞いた夜、

彼女は鏡の館へ来た。

「落ちました」

「そう」

「それだけ?」

「おめでとうって言えばいい?」

「最低」

莉乃は泣いた。

私はお茶を出した。

「悔しい」

「うん」

「アプリの言う通りだった」

「何が」

「成功確率低いって」

「一回落ちただけで人生の統計を完成させないで」

「でも」

「で、絵やめる?」

莉乃は鼻を啜った。

「やめません」

「なら今日はそれでいい」

「一般の美大受けます」

「うん」

「そこも落ちたら?」

「そのとき泣けば」

「また?」

「人間、何回泣いても壊れないわよ」

「鏡さんが言うと説得力ない」

「失礼ね」

少し笑った。

莉乃も笑った。

泣きながら。

それを見て、

私はあの二つの未来を思い出した。

どちらへ行くかは、

まだ分からない。

いや。

未来が見える私には、

ある程度見えている。

でも、

もういい。

未来の映像より、

今の泣き笑いのほうが、

ずっと確かだった。

ある夜。

最後の客が帰ったあと、

私は一人でカウンターへ座っていた。

黒い手袋。

赤いランプ。

静かな路地。

晴がハーブティーを置く。

「今日何人?」

「七人」

「見すぎ」

「仕事」

「休め」

「命令?」

「推奨」

「エーテルガードみたい」

「幸福確率八十三パーセント」

「低い」

晴が笑う。

私は手袋を眺めた。

「ねえ、晴」

「うん」

「私、最近怖いの」

「何が」

「魔女になること」

晴は冗談を言わなかった。

だから続けた。

「人から感謝されるのって、気持ちいい」

「そりゃそうでしょう」

「『鏡さんのおかげで助かりました』とか、『言われた通りにしたら幸せになりました』とか」

私は指を曲げる。

「そういうの聞くと、もっと言ってあげたくなる」

晴が黙っている。

「この人にはこの未来がいい。こっちは危ない。こっちへ行けば幸せ」

喉が乾いた。

「全部見えるから、全部選んであげられる」

「でもしない」

「今はね」

「何で?」

「怖いから」

晴を見る。

「人を救うのって、甘いのよ」

自分で言って、

ぞっとした。

菓子の家。

魔女だって、

最初は親切な老婆だった。

食べ物を出した。

ベッドを用意した。

「ここにいればいい」

そう言った。

私は違うのか。

「未来を教えるのも同じ」

私は言う。

「人に安心を食べさせて、私なしじゃ歩けなくすることもできる」

「しないでしょう」

「どうして言い切れるの」

「言い切れない」

晴の返事は早かった。

私は少し腹が立った。

「そこは言い切ってよ」

「未来は確定しちゃ駄目なんでしょう?」

私は黙る。

やられた。

晴は笑わなかった。

「鏡が魔女になる可能性はあると思う」

「……」

「誰にだってある」

晴が私の黒い手袋の上へ手を置いた。

「だから、なりそうになったら言う」

「何て」

「胡散臭いぞ、って」

私は笑ってしまった。

「いつもじゃない」

「じゃあ『今日は特に』って」

「最低」

「あと」

晴の手が少し強くなる。

「手を握る」

未来を見るための手ではない。

過去を読むための手でもない。

ただ、

今の私を戻す手。

「それで戻れる?」

私は訊いた。

「知らない」

晴が言う。

「やってみないと」

私は目を閉じた。

一、二、三。

過去。

今。

未来。

三拍子。

以前は、

真ん中の一拍を飛ばしていた。

過去と未来ばかり見ていた。

でも人間が生きられるのは、

いつも真ん中だけだ。

今。

どれだけ未来が見えても、

明日の痛みを今日痛むことはできない。

どれだけ過去が見えても、

昨日の選択を今日やり直すこともできない。

人間は、

現在という狭い一拍の中でしか、

自由になれない。

それは不便で、

怖くて、

頼りない。

だから人は、

菓子の家を欲しがる。

絶対大丈夫。

正しい道。

失敗しない方法。

運命の相手。

成功確率百パーセント。

でも、

そこに閉じ込められたら、

迷わなくなる代わりに、

選ぶこともなくなる。

「鏡」

「何」

「難しい顔」

「哲学してた」

「やめたほうがいい」

「失礼ね」

私は晴の手の下から自分の手を抜いた。

そして、

黒い手袋を外した。

晴の手を、

今度は私から握る。

未来が一瞬、

流れ込もうとした。

私は目を閉じる。

見ない。

知らないふり。

グレーテルの知性。

未来が見える女の、

小さな抵抗。

「何か見えた?」

晴が訊く。

「知らない」

「嘘」

「知らないふり」

「便利」

「命を救う知恵よ」

「大げさ」

「昔話を舐めないで」

窓の外。

谷中の夜は、

森みたいだった。

細い道。

灯り。

黒い影。

迷っている誰か。

たぶん明日も、

誰かが来る。

恋が怖い。

仕事が怖い。

進路が分からない。

死ぬのが怖い。

生きるのも怖い。

私はその人たちへ、

未来の地図を全部渡したりしない。

代わりに、

小さな言葉を一つ。

今日だけ。

一歩だけ。

暗い森を歩ける程度の光。

それでいい。

私は救済者ではない。

魔女でもない。

神でもない。

ただ、

森の途中に立っている、

胡散臭い女だ。

それくらいがちょうどいい。


エピローグ 迷いの森のあたたかな夜

春。

莉乃から一枚の葉書が届いた。

美大に合格した、と書いてあった。

特待生ではない。

第一志望でもない。

それでも、

絵を続けるらしい。

葉書の裏には小さな絵。

森。

赤い家。

黒い鳥。

そして、

黒い手袋をした女。

その女は、

家の前に立っていなかった。

森の出口にいるわけでもない。

道の途中。

手に小さな灯りを持っている。

下に一行。

「迷ったまま、描いてます。」

私は笑った。

「いい顔」

晴が横から覗く。

「女の絵?」

「私」

「美化されてる」

「帰って」

「褒めたのに」

私は葉書を壁へ貼った。

黒木蓮華から連絡はない。

エーテルガードは、今日もどこかで人に選択肢を提示している。

世界から甘い家はなくならない。

なくす必要もないのかもしれない。

人間はときどき、

甘いものに休ませてもらう。

予測。

計画。

助言。

安心。

問題なのは、

家に入ることではない。

出口がなくなることだ。

甘いものを食べてもいい。

未来予測を参考にしてもいい。

誰かに相談してもいい。

ただ、

最後の一歩まで他人に歩かせてはいけない。

私は、

そう思う。

夜。

扉が鳴る。

コン。

コン。

コン。

「どうぞ」

十六歳くらいの少年。

顔が青い。

「未来を見てほしいです」

「何の?」

「受験」

私はため息をつく。

「また?」

「え?」

「こっちの話」

少年が手を出す。

震えている。

私は黒い手袋を外した。

握る。

過去。

未来。

たくさん見える。

合格。

不合格。

別の学校。

別の道。

泣く。

笑う。

恋をする。

諦める。

始める。

全部。

私は手を離した。

少年が訊く。

「受かりますか」

私は少し考えた。

そして、

答えた。

「知らない」

少年の顔が絶望する。

私は笑う。

「でも」

机から紙と鉛筆を出した。

「今夜やることなら分かる」

「何ですか」

「勉強」

「普通!」

「預言者が普通のこと言うとありがたみあるでしょう」

「ないですよ!」

店の奥で晴が笑った。

私も笑った。

路地裏の夜。

三拍子。

一、二、三。

過去。

今。

未来。

私は未来が見える。

それでも、

未来をすべて語らない。

なぜなら、

人間には知らない権利がある。

迷う権利がある。

失敗する権利がある。

傷ついて、

考え直して、

道を変える権利がある。

そして何より、

自分の人生を、

自分の足で歩く権利がある。

だから私は、

甘い未来を売らない。

大きな魔法も使わない。

迷い子へ渡すのは、

ほんの小さな呪文だけ。

朝まで持てば、それでいい。

「ねえ、晴」

閉店後、

私は黒い手袋を机に置いた。

「何」

「私、魔女になってない?」

晴はお茶を飲みながら、

じっと私を見る。

「かなり魔女っぽい」

「帰れ」

「でも」

彼が笑う。

「菓子の家は建ててない」

私は少しだけ笑った。

窓の外では、

東京という大きな森が、

静かに夜を深くしている。

未来は、

知っている。

でも今夜くらい、

知らないことにしよう。

私は晴の手を握った。

黒い手袋を外した、

生身の手で。

どんな未来が流れ込んできても、

目を閉じる。

見ない。

ただ、

今の温度だけを覚える。

それが私の、

いちばん小さくて、

いちばん大切な魔法だった。

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