――黒い手袋の祈り
第一章 路地裏の灯りと、黒い手袋
「胡散臭い女」
それが、この街が私にくれた名前だった。
本名は宵野鏡。二十二歳。職業を訊かれたときは、面倒だから「占い師」と答えることにしている。
本当は、星座も手相もよく知らない。
タロットカードなら一応七十八枚持っているけれど、客の前で並べるのは小道具だ。カードが未来を教えてくれるわけではない。私に必要なのは、相手の手だけだった。
東京、谷中。
観光客で賑わう通りから二本ほど外れた細い路地の奥に、私の店はある。
赤いランプ。古い木製の扉。真鍮の取っ手。色褪せたベルベットのカーテン。
看板には、
鏡の館
とだけ書いてある。
雨の日には文字が濡れて、余計に怪しく見える。
私は気に入っている。
どうせ人は、中身を見る前に看板を見る。
だったら最初から、思い切り怪しくしてしまえばいい。
夜七時。
最初の客が入ってきた。
三十代くらいの女性だった。高そうなコート。濡れた傘。香水と雨と、不安の匂い。
彼女は椅子へ腰を下ろすなり、私を値踏みするように眺めた。
「本当に、見えるんですか?」
「そういう質問をする人ほど、帰らないのよね」
「……失礼じゃないですか?」
「疑うなら帰ればいいわ」
私は頬杖をついた。
「料金も前払いじゃないし、扉はそこ。好きにして」
女性は立たなかった。
人間は面白い。
信じていないと言いながら、信じられる理由を探しにくる。
奇跡なんか馬鹿馬鹿しいと言いながら、自分だけには奇跡が起きてほしいと思っている。
私は黒い革手袋を右手から外した。
指先が空気に触れる。
それだけで少し寒い。
「手を」
女性がためらう。
「怖い?」
「少し」
「私もよ」
彼女が怪訝そうな顔をした。
私は説明しなかった。
差し出された掌を握る。
その瞬間だった。
視界が反転する。
音が遠くなる。
三拍子。
一、二、三。
一、二、三。
私の心臓ではない鼓動が、頭蓋骨の内側で鳴り始める。
そして、彼女の昨日が流れ込んできた。
白い病室。
閉まるドア。
小さな箱。
読み返されすぎて柔らかくなった一通の手紙。
泣かないように奥歯を噛みしめる彼女。
次に未来。
駅。
ホーム。
冬。
彼女は立っている。
誰かが隣にいる。
顔は見えない。
笑っている。
もっと先を見る。
私はやめた。
手を離した。
女性が息を飲む。
「……何が見えました?」
私は手袋を戻しながら言った。
「最近、大切な人を失った」
顔色が変わる。
「その人から手紙をもらってる。何度も読んだ。捨てようとして、まだ捨ててない」
「どうして……」
私は続けない。
本当はもっと見えた。
彼女が冬の駅で出会う誰か。
その人と暮らす部屋。
そして、その何年も先に訪れる別れ。
でも言わない。
未来は、見えるからといって、全部渡していいものではない。
毒と薬の違いは、量だったりする。
「心配しなくていい」
私は言った。
「今は、手紙を捨てなくていい。泣けなくてもいい。そのうち、ちゃんと誰かと笑ってる」
「誰と?」
「そこまで知ってどうするの?」
「だって」
「名前も顔も知ったら、その人を探し始めるでしょう」
女性は黙った。
「あなたが恋をする前に、未来の恋人という役を誰かに押しつけることになる」
「……」
「だから半分だけ」
私は笑った。
「未来は、半分くらい暗いほうが歩きやすいの」
女性は長いあいだ何も言わなかった。
帰り際、扉のところで振り返った。
「あなた、やっぱり胡散臭いですね」
「知ってる」
その夜、私は五人の人生へ触れた。
五人の過去。
五人の未来。
五種類の痛み。
最後の客が帰ったあと、右手は震えていた。
私はそれを左手で押さえる。
カーテンの向こうで、雨が路地を叩いている。
一、二、三。
一、二、三。
雨も三拍子に聞こえた。
私はときどき思う。
私は未来を見ているのではなく、人間の時間という巨大な舞踏会で、誰かの手を取るたび、強制的に一曲踊らされているだけなのではないか。
曲が終われば相手は帰る。
私は残る。
それを毎晩繰り返す。
だから黒い手袋をしている。
これは衣装ではない。
私と世界のあいだにある、最後の皮膚だ。
*
遠藤晴が来たのは、その一週間後だった。
雨の夜だった。
閉店時間を過ぎている。
扉が三回鳴った。
コン。
コン。
コン。
「閉店よ」
扉越しに言った。
「お願いします」
若い男の声。
「予約は?」
「してません」
「じゃあ来月」
「兄のことを知りたいんです」
私は返事をしなかった。
扉の向こうから声が続く。
「半年前に、兄が死にました」
雨音。
「自分で命を絶ったと聞いています。でも、その前に何があったのか、誰も教えてくれない」
私は目を閉じた。
こういう依頼は嫌いだ。
死者の過去は、重い。
残された者の未来は、もっと重い。
「警察か家族に訊けば」
「訊きました」
「私に訊いてどうするの」
沈黙。
やがて彼は、
「復讐したいんだと思います」
と言った。
私は扉を開けた。
目の前にいたのは、黒い傘を持った青年だった。
二十二歳。
後から知った。
濡れた髪。
痩せた顔。
そして、妙に綺麗な手。
指先に、黒い油汚れ。
「職人?」
「時計修理の見習いです」
なるほど。
小さな歯車を扱う手だ。
私は中へ入れた。
「名前」
「遠藤晴」
「手を出して」
「すぐなんですね」
「帰る?」
「まさか」
手袋を外す。
晴の手を握った。
そして。
世界が、壊れた。
兄。
深夜。
罵声。
職場。
机の下で震える拳。
無視された相談。
退職届。
雨。
屋上。
私は息を呑んだ。
その先。
晴。
兄を追い詰めた人々を探している。
証拠。
怒り。
執着。
仕事を辞める。
誰かを傷つける。
拘束される腕。
泣いている母親。
そして、遠い未来。
古い時計店。
陽だまり。
晴が笑っている。
誰かの腕時計を修理している。
その傍らに、
誰かがいる。
私は手を離した。
息ができない。
晴が私を見る。
「兄は?」
「……」
「誰に何をされたんですか」
私は右手を握りしめた。
見えている。
でも、
全部言ってはいけない。
「教えてください」
「嫌」
「は?」
「嫌よ」
「見えたんでしょう」
「見えた」
「なら!」
「あなたがその先で何をするかも見えた」
晴の顔から色が消えた。
「僕は何をするんです?」
私は答えない。
「言ってください」
「言ったら、あなたはその未来に縛られる」
「そんなの逃げてるだけでしょう」
「そう思うなら、それでいい」
「兄は死んだんですよ!」
彼の声が館に響いた。
ランプが小さく揺れる。
「なのに半分しか教えない? 何が慈悲ですか。何が未来ですか」
私は晴を見た。
怒り。
悲しみ。
罪悪感。
それら全部が、彼の顔の中にいた。
「あなたの未来に、復讐の答えはない」
「……」
「それだけ」
「胡散臭いな」
「今さら?」
晴は立ち上がった。
扉を強く閉めて出ていった。
私は椅子へ深く座った。
手が震えている。
でも、彼に言えなかったことがある。
見えた未来の最後で、
晴は笑っていた。
とても穏やかに。
だからこそ、
今の彼にその未来を教えたくなかった。
人間は希望さえ、
使い方を間違えれば檻にする。
「将来幸せになる」
そう言われたら、
苦しい今日を無理に正当化してしまう人もいる。
未来とは、
人間を支える光にも、
人間を縛る鎖にもなる。
私は知りすぎている。
だから、
半分だけ嘘をつく。
半分だけ黙る。
それが、私の仕事だった。
第二章 半分隠す慈悲と、偽りの聖女
晴は三日後にまた来た。
「予約ない人は入れないって言ったでしょう」
「前回も入れてくれた」
「学習能力ないの?」
「時計直します」
「何?」
晴は古い懐中時計をテーブルへ置いた。
私のものだった。
館の壁に掛けていた時計の一つ。数日前から止まっていた。
「勝手に触った?」
「前回来たとき止まってるの見えたから」
「泥棒ね」
「修理屋です」
そう言って彼は小さなドライバーを取り出した。
私は呆れて見ていた。
「未来は聞かないの?」
「聞いても教えないんでしょう」
「学習したじゃない」
「だから別のこと訊こうかなと」
「何」
晴は時計から目を上げない。
「あなた、あれ毎日やって平気なんですか」
私の右手が止まった。
「何が」
「触るやつ」
「仕事よ」
「答えになってない」
「あなたには関係ない」
「それも答えになってない」
私は少し腹が立った。
客は普通、自分のことしか訊かない。
自分の恋。
自分の仕事。
自分の未来。
私がどうなるかなんて、興味を持たない。
「どうしてそんなこと訊くの」
「前回、手が震えてたから」
私は手袋をした手を膝の下へ隠した。
晴は見ていない。
時計を開き、針の裏側を確認している。
「これ、機械が壊れてるんじゃないですね」
「じゃあ何」
「油が固まってるだけ」
「人間みたい」
「人間は油差して直りませんよ」
「つまらない男」
晴が笑った。
その笑い方を見て、私は少しだけ困った。
未来で見た笑顔に似ていた。
*
同じ頃、九条聖という男がテレビに出始めていた。
白いスーツ。
穏やかな声。
整った顔。
肩書は「未来心理カウンセラー」。
画面の中で彼は言う。
「未来は確定しています。私には分かります。正しい未来を知れば、人間は迷う必要がなくなる」
私はテレビを消した。
最悪だと思った。
未来が確定しているかどうかではない。
それを他人に渡すことが最悪なのだ。
知らされた未来は、
ただの情報ではなくなる。
命令になる。
「あなたはこの仕事で成功する」
と言われた人間は、
別の仕事を選ぶ自由を失う。
「あなたの恋人は裏切る」
と言われた人間は、
相手の無実の行為まで裏切りの徴候として読むようになる。
未来を語るという行為は、
未来を作ってしまう。
私は、それが怖かった。
九条はそれを、
堂々と商売にしていた。
「百パーセントの未来」
「迷いのない人生」
「あなたの運命を保証します」
予約は半年待ち。
胡散臭い。
いや。
私が言うのもなんだけれど、
本当に胡散臭い。
*
ある夜、店の壁に紙が貼られていた。
インチキ女
赤い文字。
次の日には、
人の弱みにつけ込む詐欺師
その次の日、
窓へ石を投げられた。
晴が来たとき、私はガラスの破片を掃いていた。
「これ」
「見れば分かるでしょう」
「警察は?」
「面倒」
「怪我は?」
「ない」
晴が黙って箒を取った。
「返して」
「二人のほうが早い」
「客でもないのに何しに来てるの」
「時計の調整」
「とっくに直ったでしょう」
「じゃあ、お茶飲みに」
私は彼を見る。
「暇なの?」
「あなたほどじゃない」
「喧嘩売ってる?」
「売ってません」
彼は破片を集めながら、
「でも」
と言った。
「あなたが全部見えるなら、誰がこれやったかも分かるんじゃないですか」
「分かると思う?」
「……分からないんですか」
「触らないと見えない」
「便利な能力じゃないんですね」
「便利だったら手袋なんかしない」
その瞬間、
晴の視線が手袋に落ちた。
何も訊かなかった。
それが、
妙に嬉しかった。
第三章 預言者の傷と、不眠の夜番
九条聖の番組で、ある女性が取り上げられた。
彼は彼女に、
「あなたの人生には大きな破綻が訪れる」
と告げた。
仕事。
恋。
家族。
すべて失う。
そう断定したらしい。
女性は恐怖に囚われた。
未来のどの出来事も、
破綻の前兆に見えるようになった。
数週間後、
事故が起きた。
命は助かった。
けれど、その夜からネットでは、
「予言」
「呪い」
「怪しい占い師」
という言葉が飛び交った。
そしてなぜか、
私の名前まで混ざった。
人間は、分からないことが起きると、
原因を一つにしたがる。
悪者を作れば安心できるからだ。
その日の夜、
店の扉には赤い塗料が撒かれた。
私は拭かなかった。
もう疲れていた。
三日眠っていない。
触れた人々の過去が、
夢になって流れ込んでくる。
未来まで。
笑う子ども。
病室。
結婚式。
別れ。
駅。
火事。
老いた手。
死。
人間の時間が、
私の頭の中でずっと三拍子を踊っている。
一、二、三。
一、二、三。
止まらない。
熱が出た。
私は床に座り込んだ。
黒い手袋をしたまま、
膝を抱えた。
誰も私の傷を見ない。
そんな言葉が、
頭に浮かんだ。
笑えてきた。
当たり前だ。
私は見せていない。
「胡散臭い女」という仮面を自分から被った。
疑うなら帰れ。
泣くな。
媚びるな。
見えるものだけ見せろ。
自分のことは何も言うな。
そう決めた。
そうしなければ、
他人の人生に潰されるから。
でも。
仮面を上手に被りすぎると、
誰もその下に顔があることを忘れる。
私は未来を照らす。
過去を拾う。
言葉を渡す。
「あなたは大丈夫」
「慌てなくていい」
「まだ誰かが待っている」
毎晩、
そんなことを言う。
では。
私は?
私には、
誰が言う?
世界のどこかに、
私を照らす人はいるの?
そのとき、
扉が開いた。
「鍵開いてるじゃないですか」
晴。
「帰って」
「ひどい顔」
「褒め言葉?」
「熱あるでしょう」
「未来見なくても分かるのね」
「普通に分かります」
彼は台所へ行った。
水。
タオル。
私は立とうとした。
眩暈。
「触らないで」
晴が腕を伸ばした瞬間、
反射的に叫んだ。
彼は止まった。
「……ごめん」
その一言が嫌だった。
なぜ謝るの。
あなたは何もしていない。
怖いのは私のほうなのに。
晴は距離を取った。
タオルをテーブルに置く。
「自分でできます?」
「できる」
できなかった。
手が震えている。
晴は何も言わず待った。
私は唇を噛んだ。
それから、
右手の手袋を外そうとした。
うまくいかない。
指が動かない。
晴が言った。
「手伝っていいですか」
私は返事をしなかった。
彼はそれを、
許可と取らなかった。
待った。
その慎重さが、
余計につらかった。
「……いい」
晴が手袋の端をつまむ。
ゆっくり。
革が皮膚から離れていく。
指。
掌。
手首。
私の素手。
冷たい。
醜いほど白い。
「触ると見える」
私は言った。
「知ってます」
「あなたの未来も」
「知ってます」
「怖くない?」
晴は少し考えた。
「怖いですよ」
正直だった。
「でも」
彼が手を差し出す。
「未来を見るためじゃなければ、触ってもいい?」
私は息を止めた。
何を言っているのか、
分からなかった。
手に触れれば、
未来は流れ込む。
それが私の世界のルールだ。
晴の掌が、
私の掌を包んだ。
温かい。
私は身構えた。
兄。
雨。
時計店。
未来。
何かが来る。
でも、
何も来なかった。
ただ、
体温。
皮膚。
鼓動。
少し荒れた指。
それだけ。
私は晴を見る。
「……なんで」
「何も見えない?」
「うん」
「じゃあ今は、ただの手なんじゃないですか」
そんな馬鹿な。
私の能力に休憩時間なんてない。
でも、
本当に何も見えなかった。
未来も。
過去も。
晴という人間の「今」だけがあった。
その瞬間、
私は気づいた。
私はずっと、
人間の手を、
扉としてしか触っていなかった。
過去へ入る扉。
未来へ入る扉。
でも、
手は本来、
ただ触れるためにもある。
晴の両手が、
私の手を包んでいる。
「鏡さん」
「何」
「みんなあなたのところに来て、自分の未来を照らしてくれって頼むでしょう」
「仕事だから」
「でも」
彼は私の目を見る。
逃げなかった。
「あなたの未来は、誰が照らすんですか」
私は笑おうとした。
失敗した。
「……知らない」
声が出なかった。
「君の手」
晴が言った。
「こんなに冷たいじゃないですか」
その一言で、
何かが壊れた。
未来が見えたわけではない。
過去を言い当てられたわけでもない。
ただ、
今の私を言われた。
冷たい。
たったそれだけ。
でも、
誰も今の私を見たことがなかった。
「私は」
涙が落ちた。
「私は、みんなに大丈夫って言うの」
晴は黙っている。
「未来はあるって。誰かが待ってるって。慌てなくていいって」
また涙。
「でも私には、誰も言わない」
晴の胸へ額が触れた。
私は自分からだった。
「誰も……私には……」
その先は言葉にならなかった。
私は泣いた。
ひどい泣き方だった。
鼻も詰まった。
呼吸も乱れた。
預言者らしさなんて、一欠片もなかった。
晴は何も言わなかった。
未来を約束しなかった。
「大丈夫」とさえ言わなかった。
ただ、
私が泣き終わるまで、
そこにいた。
その夜、
私は初めて、
救済には予言が必要ないことを知った。
第四章 未来をすべて語らない理由
九条聖と会ったのは、
数日後だった。
テレビ局でも、
壇上でもない。
彼の事務所。
白い壁。
白い机。
未来を語る場所とは思えないほど、
何もない部屋だった。
九条は笑った。
「君が宵野鏡か」
「胡散臭い女です」
「自分で言うのか」
「便利だから」
彼は私へ資料を滑らせた。
「君は半端だ」
「褒め言葉?」
「本当に未来が見えるのなら、なぜ全部話さない」
私は椅子へ座った。
「必要ないから」
「未来を知れば、人は失敗を回避できる」
「逆よ」
「何?」
「未来を全部知った人間は、未来を回避するんじゃない。未来の奴隷になる」
九条の笑みが消えた。
「あなたは人に未来を渡しているんじゃない」
私は続ける。
「行動命令を渡してる」
九条が黙る。
「この人と別れろ。この仕事を辞めろ。ここに投資しろ。あなたは失敗する。あなたは成功する」
「それが見えているなら正しい」
「正しい未来が、正しい人生とは限らない」
私は自分でも、
少し驚いた。
以前なら、
こんな言葉は言えなかった。
「人間はね」
晴の手を思い出す。
見えなかった手。
ただ温かかった手。
「未来の結果を当てるために生きてるんじゃない」
九条が眉を寄せる。
「わからない明日へ、自分の足で歩くために生きてる」
私は黒い手袋をした手をテーブルへ置いた。
「知らないことは弱さじゃない。未来が隠れているから、人は選べるの」
九条は鼻で笑った。
「綺麗事だ」
「そうかも」
「君の言葉は曖昧だ」
「知ってる」
「客は答えを求めている」
「でも答えを与えすぎると、人生を奪う」
私は立った。
「私が渡すのは答えじゃない」
振り返る。
「灯りよ」
*
九条の「絶対予言」は、ほどなくして問題になった。
未来そのものを見ていたわけではない。
相談者の不安を利用し、「あなたはこうなる」と強く断定する。
相談者はその言葉を基準に行動する。
失敗すれば、
「予言通り」。
成功しても、
「先生の指示に従ったから」。
どちらに転んでも、
九条の正しさが補強される仕組み。
未来ではなく、
未来の解釈を支配していた。
報道が出た。
番組が終わった。
予約サイトが閉じた。
私はテレビを消した。
勝ったとは思わなかった。
彼もまた、
誰かに必要とされたかった人間なのかもしれない。
ただ、
人間の不安を、
自分の正しさの証拠に変えてしまった。
それだけだ。
*
私は鏡の館を再開した。
赤い塗料は全部落とさなかった。
扉の隅に少し残した。
晴が言った。
「塗り直せばいいのに」
「記念」
「何の」
「胡散臭さの」
「意味分かりません」
「私にも分からない」
夜になる。
客が来る。
「本当に未来が見えるんですか?」
私は笑う。
「疑うなら帰れば?」
それでも手が差し出される。
私は黒い手袋を外す。
過去。
未来。
痛み。
希望。
でも、
全部は言わない。
「今は急がなくていい」
「その人を忘れなくていい」
「まだ決めなくていい」
「あなたの未来には、ちゃんと座って休める日がある」
そんな言葉だけ渡す。
客は帰る。
時々、
「やっぱり胡散臭い」
と言う。
私は笑う。
「そうよ」
それでいい。
私は聖女ではない。
魔女でもない。
運命を支配する者でもない。
ただ、
夜番だ。
未来へ行く途中で立ち止まった人へ、
小さなランプを渡す。
朝まで持てば、
それでいい。
エピローグ 三拍子の夜に
最後の客が帰ったあと、
晴が湯呑みを二つ持ってきた。
「店員じゃないんだけど」
「じゃあ何?」
「時計修理職人見習い」
「ここ時計屋じゃないけど」
「壊れた時計いっぱいあるじゃないですか」
壁を見る。
確かに。
全部、拾い物。
時間の違う時計ばかり。
午後十一時四十二分。
午前二時。
六時十五分。
どれも合っていない。
私は昔から、
正しい時刻の時計が嫌いだった。
未来が見えるくせに。
おかしい。
晴が隣に座る。
ランプが揺れている。
外では、
誰かがアコーディオンを弾いていた。
遠い。
三拍子。
一、二、三。
一、二、三。
私は手袋を外した。
晴を見る。
「手」
「はい」
重ねる。
何も見ないために。
ただ触れるために。
温かい。
「ねえ、晴」
「何です?」
「私、あなたの未来、前に見たことある」
「知ってます」
「聞きたい?」
晴は少し考えた。
「いらない」
「即答ね」
「だって、今ここにいるし」
私は笑った。
本当に、
この人は時々、
預言者より厄介なことを言う。
「私ね」
「はい」
「ずっと思ってた」
路地裏。
赤いランプ。
胡散臭い女。
誰にも見えない傷。
他人の未来。
他人の過去。
夜。
「みんなの未来には、光があるのに」
晴が聞いている。
「私のことは、誰が照らすんだろうって」
「僕じゃ駄目ですか」
あまりにも普通に言うから、
私は少し困った。
「……あなた、自分の未来も知らないのに?」
「知らないからいいんでしょう」
そうだった。
私は未来を知りすぎて、
未来を信じることを忘れていた。
知らない人間だけが、
未来を信じるのだと思っていた。
違う。
未来を知っていても、
その未来がどんな意味になるかまでは分からない。
映像は見える。
出来事は見える。
でも、
その日に誰が何を感じるか。
誰を許すか。
何を選び直すか。
そこまでは、
未来でさえ教えてくれない。
「じゃあ」
私は晴の手を握る。
「一つお願いしていい?」
「未来の話じゃなければ」
「胡散臭い私を」
少し恥ずかしかった。
二十二歳にもなって、
こんなことを訊くなんて。
でも、
訊いた。
「これからも照らしてくれる?」
晴は笑った。
「毎日は無理かも」
「そこは即答で『もちろん』でしょう」
「仕事あるし」
「最低」
「でも」
晴の指が、
私の指へ絡む。
「暗い日は来ます」
胸の奥が、
小さく揺れた。
「毎日じゃないじゃない」
「暗い日に照らせば十分でしょう」
私はしばらく彼を見る。
「……やっぱりあなた、未来見える?」
「見えません」
「嘘」
「本当です」
私は笑った。
外のワルツが続いている。
一、二、三。
過去。
現在。
未来。
三つの時間。
人間は、
そのどれか一つにしか住めない。
私はずっと、
過去と未来を見ていた。
でも、
今夜初めて、
真ん中の一拍が一番大切なのだと思った。
過去。
今。
未来。
一、二、三。
一、二、三。
手を握る。
息を吸う。
目を閉じる。
昔なら、
その先へ行った。
誰かの過去。
誰かの未来。
でも今は行かない。
今ここにいる。
晴の体温。
茶の湯気。
古い木の匂い。
窓の外の雨。
アコーディオン。
それだけ。
未来を知らない人間は、
未来が怖い。
未来を知る私は、
未来に奪われるのが怖かった。
でも、
どちらも同じなのかもしれない。
最後に人間ができることは、
今に触れることだけ。
未来が見えても、
明日を今日として生きることはできない。
過去が見えても、
昨日へ帰ることもできない。
だから私たちは、
一日ずつしか生きられない。
その不自由さこそ、
神様が人間へ残した、
唯一の自由なのかもしれない。
私は目を開ける。
晴がいる。
「何か見えました?」
「うん」
「何?」
私は少し考えて、
笑った。
「胡散臭い未来」
「じゃあ聞きません」
「正解」
私は彼の肩へ少しだけ寄りかかった。
明日のことは知っている。
でも、
言わない。
明後日も。
その先も。
きっと私は、
これからも必要なものだけ語る。
半分隠す。
半分祈る。
未来を支配しない。
他人の人生を奪わない。
そして、
自分自身についてだけは、
少しくらい知らないふりをして生きてみようと思う。
それくらいの嘘なら、
たぶん許される。
路地裏の赤いランプが、
風に揺れた。
三拍子。
一、二、三。
一、二、三。
私は胡散臭い女だ。
過去を見る。
未来を見る。
人の絶望を知る。
それでも、
未来を全部は語らない。
なぜなら、
未来は知るためだけにあるのではない。
歩いて、出会うためにある。
そして、
誰かを照らす光は、
必ずしも空から降ってくる魔法でなくていい。
隣に座る人の手が、
少し温かい。
それだけで、
夜を越えられることもある。
私は黒い手袋をテーブルへ置いた。
今夜はもう、
誰の未来も見ない。
晴の手を握ったまま、
ワルツが終わるまで、
ただ一人の二十二歳の女として、
そこにいた。
終
0 件のコメント:
コメントを投稿