――出口なき夜を走る
第一章 地図なき荒野と、ロープを切った男
自由になれば、きっと息がしやすくなる。
人間はそう思っている。
だから、檻を壊す。
親の期待を壊す。
会社を辞める。
恋人と別れる。
決められた進路を捨てる。
誰かに与えられた「あなたはこういう人間です」という説明を引き裂く。
そうして外へ出れば、そこには青空と滑走路と、きらきらした未来が待っている。
少なくとも、自由になる前はそう見える。
でも。
檻の扉を蹴破った人間が最初に見るものは、たいてい希望ではない。
地図のない荒野だ。
どこへ行ってもいい。
だから、どこへ行けばいいのか分からない。
何者になってもいい。
だから、自分が何者なのか分からなくなる。
自由とは、鎖がなくなることではない。
鎖を失ったあと、自分の脚で立たなければならないことだ。
そしてその事実は、思っているよりずっと怖い。
*
「鏡さん。どうしてくれるんですか」
その夜、三人目だった。
私は頬杖をついて、目の前の男を眺めた。
三十代。スーツ。ネクタイは外している。
「何が」
「あなた、前に言いましたよね。『会社を辞めても人生は終わらない』って」
「言ったわね」
「辞めました」
「おめでとう」
「めでたくない!」
男は机を叩いた。
赤いランプが揺れる。
東京、谷中。
路地裏にある私の店「鏡の館」は、相変わらず胡散臭い。
ベルベットのカーテン。
止まった時計。
古いランプ。
黒い木の机。
そして黒い革手袋をした二十二歳の女。
宵野鏡。
職業、たぶん預言者。
正確には、他人の手に触れると、その人の過去と未来の断片が見える。
便利そうでしょう。
全然便利じゃない。
「で?」
私は訊いた。
「辞めたら?」
「何をすればいいか分からないんです」
「知らない」
「そこを教えるのが占い師でしょう!」
「私は人生相談AIじゃない」
「未来見えるんでしょう!」
「見える」
「なら!」
私はため息をついた。
最近、こういう客が増えた。
以前は、
「未来を教えてください」
だった。
今は、
「自由になったから、その次を教えてください」。
少し前、エーテルガードというAI未来予測サービスが、「失敗しない人生」を売っていた。
それに依存した人々へ、私は散々言った。
確定未来なんて檻よ。
自分で選びなさい。
失敗する自由くらい持ちなさい。
すると今度は、
「自分で選べと言われても困る」
と帰ってきた。
人間とは、なかなか贅沢である。
「あなたが決めてください」
男は言った。
「転職するか。独立するか。実家に戻るか」
「嫌」
「なぜ!」
「私が決めたら、あなたはまた誰かの指示通り生きるだけだから」
「でも正解がない!」
「そうね」
「怖くないんですか!?」
私は少し考えた。
「怖いわよ」
男が黙った。
「私だって」
私は黒い手袋を見る。
「未来が見えるからって、正解が見えるわけじゃない」
その違いを理解してもらうのは難しい。
私は出来事を見る。
結婚。
離婚。
成功。
失敗。
泣く。
笑う。
死ぬ。
生き残る。
でも。
その出来事を「救い」と呼ぶか「破滅」と呼ぶかまでは、未来は教えてくれない。
ある人にとって失職は終わりになる。
別の人にとっては始まりになる。
同じ雨でも、
葬式の雨と、
畑を救う雨では、
意味が違う。
未来は映像を見せる。
意味を決めるのは、生きた本人だ。
「今日決めなくてもいいんじゃない?」
私は言った。
男は不満そうだった。
でも最後には、
「本当に役に立たないな」
と言って帰った。
「ありがとう」
扉が閉まる。
奥から笑い声。
「相変わらず評判悪いね」
遠藤晴が出てきた。
「盗み聞きしてた?」
「聞こえる」
二十二歳。
時計修理職人見習い。
最近では、店の半分を勝手に時計工房化している。
「最近、客増えたね」
「迷子ばっかり」
「鏡が森に放したんじゃない?」
「人聞き悪い」
「『自分で歩け』って言ってた」
「そうだけど」
私は椅子へ沈んだ。
「まさかみんな、歩き方まで教えてほしいって戻ってくるとは思わなかった」
晴が笑う。
「自由って不親切だからね」
そのとき。
扉が勢いよく開いた。
ベルが大きな音を立てる。
若い男が立っていた。
濡れていた。
雨は降っていない。
汗だった。
息が荒い。
髪は乱れ、服の袖には乾きかけた赤い汚れがある。
そして右手に、
小さな折りたたみナイフ。
私は立った。
晴も立った。
男は、
私を見た。
「宵野鏡?」
「そう」
「預言者?」
「胡散臭いけどね」
彼は笑わなかった。
「出口を教えてくれ」
私はナイフを見る。
「それ、置いて」
「先に答えろ」
「置いたら」
「答えろよ!」
声が震えていた。
怒りではない。
恐怖だ。
私は手袋をした両手を机の上に置いた。
「名前」
「小野寺律」
「年齢」
「二十一」
「何から逃げてきたの」
律の目が揺れる。
「医学部」
「大学?」
「親」
「恋人?」
「全部だよ!」
彼は叫んだ。
「全部!」
ナイフを持つ手が震える。
晴が一歩前へ出ようとする。
私は目だけで止めた。
律は続ける。
「父親も医者。祖父も医者。兄も医者。小さい頃から医者になるって決まってた。受験する学校も、大学も、研究室も、病院も」
「全部決められてた」
「そうだ」
「で、やめた」
「やめたよ!」
笑った。
壊れた笑いだった。
「全部切った。親とも喧嘩した。大学も休学した。家も出た」
ナイフが光る。
「ロープ、切ったんだ」
その言い方が気になった。
「なのに」
律が言う。
「外に何もなかった」
声が小さくなる。
「自由になったら、何でもできると思ってた」
「……」
「絵を描いてもいい。起業してもいい。海外行ってもいい。何もしなくてもいい」
彼は私を見る。
「でも、何をしてもいいって」
喉が震える。
「何をすればいいか分からないってことだった」
私は黙っていた。
「僕は誰なんだ」
ナイフの切っ先が自分のほうへ傾く。
晴が息を呑んだ。
私は声を低くした。
「律」
「僕は」
「それを下ろして」
「出口を教えろ」
「先に下ろして」
「未来が見えるんだろ!」
「見える」
「だったら!」
律の目から、
怒りとも涙ともつかない水分が滲んだ。
「僕がどこに行けばいいか教えてくれよ!」
私は彼を見る。
二十一歳。
子どもではない。
でも大人というには、
世界から答えを与えられすぎてきた。
自分の人生を選んだ経験が、
ほとんどない。
「百パーセント正しい出口が欲しい?」
「そうだよ」
「私が言った通りにする?」
「する」
「一生?」
「それで迷わないなら!」
その瞬間、
分かった。
律は自由を求めてここへ来たのではない。
自由から逃げてきたのだ。
親という檻を壊して、
今度は私という檻へ入りたい。
私は静かに言った。
「嫌よ」
律の顔が止まった。
「……何?」
「あなたの出口になんかならない」
「ふざけるな!」
彼が一歩動いた。
私は手袋を外した。
「手」
「何」
「未来、見たいんでしょう」
律は疑う。
「ナイフ置いて、手を出して」
長い沈黙。
そして、
カラン。
ナイフが床に落ちた。
晴がすぐ拾う。
私は律の手を握った。
瞬間。
世界が裂けた。
第二章 ナイフの二つの刃
痛い。
最初に来たのは、
映像ではなく感覚だった。
喉の奥が詰まる。
白い廊下。
父親。
「お前ならできる」
模試。
合格。
白衣。
母親。
「あなたは恵まれてる」
家族写真。
笑顔。
笑わなければいけない食卓。
大学。
解剖学。
試験。
眠れない夜。
そして。
自分で自分の境界を確かめようとした、危うい瞬間。
私はそこで視線をそらすように意識を切った。
それ以上、過去の細部へ入らない。
次。
未来。
分岐。
膨大だった。
律が美術学校へ通う。
三年後に辞める。
笑う。
後悔する。
会社を作る。
失敗する。
借金。
再起。
旅。
インド。
北海道。
医大へ戻る。
戻らない。
父親と和解する。
絶縁する。
恋をする。
別れる。
一人になる。
誰かと暮らす。
どの道にも、
傷があった。
どの道にも、
少しだけ光があった。
私は手を離した。
息を整える。
律が訊く。
「見えた?」
「うん」
「どこへ行けばいい?」
「知らない」
「……は?」
「知らない」
「見えたんだろ!」
「いっぱい」
「なら、一番いい未来!」
「ない」
「そんなわけ」
「全部傷つく」
律の顔が歪む。
「全部?」
「うん」
「成功する道は」
「ある」
「なら!」
「成功して壊れる未来もある」
「じゃあ幸せな道!」
「幸せになってから失う未来もある」
「何なんだよ!」
彼が机を叩いた。
「じゃあ未来を見る意味なんてないじゃないか!」
私は答えた。
「そういうこともある」
静かになった。
「あなたは預言者なんだろ」
「たぶん」
「偽物だ」
「それもよく言われる」
「出口を教えないなら」
律の顔が険しくなる。
「何のためにいるんだよ」
私は床を見る。
晴が拾ったナイフ。
小さい。
こんな小さなものでも、
ロープを切れる。
ものを壊せる。
誰かを傷つけることもできる。
ナイフは善でも悪でもない。
どこへ向けるか。
それだけだ。
自由も、
たぶん同じ。
「律」
私は言った。
「ナイフって便利でしょう」
「何の話だ」
「束縛を切れる」
「……」
「でも、自由になったからって、振り回せば自分も傷つく」
律が黙る。
「自由ってね」
私は黒い手袋をはめ直す。
「安全装置じゃないの」
「じゃあ何だよ」
「責任」
嫌われる言葉だ。
私も嫌い。
でも他にない。
「自分で選んで、間違えて、それでも次を選ぶ権利」
「そんなの」
律の声が震えた。
「怖すぎるだろ」
「そうね」
「誰も教えてくれなかった」
「でしょうね」
「自由になれば幸せだって」
「誰が言ったの」
「みんな」
私は笑った。
「みんな、無責任」
律も少しだけ笑いそうになった。
でもすぐ消えた。
「じゃあ」
彼は言う。
「ここにいさせてくれ」
私は眉を上げた。
「何?」
「ここに住む」
「嫌」
「掃除する。金も払う。何でもする」
「嫌」
「鏡さんの言う通りにする」
「もっと嫌」
律が立ち上がる。
「何で!」
「だから」
私は強く言った。
「私を新しい親にするな」
律が止まる。
「私をシャングリラにするな」
「……」
「あなたは親の言う通りに生きるのが嫌で逃げた。今度は私の言う通りに生きたい?」
「違う」
「同じよ」
「違う!」
「じゃあ私が『医学部へ戻れ』って言ったら戻る?」
律は黙った。
「『画家になれ』って言ったら?」
沈黙。
「『明日から北海道で牧場やれ』は?」
「ふざけるな」
「ほら」
私は腕を組んだ。
「選びたいんでしょう」
律は俯いた。
「でも、選ぶのが怖い」
「それは分かる」
「じゃあ助けてくれよ」
「助ける」
律が顔を上げる。
「でも、決めない」
「何が違う」
「全部」
私は言った。
「倒れたら手を貸す。今夜泊まる場所がなければ探す。ご飯が必要なら食べさせる。眠れないなら話くらい聞く」
少し間を置く。
「でも、あなたの人生の行き先だけは決めない」
律の顔が、
怒りに変わった。
「それが一番欲しいんだよ!」
「だから一番あげない」
「最低だ」
「知ってる」
「偽物」
「それも聞いた」
律は扉へ向かった。
晴が声をかける。
「待って」
「触るな!」
律は振り返らず、
夜へ飛び出した。
扉が閉まる。
私は立ち尽くす。
晴が言う。
「追わなくていい?」
「……」
本当は、
追いたかった。
未来が見えた。
夜。
鉄骨。
高い場所。
雨。
律の足元。
私は息を飲む。
「晴」
「うん」
「行く」
「どこ」
「建設現場」
「どこの」
未来の映像。
看板。
住所。
私は黒いコートを掴んだ。
「走る」
*
夜の東京は、
巨大な迷路だった。
工事中のビル。
フェンス。
地下道。
高架。
信号。
雨が降り始めた。
私は走った。
未来が見えるくせに、
今この瞬間には遅れることがある。
それが怖かった。
晴が横を走る。
「鏡!」
「何」
「未来、見えてる?」
「少し」
「律は」
答えなかった。
見えている。
でも、
未来は確定していない。
そう信じたい。
いや。
未来が見える私が、
未来を信じるというのも変な話だ。
でも。
見えるものと、
決まっているものは、
違う。
私はそれを、
誰より知っている。
第三章 血から涙へ
建設現場の仮囲いを抜けると、
鉄骨の迷路だった。
夜のオフィスビル。
未完成の階段。
足場。
金属の床。
雨。
強い照明。
遠くで機械音。
工事は止まっている。
律は上にいた。
「律!」
私が叫ぶ。
返事はない。
晴が先に階段を上る。
「待って」
「鏡は下にいて」
「嫌」
「今は」
晴が私を見る。
珍しく強い目だった。
「未来を見る人じゃなくて、下で待つ人が必要かもしれない」
私は動けなかった。
その言葉が、
痛かった。
私はいつも、
「何かする側」でいた。
手を握る。
未来を見る。
言葉を渡す。
でも、
できることがないとき、
私は急に弱くなる。
晴は登っていった。
私は鉄骨の陰から上を見る。
律。
足場の端。
手にナイフ。
距離がある。
晴が近づく。
「来るな!」
律が叫ぶ。
「分かった」
晴が止まる。
「じゃあそこでいい」
「帰れ!」
「それは無理」
「何で!」
「鏡が心配するから」
「そんなの知らない!」
「うん」
晴は穏やかだった。
「君の人生だからね」
律が笑った。
「それだよ」
雨が音を立てる。
「みんなそればっかりだ」
「何が」
「自分の人生」
律は叫ぶ。
「自分で決めろ。自分で選べ。自分で責任取れ!」
ナイフが震える。
「そんなの、全部一人でやれってことじゃないか!」
晴はすぐには答えなかった。
私も。
その言葉は、
痛いところを突いていた。
自由を称賛するとき、
人は簡単に、
「自分で決めろ」
と言う。
でも、
それは時々、
「一人で何とかしろ」
に聞こえる。
私も、
そう言っていたのかもしれない。
晴が口を開く。
「一人で決めても」
律を見る。
「一人で背負わなくていいんじゃない?」
律の顔が止まった。
「何だよ、それ」
「俺も自分の仕事は自分で決める。でも、困ったら鏡に愚痴る」
下から私は叫ぶ。
「迷惑」
晴が少し笑う。
「こういう感じ」
「ふざけるな!」
「ふざけてない」
雨。
「小野寺くん」
晴が言った。
「自由になった瞬間って、たぶん地図が消えるんだよ」
律は黙る。
「今まで親が持ってた地図がなくなる」
一歩。
「だから迷う」
一歩。
「迷わない方がおかしい」
「来るな」
晴が止まる。
「分かった」
止まることが、
こんなに大事だと、
私はその夜初めて知った。
「俺もさ」
晴が言う。
「鏡と一緒にいるけど」
嫌な予感。
「何」
私は下から言った。
晴は無視する。
「こいつ、未来見えるくせに、俺の人生の答えなんか一個も教えてくれないよ」
「律に余計なこと吹き込まないで」
「本当でしょう」
「まあ」
律が少しこちらを見る。
晴が続けた。
「でも、それでいいと思ってる」
「どうして」
「俺の人生だから」
律の顔がまた歪む。
「それが怖いって言ってるんだ!」
「怖くていい」
「……」
晴の声が低くなる。
「迷子になったのは」
雨の向こう。
「自由になった証拠なんじゃないか」
律の顔が崩れた。
本当に。
顔というものは、
泣く直前、
一度だけ幼くなる。
二十一歳の男が、
一瞬、
十歳くらいの子どもに見えた。
「僕は」
声が詰まる。
「医者になりたくなかった」
「うん」
「でも」
律が泣き始める。
「医者じゃない僕が、誰なのか分からない」
晴は何も言わない。
「父さんに言われた通りにやれば、褒められた」
涙。
「試験受かれば、褒められた」
涙。
「成績良ければ、家で笑っていい感じだった」
律は自分の手を見る。
「全部捨てたら」
泣く。
「僕に何も残らなかった」
私は、
その言葉でようやく理解した。
律が失ったのは、
進路ではない。
自分を測る物差しだった。
正解のレールは、
確かに檻だった。
でも同時に、
自分の存在を説明してくれる壁でもあった。
檻を壊せば、
壁もなくなる。
外へ出た瞬間、
自分の輪郭まで消える。
「僕」
律の声が震える。
「前の僕に戻りたい」
私は叫んだ。
「戻れない」
晴が振り返る。
律も。
自分でも、
強すぎたと思う。
でも、
続けた。
「昨日の自分には、もう戻れない」
律が絶望した顔をする。
「何でそんなこと言うんだよ」
「だって本当だから」
私は鉄骨の階段を一段だけ上がった。
晴が目で止める。
それ以上は行かない。
「医者になることだけが人生だと思ってたあなたは、もう知らないでしょう」
律は黙る。
「親に逆らえなかったあなたも」
雨。
「もう戻れない」
「じゃあ」
律は泣く。
「どうしたらいい」
私は言った。
「知らない」
「またそれかよ」
「うん」
一度、
息を吸う。
「でも」
私は彼を見る。
「戻れないことと、終わったことは同じじゃない」
律の瞳が揺れる。
「前の自分がいなくなったなら」
私は黒い手袋を握る。
「その喪失を、ちゃんと悲しめばいい」
沈黙。
そこで、
律の手が下がった。
晴がゆっくり近づく。
律は抵抗しなかった。
ナイフが晴の手に渡る。
律の肩が落ちる。
そして、
声を上げて泣いた。
私はその光景を、
少し離れた場所から見ていた。
血は、
傷の言葉だ。
怒りの言葉でもある。
でも涙は、
失ったものの言葉だ。
律はようやく、
自由になった自分を祝うのではなく、
自由になるために失った自分を弔っていた。
私は思った。
人は、
檻を壊しただけでは自由になれない。
檻の中で生きていた自分へ、
さよならを言わなければならない。
その葬式を飛ばすと、
人は過去へ戻ろうとする。
律の泣き声が、
未完成のビルに反響する。
鉄骨。
雨。
街の光。
その全部が、
巨大なREM睡眠のようだった。
目覚めかけているのに、
まだ夢の中。
でも。
胸は動いている。
それで十分だった。
その夜は。
第四章 どこを出口と呼ぶか、私は決めない
翌朝。
雨は上がった。
鏡の館。
律はソファへ座っていた。
晴が淹れた紅茶を、
両手で持っている。
ナイフは、
もうない。
危険なものから距離を取り、夜を越えるために必要な人へつなぐこと。
それくらいは、
未来が見えなくても分かる。
人間は哲学だけでは生きられない。
身体を休める場所。
食べ物。
眠れる時間。
助けを求められる相手。
そういう現実的な支えがいる。
私がそれを忘れたら、
本当にただの胡散臭い女になる。
「昨日」
律が言った。
「ごめん」
「何が」
「色々」
「多すぎて分からない」
「ナイフとか」
「それは謝るより、次に同じ状態になったとき一人で抱え込まない方法を考えて」
律が頷く。
「……まだ」
彼は窓を見る。
「分からない」
「何が」
「何したいか」
「うん」
「親に謝るべきか」
「うん」
「大学戻るか」
「うん」
「別の仕事探すか」
「うん」
「画家とか」
私は笑った。
「急に?」
「分かんない」
「いいじゃない」
律がこちらを見る。
「何が」
「『分からない』って言えてる」
彼は少し考えた。
「昨日までは?」
「『正解を教えろ』だった」
律が苦笑する。
「そんなに違う?」
「全然」
私は椅子へ座る。
「正解を求める人って、自分の人生を採点表にしちゃうの」
「……」
「医学部へ戻ったら正解。戻らなかったら不正解。親と和解したら正解。絶縁したら不正解」
「そういうものじゃないの」
「知らない」
「また」
「世界って、二択じゃないのよ」
私は指を一本立てる。
「戻る」
二本。
「戻らない」
三本。
「一度戻ってまた辞める」
四本。
「別の大学へ行く」
五本。
「働きながら考える」
手を開く。
「途中で全部変える」
律が笑った。
「めちゃくちゃだ」
「現実なんてそんなもの」
「いい人と悪い人も?」
「そんなに綺麗に分かれない」
「親は?」
「知らない」
律の顔が少し曇る。
私は言う。
「あなたを苦しめた。それは事実」
「うん」
「でも、だからって全部が悪意だったかは別」
律は黙る。
「善意でも人を傷つける」
私は自分の胸に刺さる言葉を吐く。
「救おうとして檻を作ることもある」
黒木蓮華を思い出した。
そして、
自分自身も。
私は未来を知っている。
だから危険を避けさせたくなる。
失敗を教えたくなる。
苦痛を遠ざけたくなる。
その気持ちは、
時に優しさの顔をしている。
でも。
優しさは、
相手の人生を奪う免許ではない。
「律」
「何」
「小さな呪文を一つあげる」
彼が少し笑った。
「未来じゃなく?」
「未来より安い」
私は言う。
「昨日の自分には、もう戻れない」
律の笑顔が消えた。
「それ、昨日も言われた」
「大事だから二回」
「呪いじゃない?」
「呪文と呪いは近いのよ」
律はカップを見る。
「戻れない」
「うん」
「じゃあ、前の僕は死んだ?」
私は少し考える。
「死んでない」
「じゃあ」
「材料になった」
律がこちらを見る。
「医学部にいた時間も、親の期待に応えた時間も、逃げた夜も、昨日泣いたことも」
私は言う。
「全部、これからのあなたの材料」
「本当の僕は?」
「知らない」
「ないの?」
「あるかもしれない」
「どこに」
「完成した状態では、たぶんどこにも」
私は笑う。
「探すより作れば」
律は長いあいだ黙っていた。
そして、
ゆっくり頷いた。
*
昼前。
律は店を出た。
「また来てもいい?」
「予約して」
「冷たい」
「迷ったら来ればいい」
私は付け加えた。
「でも、住むのは禁止」
律が笑った。
「分かった」
彼は路地へ出た。
左を見る。
右を見る。
少し迷う。
そして、
どちらでもない真正面へ歩いていった。
私はそれを見ていた。
出口を見つけたわけではない。
でも、
足が動いた。
それでいい。
*
店を閉めたあと、
晴と歩いた。
谷中の商店街。
昨夜の雨で、
アスファルトが光っている。
店先から湯気。
自転車。
猫。
普通の昼。
あれだけ世界が壊れた夜のあとでも、
パン屋は開く。
人間の生活って、
少し残酷なくらい続く。
「鏡」
晴が言った。
「何」
「自分の出口、分かる?」
私は立ち止まった。
「急ね」
「小野寺くんに偉そうなこと言ってたから」
「聞いてた?」
「ずっといた」
「忘れて」
「無理」
私は商店街の先を見る。
人。
光。
道。
未来なら、
いくつか見える。
晴と歩く未来。
喧嘩する未来。
店を閉める未来。
続ける未来。
一人になる未来。
誰かと暮らす未来。
泣く。
笑う。
いろいろ。
でも、
どれが出口か。
分からない。
「知らない」
私は言った。
晴が笑う。
「預言者なのに?」
「未来は見える」
私は手袋を外す。
「でも」
晴の手を握った。
温かい。
「自分がどこを出口と呼ぶかまでは、見えない」
「じゃあ困るね」
「別に」
「どうして」
私は歩き出す。
晴の手を握ったまま。
「出口が見つかるまで生きるわけじゃないもの」
晴が私を見る。
「じゃあ何」
「迷ってる途中も人生でしょう」
言ってから、
少し恥ずかしくなった。
「哲学者みたい」
「うるさい」
「胡散臭い」
「帰れ」
「手つないでるけど」
「離せば?」
「嫌」
私は少し笑った。
誰かを出口にしない。
それは、
誰とも手をつながないという意味ではない。
一人で全部背負うという意味でもない。
むしろ逆だ。
出口にならないからこそ、隣にいられる。
晴は私を完成させない。
私の人生の答えでもない。
救済でもない。
ただ、
私とは違う一人の人間。
だから、
一緒に迷える。
それがたぶん、
愛というものの、
少しまともな形なのだと思う。
エピローグ REM
その夜。
私は夢を見た。
暗い迷路。
コンクリート。
鉄骨。
鎖。
遠くで鐘が鳴っている。
ダン。
ディン。
ドン。
私は走っている。
出口を探している。
右。
壁。
左。
壁。
階段。
また同じ場所。
黒い手袋。
血。
ナイフ。
誰かの泣き声。
「出口はどこ?」
声がする。
律?
莉乃?
昔の客?
私?
分からない。
私は叫ぶ。
「知らない!」
鐘。
ダン。
ディン。
ドン。
また走る。
そこに晴がいる。
「こっち?」
私は訊く。
彼は首を振る。
「分からない」
「役立たず」
「お互い様」
私は笑う。
夢の中で。
そして気づく。
出口を探している私は、
いつからここにいた?
何を逃げていた?
昔の私はどこ?
答えはない。
胸へ手を当てる。
どくん。
どくん。
どくん。
鐘とは違う。
自分の音。
それだけ。
夢が崩れる。
*
目を覚ます。
鏡の館。
ソファ。
朝。
窓から光。
机の上に、
晴が置いたらしいメモ。
パン買ってくる。勝手に未来見ないこと。
「何それ」
笑った。
私は両手を見る。
黒い手袋は、
机の上。
素手。
昨日までの私には戻れない。
たぶん明日の私も、
今日の私とは違う。
それでいい。
「本当の私」なんて、
完成品としてどこかに隠れているのではないのかもしれない。
私というものは、
選んだもの。
捨てたもの。
逃げたもの。
戻ったもの。
間違えたもの。
誰かに触れた体温。
泣いた夜。
そういうものが、
その都度絡まりながら、
少しずつ形を変えているだけなのかもしれない。
なら、
探していた私がどこにもいなくてもいい。
ここにいる私を、生きればいい。
扉を開ける。
朝の光。
谷中の路地。
出口には見えない。
入口にも見えない。
ただの道。
それが妙に嬉しかった。
未来を見ようと思えば、
見える。
でも、
今朝はやめた。
知らない。
どこへ行くか。
何が起こるか。
晴が何を買ってくるかさえ。
知らない。
だから、
少し笑う。
不確実性は、
昔の私には恐怖だった。
今も怖い。
でも。
怖いまま歩けるなら、
それでいい。
自由とは、
迷わなくなることではない。
迷ったとき、
誰かへ自分の人生を丸投げせず、
それでも一歩を選べること。
そして、
その一歩を選ぶまで、
誰かの手を借りてもいいこと。
私は黒い手袋をポケットへ入れた。
今日は、
はめないで歩いてみようと思った。
未来を見るためではなく。
この世界の温度を、
もう少し直接、
触ってみたかったから。
遠くから、
晴の声がする。
「鏡!」
振り向く。
紙袋を持っている。
「何パン?」
「当ててみて」
「未来見れば一発」
「禁止」
私は笑った。
「じゃあ知らない」
「正解」
その言葉に、
私は少しだけ驚いた。
知らないことが、
正解になる朝もある。
晴のほうへ歩く。
迷路は続いている。
出口はない。
あるのかもしれない。
でも、
急いで見つけなくていい。
私はまだ、
ここを走れる。
血の跡も。
涙の理由も。
昨日の私も。
全部抱えたまま。
不完全な私で。
胸が動いている。
それだけで、
今日は十分だった。
終
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