あるいは、遅すぎた答えを投函する方法
序章 住所のない封筒
手紙を書こうと思った。
あなたに。
そう決めてから、三時間経った。
机の上には白い便箋が四枚。
一枚目には、
「元気ですか」
と書いて破った。
二枚目には、
「久しぶり」
と書いて破った。
三枚目には何も書けなかった。
四枚目だけが、まだ白い。
元気ですか、と訊く資格があるのか分からない。
久しぶり、と言えるほど、私たちは今も何かでつながっているのか分からない。
そもそも。
この手紙をどこへ送ればいいのかも知らない。
あなたが今どこに住んでいるのか。
どんな部屋で眠っているのか。
朝、どんな顔でカーテンを開けるのか。
珈琲を飲むのか。
まだ紅茶なのか。
一人なのか。
誰かといるのか。
何も知らない。
なのに私は、
あなたを知っている気がしている。
昔の笑い方。
歩く速さ。
怒ると黙る癖。
好きだった映画。
嫌いだった食べ物。
傘を忘れること。
人の話を聞いているふりをしながら、実は窓の外を見ていること。
知っている。
いや。
知っていた。
それだけだ。
私はペンを持った。
そしてようやく、
最初の一行を書いた。
あなたへ。
そこで手が止まった。
住所のない手紙に、
宛名だけがあった。
第一章 あの夏には、答えがなかった
あなたと別れたのは、
夏だった。
暑い日だった。
そう覚えている。
本当に暑かったのかもしれない。
記憶が勝手に夏を暑くしているだけかもしれない。
人間は、
過去をそのまま保存できない。
思い出すたびに、
少しずつ書き換える。
だから、
私が覚えているあなたは、
もう本当のあなたではないのだと思う。
それでも。
記憶の中で、
あなたはまだあの日のままだ。
駅前の小さな喫茶店。
冷房が効きすぎていた。
氷の溶けかけたグラス。
あなたは、
何かを言った。
私も、
何かを言った。
内容は、
もう正確には思い出せない。
不思議だ。
あんなにも、
人生が壊れるほど重要だった喧嘩なのに。
何に怒っていたのか、
今はもう、
ほとんど覚えていない。
たぶん。
返信が遅かったとか。
約束を忘れたとか。
言い方が悪かったとか。
誰かと話していたとか。
そんなことだった。
そんなこと。
今なら、
そう言える。
でも、
あの頃は違った。
些細なことは、
些細ではなかった。
あなたの言葉の一つ一つが、
私の存在価値を決める判決のように聞こえた。
愛されているか。
大切にされているか。
自分の方が好きなのか。
相手の方が好きなのか。
勝っているのか。
負けているのか。
恋人であるはずなのに、
いつの間にか、
裁判をしていた。
あなたを裁き。
私を裁き。
そのたびに、
判決だけが出て、
誰も救われなかった。
「あのさ」
あなたが言った。
「もう、疲れた」
私は、
その一言を、
拒絶だと思った。
今なら分かる。
あれは、
助けを求める言葉だったのかもしれない。
でも、
そのときの私は、
正しく傷つくことに忙しかった。
「じゃあ、終わりにする?」
と言った。
あなたは、
すぐには答えなかった。
その沈黙が、
腹立たしかった。
私は、
自分が傷つく前に、
関係を傷つけた。
「分かった」
あなたは言った。
それだけだった。
あまりにも簡単だった。
人生は、
もっと劇的に壊れるものだと思っていた。
泣き叫ぶとか。
追いかけるとか。
雨が降るとか。
そういうものだと。
違った。
関係というものは、
レジ袋の持ち手が切れるみたいに、
普通に壊れる。
音さえ小さい。
私は店を出た。
駅前。
夕方。
信号。
車。
蝉。
世界は、
何もなかったように動いていた。
私は思った。
きっと、
明日には連絡が来る。
一週間後には、
謝る。
一か月もすれば、
笑い話になる。
だから、
帰り際に、
言ったのだ。
「じゃあ、また」
あなたも、
言った。
「うん。また」
あれが、
私たちの最後の約束だった。
約束とも呼べないほど、
小さな言葉。
また。
たった二文字。
なのに、
それは果たされなかった。
*
あれから何年も経った。
季節は、
律儀に巡った。
夏。
秋。
冬。
春。
また夏。
世界というものは、
人間の喪失にまるで関心がない。
桜は、
私が悲しくても咲く。
台風は、
私が元気でも来る。
朝は、
あなたがいなくても明るくなる。
最初は、
それが残酷だった。
そのうち、
救いになった。
世界が、
私の悲しみに付き合ってくれないから、
私はいつか、
悲しむ以外のことをしなければならなくなった。
仕事。
食事。
洗濯。
電車。
買い物。
眠る。
起きる。
生きるというのは、
案外、
哲学ではない。
ゴミを出し忘れないこと。
家賃を払うこと。
歯を磨くこと。
そういうものの集合体だ。
そうしているうちに、
私は少しずつ、
あなたがいない生活の専門家になった。
でも。
専門家になったからといって、
忘れたわけではない。
むしろ、
忘れないまま暮らす方法を覚えただけだった。
第二章 現在のあなたを、私は知らない
手紙の続きを書く。
たぶん、あなたはもう変わっているのだと思います。
少し考えて、
「たぶん」に線を引いた。
何を知ったふうに。
私は、
今のあなたを知らない。
だから、
こう書き直した。
今のあなたを、私は知りません。
正直だった。
そして、
思ったより痛かった。
私はずっと、
あなたを思い出していた。
なのに。
思い出せば思い出すほど、
現在のあなたから遠ざかっていた。
私が愛しているのは、
記憶のあなたなのかもしれない。
そう考えた瞬間、
少し怖くなった。
もし今、
偶然あなたに会ったら。
声が変わっていたら。
笑い方が変わっていたら。
昔嫌いだったものを好きになっていたら。
知らない誰かの話を、
大切そうにしたら。
私は、
その人をあなたとして愛せるだろうか。
あるいは。
「違う」
と思ってしまうだろうか。
「私の知っているあなたじゃない」
と。
でも、
それはひどい話だ。
あなたは、
私の記憶を守るために生きているわけではない。
私の中のあなたと同じでいる義務など、
どこにもない。
むしろ。
変わっていてほしい。
私の知らない年月を、
ちゃんと生きていてほしい。
私の知らない人と笑っていてほしい。
知らない街を歩いていてほしい。
新しいことを好きになっていてほしい。
それを願うと、
胸が少し痛む。
私は、
その痛みを、
嫉妬と呼んでもいいし、
愛と呼んでもいい。
どちらでも、
たぶん同じだ。
*
昔の私は、
愛するということを、
相手を理解することだと思っていた。
あなたの気持ち。
あなたの考え。
あなたの優先順位。
全部分かりたかった。
「どうして分かってくれないの」
何度も言った。
今なら、
あの言葉の傲慢さが分かる。
「分かってほしい」
ではなく、
本当は、
「私の理解できる形で存在してほしい」
と言っていたのだ。
あなたが、
私の予想どおりに愛してくれないと、
不安だった。
私の望む速度で返信しない。
私の望む言葉で謝らない。
私の望む形で寂しがらない。
そのたび、
私は、
あなたを「間違っている」と思った。
でも。
他者というものは、
そもそも、
自分の期待から外れている存在なのだ。
全部理解できるなら、
それはもう他者ではない。
自分の中に作った、
人形だ。
この答えに、
今になって辿り着いた。
遅すぎた。
笑ってしまうくらい。
あの夏の私に、
今の私の頭を一時間だけ貸すことができたなら。
たぶん、
別れなかった。
あるいは、
もっと上手に別れられた。
どちらでもいい。
少なくとも、
あんなふうには傷つけなかった。
でも、
時間は一方通行だ。
答えは、
必要なときに届くとは限らない。
むしろ。
人間というものは、
必要だった答えを、
その必要がなくなった頃に理解する生き物なのかもしれない。
それが、
成長というものなら。
ずいぶん意地悪な仕組みだ。
*
私は便箋に書いた。
あの頃、私はあなたを分かりたいのだと思っていました。
でも本当は、あなたに私の分かる人でいてほしかったのだと思います。
その下に、
長い空白。
そして。
ごめんなさい。
書いた。
その五文字を、
ずっと言いたかった。
でも、
その五文字こそ、
もう届く必要がないのかもしれなかった。
第三章 果たせない約束の保存方法
あなたと交わした約束は、
たくさんあった。
旅行。
映画。
店。
季節。
「来年も」
「今度」
「いつか」
「また」
未来を指す言葉ばかりだった。
恋をしているとき、
人間は未来を当然のように所有する。
来月。
来年。
次の春。
その頃も、
隣にいることを疑わない。
でも、
未来は共有物ではなかった。
少なくとも、
契約書ではなかった。
「今度行こう」
と笑った場所へ、
私は一人で行ったことがある。
あなたと行くはずだった海。
特別な理由はなかった。
ただ、
もう避けるのが嫌になった。
電車。
駅。
潮の匂い。
曇った海。
思ったより小さかった。
私は浜辺に座って、
笑った。
何年も、
あの場所を、
「果たせなかった約束の場所」
として巨大にしていた。
でも実際には、
ただの海だった。
風が吹いて。
犬が走って。
子どもが貝を拾っていた。
私たちの約束が果たされなかったからといって、
海は何も失っていなかった。
失ったのは、
私だけだった。
いや。
それも違う。
私は、
約束そのものを失ってはいなかった。
果たせない約束は、
消えない。
むしろ、
果たされた約束よりも、
長く残ることがある。
達成されなかったから、
時間の中で完結できない。
ずっと未来形のまま、
心のどこかに残る。
「いつか」
その「いつか」が、
永遠に来ない。
だから、
腐らない。
だから、
痛い。
*
海を見ながら、
ふと思った。
約束とは、
未来について交わす言葉ではないのかもしれない。
「また会おう」
という言葉は、
未来を保証しているようで、
本当は、
現在を肯定している。
「今のあなたといる時間を、
未来にも続けたい」
という意味。
なら。
約束が果たされなかったとしても。
あの瞬間、
私は確かに、
続いてほしいと思っていた。
あなたも、
たぶん。
それだけは、
嘘ではなかった。
未来が実現しなかったからといって、
過去の願いまで偽物になるわけではない。
そのことに気づいたら、
少しだけ、
約束を恨まなくなった。
果たせない約束は、
失敗ではなく、
ある時点で本当に存在した願いの化石なのかもしれない。
掘り返せば、
そこに、
昔の私たちがいる。
未熟で。
面倒で。
自分勝手で。
でも、
本当に、
次の日を一緒に見たかった二人。
私は、
その二人を、
少しだけ許した。
*
帰りの電車。
窓に自分の顔が映った。
年を取った。
当たり前だ。
あなたも、
きっと。
私は、
昔の自分へ言ってみた。
「大丈夫」
違う。
大丈夫ではなかった。
だから言い直した。
「それでも、生きるよ」
窓の向こうに、
街の灯り。
私は、
今の自分を、
昔の自分より好きかと訊かれたら、
答えられない。
でも。
少しだけ、
扱い方は上手くなった。
第四章 春に投函するもの
春になった。
花が咲いていた。
毎年咲く。
毎年、
同じようで違う。
私は、
完成した手紙を封筒に入れた。
十枚。
長すぎる。
あなたは、
昔から長文が苦手だった。
そんなことを思って、
笑った。
切手は貼らなかった。
住所も書かなかった。
表には、
あなたの名前さえ、
書かなかった。
「あなたへ」
それだけ。
郵便物としては、
完全に失格だった。
でも。
これは、
届かなくていい。
ようやく、
そう思えた。
*
私が書きたかったのは、
復縁のお願いではない。
現在のあなたの生活を、
乱したいわけでもない。
「私を覚えていて」
とも思わない。
忘れていてもいい。
むしろ、
私とのことなど、
思い出さない日が増えていてほしい。
それは、
少し寂しい。
でも、
寂しさと願いは、
同時に存在できる。
人間の気持ちは、
一つに整理されなくていい。
愛している。
会いたい。
会わない方がいい。
忘れたくない。
忘れてほしい。
幸せでいてほしい。
その幸せの中に、
私はいなくていい。
全部、
本当だ。
若い頃の私は、
感情に一つの答えを求めすぎた。
好きなら、
一緒にいるべき。
嫌なら、
別れるべき。
愛しているなら、
分かり合えるべき。
そんな単純な式を、
人間に当てはめていた。
でも。
人間は、
矛盾したまま生きられる。
むしろ、
矛盾しているから、
生きているのかもしれない。
*
私は手紙を持って、
川沿いを歩いた。
桜。
風。
人。
子ども。
自転車。
世界は、
相変わらず、
私とは関係なく春だった。
郵便ポストがあった。
赤い。
私は立ち止まった。
投函するふりをする。
もし、
ここに入れたら。
住所不明。
返送。
あるいは廃棄。
それだけ。
手紙は、
あなたへ届かない。
私は、
それを分かっている。
だから、
ポストへ入れなかった。
代わりに、
川沿いのベンチへ座った。
封筒を膝に置く。
風。
花びら。
一枚。
封筒の上へ落ちた。
私は、
そのままにした。
*
ねえ。
あなた。
これは、
あなたへの手紙ではないのかもしれない。
あなたといた頃の私。
私といた頃のあなた。
そして、
「私たち」と呼ばれていた、
もう存在しない何か。
その全部へ、
書いたのだと思う。
だから、
宛先がない。
宛先がないのは、
悲しいことだと思っていた。
でも、
今は少し違う。
宛先がないということは、
返事を待たなくていいということだ。
許してもらわなくていい。
理解してもらわなくていい。
もう一度愛してもらわなくていい。
私は、
私の言葉を、
私が引き受ければいい。
それが、
たぶん、
この手紙の届く場所だ。
*
私は封筒を開いた。
最後の一枚。
最後の文章。
あなたに会いたいと思うことがあります。
でも、会いたいという気持ちと、会うべきだということは、同じではないのだと今は分かります。
あなたとした約束を、私は果たせませんでした。
たぶん、これからも果たせません。
でも、果たせなかったからといって、あの日の気持ちまで嘘だったとは思いません。
私は確かに、あなたと明日を見たかった。
それだけは、今でも本当です。
そして。
最後の行。
遅くなって、ごめん。
書いてから、
消した。
違う。
謝罪ですら、
返事を求める形になる気がした。
少し考える。
そして、
書いた。
遅すぎたけれど、ようやく分かりました。
それで、
終わった。
終章 手紙は届かなくても、言葉は残る
手紙は、
燃やさなかった。
捨てなかった。
送らなかった。
家へ持ち帰って、
机の引き出しへ入れた。
それでいい。
いつか、
読み返すかもしれない。
読まないかもしれない。
引っ越しのときに、
捨てるかもしれない。
誰かに見つかるかもしれない。
分からない。
未来は、
もう、
所有しなくていい。
窓を開ける。
春の風。
部屋のカーテンが揺れる。
私は、
ふと思う。
あなたも、
どこかで同じ風に触れているだろうか。
すぐに、
その考えを笑った。
知らない。
知らなくていい。
同じ風でなくてもいい。
私はここにいる。
あなたは、
どこかにいる。
あるいは、
私の知らない人生を生きている。
それでいい。
私たちは、
もう「私たち」ではない。
そのことを、
ようやく、
悲しみだけではなく言える。
*
昔。
あなたと、
「また」
と言った。
果たせなかった約束。
今でも、
胸の奥にある。
でも、
もう焦げ跡だけではない。
あれは、
私たちが未来を望んだ証拠だった。
実現しなかった未来も、
望んだことまでは消えない。
そして。
遅すぎた答え。
あなたを全部理解する必要なんて、
なかった。
私を全部理解してもらう必要もなかった。
傷つけない関係になる必要もなかった。
ただ、
傷つけたときに、
少し立ち止まればよかった。
分からないときに、
分からないと言えばよかった。
愛していることと、
理解していることを、
同じにしなければよかった。
そんな簡単なこと。
そんな難しいこと。
答えは、
もう何の役にも立たない。
あなたとの関係を、
修復してはくれない。
過去も、
変えない。
だからこそ、
たぶん、
答えなのだ。
答えというものは、
問題を解決するためだけにあるのではない。
二度と戻れない場所を、
初めて正しく見つめるために、
あとから現れる答えもある。
私は、
そう思う。
春の光が、
机の引き出しの隙間に落ちている。
そこには、
宛先のない手紙。
誰にも届かない。
でも。
書いた私は、
少しだけ、
前より遠くへ行ける。
あなた。
さようなら。
いや。
それも違うか。
さようならは、
もう昔に済ませていた。
だから。
今は、
これでいい。
ありがとう。
返事はいらない。
終
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