息をして、私は飛ぶ
第一章 薄明に佇む理由
暁浜町では、夕暮れが長い。
海へ沈んだ太陽が、地平線の下からいつまでも空を照らしている。
赤が薄れ、金色が紫へ溶け、紫が深い群青になるまでの時間。
昼でもなく、夜でもない。
こちら側でも、向こう側でもない。
町の人たちはそれを単に「夕方」と呼んだけれど、白石黎にとって、その時間だけは別の名前を持っていた。
薄明。
何かが終わったあと。
けれど、次の何かがまだ始まっていない時間。
十八歳の自分によく似ている、と黎は思っていた。
防波堤の先端に座り、海を見る。
冬の潮風が制服のスカートを揺らした。
進路希望調査票は、今日も鞄の中で白紙のままだった。
クラスメイトたちは、推薦、一般受験、専門学校、就職と、それぞれの未来へ名前をつけ始めている。
未来には締切があるらしい。
願書提出。
入試。
面接。
入学金。
誰かが決めた時刻表に沿って、みんなが駅を出ていく。
黎だけがホームに残っているようだった。
「何してんの」
背後から声がした。
振り返らなくても分かった。
橘朔夜。
幼稚園から知っている。
小学校では図工室で。
中学では視聴覚室で。
高校では美術室の隣にある、ほとんど使われていない音響準備室で。
何かを作るときだけ妙に饒舌になる少年。
「海見てる」
「見れば分かる」
朔夜が黎の横へ座った。
膝の上には、小型のフィールドレコーダー。
ヘッドフォンは首から外されていた。
以前なら、彼はいつも何かを聴いていた。
波。
電線。
踏切。
雨樋。
冷蔵庫のコンプレッサー。
人が雑音と呼ぶものを拾って、音楽にするのが好きだった。
最近は、ヘッドフォンをしている時間が減った。
黎はその理由を知っている。
でも口にしなかった。
「今日、波高いね」
黎が言った。
「そう?」
「聞こえない?」
言ってから後悔した。
朔夜は少しだけ笑った。
「聞こえるよ。まだ」
その「まだ」が、風より冷たく聞こえた。
朔夜は進行性の聴覚障害を抱えている。
最初は高い音。
そのうち細かな音程差。
最近では、人混みの中で会話を拾うことも難しくなった。
治療のため、卒業後は町を離れる予定だった。
どこまで聴力を保てるのか。
本人にも医師にも分からない。
それでも朔夜は、音を作っている。
黎には、それが理解できなかった。
怖くないのだろうか。
失うことが分かっているものへ、なぜそんなに近づけるのだろう。
「黎」
「何」
「温室、覚えてる?」
丘の上。
旧暁浜植物園。
二十年以上前に閉鎖された巨大なガラス温室。
骨組みは錆び、いくつかのガラスは割れている。
それでも夕方になると、西日を受けて山の上で巨大な宝石のように光った。
「覚えてるけど」
「借りられる」
「何を」
「温室」
「誰が?」
「俺たちが」
黎は朔夜を見た。
「何するの」
「展示」
朔夜は当然のことのように言った。
「夏祭りの夜、一晩だけ。俺が音を作る。黎が光を作る」
心臓が一拍だけ遅れた。
「やらない」
答えはすぐに出た。
朔夜は驚かなかった。
「そう言うと思った」
「なら聞かないで」
「でも聞く」
「しつこい」
「知ってる」
黎は海へ視線を戻した。
一年前。
全国高校造形芸術展。
黎は、薄いガラス板を百枚以上吊り下げ、照明で光の層を作る作品を出品した。
タイトルは『境界のない朝』。
審査当日。
設営中、支持金具の一つが外れた。
一枚が落ちた。
それが次の一枚へ当たり、
さらにその次へ。
音は今でも覚えている。
澄んだ破砕音。
一枚。
また一枚。
連鎖。
数か月かけた作品が、わずか十数秒で床一面の破片になった。
審査以前の問題だった。
展示すらできなかった。
誰も黎を責めなかった。
先生も。
家族も。
審査員も。
事故だから仕方ない、と言った。
それでも黎は、それ以来ガラスを触れなくなった。
「私には無理」
「何が」
「全部」
「便利だな、その言葉」
「何が」
「全部って言えば、どこが怖いのか言わなくて済む」
黎は睨んだ。
朔夜は海を見たままだった。
「また割れたら?」
「割れるかも」
「失敗したら?」
「するかも」
「誰にも見てもらえなかったら?」
「あるかも」
「じゃあ何でやるの」
朔夜はようやく黎を見た。
「分かんない」
笑った。
「分かんないからやるんじゃない?」
黎にはその答えが嫌いだった。
あまりに無責任で。
あまりに自由だった。
「私、進路も決まってないんだよ」
「うん」
「才能あるかも分からない」
「うん」
「もう一回失敗したら、本当に終わるかもしれない」
「うん」
「怖いんだよ」
最後だけ、声が小さくなった。
朔夜はしばらく黙っていた。
「じゃあ」
彼は立ち上がった。
「怖いままやろう」
「話聞いてた?」
「聞いてたよ」
「なら」
「怖くなくなるの待ってたら、たぶん夏終わる」
朔夜はレコーダーを肩へ掛けた。
「俺、時間そんなにないし」
その言葉だけを残して、彼は防波堤を戻っていった。
黎は呼び止められなかった。
遠ざかる背中。
風。
波。
紫色の空。
なぜ自分だけが、こんな薄明の中に立っているのだろう。
そう思った瞬間。
黎は少しだけ違う考えをした。
もしかすると。
自分は取り残されているのではなく、
ここから動いていないだけなのかもしれない。
第二章 我、鼓動する
一週間後。
午後九時。
朔夜から一通だけメッセージが届いた。
《防波堤》
説明なし。
黎は無視しようとした。
十分後、制服の上にコートを羽織って家を出た。
自分でも理由は分からない。
防波堤には朔夜がいた。
風が強い。
昼間より海が近く感じる。
闇の中では水平線が消え、波の白だけが浮かんでいる。
「遅い」
「呼び出したのそっちでしょ」
「来たのは黎」
「帰る」
「待って」
朔夜が腕を掴んだ。
「何」
「静かにして」
「風うるさいけど」
「だから」
彼は目を閉じた。
黎もつられて黙る。
風。
波。
遠くの船。
防波堤を叩く水。
「俺さ」
朔夜が言った。
「最近、波の高い音が分かりにくい」
黎は何も言えなかった。
「前はもっと、しぶきの細かい音が聞こえてた」
「……そう」
「そのうち、これも分からなくなるのかな」
風が吹く。
朔夜は笑わなかった。
「怖い?」
黎が聞いた。
「怖いよ」
即答だった。
「でも」
彼は続ける。
「怖いからって、今聞こえてる音まで聞かないことにしたら、そっちのほうが嫌だ」
黎はうつむいた。
自分とは反対だ。
失うのが怖くて、
最初から触れない。
割れるのが怖くて、
作らない。
評価されるのが怖くて、
応募しない。
選択を間違えるのが怖くて、
進路希望を白紙にする。
「黎」
朔夜が彼女の手を取った。
「何」
「ここ」
その手を、黎自身の胸へ当てる。
「ちょっと」
「分かる?」
制服。
シャツ。
皮膚。
その奥。
どくん。
どくん。
黎は戸惑った。
「心臓」
「そう」
「当たり前じゃん」
「うん。すげえ当たり前」
どくん。
どくん。
「未来分かる?」
「分からない」
「才能ある?」
「……分からない」
「展示成功する?」
「分かんない」
「進路は?」
「だから分からないって」
「でもこれは?」
朔夜が、黎の胸に置かれた手を軽く押した。
どくん。
どくん。
黎は黙った。
「動いてる」
朔夜が言う。
「それだけは今、本当だろ」
風が息を奪う。
朔夜は空を指した。
「吸って」
「何を」
「空気」
「当たり前のこと言わないで」
「いいから」
黎は半ば呆れながら息を吸った。
冷たい。
喉が痛い。
潮の匂い。
海。
冬。
肺の奥まで冷気が入る。
そして吐く。
白い息が風に千切れていく。
もう一度。
吸う。
吐く。
どくん。
どくん。
その瞬間。
黎は変なことを思った。
自分は未来について何も知らない。
進学するか。
作品を作るか。
失敗するか。
評価されるか。
朔夜の耳がどうなるか。
自分たちが一年後も話しているか。
何も。
何ひとつ。
でも。
今。
私は息をしている。
心臓が動いている。
立っている。
未来についてのあらゆる不安より先に、
身体が勝手に、
生きている。
泣きそうになった。
理由は分からない。
「何で泣くの」
「泣いてない」
「泣いてる」
「風」
「便利だな、風」
黎は笑った。
一年前から、
初めて心の底から笑った気がした。
「朔夜」
「ん」
「展示」
彼がこちらを見る。
「やる」
「うん」
「でも」
「でも?」
黎は胸の上の手を握った。
「負けそうな気はする」
「うん」
「すごく」
「うん」
黎は薄く笑った。
「でも……きっと大丈夫」
言ってから、自分で驚いた。
何の根拠もない。
成功する保証もない。
だから、それは予言ではない。
たぶん、
仮説だった。
生きるために、とりあえず採用してみる仮説。
朔夜は嬉しそうに笑った。
「それで十分」
その夜から、
黎は再びガラスに触れた。
第三章 記憶を照らし直す
旧植物園の温室には、百種類くらいの埃があった。
床の埃。
錆びた棚の埃。
枯れた蔓に積もった埃。
誰が置いたのか分からない植木鉢。
割れたガラス。
蜘蛛の巣。
「これ、本当に展示会場になる?」
黎はマスク越しに言った。
朔夜が振り返る。
「なる」
「その自信どこから」
「根拠ない」
「最悪」
それでも二人は掃除した。
学校帰り。
休日。
夕方から夜まで。
朔夜は温室内の音を録音した。
風がガラスの隙間を通る音。
鉄骨が温度差で鳴る音。
床を歩く足音。
雨粒。
黎は小さなガラス片を作った。
最初は透明な板。
次に球。
雫。
薄い羽根のような形。
何度も失敗した。
割れた。
歪んだ。
気泡が入った。
そのたび、
去年の音が戻ってきた。
ぱきん。
がしゃん。
連鎖。
手が震えた。
ある日、
制作中のガラスがまた割れた。
小さな破裂音。
黎はその場で動けなくなった。
「黎」
朔夜が呼ぶ。
返事ができない。
床の破片。
去年の会場。
笑われてはいない。
でも、
笑われた気がした。
失望されてはいない。
でも、
失望された気がした。
「もう無理」
黎は言った。
「やっぱり無理」
「今日やめる?」
「全部」
朔夜がため息をついた。
「また全部?」
黎は睨んだ。
「簡単に言わないでよ!」
声が温室へ響いた。
「朔夜はいいよね! 失敗しても音は見えないから!」
言った瞬間。
最低だと思った。
朔夜の表情が固まった。
聴力。
黎は自分で最悪の場所を刺した。
「ごめん」
すぐ言った。
「ごめん、今の」
朔夜は黙った。
「本当に」
「黎」
「ごめん」
「聞こえたから」
その一言に胸が詰まる。
「だから謝ればいい」
朔夜はしゃがみ、破片を拾おうとした。
黎が止める。
「危ない」
「じゃあ一緒に片づけよう」
「……怒らないの」
「ちょっと怒ってる」
「ごめん」
「うん」
「嫌いになった?」
「それ今決めないと駄目?」
黎は目を瞬いた。
朔夜は肩をすくめた。
「分かんないもの、すぐ結論にしなくていいだろ」
その言葉に、
黎は救われた。
許されたからではない。
分からないままでも関係が続いていることに。
翌週。
黎は地元のガラス工房を訪ねた。
七十近い職人に、
「基礎から教えてください」
と頭を下げた。
一年前ならできなかった。
自分は全国大会に出た。
ガラスを知っている。
そう思いたかった。
でも、
知らなかった。
「お願いします」
もう一度言った。
職人は笑った。
「割るぞ」
「はい」
「失敗するぞ」
「はい」
「それでもやる?」
黎は少し考えた。
「はい」
そこで初めて、
返事が自分のものになった。
*
一月後。
自室の押し入れから、
黎は箱を取り出した。
一年前の破片。
事故のあと、
先生が集めてくれたもの。
捨てられなかった。
でも見ることもできなかった。
箱を開ける。
ガラス。
百枚だった作品の残骸。
黎は一枚持ち上げた。
欠けている。
鋭い。
でも、
夕日にかざすと、
美しかった。
破断面がプリズムになり、
壁へ小さな虹を落とす。
黎は息を止めた。
壊れたから、
初めてできた面。
意図していなかった角度。
傷口。
そこへ光が入っている。
「……これだ」
温室へ持っていった。
朔夜は欠片を見る。
「去年の?」
「うん」
「使える?」
黎は首を振った。
「違う」
欠片を光へかざす。
「使うの」
床に虹が散った。
失敗を消すのではない。
成功だったことにも作り替えない。
失敗は失敗。
壊れたものは壊れたまま。
でも。
その破断面へ、
別の光を当てることはできる。
記憶そのものは変わらない。
意味だけが、
未来から照らし直される。
黎はそれを作品の中心に据えた。
壊れたガラス。
新しく吹いたガラス。
レンズ。
光。
朔夜の音。
全部重ねる。
朔夜はだんだん聞こえなくなっていた。
ある日、
黎が呼んでも振り返らなかった。
肩を叩くと、
「あ、ごめん」
と言った。
黎は笑った。
「なんで謝るの」
「聞こえなかったから」
「それ罪?」
「いや」
「じゃあ謝らなくていい」
朔夜は少し驚き、
それから笑った。
制作終盤。
彼は音だけでなく、
低音の振動を床へ伝える装置を組み始めた。
「聞こえなくても感じる音」
と彼は言った。
黎は思った。
朔夜も、
音を失う前の世界へ戻ろうとしているわけではない。
失われるものを抱えたまま、
次の音楽を作ろうとしている。
それなら自分も。
去年以前の自分へ戻らなくていい。
新しい自分で作ればいい。
第四章 ユーフォリック・フィールド
八月。
夏祭り。
午後六時四十七分。
空は金色から薄紫へ変わっていた。
温室の扉の前に、
人が並んでいる。
「思ったより来たね」
黎は言った。
「帰ってもらう?」
朔夜が言う。
「馬鹿」
「緊張してる?」
「吐きそう」
「俺も」
「嘘」
「ほんと」
二人は笑った。
展示タイトルは、
《euphoric field》
幸福の場所、
とは訳さなかった。
黎にとってそれは、
可能性がひらかれている領域。
何になるか、
まだ決まっていない場所。
午後七時三分。
日没。
薄明が始まる。
照明が落ちる。
温室が暗くなる。
最初の音。
低い振動。
床から伝わる。
どくん。
どくん。
心拍に近い。
続いて、
波。
風。
鉄骨。
町の踏切。
雨。
朔夜が集めてきた暁浜町の音。
その上に、
黎の光が入る。
一筋。
また一筋。
手吹きガラスが光を曲げる。
壁。
床。
天井。
人の顔。
虹色。
そして中央。
去年の破片。
百枚の残骸。
光が入る。
割れた断面が、
一斉に輝いた。
温室の中に、
無数の小さな虹が爆発した。
誰かが息を呑む。
子どもが笑う。
女性が泣いている。
でも黎は、
その評価を見ようとしなかった。
作品の中央に立つ。
音。
光。
振動。
ガラス。
過去。
今。
全部が同時にある。
去年の失敗は消えていない。
朔夜の聴力も戻らない。
未来の保証もない。
なのに。
黎は突然、
胸がいっぱいになった。
幸福だからではない。
悲しみがなくなったからでもない。
むしろ逆。
悲しみも、
恐怖も、
失敗も、
失われていくものも、
全部ここにある。
それでも、
世界がこんなにも開いている。
「朔夜」
横を見る。
彼は音響卓の前にいた。
黎が呼んでも気づかない。
だから近づく。
肩に触れる。
朔夜が振り向く。
「どう?」
彼が聞く。
「何が?」
「音」
黎は笑った。
「聞こえてる?」
朔夜は少し考えた。
「全部じゃない」
床へ足を置く。
振動。
彼は目を閉じる。
「でも、分かる」
黎も目を閉じた。
どくん。
どくん。
床。
身体。
光。
「ねえ朔夜」
「ん?」
「私、好き」
言ってしまった。
薄明の中。
何百人もいる温室。
最悪のタイミング。
朔夜が目を見開いた。
「今?」
「今」
「展示中だけど」
「知ってる」
「返事、今いる?」
黎は少し考えた。
以前なら欲しかった。
すぐに。
成功か失敗か。
YesかNoか。
でも。
「いらない」
「いいの?」
「うん」
黎は笑った。
「今は、言えたから」
朔夜も笑った。
それだけだった。
その夜、
作品は賞を取らなかった。
新聞に大きく載ることもなかった。
でも暁浜町の人たちは長く温室に残った。
光の中を歩き、
音を聞き、
振動に触れた。
そして黎は、
初めて自分の作品の中を、
観客として歩いた。
エピローグ いつか、そう信じて
翌朝。
朔夜が町を出る日。
駅。
午前六時十二分。
世界は再び薄明だった。
夜の青と、
朝の白。
二つが混ざっている。
朔夜の荷物は少なかった。
リュック。
ノートパソコン。
小さなレコーダー。
「そのレコーダー持ってくんだ」
黎が言う。
「うん」
「聞こえなくなったら?」
朔夜は少し考えた。
「そのとき考える」
「相変わらずだね」
「黎も」
「私はもっと計画的」
「進路、やっと昨日願書出した人が?」
「うるさい」
黎は芸術大学の造形学科へ出願した。
合格するかは分からない。
でも出した。
それだけで以前の自分より遠くまで来た気がした。
列車が来る。
「朔夜」
「ん?」
黎は言いかけてやめた。
ずっと一緒にいて。
絶対戻ってきて。
耳、治るよ。
私も絶対受かる。
全部、
言えなかった。
保証できない。
だから代わりに、
「またね」
と言った。
朔夜は笑う。
「うん。また」
それも約束ではなかった。
ただの願い。
でも十分だった。
列車が出る。
黎はホームに残る。
姿が見えなくなるまで手を振った。
静かになった。
一人。
以前なら、
孤独だと思っただろう。
今は違う。
一人であることと、
世界から切り離されていることは、
同じではない。
黎は胸へ手を当てた。
どくん。
どくん。
いる。
まだここに。
深く息を吸う。
朝の空気。
塩。
草。
鉄。
少しだけ煙。
世界の匂い。
目の前には、
まだ何も決まっていない未来がある。
それは以前、
恐怖だった。
今は、
広い。
限界がない、
とは思わない。
人には限界がある。
身体にも。
才能にも。
時間にも。
それでも、
どこが限界なのかを、
今決める必要はない。
黎は駅を出た。
丘の上に、
ガラス温室が見える。
朝日を受け、
巨大な透明の翼のように輝いていた。
翼。
黎は少し笑う。
飛ぶということは、
空へ逃げることではないのかもしれない。
足元の地面を蹴って、
まだ踏んだことのない場所へ身体を投げ出すこと。
落ちる可能性を含んだまま、
それでも前へ出ること。
黎は走り出した。
一歩。
もう一歩。
呼吸が速くなる。
鼓動も。
生きている。
その事実だけが、
今は確かだった。
未来の意味は、
未来で決めればいい。
過去の意味だって、
いつかまた変わるかもしれない。
光は、
同じガラスを通っても、
角度が変われば別の色になる。
なら、
自分も。
いつか。
まだ見たことのない場所へ。
まだ名前のない領域へ。
たどり着く。
その保証はない。
証拠もない。
でも黎は、
そう信じてみることにした。
信じるとは、
未来を知ることではない。
知らない未来へ、
身体を少し傾けることなのだ。
薄明の空の下。
白石黎は息を吸う。
胸の奥で、
世界最小の音楽が鳴っている。
どくん。
どくん。
彼女はそのリズムに合わせて、
まだ何者でもない自分の未来へ、
走っていった。
終
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