―― 私が私を裁判(じゃま)するとき
第一章 無言の裁判所と、近づく足音
三浦薫は、二十四年間の人生で、一度も「大きく間違った」ことがなかった。
少なくとも、本人はそう認識していた。
中学校では内申点を落とさなかった。
高校では第一志望の大学へ進むため、必要な科目を必要なだけ勉強した。
大学では建築と店舗設計を学び、ポートフォリオを整え、就職活動では業界研究を怠らなかった。
その結果、東京の神ノ木エリアに本社を構える大手店舗設計事務所《FRAMEWORK》へ、新卒で入社した。
二十四歳。
アシスタントデザイナー。
都心勤務。
年収は同年代の平均より少し高い。
親からは、
「薫は昔から心配いらない子だった」
と言われる。
同僚からは、
「三浦さんってちゃんとしてるよね」
と言われる。
学生時代の友人からは、
「順調じゃん」
と言われる。
だから、たぶん。
薫は幸せでなければならなかった。
そのはずだった。
*
午前七時四十六分。
地下鉄神ノ木駅。
改札から吐き出された人間の群れが、一定の速度で地上へ吸い上げられていく。
黒。
紺。
灰色。
革靴。
ヒール。
スマートフォン。
イヤホン。
薫はその流れの中を歩く。
遅すぎない。
速すぎない。
人とぶつからない。
エスカレーターでは左に立つ。
誰かが急いでいるなら右側を空ける。
正しい。
全部、正しい。
カツン。
薫は振り向かなかった。
カツン。
革靴の音。
たぶん、後ろを歩いている誰か。
それだけだ。
カツン。
でも。
その足音を聞くたび、胸の奥が縮む。
二十五歳まで、あと七か月。
三年目。
次の査定。
後輩。
主任。
コンペ実績。
資格。
結婚。
貯金。
住宅。
両親。
時間。
カツン。
カツン。
誰も追いかけていない。
なのに、
ずっと誰かが近づいてくる。
追いつかれた瞬間、
「遅い」
と言われる気がした。
何に。
人生に。
そう思った。
*
《FRAMEWORK》のオフィスは、雑誌に載るくらい美しかった。
ガラス。
コンクリート。
白い壁。
黒い鉄骨。
観葉植物。
間接照明。
受付から執務エリアまで、視線が自然に流れるよう動線が設計されている。
社員同士の偶発的なコミュニケーションを生むため、デスク配置にはわずかな角度がつけられていた。
薫は入社した頃、このオフィスが好きだった。
設計とは、
人間がどう歩き、
どこで立ち止まり、
何を見るかを、
壁と床と光によって静かに導く仕事だ。
美しいと思った。
二年目になる頃から、
少し怖くなった。
空間は人を導く。
なら。
人間もまた、
知らないうちに何かの設計図の上を歩かされているのではないか。
「おはよ」
背後から声。
薫は振り向く。
藤田航。
二十六歳。
先輩デザイナー。
シャツの裾が少し出ている。
髪も寝癖が残っている。
コーヒー。
紙袋。
どうしてこの人は、こんな状態で会社へ来られるのだろう。
「おはようございます」
「朝飯食った?」
「食べました」
「えらい」
何が。
薫は思う。
朝食なんて食べるのが普通だ。
「藤田さん、そのシャツ」
「ん?」
「出てます」
「ああ」
航は裾を見る。
「ほんとだ」
直さない。
薫には理解できない。
「今日、十時から設備打ち合わせです」
「覚えてる」
「資料、最新版に差し替えてあります」
「ありがと」
「あと昨日の照明配置ですが」
「三浦」
航が遮る。
「まだ八時十二分」
「はい」
「仕事始める前にコーヒーくらい飲もうぜ」
「私は大丈夫です」
その言葉が口から出た瞬間、
胸の中で何かが笑った。
大丈夫。
便利な言葉。
今日も正常に働けます。
問題ありません。
壊れていません。
不良品ではありません。
*
その日の午後。
上司が薫の図面を見て言った。
「いいね」
たった三文字だった。
薫は嬉しくなかった。
代わりに、
次の言葉を待った。
でも。
ただし。
ここは直して。
もっと。
足りない。
上司は何も言わなかった。
「じゃ、これで進めよう」
終わり。
薫は席へ戻る。
褒められた。
なのに不安は消えない。
なぜ。
おかしい。
自分は正しいことをしている。
努力している。
遅刻しない。
締切を守る。
他人の仕事を奪わない。
嘘もつかない。
法律にも違反していない。
なのに、
なぜかずっと、
自分だけが審理中だった。
罪状の書かれていない起訴状が、
胸の内側に一枚置かれている。
判事は顔を見せない。
検察官もいない。
傍聴席だけが満員だ。
そして誰もが、
薫の失敗を待っている。
そんな感覚。
――私は何もしていない。
心の中で、
誰にともなく言う。
――私は無罪だ。
返事はない。
*
夜。
マンション。
二十三時四十八分。
薫はノートパソコンを開いていた。
会社の仕事ではない。
来年の一級建築士試験の勉強。
その横には英語教材。
さらに資産形成の本。
カレンダー。
二十五歳までに達成すること。
資格。
貯金。
業務実績。
運動習慣。
一日七時間睡眠。
月二冊読書。
薫はその一覧を見て、
突然、
息が詰まった。
全部、
幸せになるためにやっている。
それなのに、
幸福はいつも「次の条件」を要求してくる。
大学へ入れば。
就職すれば。
仕事を覚えれば。
評価されれば。
資格を取れば。
昇進すれば。
結婚すれば。
その先へ。
その先へ。
ずっと。
「いつ?」
声が出た。
誰もいない部屋。
「いつ幸せになるの、私」
時計の秒針。
カツ。
カツ。
カツ。
足音に聞こえた。
薫は時計を伏せた。
第二章 有罪への反逆的渇望
春。
大型商業施設のデザインコンペが始まった。
地方都市の駅前再開発。
敷地一万二千平方メートル。
商業施設、ホール、飲食、イベントスペース。
社内では三チームが案を競う。
薫は航のチームへ入った。
嬉しいはずだった。
大きな仕事。
実績になる。
評価につながる。
なのに、最初の打ち合わせで航は言った。
「三浦の案、すごくきれいなんだけどさ」
薫の背筋が固くなる。
来る。
判決。
「人が息できない」
「……どういう意味ですか」
図面を見る。
寸法は正確。
動線も合理的。
消防法も確認済み。
「悪いって意味じゃない」
航は鉛筆を持ち、
平面図の中央を指した。
「全部、正解なんだよ」
「問題ですか」
「問題っていうか」
航は考える。
「客が寄り道する場所がない」
薫は黙る。
「駅から入った人は最短で目的店舗まで行ける。サイン計画も分かりやすい。ベンチも均等配置。全部きれい」
「なら」
「でも、人間ってそんなに正しく歩くかな」
航は笑った。
「子どもが立ち止まったり、じいちゃんが植木見たり、買う予定なかったもの見つけたり。そういう無駄な場所、もうちょっとあっていい気がする」
「無駄を意図的に設計するんですか」
「うん」
「矛盾してませんか」
「建築なんて矛盾だらけだろ」
航は図面に、小さな丸を書いた。
「ここ、一メートルだけ広げない?」
「理由は?」
「なんとなく」
薫は腹が立った。
なんとなく。
そんな言葉で図面を変える。
それなのに航の案は、
なぜか人の気配がした。
薫の案は、
完成予想図としては美しい。
だが誰もいない。
「整いすぎてる」
航は言った。
「ちょっと隙間作ろう」
その言葉が、
薫には、
お前は欠陥品だ、
と聞こえた。
*
その日から、薫はさらに働いた。
誰より早く来る。
誰より遅く帰る。
修正。
検討。
模型。
照明。
什器。
素材。
動線。
休憩を減らす。
昼食はデスク。
航が、
「帰れ」
と言っても、
「大丈夫です」
と答える。
「三浦、顔色悪いぞ」
「大丈夫です」
「明日できるだろ」
「今日できることを明日に回したくないので」
「それ、いつ寝るんだよ」
「寝ています」
嘘ではない。
三時間。
四時間。
眠った。
だから寝ている。
正しい。
間違っていない。
なのに、
足音は大きくなった。
カツン。
次の査定。
カツン。
コンペ。
カツン。
二十五歳。
カツン。
周囲は先へ進んでいる。
カツン。
時間がない。
「三浦」
航の声。
「今日もういい」
「あと少しです」
「その『あと少し』三時間前にも聞いた」
「藤田さんは帰ってください」
「帰れるわけないだろ。チームだぞ」
その言葉に、
薫はなぜか苛立った。
チーム。
助けられる。
支えられる。
それは、
一人では足りないと認めることだから。
「私はできます」
「できるできないじゃなくて」
「できます」
航が黙った。
その沈黙を、
薫は勝利だと思った。
同時に、
なぜか泣きたくなった。
*
プレゼン前夜。
午前一時十四分。
オフィスには薫と航しかいなかった。
模型。
図面。
印刷物。
コーヒーカップ。
蛍光灯。
街はガラスの向こうで静かだった。
航が資料をめくる。
「あ」
薫の心臓が止まりそうになる。
「何ですか」
「ここの寸法」
大型スクリーン背面。
避難動線との干渉。
小さい。
修正可能。
大したミスではない。
でも薫には、
法廷で証拠品を突きつけられたように見えた。
「……すみません」
「いや、今見つかってよかった」
「すみません」
「三浦」
「すぐ直します」
「だから」
「すみません」
声が震えた。
航がこちらを見る。
「大丈夫か」
その言葉。
大丈夫。
薫の中で、
何かが切れた。
「大丈夫じゃありません」
航が固まる。
「全然、大丈夫じゃないです」
涙が出る。
「三浦?」
「私、ちゃんとやってるんです」
「知ってる」
「遅刻もしてない。締切も守ってる。誰にも迷惑かけないようにしてる。勉強もしてる。言われたことも全部やってる」
「うん」
「なのに」
息が苦しい。
「何でずっと、何か間違ってる気がするんですか」
航は何も言わない。
「何が駄目なんですか」
「駄目なんて」
「だったら言ってください!」
声が響いた。
「いっそクビにしてください!」
航が目を見開く。
「治らない欠陥品だって言ってください! お前は駄目だって、有罪だって!」
「何言って」
「そのほうが楽なんです!」
言ってしまった。
一度出ると止まらない。
「理由が分からないまま怖いより、何か罪があるって決めてもらったほうが楽なんです! 私が悪いなら罰してください!」
航が立ち上がった。
「三浦」
「お願いだから」
「誰も」
航の声は静かだった。
「誰も君を裁いてなんてないよ」
薫は笑った。
乾いた音だった。
「そんなわけないじゃないですか」
「誰が?」
「……」
「誰が君を有罪って言った?」
答えられない。
上司?
言っていない。
親?
言っていない。
同僚?
言っていない。
航?
言っていない。
「でも」
薫は呟く。
「ずっと聞こえるんです」
「何が」
「足音」
航は何も言わなかった。
薫は、自分でも自分が何を言っているのか分からなくなった。
第三章 途切れたサインと、許しの拒絶
コンペ当日。
薫は倒れた。
正確には、
プレゼン開始十五分前、
控室で立てなくなった。
視界が狭い。
吐き気。
手の震え。
呼吸が浅い。
航が何か言っている。
音が遠い。
「三浦」
返事ができない。
「座れ」
「プレゼン」
「いいから」
「私が」
「俺がやる」
その言葉が最後だった。
次に時計を見たとき、
プレゼンは終わっていた。
*
結果は、
二位だった。
採用されなかった。
薫はそれを、
自分の失敗だと思った。
誰もそう言っていないのに。
会社からは、
「しばらく休め」
と言われた。
上司は、
「体調を戻してから話そう」
と言った。
母は、
「帰ってきてもいいのよ」
と言った。
友人は、
「仕事なんて人生の全部じゃない」
と言った。
全部、
腹が立った。
簡単に言うな。
お前たちは知らない。
私はずっとやってきた。
正しく。
真面目に。
失敗しないように。
それなのに、
どうして。
「私以外が狂ってる」
暗い部屋で呟いた。
カーテンは閉めた。
スマートフォンの電源も切った。
時間が止まった。
朝も夜も、
布団の中では同じだった。
でも時計は進んでいる。
世界は進んでいる。
自分だけが止まっている。
その矛盾が、
さらに薫を苦しめた。
*
四日目。
インターホン。
無視。
また。
また。
薫は布団から出る。
モニター。
航。
帰ってほしかった。
でも帰ったら、
それも傷つく気がした。
扉を開ける。
「……何ですか」
「生きてるか確認」
「生きてます」
「ならいい」
航はコンビニ袋を持っていた。
「おにぎり」
「いりません」
「ゼリー」
「いりません」
「プリン」
「子どもじゃないです」
「俺が食う」
勝手に入ろうとはしなかった。
廊下に立ったまま。
それが少し腹立たしくて、
少しありがたかった。
「コンペ」
航が言った。
薫の身体が固まる。
「二位だった」
「知ってます」
「評判は悪くなかった」
「負けました」
「まあ、採用はされなかった」
正直。
そういうところが嫌いだった。
「俺のプレゼンも途中噛んだ」
「慰めないでください」
「慰めてない」
「私が倒れたせいです」
「違う」
「違いません」
「デザインコンペなんて、負けるときは負ける」
「私がいれば」
「いたって負けたかもしれない」
薫は唇を噛む。
航は続けた。
「会社、怒ってないよ」
「……」
「復帰も急がなくていいって」
「……」
「穴は埋めた。プロジェクトも回ってる」
その言葉が、
薫には残酷だった。
自分がいなくても、
世界は回る。
「戻ってくればいい」
航は言った。
「誰も怒ってない」
優しかった。
だから薫は、
激しく腹が立った。
「何ですか、それ」
「え?」
「許してるつもりですか」
「許す?」
「『大丈夫だよ』『戻ってくればいいよ』って」
「そういうつもりじゃ」
「あなたが差し出す許しって何なんですか!」
航が黙る。
「私が何をしたか分かってるんですか?」
「倒れた」
「プレゼンを台無しにした!」
「台無しには」
「じゃあ何ですか!」
声が震える。
「あなたが押しつけようとしている幸福って何ですか? 会社に戻って、ほどほどに働いて、失敗しても気にせず生きれば幸せなんですか?」
「三浦」
「で?」
薫は笑った。
涙が出ていた。
「だから何なんですか」
航の顔を見る。
「お願いだから邪魔しないでください」
言った。
航は何も言わなかった。
しばらくして、
コンビニ袋を玄関脇へ置いた。
「分かった」
それだけ。
帰っていく。
ドアが閉まる。
薫はその場に座り込んだ。
静かだった。
勝った、
と思った。
追い返した。
自分の世界を守った。
誰にも分からない悲劇。
誰にも触れさせない傷。
それは、
薫だけが所有できる最後のものだった。
そして、
なぜかひどく、
空しかった。
*
夜。
プリンを食べた。
航が置いていったもの。
腹が立つくらい、
普通においしかった。
第四章 被告人と判事と看守
午前二時。
薫は外へ出た。
眠れなかった。
理由はない。
部屋にいると、自分の思考の音がうるさかった。
神ノ木の街は、
昼とは違っていた。
昼間はスーツ姿の群衆で埋まる歩道。
今は誰もいない。
高層ビル。
信号。
自動販売機。
コンビニ。
都市は巨大な機械のように、
夜中も完全には眠らない。
薫は歩く。
カツン。
自分の靴。
カツン。
止まる。
足音も止まる。
また歩く。
カツン。
カツン。
薫は振り返った。
誰もいない。
「……私?」
口に出した。
足音。
ずっと。
誰かが追ってきていると思っていた。
時間。
社会。
年齢。
評価。
普通。
でも今、
夜の歩道には薫しかいない。
歩けば、
音がする。
止まれば、
音も止まる。
当たり前。
当たり前なのに、
胸の奥で何かが崩れた。
*
ショーウィンドウ。
閉店した家具店。
ガラスに薫が映っている。
黒いコート。
乱れた髪。
青白い顔。
背後には空っぽの道路。
薫は自分を見る。
頭の中で、
法廷が開く。
被告人席。
三浦薫。
判事席。
誰が座っている?
顔が見えない。
もっと近づく。
判事の顔。
自分だった。
検察官。
自分。
傍聴席。
自分。
看守。
自分。
「……嘘」
笑った。
「嘘でしょ」
でも。
思い返す。
仕事が足りないと言ったのは誰。
誰も言っていない。
もっと頑張れと言ったのは。
誰も。
二十四歳でここまで達成しろと命じたのは。
誰も。
失敗したら価値がないと判決したのは。
誰。
自分。
薫はガラスに額をつけた。
冷たい。
「何やってんの、私」
笑いが漏れた。
悲しいのに、
おかしかった。
あまりにも。
完璧な被害者でいるために、
自分で牢獄を建てた。
窓を小さく。
壁を厚く。
扉を重く。
そして外から誰かが、
「出ておいで」
と言うたび、
侵入者だと思って追い返した。
「邪魔しないでくれ……」
薫は小さく呟いた。
「私が、自分自身を邪魔してる最中なんだから」
笑った。
泣いた。
両方だった。
*
ただし。
その瞬間、
すべてが解決したわけではない。
「全部自分のせい」
という新しい判決を下しそうになって、
薫は立ち止まった。
違う。
社会の圧力は実在する。
締切もある。
競争もある。
年齢を測る言葉もある。
他人の期待もある。
理不尽もある。
それを、
全部自分が作ったことにしてはいけない。
でも。
それらを、
二十四時間、
自分の内側で再放送していたのは誰だった?
自分。
外側の裁判所と、
内側の裁判所。
両方あった。
ただ、
内側のほうは、
自分で閉廷できるかもしれない。
完全には無理でも。
少なくとも、
休廷くらいなら。
*
薫はベンチに座った。
目の前に、
小さな広場があった。
《FRAMEWORK》が数年前に設計した公共空間。
変な形のベンチ。
植栽。
段差。
無駄に広い余白。
入社当初の薫は、
「効率が悪い」
と思っていた。
今、
夜中の三時。
誰もいない広場で、
その無駄な空間だけが、
妙に呼吸しやすかった。
航の言葉を思い出す。
――人が息のできる隙間がない。
デザインの話だと思っていた。
たぶん、
それだけではなかった。
自分自身にも、
隙間がなかった。
正解。
予定。
目標。
評価。
すべて壁まで詰め込んで、
余白を許さなかった。
人間が立ち止まる場所。
迷う場所。
何もしない場所。
間違える場所。
そういう場所を、
人生の図面から全部削除していた。
薫は空を見た。
東京の夜空は暗くない。
ビルの光。
街灯。
雲。
星はほとんど見えない。
それでも空はある。
自分が見えなくても。
意味が分からなくても。
ある。
「設計し直すか」
小さく言った。
人生を。
ではない。
そんな大きなことは、
今は無理。
明日の朝だけ。
一日分。
それくらい。
エピローグ 人が息のできる隙間
午前六時十九分。
空が白み始めた。
薫はスマートフォンの電源を入れた。
通知。
母。
会社。
航。
未読。
航へ電話。
三回目の呼び出しで出た。
『……もしもし』
寝起き。
「三浦です」
『番号出てる』
「すみません」
『何時だと思ってる』
「六時二十分」
『知ってる』
少し笑う。
薫は息を吸った。
「藤田さん」
『うん』
「すみませんでした」
沈黙。
「私」
言葉を探す。
正解を言おうとした。
やめた。
「たぶん、自分で自分を邪魔してました」
『……うん』
「いや、そこ即答します?」
『薄々』
「ひどい」
『でも』
航の声が少しだけ真面目になる。
『気づいたなら、それでいいんじゃない』
「簡単に言わないでください」
『はいはい』
「あと」
薫は街を見る。
朝日がビルの隙間から差す。
「会社、すぐ戻るとかは、まだ分かりません」
『うん』
「休みます」
『うん』
「ちゃんと」
『それがいい』
薫は少し笑った。
「でも、戻ったら」
『戻ったら?』
「図面、直したいです」
『どこ』
「人が息できる隙間」
電話の向こうで、
航が笑った。
『やっと分かった?』
「今の取り消します」
『遅い』
「では切ります」
『三浦』
「はい」
『無罪』
薫は黙った。
「……何ですか、それ」
『言ってほしかったんだろ』
「もういいです」
『そっか』
「はい」
薫はショーウィンドウに映る自分を見る。
昨日と同じ顔。
何も劇的には変わっていない。
二十四歳。
仕事は休職中。
コンペには負けた。
不安はある。
足音だって、
また聞こえるかもしれない。
でも。
「判決は、自分で出します」
『それ、また厳しくするやつじゃない?』
「じゃあ」
薫は考えた。
「判決を出すの、しばらくやめます」
航が笑った。
『それが一番いいかもな』
電話を切る。
*
数週間後。
薫は自宅の机で、
新しいスケッチを描いていた。
仕事ではない。
小さな架空のカフェ。
入口。
カウンター。
窓。
厨房。
座席。
以前なら、
空間効率を優先して、
椅子をもう二脚置いただろう。
今日は置かなかった。
窓際に、
一・五メートルほど何もない場所を作った。
用途なし。
目的なし。
ただ、
立ち止まるための余白。
薫はそこへ、
小さな人物を一人描く。
何も買わず、
ただ窓の外を見ている人。
次に、
もう一人。
その隣に立つ人。
二人のあいだには、
少し距離がある。
薫は鉛筆を置いた。
完璧ではない。
用途も曖昧。
効率も悪い。
でも、
なんだか悪くなかった。
かつて薫は、
人生とは正しく設計すれば幸福になるものだと思っていた。
間違えない。
遅れない。
無駄を作らない。
正解だけを積み上げる。
その先に、
「完成した自分」があると。
でも、
人間は建物ではない。
いや。
建物ですら、
完成した瞬間から変化を始める。
床は傷つく。
木は色を変える。
壁には手垢がつく。
計画していなかった場所に人が立つ。
椅子を勝手に動かす。
子どもが走る。
誰かが待つ。
誰かが別れる。
設計図どおりに使われない。
それで、
空間は初めて生き始める。
ならば、
人間も。
少しくらい、
設計図からはみ出していいのかもしれない。
窓の外。
東京。
相変わらず忙しい。
電車が走る。
人が歩く。
ビルのガラスが朝日を反射する。
世界は薫のために止まらない。
それを以前は残酷だと思った。
今は、
少しだけ救いに見えた。
自分が失敗しても、
世界は終わらない。
なら、
失敗した場所から、
また線を引けばいい。
消しゴムの跡が残っても。
紙が少し汚れても。
余白が余っても。
薫はスケッチの片隅に、
小さく書いた。
《用途:未定》
それを見て、
ひとりで笑った。
胸の奥には、
まだ無言の法廷がある。
判事も、
検察官も、
看守も、
完全には消えていない。
たぶん、
これからも時々開廷する。
そのたびに薫は、
席を立てばいい。
「本日の審理は中止です」
そう言って。
扉の向こうへ出る。
無罪だからではない。
有罪だからでもない。
そもそも、
人生のすべてを裁判にする必要がなかったのだ。
薫は新しい紙を取り出した。
真っ白ではない。
前の紙の鉛筆汚れが、机に少し残っている。
それでもいい。
鉛筆を握る。
一本目の線。
まっすぐではなかった。
薫は直さなかった。
その線の横に、
もう一本、
少しだけ曲がった線を引いた。
二本の間に、
人が呼吸できるくらいの、
小さな隙間を残して。
終
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