2026-08-24

紫の渡り廊下

 



第一章 無菌室の彼氏と、紫色の渡り廊下

私と長谷川律は、一応、付き合っている。

「一応」と言うと、友達は決まって嫌な顔をする。「半年も付き合ってて一応って何?」と。でも、ほかに適当な言葉が見つからないのだから仕方がない。

恋人同士、と呼ぶには、私たちはあまりに静かだった。

喧嘩をしたことがない。待ち合わせに遅れても律は怒らない。私が映画館の席を勝手に決めても、注文する料理を変えても、「茜がいいならそれでいいよ」と微笑む。私が不機嫌でも、面倒そうな顔をしない。泣いても困らない。怒っても怒り返さない。

それを友達は、優しい彼氏、と呼んだ。

私は、気味の悪い彼氏、と呼びたかった。

もちろん口には出さなかった。

律は整っている。顔も、服も、言葉も、暮らしも。建築学科らしく、彼の部屋には余計なものがない。白い壁。木目の机。灰色のカーテン。黒いスチールラック。観葉植物まで「ここに置かれるために育ったのではないか」と思うほど正しい位置にある。

私が映像学科の課題で使うケーブルやレンズやメモリーカードを床へ散乱させていると、律は無言で拾ってくれる。そこにも苛立ちはない。

だから私は、ときどき彼の部屋で息ができなくなる。

モデルルームには生活する人間がいない。

人間が住み始めた瞬間、そこには髪の毛が落ちる。油が飛ぶ。コップに茶渋がつく。洗濯物が乾ききらない日がある。冷蔵庫の奥で野菜が萎れる。誰かが機嫌を悪くする。返事をしたくない夜もある。

でも律の愛情には、そういう染みがなかった。

綺麗すぎるものは、ときどき、存在していないのと似ている。

「ねえ律。私が他の男と二人で飲みに行ったら嫌?」

春の終わり、神保町のカフェでそう聞いたことがある。

律はアイスコーヒーのストローから口を離し、少し考えた。

「茜が行きたいなら、いいんじゃない?」

「嫉妬しない?」

「信用してるから」

正解だった。

百点。

模範解答。

だから私は、ひどく腹が立った。

「じゃあ、私がその人のこと好きになっても?」

律は少しだけ目を細めた。

やっと。

何か出る。

そう思った。

けれど彼は微笑んだ。

「そのときは、茜の気持ちを尊重するよ」

私は笑った。

「そっか」

その日の夜から、夢を見るようになった。


夢には、紫色の渡り廊下がある。

なぜ紫なのかは知らない。ワインを水で薄めたような紫。夕暮れと内出血の中間みたいな色。床板は古く、歩くと湿った音がする。左側には窓が並んでいるのに、その向こうには景色がない。ただ乳白色の霧だけが広がっている。

右側の壁には、額縁が並んでいる。

私は最初の夜、その一枚を見て足を止めた。

絵の中には私がいた。

二日前、律と行った水族館。

巨大水槽。

青い光。

私。

隣には律らしい男。

けれど、顔が塗りつぶされていた。

「趣味悪」

夢の中の私はそう呟いた。

次の絵は、三日前のコンビニ。

さらに次は、大学の中庭。

全部、私の記憶だ。

でも完全には同じではない。

実際の水族館では、私は律の袖を掴まなかった。絵の中の私は掴んでいる。現実では律は笑っていた。絵の中では、口元だけが黒い線で裂けている。

夢は嘘をつく。

でも、ただの嘘ではない。

現実を少しだけ歪めることで、むしろ私が見たくなかったものを見せてくる。

廊下の奥から、男が歩いてきた。

顔がない。

目も、鼻も、口もない。

ただ皮膚のような滑らかな平面がある。

なのに、そいつが私を見て笑っていることだけは分かった。

「何笑ってんの」

男は答えない。

私は怖くなかった。

ただ、歩けなくなった。

足が床へ縫いつけられたようだった。

顔のない男は、私の目の前まで来た。

そして、私の肩をぽんと叩いた。

それだけで目が覚めた。

午前四時十二分。

隣ではない。

私は自分の部屋にいた。

天井。

エアコン。

カーテンの隙間。

夢だった。

分かっているのに、肩にはまだ触れられた感覚が残っていた。

私はスマートフォンを開いた。

律からメッセージが来ていた。

《今日はありがとう。楽しかった。おやすみ》

やっぱり正しい。

私は返信しなかった。

その代わり、

「腹立つ」

と呟いた。

誰に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。


映像学科では、夢は便利な素材だ。

教授は「夢を映像化すると陳腐になる」と言う。夢そのものは、本人にしか理解できない文法で作られているからだ。象徴を象徴として説明した瞬間、それはただの記号になる。

私はそれを分かっていながら、ノートに書いた。

紫色の渡り廊下。

壁の絵。

顔のない男。

その横へ、

律?

と書いた。

そして線を引いて消した。

顔がないということは、律ではないのかもしれない。

むしろ、私が律に「顔を与えていない」のかもしれない。

私は彼を、

優しい。

穏やか。

完璧。

何を言っても怒らない。

という表面だけで見ている。

でも、それは彼のせいでもある。

見せないのだから。

翌日、私は律へ言った。

「ねえ」

「うん」

「あなたって、本当は何が嫌いなの?」

彼は笑った。

「急だね」

「答えて」

「……人を傷つける人?」

「そういう道徳の教科書みたいなのじゃなくて」

「じゃあ、満員電車」

「違う」

「何が聞きたいの?」

私は彼を見た。

その瞬間、顔のない男を思い出した。

「私の何が嫌い?」

律の笑顔が止まった。

ほんの一秒。

でも見た。

「嫌いなところなんてないよ」

また正解。

私は吐き気がした。


第二章 ピンクのガラス玉

夢の渡り廊下には二階があった。

二階、と言っていいのかは分からない。階段を上った記憶はないのに、次の夢では私はそこにいた。

廊下の端に、一人の老婆が座っていた。

白い寝間着。裸足。細い髪。手の甲には黒い染みがある。爪の間には泥のような汚れが詰まっていた。

彼女は咳をした。

「大丈夫?」

夢の中でまで私は無難なことを言う。

老婆は私を見る。

「お前は?」

「何が?」

「大丈夫なのか」

私は笑った。

「知らない」

老婆は手を差し出した。

汚れている。

私は触れたくなかった。

すると背後から、顔のない男が現れた。

今回はバッグを持っていた。

黒い革のバッグ。

そいつは中を探り、小さなものを取り出した。

ピンク色のガラス玉。

ビー玉だった。

男は老婆の掌へ置いた。

老婆はそれを光にかざした。

紫色の廊下の中で、ピンクだけが妙に生々しかった。

安っぽい。

子どものおもちゃみたい。

宝石でもない。

でも、綺麗だった。

老婆が私へ差し出す。

私は受け取った。

冷たい。

ガラスなのに、しばらく握っていると温かくなった。

「これ何?」

老婆は答えない。

「象徴?」

自分で言って笑った。

「メタファー? 愛? 欲望? 子どもっぽさ? 何なの」

顔のない男が肩を揺らして笑っていた。

「笑うなよ」

私はそいつに近づいた。

顔がない。

何もない。

そこへ、自分の顔がうっすら反射している。

突然、

腹が立った。

「私にもくれよ」

声が低くなる。

「何かあるんでしょ。本当は」

男は動かない。

「怒れよ。嫉妬しろよ。面倒くさいって言えよ。私が嫌なら嫌って言えよ」

喉が痛い。

「何でもいいから、あなたの色で私を汚してよ」

男の平らな顔へ、

初めて一本の亀裂が入った。

目が覚めた。


その日の午後、律と大学の食堂で会った。

「寝不足?」

「夢見た」

「どんな?」

「あなたが顔のない男になってた」

律は笑った。

「怖いな」

「怖くない」

「じゃあ何?」

私は箸を置いた。

「ムカつく」

律が瞬きをした。

「俺が?」

「夢の中のあなたが」

「夢の俺に怒られても」

「現実のあなたにも怒ってる」

沈黙。

私は期待した。

また。

何かが出ることを。

でも、

「ごめん」

だった。

「何に謝ってるの?」

「茜を嫌な気持ちにさせたなら」

「それ!」

少し声が大きくなった。

周囲の学生が見る。

律は困った顔をした。

私はさらに腹が立った。

「何でいつもそうなの?」

「どういう意味?」

「私が怒ったら謝る。私が迷ったら『好きなようにしていい』。私が泣いたら『大丈夫』。あなた自身はどこにいるの?」

「いるよ」

「どこ?」

「ここ」

「そういう話じゃない!」

律は黙った。

私は息を吸った。

喉の奥に何かが引っかかっている。

吐き出したい。

でも怖い。

本音というものは、口から自然に出てくるものではない。

喉の奥に刺さっている。

取り出すには、

肉ごとえぐる必要がある。

私は結局、

「もういい」

と言った。

そして逃げた。

最低だった。

本音を求めているくせに、

自分の本音は最後まで言わない。

夢の老婆の汚れた手が浮かんだ。

綺麗な手だけ握ろうとする人間に、

綺麗じゃない関係なんて作れるわけがない。

その夜、

律から、

《今週末、うち来る?》

と届いた。

私は、

《行く》

と返した。

今度こそ、

喉を切り開くつもりだった。


第三章 黄ばんだ真実

律の部屋は、相変わらず整っていた。

私はそれが嫌で、

入ってすぐバッグを床へ置いた。

わざと少し乱暴に。

律は拾わなかった。

珍しい。

「何?」

私が聞く。

「別に」

「何その言い方」

「普通だけど」

小さかった。

でも。

初めて聞いた。

律の不機嫌。

胸が少し高鳴った。

嬉しいと思った自分が、

気持ち悪かった。

夜は長かった。

私たちは映画を一本見た。途中で内容が頭に入らなくなった。冷蔵庫のワインを少し飲んだ。私は律の肩にもたれた。彼は私の髪を触った。

そのあとについては、細かく語る必要はないと思う。

ただ、私たちはこれ以上近づけないくらい近づいた。

それでも、

私は遠かった。

夜中。

部屋は暗い。

カーテンの隙間から満月。

律は隣で背中を向けた。

裸の背中。

肩甲骨。

呼吸。

近い。

手を伸ばせば触れられる。

でも、その背中は巨大な壁に見えた。

窓の外から、

声がした。

女の声。

泣いているのか、

笑っているのか、

別の何かなのか、

分からない。

私は突然、

夢の中に戻ったような気がした。

「律」

返事がない。

「起きてるでしょ」

「……うん」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「嘘」

「怒ってないよ」

私は笑った。

「またそれ」

「何」

「何でもない顔」

律が寝返りを打った。

こちらを見る。

月明かり。

「茜、今日は疲れてるんじゃない?」

「私ね」

私は言った。

「夢を見るの」

「前に言ってたやつ?」

「紫色の渡り廊下」

律は黙っている。

「壁に私たちの絵がある。二、三日前のことが、少しだけ違う絵になってる」

「うん」

「それで、あなたみたいな男が来る」

「顔がない?」

「そう」

「俺、顔ないんだ」

その言い方。

少し傷ついた声。

私は初めて気づいた。

「あるなら見せてよ」

「……」

「ピンクのガラス玉くれるの」

律の身体が、

ほんの少し固くなった。

「何?」

「いや」

「今、反応した」

「してない」

「した!」

私は起き上がった。

「律」

「何」

「私、あなたの優しさが嫌い」

言った。

とうとう。

「大嫌い」

律の顔が動いた。

「何言っても怒らない。何してもいいって言う。私が誰かを好きになっても尊重するって言う。そんなの愛じゃない!」

「……」

「私はあなたに愛されてるのか分からない!」

声が震えた。

「嫉妬してほしい。嫌だって言ってほしい。私が面倒くさいなら面倒くさいって言ってほしい。今日だって、本当は何か不機嫌だったんでしょ!」

「茜」

「綺麗な答えいらない!」

涙が出た。

止めなかった。

「私だって綺麗じゃない。あなたが他の女と話してたら腹立つ。私より可愛い女見てたら嫌。あなたを試すようなことばっかり言ってる。私、面倒くさいよ。醜いよ。嫉妬深いよ!」

喉が痛い。

でも、

まだある。

もっと奥。

「それでも!」

息を吸う。

「あなたの中にも同じくらい汚いものがあるって思いたいの!」

言った瞬間、

自分の言葉の酷さに気づいた。

でも取り消さなかった。

「私だけ裸みたいなんだよ!」

そのとき、

律が起き上がった。

乱暴だった。

ベッドが揺れた。

「じゃあどうすればいいんだよ!」

声。

初めて聞いた。

律の大きな声。

私は動けなかった。

「怒れば満足!? 嫉妬すれば愛してることになる!? 束縛すればいいの!?」

「そういう意味じゃ」

「じゃあ何だよ!」

律の顔。

初めて、

崩れていた。

眉間。

歪んだ口。

濡れた目。

「僕だって怖いんだよ!」

私の胸が止まった。

「茜は、平気で人の中に入ってくる」

「……」

「映画の感想でも、人間関係でも、何でも『本当はどう思ってるの』って聞く。でも僕はそんなに立派な本音持ってない!」

息が乱れている。

「嫉妬するよ。腹も立つ。茜が他の男の話したら嫌だよ。でも言ったら嫌われると思った!」

「私に?」

「そうだよ!」

律の声が掠れた。

「小さい頃から、怒ったら嫌われるって思ってた。母親が機嫌悪くなると家の中めちゃくちゃだったから、僕は何でも『いいよ』って言えばいいって覚えたんだよ!」

私は何も言えない。

「誰かが怒ってたら謝る。欲しいものが違ったら譲る。相手に決めてもらう。そうすれば捨てられない!」

「律……」

「僕は優しいんじゃない!」

彼の目から涙が落ちた。

「怖いだけなんだよ!」

その瞬間、

私は、

胸の奥で何かが壊れる音を聞いた。

綺麗な律。

完璧な律。

優しい律。

全部、

剥がれた。

残ったのは、

泣いている二十歳の男だった。

みっともない。

怒っている。

自分勝手。

怯えている。

私を欲しがっている。

私に嫌われることを怖がっている。

そして私は、

その顔を見て、

どうしようもなく愛しいと思ってしまった。

「……最悪」

私が言うと、

律が笑いかけて、

泣いた。

「何が」

「あなた」

「うん」

「すごい面倒くさい」

「知ってる」

「知らなかったよ」

私は泣きながら笑った。

「今知った」


しばらくして、

律が机へ行った。

引き出しを開ける。

「何?」

「変な話していい?」

「今さら?」

彼が戻ってきた。

手の中に、

ピンク色のガラス玉。

私は、

息を止めた。

「……それ」

「子どもの頃の」

律が言う。

「何で?」

「ずっと持ってる。妹と遊んでたやつ」

私は掌へ乗せてもらった。

夢と同じ。

完全に同じかなんて分からない。

でも、

その瞬間の私には同じだった。

「嘘でしょ」

「何が」

私は説明した。

夢。

老婆。

ガラス玉。

顔のない男。

律は気味悪そうに笑った。

「それ、俺が聞くとホラーだよ」

「私も今そう思ってる」

ガラス玉は安物だった。

中に小さな気泡がある。

表面にも傷。

完璧ではない。

「何で捨てなかったの?」

律が肩をすくめた。

「分かんない」

その「分かんない」が、

妙に嬉しかった。

意味なんてなくていい。

何でも象徴にしなくていい。

人は理由なく何かを残す。

理由なく誰かを好きになる。

夢が全部を説明する必要もない。

私は律の手を握った。

「ねえ」

「何」

「私、間違ってた」

「何が」

「本音を言えば全部良くなるって思ってた」

律が見る。

「違うね」

本音は汚い。

本音を言えば、

傷つけることもある。

嫉妬。

苛立ち。

欲望。

不安。

全部さらけ出せば自動的に誠実になるわけではない。

「でも」

私は続けた。

「綺麗な嘘だけよりは、これから考えられる」

律は頷いた。

「怒ったら?」

「言って」

「嫉妬したら?」

「言って」

「茜が嫌なこと言ったら?」

「それも言って」

「喧嘩するよ」

「するでしょ」

「別れるかもしれない」

私は少し黙った。

「それは」

怖い。

でも。

「それでも、いい」

「いいの?」

「別れたいって意味じゃないよ」

私は彼の額を指で押した。

「関係を守るために本音を殺し続けたら、関係だけ残って中身が死ぬでしょ」

律は、

「建築でもある」

と言った。

「何が」

「外観だけ保存して、中身全部新しくするやつ」

「専門用語?」

「ファサード保存」

「じゃあ私たち、恋愛のファサード保存してたんだ」

二人で笑った。

夜は、

昨日よりずっと汚かった。

ティッシュが床に落ちていた。

水のコップに指紋。

枕は乱れている。

二人とも泣いて鼻が赤い。

何も美しくない。

それなのに、

私は初めて、

この部屋に人間が住んでいると思った。


第四章 明日も私の夢を壊して

次の夜。

私は最後の夢を見た。

紫色の渡り廊下。

同じ場所。

でも少し違う。

壁の絵が変わっている。

そこには、

昨夜の私たち。

泣いている。

怒鳴っている。

醜い顔。

律のシャツは皺だらけ。

私の髪も酷い。

絵の端には、

ピンクのガラス玉。

以前の絵より、

ずっと黄ばんで見えた。

色も濁っている。

でも私は、

その絵から目を離せなかった。

綺麗だったからではない。

私たちだったから。

廊下の奥から男が来る。

私は身構えなかった。

男には、

顔があった。

律だった。

ただし、

いつもの律ではない。

目は腫れている。

鼻も少し赤い。

髪も乱れている。

「ひどい顔」

私が言う。

律の顔をした男が答える。

「茜もね」

「喋れるんだ」

「顔あるから」

「関係ある?」

「夢だし」

私は笑った。

彼は私へピンクのガラス玉を差し出した。

でも今回は、

受け取らなかった。

「いらない」

律が首を傾げる。

「もう持ってるから」

私は自分のポケットから、

同じ玉を取り出した。

夢だから、

そんなこともできる。

二つのピンク。

同じに見えて、

少し色が違う。

「混ぜる?」

律が聞く。

「混ざらないでしょ。ガラスだし」

「じゃあどうする」

私は考えた。

「並べる」

床へ置く。

二つの玉。

触れている。

でも、

一つにはならない。

それでよかった。

愛とは、

溶けて一つになることではないのかもしれない。

黄ばんだ人間と、

黒ずんだ人間が、

互いを完全に洗浄することなく、

隣に置かれることなのかもしれない。

相手の汚れを愛する、

という言い方も、

少し違う。

傷つけることまで肯定する必要はない。

暴力を「本音」と呼んで許す必要もない。

嫌なものは嫌と言えばいい。

離れる自由も必要だ。

それでも。

相手の不完全さを見た瞬間、

理想から外れたからといって、

ただちに愛を撤回しない。

その猶予。

その余白。

その少し濁った時間。

私は、

そこに愛が住める気がした。

「律」

「何」

「明日も私の夢を壊して」

「夢の俺に言ってる?」

「現実のあなたにも」

「どうやって?」

「私が勝手に作った『あなたはこういう人』っていう幻想から、毎回はみ出して」

律は笑った。

「それ、結構大変だよ」

「私もやる」

「茜も?」

「うん。あなたの中の『茜ならこう思う』を壊す」

「迷惑」

「知ってる」

私は彼の手を取った。

夢の中なのに、

温度があった。

「おいで」

「どこへ」

「分かんない」

「道案内できてないじゃん」

「うるさい」

二人で、

渡り廊下を歩いた。

初めて、

足が動いた。


目が覚めた。

朝。

律の部屋。

カーテンの隙間から光。

私は一人だった。

一瞬、

不安になった。

そこへキッチンから物音。

律が戻ってきた。

寝癖。

Tシャツ。

マグカップ二つ。

「起きた?」

「うん」

「コーヒー」

受け取る。

一口。

「薄い」

律が眉をひそめた。

「朝一番に文句?」

「薄いものは薄い」

「茜って本当に感じ悪いよね」

私は目を丸くした。

それから笑った。

「今の、もう一回言って」

「嫌」

「録音したい」

「やめて」

「記念日だから」

「何の」

「律が私に感じ悪いって言った日」

「馬鹿じゃないの」

「それも初めて!」

律は本気で嫌そうな顔をした。

私は嬉しかった。

でも、

すぐに思い直した。

不機嫌なら何でもいいわけではない。

怒れば本物になるわけでもない。

大切なのは、

彼が私の反応を恐れて自分を消さないこと。

私もまた、

刺激が欲しいからと彼を傷つけないこと。

生々しさは、

傷つけ合う免許ではない。

むしろ、

傷つけてしまったときに、

「これは愛だから」

と美化せず、

ちゃんと見つめるためのものだ。

私はコーヒーを飲んだ。

やっぱり薄い。

でも、

昨日より美味しかった。


大学へ向かう途中、

私はふと思った。

映画は、

現実をそのまま映さない。

カメラを置いた瞬間、

世界にはフレームができる。

照明を当てれば影が変わる。

編集すれば時間まで変わる。

だから、

映像は嘘だ。

でも。

嘘だからこそ、

現実では見えなかったものを見せることがある。

夢も同じだ。

夢は私たちを美化した。

少しマシにした。

顔を消した。

老婆を出した。

ピンクのガラス玉に意味があるふりをした。

裸体と叫び声と紫色を混ぜ、

私の恋愛を安っぽいアート映画みたいに演出した。

でも、

その歪みがあったから、

私は現実を直視できた。

夢が真実だったのではない。

夢は、

真実を見るための角度だった。

そして最後には、

その角度すら壊さなければならない。

現実の人間は、

夢よりずっと退屈だ。

律は毎日劇的な秘密を告白するわけではない。

私は毎晩哲学的な本音をぶちまけるわけでもない。

洗濯物を干す。

LINEを既読無視する。

喧嘩する。

謝る。

面倒になる。

会いたくなる。

たぶん、

愛はそういうところで黄ばんでいく。

そして、

新品ではなくなる。

私は以前、

黄ばむことを劣化だと思っていた。

でも今は違う。

時間が触れた証拠でもある。

もちろん、

何でも残せばいいわけではない。

腐ったものは捨てるべきだし、

傷つけ続ける関係からは逃げていい。

でも、

新品ではなくなったという理由だけで、

愛を捨てる必要もない。

黒ずみの中には、

そこを何度も触った指の跡がある。

皺の中には、

何度も抱きしめた形が残る。

ピンクのガラス玉だって、

傷ひとつない新品より、

律が何年も引き出しにしまっていたあの玉のほうが、

私には綺麗だった。

理由は知らない。

そして、

理由が分からないものを、

分からないまま愛してもいい。

それも最近、

ようやく覚えた。

その日の夕方、

律からメッセージが来た。

《今日、会える?》

私は、

《会える》

と返した。

少し考えて、

もう一つ。

《ただしコーヒーは濃くして》

しばらくして、

《注文多い》

と返ってきた。

私は笑った。

画面の向こうに、

顔のある律がいた。

綺麗すぎない。

完璧でもない。

たぶん今後もっと面倒になる。

私も。

それでいい。

紫色の渡り廊下は、

もう夢に出てこない。

でも、ときどき思い出す。

もしまた私が律を、

「優しい彼氏」

「冷たい男」

「臆病な人」

そんな一枚の絵に閉じ込めそうになったら、

あの廊下へ戻ればいい。

壁の絵を見て、

笑えばいい。

現実の人間は、

どんな額縁からも少しずつはみ出す。

そのはみ出した部分にこそ、

たぶん、

私が愛したかったものがある。

だから律。

明日も、

私の都合のいい夢を壊して。

そして私も、

あなたの夢を壊す。

壊れたあとに残った二人が、

昨日より少し黄ばんで、

少し黒ずんで、

それでも今日のほうが愛しいと言えるなら。

私たちはきっと、

綺麗な恋人にはなれなくても、

本当に存在する二人にはなれる。

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