2026-08-24

遠い雨に祝福を――忘れられた歌について

 



――硝子の街を離れ、始源の島へ

第一章 深夜十二時半のフライトと、耳底の太鼓

桐生葵は、音を聴かなくなって久しかった。

もちろん、耳が聞こえなくなったわけではない。むしろ逆だった。二十歳になった彼女の耳は、以前よりずっと多くのことを聞き分けられる。四十四・一キロヘルツで記録された音源と九十六キロヘルツのそれを比較し、高域の質感を言語化できた。スタジオの空調が発する六十ヘルツ付近の低い唸りを聞き取り、コンプレッサーがヴォーカルのアタックを何ミリ秒潰したかまで、おおよそ推測できる。都内の大学でサウンドデザインと音響工学を学ぶ彼女にとって、音は周波数であり、振幅であり、時間軸上に配置された情報だった。

だからこそ、音楽を聴いて泣けなくなった。

以前は違った。中学生の頃、安物のイヤフォンから流れてきたピアノの一音だけで、理由も分からず胸が痛くなることがあった。高校生の頃には、雨の音を録音するために窓を開け、制服の袖が濡れるのも忘れてマイクを外へ向けた。電車の走行音にまで「寂しい」と感じていた。けれど大学に入り、音響を体系的に学ぶほど、世界は解体されていった。泣きそうになる弦の響きは倍音構造になり、夕方の駅に漂う切なさは残響時間になり、恋人同士の囁きさえダイナミックレンジの狭い小さな波形としてモニターに表示された。

分かることが増えるほど、感じることが減った。

十二月の夜、葵は大学の防音スタジオで一人、巨大なディスプレイを見つめていた。画面には、録音した太鼓の波形が表示されている。講義の課題で使う民族打楽器のサンプルだった。彼女は低域を解析し、二つのピークへ印をつけた。ひとつは基音、ひとつは共鳴。クリック。拡大。数値。保存。

そのときだった。

どん。

葵は顔を上げた。

どん。

ヘッドフォンを外す。スタジオは完全防音だ。蛍光灯の微かな電源音以外、何も聞こえない。

どん。

今度は、胸の奥からだった。

心臓ではない。もっと深い。耳で聞いているのでもない。身体のどこか、まだ名前のついていない場所で、誰かが太鼓を叩いているようだった。

葵は机へ手をついた。

「……また」

最近、ときどき聞こえる。疲れているのだと思っていた。けれど、その音は不思議なくらい怖くなかった。むしろ懐かしかった。行ったことのない土地の音なのに、幼い頃から知っていたような気がする。

どん。

戻っておいで。

そう言われている気がした。

葵は苦笑した。ひどく非科学的だ。脳疲労か、耳鳴りか、ストレス性の錯覚か。いくらでも説明候補はある。彼女はそれらを頭の中へ並べ、それから、そのどれにも安心できない自分に気づいた。

怖かった。

音が聞こえることではない。

自分が、音を「説明すること」でしか受け止められなくなっていることが。

大学一年の夏、親友から失恋したと電話がかかってきた。泣きじゃくる声を三十分聞きながら、葵は心の片隅で「通話音声は帯域が狭いから、泣き声の高域成分がかなり失われる」と考えていた。それに気づいた瞬間、自分が恐ろしくなった。目の前の人間より波形を見ている。悲しみより現象を見ている。なのに、それを止められない。

私は、何になってしまったんだろう。

それ以来、その問いは葵の内部で小さな空洞を広げ続けていた。

その夜、スタジオを出たところで、スマートフォンが震えた。

《着いた。0:30。羽田。》

送り主は、逢坂朔。

葵はその名前をしばらく眺めた。

朔とは小学生の頃、一度だけ会ったことがある。母方の祖父の故郷である南方の島へ家族旅行したとき、浜辺で一緒に遊んだ少年。記憶に残っているのは、彼がよく笑う子だったことと、妙に静かなところがあったこと。そして、拾った貝殻を耳に当てて「海は中にいるんじゃなくて、君の耳が思い出してるんだよ」と言ったこと。

十二歳の少年にしては妙な言い方だった。

八年ぶりに連絡をくれた理由は、数日前に届いた短いメールに書かれていた。

《祖父の楽器を直したい。君に手伝ってほしい。》

深夜十二時半の羽田空港は、昼間より巨大に感じられた。人が減ると建築物は本来の大きさを取り戻す。天井の照明、長い動く歩道、ガラス越しに見える滑走路。葵は到着口の前に立ち、出てくる人々を眺めていた。

やがて、一人の青年が現れた。

逢坂朔は、写真で見たより背が高かった。黒いコートに、使い込まれた帆布のバッグ。右手には、細長い木製のケースを抱えている。表面には無数の傷があり、金具には青錆が浮いていた。

「久しぶり」

朔は言った。

「八年ぶりに言うには普通すぎない?」

「じゃあ、ただいま」

「ここ、あなたの家じゃないでしょ」

「葵がいるから」

あまりにも自然に言うので、返事に困った。

二人は空港内のカフェへ入った。朔はケースを椅子の横に置いた。

「それ?」

「うん」

「楽器?」

「たぶん」

「たぶん?」

朔が笑った。

「音が出ないから、もう楽器って呼んでいいのか分からない」

ケースを開く。

中に入っていたのは、葵の知らない形の弦楽器だった。胴は細長く、木目が深い。弦は四本。共鳴胴にはひびがあり、駒も欠けている。

「島では、雨の木って呼んでる木で作る」

「樹種名は?」

「さあ」

「さあって」

「島の呼び方しか知らない」

葵は楽器を持ち上げた。軽い。乾燥しすぎている。側板の接着も浮いている。彼女はスマートフォンを出し、録音アプリを開いた。

朔がその手を見た。

「何するの」

「まずタップトーン。共鳴の傾向を見る」

葵は指で胴を軽く叩いた。

こん。

乾いた音。

もう一度。

こん。

その瞬間。

どん。

耳の奥の太鼓。

葵の指が止まった。

朔が言った。

「聞こえた?」

「……何が」

「太鼓」

葵は顔を上げた。

「なんで知ってるの」

朔は答えず、窓の向こうを見た。滑走路に航空機が止まっている。月明かりが翼の上で白く光っていた。

「島に帰ろう」

「誰が?」

「葵が」

「私は東京に住んでるんだけど」

「だから」

朔は淡々と言った。

「帰る場所って、住所のことじゃないよ」

葵は笑おうとした。

笑えなかった。

「私、今、自分が嫌いなの」

ぽつりと出た。

朔は黙っている。

「何を聞いても分析する。誰かが泣いてても、その声の音質を考える。昔はもっと……何ていうか、くだらないことで泣けた。空が綺麗とか、歌が寂しいとか。それが今は全部、構造に見える」

「うん」

「私、冷たくなった」

「うん」

「怖いんだよ」

初めて、その言葉を人に言った。

「自分が、どんな人間になってるのか」

朔はしばらく何も言わなかった。そして楽器ケースを閉じた。

「じゃあ確かめに行こう」

「何を」

「本当に冷たくなったのか」

「どうやって」

「雨に濡れれば分かるかも」

「適当すぎない?」

「島は雨、多いよ」

葵は呆れた。

それでも、二日後。

大学へ休学届を出すほど大げさなことはせず、冬季休暇を利用する形で、彼女は朔と南へ向かう飛行機に乗った。

スマートフォンの電源を切ったのは、離陸のためだけではなかった。

一度、世界から切り離されてみたかった。

そして、もし本当に自分の中に帰る場所があるのなら、そこへ向かってみたかった。


第二章 忘れられた旋律

島の雨は、東京の雨とは違っていた。

東京の雨は屋根やアスファルトや傘に当たり、都市の表面を滑って排水口へ消える。島の雨は、森へ吸い込まれていった。葉を打ち、幹を伝い、土へ入り、川へ流れ、また霧になって山へ戻る。降るというより、島全体が雨を呼吸しているようだった。

空港から古いバスに揺られて二時間。さらに軽トラックの荷台。最後は徒歩。たどり着いた集落は、地図上では一つの点にしか見えない場所だった。

古条老人の工房は森の縁にあった。杉板張りの小屋。軒先には乾燥中の木材が積まれ、内部には工具と楽器がぎっしり並んでいる。大小さまざまな弦楽器。太鼓。笛。名前の分からないもの。

古条は、七十代後半に見えた。白髪。細い身体。手だけが異様に厚い。

朔がケースを置く。

「じいちゃんの」

古条は開けた。

楽器を触る。

指先で木を撫でる。

叩く。

耳を近づける。

葵はその一連の動作を見ていた。

「修復できますか」

古条は答えない。

「材の含水率を測って、共鳴特性を」

葵はノートパソコンを開いた。

古条の手が伸びた。

ぱたん。

画面を閉じられた。

「ちょっと」

「うるさい」

「まだ何も鳴らしてません」

「お前の頭がうるさい」

葵は眉をひそめた。

「分析しないでどうやって直すんですか」

「分析するなとは言ってない」

「じゃあ」

「順番が逆だ」

古条は楽器を持ち上げた。

「お前は木を聞く前に、木を説明しようとする」

「説明できるものは説明したほうが」

「雨を説明して濡れなくて済むなら、そうすりゃいい」

葵は黙った。

古条は彼女の顔を見た。

「都会で何を置いてきた」

「何も」

「じゃあ何でそんな顔してる」

腹が立った。

初対面の老人に何が分かる。

「私は音響を勉強してるんです。感覚だけで修理するより」

「感覚だけでやれとも言ってない」

老人は笑った。

「数字は便利だ。だが数字は木じゃない。波形は音じゃない。お前が記録した泣き声は、泣いている人間じゃない」

葵の身体が固まった。

「……朔、何か言った?」

「何も」

朔は壁際にいる。

古条が言った。

「顔に書いてある」

葵は立ち上がった。

「帰ります」

「どこへ」

「宿」

「都会へじゃないのか」

「……」

老人は工房の裏手を指した。

山。

雲に隠れた巨大な影。

「登ってこい」

「は?」

「明日」

「何のために」

「知らん」

「知らないって」

「お前が知るんだろ」

葵は心底腹が立った。

しかし翌朝、登山靴を履いていた。

自分でも馬鹿だと思う。

山へ入る道で、朔はほとんど話さなかった。

濡れた木の根。シダ。巨大な葉。鳥。虫。沢。東京では絶対に聞けないほど複雑な音が、四方から押し寄せる。

葵は最初、それらを分類した。

右手の沢、おそらく二百ヘルツ付近に主成分。頭上の鳥は三キロから五キロ。葉を叩く雨は広帯域ノイズ。

途中で、疲れた。

分類しきれない。

音が多すぎる。

「あのさ」

葵が言った。

「島の人って、これ全部聞き分けてるの?」

朔が笑った。

「聞き分けない」

「じゃあどう聞くの」

「一緒に聞く」

葵は意味が分からなかった。

「音って分けないと」

「分けてもいい。でも最後は戻さないと」

「どこに」

「世界に」

その答えが少し嫌だった。

詩的すぎる。

でも、どこかで覚えていた。

中学生の頃の自分なら、そういう言葉を好きだった気がする。

山腹の小さな祠で休憩したとき、古い石碑があった。文字はほとんど摩耗して読めない。

「何て書いてあるの」

「歌」

朔が言った。

「昔の雨乞い?」

「それもあるし、送り歌でもあるらしい」

「歌詞は?」

「分からない」

「誰も?」

「古条さんなら一部知ってるかも」

「忘れられたの?」

「うん」

葵は石碑を撫でた。

旋律だけが残り、言葉が失われる。

意味だけが失われる。

それでも人は、なぜか歌う。

その構造が、自分自身に似ていると思った。

私は音を知っている。

でも、

音を好きだった理由を失っている。

その夜、山小屋の外で犬の遠吠えが聞こえた。

一匹。

しばらくして、遠くからもう一匹。

そしてまた別の方向から。

葵は眠れず、外へ出た。

朔が岩に座っていた。

「寝ないの?」

「葵も」

「犬?」

「うん」

また遠吠え。

寂しそう、と葵は思った。

すぐに、その言葉を打ち消そうとした。

動物の鳴き声へ人間の感情を投影しているだけ。

でも、やめた。

今日は、それでいいと思った。

「寂しいんだね」

朔が言う。

「科学的には分かんないけど」

「科学的じゃないと寂しがっちゃ駄目?」

葵は少し笑った。

「あなた、古条さんに似てきた」

「嫌だな」

「失礼」

夜の山。

木々。

遠吠え。

葵は自分の胸へ手を置いた。

どん。

耳底の太鼓。

今度は、犬の声と重なった。

自分もずっと、仲間を呼んでいたのかもしれない。

誰にも聞かれない場所で。


第三章 雨に祝福される

翌日の午後、天候が崩れた。

山頂まではあと二時間ほどと聞いていた。空は午前中から鉛色だったが、島の天気は変わりやすいと朔は言っていた。最初は霧雨だった。それが十分もしないうちに、視界を白く潰すほどの豪雨へ変わった。

レインウェアを着ても意味がない。

雨は首から入った。袖から入った。靴の中へ入り、髪から顔を流れた。風まで強くなる。

「戻る?」

朔が叫ぶ。

葵は返事をしようとした。

その瞬間、雷。

轟音。

身体が縮む。

世界全部が震えた。

道は泥になっている。

葵は滑った。

膝をつく。

手のひらが土へ沈む。

「葵!」

朔が戻ってくる。

「大丈夫?」

「……大丈夫」

立とうとする。

また滑る。

「もう嫌」

思わず口に出た。

「何?」

「もう嫌!」

雨音に負けないように叫んだ。

「何でこんなことしてるの!」

朔が黙る。

「山登ったら何が分かるの? 雨に濡れたら人間に戻るの? 木を触ったら優しくなれるの? そんなわけないじゃん!」

息が苦しい。

「私が冷たいのは、都会のせいじゃない! 大学のせいでも、パソコンのせいでもない! 私がそうなったの!」

朔は何も言わない。

「人が泣いてても何も感じないときがある。友達が辛いって言ってても、面倒だって思うときもある。誰かが死んだニュースを見ても、すぐ別の動画を見る。そんな自分がいる!」

雨。

涙かどうか分からない。

「ずっと怖かった」

声が震えた。

「私、もともとこういう人間だったんじゃないかって」

朔が一歩近づく。

「優しいふりしてただけで、本当は誰のことも大事じゃないんじゃないかって」

「葵」

「来ないで」

「うん」

朔は止まった。

その距離がありがたかった。

「私、自分が怖い」

やっと言えた。

「自分が何になってしまったのか、分からない」

それまで押さえていた何かが、崩れた。

葵は両手で顔を覆った。

泣いた。

声を上げて。

子どものように。

雨の中で泣くと、自分の涙がどこまでなのか分からない。空から落ちてくる水と、自分の内側から出てくる水が混ざる。

しばらくして、

肩へ腕が回った。

朔だった。

葵は抵抗しなかった。

彼の胸へ額を押し当てる。

鼓動。

どん。

どん。

耳底の太鼓と同じ速さではない。

でも、

生きた音だった。

「怖いなら」

朔が言った。

「まだ大丈夫だよ」

「何が」

「本当に何も感じないなら、自分が冷たいことを怖がらない」

葵は泣きながら首を振る。

「そんなの慰め」

「うん」

「根拠ない」

「うん」

「適当」

「うん」

「……馬鹿」

「それも」

葵は少し笑った。

その瞬間。

雨が、

冷たいと感じた。

今までずっと雨は「降水」だった。

スペクトル。

ノイズ。

環境音。

でも今は、

冷たい。

肌に当たる。

頬を滑る。

唇へ入る。

土の匂い。

朔のコートの濡れた布。

自分の指。

全部。

葵は顔を上げた。

雨を避けなかった。

目を閉じる。

空へ向く。

降ってくる。

無数に。

世界から。

「寒い」

「うん」

「すごく寒い」

「下りる?」

葵は首を振った。

「もう少し」

彼女は両腕を広げた。

何かを受け取るように。

雨は彼女だけのために降っているわけではない。

山にも。

木にも。

犬にも。

海にも。

朔にも。

知らない誰かにも。

世界は、自分の苦しみに関係なく降り続ける。

それが不思議と救いだった。

私が泣いていても、

世界は世界でいてくれる。

私の感情に合わせて、

空まで壊れる必要はない。

その大きさの中なら、

自分の醜さも、

弱さも、

抱えてもらえる気がした。

葵は小さく言った。

「ありがとう」

「誰に?」

朔が聞く。

葵は笑った。

「知らない」

雨に。

山に。

生きていることに。

あるいは、

まだ自分が何者になるのか決まり切っていないことに。

その全部へ。

夜明け前。

二人は山頂近くの避難小屋へ着いた。

雨は止んでいた。

朝。

雲海。

その上に太陽。

葵は言葉を失った。

分析しようとしなかった。

ただ見た。

それができたことが、

何より嬉しかった。


第四章 時間をかけて、音になる

麓へ戻った葵を見て、古条老人は何も言わなかった。

「何ですか」

「別に」

「何か言いたそう」

「うるさい顔が少し静かになった」

葵は睨んだ。

老人は楽器を差し出した。

「やるぞ」

今度はパソコンを開かなかった。

まず木を触った。

表面。

ひび。

重量。

匂い。

指で叩く。

こん。

前より、

少し違って聞こえた。

数値が頭に浮かばなかったわけではない。

でも、

それだけではなかった。

「ここ」

古条が指を置く。

「薄い」

葵も触る。

「分からない」

「なら百回触れ」

「そんな」

「千回でもいい」

修復は遅かった。

木を削る。

合わせる。

失敗する。

削りすぎる。

やり直す。

接着。

乾燥。

弦。

張力。

駒。

葵は何度も、

計測器を使いたくなった。

古条は別に禁止しなかった。

だから途中から使った。

周波数解析もした。

含水率も測った。

ただ、

数字を最後の答えにしなかった。

木に触れた。

耳で聞いた。

朔にも弾かせた。

古条にも聞いた。

自分の指にも尋ねた。

工学と感覚。

どちらかではない。

両方。

それが、

今の自分にはしっくりきた。

一週間後。

楽器は完成した。

完全ではない。

古いひびは残っている。

新しい補修材の色も、

古い木とは少し違う。

でも、

音が出た。

朔が最初の一音を弾いた。

低く、

温かい音。

部屋の空気が震えた。

葵は、

泣かなかった。

その代わり、

笑った。

「いい音」

それだけ言った。

「解析する?」

朔が笑う。

「あとで」

「するんだ」

「するよ。私、音響やってるんだから」

古条が鼻で笑った。

「それでいい」

葵は少し驚いた。

「数字で木を測るなって言ったじゃないですか」

「数字だけで、と言った」

「言ってない」

「そういう意味だ」

「ずるい老人」

「都会の娘に言われたくない」

工房に笑い声が広がった。

その瞬間、

葵は気づいた。

自分が帰ってきたのは、

「昔の自分」ではない。

感情だけで生きていた少女へ戻ったわけではない。

音響工学を捨てたわけでもない。

都会を否定したわけでもない。

知識を持ったまま、もう一度感じられる場所へ来た。

それは回帰ではなく、

螺旋だった。

同じ場所へ戻ったように見えて、

少し違う高さへ来ている。

島を出る前夜。

海岸。

雨上がり。

遠くで太鼓。

祭りの練習らしい。

どん。

どん。

今度は耳で聞こえる。

朔が隣に座っている。

葵は言った。

「東京戻ったら、また冷たくなるかもしれない」

「なるかもね」

「否定してよ」

「嘘になる」

「ほんと、そういうとこ嫌い」

「知ってる」

「人の話、面倒になる日もあると思う」

「あるよ」

「また何でも分析するかも」

「それは仕事だし」

「じゃあ私、変わってないじゃん」

朔は少し考えた。

「変わるって、別の人になること?」

葵は黙る。

「葵は葵のままで、選び方が増えたんじゃない」

「選び方」

「分析することもできる。感じることもできる。離れることも、近づくことも」

海。

月。

濡れた砂。

「それで十分じゃない?」

葵はしばらく波を見た。

「時間、かかるね」

「うん」

「自分に戻るの」

朔が言った。

「戻るんじゃないかも」

「じゃあ?」

「作る」

葵は笑った。

「それ、音みたい」

「何が」

「録音って、元の音をそのまま保存してるように見えるけど、本当はマイクも空間も機材も全部通って、別のものになる」

「うん」

「それでも、嘘じゃない」

「うん」

葵は楽器ケースへ手を置いた。

「私もそうなのかな」

朔は答えなかった。

答えなくてよかった。

東京へ戻る朝。

空港。

朔は島に残る。

葵は一人で搭乗口へ向かう。

別れ際、

彼女は振り返った。

「朔」

「ん」

「もし百人くらいで私を連れ戻しに来ても」

「何それ」

「私はもう、この音から離れない」

朔は笑った。

「僕からは?」

葵は少し考えた。

「それは……今後の態度次第」

「厳しい」

「でも」

彼女は戻って、

朔の手を握った。

「ありがとう」

「うん」

手の温度。

雨の匂い。

木の感触。

太鼓。

山。

遠吠え。

朝日。

全部が、

彼女の中にある。

飛行機へ乗る。

窓際。

翼。

月ではなく、

朝日が反射している。

離陸。

島が小さくなる。

葵はイヤフォンを耳へ入れた。

録音しておいた雨の音を再生する。

最初、

無意識にスペクトルを想像した。

高域。

低域。

残響。

そして、

笑った。

それから目を閉じた。

ただ聞いた。

雨。

遠い雨。

世界のどこかで、

今も降っている。

自分とは無関係に。

そして、

自分を含むすべてのものへ。

そのことが、

たまらなく愛おしかった。


エピローグ 遠い雨に祝福を

半年後。

大学のスタジオ。

葵は新しい作品を制作していた。

タイトルは、

『Bless the Distant Rain』

音源には、

島で録音した雨。

野犬の遠吠え。

古い楽器。

東京の地下鉄。

信号機。

大学の空調。

友人の笑い声。

自分の呼吸。

全部を入れた。

以前の彼女なら、

異なる音を整理し、

不要なノイズを削り、

完璧なミックスへ近づけただろう。

今は、

少し残した。

ざらつき。

息。

雨の不規則さ。

弦の僅かなビビり。

人間が触った跡。

教授が試聴し、

「ここ、ノイズ残ってるよ」

と言った。

葵は答えた。

「はい」

「消さないの?」

「残します」

「意図的?」

「はい」

教授は少し笑った。

「ならいい」

それだけ。

葵も笑った。

正解ではない。

でも、

自分で選んだ。

夜。

スタジオを出る。

雨。

東京の雨。

アスファルト。

車。

傘。

コンビニ。

ネオン。

以前なら、

島の雨とは違うと思った。

今は、

違っていていいと思う。

東京の雨も、

雨だ。

葵は傘を閉じた。

少しだけ。

濡れる。

冷たい。

笑う。

通行人が怪訝そうに見る。

どうでもいい。

スマートフォンが鳴った。

朔。

《雨降ってる?》

葵は返信する。

《うん》

少し考えて。

《こっちの雨も、悪くない》

送信。

そして、

空を見上げた。

自分が何者なのか、

今も完全には分からない。

優しい人間なのか。

冷たい人間なのか。

どちらでもあるのかもしれない。

人間は、

そんな一語では測れない。

傷つきたくない日もある。

誰かの涙を面倒だと思う日もある。

それでも、

次の瞬間、

手を伸ばせることもある。

その可能性まで、

自分から奪わなくていい。

自己とは、

発見するものではなく、

時間をかけて作り続けるものなのだ。

葵はようやく、

それを少しだけ信じられるようになった。

雨が頬を流れる。

涙ではない。

でも、

涙と区別する必要もない。

遠い島にも、

ここにも、

同じ空から水が落ちてくる。

乾いた土へ。

木へ。

街へ。

そして、

まだ完成していない人間の上へ。

葵は小さく呟いた。

「祝福を」

誰にともなく。

雨に。

朔に。

冷たかった自分に。

これから変わっていく自分に。

そして、

何度乾いても、

また濡れることのできる世界に。

彼女は傘を開き直し、東京の光の中へ歩いていった。

もう始源の島へ逃げ帰る必要はなかった。

雨は、

彼女の内側にも降り始めていた。

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