第一章 神殿のガラスと、ファインダーの傷
私には、世界と直接触れ合わないための方法がある。
右手でカメラを持つ。
左手でレンズを支える。
人差し指をシャッターへ置く。
右目をファインダーへ押し当てる。
それだけで世界は、縦二十四ミリ、横三十六ミリ程度の安全な四角形になる。
泣いている人も。
怒っている人も。
殴られている人も。
自分を必要としている人も。
全部、
「被写体」
になる。
被写体なら、助けなくていい。
露出を合わせればいい。
ピントを合わせればいい。
構図を決めればいい。
世界がどれだけ醜くても、ファインダーの中なら私は観客でいられた。
それが、
佐倉結衣、十六歳。
私立聖華学園高等部二年。
写真部。
そして、
たぶん、
卑怯者。
*
聖華学園には神様がいる。
もちろん、宗教上の話ではない。
校内で彼女の名前を出せば、誰もが同じ顔をする。
少し誇らしそうに。
少し安心したように。
「鳳条先輩がいるから大丈夫」
生徒会長。
剣道部主将。
学年主席。
鳳条冴。
十八歳。
黒髪は腰近くまで真っ直ぐ伸びている。
制服の襟はいつも正しい位置。
歩き方に無駄がない。
声を荒らげない。
なのに誰も逆らえない。
昨年、教師が黙認していた部活動内のいじめを内部調査し、学校法人まで動かした。
その前は、女子生徒だけに不利だった服装規定を改定させた。
さらに前には、生徒会予算の不透明な流用を突き止めた。
誰かが困れば現れる。
誰かが泣けば手を差し出す。
理不尽なものがあれば立ち向かう。
だから人々は彼女を呼んだ。
「台座の上の英雄」
最初にそう書いたのは校内新聞だったらしい。
それから言葉は一人歩きした。
冴先輩なら大丈夫。
冴先輩なら負けない。
冴先輩は折れない。
冴先輩は正しい。
冴先輩は。
冴先輩は。
冴先輩は。
気づけば、
人間一人が持つにはあまりにも多すぎる文章が、
彼女の肩に積まれていた。
当時の私は、
その文章を疑わなかった。
むしろ、
喜んで一つ加えていた。
鳳条冴は、私とは違う。
*
写真部では、文化祭用の企画として、
『聖華をつくる人々』
という写真展を準備していた。
教師。
用務員。
生徒。
部活動。
購買のおばさん。
そして当然、
鳳条冴。
私は彼女の撮影担当になった。
理由は単純。
写真部で一番人物撮影が上手いから。
「佐倉さん」
初めてカメラを向けた日。
冴先輩は、生徒会室の窓際に立っていた。
夕日。
黒髪。
白いシャツ。
完璧だった。
「もう少し左を向いてもらえますか」
「こう?」
「はい」
シャッター。
カシャ。
「少し笑ってください」
冴先輩は笑った。
カシャ。
完璧な笑顔。
誰に見せても、
「鳳条冴らしい」
と言うだろう。
なのに私は、
カメラを下ろした。
「どうしたの?」
「いえ」
何かがおかしい。
写真には、
人が隠しているものが写ることがある。
まばたきの直前。
口角が落ちる一瞬。
視線が逃げる方向。
私はそういうものを拾うのが好きだった。
冴先輩には、
それがない。
何もないのではない。
何も漏らさない。
「続けます」
「ええ」
カシャ。
その日、
二百八十三枚撮った。
家に帰ってモニターへ並べる。
全部きれいだった。
そして、
全部、
少し怖かった。
*
私は昔、
写真なんて撮らなかった。
中学二年生の頃。
親友がいた。
水瀬莉子。
明るくて、
少し空気が読めなくて、
だからクラスの中では浮いていた。
最初は、
筆箱を隠される程度だった。
次は上履き。
次は机。
笑い。
無視。
SNS。
私は知っていた。
全部。
知っていて、
何もしなかった。
怖かった。
次は自分かもしれない。
だから、
莉子の横に座らなくなった。
メッセージの返信を遅らせた。
「ごめん、今日は用事ある」
と嘘をついた。
最後に莉子から来たメッセージは、
短かった。
《結衣も、私のこと嫌いになった?》
返せなかった。
翌月、
莉子は転校した。
それから私は、
人間の顔を見るのが怖くなった。
カメラを始めたのはその頃だ。
レンズ越しなら、
近づかなくても、
見ているふりができる。
私は、
世界の観客になった。
*
冴先輩の「本当の写真」を撮ったのは、
六月の雨の日だった。
旧校舎。
礼拝堂。
聖華学園は、戦前に設立されたミッション系女学校を母体としている。
今では形式的な礼拝しか行われない古い石造りの礼拝堂が、
旧校舎の奥に残されていた。
私は雨を撮りに行っていた。
ステンドグラス。
濡れた石畳。
曇天。
いい写真が撮れそうだった。
中から、
音がした。
ゴッ。
ゴッ。
何かを叩く音。
私は扉を開けた。
薄暗い礼拝堂。
祭壇。
その前。
冴先輩がいた。
最初、
何をしているのか分からなかった。
右手。
石の縁。
拳。
ゴッ。
「先輩……?」
冴先輩の身体が止まった。
振り返る。
右手には傷があった。
赤い。
私は息を呑んだ。
「何してるんですか」
「……佐倉さん」
冴先輩は、
いつもの笑顔を作ろうとした。
失敗した。
その瞬間だけ、
私は初めて彼女の年齢を見た。
十八歳。
ただの。
疲れ切った少女。
「見なかったことにして」
声が掠れている。
「できません」
「できるわ」
「血が」
「たいしたことない」
私は一歩近づく。
冴先輩は下がった。
まるで、
私のほうが危険なもののように。
「来ないで」
「保健室へ」
「必要ない」
「必要あります」
「佐倉さん!」
声が響いた。
礼拝堂。
ステンドグラス。
聖人の像。
その中央で、
英雄が震えていた。
「私は」
冴先輩は胸を押さえた。
呼吸が浅い。
「もっと正しくならなきゃいけないの」
「……何を言ってるんですか」
「まだ足りない」
「何が」
「全部」
彼女は、
笑った。
壊れた笑いだった。
「私がもっとちゃんとしていれば、誰も傷つかない」
私はカメラを持っていた。
癖で。
指がシャッターへ動いた。
でも、
押せなかった。
ファインダーを覗けば、
この光景も安全な四角形になる。
私はそれを知っていた。
だから、
カメラを下ろした。
初めて。
世界を、
裸眼で見た。
冴先輩は泣いていなかった。
泣くことさえ、
許していないように見えた。
そして私は思った。
この人は、
英雄なのではない。
英雄という言葉の中に、
閉じ込められている。
第二章 正義という名の牢獄
「頼みがある」
翌日。
屋上。
私を呼び出したのは、
一ノ瀬蓮先輩だった。
鳳条冴の幼馴染。
同じ三年生。
ぱっと見は冴先輩とは正反対。
ネクタイは緩い。
髪も少し長い。
生徒会にも部活にも所属していない。
でも、
冴先輩の話になると目だけが真剣になる。
「何ですか」
「冴を」
彼は言った。
「台座から引きずり下ろしてくれ」
私は意味が分からず、
しばらく黙った。
「それ、幼馴染が言う言葉ですか」
「幼馴染だから言ってる」
蓮先輩はフェンスに背中を預けた。
「このままじゃあいつ、壊れる」
「昨日のこと、知ってるんですね」
「昔からだ」
風。
校庭。
部活の掛け声。
「冴には妹がいた」
蓮先輩が言った。
七歳下。
名前は美羽。
冴が十歳の夏。
近所の川。
妹が水際へ行った。
冴は、
ほんの少し目を離した。
事故だった。
大人たちは言った。
冴のせいではない。
子どもだった。
誰にも防げなかった。
でも。
十歳の冴だけは、
それを認めなかった。
「私が見ていれば」
それが、
彼女の世界の中心になった。
誰かが怪我すると、
自分が気づかなかったから。
誰かが泣くと、
自分がもっと早く動かなかったから。
誰かが傷つくたび、
十歳の夏へ戻る。
「それで」
蓮先輩は吐き捨てるように言った。
「正しい人間になろうとした」
勉強。
剣道。
生徒会。
規則。
倫理。
誰かを守る。
誰かを救う。
一度も間違えない。
誰も見捨てない。
「そんなの無理です」
私が言った。
「そうだよ」
「じゃあ先輩が言えば」
「言った」
蓮先輩は笑った。
「百回くらい」
「……」
「でも俺の言葉は、もう届かない」
「どうして」
「幼馴染だから」
それが答えになるのか、
私には分からなかった。
「俺は冴の過去を知りすぎてる。あいつからすると、俺が『休め』って言うのは、『美羽を忘れろ』に聞こえるんだと思う」
蓮先輩は私を見る。
「だから」
「私なら?」
「お前は冴の現在を撮ってる」
私はカメラを握った。
「写真部だからって、人を救えるわけじゃ」
「救わなくていい」
即答だった。
「え」
「冴が一番壊れた理由、たぶんそれだから」
彼は空を見る。
「誰か一人が誰かを救い切れるって思ったこと」
その言葉が、
胸の奥に刺さった。
*
数日後。
冴先輩に関する噂が出た。
《生徒会会計を私的流用》
《推薦枠を不正に操作》
《教師への圧力》
最初は匿名投稿。
次にスクリーンショット。
次に「内部資料」。
よくできていた。
写真部の私は、
画像を見るのが仕事だ。
違和感に気づいた。
フォント。
圧縮ノイズ。
影。
時刻表示。
どこかがおかしい。
でも決定的ではない。
噂の中心にいたのは、
昨年の生徒会執行部から外された元役員たちだった。
冴先輩が不正を指摘したことで処分された生徒。
報復。
たぶん。
「先輩、これ偽物じゃ」
私は生徒会室へ行った。
冴先輩は机に座っていた。
顔色が悪い。
「知ってる」
「え」
「偽物よ」
「なら反論してください」
「しない」
「何で」
「もういいから」
「何がいいんですか」
冴先輩は静かに書類を閉じた。
「文化祭の開会式で、辞任を発表する」
「辞任?」
「それから」
わずかに間。
「退学届を出す」
「は?」
声が出た。
「何言ってるんですか」
「責任を取るの」
「何の!」
「全部」
また。
全部。
礼拝堂と同じ言葉。
「やってないことまで?」
「それで収まるなら」
「収まるわけないでしょう!」
「佐倉さん」
彼女は笑った。
完璧な笑顔。
「私はね」
静かな声。
「そういう役なの」
「役?」
「誰かが責任を取らなきゃいけない」
「だからって」
「私なら耐えられる」
私は、
その言葉で分かった。
違う。
この人は耐えようとしているのではない。
罰されようとしている。
「先輩」
「なに」
「死にたいんですか」
冴先輩の瞳が動いた。
私は自分でも驚いた。
言ってはいけない言葉だったかもしれない。
でも、
目を逸らしたくなかった。
「私は」
冴先輩は長く黙った。
「そんなこと言ってない」
確かに。
でも、
自分を壊す方向へ歩いている。
その事実は変わらない。
「あなたは」
私は言った。
「正義のために生きたいんじゃなくて、正義のために消えたいんじゃないですか」
初めて、
冴先輩が私を睨んだ。
「帰って」
「先輩」
「帰って!」
机が震えるほどの声。
私は動けなかった。
でも、
最後には出ていった。
廊下へ。
扉が閉じる。
そして。
私はまた、
何もできなかった。
*
中学二年生。
莉子。
《結衣も、私のこと嫌いになった?》
未返信。
その画面が蘇る。
足が止まる。
「まただ」
呟いた。
私はまた、
誰かが壊れていく前で、
立っているだけ。
ファインダー。
観客席。
安全圏。
逃げるための距離。
自分には救う資格がない。
だから、
助けなくていい。
ずっとそう思っていた。
でも。
突然、
別の問いが浮かんだ。
救う資格って何だ?
誰が発行するんだ。
どこでもらえる。
失敗した人には二度と与えられないのか。
一度逃げた人間は、
永遠に逃げ続けなければならないのか。
私は、
写真部室へ走った。
第三章 未来の私を起こすもの
パソコンを開く。
外付けSSD。
フォルダ。
《鳳条冴》
二千四百六十一枚。
私は、
全部見た。
最初の生徒会室。
剣道場。
校門。
廊下。
文化祭準備。
笑顔。
横顔。
演説。
握手。
そして、
誰にも見せる予定のなかった写真。
夕方、
生徒会室で眠ってしまった冴先輩。
誰もいない廊下で、
壁に手をついて息を整えている姿。
包帯。
コンビニのおにぎりを、
一口だけ食べて残した日。
他人の相談を聞いたあと、
一人になった瞬間だけ目を閉じた顔。
全部。
神ではなかった。
十八歳。
疲れていた。
怖かった。
それでも、
誰かの前では笑った。
私は写真を見ながら、
泣いていた。
そして、
気づいた。
私は、
冴先輩を憧れていたのではない。
使っていた。
「鳳条冴は特別な人間だからできる」
そう思えば、
自分が動かない理由になる。
「私は英雄じゃないから」
そう言えば、
また莉子を見捨てた自分を、
永遠に固定できる。
卑怯者。
観客。
それで完成。
変わらなくていい。
「最低だ」
声が震える。
先輩を台座に載せたのは、
学校だけじゃない。
私も。
上から光が当たる場所へ押し上げて、
「眩しいなあ」と見ていた。
その台座には、
階段がなかった。
降りたら、
失望される。
泣いたら、
神話が壊れる。
休んだら、
誰かが傷つく。
だから先輩は、
上で死のうとしている。
「そんなの」
私はカメラを握った。
「絶対、おかしい」
でも。
何ができる。
私は十六歳。
写真部。
権力もない。
剣道もできない。
生徒会でもない。
英雄ではない。
そこで、
ふと笑った。
「まだ言ってる」
英雄じゃないから。
英雄じゃないから。
英雄じゃないから。
なら、
英雄にならなくていい。
一人を全部救えなくていい。
世界も。
学校も。
冴先輩の過去も。
救えない。
でも。
次の一歩だけなら、選べる。
それが、
未来の自分を作る。
今の私が、
明日の私を起こす。
そう考えた瞬間、
私は初めて、
未来の自分を少しだけ信じた。
*
調べた。
画像。
投稿履歴。
ファイル。
元データ。
加工痕。
元生徒会メンバーのSNS。
文化祭実行委員会の共有サーバー。
私はハッキングなんてできない。
でも、
公開されているものを見ることはできる。
写真部だから、
画面の違和感を見つけられる。
捏造された領収書画像には、
二種類の撮影条件が混在していた。
影の方向。
JPEG圧縮。
EXIF。
生徒会室で使われているスキャナの特徴とも違う。
さらに、
「冴先輩が教師へ送った」とされるメール画面。
時刻表示と、
その日の学校システムのメンテナンス時間が矛盾している。
一人では足りない。
「蓮先輩」
電話。
「何」
「手伝ってください」
沈黙。
「何すればいい」
それだけだった。
次に写真部。
部長。
情報処理部。
文化祭実行委員。
少しずつ、
人に頼った。
怖かった。
断られたら。
笑われたら。
でも、
一人ずつ。
一つずつ。
世界は、
ファインダーの外でも、
全部敵ではなかった。
*
最後に、
私は元生徒会役員の一人と会った。
捏造グループにいた女子生徒。
顔色が悪かった。
「何で私に」
「写真があります」
私は言った。
彼女が加工前データを受け取っている場面。
決定的ではない。
でも、
問いかけるには足りる。
「脅すの?」
「違います」
私はカメラを机に置いた。
「やめてほしいんです」
「鳳条に頼まれた?」
「先輩は何も知りません」
彼女は笑った。
「ヒーロー様を守るんだ」
その言葉。
私は首を振った。
「違います」
「何が」
「鳳条先輩はヒーローじゃありません」
自分で言って、
胸が痛んだ。
でも。
「ただの女の子です」
「……」
「あなたたちが嫌いでもいい。恨んでてもいい。でも」
私は息を吸う。
「先輩を人間として壊すところまでやったら、たぶんあなたも戻れなくなる」
「説教?」
「違う」
「じゃあ何」
少し考えた。
「お願いです」
それしかなかった。
正しさで殴らない。
証拠で脅さない。
ただ、
頼む。
その女子生徒は、
長く黙った。
そして、
USBを一つ出した。
「これ」
「何ですか」
「元データ」
私は見た。
「何で」
「……鳳条が嫌いなのは本当」
彼女は言った。
「でも、退学まで行くと思ってなかった」
人間は、
いつも途中で気づく。
やりすぎた。
戻りたい。
でも戻れない。
私は、
そのUSBを受け取った。
手のひら。
小さい。
でも、
未来の向きを変えるには、
十分だった。
第四章 台座を降りた少女
文化祭初日。
大講堂。
全校生徒。
保護者。
教師。
ステージ。
巨大なスクリーン。
鳳条冴は、
中央に立っていた。
制服。
長い黒髪。
完璧な姿勢。
英雄。
最後の演説。
「本日は」
声。
静か。
「生徒会長として、皆さんへお伝えしなければならないことがあります」
私は講堂後方にいた。
カメラ。
ノートパソコン。
蓮先輩。
写真部。
みんな。
心臓がうるさい。
逃げたい。
今でも。
「私に関して現在流布されている件について」
冴先輩は言う。
「責任はすべて私にあります」
ざわめき。
違う。
「私は本日付で生徒会長を辞任し」
違う。
「学園を」
私はキーを押した。
照明。
暗転。
スクリーンが切り替わる。
「……え?」
冴先輩が振り返る。
最初に映したのは、
証拠だった。
加工前データ。
比較画像。
時刻。
履歴。
捏造。
事実。
ざわめきが広がる。
でも、
それだけでは終わらせなかった。
次。
写真。
誰もいない生徒会室。
疲れて眠る冴先輩。
次。
包帯。
次。
剣道場。
一人だけ残って掃除している姿。
次。
窓際。
作り笑いではない、
ぼんやりした横顔。
次。
礼拝堂。
そこだけは、
傷そのものを直接見せなかった。
雨に濡れた床。
落ちた包帯。
祭壇。
そして。
最後。
夕方。
冴先輩が小さな子どもに傘を貸したあと、
自分は濡れながら笑っていた写真。
「何を」
冴先輩の声が震える。
私は、
中央通路を歩いた。
途中から走った。
カメラが揺れる。
観客席。
舞台。
全部越える。
「鳳条先輩!」
声が講堂へ響く。
冴先輩が私を見る。
「やめなさい」
「嫌です!」
「佐倉さん!」
「先輩!」
息。
苦しい。
でも。
言う。
「台座から降りてください!」
静寂。
私は階段を上る。
「あなたは神様じゃない!」
冴先輩の顔が、
崩れかける。
「世界なんて救わなくていい!」
「やめて」
「全員を守らなくていい!」
「やめて……」
「誰にも嫌われない正義なんて、ない!」
冴先輩の目から、
初めて涙が落ちた。
「私は」
声が小さい。
「私がやらなきゃ」
「何で!」
「また誰かが」
「それでも!」
私は叫んだ。
「全部あなたの責任じゃない!」
冴先輩が首を振る。
「違う」
「違わなくても!」
自分でも、
何を言っているのか分からなかった。
でも。
「もし先輩に責任があることがあっても!」
一歩。
「それで先輩が一生、自分を罰し続けなきゃいけない理由にはならない!」
一歩。
「間違ったら、後悔して、謝って、次を選べばいい!」
冴先輩が泣いている。
「私は……」
「英雄じゃなくていい!」
とうとう、
目の前。
私は、
手を伸ばした。
震えている。
先輩の手も。
「私は」
喉が詰まる。
「あなたの本当の笑顔が見たい」
その一言は、
世界を救わない。
学校も。
過去も。
妹も。
何も救えない。
ただ、
一人へ届くための言葉。
それでよかった。
冴先輩の手を握る。
冷たい。
「降りてください」
私は言った。
「一緒に」
冴先輩は、
初めて、
ステージ中央の演台から一歩下がった。
たった一段。
それだけ。
でも、
その一段は、
誰よりも遠かった。
彼女は私の肩へ額をつけた。
そして。
泣いた。
声を上げて。
十八歳の少女として。
誰も拍手しなかった。
よかったと思う。
あれは、
見世物ではなかった。
英雄の帰還でもない。
ただ、
人間が人間へ戻る時間だった。
エピローグ その笑顔に逢える日まで
秋。
鳳条冴は生徒会長を辞任した。
退学はしなかった。
剣道部主将も後輩へ譲った。
学校は、
驚くほど普通に回った。
最初、
みんな困った。
「鳳条先輩ならどうする?」
という言葉が口癖になっていたから。
でも、
少しずつ変わった。
生徒会は複数人で仕事を分担した。
相談窓口には生徒だけでなく教師も入った。
問題が起きれば、
一人の英雄ではなく、
何人かで考えるようになった。
効率は悪くなった。
会議は長くなった。
意見も割れた。
でも、
誰か一人が壊れるまで背負うことは減った。
私は、
それを少し気に入っている。
*
放課後。
旧校舎屋上。
冴先輩。
制服。
風。
髪。
私はカメラを構える。
「撮ります」
「待って」
「何ですか」
「髪」
「そのままでいいです」
「写真部のくせに雑ね」
「自然体」
「便利な言葉」
カメラ。
ファインダー。
以前と同じ。
でも、
少し違う。
私はもう、
四角形の中へ逃げるためにカメラを構えていない。
近づくために使っている。
「先輩」
「何」
「笑ってください」
冴先輩は、
昔の完璧な笑顔を作ろうとした。
やめた。
「無理」
「え」
「今日は、うまく笑えない」
私は、
シャッターを押した。
カシャ。
「今撮ったでしょう」
「はい」
「ひどい顔だった」
「いい顔でした」
「嘘」
「本当です」
「逆光よ」
「いいんです」
「何が」
私はファインダーを覗く。
逆光。
白く滲む輪郭。
少し困った顔。
泣いた跡などもうない。
でも、
以前より柔らかい。
「このほうが」
私は言った。
「先輩が、人間に見えるから」
冴先輩は呆れた。
それから、
笑った。
今度は、
少しだけ。
完璧ではない。
左右も揃っていない。
目も少し細くなる。
それでも。
私はシャッターを切った。
カシャ。
*
「佐倉さん」
「はい」
「あなたは英雄になりたい?」
突然だった。
私はカメラを下ろす。
以前なら、
即答した。
なりたくない。
なれるわけがない。
資格がない。
でも。
「分かりません」
と答えた。
先輩が笑う。
「そう」
「でも」
私は少し考えた。
「英雄って、たぶん人の種類じゃないと思います」
「どういう意味?」
「そのとき、その人が何を選ぶかじゃないですか」
莉子。
あのとき。
私は逃げた。
その事実は消えない。
多分、
一生消さなくていい。
でも、
あのとき逃げた私は、
今日の私を永遠に決める法律ではない。
過去の私は、
未来の私を拘束する判決ではない。
私は、
次の瞬間に、
別の選択ができる。
「誰かの中に」
私は言う。
「まだ会ったことのない未来の自分がいるんだと思います」
冴先輩は、
黙って聞いている。
「怖くても、一回だけ手を伸ばしたら、その未来の自分が起きる」
「それが英雄?」
「たぶん」
私は笑う。
「知らないですけど」
「適当ね」
「先輩に言われたくないです」
風。
夕焼け。
街。
*
少しして、
冴先輩が言った。
「美羽のこと」
私は何も言わない。
「まだ、夢に見る」
「はい」
「私のせいだったって思う日もある」
「はい」
「前より楽になったわけじゃない」
「はい」
「でも」
冴先輩は、
自分の手を見る。
「苦しいからって、自分を罰することが、美羽を愛することじゃないのかもしれない」
私は、
ゆっくり頷いた。
「忘れる必要もないと思います」
「うん」
「痛いままでも」
「うん」
「生きていいんじゃないですか」
冴先輩は空を見る。
「それ、誰に教わったの?」
私は考える。
莉子。
冴先輩。
蓮先輩。
カメラ。
失敗した自分。
全部。
「たぶん」
答える。
「痛かった人たちに」
*
夕日が落ちる。
冴先輩は、
以前なら最後まで屋上に残って仕事へ戻った。
今日は、
「帰ろうか」
と言った。
それだけのことが、
私は嬉しかった。
階段を下りる。
英雄は、
台座から降りた。
だから、
小さくなったのではない。
初めて、
隣を歩ける高さになった。
*
英雄という言葉は、
遠くから見ると美しい。
光。
旗。
正義。
勝利。
でも、
台座の下から見上げている限り、
その人の足が震えていることには気づけない。
尊敬は、
時々、
人を孤独にする。
期待は、
時々、
鎖になる。
「あなたならできる」
という言葉が、
「あなたはできなくてはならない」
へ変わる瞬間がある。
だから。
もし誰かが台座の上で、
あまりにも美しく見えたなら。
一度、
近づいてみればいい。
そこにいるのは、
神ではないかもしれない。
泣きたいのに泣けない人。
怖いのに強く立っている人。
間違える人。
後悔する人。
誰かを救いたいと願うあまり、
自分を救うことを忘れた人。
そんな、
ただの人間かもしれない。
そして。
人間なら、
手を伸ばせる。
人間なら、
一緒に降りられる。
人間なら、
未来へ変わっていける。
私は屋上の扉を閉める前に、
振り返った。
夕日。
空だけが残っている。
かつてそこには、
台座の上の英雄がいた。
今はいない。
だからこそ、
明日からは、
一人ひとりが少しずつ、
自分の中にいる何かを起こさなければならない。
世界を救うためではない。
隣にいる、
たった一人の笑顔に、
もう一度逢うために。
終
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