序 海のない海辺
水無代市には、海がない。
正確には、もうない。
三十年前までは、駅前の高層マンションも、県立水無代高校も、六車線の水無代新道も、全部海だった。
干潮になると泥が現れ、蟹が穴を開け、鳥が嘴を突き立てたという。
いま、その上を人間が歩いている。
泥の代わりにアスファルトがある。
波の代わりに車が流れる。
海岸線があった場所には、コンビニエンスストアと学習塾と二十四時間営業のフィットネスクラブが並んでいる。
便利な街だ。
だから誰も、海を返してほしいとは言わない。
海を埋めた人たちは、たぶん悪人ではなかった。
家を建てたかった。
道路が欲しかった。
未来を作りたかった。
ただ、その未来の下に何があったのかを、少し忘れただけだった。
その夜、水無代新道には雨が降っていた。
大型トラックが中央分離帯を越えた。
ブレーキ痕は、翌朝まで黒く残った。
葛城晶は二十二歳で死んだ。
*
「確認をお願いします」
白い布をめくった男は、驚くほど事務的だった。
湊は姉の顔を見た。
葛城晶。
間違いなかった。
鼻筋。
唇。
右の眉尻にある、小さな傷。
弟だけが知っているわけでもない、ありふれた特徴。
冷たい顔だった。
なのに。
湊は泣かなかった。
泣けなかった。
悲しくないわけではない。
ただ、
死んでいる、
という言葉と、
目の前にある姉の顔が、
どうしても同じ意味にならなかった。
晶が死んだ。
その文章は理解できる。
四文字の漢字として。
主語と述語として。
医師が言った事実として。
でも、
明日の朝に晶がいない。
来月にもいない。
来年にもいない。
湊が三十歳になっても、四十歳になっても、
そのすべての場面から、
晶だけが永久に欠席する。
そこまでは、
脳が処理しなかった。
「弟さん?」
男が尋ねた。
湊は頷いた。
それだけだった。
泣かなかった自分を、
その夜から少し嫌いになった。
*
遺品の中に、
古い双眼鏡があった。
真鍮製。
妙に重い。
片方のレンズには細い傷が走っている。
晶がどこで手に入れたのか、湊は知らなかった。
知らないものは、
死んだあとになって増える。
好きだった本。
知らない友人。
行ったことのない店。
スマートフォンの写真に残っている、
見覚えのない風景。
死んだ人間について、
生きていた頃より知らないことが増えていく。
それが、
湊には腹立たしかった。
彼は双眼鏡を作業着のポケットへ押し込んだ。
そして翌週から、
整備工場へ戻った。
エンジンオイル。
錆。
タイヤ。
工具。
ラチェットレンチは、
姉が死んでも同じ音を立てた。
世界は、
思ったより礼儀知らずだった。
*
同じ頃。
七瀬瑞希は、
人工運河に架かる水無代中央橋を歩いていた。
高校二年生。
十七歳。
部活帰り。
制服。
鞄。
イヤホン。
普通の女子高生。
橋の途中で、
白髪の少年が欄干にもたれていた。
年齢は分からない。
中学生にも、
二十歳にも見えた。
白い髪。
黒い服。
街灯の下なのに、
妙に影が薄い。
瑞希は一度だけ見て、
通り過ぎようとした。
「ねえ」
少年が言った。
瑞希は足を止めた。
「なに?」
少年は笑った。
「君は、誰の光を浴びているの?」
「……は?」
瑞希は眉を寄せた。
少年はもう運河を見ていた。
水面に月が浮かんでいた。
本物より少し揺れている。
瑞希は、
変な人、
と思った。
そして歩き出した。
十歩ほど進んでから振り返る。
誰もいなかった。
月だけが、
水面で壊れていた。
第一章 間違っているのは世界の方だ
晶の四十九日を過ぎても、
湊は一度も夢を見なかった。
夢くらい出てくればいいのにと思った。
幽霊でもいい。
幻でもいい。
何でもいいから、
死者に一度くらい嘘をついてほしかった。
だが晶は、
死んでから妙に律儀だった。
まったく出てこなかった。
だから、
ガソリンスタンドで彼女を見たとき、
湊は最初、
自分の脳が壊れたのだと思った。
女子高生が二人、
自動販売機の前で笑っていた。
一人が髪を耳へ掛けた。
横顔。
首。
笑い方。
一瞬だった。
晶だった。
湊の手から、
小銭が落ちた。
硬貨がアスファルトの上を回った。
違う。
そんなはずはない。
でも、
違うという判断の方が、
急に不自然に思えた。
姉が死んだ。
事故があった。
葬儀もした。
骨も拾った。
その全部より、
いま目の前で笑っている横顔の方が、
正しい気がした。
湊の脳は、
「晶が蘇った」
とは考えなかった。
もっと異様な答えを出した。
もしかすると、
姉が死んだという世界の方が、
間違っていたのではないか。
世界が、
どこかで計算を間違えただけなのではないか。
「お兄さん、大丈夫ですか?」
店員の声で戻った。
女子高生はもういなかった。
湊は地面の百円玉を拾った。
掌が震えていた。
*
七瀬瑞希。
それが少女の名前だと知るまで、
三日しかかからなかった。
工場の近所。
水無代高校。
十七歳。
湊は調べた自分を嫌悪した。
それでも止めなかった。
工場の裏。
運河。
歩道橋。
遠くから少女を見る。
作業着のポケットには、
晶の双眼鏡。
最初の一週間、
湊は使わなかった。
使えば何かが決定的になる気がした。
八日目の夕方、
負けた。
レンズを覗いた。
瑞希がいた。
友達と話している。
笑っている。
晶ではない。
分かっている。
なのに、
レンズの丸い世界へ入った瞬間、
瑞希の頬に晶の記憶が重なる。
高校時代の晶。
眠そうな晶。
風呂上がりの晶。
泣いている晶。
湊を叱る晶。
湊の頭へ手を置く晶。
そして、
二十歳の頃。
恋人ができた、と笑った晶。
その夜、
湊は初めて姉を殴りたいと思った。
もちろん殴らなかった。
代わりに、
「勝手にすれば」
と言った。
晶は少し傷ついた顔をした。
その顔を見て、
湊は安心した。
そこが、
いちばん嫌いな記憶だった。
*
「また見てる」
背後から声がした。
湊は双眼鏡を下ろした。
瑞希だった。
心臓が止まったような気がした。
「……何を」
「私」
「見てない」
「双眼鏡持ってて、その言い訳は無理じゃない?」
瑞希は呆れた顔をした。
近くで見る。
似ていない。
目の形も違う。
鼻も。
口も。
晶より少し幼い。
写真で並べれば、
姉妹にすら見えないだろう。
それなのに、
ある角度だけ、
どうしようもなく晶だった。
「名前は?」
湊が聞いた。
「先にそっちが名乗るのが普通でしょ」
「ああ」
「それと」
瑞希は湊の手を見る。
「それ、何?」
「双眼鏡」
「見れば分かる」
真鍮の筒が夕陽を反射した。
瑞希は眉をひそめる。
「古そう」
「姉のだった」
「お姉さん?」
湊は答えなかった。
瑞希も、
それ以上聞かなかった。
そのとき、
遠くから誰かが瑞希を呼んだ。
男だった。
二十歳くらい。
背が高い。
神崎征矢。
湊は顔を知っていた。
晶の恋人だった。
「瑞希」
神崎が笑う。
その笑い方を見て、
湊の胃が縮んだ。
瑞希は振り返った。
その瞬間。
神崎の顔が、
死者を見た人間の顔になった。
ごく短い一瞬。
でも湊には分かった。
こいつも、
見ている。
瑞希を見ながら、
別の女を見ている。
*
神崎の部屋で、
瑞希は月を見ていた。
カーテンの隙間。
窓。
遠くの高層マンション。
その横に、
白く薄い月。
神崎は瑞希の髪に触れた。
「前にも言ったよな」
「何を?」
「その髪、下ろしてる方が似合う」
瑞希は黙った。
その言葉。
前にも、
ではない。
自分は初めて聞いた。
「誰に言ったの?」
神崎の指が止まる。
「何が」
「前にもって」
「言葉の綾」
「晶さん?」
神崎の顔がわずかに強張った。
瑞希は知っていた。
晶。
死んだ恋人。
自分に少し似ているらしい女。
最初は、
気にしていなかった。
死んだ人に嫉妬するなんて馬鹿らしいと思っていた。
けれど、
神崎はときどき、
瑞希には覚えのない思い出を前提に話した。
「ここ好きだったよな」
「昔もそういう顔した」
「またその癖」
そのたびに、
瑞希の身体の表面へ、
知らない女の薄い膜が一枚ずつ貼られていく。
「ねえ」
瑞希は言った。
「今、誰見てる?」
「何言ってんだよ」
「私?」
神崎は答えなかった。
その沈黙の方が、
答えよりひどかった。
*
夜。
瑞希は運河沿いを歩いた。
橋の下に、
湊がいた。
真鍮の双眼鏡を持っている。
けれど今夜、
覗いているのは遠くではなかった。
湊はしゃがみ、
水面に浮かぶ月を見ていた。
そして、
ゆっくり手を伸ばした。
瑞希は声をかけなかった。
指先が水へ触れる。
月が砕けた。
白い円が細かく裂け、
波紋になって広がる。
数秒後。
また、
月らしい形へ戻る。
湊はもう一度、
手を伸ばしかけた。
「掴めるわけないじゃん」
瑞希が言った。
湊が振り返る。
「見てたのか」
「そっちこそ」
瑞希は欄干にもたれた。
「神崎もあなたも同じ」
「何が」
「私を見てる顔して、別のもの見てる」
湊は何も言わなかった。
瑞希は水面を見る。
「この月もさ」
指差した。
「月じゃないでしょ」
「……そうだな」
「でも、月に見える」
風。
水面。
月。
「気持ち悪い」
瑞希は呟いた。
誰のことを言ったのか、
自分でも分からなかった。
第二章 本当に?
最初の事故は、
学校の階段だった。
担任の相田が、
踊り場から落ちた。
頭を打ち、
救急搬送された。
その日の朝、
クラスの男子が言っていた。
「今日あいつ来なきゃいいのに」
ただの愚痴。
誰でも言う。
その男子は事故を聞いたあと、
青ざめた。
「俺じゃない」
誰も責めていないのに、
繰り返した。
「俺、何もしてないから」
瑞希は、
その男子が廊下の鏡を避けるようになったことに気づいた。
*
次は、
近所の主婦だった。
突然、
声が出なくなった。
原因不明。
その家の小学生の息子は、
何日も学校へ来なかった。
同級生が言った。
「あいつ前にさ、お母さんうるさい、黙ればいいのにって言ってた」
冗談だった。
たぶん。
願いですらなかった。
ただ、
口から漏れた言葉。
そこへ、
白髪の少年が現れる。
本当に?
そう聞くらしい。
「違う」
と言えば、
何も起こらない。
黙ると、
何かが起こる。
そんな噂が、
水無代市を走り始めた。
当然、
誰も信じなかった。
そして、
全員が少しだけ信じた。
*
人間は、
悪いことを考えないようにすると、
悪いことばかり考える。
赤いものを想像するな、
と言われたら、
頭の中が赤くなるように。
水無代高校では、
奇妙な流行が始まった。
「いいことだけ考えよう」
誰かがSNSに書いた。
翌日には、
教室の黒板に貼り紙があった。
きれいな心で過ごそう。
その下に、
笑顔の月。
先生は剥がさなかった。
「最近、みんな不安だと思うけどね」
学年主任が言った。
「怒りとか嫉妬とか、できるだけ持たないようにしよう」
瑞希は、
その言葉を聞いた瞬間、
腹が立った。
腹を立てたことに、
さらに腹が立った。
そして、
怖くなった。
もし今、
クオンが現れたら?
本当に?
と聞かれたら?
自分は、
何を否定すればいい?
怒ってない。
嫉妬してない。
嫌いじゃない。
死んでほしくない。
本当に?
*
鏡を見る時間が増えた。
確認したかった。
自分の顔を。
だが、
確認するほど分からなくなった。
学校の洗面台。
電車の窓。
スマートフォンの黒い画面。
ある日は晶に見えた。
会ったこともないのに。
写真でしか知らない女。
別の日は、
母親に似ていた。
ある日は、
誰にも似ていなかった。
そして一度だけ、
完全に知らない顔が映った。
瑞希は悲鳴を上げた。
振り返る。
誰もいない。
もう一度鏡を見る。
いつもの自分。
「誰」
思わず言った。
鏡の中の自分も、
同じ口の形をした。
*
神崎に会う回数は減っていった。
彼は理由を聞かなかった。
聞かないくせに、
瑞希を抱き寄せようとした。
瑞希は避けた。
「ねえ」
「何」
「晶さんの何が好きだったの?」
神崎は一瞬、
笑った。
簡単な質問だと思ったのだろう。
「急になんだよ」
「いいから」
「顔とか」
「うん」
「声」
「うん」
「笑い方」
「それから?」
神崎は黙った。
「服の趣味とか。そういうの」
「それ、全部外から見えるものじゃん」
「何が言いたいんだよ」
「好きだった本は?」
神崎は眉を寄せた。
「は?」
「一人のとき、何してた?」
「知らねえよ、そんなの」
「何が怖かった?」
「お前さ」
声が低くなった。
「何様?」
「じゃあ何が好きだったの?」
「顔だけじゃない!」
神崎が立ち上がった。
「一緒に過ごした時間があるんだよ! お前に何が分かる!」
瑞希は、
しばらく彼を見た。
「分からないよ」
静かに言った。
「だから聞いてる」
神崎は、
それ以上何も言えなかった。
*
その夜。
神崎はノートを開いた。
晶。
と書いた。
その下に、
知っていることを書こうとした。
コーヒーはブラック。
雨の日が嫌い。
朝が弱い。
笑うと右の口角が上がる。
映画は途中で寝る。
そこまで書いて、
ペンが止まった。
違う。
「晶が自分といるときの晶」
しか書いていない。
晶が一人のとき。
何を見ていた?
何を考えていた?
どんな顔をしていた?
知らない。
神崎は、
ノートの一行目を見た。
晶。
名前だけだった。
その名前すら、
急に知らない文字に見えた。
*
水無代市では、
夜になると窓を鏡にしないよう、
カーテンを閉める家が増えた。
学校では、
生徒同士が互いの言葉を監視した。
「今の言い方よくない」
「そんなこと考えたらダメだよ」
「怒らない方がいいよ」
皆、
善人になろうとした。
善人でなければ、
誰かが死ぬかもしれないから。
その結果、
誰も本音を言わなくなった。
笑顔が増えた。
笑い声が減った。
夜の運河だけが、
以前より黒くなった。
第三章 誰の目にもいない私
晶は、
早朝の旧干潟跡に一人で立っていたことがある。
その話を瑞希が知ったのは、
偶然だった。
整備工場近くの小さな喫茶店。
老店主が、
晶の写真を見て言った。
「ああ、この子」
瑞希の手が止まる。
「知ってるんですか」
「昔、何度か見たよ。朝早く」
「どこで?」
「排水機場の向こう。埋め立てた泥がまだ出てるとこ」
「誰かと?」
「一人」
「何してたんですか」
店主は肩をすくめた。
「さあ」
それだけだった。
瑞希は、
妙に安心した。
晶には、
誰も知らない時間があった。
弟も。
恋人も。
自分も知らない晶。
それは、
なぜか嬉しかった。
誰にも理解されていない部分が、
死者の中にも残っている。
なら、
自分にも残していいのかもしれない。
*
「これ以上、私を見ないで」
整備工場で、
瑞希は湊に言った。
湊は黙っていた。
油の染みた作業着。
手。
真鍮の双眼鏡。
「見るなって言われても」
「見るなじゃない」
瑞希は言った。
「決めないでって言ってるの」
「何を」
「私が誰か」
湊は双眼鏡を持ち上げた。
反射的だった。
瑞希の顔へ向ける。
レンズ。
丸い二つの穴。
瑞希は逃げなかった。
湊の指が震えた。
やがて、
双眼鏡が下がる。
「……お前の顔を知っている」
湊が言った。
「でも、お前が誰なのかは分からない」
瑞希は、
少しだけ笑った。
「当たり前じゃん」
「……」
「私だって分からない」
工場の奥で、
古い換気扇が鳴っている。
「親の前の私も私だし、学校の私も私だし、神崎といたときの私も、たぶん私」
「……」
「あなたが晶さんに似てると思った私も、完全に嘘ってわけじゃないのかもしれない」
湊が顔を上げた。
「でも」
瑞希は言った。
「一個に決めないで」
その言葉だけだった。
複数的自己。
他者性。
関係的主体。
そんな言葉を、
瑞希は知らなかった。
知る必要もなかった。
「本当の私って、一個に決まってないんだと思う」
それだけで十分だった。
*
翌朝。
瑞希は学校へ行かなかった。
旧排水機場へ向かった。
晶を探すためではない。
晶の気持ちを知るためでもない。
ただ、
自分の目で見たかった。
晶という女が、
誰にも言わず立っていた場所を。
何か答えがあるとは思っていない。
むしろ、
答えなどない場所であってほしかった。
排水機場の奥。
コンクリートの壁。
錆びた柵。
その向こうに、
泥があった。
黒い。
臭い。
光沢がある。
美しくない。
瑞希は、
しばらく立っていた。
それだけだった。
「こんなもの見てたんだ」
呟く。
どういう意味で晶が見ていたのか、
分からない。
悲しかったのか。
好きだったのか。
何も考えていなかったのか。
分からない。
瑞希は、
初めてそれを、
そのままにしておけた。
第四章 何も映さない
湊は、
瑞希が排水機場へ向かったと知って、
走った。
晶の双眼鏡が、
ポケットの中で太腿を打った。
一歩ごとに、
鈍い痛み。
なぜ追うのか。
分からなかった。
瑞希を助けたい?
晶の影を追っている?
謝りたい?
確かめたい?
全部かもしれない。
全部違うかもしれない。
排水機場は、
夜になると海の底みたいだった。
非常灯。
湿った壁。
遠くのポンプ音。
水滴。
鉄の階段。
湊は、
下りていった。
地下へ。
過去へ。
海へ。
そんなふうに考えた自分が、
ひどく陳腐に思えた。
ただの階段なのに。
それでも、
人間は何にでも意味を貼る。
*
最下層に、
白髪の少年がいた。
「こんばんは」
「……誰だ」
「知らない?」
少年は笑った。
「まあいいや」
背後に、
黒い水。
「君も行きたい?」
「どこへ」
「姉さんのいるところ」
湊の喉が動いた。
少年は、
少し首を傾ける。
「本当に?」
その一言。
湊は何も言わなかった。
晶。
死んだ顔。
笑った顔。
恋人の話をした夜。
傷ついた顔。
瑞希。
月。
水面。
レンズ。
全部が、
一度に浮かんだ。
「……知ってる」
湊が言った。
少年は待った。
「瑞希は、晶じゃない」
「うん」
「……」
「だったら」
少年が言う。
「どうして追ってきたの?」
湊は答えようとした。
言葉が出なかった。
罪悪感。
贖罪。
依存。
愛。
執着。
どの言葉も、
少しずつ合っていて、
少しずつ違った。
「……分からない」
やっと言った。
少年は笑った。
馬鹿にする笑いではなかった。
褒める笑いでもない。
ただ、
鏡みたいな笑い。
「そう」
クオンは言った。
「じゃあ、何も映さない」
何も起きなかった。
光も。
爆発も。
叫び声も。
少年は、
少し離れた窓の反射へ歩いた。
そして、
そこに最初からいなかったみたいに消えた。
水滴だけが、
落ち続けた。
*
瑞希は、
濡れたコンクリートの上に立っていた。
湊は、
数メートル手前で止まった。
「瑞希」
瑞希が振り返る。
晶ではなかった。
当然だった。
その当然が、
初めて痛かった。
湊は手を差し出した。
「……帰ろう」
瑞希は、
その手を見た。
顔を上げた。
「どこに?」
湊は答えられなかった。
家。
街。
学校。
以前の自分。
湊の隣。
どれも、
瑞希の帰る場所だと勝手に決めている。
瑞希は、
濡れた髪を耳へ掛けた。
その仕草が、
一瞬だけ晶に似て見えた。
湊の胸が跳ねた。
それでも、
「晶」
とは言わなかった。
似ていると思った自分を、
消そうともしなかった。
ただ、
言わなかった。
瑞希は湊の横を通り過ぎた。
「じゃあね」
それだけ。
「どこ行くんだ」
瑞希は振り返らなかった。
「まだ決めてない」
足音が、
階段の向こうへ消えていった。
湊は追わなかった。
その先を、
知らなかった。
知らないままにした。
終章 海底の呼吸
数か月後。
水無代市は、
元に戻った。
あるいは、
最初から何も変わっていなかったのかもしれない。
学校。
道路。
運河。
マンション。
コンビニ。
クオンの噂も、
いつの間にか聞かなくなった。
誰かが忘れた。
誰かが嘘だと言った。
誰かは今も、
夜の鏡を見ない。
湊は整備工場で働いていた。
以前と同じ。
オイル。
工具。
エンジン。
同じではない。
でも、
同じだった。
*
夜。
アパート。
テレビの砂嵐。
湊は床に座っていた。
画面のノイズが、
一瞬、
顔になった。
晶。
次に、
瑞希。
いや。
ただのノイズ。
脳が勝手に、
意味を作っただけ。
湊は、
リモコンではなく、
テレビ本体の主電源を押した。
黒。
自分の顔が、
画面に薄く映った。
それも見ないことにした。
部屋の隅に、
晶のシャツがある。
昔は、
匂いがした。
いまは何もしない。
洗濯洗剤の匂いすら、
もう薄い。
湊は、
それを鼻へ近づけなかった。
捨てもしなかった。
ただ、
そこにある。
*
真鍮の双眼鏡。
重い。
湊は逆さまに覗いた。
世界が遠くなる。
窓の外。
街灯。
運河。
月。
全部が、
変な距離へ押しやられる。
レンズの奥に、
冷たい青があるような気がした。
本当にあるのか。
記憶なのか。
分からない。
湊は、
しばらく覗いていた。
姉は死んだ。
その事実は、
いまなら理解できる。
受け入れた、
とは思わなかった。
乗り越えた、
とも。
晶がいない世界を、
ただ数か月生きた。
それだけだった。
胸が上下する。
息を吸う。
吐く。
また吸う。
湊が何を考えていても、
肺は知らない。
死者に会いたくても。
生きる意味がなくても。
後悔していても。
肺は、
空気がある限り空気を欲しがる。
無神経だ。
でも、
止まらない。
*
冷蔵庫を開けた。
牛乳がない。
「あ」
声が出た。
それだけ。
湊は財布を取った。
サンダルを履く。
双眼鏡を、
なぜかポケットへ入れた。
外。
夕暮れ。
夏の終わり。
交差点。
赤信号。
湊は待った。
隣に、
買い物袋を持った老人。
自転車の学生。
犬を連れた女。
誰も湊の姉が死んだことを知らない。
当然だ。
信号が青になった。
湊のためではない。
前へ進め、
という意味でもない。
ただ、
交通規則として青になった。
人が歩き出す。
湊も歩いた。
コンビニ。
冷房。
白い照明。
牛乳を一本取る。
レジ。
店員は、
眠そうな声で聞いた。
「袋、いりますか」
湊は一瞬だけ考えた。
「いりません」
金を払う。
牛乳を持つ。
店を出る。
ポケットの双眼鏡と、
手の中の牛乳。
どちらも、
妙に重かった。
夜空に月が出ていた。
運河にも、
同じ月が映っていた。
湊は、
どちらが本物かを確かめなかった。
歩いた。
肺が、
また一つ、
勝手に空気を吸った。
そして街は、
何事もなかったように、
彼を通り過ぎていった。
終
0 件のコメント:
コメントを投稿