2026-08-28

値札のない夜


 


――負けてやるさ、そのレースから

第一章 自由の見積書

頼んでもいない朝ほど、律儀に来る。

目覚まし時計より三分早く目を覚ました私は、薄暗い天井を眺めながら、そのことを考えていた。

世界というものは、こちらが絶望していようが寝不足だろうが、契約更新を断られようが、午前六時三十七分になると午前六時三十八分になる。

融通が利かない。

ある意味、誠実だ。

枕元のスマートフォンが震えた。

メール。

件名は、

【重要】次期評価期間における個人パフォーマンス指標について

朝から人間に点数をつけるな。

私は画面を伏せた。

二十七歳。

名前は、朝倉透子。

都内の人材サービス会社で働いている。

肩書きは「カスタマーサクセス・スペシャリスト」。

三年前までは「問い合わせ対応担当」だった。

仕事は大して変わっていない。

名前だけが偉くなった。

人間は不思議だ。

同じことをさせるにも、横文字を三つ並べると少し高級に見える。

ただし給料は、それほど高級にならない。

私は布団から出た。

台所。

冷蔵庫。

昨日のコンビニおにぎり。

水。

鏡。

疲れた女。

誰だろうと思った。

私だった。

「おはよう」

鏡の中の私は返事をしない。

善人ではないからだろう。

改札は嫌いだった。

正確には、改札の電子音が嫌いだった。

ピッ。

一人通る。

ピッ。

また一人。

遅れるな。

止まるな。

次。

次。

次。

朝の駅には、人格ではなく処理速度だけが存在する。

私はICカードをかざした。

ピッ。

今日も社会へのログインに成功した。

後ろからスーツ姿の男が迫ってくる。

私は反射的に歩調を上げる。

まただ。

誰も急げとは言っていないのに。

でも、

急かされている。

学校へ行くため。

会社へ行くため。

何者かになるため。

誰かより少し前へ出るため。

人間は一体、どこへそんなに急いでいるのだろう。

電車に乗る。

つり革。

広告。

転職。

投資。

英会話。

脱毛。

資格。

年収アップ。

「あなたの市場価値を診断します」

私は笑いそうになった。

市場価値。

便利な言葉だ。

魚にもある。

土地にもある。

中古車にもある。

そして、

私にもあるらしい。

窓に映る自分の顔を見る。

定価はいくらだ。

会社では、四半期ごとに順位が出た。

契約継続率。

顧客満足度。

処理件数。

追加契約。

応答速度。

社内貢献。

全部数字になる。

人間を数字にすること自体は、悪いことではない。

数字がなければ、えこひいきや気分で評価される。

だから私は昔、この制度を支持していた。

むしろ、

作る側だった。

三年前。

評価制度の改定プロジェクト。

私は若手代表として参加した。

「公平な仕組みにしたいんです」

そう言ったのは私だった。

正しかった。

少なくとも、

そのつもりだった。

そして新制度導入の最初の四半期。

私は十二位から三位になった。

嬉しかった。

二位の人間を見て、

悔しいと思った。

一位の人間を見て、

あいつは大型顧客を持っているから有利だ、と心の中で言った。

そして。

四十三位。

最低評価。

その人の名前を、

私は今でも覚えている。

木村香織。

私より九歳上だった。

対応は遅い。

記録も雑。

でも、

顧客と電話すると異様に長かった。

私はある日、言った。

「木村さん、話を聞きすぎなんですよ」

彼女は笑った。

「そうかな」

「問い合わせが一件二十分超えるの、効率悪いです」

「でもさ、困ってる人って、質問だけ答えれば終わるとは限らないじゃん」

「それ、うちの仕事じゃないですよ」

言った。

正しかった。

正しい言葉だった。

三か月後。

木村さんは契約更新されなかった。

その日の夜、

私はランキング三位の祝勝会で、

ビールを飲んだ。

だから。

私は善人ではない。

誰かに踏まれただけの人間でもない。

私の靴底にも、

誰かを踏んだ感触が残っている。

「朝倉さん」

上司の三枝に呼ばれた。

会議室。

透明な壁。

ガラスというのは不思議だ。

閉じ込めるくせに、

閉じ込めていない顔をする。

「次期の契約についてなんだけど」

来た。

私は椅子に座った。

三枝が資料を出す。

紙。

三枚。

「率直に言うと、今期の評価があまり良くない」

「はい」

知っている。

三十一位。

去年は八位。

理由も分かっていた。

大型顧客の解約。

追加契約率低下。

応答時間超過。

最近、

私は電話を早く切れなくなっていた。

木村さんのせいだ。

いや。

違う。

木村さんを思い出すようになった、

私のせいだ。

「ただ、会社として朝倉さんを手放したいわけじゃない」

三枝は言った。

「一つ提案がある」

資料。

業務改善プラン

目標値。

期限。

評価。

面談。

推奨行動。

その下に、

契約継続条件。

私は眺めた。

「これ」

言った。

「見積書みたいですね」

三枝が笑う。

「見積書?」

「自由の」

笑顔が止まる。

「どういう意味?」

「これだけ会社に合わせれば、ここに居続けられます、って」

「まあ、組織だからね」

「ですよね」

三枝は悪い人ではない。

たぶん本気で私を助けようとしている。

そこが、

少し厄介だった。

悪人なら簡単だ。

嫌えばいい。

でも、

人間社会の大部分は、

善意の人間が作った仕組みによって息苦しくなる。

「考えてみて」

三枝は言った。

私は資料を折らなかった。

破らなかった。

鞄へ入れた。

見積書。

自由という商品は、

なかなか高いらしい。

帰り。

雨が降っていた。

コンビニで買ったビニール傘。

七百八十円。

高くなったなと思う。

物価というものは、

人間が落ち込んでいても上がる。

駅前。

私は傘を開いた。

スマートフォンを見る。

社内ランキング。

三十一位。

上から順番に、

名前。

点数。

数字。

私。

その瞬間、

誰かが肩を叩いた。

振り返る。

「透子?」

知らない顔。

違う。

知っている。

「……木村さん?」

「うわ、本当に朝倉さんだ」

木村香織。

三年ぶりだった。

「久しぶり」

彼女は笑った。

変わっていなかった。

少し髪が短くなったくらい。

私は、

何を言えばいいか分からなかった。

ごめんなさい。

元気でしたか。

あのとき。

全部遅い気がした。

「雨すごいね」

木村さんが言った。

「はい」

私たちは、

同じビニール傘を持って、

駅前に立っていた。


第二章 割り勘にできない傷

駅前のファミリーレストランに入った。

木村さんは、

今は小さなNPOで働いていた。

若者の就労支援。

給料は、

昔より下がったらしい。

「でも楽しいよ」

彼女はポテトを食べながら言った。

私は、

それを素直に喜べなかった。

なぜなら。

もし木村さんが、

会社を辞めたことで幸せになったのなら。

私は、

安心できてしまう。

「あのときクビになったけど、結果的によかった」

と言ってもらえれば、

私は自分を許しやすくなる。

そんな期待をしている自分が、

嫌だった。

「木村さん」

「ん?」

「私」

声が詰まる。

「昔、かなり失礼なこと言いましたよね」

「言ったね」

即答だった。

私は笑った。

木村さんも笑う。

「効率悪いとか」

「言われた言われた」

「すみませんでした」

木村さんは、

しばらく黙った。

「うん」

それだけ。

許すよ、

とは言わなかった。

気にしてないよ、

とも。

私は、

少し救われた。

いや。

救われなかった。

だから良かった。

「怒ってます?」

「当時はね」

「今は?」

「分かんない」

木村さんは水を飲んだ。

「昔のことって、変な感じじゃない?」

「変?」

「許したのか、どうでもよくなったのか、まだ傷ついてるのか、自分でも分かんなくなる」

私は黙る。

「でも」

彼女が続けた。

「謝られたから傷が消えるわけでもないし」

「……はい」

「だからって、朝倉さんを一生恨むのも疲れるし」

割り勘にはできない。

そう思った。

私が傷つけた。

会社も傷つけた。

彼女自身にも至らなかった部分はあった。

誰が何パーセント悪い。

そんなふうに会計できれば、

人生は楽だ。

でも。

傷には、

領収書がない。

「ところで朝倉さん」

「はい」

「今しんどそうだね」

私は反射的に笑った。

「大丈夫です」

「その返事、三年前の私もよく言ってた」

やめてほしい。

「ランキング落ちた?」

心臓を掴まれた。

「なんで」

「顔」

「顔で順位分かるんですか」

「分かんない。でもあの会社、順位落ちるとみんな同じ顔になる」

私は笑った。

今度は少し本当に。

「三十一位です」

「具体的」

「契約継続の条件も出されました」

「そっか」

木村さんは、

同情しなかった。

それがありがたかった。

「大変だね」

とも言わない。

「辞めちゃえば?」

とも。

ただ、

ポテトを一本食べた。

「何も言わないんですね」

「何て言えばいいの」

「普通、励ますとか」

「欲しい?」

考えた。

「いらないです」

「じゃあ言わない」

ひどい。

優しい。

店を出ると、

まだ雨。

傘の柄が冷たい。

木村さんと別れたあと、

私は駅前で立った。

スマートフォンが光る。

会社からの通知。

あなたの今期パフォーマンス改善目標が更新されました

画面を伏せた。

雨。

道路。

車。

傘。

靴。

濡れた足。

私は、

同情されたかったのだろうか。

被害者と認定してほしかったのか。

「あなたは悪くない」

そんなシールを貼ってもらえば、

楽だったかもしれない。

でも。

私は悪くない、

とは言えない。

悪い、

とも言い切れない。

人間は、

そんなに簡単な商品ではない。

欠陥あり。

良品。

返品可能。

評価A。

評価D。

そうやって、

シールを一枚貼れば終わるものではない。

私は、

ビニール傘の柄を握り直した。

冷たい。

手が痛い。

でも、

私の手だった。

翌週。

三枝との二回目の面談。

「どうする?」

資料。

見積書。

私は言った。

「一つ質問していいですか」

「もちろん」

「評価制度って、今も公平だと思います?」

三枝は少し考えた。

「完全に公平な制度はないよ」

「ですよね」

「でも、ないよりはましだと思う」

「私もそう思います」

意外そうな顔。

「じゃあ」

「でも」

私は続けた。

「この数字に合わせて、人間の方を作り替えるのは違う気がします」

「作り替える?」

「点数が低ければ、低い理由を改善する。それは分かります。でも、点数に入らないものを全部捨てたら」

木村さん。

長い電話。

話を聞く時間。

「何のための仕事なんでしょう」

三枝は黙った。

「朝倉さん、今のやり方を続けたい?」

「分かりません」

「じゃあ何がしたいの」

「それも、分かりません」

私は笑った。

「ただ、順位を上げることだけを仕事にするのは、もう嫌です」

三枝はため息をついた。

「会社としては困るよ」

「はい」

「それで契約切られたら?」

「困ります」

「生活あるでしょ」

「あります」

「怖くない?」

「怖いです」

全部本当だった。

格好よく、

「何も怖くありません」

なんて言えたら、

ロックだった。

でも、

家賃はある。

税金も。

食費も。

明日の朝も来る。

自由は、

やっぱり高い。

その夜。

私はランキングを開いた。

一位。

二位。

三位。

三十一位。

自分の名前。

じっと見る。

負けている。

悔しい。

まだ、

悔しい。

「勝つ気はない」

と言いながら、

負けると腹が立つ。

それが人間だ。

私は画面へ指を置いた。

順位そのものを消す権限はない。

会社から自分の名前だけ削除することもできない。

でも。

心の中で、

一本線を引いた。

これは、

仕事の一部分を測った数字。

私の価格ではない。

たったそれだけ。

世界は何も変わらない。

でも、

その夜、

少しだけ呼吸が楽になった。


第三章 負けてやるさ

契約更新の期限は、

金曜日だった。

木曜日。

会社でトラブルが起きた。

大型顧客から、

契約終了の申し出。

担当者。

私。

原因。

複雑だった。

こちらにも不手際。

顧客にも事情。

市場環境。

担当変更。

予算。

誰か一人を責められない。

でも、

会議になると、

原因は一つにしたがる。

その方が資料にしやすいからだ。

「朝倉さんの対応遅延が主要因ということで」

部長が言った。

私は、

「違います」

と言おうとした。

でも。

対応が遅れたのは事実だった。

一日。

たった一日。

でも、

遅れた。

「はい」

と言えば、

会議は終わる。

私一人の評価が下がる。

他の人間は助かる。

昔なら、

たぶん誰かのミスを探していた。

自分だけが損をしないように。

今度は、

全部自分で背負えばいい?

違う。

それも、

善人ごっこだ。

「私の対応が遅れたのは事実です」

私は言った。

「ただ、それだけを主要因とするのは違います」

空気が止まる。

「顧客側の予算縮小は三か月前から出ています。前任者の引き継ぎ不足もありました。私にも責任はあります。でも、全部ではないです」

部長が眉をひそめた。

「責任逃れ?」

来た。

私は少し笑った。

「逆です」

「何が」

「自分の分だけ引き受けたいんです」

会議室が静かになる。

「他人の分まで背負えば善人になれるし、自分の分まで他人に渡せば被害者になれます。でも」

私は息をした。

「どっちも嫌なんです」

声が震えていた。

格好悪い。

手も震えている。

でも、

言った。

「私がやったことは私が引き受けます。やってないことまで、私の商品説明に書かないでください」

誰も笑わなかった。

三枝だけが、

少し下を向いた。

会議後。

トイレ。

吐いた。

格好いいことを言った人間は、

トイレで吐かないと思っていた。

吐く。

普通に。

膝も震える。

鏡を見る。

「だっさ」

自分に言った。

水で口をすすぐ。

自由というものは、

もっと爽快なものだと思っていた。

風。

バイク。

海。

そういうもの。

違った。

自由は、

トイレの個室で吐いたあと、

それでもさっき言ったことを撤回しない、

みたいなものなのかもしれない。

金曜日。

三枝が言った。

「契約更新、条件付きで通ると思う」

「そうですか」

「ただ、改善プランは受けてもらう」

「分かりました」

「で」

三枝が私を見る。

「受ける?」

ここで、

辞める、

と言えば格好いい。

会社なんか捨てて、

自由になる。

でも。

会社を辞めれば自由になるのか?

違う会社へ行けば、

また評価される。

フリーランスでも、

顧客から評価される。

人間関係でも、

人は人を評価する。

世界から採点を消すことなどできない。

問題は、

評価されることではない。

評価を、

自分そのものと信じること。

私は資料を見た。

「受けます」

三枝が驚いた。

「受けるの?」

「はい」

「さっきまであんな反抗してたのに」

「反抗と退職は別でしょう」

三枝が笑った。

「面倒くさいな朝倉さん」

「よく言われます」

「条件は?」

「あります」

私はペンを取った。

改善プランの項目。

応答時間。

売上。

更新率。

その横。

空白。

「顧客の継続支援に必要な裁量時間を明文化してください」

「は?」

「数字に入らない仕事を全部ボランティア扱いされたくないです」

三枝が黙る。

「それと」

「まだあるの」

「ランキングは見ません」

「それは勝手にして」

「はい」

私はペンを置いた。

会社を辞めなかった。

世界を壊さなかった。

制度も残った。

私は勝者にならなかった。

ただ、

レースから一つ降りた。

順位を、

自分の名前だと思うレースから。

帰り。

雨。

また。

私は安い傘を差していた。

駅前。

広告。

あなたの可能性を最大化する転職

最大化。

人間は、

最大でなければいけないのだろうか。

私は笑った。

「負けてやるさ」

小さく言った。

誰にも聞こえない。

「そのレースから降りてやる」

でも、

歩く。

生活する。

働く。

間違える。

誰かを踏むかもしれない。

謝るかもしれない。

許されないかもしれない。

それでも。

私の生は、

無垢ではない。

透明でもない。

水たまりみたいに、

濁っている。

その濁りまで含めて、

私のものだ。

だから。

誰かに、

値札だけは貼らせない。


第四章 改札を抜けて

半年後。

私は相変わらず同じ会社にいた。

驚くほど、

世界は変わらなかった。

評価制度もある。

ランキングもある。

三枝もいる。

部長もいる。

家賃も上がった。

コンビニのコーヒーも高くなった。

私は、

十八位だった。

知らなかった。

木村さんに教えられた。

「朝倉さん十八位らしいよ」

「なんで知ってるんですか」

「昔の同僚から聞いた」

「見てないのに」

「偉いじゃん」

「何が」

「順位上がった」

「そうじゃなくて」

二人で笑った。

私は時々、

木村さんのNPOを手伝うようになった。

月に一度。

無給。

会社なら評価対象外。

人生では、

評価不能。

それでいい。

ある夜。

仕事帰り。

雨が上がった。

改札。

人。

電子音。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

昔と同じ。

急かす音。

私は立ち止まった。

後ろから人が来る。

邪魔になる。

横へ避けた。

立つ。

駅の天井。

広告。

光。

誰かの足音。

私は思った。

昔は、

この改札の向こう側に、

社会があると思っていた。

こちらが私。

向こうが世界。

でも、

違う。

私はもう、

とっくに世界の内部にいる。

誰かの負債を持っている。

自分の負債もある。

誰かを踏んだ。

誰かに踏まれた。

助けられた。

傷つけた。

汚れている。

つまり。

逃げ切ることなんて、

最初からできなかった。

自由とは、

世界の外へ出ることではない。

世界の中で、

世界が貼った値札を、

そのまま自分の名前にしないこと。

たぶん、

それくらいだ。

小さい。

でも、

それで十分だった。

私はICカードを取り出した。

改札へ。

その瞬間、

後ろから、

「すみません」

声。

振り返る。

若い女の人。

財布を落としている。

私は拾った。

「これ」

「あ、ありがとうございます」

渡す。

それだけ。

善行。

一点。

なんて、

誰も採点しない。

私も、

しない。

女の人は走っていった。

私は、

ふと思う。

善人ではない。

でも、

善いことをしてはいけないわけじゃない。

勝者ではない。

でも、

何かを成功させてはいけないわけでもない。

肩書きは、

牢獄になる。

善人。

悪人。

勝者。

敗者。

被害者。

加害者。

欠陥品。

優良品。

全部、

便利なシール。

でも人間は、

一枚のシールには収まらない。

私は、

私ですら、

まだよく分からない。

だから。

値決めなんて、

なおさら無理だ。

ICカード。

ピッ。

ゲートが開く。

以前と同じ音。

でも、

少し違って聞こえた。

いや。

音は、

何も変わっていない。

変わったのは、

聞く側だ。

私は改札を抜ける。

急がない。

後ろを塞がない程度に。

普通の速度で。

階段。

夜。

雨上がり。

濡れた道路。

街灯。

ビル。

コンビニ。

排気ガス。

遠くのサイレン。

美しくもない。

醜くもない。

ただ、

私が生きている街。

鞄のポケットには、

三枝から渡された新しい評価票。

まだ見ていない。

たぶん帰ったら見る。

見たっていい。

十八点でも。

百点でも。

ゼロでも。

それは、

私についての情報だ。

私そのものではない。

私は傘を閉じた。

濡れた柄。

冷たい。

その冷たさを、

自分の手で握る。

勝者を名乗らない。

善人も名乗らない。

だからといって、

敗者にも、

悪人にもならない。

私は、

誰かを踏んだことを忘れない。

踏まれたことも、

免罪符にしない。

負ける日もある。

逃げる日も。

卑怯な日も。

優しくできる日も。

その全部を、

私の生として引き受ける。

誰にも売らない、

なんて大げさなことは言わない。

働けば時間を売る。

店では金を払う。

愛すれば、

心の一部を誰かへ預ける。

人間は、

何も差し出さずには生きられない。

だからこそ。

最後のひとつだけ。

何を差し出すかを決める権利まで、差し出さない。

それが、

私にとっての自由だった。

世界は、

今日も勝手に値段をつける。

年収。

年齢。

順位。

肩書き。

顔。

実績。

フォロワー。

市場価値。

好きにすればいい。

私は、

その数字を見ながら、

必要なら使う。

時には悔しがる。

時には喜ぶ。

でも、

それを自分の名前にはしない。

夜の交差点。

信号が青になる。

私は歩き出す。

誰かより前へ行くためではなく。

誰かより正しくなるためでもなく。

ただ、

自分の足で、

次の一歩を選ぶために。

値札を剥がしたまま。

濁ったまま。

未完成のまま。

私は、

夜の街へ歩いていった。

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