2026-09-10

WH139.第一次国共合作から満洲事変・満洲国・日本の国際連盟脱退まで

 


🇨🇳 昨日の味方が、今日は敵になる。第一次国共合作から満洲事変・国際連盟脱退まで



孫文・蒋介石・毛沢東・張作霖・張学良・関東軍が交錯する「1920年代中国」をゼロから読み解く

1924年、中国で奇妙な同盟が成立しました。

一方は、孫文が率いる中国国民党

もう一方は、結成からまだ数年しか経っていない中国共産党

のちに長大な内戦を戦うことになる二つの勢力が、このときは同じ陣営にいました。🤝🇨🇳

目的は、

軍閥によって分裂した中国を統一すること。

そして、

外国の強い権益・支配から中国の主権を回復すること。

ところが、わずか3年後の1927年。

蒋介石は上海で共産党系の労働運動を武力で弾圧します。

昨日まで同じ革命を戦っていた人々が、突然、殺し合う敵になる。🔥

さらに翌1928年。

日本は満洲を支配する軍閥・張作霖を長く利用していました。

ところが、その張作霖を列車ごと爆殺したのは、

なんと日本の関東軍の一部将校でした。

「味方だった人物を、なぜ自分たちで殺すの?」

そして張作霖の息子・張学良は、父を殺した日本側の思惑とは逆に、蒋介石の南京国民政府へ接近します。

さらに3年後。

1931年9月18日。

関東軍は南満洲鉄道の線路を自ら爆破し、中国軍による攻撃だとして軍事行動を開始。

柳条湖事件。

そして、

満洲事変。

へと発展していきます。

1920年代から30年代初頭の東アジア史は、

「昨日の味方が今日の敵になる」

という展開だらけです。

でも、これを「裏切った」「性格が悪かった」という人物劇だけで覚えると、世界史が突然意味不明になります。

本当に大切なのは、

誰が中国を統一するのか?

そして、

統一されていく中国と、中国国内に大きな権益を持つ外国勢力は共存できるのか?

という二つの問題です。

添付資料も、この時代を「国民党・共産党・軍閥・ソ連・日本政府・関東軍」という複数主体が、中国の国家統合と既存の国際秩序をめぐって衝突する過程として整理しています。

さあ、全部つなげていきましょう。🌏🔥


🧩 まず「国共合作」の前に、中国はなぜバラバラだったの?

1911年、辛亥革命が始まりました。

翌1912年には清朝が滅亡し、

中華民国

が成立します。

皇帝の時代が終わり、共和国になった。

ここだけ聞くと、

「めでたく新国家完成!」

となりそうです。

しかし実際には、そんなに簡単ではありません。

新しい共和国には、

💰 安定した財源がない。
🪖 全国を一元的に支配する軍隊も弱い。
🏛️ 中央政府の統治力も限定的。

そして強大な北洋軍を握っていた袁世凱が政治の中心となります。

袁世凱が1916年に死去すると、北洋軍系の政治・軍事勢力は複数の派閥へ分かれていきました。


🔫 「軍閥」って何?

これから何度も出てくるので最初に説明します。

軍閥

とは簡単に言えば、

自分の軍隊と地域的な財源・政治基盤を持ち、武力を背景として政治権力を握った軍事勢力

です。

単なる山賊ではありません。

税金を集める。

役人を置く。

軍隊を養う。

鉄道を握る。

外国から借款を受ける。

中央政府を争奪する。

つまり、

地域国家のような機能を持つ軍事政権

でもありました。

代表的なのが、

直隷派。

安徽派。

奉天派。

このうち後で特に重要になるのが、

奉天派の張作霖

です。

添付資料も、北洋軍閥を軍隊・領域・財源を握る政治勢力として位置づけています。

【混同注意】

「軍閥=ただの地方の盗賊」

ではありません。

軍事力を国家政治へ変換した勢力です。


🌍 第一次世界大戦が、中国国内政治をさらに揺らす

1914年、

ヨーロッパで第一次世界大戦が始まります。

日本は日英同盟を根拠として連合国側から参戦し、中国山東省にあったドイツの拠点・青島などを攻略しました。

そして1915年、日本は袁世凱政府へ、

二十一カ条要求

を提出します。

山東における旧ドイツ権益。

南満洲の日本権益。

その他、中国における日本の影響力を拡大する内容が含まれていました。

中国側では、

「共和国になったのに、外国の圧力は全然なくなっていないじゃないか」

という不満が強まります。


🇨🇳 1919年 五・四運動 「中国は誰の国なのか?」

第一次世界大戦が終わり、

パリ講和会議が開かれます。

中国側は、

「ドイツが山東で持っていた権益を中国へ返してほしい」

と求めます。

しかしヴェルサイユ条約では、ドイツの山東権益は日本へ移されることになります。

中国の学生たちは怒りました。

1919年5月4日。

北京の学生たちがデモ。

これが、

五・四運動

です。

やがて運動は、

学生だけではなく、

👨‍🎓 学生
👷 労働者
🏪 商人

へ広がります。

ストライキ。

商店休業。

日本製品ボイコット。

そして北京政府への抗議。

結果として、中国代表団はヴェルサイユ条約への署名を拒否しました。添付資料も、五・四運動を学生だけでなく労働者・商人が参加した政治運動として描いています。


🧠 五・四運動は「反日デモ」で終わらない

ここは難関大学で大切です。

五・四運動とは、

単純に、

日本が嫌いだからデモした

という話ではありません。

もっと根っこには、

「中国は本当に主権国家なのか?」

という問いがあります。

外国の権益。

軍閥政治。

弱い中央政府。

不平等条約。

それらを全部ひっくるめて、

中国社会そのものを作り直さなければならない

という意識が広がっていきました。

この時期に起きていた知的運動が、

新文化運動

です。


📖 新文化運動 「政治だけじゃなく、文化も変えよう」

中心的な雑誌が、

『新青年』

です。

陳独秀。

胡適。

李大釗。

魯迅。

蔡元培。

さまざまな知識人が、

儒教的社会秩序、

家族制度、

教育、

文学、

政治

について激論します。

そして文章についても、

難しい古典的な文語ではなく、

日常の言葉に近い、

白話文

を広めようとします。

つまり革命とは、

軍隊で政府を倒すことだけではない。

人が考え、読み、話すための言葉そのものまで変わっていた

のです。📚✨


☭ そこへ1917年ロシア革命

ここで中国の知識人に、とんでもないニュースが飛び込んできます。

ロシアで、

ロシア革命

が成功。

ボリシェヴィキ政権が成立します。

中国の一部知識人から見ると、

これは非常に魅力的でした。

なぜならロシアも、

巨大な農民人口。

遅れた工業化。

旧帝国。

専制政治。

という問題を抱えていたからです。

「西欧型自由主義だけが近代化の道ではないのでは?」

という選択肢が突然現れたのです。


🌐 コミンテルンって何?

ここから頻繁に登場します。

コミンテルン

正式には共産主義インターナショナル

ソヴィエト・ロシアを中心として、

世界各地の共産主義運動を支援し、革命戦略を調整しようとした国際組織です。

中国共産党の初期史を理解するうえでは超重要人物。

なぜなら中国共産党は、

中国国内だけで完全に独立して成長した組織ではなく、

国際共産主義運動と強く接続して誕生した

からです。


🚩 1921年 中国共産党誕生

1921年。

上海で、

中国共産党

の第1回全国代表大会が開かれます。

陳独秀。

李大釗。

そして当時まだ全国的にはほぼ無名だった、

毛沢東

らが初期運動に関わります。

第1回党大会には各地を代表する13人が参加しました。

ただし、

現在の巨大な中国共産党を頭に置いてはいけません。

当時の党員は、

50人余り程度と推計される極小組織

です。添付資料も結党時の共産党を約50人規模の小さな知識人組織として整理しています。

2021年のTony Saichの研究でも、中国共産党初期の形成にはコミンテルンのヘンドリクス・スネーフリート、通称マリンが重要な役割を果たし、彼が後の国民党との統一戦線戦術を強く推したことが改めて整理されています。(ケンブリッジ大学出版局)

つまり、

中国共産党、最初から無双状態

ではありません。

むしろ、

小さすぎて単独では中国革命を起こせない。

これが国共合作の出発点の一つになります。


☀️ 一方の孫文も、全然うまくいっていなかった

「孫文=中国革命の父」

という肩書きを見ると、

中国全土を支配していたように感じます。

でも実際の1920年代初頭の孫文は、

かなり苦しい。

1919年には中華革命党を、

中国国民党

へ改組。

広州を拠点に中国統一を目指します。

しかし孫文には致命的な弱点がありました。

自前の強力な軍隊がない。

地方軍閥と協力する。

でも軍閥が言うことを聞かない。

1922年には陳炯明と対立し、孫文の広州政権は危機に陥ります。

添付資料はこの経験を、孫文が「軍閥を別の軍閥の力で倒す」政治から、自前の政党組織と党軍を持つ方向へ進む重要な契機として描いています。


🤝 ここで奇妙な利害一致が起きる

中国共産党。

小さすぎる。

国民党。

知名度はある。でも軍隊と組織力が足りない。

ソ連・コミンテルン。

中国に革命勢力を育てたい。

すると、

三者の利害が重なります。

共産党:

「国民党の巨大な政治ネットワークを使いたい」

孫文:

「ソ連から武器・資金・組織ノウハウがほしい」

ソ連:

「中国で反帝国主義的な大きな運動を育てたい」

歴史のギアがガチッとかみ合います。⚙️


📜 1923年 孫文=ヨッフェ共同宣言

1923年、

孫文とソ連外交官アドルフ・ヨッフェが共同宣言を発表します。

ここで非常に重要なこと。

孫文が共産主義者になった

わけではありません。

共同宣言では、中国には当時、共産主義やソヴィエト制度をそのまま実施する条件が整っていない、という認識が示され、中国の当面の中心課題を国家統一と民族的独立に置きました。(マルクス主義者インターネットアーカイブ)

だから、

孫文「三民主義やめます。今日から共産主義です」

ではない。

むしろ、

思想は違う。でも今は共通の敵と戦うため協力できる。

という政治です。


🤝 1924年 第一次国共合作

1924年1月。

広州で中国国民党第1回全国代表大会が開かれます。

ここで、

第一次国共合作

が本格的に成立します。

ただし、この「合作」という言葉から、

国民党と共産党が、

🏢 国民党本部
🤝
🏢 共産党本部

と対等な政党同盟を結んだイメージを持つと少し違います。

実際には、

共産党員が個人資格で国民党へ加入する

という形でした。

これを、

党内合作

と呼びます。

【入試重要】

第一次国共合作は、

国民党と共産党の組織合併ではない。

ここ、かなり頻出です。


🇷🇺 聯ソ・容共・扶助工農

この時代を覚える超有名ワードが、

聯ソ・容共・扶助工農

です。

聯ソ。

ソ連と協力する。

容共。

共産党員を国民党内に受け入れる。

扶助工農。

労働者・農民運動を支援する。

高校世界史では、

「1924年、孫文が聯ソ・容共・扶助工農を採用」

と覚えます。

受験ではこれで大丈夫。

ただし研究上は少し面白い。

「聯ソ・容共・扶助工農」という三語セットそのものが、第1回党大会で一つの固定スローガンとして正式採択された、と単純に考えるのは慎重であるべきです。

大会宣言にその実質的内容はありますが、「三大政策」という定型化は後の政治的語りの中で確立していきました。添付資料もこの用語史を区別しています。

【難関大学モード】

答案では、

「国民党は聯ソ・容共・扶助工農の方針のもとで改組され、第一次国共合作が成立した」

で十分。

研究では、

用語がいつ固定化されたか

まで見る。

これが「高校世界史と研究史の両立」です。📚


🪖 1924年 黄埔軍官学校 「革命には自前の軍隊が必要だ」

孫文は辛亥革命後の経験から学んでいました。

どれだけ立派な思想を持っていても、

自分の軍隊を持っていなければ政治権力を守れない。

そこで1924年、

広州近郊の黄埔に、

黄埔軍官学校

が設立されます。

ソ連から、

💰 資金
🔫 武器
🧑‍✈️ 軍事顧問

などの支援が入ります。

そして校長に就任したのが、

蒋介石

です。

ここで蒋介石が一気に重要人物になります。


👨‍✈️ 蒋介石って誰?

蒋介石は若いころ日本で軍事教育を受け、辛亥革命期から孫文の革命運動に参加していました。

そして1923年にはソ連を訪問。

ソ連赤軍の軍制や政治組織も観察します。

黄埔軍官学校の校長になったことで、

蒋介石は、

自分と強く結びつく若い将校ネットワーク

を獲得します。

いわゆる、

黄埔系

です。

一方、学校の政治工作には中国共産党員も参加し、周恩来も政治部の重要ポストを務めました。

つまり、

蒋介石の軍人。

共産党の政治活動家。

ソ連の顧問。

全員が同じ革命軍育成プロジェクトの中にいた。

後の関係を知っていると、とても奇妙です。😳


🕯️ 1925年 孫文死去

1925年3月12日。

孫文が北京で死去します。

58歳でした。

有名な、

「革命尚未成功、同志仍須努力」

「革命はいまだ成功していない。同志はなお努力しなければならない」

という言葉が政治的遺言として伝えられます。添付資料では、孫文の死がその後の国民党内部での後継者争いを激化させた転換点として整理されています。

ここから、

汪精衛。

胡漢民。

蒋介石。

廖仲愷。

などが党内で競合します。

孫文という巨大な看板が消えた。

では、

次の国民党を誰が動かすのか?

という問題です。


🏭 そして上海では、工場労働者の怒りが爆発していた

1920年代の上海。

巨大な港湾都市です。

外国租界。

外国銀行。

商社。

日本系紡績会社。

中国人企業。

巨大な資本と労働力が集中しています。

そこで中国人労働者による賃金・待遇をめぐる争議も増えます。

1925年5月。

日本系紡績工場で争議中だった中国人労働者顧正紅が射殺されました。

これに対する抗議が広がります。


💥 1925年5月30日 五・三〇事件

学生や市民が上海共同租界で抗議活動を行います。

租界警察が発砲。

死者・負傷者が出ました。

これが、

五・三〇事件

です。

ここで大事なのは、

日本系工場で起きた労働争議

と、

上海共同租界警察による発砲

を同じ主体の行動として混同しないこと。

上海は外国勢力の権益が何層にも重なった特殊な都市でした。


🌊 「事件」が「運動」へ変わる

発砲事件への怒りは、

上海だけに収まりません。

全国へ拡大。

これが、

五・三〇運動

です。

労働者は、

罷工、ストライキ。

学生は、

罷課、授業ボイコット。

商人は、

罷市、店を閉める。

これらを合わせて、

三罷

といいます。

香港・広州では長期にわたる、

省港大罷工

も展開されました。

【混同注意】

五・三〇事件

上海で起きた発砲事件。

五・三〇運動

その事件を契機として全国化した反帝国主義運動。

です。

そして共産党は労働組合組織を通じて大きく勢力を伸ばします。

ただし、

「五・三〇運動=共産党だけの運動」

でもありません。

学生、労働者、商人、国民党員など、複数の社会層が参加した巨大な都市大衆運動でした。


🏛️ 1925年 広州国民政府

孫文死去から数か月後。

1925年7月、

広州国民政府

が成立します。

ここで、

中国国民党という政党。

国民政府という政府。

国民革命軍という軍隊。

が結びつきます。

【混同注意】

中国国民党

政党。

国民政府

国家を統治する政府機構。

同じではありません。

国民党は、

「党が革命を指導し、その党が政府と軍を率いる」

という政治体制を構築し始めます。


🚀 いよいよ北伐 「中国を統一するぞ!」

1926年。

蒋介石は国民革命軍総司令として、

北伐

を開始します。

「北へ遠足」ではありません。😂

北方・中部中国を支配していた軍閥勢力を倒し、

国民政府のもとで中国を統一する軍事作戦

です。

主な相手は、

呉佩孚

孫伝芳

張作霖

という有力軍閥。


🤔 国民革命軍は、なぜ勝てたの?

人数だけなら軍閥軍の方が大きい地域もありました。

では、なぜ北伐軍が急速に進めたのでしょうか?

理由は、

単に蒋介石が軍事の天才だったからではありません。

共産党や国民党左派による、

👷 労働者組織
🌾 農民協会
📣 宣伝活動

も大きな役割を果たします。

さらに、

軍閥同士が仲が悪い。

敵の軍閥が別の軍閥を助けない。

情勢を見て北伐側へ寝返る軍人も出る。

つまり北伐は、

軍事戦+宣伝戦+社会運動+政治的寝返り

の合わせ技でした。添付資料も北伐の成功を、大衆動員・政治宣伝・軍閥内部の分裂・地方軍閥の合流という複合要因で説明しています。


😨 でも、勝てば勝つほど国共合作にヒビが入る

ここが歴史の罠です。

国民党と共産党は、

軍閥を倒すために協力しました。

しかし北伐が成功すると、

共産党系の労働組合や農民協会も急速に勢力を伸ばします。

農村では、

地主との衝突。

小作料問題。

農民による地域権力への挑戦。

都市では、

労働者の賃上げ・ストライキ。

こうした運動が激しくなります。

国民党内部には、

地主。

商人。

実業家。

軍人。

資産家。

も多い。

彼らから見ると、

「待って。軍閥を倒す革命じゃなかったの? 社会そのものを全部ひっくり返すの?」

となります。

共通の敵がいるときは仲間だった。

でも敵が弱くなると、

「革命の次に、どんな社会を作るのか?」

という違いが表面化します。


🏙️ 武漢と蒋介石 国民党そのものが割れる

1927年。

国民政府の中心は武漢へ移ります。

ここでは汪精衛ら国民党左派が強く、共産党との協力を続けました。

一方、

軍隊を率いて上海・南京へ進む蒋介石。

両者の関係が悪化します。

大雑把にいえば、

武漢側

共産党・労農運動との協力を比較的重視。

蒋介石側

急進化する社会運動と共産党の影響力に強い警戒。

ただし、

国民党左派=共産党

ではありません。

汪精衛らも三民主義を掲げる国民党政治家です。

この違いは後で決定的になります。


💥 1927年4月12日 上海クーデタ

上海では共産党系の労働運動が非常に強くなっていました。

北伐軍が接近すると、

周恩来らの指導を受けた労働者組織が蜂起し、市内の軍閥勢力を排除します。

そこへ蒋介石が入ります。

そして、

1927年4月12日

共産党系組織・武装労働者への大規模な弾圧が始まります。

四・一二事件

または、

上海クーデタ

です。

死者数については史料・研究による幅が大きいため、単一の確定数字で覚える必要はありません。

重要なのは、

国民党右派が共産党と組織労働運動を武力で排除した

ことです。


💰 「蒋介石は上海の財閥に買われた」だけでは足りない

昔から有名なのが、

浙江財閥

と蒋介石の関係。

上海の金融・商工業勢力は、

共産党系労働運動が私有財産や企業経営を脅かすことを恐れていました。

そして蒋介石は北伐を続けるため、

上海の金融界から資金を得る必要があります。

これは重要。

でも、

財閥がお金を渡したから蒋介石が突然共産党嫌いになった

という話ではありません。

ほかにも、

🪖 国民革命軍内部の反共感情
🌾 急進化した農民運動への地主層の反発
🏛️ 武漢政府との権力争い
🌍 列強との全面衝突を避けたい外交判断
🇷🇺 コミンテルンの影響力への警戒

が重なっています。

添付資料も、四・一二事件を財界だけで説明せず、軍事・政治・財政・外交の複合的な危機として整理しています。

【論述ポイント】

蒋介石の共産党排除は、国民党内部の主導権争い、労農運動急進化への軍人・資産層の反発、上海財界からの戦費調達、列強との関係などが複合して生じた。

強い答案です。✍️


💔 でも4月12日に国共合作が全部終わったわけではない

ここ、難関大学で差がつきます。

上海では蒋介石が共産党を弾圧しました。

でも武漢では、

国民党左派と共産党がまだ協力していました。

つまり、

上海クーデタ=第一次国共合作がその日のうちに中国全土で消滅

ではありません。

しかし武漢側でも、

農民運動の急進化。

軍人の反発。

コミンテルンとの関係。

などから対立が激化。

1927年7月、

武漢政府も共産党との関係を断ちます。

これによって、

第一次国共合作は崩壊

しました。


🌾 共産党は都市で負けて、農村へ

合作崩壊後、

共産党は武装蜂起を試みます。

南昌蜂起。

秋収蜂起。

広州蜂起。

多くは失敗。

そこで毛沢東らは、

都市を直接奪う路線から離れ、

山岳・農村地帯に軍事的根拠地を作る方向へ進んでいきます。

井岡山

です。

ここから、

農村根拠地。

紅軍。

土地革命。

という、中国革命独特の道が少しずつ形成されます。

「農村から都市を包囲する」という完成された理論が一夜で誕生したわけではありません。

1927年以降の失敗と試行錯誤の中から形成されていった

と理解しましょう。


🚂 1928年 北伐再開

国民党内部が再統合されると、

蒋介石は1928年に北伐を再開します。

最大の標的は、

北京を支配していた、

張作霖

です。

ところがここで、

中国国内の戦争へ、

日本

が本格的に入ってきます。


🇯🇵 日本はなぜ中国の北伐を気にするの?

日本は中国東北部、当時一般に満洲と呼ばれた地域に、

大きな権益を持っていました。

日露戦争後、

ロシアから引き継いだ、

🚂 南満洲鉄道
⚓ 大連・旅順を中心とする関東州租借地
⛏️ 炭鉱などの経済権益
🪖 鉄道・租借地を守る軍事的権限

です。

これらを守ることが、

日本の中国政策で非常に重要になっていました。

ところが国民政府が中国を統一し、

「不平等条約や外国権益を回収します」

と言い始める。

日本側から見ると、

中国統一そのものが既存権益を揺さぶる可能性

を持つようになります。


🪖 1927~28年 山東出兵

北伐軍が北上すると、

日本政府は山東省に住む日本人の生命・財産保護などを理由として、

複数回にわたり軍を派遣します。

これが、

山東出兵

です。

1927年から1928年にかけて、

計3回と整理されます。


💥 1928年 済南事件

1928年5月。

山東省の済南で、

国民革命軍と日本軍が衝突します。

済南事件

です。

事件の発端や個別の暴行については日中双方の史料・主張が対立しており、一方のナショナル・ヒストリーだけで断定するのは慎重であるべきです。

双方に多数の死傷者が出ました。

蒋介石はどうする?

日本と全面戦争?

しかし今の最大目標は、

北伐を完成して中国を統一すること。

そこで蒋介石は日本軍との全面衝突を避け、主力を迂回させて北上します。


👑 「東北王」張作霖

北伐最後の巨大な相手が、

張作霖

です。

彼は中国東北部を拠点とする、

奉天派

の軍閥。

奉天兵工廠などの軍需産業を持ち、

巨大な軍事力を構築。

1920年代後半には北京政府の最高実力者にまで上り詰めます。

そして日本との関係が深い。


🇯🇵🤝🇨🇳 日本はなぜ張作霖を支援したの?

日本にとって張作霖には利用価値がありました。

満洲の秩序を維持する。

日本の鉄道・経済権益を守る。

ソ連の影響力拡大を警戒する。

中国国民党の北上を防ぐ。

つまり、

満洲で日本にとって都合のよい緩衝勢力

として期待されました。

しかし、

張作霖=日本の完全な操り人形

ではありません。

張作霖には張作霖自身の野心があります。

北京を支配したい。

中国政治の最高権力者になりたい。

独自の鉄道網も作りたい。

日本の要求にすべて従うつもりはない。

添付資料も、張作霖を日本から援助を受けつつ自立的に行動した軍閥として整理しています。

そして、

「便利な協力相手」

が、

「言うことを聞かない協力相手」

に変わります。


💣 1928年6月4日 味方を爆殺する

北伐軍が北京へ接近。

張作霖は北京を撤退し、

列車で本拠地の奉天へ戻ります。

ところが奉天郊外の皇姑屯

張作霖を乗せた列車が、

💥爆発。

張作霖は死亡します。

張作霖爆殺事件

です。

実行したのは、

関東軍参謀の河本大作らでした。


🤯 日本が支援していた張作霖を、なぜ日本軍が殺すの?

ここが今回最大級の歴史ミステリーです。

関東軍の一部では、

「張作霖はもう日本の思い通りに動かない」

「北伐に敗れて戻ってきた張作霖を残せば、国民政府と妥協するかもしれない」

という不満が高まっていました。

そこで河本らは、

張作霖を排除すれば、

満洲に政治的混乱が起き、

日本軍がより直接的に満洲問題を処理できる

と考えました。

でも、ここで絶対に注意。

日本政府が正式に張作霖暗殺を命令したわけではありません。

関東軍の一部将校による謀略でした。

そして東京政府は犯人を十分処分できませんでした。

この、

現地軍が既成事実を作り、中央政府がそれを統制できない

という問題は、わずか3年後にもっと巨大な形で再登場します。


🪃 しかも張作霖爆殺は、日本に逆効果だった

関東軍側は、

「張作霖を消せば満洲で日本の影響力が強くなる」

と考えた。

しかし後継者になったのは息子、

張学良

です。

張学良は日本の圧力に従わず、

1928年12月、

南京の蒋介石政権へ政治的に合流します。

これが、

東北易幟

です。

「易幟」とは、

旗を替える

という意味。

北京政府系の五色旗を降ろし、

南京国民政府の青天白日満地紅旗を掲げます。

つまり、

関東軍「張作霖を消せば日本に有利になるぞ」

張学良「じゃあ南京政府につきます」

という、かなり痛烈な逆噴射が起きました。

歴史のブーメラン、二度目です。🪃


🇨🇳 1928年 中国統一……本当に?

張学良の易幟によって、

南京国民政府は一応、

中国の主要地域から中央政府として承認されます。

教科書では、

北伐完成・中国統一

と習います。

しかし、

「蒋介石が中国全土を完全に直接統治」

ではありません。

張学良には東北軍。

馮玉祥には自軍。

閻錫山にも自軍。

李宗仁にも自軍。

各地の旧軍閥は相当な軍事力・財源を保持していました。

そして1930年には、

中原大戦

という巨大な内戦まで起こります。

だから、

【論述ポイント】

1928年の統一は、南京国民政府を全国政府として認める名目的統一であり、地方軍事勢力の自立性は残存した。

と覚えましょう。


🚂 ここから舞台は「満洲」へ

中国国民政府は、

国家を統一するだけでは満足しません。

次の課題は、

主権回復

です。

関税自主権。

治外法権。

外国租界。

鉄道権益。

これまで列強が中国で持っていた特権を取り戻したい。

当然ですね。

中国側から見れば、

「自分の国なのに、外国が特別な権利を持っている」

状態なのです。

しかし外国側から見れば、

長年条約で確保してきた重要権益です。

この矛盾が最も危険な形で集まっていた場所。

それが、

満洲

でした。


🚂 南満洲鉄道 「電車会社」だと思ったら巨大帝国だった

1906年、

南満洲鉄道株式会社

通称、

満鉄

が設立されます。

名前だけ聞くと、

「JRみたいな鉄道会社?」

と思いますよね。

全然違います。

鉄道。

炭鉱。

港湾。

電力。

都市開発。

学校。

病院。

調査研究。

巨大な経済圏を運営する国策会社です。

添付資料も、満鉄を単なる鉄道運輸会社ではなく、炭鉱・都市・調査機構まで抱える巨大組織として説明しています。


🪖 関東軍って何?

名前が紛らわしいですが、

東京の「関東地方」を守る軍隊ではありません。

中国東北部にあった、

関東州

や南満洲鉄道周辺の日本権益を守るための日本陸軍部隊です。

これが、

関東軍

です。

当初は巨大軍団ではありません。

しかし1920年代末から30年代になると、

石原莞爾。

板垣征四郎。

などの幕僚が、

「満洲問題を軍事力で一気に解決すべきだ」

という独自の構想を強めていきます。

ここでも、

日本政府=関東軍

ではありません。

外務省。

内閣。

陸軍中央。

関東軍。

満鉄。

それぞれ考え方が違いました。添付資料も、日本側内部に方針の乖離があった点を重要視しています。

これがこの時代を理解する最大の鍵の一つです。


📉 1929年 世界恐慌

さらに世界経済が崩れます。

1929年、

世界恐慌

です。

日本でも輸出不振。

農村不況。

企業経営悪化。

社会不安。

が深刻化。

ただし、

世界恐慌 → だから日本は満洲事変を起こした

と一発変換するのは雑です。

満洲問題には、

日本の既存権益。

中国ナショナリズム。

国民政府の統一。

対ソ連安全保障。

陸軍内部政治。

現地関東軍の独走。

という長年の問題があります。

世界恐慌は、

その危機感をさらに強めた一要因

と考えましょう。


💥 1931年9月18日 柳条湖事件

満洲の緊張が高まる中、

1931年9月18日。

奉天郊外の柳条湖。

南満洲鉄道の線路で、

小規模な爆発が起きます。

関東軍は、

「中国軍が満鉄を爆破した!」

として軍事行動を開始します。

しかし爆破そのものは、

関東軍側が仕掛けた謀略

でした。

これが、

柳条湖事件

です。

鉄道の損傷自体は軽微でした。

しかし爆発の規模は重要ではありません。

必要だったのは、

軍事行動を始める口実

でした。


⚔️ 柳条湖事件と満洲事変は同じもの?

厳密には分けましょう。

柳条湖事件

1931年9月18日の満鉄爆破事件。

満洲事変

柳条湖事件をきっかけに始まり、関東軍による満洲各地の軍事占領、満洲国建国へと進んだ一連の軍事・政治過程。

です。

【混同注意】

入試ではこの違い、かなり大事です。


🏃 関東軍は一気に満洲各地へ

関東軍は奉天。

長春。

吉林。

さらに北満洲方面へ軍事行動を拡大します。

問題は、

東京政府が事前に「満洲全部を占領せよ」と正式命令したわけではない

ことです。

当時の若槻礼次郎内閣は、

不拡大方針

を決定します。

しかし現地軍は前進を続ける。

さらに朝鮮にいた日本軍部隊も満洲へ越境。

中央政府はこれを最終的に追認していきます。


🧠 「関東軍が勝手に全部やった」でも不十分

ここ、少し高度です。

❌ 日本政府が最初から完璧な満洲占領計画を作った

でもない。

❌ 一部軍人だけが勝手に行動して、日本政府は完全な被害者だった

でもない。

現地軍が既成事実を作る。

中央が止め切れない。

軍中央にも賛同者がいる。

世論や新聞も軍事的成功を支持する。

政府は既成事実を追認する。

すると次の行動がさらに容易になる。

つまり、

独走と追認が循環する政治構造

が重要です。


🇨🇳 張学良はなぜ戦わなかったの?

当時、中国東北部には張学良の軍隊がいました。

兵員数だけならかなり大きい。

では、なぜ全面抗戦しなかったのでしょう?

これも単純ではありません。

日本軍との装備・訓練・航空戦力などの格差。

東北軍を温存したい張学良。

蒋介石政権内部の統一問題。

中国共産党との内戦。

そして、

国際連盟に訴え、外交で日本軍を撤退させる

という期待。

などが絡みました。

「蒋介石が一言で満洲放棄を命じた」とだけ説明するのは慎重であるべきです。


🏳️ 1932年 「満洲国」が誕生する

満洲を占領した関東軍には問題がありました。

日本が、

「今日からここは日本領です」

と直接併合すれば、

中国の主権を尊重する国際条約との衝突が露骨になります。

そこで選ばれたのが、

独立国家という形式

でした。

1932年3月、

満洲国

成立。

国家元首に選ばれたのが、

溥儀

です。

そう。

清朝最後の皇帝だった、

あの溥儀です。


👑 ラストエンペラー、まさかの再登場

1912年。

清朝皇帝を退位。

1924年。

紫禁城を退去。

天津の日本租界へ。

そして1931年末、日本側の工作によって満洲へ移ります。

溥儀自身にも、

清朝復活への願望

がありました。

しかし1932年に与えられた地位は、

「皇帝」ではありません。

執政

です。

そして、

1934年

満洲国が帝政へ移行してから、

溥儀は皇帝になります。

【頻出年号】

1932年

満洲国成立。溥儀は執政

1934年

溥儀が皇帝に即位。

ここはガチで混同注意です。


🌈 「五族協和」「王道楽土」

満洲国は、

五族協和

を掲げました。

満洲人。

漢人。

蒙古人。

日本人。

朝鮮人。

などが協和して暮らす国家。

そして、

王道楽土

という理想も掲げます。

しかし現実の政治権力を見ると、

関東軍と日本人官僚が圧倒的に強い影響力を持っていました。

そのため歴史学では一般に、

日本の強い支配下に置かれた傀儡国家

として位置づけられています。


🧠 でも最新研究は「傀儡国家」の一言で研究を止めない

ここが近年の研究の面白いところです。

「満洲国は日本の傀儡国家だった」

これは政治的主従関係を理解するうえで重要です。

しかし、それだけで説明を終了すると、

実際にそこで、

官僚。

企業。

地方住民。

医療組織。

教育組織。

中国人・満洲人・朝鮮人・日本人。

がどう動いたのかが見えません。

2025年に公開されたMichiko Suzukiの研究は、満洲国赤十字社を題材として、関東軍による国家建設計画だけでなく、既存の日本側利益集団との摩擦や、満洲社会の人々が国家的組織へどのように参加したのかを分析しています。(ケンブリッジ大学出版局)

つまり近年の研究は、

「日本支配だったか、独立国家だったか」

という二択だけではなく、

圧倒的に非対称な権力関係の中で、実際の国家制度や社会組織がどう作られ、誰がそこへ参加したのか

まで掘り下げています。

これが大学レベルの見方です。🔍


🌐 中国「国際連盟さん、これどうにかしてください」

中国国民政府は、

日本軍の軍事行動を、

国際連盟

へ提訴します。

第一次世界大戦後に作られた、

国際紛争を話し合いによって処理するための国際機関です。

今の国際連合の前身にあたりますが、同じ組織ではありません。

そこで国際連盟は、

「現地を調査しよう」

と決定します。


🎩 リットン調査団

団長はイギリスの、

リットン卿

イギリス。

フランス。

ドイツ。

イタリア。

そして国際連盟非加盟国だったアメリカからも委員が参加。

調査団は1932年に日本、中国、満洲を訪問。

日本政府。

中国政府。

関係者。

溥儀。

現地社会。

などを調査します。


📕 1932年 リットン報告書

そして提出されたのが、

リットン報告書

です。

よくあるイメージは、

国際連盟「日本は全部悪い! 満洲から全部出て行け!」

ですが、

実際の内容はもう少し複雑です。

報告書は、

① 日本軍の行動を正当防衛としては認めなかった

そして、

② 満洲国が住民の純粋な自発的独立運動によって成立したという説明も認めなかった

一方で、

③ 日本が満洲に大きな経済的・安全保障上の利害を持つ現実も考慮した

そして、

④ 中国の主権下で満洲に高度な自治制度を設ける

といった妥協的な解決を模索しました。

国際連盟の史料そのものも、リットン調査団が1931~32年の満洲危機を調査した委員会であったことを確認できます。(デジタルライブラリー)

【論述ポイント】

リットン報告書は日本の自衛権主張と満洲国の自発的独立という説明を認めなかった一方、日本の満洲における利害を考慮し、中国主権下での自治を提案した。

「全部日本支持」「全部中国支持」の二択にしないこと。


🇯🇵 でも日本はすでに満洲国を承認していた

調査が続いている間にも、

日本は既成事実を積み上げます。

1932年9月、

日満議定書

を締結。

日本政府が満洲国を正式に承認します。

つまり国際連盟が、

「どう解決する?」

と議論しているあいだに、

日本側では、

「満洲国はもう存在している国家です」

という状態を固めてしまった。

双方の前提が合わなくなります。


🗳️ 1933年2月24日 42対1

1933年2月。

国際連盟総会。

リットン報告書を基礎とした勧告案が採決されます。

結果は、

賛成42

反対1

反対したのは、

日本。

シャム、現在のタイは棄権しました。

日本代表は、

松岡洋右

です。

松岡は演説後、

代表団とともに議場を退場します。

ニュース映画でも有名な場面です。


🚪 「松岡が怒って退場して、その瞬間日本脱退!」ではない

ここも非常に有名な誤解。

2月24日の退場と、

国際連盟脱退そのものは、

同じ瞬間ではありません。

日本政府が正式に脱退を通告したのは、

1933年3月27日

です。

しかも国際連盟規約上、

通告即日で脱退ではありません。

正式な脱退発効は、

1935年3月27日

です。

【超頻出】

1933年

国際連盟脱退通告

1935年

国際連盟脱退発効

です。


🌍 「日本はこの瞬間、世界から完全孤立した」も言いすぎ

日本が国際連盟を脱退した。

では翌日から、

アメリカとも断交。

イギリスとも断交。

世界貿易ゼロ。

……ではありません。

英米その他との外交・通商関係は続きます。

だから、

❌ 1933年、日本は世界中から完全に孤立

ではなく、

第一次世界大戦後の多国間協調秩序から離れていく大きな転換点

と捉える方が正確です。添付資料も、脱退後も二国間外交・通商関係は残り、直ちに完全孤立したわけではないと整理しています。


🧠 ここまで全部を一本につなげると、景色が変わる

1921年。

中国共産党成立。

まだ小さい。

孫文の国民党も軍隊が弱い。

ソ連・コミンテルンが仲介。

1924年。

第一次国共合作。

黄埔軍官学校。

国民革命軍。

大衆動員。

1925年。

五・三〇運動。

民族運動・労働運動が拡大。

1926年。

北伐。

国民党と共産党の勢力が伸びる。

でも社会革命の進め方をめぐって対立。

1927年。

上海クーデタ。

武漢も分共。

第一次国共合作崩壊。

1928年。

北伐再開。

日本と済南で衝突。

張作霖、北京撤退。

関東軍が張作霖を爆殺。

ところが、

張学良が南京国民政府へ合流。

1928年。

中国が名目的統一。

国民政府が国権回収を進める。

日本の満洲権益との緊張増大。

1931年。

柳条湖事件。

満洲事変。

1932年。

満洲国。

国際連盟が調査。

リットン報告書。

1933年。

日本、国際連盟脱退を通告。

こうすると、

バラバラの用語集だったものが、

一本の因果関係

になります。


🎓 実は難関大学で一番強いのは「国共合作から満洲事変までをつなげる」こと

例えば、

「満洲事変の背景を説明せよ」

と聞かれて、

1931年、関東軍が柳条湖で満鉄を爆破して満洲事変を起こした。

だけでは、

ほぼ出来事説明です。

もっと強い答案は、

北伐と張学良の東北易幟によって南京国民政府の名目的統一が進み、中国側は不平等条約や外国権益の回収を目指した。これにより満鉄など満洲権益の将来に危機感を強めた関東軍は、対ソ安全保障や国内外の情勢も背景に、1931年の柳条湖事件を謀略として利用し軍事行動を拡大した。

となります。

これなら、

国内政治

日中関係

満洲権益

軍事

が全部つながっています。


📚 高校世界史ではこう習う。でも研究ではもう少し複雑

① 第一次国共合作=二つの政党が対等に同盟?

高校世界史では、

「国民党と共産党が協力」

でOK。

でも実際には、

共産党員が個人資格で国民党へ加入する党内合作

でした。

【入試答案】

「共産党員が個人資格で国民党に加入した第一次国共合作」

と書けると強い。


② 孫文は共産主義者になった?

なっていません。

ソ連の支援は受けましたが、

三民主義を放棄してマルクス主義へ転向したわけではありません。

孫文=ヨッフェ共同宣言でも、中国への共産主義・ソヴィエト制度の即時導入は現実的でないという認識が示されています。


③ 五・三〇運動=共産党だけの運動?

共産党は重要。

でも、

学生。

商人。

労働者。

国民党系勢力。

幅広い都市社会が参加しました。

【入試答案】

「学生・労働者・商人を巻き込む反帝国主義的大衆運動」

と書こう。


④ 北伐=蒋介石軍が強かったから勝った?

それだけではありません。

政治宣伝。

農民・労働者運動。

敵軍閥の分裂。

地方軍閥の寝返り。

ソ連顧問。

さまざまな要因があります。


⑤ 上海クーデタで国共合作は即終了?

上海では4月に大弾圧。

しかし武漢側では協力が続き、

7月の武漢政府による分共で合作は最終的に崩れます。


⑥ 1928年、中国は完全統一?

名目的統一です。

地方軍閥は自軍を保持。

1930年には中原大戦。

共産党の農村根拠地も成長しています。


⑦ 張作霖=日本の傀儡?

日本の支援を利用しました。

でも独自に中国政治の覇権を狙い、日本の要求と衝突することもありました。


⑧ 張作霖爆殺=日本政府の命令?

違います。

関東軍の河本大作らによる謀略で、東京政府の正式命令ではありません。

ただし、その後中央政府が十分な責任追及をできなかったことが大きな問題でした。


⑨ 柳条湖事件=満洲事変?

柳条湖事件は「発火点」。

満洲事変はその後の軍事占領まで含む一連の過程です。


⑩ 日本政府と関東軍は一枚岩?

違います。

関東軍が軍事行動を先行させ、

政府が不拡大を掲げながら追認していく局面がありました。


⑪ 満洲国成立時、溥儀は皇帝?

1932年は執政。

皇帝即位は1934年。

ここは入試事故多発地帯です。⚠️


⑫ リットン調査団は日本の権益を全部否定?

違います。

日本軍の自衛主張や満洲国の自発的独立という説明は認めませんでしたが、

日本の満洲における現実の利害を考慮した自治案を提示しました。


⑬ 1933年、日本は国際連盟から即脱退?

1933年は脱退通告

正式発効は1935年。


📅 これだけは覚えて帰ろう

1919年 五・四運動、中国国民党への改組

1921年 中国共産党成立

1923年 孫文=ヨッフェ共同宣言

1924年 第一次国共合作、国民党第1回全国代表大会、黄埔軍官学校

1925年 孫文死去、五・三〇運動、広州国民政府

1926年 北伐開始

1927年 上海クーデタ、南京国民政府、第一次国共合作崩壊

1928年 北伐再開、済南事件、張作霖爆殺、東北易幟

1930年 中原大戦

1931年9月18日 柳条湖事件、満洲事変開始

1932年 満洲国成立、リットン報告書

1933年 国際連盟脱退通告

1934年 溥儀が満洲帝国皇帝に即位

1935年 日本の国際連盟脱退発効

この先には、

1936年の西安事件

第二次国共合作、

1937年の支那事変

へと歴史が続いていきます。

ただし、

満洲事変から支那事変へ自動的に一本道で進んだ

と考えないでください。

その間には、

停戦。

華北をめぐる政治工作。

国民党と共産党の内戦。

張学良の政治的変化。

西安事件。

という大量の分岐があります。添付資料も1931年から1937年までを、複数の曲折を持つ過程として整理しています。


🌅 おわりに 中国がまとまり始めたからこそ、東アジアの衝突は激しくなった

ここまで読むと、

一つ不思議な構造が見えてきます。

中国が軍閥でバラバラだったころ、

外国勢力は各地で大きな権益を持つことができました。

ところが、

五・四運動によって民族主義が高まる。

国民党と共産党が協力する。

大衆を動員する。

北伐する。

国民政府が作られる。

張学良まで南京政府につく。

つまり中国が、

「自分の国は自分の中央政府が統治する」

という近代主権国家へ少しずつ近づいていきます。

ところが、

その「中国の正常化」は、

外国側から見れば必ずしも歓迎できるものではありません。

なぜなら中国が主権を強く主張すれば、

租界。

治外法権。

鉄道権益。

租借地。

など、

従来外国が持っていた特権に手を伸ばすからです。

特に満洲では、

日本の大きな経済・軍事的権益と、

中国側の国家統合・国権回収

が正面からぶつかりました。

だから満洲事変は、

突然1931年の夜に空から落ちてきた事件ではありません。

その背景には、

辛亥革命後の国家分裂。

五・四運動による民族主義。

国共合作。

北伐。

国民政府の成立。

日本の満洲権益。

張作霖と関東軍。

張学良の東北易幟。

という10年以上の政治変動があります。

そしてここが、世界史を暗記科目からドラマへ変えるポイントです。

1924年、

国民党と共産党は仲間でした。

1927年、

敵になります。

1928年、

日本と協力関係にあった張作霖を、関東軍が殺します。

その息子は蒋介石側につきます。

1931年、

関東軍は今度は満洲そのものを軍事的に掌握しようとします。

1932年、

満洲国。

1933年、

日本は国際連盟脱退へ。

登場人物だけを見ると、

昨日の友が今日の敵になる迷路です。

でも構造を見ると一本につながる。

それは、

「分裂した中国を誰が統一するのか」

という国内政治と、

「統一される中国の中で、外国が持ってきた権益をどうするのか」

という国際政治が、

同時に動いていたからです。

中国がまとまる。

すると既存の外国権益と衝突する。

衝突すると日本側では現地軍の行動が強まる。

その既成事実を中央政府が追認する。

中国側ではさらに民族主義が強まる。

こうして東アジア政治は、少しずつ後戻りしにくい場所へ進んでいきます。

2024年のOxfordの概説でも、1920年代以降の中国史は、脆弱な共和国から国民党による国家統合、中国共産党の成長、日本との戦争へ至る一続きの国家形成過程として整理されています。(OUP Academic)

そして満洲国研究も、「傀儡国家だった」という結論だけで終わらず、その内部で実際に国家組織・官僚制・社会団体がどのように作動したのかへ研究対象を広げています。(ケンブリッジ大学出版局)

世界史では、

「1924 国共合作」

「1926 北伐」

「1931 満洲事変」

と単語を暗記しがちです。

でも本当に覚えるべきなのは、

その間にある、

「なぜ?」

です。

なぜ国民党と共産党は組んだのか。

なぜ別れたのか。

なぜ張作霖は日本と協力したのか。

なぜ日本側はその張作霖を殺したのか。

なぜ息子は蒋介石についたのか。

なぜ関東軍は満洲へ進んだのか。

なぜ国際連盟との妥協が成立しなかったのか。

その「なぜ」を全部つなげたとき、

1920年代中国史は人名地獄ではなくなります。

見えてくるのは、

中国という国家をもう一度組み立てようとする力と、すでに中国の中に築かれていた外国権益を維持しようとする力が、満洲という一点で激突していく巨大な歴史ドラマ

なのです。🇨🇳🇯🇵🌏🔥

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