2026-09-13

WH145.戦勝国イタリアは、なぜファシズムへ向かったのか

 


🇮🇹 戦勝国なのに、なぜ独裁へ?



第一次世界大戦後のイタリアとムッソリーニ・ファシズムをゼロから理解する

「ムッソリーニって、ヒトラーより少し前に出てきた独裁者でしょ?」

世界史にあまり興味がない人なら、だいたいそのくらいのイメージではないでしょうか。

でも、ここでいきなり面白い問題が出てきます。🤔

ムッソリーニが政権を握ったイタリアは、第一次世界大戦の敗戦国ではありません。

むしろ、

戦勝国です。🏆

ドイツ帝国は敗北して皇帝が退位しました。

オーストリア=ハンガリー帝国は解体しました。

ロシア帝国では革命が起こりました。

ところがイタリア王国は、連合国側で戦い、勝った。

それなのに戦争終了からわずか4年後の1922年には、ベニート・ムッソリーニが首相になります。

さらに1925~26年になると、議会政治は急速に骨抜きにされ、イタリアはファシスト独裁体制へ向かっていきました。

いったい、何が起きたのでしょうか。

「ムッソリーニという悪い独裁者が突然現れたから」

これでは歴史の説明になりません。

実際には、

第一次世界大戦によって社会が大きく変わる。

⬇️

戦争が終わっても生活は楽にならない。

⬇️

労働者や農民の不満が爆発する。

⬇️

ロシア革命の影響で社会主義革命への期待が高まる。

⬇️

逆に地主や中間層には「革命が起きるのではないか」という恐怖が広がる。

⬇️

そこへ政治的暴力を武器とするファシストが入り込む。

⬇️

既存の政治家や国王の一部が、

「ムッソリーニなら利用できる」

と考える。

⬇️

ところが最後には、利用するつもりだった側が、逆にファシストに政治制度を変えられてしまう。

そんな何段階もの流れがあります。

ここを理解すると、

「なぜファシズムが生まれたのか」

が、単なる暗記ではなく一つの物語として見えてきます。🧩


🇮🇹 まず確認。イタリアという国は意外に「若い」

話は第一次世界大戦より少し前から始めましょう。

現在の地図を見ると、イタリア半島には当然のように「イタリア」という国があります。

ところが、統一国家としてのイタリア王国が成立したのは1861年です。

日本でいえば幕末。

かなり新しい国なのです。

その後、1866年にはヴェネト地方、1870年にはローマを併合し、現在のイタリアにつながる統一国家が形作られていきました。

しかし、

国境線を一つにしたからといって、人々の暮らしや政治まで一つになるわけではありません。

ここが大切です。

北西部ではミラノ、トリノ、ジェノヴァを中心として工業化が進みました。🏭

とくにトリノでは自動車産業が成長し、のちに有名になるFIATの巨大工場などに大量の労働者が集まります。

一方、農村では事情がまったく違います。

大地主。

土地を借りて耕す小作農。

土地を持たない農業労働者。

小規模な自作農。

さまざまな立場の人々がいました。

南イタリアでは貧困や土地問題も深刻でした。

つまり「イタリア人」という一語でくくってしまうと見えませんが、実際には地域差も階級差もかなり大きな社会だったのです。

そして政治も、現在のような大衆政党中心の政治ではありませんでした。

自由主義系の政治家たちが議会で柔軟に連携し、その時々で多数派を作る。

イタリア政治史では、こうした方式をトラスフォルミズモ、変容主義と呼びます。

ところが20世紀になると、選挙権が拡大します。

すると、

「地方の有力者同士で話をまとめれば政治が動く」

という時代から、

何百万人もの有権者を組織する大衆政治の時代

へ変わっていきます。

社会党。

労働組合。

カトリック系組織。

そして後にはファシスト党。

第一次世界大戦後のイタリアでは、この巨大な政治変化が一気に表面化するのです。

近年の研究でも、ファシズム台頭を単なる「暴力集団の伸長」だけではなく、自由主義政治が普通選挙と大衆政党の時代に十分適応できなかった問題と結びつけて分析する視点が重視されています。2025年刊行のGoffredo Adinolfiの研究は、まさに1919~24年の選挙政治を軸にこの転換を追っています。


⚔️ 三国同盟なのに、なぜイタリアはドイツ側で戦わなかったの?

ここで第一次世界大戦です。

1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。

当時イタリアは、

ドイツ帝国🇩🇪

オーストリア=ハンガリー帝国🇦🇹

とともに三国同盟を結んでいました。

普通に考えると、

「じゃあイタリアもドイツ・オーストリア側で参戦したんでしょ?」

となりますよね。

ところが、そうではありません。

イタリアは1914年には中立を宣言します。

なぜでしょうか。

三国同盟は基本的に防御的性格を持つ同盟でした。

イタリア政府は、今回の戦争はオーストリア=ハンガリー側が始めたものであり、自動的な参戦義務はないと判断しました。

しかもイタリアとオーストリア=ハンガリーは、同盟国でありながら領土問題を抱えていました。

ここで登場するのが、

🇮🇹 「未回収のイタリア」

です。

イタリア統一運動が進んだ後も、オーストリア=ハンガリー帝国領内には、イタリア民族主義者が「本来イタリアに属するべきだ」と考える地域が残っていました。

代表的なのが、

トレンティーノ

そして

トリエステ

です。

このような地域が「未回収のイタリア」と呼ばれました。

ただし、注意したいポイントがあります。⚠️

第一次世界大戦中にイタリア政府が要求するようになった地域のすべてが、単純に「イタリア人が多数住む未回収領」だったわけではありません。

南チロルには多数のドイツ語話者が住んでいました。

イストリアやダルマティアにはスロヴェニア人やクロアティア人などが暮らし、民族構成はかなり複雑でした。

つまりイタリアの要求には、

「イタリア民族を統一したい」

という民族主義だけでなく、

「アルプス山脈を国境線にして防衛しやすくしたい」

「アドリア海で有利な立場を確保したい」

「大国として領土と勢力圏を広げたい」

という安全保障・帝国主義的な要求も混ざっていたのです。


🤝 1915年、イタリアはこっそり連合国と交渉する

1915年4月。

イタリアはイギリス・フランス・ロシアと秘密交渉を行い、

ロンドン秘密条約

を結びました。

内容をものすごく簡単に言えば、

「イタリアさん、連合国側で戦ってくれたら、戦争に勝ったあと領土を認めますよ」

という取り決めです。

イタリアにはトレンティーノ、南チロル、トリエステ、イストリア、ダルマティアの一部などが約束されました。

ただし、ここで後々ものすごく重要になる都市があります。

フィウメ、現在のクロアチアのリエカです。

実はフィウメは、ロンドン秘密条約でイタリアへ与えると約束された都市ではありませんでした。

この一点を覚えておくと、戦後の混乱がかなり分かりやすくなります。

そして1915年5月、イタリアはオーストリア=ハンガリーに宣戦布告。

連合国側として第一次世界大戦へ参戦します。


💀 「勝てば領土が増える」はずだった。でも戦争は地獄だった

イタリア政府には戦後の領土拡大への期待がありました。

しかし戦場に行く兵士たちにとって、戦争は外交地図とはまったく別の世界でした。

北東部の山岳地帯では、イタリア軍とオーストリア=ハンガリー軍が激しく戦います。

イゾンツォ川周辺では何度も攻防戦が行われ、多数の死傷者が出ました。

1917年にはカポレットの戦いでイタリア軍が大敗し、大きく後退します。

それでも1918年、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、イタリアは最終的に戦勝国として戦争を終えました。🏆

ならば、

「めでたし、めでたし」

……とはなりません。

むしろ、ここから政治的な爆発物が次々に転がり始めます。💣


🗺️ 戦勝国なのに「裏切られた」と感じるイタリア

戦争が終わると、パリ講和会議が始まります。

イタリア政府としては当然、

「1915年に約束した領土をください」

という話になります。

ところが大きな問題が出てきました。

アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンです。

ウィルソンは、秘密外交による領土分割や、民族構成を無視した国境変更に批判的でした。

しかもアメリカはロンドン秘密条約の締約国ではありません。

イタリアの要求するダルマティアなどには南スラヴ系住民も多数暮らしています。

そのため、

「秘密条約で約束したから全部イタリア領にします」

とは簡単にいきません。

ここで誤解してはいけないのは、

イタリアは戦勝国なのに領土をまったく獲得できなかった

わけではないということです。

イタリアは戦後、

トレンティーノ、

南チロル、

トリエステ、

イストリア

など、重要な領土を獲得しました。

国境はブレンナー峠まで北上します。

つまり、領土を「何ももらえなかった」わけではありません。

では、なぜ不満が爆発したのでしょうか。

理由は、

期待値がさらに大きく膨らんでいたから

です。

ダルマティアの大部分は獲得できない。

さらに民族主義者は、ロンドン秘密条約に入っていなかったフィウメまで要求します。

こうした状況から、

💔 「損なわれた勝利」

という言葉が力を持ちます。

イタリア語では、

vittoria mutilata

です。

直訳すれば「切り刻まれた勝利」「不具にされた勝利」といった強烈な表現です。

これは客観的に、

「イタリアは戦争で何も得られなかった」

という意味ではありません。

むしろ、

「イタリア人は大きな犠牲を払って勝ったのに、同盟国に正当な取り分を奪われた」

という政治的な物語です。

こういう物語は強いのです。

なぜなら、

「生活が苦しい」

「戦争で家族を失った」

「仕事がない」

「なのに戦勝国として尊重されていない」

という別々の不満を、

「われわれイタリアは不当に扱われた」

という一つの物語にまとめられるからです。


🎭 詩人ダンヌンツィオ、勝手にフィウメを占領する

ここで、とんでもなく濃い人物が出てきます。

詩人の

ガブリエーレ・ダンヌンツィオ

です。

文学者なのですが、同時に熱烈な民族主義者で、第一次世界大戦にも参加しました。

1919年、ダンヌンツィオはフィウメ問題に我慢できなくなります。

そしてなんと、

武装した義勇兵を率いてフィウメへ入り、

街を実力占領してしまいます。😳

政府が命令したわけではありません。

一種の既成事実を作って、

「ここはもうイタリアのものだ!」

と押し切ろうとしたわけです。

フィウメはロンドン秘密条約でイタリアに約束された都市ではありませんでした。そこを武装集団が占拠したこと自体、戦後イタリア政治の不安定さを象徴しています。

このフィウメ占領をそのまま「ファシズム」と呼ぶのは乱暴です。

しかし後のファシズムを連想させる政治スタイルはかなり見られます。

軍服。

派手な演説。

大衆集会。

政治を舞台劇のように演出する感覚。

既存議会への軽蔑。

指導者と群衆の直接的な一体感。

政治は、政策をじっくり議論するだけのものではなく、

「観客を興奮させ、身体ごと参加させるショー」

にもなり始めます。

この政治文化は、後のムッソリーニにとって大きなヒントになります。


💸 戦争に勝った。でも財布はボロボロ

さて、領土問題だけを見ていると、本当の危機を見落とします。

第一次世界大戦後のイタリア社会で、人々の日常にもっと直接響いたのは、

経済問題です。

戦争中、国家は莫大な量の武器、弾薬、軍服、車両、食料を必要としました。

政府は大量のお金を使います。

企業は軍需生産へ集中します。

何百万人もの男性が兵士として動員されます。

つまり国全体が、

⚙️「戦争をするための巨大マシン」

になっていたわけです。

ところが1918年。

戦争終了。

すると今度は、その巨大マシンを突然「平時モード」へ戻さなければなりません。

兵士が帰ってくる。

軍需注文が減る。

企業は生産を切り替える。

仕事を探す人が増える。

国家には戦争中の借金が残る。

しかも物価は上昇しています。📈

戦争によるイタリアの財政負担は極めて大きく、戦時中にはFIAT、Ansaldo、Ilva、Montecatiniなどを中心とする大規模な産業集中も進みました。一方、戦後には実質賃金低下、農村争議、土地占拠が重なりました。


🍞 インフレって、何がそんなに困るの?

「インフレーション」と聞くと急に経済の授業っぽくなりますが、難しくありません。

たとえば昨日、

パン1個=1リラ

だったとします。

ところがしばらくして、

パン1個=2リラ。

給料が同じなら、買えるパンの量は半分です。

つまり、

お金の数字は同じでも、暮らしは貧しくなる。

これが物価上昇の怖さです。

とくに苦しくなるのが、給与がすぐには上がらない会社員や公務員などの中間層です。

労働者は、

「物価が上がったなら賃金を上げろ」

と要求します。

農業労働者も待遇改善を求めます。

土地を持たない農民は、

「戦争から帰ってきたのに、自分には何もない」

と不満を募らせます。

さらに復員兵には、

「国のために命をかけて戦った。それなのに帰国したら仕事も土地もないのか?」

という感情も生まれます。

戦争は終わった。

しかし、

人々の期待だけは戦前の状態には戻らなかった。

ここが重要です。


🚩 そしてロシアでは、本当に革命が起きていた

1917年。

ロシア革命。

ロシア帝国の皇帝体制が崩壊し、最終的にはレーニン率いるボリシェヴィキが政権を握ります。

これがヨーロッパ中に与えた衝撃は、とてつもないものでした。

現代の感覚で、

「社会主義革命なんて現実に起きるわけないじゃん」

と考えてはいけません。

当時は、

本当に起きたばかりです。

しかもロシアだけではありません。

ドイツでは1918年に革命が起き、皇帝ヴィルヘルム2世が退位。

ハンガリーでは1919年、一時的にソヴィエト共和国が成立。

ドイツのバイエルンでも革命政権が誕生します。

つまり1919年ごろのヨーロッパ人にとって、

「次は自分の国で革命が起きるかもしれない」

という想像は、決してSFではありませんでした。

労働者側から見れば、

✨「社会を本当に変えられるかもしれない」

地主や企業家側から見れば、

😨「自分の土地や会社が奪われるかもしれない」

同じロシア革命が、

希望と恐怖を同時に生み出した

のです。


🔴 1919~20年「赤い二年間」が始まる

この状況でイタリアに起きた大規模な社会運動を、

Biennio Rosso

と呼びます。

日本語では、

🔴 「赤い二年間」

です。

Biennioは「二年間」。

Rossoは「赤」。

社会主義・労働運動を象徴する赤旗の「赤」です。

1919~20年、イタリア各地で労働争議、農村運動、土地占拠、ストライキが急増しました。

農村では農業労働者が賃金や雇用条件を改善しようと組織を強化します。

都市部では工場労働者が賃上げや労働時間短縮を求めます。

1919年には高物価への抗議運動も広がりました。

そして1920年になると、運動はさらに大きくなります。


🏭 トリノの巨大工場で起きた「これは革命なのか?」という光景

とくに重要なのが北イタリアの工業都市、

トリノ

です。

ここにはFIATなどの大規模工場があり、多数の工場労働者が働いていました。

そこで注目されたのが、

工場評議会

です。

少し難しそうなので簡単にいきましょう。

普通の労働組合は、

「給料を上げてください」

「労働時間を短くしてください」

と経営者側と交渉します。

ところが工場評議会の発想は、さらに一歩踏み込みます。

「そもそも工場を毎日動かしているのは労働者じゃないか」

「だったら労働者自身が、工場の運営に参加できるのでは?」

という考えです。

この動きを理論的に支えようとした若い社会主義者の中に、

アントニオ・グラムシ

がいました。

グラムシたちは『オルディネ・ヌオーヴォ』を中心に、工場評議会を革命的な可能性を持つ組織として注目します。


🔧 1920年、労働者が工場を占拠する

1920年夏から秋。

金属産業の労使対立が激化します。

そして9月、労働者たちは大規模な工場占拠に踏み切りました。

工場には赤旗が掲げられる。

労働者自身が工場を管理する。

一部では生産も継続する。

外から見れば、

😨「これ、ロシア革命と同じことが始まるんじゃないの?」

と感じても不思議ではありません。

しかし、ここで重要なポイントがあります。

⚠️ 革命っぽく見えることと、革命政権を作れることは別

イタリア社会党内部は一枚岩ではありませんでした。

ここで「社会主義」という言葉も整理しておきましょう。

社会主義とは、とても大きな思想のグループです。

資本家が工場や資本を所有し、大きな格差が生まれる社会を批判し、

「生産や富のあり方を、もっと社会全体で管理・分配できないか」

と考えます。

ただし、その実現方法について意見が分かれます。

選挙で政権を取り、法律を少しずつ変える人。

革命によって資本主義そのものを倒そうとする人。

労働組合運動を重視する人。

ロシアのボリシェヴィキをモデルにする人。

全部同じではありません。

当時のイタリア社会党でも、革命的な言葉を使う勢力が強かった一方、

「具体的に誰が、いつ、どうやって国家権力を取るのか」

について統一された戦略がありませんでした。

労働組合指導部には、全面革命より交渉を選ぶ人々もいました。


🧓 ジョリッティ首相、「軍隊で工場を奪い返す」をしなかった

ここで首相だったのが、

ジョヴァンニ・ジョリッティ

です。

企業家や保守派の中には、

「軍を出せ!」

「占拠された工場を取り戻せ!」

という声もありました。

しかしジョリッティは、大規模な軍事弾圧を避けます。

なぜか。

武力を投入すれば、かえって本当の革命へ発展する可能性がある。

ならば労働運動の勢いが自然に弱まるのを待ち、交渉で解決した方がよい。

そう考えたのです。

最終的に工場占拠は終わります。

労働者側も一定の経済的譲歩を得ます。

つまり、

「ストライキをやったけど完全敗北しました」

という単純な話ではありません。

ところが政治的には大きな後遺症が残りました。

労働者の急進派から見れば、

😞「あれだけ動員したのに革命にはならなかった」

一方、地主や企業家、中間層から見れば、

😱「今回は終わった。でも次は本当に革命になるかもしれない」

この恐怖が残ります。

しかも、ジョリッティ政府が工場占拠を軍で鎮圧しなかったことによって、

「自由主義国家は私有財産を守ってくれない」

と感じる保守層も現れました。

ここに、ファシズムが入り込む大きな隙間ができます。


🟥 社会主義と共産主義は同じなの?

ここも初心者が引っかかりやすいところです。

社会主義は大きな思想グループ。

共産主義は、その中でもとくに資本主義社会を革命によって転換し、生産手段の私有を大きく変えることを目指す思想・運動として発展しました。

1917年ロシア革命以降は、

ボリシェヴィキ型革命を支持する共産主義運動

が国際的に急成長します。

そしてイタリア社会党でも対立が激化。

1921年1月、リヴォルノで社会党左派が分裂し、

イタリア共産党ではなく、当時の正式名称では「イタリア共産党、Partito Comunista d'Italia、PCd'I」

が結成されます。

アメデーオ・ボルディーガやアントニオ・グラムシらが参加しました。

現在よく知られる「イタリア共産党、PCI」という名称になるのは後の時代です。

つまり左派陣営は大きな支持を得ながらも、

その内部では分裂していった

のです。


👨 ムッソリーニ登場。でも、最初から右翼だったわけではない

さて。

ようやくムッソリーニです。

ベニート・ムッソリーニ。

1883年生まれ。

後の姿だけ知っていると、

「生まれたときから右翼独裁者みたいな人」

に思えるかもしれません。

ところが若いムッソリーニは、

社会主義者でした。

しかも、かなり目立つ社会主義活動家です。

イタリア社会党に入り、1912年には党機関紙、

『アヴァンティ!』

の編集長になります。

つまり、

「社会党の新聞を編集していた人物が、のちにファシズムの指導者になる」

のです。

歴史の人物は、完成後の姿から逆算すると見誤ります。


💥 第一次世界大戦が、ムッソリーニの人生をひっくり返す

1914年に第一次世界大戦が始まります。

イタリア社会党は参戦に反対。

しかしムッソリーニは次第に、

参戦支持

へ傾きます。

戦争が古い社会を破壊し、革命的変化を引き起こす可能性があると考えたのです。

このため社会党と決裂。

1914年には新聞、

『イル・ポーポロ・ディタリア』

を創刊します。

そこからムッソリーニは、従来の社会主義運動から離れ、

ナショナリズム、

参戦主義、

革命的政治文化

を結びつける方向へ進んでいきました。


🪢 1919年「戦闘者ファッシ」誕生

1919年3月。

ムッソリーニはミラノで、

イタリア戦闘者ファッシ

Fasci italiani di combattimento

を結成します。

ここで、

「ファッショって何?」

となりますよね。

イタリア語のfascioは、

「束」

「集まり」

「結束した集団」

といった意味を持つ言葉です。

この言葉自体は、もともと右翼専用ではありません。

19世紀末には左派・労働運動にも使用例があります。

のちにムッソリーニ運動と古代ローマの権力象徴であるファスケス、束桿が強く結びつき、「ファシズム」という政治用語として定着していきます。


🤯 初期ファシズムは、後のファシズムとかなり違う

ここがとても面白いところです。

1919年のファシスト運動を、

1930年代の「完成したムッソリーニ独裁」

から逆算してはいけません。

初期メンバーには、

元社会主義者。

革命的サンディカリスト。

急進的ナショナリスト。

未来派芸術家。

退役軍人。

第一次世界大戦の突撃部隊出身者。

など、かなり雑多な人々がいました。

1919年の初期綱領には、後世のイメージからすると驚くような急進的社会改革案も含まれています。

つまり初期ファシズムは、

「最初から完成された独裁思想の教科書」

ではありません。

むしろ、

🧪 ナショナリズム

🧪 戦争体験

🧪 反自由主義

🧪 革命的な政治感覚

🧪 反社会主義

🧪 大衆動員

が、まだ不安定に混ざった政治運動でした。

ただし、初期から非常に重要だった特徴があります。

👊 政治的暴力です

ファシスト運動は、

「選挙に勝つまで静かに待ちましょう」

という運動ではありませんでした。

敵対勢力に対する暴力を、かなり早い時期から政治の一部として利用します。


📉 でも1919年、ムッソリーニは選挙で惨敗している

ここで意外な事実。

1919年総選挙で、

ファシストはまったくと言ってよいほど成功していません。

議席ゼロ。

政治的にはまだ弱小勢力です。

逆に大勝したのが、

イタリア社会党、PSI

そしてカトリック系の、

イタリア人民党、PPI

でした。

1918年の選挙法改正で成年男性に選挙権が拡大され、1919年には比例代表制が導入されました。1919年総選挙は、男子普通選挙と比例代表制が組み合わされた最初の総選挙となります。

社会党は約32%の票を獲得し、156議席。

イタリア人民党も100議席を獲得します。

ここで古い自由主義政治は大きく揺らぎました。

地方の名望家同士の連携で政治を動かす時代から、

大衆政党が何百万人もの有権者を組織する時代

へ変わったからです。

2025年のAdinolfiの研究が重視するのもここです。

ファシズムの台頭を理解するには、

「ムッソリーニが人気だった」

だけでは足りない。

それ以前に、

イタリア政治のルールそのものが大衆民主政治へ急速に変わり、既成自由主義勢力が対応に苦しんでいた

という構造を見る必要があります。


🖤 では、惨敗したファシストがなぜ数年で急成長したのか?

ここからファシズムの怖さと、歴史としての面白さが一気に増します。

1919年には弱かった。

なのに1921年ごろには、北部・中部イタリアで急成長している。

何が変わったのでしょうか。

答えの中心が、

スクアドリスティ

です。


🚚 黒シャツ隊、街や村へ殴り込みをかける

スクアドリスティとは、ファシストの武装行動隊員です。

黒いシャツを制服のように着ることが多かったため、

黒シャツ隊

とも呼ばれます。

彼らは車両に乗り、町や農村へ向かいます。

そして、

社会党支部。

労働組合。

農民組合。

協同組合。

左派系新聞社。

社会党系自治体。

などを襲撃します。

建物を破壊する。

人を殴る。

拉致する。

屈辱を与える。

場合によっては殺害する。

有名なのが、

ヒマシ油を無理やり飲ませる

という暴力です。

一見すると「悪趣味ないたずら」のように聞こえるかもしれません。

しかし実際には、激しい下痢や脱水を起こさせ、人前で尊厳を破壊する政治的暴力でした。


🧠 最新のファシズム研究が重視する「暴力そのもの」

以前はファシスト暴力について、

「社会主義に反発した地主が黒シャツ隊を利用した」

という社会経済的な説明が中心になることがありました。

もちろん地主との関係は非常に重要です。

しかし近年の研究では、

暴力そのものが、人々の行動や地域社会を変えてしまった

ことも重視されています。

Alessandro Saluppoの研究は、スクアドリスティの暴力が単なる「政治対立の結果」ではなく、恐怖そのものによって地域社会の構造を壊したことを示しています。

襲撃されるかもしれない。

広場へ行くのが怖い。

隣人と話すのが怖い。

組合に参加すれば狙われる。

すると、組織は紙の上で禁止されなくても機能しなくなります。

1921年には、ポー川下流域をはじめ各地でファシスト部隊による社会党・共産主義者・労働組織への激しい襲撃が広がり、地方国家当局や司法の黙認・協力が見られた地域もありました。

つまりファシズムの暴力は、

相手を倒すだけでなく、「政治活動そのものを怖くする」

効果を持っていたのです。


🌾 なぜ農村でファシズムが伸びたのか?

「ファシズム=都会の大企業が作った運動」

と思うと、ここでつまずきます。

実際にはファシズムが急速に伸びた重要地域の一つが、

ポー川流域などの農業地帯

です。

ここでは社会党系の農業労働組合や協同組合が非常に強い地域がありました。

労働組合が、

「この賃金以下では働かない」

「この条件で雇用せよ」

と地主や農業経営者に圧力をかける。

地方選挙でも社会党が勝ち、自治体を支配する。

すると地主や農業経営者から見れば、

「自分の地域なのに、自分たちの自由に経営できない」

という感覚が強まります。

そこで一部の地主・農業経営者がファシスト行動隊を支援します。

資金を提供する。

車両を出す。

情報を提供する。

すると黒シャツ隊がやってきて、労働組合事務所などを破壊する。

こうした形で、

地方の階級対立とファシスト暴力が結びついた

のです。


💰 「資本家がムッソリーニを作った」で終わらせてはいけない

ここは難関大学でも大切なポイントです。

もちろん地主や企業家からの支援は重要でした。

でも、

「大資本家たちが会議室でムッソリーニという独裁者を作り、全部操った」

という構図ではありません。

実際にファシスト運動へ参加した人々には、

退役兵。

学生。

若い元将校。

専門職層。

商店主。

中小経営者。

農村中間層。

などもいました。

彼らが皆、同じ理由でファシストになったわけでもありません。

ある人は社会主義革命を恐れる。

ある人は戦争後の社会で自分の地位が下がったと感じる。

ある人は議会政治を「口先だけ」と嫌う。

ある若者は、戦争で経験した暴力的な連帯感を平和な社会でも求める。

ある人は出世したい。

ある人は強烈なナショナリズムに惹かれる。

ある人は単純に地元の敵対勢力への報復を望む。

ファシズムは、

違う不満を一つの運動へ束ねることができた

から強かったのです。


👮 国家はファシストを取り締まらなかったの?

ここで当然、疑問が出ます。

「そんなに暴力を振るっていたなら、警察が逮捕すればいいじゃん」

その通りです。

本来なら国家の仕事です。

しかし、ここで状況が複雑になります。

警察・軍・官僚・司法が全員ファシストだったわけではありません。

ファシストに抵抗した公務員もいました。

しかし地域によっては、警察や行政機関がファシスト暴力を十分に取り締まらず、黙認したり、場合によっては協力したりしました。

なぜでしょう。

当時の官僚や軍人にも、

「本当に危険なのは社会主義革命ではないか」

と考える人がいました。

するとファシストは、

「多少乱暴だが、赤い革命を止めてくれる連中」

に見えてきます。

ここで国家の中立性が崩れていきます。

ファシストが国家を完全に倒す前から、

国家の一部がファシストを“使える存在”として扱ってしまった

のです。


🗳️ 1921年、既成政治家が「ファシストを議会へ入れればおとなしくなる」と考える

1921年。

ファシストは新たな段階へ入ります。

自由主義政治家ジョリッティらは、

「ファシストを政治制度の外へ追い出すより、選挙に参加させた方がいい」

と考えます。

議会へ入れれば、

責任ある政治家になり、

暴力も減り、

こちらでコントロールできる。

そんな期待です。

そこでファシストは、自由主義勢力などと組む国民ブロックに参加。

ムッソリーニ自身も国会議員になります。

この瞬間、ファシストは面白い位置を手に入れました。

国会では、

👔「合法的な政治家です」

地方では、

👊「黒シャツ隊が敵を襲います」

という二つの顔を持てるようになったのです。

合法政治と街頭暴力を、同時に利用する。

これが非常に強力でした。

そして1921年11月、

国家ファシスト党、PNF

が成立します。

1919年には議席ゼロだった勢力が、わずか2年で全国政党へ成長しました。


😵‍💫 1922年、イタリア政治はグラグラになる

1922年。

政権は安定しません。

社会党は分裂。

共産党も成立。

人民党も一枚岩ではない。

自由主義勢力は大衆政治への対応に苦しむ。

一方、ファシストは地方で敵対組織を次々と破壊しています。

政府は存在しています。

警察もあります。

軍隊もあります。

国王もいます。

しかし、

「誰が本当に政治秩序を支配しているのか」

が分かりにくくなっていました。

そこへ1922年夏、左派系労組がファシスト暴力への抗議としてゼネストを実施します。

ファシストにとっては絶好の宣伝材料です。

「見ろ、政府はストライキすら止められない」

「われわれなら秩序を守れる」

ファシストはスト破りを行い、駅や公共施設などを掌握します。

とんでもない矛盾です。

国家に挑戦している武装集団が、

「国家より自分たちの方が秩序を守れる」

と宣伝するのです。

そして、いよいよ1922年10月。

🚩 ローマ進軍

です。


🚶 ローマ進軍という名前にだまされてはいけない

「ローマ進軍」と聞くと、

ムッソリーニが黒シャツ隊の先頭に立ち、

「ローマへ行くぞ!」

と行進。

王宮へ突入。

国王を脅迫。

政権奪取。

そんな映像を想像しませんか?

実際はもっと複雑です。

ファシスト側は武装した部隊を動員し、ローマ周辺だけでなく地方の行政機関、鉄道、通信施設などを占拠しました。

つまりローマ進軍は、

単なるパレードではなく、全国的な武装威圧を伴う反乱的行動

でした。

近年、John Footは、ローマ進軍を「どうせ正規軍に勝てなかった茶番」と過度に軽視する歴史解釈に警鐘を鳴らしています。そこへ至るまでには約3年間のファシスト暴力があり、国家当局もそれを十分抑制せず、ときには協力していたからです。


🚆 しかもムッソリーニ本人は「進軍の先頭」にいない

ここが面白いポイントです。

ムッソリーニ本人は、

ローマ進軍の先頭でローマへ突入していません。

ミラノにいました。

なぜ?

ムッソリーニは政治交渉の結果を見ていたからです。

もし政府が軍を出してファシストを鎮圧するなら、自分まで最前線で捕まる必要はありません。

逆に、

「ムッソリーニさん、政府を作ってください」

と言われるなら、

わざわざクーデターで王宮を占領する必要もない。

つまり、

🎭 暴力を背景に、合法的な政権獲得を狙う

という戦術です。

革命家と議会政治家の二つの顔を同時に使っているわけです。


👑 最大の分岐点。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世

当時のイタリアは王国です。

国王は、

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世

です。

首相は、

ルイージ・ファクタ

でした。

ファシスト部隊が動き始めると、ファクタ政府は非常措置を準備します。

軍を使ってファシストを止める。

普通ならそうなります。

ところが、最終的に必要だった国王の承認を、

国王が拒否しました。

ここが1922年最大の分岐点です。


🤔 なぜ国王はファシストを鎮圧しなかったのか?

これについて、

「国王も最初からファシストだったから」

の一言では説明できません。

研究ではさまざまな要因が議論されています。

軍が確実に命令に従うのかという不安。

大規模な流血・内戦への恐怖。

ファクタ政権への不信。

ファシストを政府に入れれば穏健化できるという期待。

保守層や軍関係者の一部にファシズムへの好意があったこと。

王政そのものを守るため、左派よりファシストの方が利用しやすいという計算。

複数の要素が絡んでいます。

軍事力だけなら、正規軍は黒シャツ隊よりはるかに強力でした。

だから、

「黒シャツ隊が軍隊を完全に打ち破って政権を取った」

わけではありません。

しかし一方、

「国王が命令すれば即座に何事もなく全部終わった」

とも断言できません。

なぜなら、その何年も前から地方では国家機関とファシストの境界が曖昧になり、一部では黙認や協力関係まで生まれていたからです。


👔 そして国王がムッソリーニに「政府を作ってください」と言う

最終的に国王は、

ムッソリーニへ組閣を命じます。

ここが超重要です。

ムッソリーニは、

「王宮を武力占領して自分で首相になった」

のではありません。

国王から正式に組閣を命じられ、

首相になりました。

だからローマ進軍は、

「完全な軍事クーデター」

か、

「普通の合法的政権交代」

か、

どちらか一方ではありません。

⚖️ 暴力的威圧によって、憲法上の手続きによる権力移譲を引き出した

という、二重構造になっています。

これがローマ進軍の本質を理解するうえで重要です。


😎 1922年のムッソリーニは、まだ完全な独裁者ではない

ここも受験で非常に大切です。

1922年、

ムッソリーニ首相就任。

だから、

「1922年、イタリアに完全なファシスト一党独裁成立!」

……ではありません。

最初のムッソリーニ内閣は、

連立政権

です。

ファシスト以外にも、自由主義系政治家、ナショナリストなどが参加しています。

国王もいます。

議会もあります。

野党もあります。

新聞もまだ完全統制されてはいません。

つまり、

1922年=独裁完成

ではなく、

🚪 1922年=ファシストが国家権力の中へ入った年

と考えるとよいでしょう。

しかし一度中へ入ると、

ムッソリーニは政治制度そのものを少しずつ作り替えていきます。


🖤 暴力組織を国家の中へ入れる

1922年末には、

ファシスト大評議会

が設置されます。

さらに1923年には、

国家安全保障義勇軍、MVSN

が創設されます。

これは黒シャツ隊を国家的な武装組織へ組み込む仕組みです。

ここが不気味なところです。

ムッソリーニは、

「政権を取ったので黒シャツ隊は解散します」

とはしません。

かといって、地方ファシストのボスたちが勝手に暴れ続けるのも困る。

そこで、

暴力装置を国家化し、自分の統制下へ取り込もうとした

のです。

近年の研究でも、ローマ進軍後に暴力が突然消えたわけではなく、徐々に国家的な抑圧装置へ組み替えられていった点が重視されています。


🗳️ 1923年、アチェルボ法という「選挙ルール改造」

次にムッソリーニが手をつけるのが、

選挙制度

です。

1923年、

アチェルボ法

が成立しました。

仕組みはかなり大胆です。

全国で25%以上の票を獲得し、しかも最多得票となった候補者リストに、

なんと、

😳 下院議席の3分の2

を与える。

26%の得票でも、条件を満たせば議席の約66%を得られる可能性があるわけです。

なぜこんな制度を作るのか。

比例代表制では、社会党、人民党、自由主義系勢力などが議席を分け合います。

するとムッソリーニが議会を自由に動かせません。

だったら、

選挙のルールを変えてしまえばいい。

これがアチェルボ法です。


🗳️ 1924年総選挙。選挙はある。でも民主主義は壊れ始めている

1924年総選挙。

ムッソリーニ側は、

ファシストだけではなく、ナショナリストや協力的な旧自由主義政治家までまとめた巨大候補者リストを作ります。

これが、

国民リスト、通称「リストーネ」

です。

結果は約65%。

アチェルボ法によって、ムッソリーニ側は圧倒的多数の議席を握ります。

ただし選挙戦では、

野党への暴力。

脅迫。

集会妨害。

圧力。

などが行われました。

「選挙箱はある」

でも、

「自由で公正な競争が保障されている」

とは言えない状態です。

そして、この選挙を正面から批判する政治家が現れます。


🗣️ ジャコモ・マッテオッティ、議会でファシストを告発

社会主義者、

ジャコモ・マッテオッティ

です。

1924年5月、マッテオッティは議会で、選挙中に行われた暴力や不正を厳しく批判します。

そして6月10日。

マッテオッティはローマで誘拐されます。

犯人はファシスト系の暴力団員でした。

その後、殺害されたことが判明します。

イタリア社会は騒然。

😨

「首相の周囲にいるファシストと政治的殺人は、どこまでつながっているのか?」

という疑惑が爆発します。

ムッソリーニ政権は、成立以来最大級の危機に陥りました。


🏛️ 野党議員が議会を去る「アヴェンティーノ離脱」

野党議員たちは抗議として国会を離れます。

これを、

アヴェンティーノ離脱

と呼びます。

名前は古代ローマ史に由来します。

彼らの期待は、

「ここまで重大な事件になれば、国王がムッソリーニを罷免するだろう」

というものでした。

ところが、

👑 またしても国王はムッソリーニを解任しない

国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は動きません。

そして野党が議会へ出席しなくなった結果、

皮肉にも議会内部からムッソリーニへ圧力をかける勢力は弱くなります。

マッテオッティ事件直後には政権崩壊すらあり得るように見えましたが、ムッソリーニは危機を乗り切りました。


🔥 1925年1月3日、ムッソリーニが攻勢へ転じる

1925年1月3日。

ムッソリーニは議会で有名な演説を行います。

ここを、

「私はマッテオッティを殺しました、と自白した」

と理解すると少し違います。

ムッソリーニは、ファシズムが生み出した政治的・道徳的・歴史的責任を自分が引き受けるという形で、野党へ挑戦します。

要するに、

「ファシズムの責任者は私だ。ならば倒してみろ」

という政治的な開き直りです。

そしてここから、

「議会政治の枠内で何とか政権を維持する」

段階から、

🔒 「反対勢力そのものが活動できない国家へ作り替える」

段階へ移ります。


⚖️ 1925~26年「ファシスト諸法」で国家を改造する

独裁者というと、

戦車が議会を囲み、

憲法を燃やし、

その日から突然独裁開始。

そんなイメージがあります。

しかしイタリアはもっとじわじわ進みました。

既存制度を完全に一日で壊すのではなく、

法律を一本ずつ変えていく。

1925~26年、

いわゆるファシスト諸法によって、

首相権限が大幅に強化されます。

議会に対する政府の責任は弱められます。

結社の自由が制限されます。

反対政党が活動できる空間が消えていきます。

地方自治も変えられます。

市民が政治的に選ぶ自治体首長に代わり、政府が任命するポデスタ制度が導入されます。

新聞も統制されます。

労働組合活動も国家の管理下へ組み込まれます。

ストライキは認められなくなります。

1926年末にはファシスト党以外の政党活動は実質的に排除され、反対派議員も議席を失っていきます。


🚔 反対すれば「国家の敵」

さらに、

国家防衛特別裁判所

が設けられます。

政治犯を取り締まる制度が強化されます。

反ファシストは逮捕され、

投獄され、

あるいは辺境地へ送られる。

あのグラムシも1926年に逮捕されました。

政治警察組織も強化され、後にOVRAとして知られる監視・弾圧装置へ発展していきます。

ただし、OVRAという名称と組織が1926年のある一日に突然完成したわけではありません。

独裁体制形成とともに政治警察機構が段階的に整備されていった、と考えた方が正確です。


🏭 「コーポラティズム」って何?

ここで、また難しそうな言葉です。

コーポラティズム。

でも考え方そのものは理解できます。

資本主義社会では、

経営者と労働者が対立します。

労働者は、

「賃金を上げろ」

経営者は、

「コストを下げたい」

社会主義・マルクス主義は、この対立を「階級対立」として重視します。

ところがファシズムは、

「労働者と経営者が争うから国が弱くなる」

「国家の中で両者を職業別に組織し、国家が調整すればいい」

と考えました。

これがファシスト型コーポラティズムの基本イメージです。

表向きは、

🤝「資本主義でも共産主義でもない、階級協調の第三の道」

です。

しかし現実には、

労働者が自由に組合を作る権利も、

自由にストライキをする権利も、

大きく制限されます。

つまり、

「労使対立をなくす」

と言いながら、

対立を国家の管理下へ押し込めた

制度でした。


🎺 ファシズムは「静かな独裁」ではない

ここでファシズムという言葉を整理しましょう。

よく、

ファシズム=独裁

と覚えます。

間違いではありません。

でも、それだけではファシズムの特徴が見えません。

世界史にはファシズム以前から独裁政治はいくらでもあります。

ファシズムの特徴は、

単に、

「国民よ、黙って従え」

ではありません。

むしろ、

📣 「国民よ、参加せよ!」

なのです。

集会へ来い。

行進に参加しろ。

制服を着ろ。

青年組織へ入れ。

ファシスト式の儀礼に参加しろ。

国家のために身体を鍛えろ。

子どもを産め。

帝国の拡大を支持しろ。

「何もしない国民」ではなく、

国家の目的に合わせて積極的に動員される国民

を作ろうとします。

だからファシズムは、

ただの古臭い王様の専制政治とは違います。

ラジオ。

映画。

ポスター。

新聞。

巨大集会。

スポーツ。

青年団体。

近代社会の技術を大量に使います。📻🎬

ある意味では、

非常に近代的な独裁

なのです。


🧒 子どもまで「新しいイタリア人」にする

1926年には、

オペラ・ナツィオナーレ・バリッラ、ONB

という青年組織も成立します。

ファシスト体制は、

「今の大人だけ従わせればいい」

とは考えません。

子どものころから、

規律。

身体訓練。

軍事的価値観。

国家への忠誠。

指導者への敬意。

を身につけさせ、

新しいファシスト的人間を作る

ことを目指します。

ここに、ファシズムが単なる政府ではなく、

「社会そのものを作り替えようとする運動」

だったことが見えてきます。


👩 女性もファシズムの外にいたわけではない

ファシズムは男性的な戦士像を強く押し出しました。

理想の男性は、

強く、

健康で、

戦える兵士。

一家を率いる家長。

一方、女性には、

母親。

妻。

子どもを産み育てる存在。

という役割が強調されます。

しかし、

「女性を家の中へ完全に閉じ込めた」

だけでもありません。

ファシスト体制は女性向け団体も作り、国家行事や福祉活動へ動員します。

つまり、

女性の役割を伝統的に限定しながら、同時に国家のために組織化する

という矛盾した政策を進めました。

ファシズム研究では、こうしたジェンダー政策も重要な研究テーマになっています。


💼 ファシズムは「資本家の操り人形」だったの?

ここまで読んだところで、もう一度考えてみましょう。

地主。

企業家。

資本家。

彼らの一部はファシズムを支援しました。

これは事実です。

社会党や労組が強くなり、

ストライキが起き、

土地占拠や工場占拠まで起きる。

経営者や地主から見れば、

ファシストは非常に便利な反社会主義勢力になります。

しかし、

「だからムッソリーニは資本家に操られただけ」

と考えると、逆に歴史が分からなくなります。

ファシストには独自の思想と組織があります。

退役兵や若者の運動でもあります。

民族主義があります。

戦争文化があります。

議会政治への敵意があります。

大衆動員があります。

地方社会の対立があります。

そして何より、

独自の政治暴力があります。

近年の研究が強調するのは、

地主・資本家の反動だけにファシズムを還元しないこと

です。

一方で、

「純粋な民衆革命だった」

と美化するのも間違い。

ファシズムは、

上からの支援と、

下からの動員と、

国家の一部による黙認と、

地方対立と、

暴力文化とが、

複雑に絡み合った政治運動でした。


🧩 いちばん怖いのは「ムッソリーニ以外の人々の判断」

ムッソリーニだけを見ていると、

歴史は映画の悪役物語になってしまいます。

むしろ面白いのは、

周囲の人々が何を考えたのか

です。

自由主義政治家は、

「ファシストを議会へ入れれば穏健化できる」

と考えました。

地主の一部は、

「社会主義組織を壊す間だけ利用しよう」

と考えました。

企業家の一部は、

「政治秩序を回復してくれるなら使える」

と考えました。

軍人や官僚の一部は、

「社会主義革命よりはファシストの方がましだ」

と考えました。

国王は、

「ムッソリーニを首相にすれば安定する」

と期待しました。

つまり、

それぞれが自分はムッソリーニを利用できると思った。

ところがムッソリーニは、

その「利用してやろう」という人々の支持や黙認を使って国家権力へ入り、

国家権力を使って政治制度を変え、

最後には、

「ムッソリーニを利用する側」

だった人々が自由に政治を動かせない体制へ変えていったのです。

ここがファシズム台頭の最大の皮肉です。


🇩🇪 イタリア・ファシズムとドイツ・ナチズムは同じ?

ここも世界史では重要です。

共通点はたくさんあります。

議会制民主主義への敵意。

社会主義・共産主義への敵意。

強力な指導者。

政治的暴力。

青年動員。

巨大集会。

宣伝。

国家・民族の強調。

軍事主義。

領土拡張。

ただし、

完全に同じ思想ではありません。

とくに大きな違いの一つが、

人種主義と反ユダヤ主義の位置です。

ナチズムでは、反ユダヤ主義と人種世界観が運動のかなり早い段階から中心的役割を持ちました。

一方、1919年のイタリア・ファシズムでは、反ユダヤ主義はナチズムほど中核的な位置を占めていません。

ただし、

「だからイタリア・ファシズムは人種主義と無関係だった」

という意味でもありません。

イタリア・ファシズムには植民地主義と帝国主義があり、1930年代には人種主義がさらに強まり、1938年にはユダヤ人を排除する人種法まで制定されます。

つまり、

似ている。でも同じではない。

比較するときは、この距離感が大切です。


🎓 実はここまで読めば難関大学の論述が書ける

さて。

ここまでかなり長い旅をしてきました。

でも世界史の筆記試験で問われる内容は、

実はこの物語を圧縮するだけです。

たとえば、

「第一次世界大戦後のイタリアでファシズムが台頭した背景を説明せよ」

と出たとします。

いきなり、

「ムッソリーニがローマ進軍を行ったから」

では足りません。

その前に何があったのかを書く必要があります。

第一次世界大戦で社会と経済が大きく変化した。

戦後にはインフレや復員問題が起こる。

パリ講和会議をめぐって「損なわれた勝利」の不満が広がる。

ロシア革命の影響を受け、1919~20年には「赤い二年間」と呼ばれる労働・農民運動が激化する。

地主、経営者、中間層に社会革命への恐怖が広がる。

ファシスト行動隊が社会主義組織を暴力で破壊する。

国家機関の一部がこれを黙認・協力する。

自由主義政治家はファシストを議会政治へ取り込もうとする。

1922年、ローマ進軍。

国王は非常措置を承認せず、ムッソリーニへ組閣を命じる。

その後ムッソリーニはアチェルボ法などで権力基盤を強化。

1924年にはマッテオッティ事件。

1925~26年にはファシスト諸法によって野党・新聞・地方政治・労働運動を抑圧。

一党独裁体制へ移行する。

これだけです。

……と言っても長いですね。😂

でも全部、

前の出来事が次の出来事を生んでいる

ことが分かるでしょう。


🧠 最後に、歴史の流れを一本につなげよう

第一次世界大戦。

⬇️

戦争による大量動員と経済混乱。

⬇️

戦勝国になったものの、期待した戦後秩序とのギャップから「損なわれた勝利」という不満が広がる。

⬇️

復員、インフレ、生活不安。

⬇️

ロシア革命の影響。

⬇️

社会党・労働組合の急成長。

⬇️

1919~20年「赤い二年間」。

⬇️

工場占拠や農村争議。

⬇️

労働者には革命への期待。

地主・企業家・中間層には革命への恐怖。

⬇️

黒シャツ隊が社会主義組織を暴力で破壊。

⬇️

地主などから支援。

国家機関の一部から黙認・協力。

⬇️

1921年、ファシストが議会へ進出。

⬇️

「取り込めば穏健化する」と既成政治家が判断。

⬇️

1922年、ローマ進軍。

⬇️

国王がムッソリーニへ組閣を命令。

⬇️

まだ連立政権。

⬇️

アチェルボ法。

⬇️

1924年選挙。

⬇️

マッテオッティ暗殺事件。

⬇️

ムッソリーニ政権最大の危機。

⬇️

しかし国王は解任せず。

⬇️

1925年1月3日、ムッソリーニが攻勢へ転換。

⬇️

1925~26年ファシスト諸法。

⬇️

議会・野党・報道・地方自治・労働運動を次々に統制。

⬇️

🇮🇹 ファシスト一党独裁体制へ

これが、

第一次世界大戦後のイタリアからムッソリーニ独裁成立までの大きな物語

です。


✨ そして、いちばん覚えておきたいこと

ムッソリーニは、

突然空から降ってきた独裁者ではありません。

1919年には選挙で惨敗しています。

1922年に首相になった瞬間にも、まだ完全な独裁者ではありません。

ファシズムは、

戦争。

戦後不況。

インフレ。

民族主義。

社会革命への期待。

社会革命への恐怖。

左派の分裂。

地方社会の階級対立。

退役兵。

青年運動。

ファシスト暴力。

地主や企業家の支援。

国家機関の黙認。

自由主義政治家の誤算。

国王の判断。

そしてムッソリーニ自身の政治戦術。

それらが複雑に重なって成長しました。

だから歴史の答えは、

「ムッソリーニがすごく悪かったから」

でも、

「資本家が全部やらせたから」

でも、

「イタリア人が全員ファシストを支持したから」

でもありません。

たくさんの人々が、

それぞれ別の理由で、

「この程度なら大丈夫だろう」

「自分たちなら利用できるだろう」

「今の敵を倒すためなら使えるだろう」

と判断した。

その判断が少しずつ積み重なり、

1922年には政権参加を許し、

1925~26年には、

かつてムッソリーニを利用しようとした政治制度そのものが、

ファシストによって作り替えられていました。

ファシズムの歴史が面白いのは、

一人の独裁者の伝記ではなく、

戦争によって変質した社会が、政治のルールそのものを数年間かけて変えていく過程

だからなのです。🇮🇹📚


📚 この記事の内容をさらに深く知りたい人へ

本記事では、第一次世界大戦後イタリアについての国際的研究、イタリアのTreccani、第一次世界大戦研究プロジェクト1914-1918-online、Cambridge University Press刊行の近年研究などを参照しています。

とくに、Goffredo Adinolfi『The Rise of Mass Parties, Liberal Italy, and the Fascist Dawn (1919–1924)』(Cambridge University Press, 2025)は、1919年以降の普通選挙・大衆政党・自由主義勢力の危機を、ファシズム台頭と結びつけて再検討した近年の研究です。

John Foot「The March on Rome revisited. Silences, historians and the power of the counter-factual」(Modern Italy, 2023)は、ローマ進軍を単なる「芝居」「軍事的には弱かったから重要ではない」と過小評価する見方を批判し、1922年以前から積み重なっていたファシスト暴力と国家との関係を重視しています。

Alessandro Saluppo「Paramilitary Violence and Fascism: Imaginaries and Practices of Squadrismo, 1919–1925」(Contemporary European History, 2020)は、スクアドリスティの暴力を単なる階級対立の結果としてではなく、人々の身体、恐怖、地域社会そのものを作り替えた政治実践として分析しています。

第一次世界大戦後の社会・経済状況については、1914-1918-onlineの「Post-war Societies (Italy)」が、戦後財政、産業構造、農村争議、工場占拠、「赤い二年間」からファシズム台頭までの背景を詳しく整理しています。

ロンドン秘密条約については、同じく1914-1918-onlineの「London, Treaty of (1915)」が、トレンティーノ、南チロル、トリエステ、イストリア、ダルマティアなどの領土要求と、フィウメが条約上イタリアに約束されていなかった点を確認するうえで重要です。

また、アチェルボ法、1924年総選挙、マッテオッティ事件、1925~26年の独裁化については、イタリアのTreccaniが政治制度の推移を詳細に整理しています。

世界史では、年号や人物名だけを暗記するとすぐに忘れてしまいます。

でも、

「なぜそうなった?」

を一つずつつないでいくと、

歴史は巨大な年表ではなく、

人間が迷い、期待し、恐れ、計算し、ときには判断を誤りながら作っていった物語として見えてきます。🌍📖

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