🌍 冷戦が終われば世界は平和になるはずだった? ユーゴ紛争から9.11・イラク戦争・チェチェンまで「冷戦後の世界」を一本で読む
1991年12月、ソビエト連邦が消滅しました。
第二次世界大戦後、半世紀近くにわたって世界を二分してきた「アメリカ対ソ連」という巨大な対立構造が、ついに終わったのです。
「これで核戦争の恐怖から解放される」
「軍事費を減らして、豊かさのために使える」
「世界は少しずつ平和になるのではないか」
そんな期待が世界に広がりました。いわゆる「平和の配当」です。
ところが、その後の世界を開いてみると、待っていたのは静かな平和ではありませんでした。
旧ユーゴスラビアでは凄惨な戦争が起こり、中東では湾岸戦争が勃発します。やがてアルカイダによる9.11がアメリカを直撃し、アフガニスタン戦争、イラク戦争へと続いていきます。旧ソ連圏でも、チェチェンをめぐってロシアとの激しい戦争が起こりました。
つまり冷戦後の世界は、
「戦争がなくなった世界」ではなく、「戦争の形が変わった世界」
だったのです。
今回は、この巨大な変化を一気につなげて見ていきましょう。🌐🔥
🧊 そもそも「冷戦が終わる」とは何だったのでしょうか?
冷戦とは、アメリカを中心とする西側陣営と、ソ連を中心とする東側陣営が対立した国際秩序です。
もちろん両国が直接全面戦争をしたわけではありません。しかし、その背後では軍拡競争、核兵器開発、代理戦争、軍事同盟の対立が続いていました。
西側にはNATO(北大西洋条約機構)。
東側にはワルシャワ条約機構。
世界のかなりの地域が、この二つの陣営のどちらと結びつくのかを意識しながら動いていたわけです。
ところが1989年、東欧諸国で共産党政権が次々に倒れます。
そして1991年にはワルシャワ条約機構が解体され、同年末にはソ連そのものが消滅しました。
ここで重要なのは、
「冷戦という枠組みがなくなったこと」と「世界中の対立原因がなくなったこと」は、まったく同じではない
ということです。
むしろ、それまで冷戦構造の内側に押し込められていた国家内部の問題、民族問題、領土問題、宗教問題、国家そのものの統合問題が前面に出てきました。
その代表例が、ユーゴスラビアです。
🇾🇺 ユーゴスラビアとはどんな国だったのか?
ユーゴスラビアという国を理解しないまま「民族紛争」とだけ覚えてしまうと、この時代はかなり分かりにくくなります。
第二次世界大戦後のユーゴスラビアを率いた人物が、ヨシップ・ブロズ・ティトーです。
ティトー率いる共産主義パルチザンは、第二次世界大戦中に枢軸国の占領勢力や協力勢力と戦い、戦後には社会主義国家を建設しました。
しかし、ここで面白いことが起こります。
「社会主義国ならソ連の仲間でしょう?」
と思うかもしれません。
ところが1948年、ティトーはスターリンと決裂します。
ユーゴスラビアはソ連の衛星国にはなりませんでした。
その後は「労働者自主管理」と呼ばれる独自の社会主義を進め、外交でもアメリカ陣営にもソ連陣営にも完全には入らない道を選びます。
そしてインドのネルー、エジプトのナセルらとともに非同盟運動を推進しました。1961年、第1回非同盟諸国首脳会議が開催された場所は、ユーゴスラビアの首都ベオグラードです。
ここは大学入試でも重要です。
「ユーゴスラビア=ソ連陣営の普通の東欧社会主義国」
と考えてしまうと間違えます。
🧩 6共和国+2自治州という複雑な国家
社会主義ユーゴスラビアは、一枚岩の国ではありませんでした。
スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニアという6つの共和国から構成され、さらにセルビア共和国の内部にはコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州がありました。
宗教や歴史的背景もさまざまです。
クロアチアやスロベニアではカトリックが有力です。
セルビアでは東方正教会。
ボスニアにはイスラームを信仰するボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が混住していました。
コソボではアルバニア系住民が多数を占めていました。
とはいえ、
「民族が違う人々が一緒に暮らしていたから、いつか必ず戦争になった」
と考えてはいけません。
これは現在の研究でも非常に重要なポイントです。
💸 戦争の原因は「古代からの民族憎悪」ではない
ユーゴスラビア戦争について、ときどきこんな説明があります。
「バルカンでは昔から民族同士が憎み合っていた。共産主義がそれを押さえていただけで、冷戦が終わると一気に爆発した」
分かりやすい説明ですが、現在の研究ではこれだけで説明することはできません。
むしろ重要なのは、制度・経済・政治の複合危機です。
1980年、長年ユーゴスラビアをまとめてきたティトーが死去します。
それ以前の1974年憲法によって共和国や自治州の権限はかなり強くなっていました。これは一つの民族や地域への権力集中を防ぐ仕組みでしたが、同時に、連邦全体で迅速な意思決定を行うことを難しくする面もありました。
さらに1980年代には経済が悪化します。
ユーゴスラビアは約200億ドル規模の対外債務を抱え、インフレ、失業、生活水準の悪化に苦しみました。富裕なスロベニアやクロアチアと、経済発展の遅れた南部地域との格差も政治問題化します。
2024年に発表されたユーゴスラビア社会主義研究でも、1970年代から1980年代の世界経済の変化、債務危機、共和国間の経済的分断が、連邦の政治危機と強く結びついていたことが改めて論じられています。単なる「民族感情の爆発」ではなく、経済制度そのものが分解していく過程を見る必要があります。(ケンブリッジ大学出版局)
そして、その危機を利用したのが政治家たちでした。
セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭します。
彼はセルビア民族の被害意識やコソボ問題を政治的に利用し、セルビア内部への権力集中を進めました。
一方、クロアチアでもフラニョ・トゥジマン率いる民族主義勢力が選挙で政権を握ります。
つまり、
🔥経済危機
🔥連邦制度の機能不全
🔥共産党支配の正統性喪失
🔥共和国ごとの政治的利害
🔥民族主義を利用する政治家
これらが重なって、国家が割れていったのです。近年の研究も、ユーゴ崩壊を一つの原因へ還元するより、この複合的な構造を重視しています。(ケンブリッジ大学出版局)
💥 1991年、ユーゴスラビアが割れ始める
1991年6月、スロベニアとクロアチアが独立を宣言しました。
ところが、この二つの国の戦争はまったく同じではありません。
スロベニアでは住民の大多数がスロベニア人でした。
そのため、ユーゴスラビア人民軍との戦闘は比較的短期間で終わります。
これが十日間戦争です。
一方、クロアチアは違いました。
クロアチア国内には多数のセルビア系住民が暮らしていました。
クロアチアがユーゴスラビアから独立しようとすると、
「ではクロアチアに住むセルビア人はどうなるのか?」
という問題が発生します。
セルビア系住民の一部はクロアチアからの離脱を主張し、セルビア側の支援を受けながら武装します。
クロアチア独立戦争ではヴコヴァルなどで激しい戦闘が起こり、アドリア海沿岸のドゥブロヴニクも砲撃を受けました。
そして、さらに複雑な戦争が始まります。
🇧🇦 ボスニア戦争――「どこで国境を引くのか」という悪夢
1992年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立へ向かいます。
ここでは問題がさらに難しくなりました。
ボスニアには、
ボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人がモザイクのように混住していたからです。
「この地域はセルビア人の土地」
「こちらはクロアチア人の土地」
と簡単に線を引ける状況ではありません。
家の隣人が別民族であることも珍しくありませんでした。
だからこそ、民族的に均質な領域を作ろうとすれば、
そこに住む別民族の人々を追い出さなければならない。
ここから生まれたのが、1990年代の世界に強烈な印象を残した言葉です。
民族浄化(ethnic cleansing)。
これは、脅迫、強制追放、拘禁、殺害、性的暴力などによって、特定民族を地域から排除していく行為を指します。
ボスニア戦争では特にボスニア・セルビア人勢力によって大規模な民族浄化が行われました。一方、クロアチア系勢力など他勢力による強制追放や犯罪も確認されています。各陣営の行為を一括して「全部同じ」と扱うのではなく、規模、組織性、司法判断を区別することが重要です。
🏙️ サラエヴォ包囲とスレブレニツァ
ボスニアの首都サラエヴォは長期間にわたって包囲されました。
山から市街地に砲弾が撃ち込まれ、狙撃兵が市民を狙う。
電気も水も食料も十分にない。
ヨーロッパの都市で、こうした光景が1990年代に現実となりました。
そして1995年7月、さらに重大な事件が起こります。
スレブレニツァ虐殺です。
スレブレニツァは国連が「安全地帯」と指定していました。
しかしボスニア・セルビア人勢力が制圧し、その後、8,000人を超えるボシュニャク人男性・少年が殺害されました。国連自身も後に、スレブレニツァ安全地帯が十分な軍事的抑止力を伴わないまま設定された問題を検証しています。(デジタルライブラリー)
この事件については、単に「虐殺」と呼ぶだけではありません。
旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所などがジェノサイドと認定しました。
さらに2007年、国際司法裁判所(ICJ)もスレブレニツァでジェノサイドが行われたことを認めています。
ただしICJは、セルビア国家そのものがジェノサイドを直接実行したとは認定せず、一方でセルビアがジェノサイド防止義務を果たさなかったと判断しました。
ここは難関大学の論述でも重要です。
**「スレブレニツァ=ジェノサイド認定」と、「セルビア国家の法的責任の範囲」**は別問題なのです。(国際司法裁判所)
✈️ NATOが「実際に戦う組織」へ変わる
ここでNATOに注目しましょう。
NATOは1949年に作られました。
本来は、
「ソ連が西ヨーロッパへ攻め込んできたら、みんなで防衛する」
ための軍事同盟です。
ところがソ連がなくなりました。
では、NATOは何のために存在するのでしょうか?🤔
その答えの一つが、旧ユーゴスラビア紛争でした。
1993年からNATOはボスニア上空の飛行禁止措置を実施します。
そして1994年2月、飛行禁止空域に入ったボスニア・セルビア人勢力の航空機をNATO機が撃墜しました。
これはNATO史上初の実戦交戦でした。
さらに1995年には、ボスニア・セルビア人勢力に対してデリバリト・フォース作戦という大規模航空作戦を実施します。NATO自身も、これらを冷戦後の活動転換における重要な節目として整理しています。(NATO)
そして1995年、アメリカの仲介でデイトン合意が成立。
ボスニア戦争は終結へ向かいました。
🇽🇰 次に爆発したコソボ問題
しかし、ユーゴスラビアの問題は終わっていません。
次の焦点はコソボでした。
コソボはセルビアにとって歴史的・宗教的意味の強い土地です。
一方、住民の多数はアルバニア系でした。
ティトー時代には広い自治権が与えられていましたが、1989年前後にミロシェヴィッチ政権はコソボの自治権を大きく縮小します。
これに対してアルバニア系住民の指導者イブラヒム・ルゴヴァは、当初、非暴力抵抗を続けました。
しかし1990年代半ばになると、武装闘争を主張する**コソボ解放軍(KLA)**が台頭します。
1998年以降、セルビア・ユーゴスラビア側治安部隊とKLAの戦闘が激化。
多数の住民が家を追われました。
💣 1999年、NATOがユーゴスラビアを空爆
和平交渉が失敗すると、NATOは1999年3月、ユーゴスラビア連邦共和国への空爆を開始します。
アライド・フォース作戦です。
空爆は78日間続きました。
そしてセルビア・ユーゴスラビア側が部隊撤収を受け入れた後、国連安全保障理事会決議1244によって、コソボには国際的な文民統治と治安維持部隊が配置されました。(デジタルライブラリー)
ただし、この空爆には非常に重要な論点があります。
NATOは空爆開始時、国連安全保障理事会から明示的な武力行使授権を得ていませんでした。
そのため、
「人道的大惨事を防ぐために必要だった」
という主張がある一方、
「安保理の授権なしに他国を攻撃することは国連憲章上問題がある」
という批判もありました。
つまりコソボ紛争は、
人命を守るための介入と、国家主権・国際法をどう両立させるのか
という21世紀の巨大な問題を浮かび上がらせたのです。
後の「保護する責任(R2P)」をめぐる議論も、ルワンダやスレブレニツァの経験とともに、この1990年代の人道危機と介入論争を背景に発展していきます。
🛢️ 同じころ、中東では湾岸戦争が始まる
時計を少し戻しましょう。
1990年8月2日。
イラク軍が隣国クウェートへ侵攻しました。
イラクを率いていたのはサダム・フセインです。
その背景には、1980~1988年のイラン・イラク戦争がありました。
8年間の戦争でイラク経済は疲弊し、巨額の債務を抱えます。
サダム政権はクウェートに、
「対イラン戦争はアラブ諸国を守る戦争だったのだから、貸した金を免除してほしい」
と要求しました。
また石油生産量や原油価格、国境付近のルマイラ油田をめぐる対立もありました。
イラクはさらに「クウェートは歴史的にイラクと一体だった」と領有主張を展開しました。ただしこれはイラク政府側の主張であり、「クウェートが元来当然にイラク領だった」という確定した歴史的事実として扱うべきではありません。
交渉が行き詰まった末、イラク軍はクウェート全土を占領しました。
🇺🇳 冷戦が終わりかけたからこそ、国連が動いた
ここが湾岸戦争の重要ポイントです。
冷戦中の国連安全保障理事会では、アメリカとソ連がしばしば対立していました。
ところが1990年、ゴルバチョフ政権下のソ連は西側との協調を重視していました。
その結果、安保理はイラクに撤退を要求し、制裁を決定します。
そして国連安保理決議678は、期限までにイラクが撤退しない場合、クウェートと協力する加盟国に**「あらゆる必要な手段」**を用いる権限を認めました。
これは武力行使を含みます。(デジタルライブラリー)
こうしてアメリカを中心に多国籍軍が形成されます。
しかも参加したのは欧米だけではありません。
サウジアラビア、エジプト、シリアなどアラブ諸国も参加しました。
ここは入試で大事です。
湾岸戦争=アメリカが単独でイラクを攻撃した戦争
ではありません。
国連安保理の授権を背景として、多数の国が参加した戦争です。
🛰️ 「ハイテク戦争」が世界に映し出される
1991年1月、多国籍軍は大規模な航空作戦を開始しました。
ステルス機。
巡航ミサイル。
精密誘導兵器。
衛星通信。
テレビには暗視カメラで撮影された爆撃映像が流れました。
約5週間の航空作戦後、地上攻撃が始まり、多国籍軍は短期間でクウェートからイラク軍を排除します。
1991年2月末、戦闘は停止しました。
この戦争が示したのは、アメリカ軍の圧倒的な通常戦力でした。
ソ連そのものが崩壊へ向かう中、
「アメリカが唯一の超大国になった」
という印象が非常に強くなります。
これを国際政治ではしばしば単極構造、あるいはアメリカの「一極優位」と呼びます。
しかし、その勝利の陰で、次の時代につながる種もまかれていました。
☪️ 「イスラーム復興」と「テロリズム」を一緒にしてはいけない
ここから非常に大切です。
湾岸戦争後の中東を、
「イスラーム教徒がアメリカを嫌うようになってテロが増えた」
などと説明すると、大きく間違えます。
まず、イスラーム復興という現象は湾岸戦争よりはるか以前から進んでいました。
しかも、
イスラーム教徒
イスラーム復興
イスラーム主義
サラフィー主義
武装ジハード主義
アルカイダ
は全部同じものではありません。
イスラーム復興とは、信仰や社会生活をイスラームの価値に基づいて立て直そうとする非常に広い潮流です。
礼拝を重視する人もいます。
慈善活動をする人もいます。
教育運動をする人もいます。
政治参加を目指す運動もあります。
その巨大な世界のごく一部から、武力闘争を正当化する急進的な思想が現れます。
2022年の研究でも、20世紀後半のイスラーム復興を、都市化、教育拡大、国家政策、社会運動などを含む長期的な社会変化として見る重要性が強調されています。(ケンブリッジ大学出版局)
📉 1967年は重要。でも「すべてが一夜で変わった」わけではない
1967年の第三次中東戦争では、エジプト、シリア、ヨルダンがイスラエルに大敗しました。
これはナセルを象徴とするアラブ民族主義に大きな打撃を与えました。
しかし、
「1967年にアラブ民族主義が終わり、その翌日からイスラーム主義の時代になった」
というほど単純ではありません。
近年の研究では、1967年は重大な転換点ではあったものの、政治的イスラームの伸長は、それ以前からの社会・経済変化や、その後の1970年代の政策転換と一緒に見る必要があるとされています。(ケンブリッジ大学出版局)
都市化。
大学教育の拡大。
若者人口の増加。
失業。
国家の福祉能力不足。
こうした環境の中で、イスラーム系団体が診療、教育、慈善活動を担うこともありました。
宗教運動は、単なる「反西洋運動」ではなく、人々の暮らしに入り込む社会運動でもあったのです。
⚡ 1979年――中東史の「地殻変動」
そして1979年。
この年は現代中東史の超重要年です。
イランではイラン革命が起こり、パフラヴィー国王が倒れます。
ホメイニーを最高指導者とするイスラーム共和国が成立しました。
サウジアラビアではメッカの聖モスク占拠事件が起こります。
さらに12月、ソ連がアフガニスタンへ軍事介入します。
イスラーム復興自体はそれ以前から存在しましたが、1979年前後の出来事によって、その政治的・国際的側面が非常に目立つようになります。ケンブリッジ版『新イスラーム史』も、復興運動が1979年に突然始まったのではなく、少なくともその二十年ほど前から進んでいた流れとして整理しています。(ケンブリッジ大学出版局)
🇦🇫 アフガニスタン戦争と「ムジャーヒディーン」
1979年、ソ連軍がアフガニスタンに進駐します。
これに抵抗したイスラーム系武装勢力などがムジャーヒディーンです。
「ムジャーヒディーン」とは一つの組織名ではありません。
さまざまな派閥が存在しました。
アメリカは冷戦の論理から、
「ソ連をアフガニスタンで消耗させたい」
と考えます。
CIAはパキスタンの情報機関ISIを通じて、アフガニスタンの抵抗勢力へ資金や武器を供給しました。
ここから有名な誤解が生まれます。
「CIAがアルカイダを作った」
という説です。
しかし、アメリカが支援したアフガン武装勢力と、ビン・ラーディンを中心とするアラブ人義勇兵ネットワークは区別しなければなりません。
両者が同じ反ソ戦争の空間に存在していたことは事実ですが、
「CIAがビン・ラーディンを直接育成してアルカイダを作った」
とする単純な説明を裏づける証拠はありません。
🕸️ アルカイダの誕生
アフガニスタンには、アラブ諸国からも義勇兵が集まりました。
その活動を支援した人物の一人がアブドゥッラー・アッザーム。
そして資金提供や組織活動で重要になったのが、サウジアラビア出身のウサーマ・ビン・ラーディンです。
1988年前後、ビン・ラーディンを中心にアルカイダが形成されます。
当初の敵はソ連でした。
しかしソ連軍は1989年に撤退します。
そして1990~91年の湾岸危機で新たな問題が起こります。
イラクによるクウェート侵攻に備えるため、アメリカ軍などがサウジアラビアへ展開したのです。
湾岸戦争後も米軍の駐留が続きました。
ビン・ラーディンは、イスラームの聖地メッカとメディナを抱えるサウジアラビアに米軍が存在することを強く批判します。
やがてアルカイダは、
「中東の政権だけを攻撃するのではなく、それらを支えるアメリカそのものを攻撃する」
という戦略へ移っていきました。
💥 そして9.11へ
1998年、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が爆破されます。
2000年には、イエメンで米海軍駆逐艦コールが攻撃されました。
そして2001年9月11日。
アルカイダの実行犯19人が4機の旅客機をハイジャックします。
2機はニューヨークの世界貿易センターへ。
1機は国防総省ペンタゴンへ。
もう1機は乗客らの抵抗の後、ペンシルベニア州に墜落しました。
犠牲者は、実行犯を除いて2,977人。
世界は大きく変わります。
🇦🇫 アメリカ、アフガニスタンへ
当時アフガニスタンの大部分を支配していたのがターリバーンです。
アルカイダはアフガニスタンに拠点を持っていました。
9.11調査委員会も、ビン・ラーディンがターリバーン支配下のアフガニスタンで広い活動の自由を得ていたことを確認しています。(9/11委員会)
アメリカ政府はターリバーンに対し、アルカイダ指導部の引き渡しや訓練施設の閉鎖などを要求します。
交渉はまとまりませんでした。
2001年10月、アメリカとイギリスはアフガニスタンで軍事作戦を開始します。
地上では北部同盟などの反ターリバーン勢力が進撃。
ターリバーン政権は短期間で首都カブールなど主要都市を失いました。
しかし、ここで戦争は終わりません。
ターリバーンやアルカイダの戦闘員はパキスタン国境地帯などへ逃れ、長期の反乱戦へ移行します。
「政権を倒すこと」と「安定した国家を作ること」は、まったく別の難題だったのです。
🛡️ NATO第5条が史上初めて現実になる
9.11はNATOにも大事件でした。
北大西洋条約第5条には、
加盟国への武力攻撃は、加盟国全体への攻撃とみなす
という集団防衛の原則があります。
冷戦期には、ソ連が西ヨーロッパへ侵攻した場合を主に想定していました。
ところが史上初の発動対象になったのは、ソ連軍ではありません。
国際テロ組織によるアメリカ本土への攻撃でした。
正確には、NATOは9月12日に「攻撃が国外から指揮されたと確認されれば第5条を適用する」と決定し、10月2日に国外からの攻撃であることを確認して正式に適用しました。(NATO)
これは入試でも押さえたい重要ポイントです。
NATOは冷戦後、
「ソ連から西欧を守る同盟」
から、
「域外紛争やテロにも対応する安全保障機構」
へと役割を広げていったのです。
🇮🇶 では、なぜ次にイラク戦争になったのか?
ここで絶対に混同してはいけません。
アフガニスタン戦争とイラク戦争は同じ理由で始まったわけではありません。
9.11を実行したのはアルカイダです。
イラクのサダム・フセイン政権が9.11を共同計画・実行した証拠は確認されていません。
9.11調査委員会も、イラクとアルカイダの間に接触はあったものの、アメリカへの攻撃を共同で実施するような「協力的な作戦関係」は確認できなかったとしています。(9/11委員会)
ではなぜイラクが標的になったのでしょうか?
最大の争点となったのが、
大量破壊兵器(WMD)
でした。
☢️ イラクは本当に大量破壊兵器を持っていたのか?
ここは「YESかNOか」だけで答えると混乱します。
まず、
イラクが過去に大量破壊兵器を保有していたことは事実です。
1980年代、イラクはイラン軍などに化学兵器を使用しました。
1988年にはクルド人の町ハラブジャで化学兵器が使用され、多数の民間人が死亡しました。
さらに核兵器開発計画、生物兵器計画もありました。
湾岸戦争後、国連の査察によってこれらの兵器計画は大きく解体されます。
問題は、
「2003年の開戦時点で、米英政府が主張したような使用可能な大規模WMD備蓄が存在したのか」
です。
📜 国連決議1441と査察
2002年、国連安全保障理事会は決議1441を全会一致で採択しました。
イラクが軍縮義務に違反しているとし、完全な申告と査察受け入れの「最後の機会」を与えます。(デジタルライブラリー)
UNMOVICとIAEAによる査察が再開されます。
しかしアメリカとイギリスは、
「サダム政権は依然として大量破壊兵器を隠している」
と強く主張します。
一方、フランス、ドイツ、ロシアなどは、
「査察を続けるべきだ」
という立場を取りました。
国連安全保障理事会は分裂します。
そして米英側は、新たな明示的武力行使決議を成立させることができませんでした。
2003年3月、アメリカ、イギリスなどの有志連合がイラクへ侵攻します。
これがイラク戦争です。
🔍 そして見つからなかった「想定されたWMD備蓄」
サダム政権は短期間で崩壊します。
しかしその後、アメリカ主導の**イラク調査団(ISG)**が大規模な調査を行っても、開戦前に想定されていたような大規模な化学・生物兵器の備蓄は発見されませんでした。
デュエルファー報告は、サダム政権が将来制裁が解除された後に一部能力を再構築する意図や技術基盤を残していた可能性を論じていますが、これは「2003年時点で実戦使用可能なWMDを大量に備蓄していた」という主張とは別です。CIA自身の後年の検証でも、調査団が大規模なWMD備蓄を発見できなかったことが確認されています。(CIA)
つまり、
過去にWMDを持っていた
ことと、
2003年時点で米英政府が想定した規模のWMD備蓄があった
ことは、分けて考えなければなりません。
ここは難関大で非常に使える論点です。🧠
🏚️ サダム政権を倒した後、もっと難しい問題が始まる
2003年末、サダム・フセインは米軍に拘束されました。
その後、イラク側の法廷で裁かれ、2006年に死刑が執行されます。
しかし政権を倒した後のイラクは、安定へ向かいませんでした。
アメリカ主導の連合国暫定当局は、バアス党上層部を公職から排除する脱バアス化を進め、旧イラク軍なども解体しました。
これらの政策だけで後の混乱すべてを説明することはできませんが、統治能力の低下や旧体制関係者の疎外を深め、武装反乱が拡大する条件の一部になったと多くの研究で論じられています。
スンナ派武装勢力。
シーア派民兵。
アルカイダ系組織。
旧政権関係者。
さまざまな勢力が入り乱れます。
その中からイラクのアルカイダが台頭し、さらにシリア内戦などを経て、後の**「イスラーム国(IS)」**につながっていきます。
したがって、
「アメリカがイラク戦争を始めたからISが自動的に生まれた」
と一直線に考えるのも正確ではありません。
イラク国家の崩壊、宗派政治、旧軍人ネットワーク、アルカイダ系組織、シリア内戦など、複数の要因が重なっています。
🇷🇺 もう一つの「国家解体」の物語――ソ連とチェチェン
ここまで中東とバルカンを見てきました。
最後は旧ソ連です。
ソ連は一つの巨大な国家でしたが、その内部には15の連邦構成共和国がありました。
ロシア。
ウクライナ。
ベラルーシ。
バルト三国。
中央アジア諸国。
南コーカサス諸国などです。
1991年、これらが独立国家になります。
ところが、そのロシア自身も多民族国家でした。
ロシア連邦の内部には、さらに民族共和国が存在します。
その一つがチェチェンです。
ここでチェチェン人は考えます。
「ソ連の共和国は独立できた。では、なぜ自分たちはロシアから独立できないのか?」
この問いが、戦争へつながっていきます。
⛰️ チェチェンとロシアの関係は19世紀までさかのぼる
チェチェンは北コーカサスにあります。
チェチェン人はナフ系言語を話し、イスラーム、とくにスーフィー系の伝統が根づきました。
ロシア帝国は18世紀末から19世紀にかけてコーカサスへの支配を拡大します。
しかし、
「18世紀にチェチェンが簡単にロシア領になった」
わけではありません。
19世紀には長いコーカサス戦争が続きました。
イスラーム指導者イマーム・シャミールらはロシア帝国に激しく抵抗します。
シャミールは1859年に降伏し、北西コーカサスまで含むコーカサス戦争全体は1864年まで続きました。
したがってチェチェンとロシアの関係には、帝政期からの長い征服と抵抗の記憶が存在しました。
🚂 1944年、スターリンによる強制移住
そしてチェチェン史で絶対に外せないのが1944年です。
スターリン政権はチェチェン人とイングーシ人を、
「ナチス・ドイツに協力した」
として集団的に処罰しました。
住民はカザフスタンや中央アジアへ強制移住させられます。
ここでも注意が必要です。
「チェチェン全土がドイツ軍に占領され、その後住民全員が協力したため追放された」
という説明は誤りです。
ドイツ軍はコーカサスへ進撃しましたが、チェチェン全域を占領したわけではありません。
それにもかかわらず、民族全体が強制移住の対象とされました。
輸送中や移住先で多数の人々が死亡しました。
スターリン死後、フルシチョフによるスターリン批判を経て、1957年に帰還が認められます。
しかし戻ってみれば、かつての土地には別の住民が暮らしている。
この記憶は、後のチェチェン民族運動に非常に大きな意味を持つことになります。
🔥 1991年、チェチェンが独立を宣言
ソ連末期、チェチェン民族運動の指導者としてジョハル・ドゥダエフが台頭します。
1991年、チェチェン側はロシアからの独立を宣言します。
しかしロシア政府は認めません。
ここにはロシア側にも重大な事情がありました。
もしチェチェンの独立を認めれば、
「タタールスタンなど他の共和国も続くのではないか」
という恐れがありました。
ソ連が崩壊した直後です。
モスクワから見れば、
「次はロシア連邦そのものがバラバラになるのではないか」
という問題だったのです。
💣 第一次チェチェン戦争
1994年、エリツィン政権はチェチェンへロシア軍を投入します。
第一次チェチェン戦争の始まりです。
ロシア軍は圧倒的に強いはずでした。
ところが、首都グロズヌイで大苦戦します。
チェチェン戦闘員は市街戦を利用し、ロシア軍の装甲部隊に大損害を与えました。
その後ロシア軍は大規模な砲撃・空爆を行います。
グロズヌイは甚大な被害を受けました。
Human Rights Watchも当時、ロシア軍による無差別・不均衡な攻撃や多数の民間人被害を報告しています。同時にチェチェン側による人権・人道法違反も確認されています。(Human Rights Watch)
戦争は泥沼化。
1996年、ロシア軍は撤退し、チェチェンの最終的地位を先送りするハサヴユルト合意が成立します。
チェチェンは事実上、かなり大きな自立状態に入りました。
🛢️ 「チェチェン戦争は石油のためだった」は本当?
チェチェンには石油産業があり、カスピ海方面から黒海方面へ向かうパイプラインも通っていました。
したがってエネルギー問題が無関係だったわけではありません。
しかし、
「ロシアはパイプラインが欲しかったから戦争を始めた」
という説明だけでは足りません。
領土的一体性。
他共和国への独立運動拡大への恐怖。
エリツィン政権内部の政治。
北コーカサスの安全保障。
チェチェン内部の権力闘争。
経済・エネルギー。
これらを合わせて考える必要があります。
歴史では、
「原因はこれ一個です!」
という説明ほど要注意です。🚨
⚔️ 第二次チェチェン戦争へ
第一次戦争後のチェチェンでは、国家統治が安定しませんでした。
武装勢力や軍閥、誘拐犯罪などが問題となり、さらに国外から流入した武装ジハード主義者も活動します。
1999年、シャミール・バサエフやハッターブらの武装勢力が隣接するダゲスタンへ侵入しました。
これに続いて、モスクワなどロシア各地で集合住宅爆破事件が発生します。
ロシア政府は北コーカサスの武装勢力によるテロと断定しました。
一方、この事件、とくにリャザンでFSB職員が関与した「訓練」とされた出来事をめぐっては、ロシア治安機関の関与を疑う議論も長く存在します。
ただし現時点でも、この疑惑を最終的に確定できる公開証拠が存在するとは言えません。研究・調査報道では重大な疑問が指摘されていますが、「FSBによる自作自演が証明済み」と断定することも適切ではありません。ウィルソン・センターによる検討も、リャザン事件には深刻な疑問が残る一方、FSBによる爆破計画を決定的に立証したものではないと整理しています。(Wilson Center)
👤 プーチンの登場
この危機の最中に首相になったのがウラジーミル・プーチンです。
ロシア軍は1999年秋から再びチェチェンへ本格侵攻します。
これが第二次チェチェン戦争です。
2000年初頭にはグロズヌイがロシア軍によって再制圧されます。
エリツィンは1999年末に辞任し、プーチンが大統領代行に就任。
2000年3月の大統領選挙を経て、5月に正式に大統領へ就任しました。
その後ロシア政府は、ロシア軍が直接統治するだけでなく、モスクワに協力するチェチェン人勢力を利用する政策を進めます。
その中心になったのがアフマド・カディロフ、そして後のラムザン・カディロフです。
独立派武装勢力は次第に弱体化し、2000年代後半にはチェチェンでの大規模戦闘は大幅に縮小しました。
ただしカディロフ体制については、国際人権団体が長年にわたり、拷問、強制失踪、反対者への圧力など重大な人権侵害を報告しています。(Human Rights Watch)
🌐 では、冷戦後の世界では何が変わったのでしょうか?
ここまで一気に見てきました。
ユーゴスラビア。
コソボ。
湾岸戦争。
イスラーム復興。
アルカイダ。
9.11。
アフガニスタン。
イラク。
チェチェン。
一見するとバラバラな事件です。
しかし一本の線でつなげることができます。
冷戦時代、世界政治の中心には、
「アメリカとソ連の対立」
がありました。
ところが冷戦後は、
国家内部の崩壊。
民族主義。
宗派対立。
非国家武装勢力。
テロ組織。
人道危機。
破綻国家。
そして、
「外国で大量虐殺が起きたとき、国際社会は介入すべきなのか」
という問題が前面に出てきます。
🧠 「国家主権」の意味も揺れ始めた
ウェストファリア以来の国際政治では、国家主権は極めて重要です。
原則として、
「他国の国内問題に武力介入してはいけない」
という考えがあります。
ところがボスニアやルワンダで大量殺害が起こりました。
すると、
「政府が自国民を守れない、あるいは政府自身が重大な犯罪を行っている場合でも、外部は何もしないのか?」
という問いが出ます。
コソボ空爆は、その問題を極端な形で示しました。
そして21世紀になると、
保護する責任(Responsibility to Protect=R2P)
という考え方が発展します。
ただしR2Pは、
「人権を理由に好きな国を攻撃してよい」
という制度ではありません。
2005年の国連首脳会合で確認されたR2Pは、ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪から住民を保護する責任を中心とする考え方であり、武力行使の場合には国連憲章との関係が重要になります。
⚖️ 湾岸戦争とイラク戦争を比べると見えてくるもの
ここは入試論述にも非常に使いやすい比較です。
湾岸戦争では、イラクによるクウェート侵攻という明確な国家間侵略があり、安保理決議678による武力行使授権が存在しました。(デジタルライブラリー)
一方、2003年のイラク戦争では、決議1441によって査察強化と軍縮義務履行が求められましたが、新たな明示的武力行使決議は成立しませんでした。(デジタルライブラリー)
つまり、
1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦争は、同じ「アメリカ対イラク」でも国際的な法的・外交的枠組みが大きく違う
のです。
この比較ができるだけで、冷戦後史の理解が一段深くなります。
🎓 最後にこれだけは押さえたい!大学入試の核心ポイント
ユーゴスラビアはソ連の単純な衛星国ではなく、ティトーのもとで独自社会主義・非同盟路線をとりました。
ユーゴ崩壊は「昔からの民族憎悪」だけでは説明できず、経済危機・連邦制度・共産党支配の崩壊・政治エリートによる民族主義動員を組み合わせて理解します。
1991年にスロベニア・クロアチアが独立。続いて1992~95年のボスニア戦争が発生しました。
1995年のスレブレニツァ虐殺は国際司法機関によってジェノサイドと認定されています。
ボスニア戦争は1995年のデイトン合意で終結へ向かいました。
NATOは1994年のボスニアで創設以来初めて実戦交戦し、1999年にはコソボ紛争でユーゴスラビアを空爆しました。
1990年にイラクがクウェートへ侵攻し、国連安保理決議678を背景に1991年の湾岸戦争が起こりました。
イスラーム復興・イスラーム主義・武装ジハード主義・アルカイダは同じものではありません。
アルカイダは1980年代末に形成され、2001年に9.11を実行しました。
アメリカは2001年にアフガニスタン戦争を開始。NATOは9.11を受けて史上初めて第5条を適用しました。
2003年のイラク戦争では大量破壊兵器疑惑が主要争点となりましたが、侵攻後に想定されていた大規模WMD備蓄は発見されませんでした。
ソ連崩壊後、ロシア内部のチェチェンが独立を求め、1994~96年の第一次チェチェン戦争、1999年以降の第二次チェチェン戦争へつながりました。
冷戦後史全体を貫くテーマは、国家解体・民族主義・アメリカの一極優位・NATOの役割変化・国連と国際法・非国家主体によるテロ・国家主権と人道介入の緊張関係です。
🌏 冷戦の終わりは「歴史の終わり」ではなかった
1991年、世界は一つの時代を終えました。
しかし歴史そのものが終わったわけではありません。
むしろ、それまで巨大な氷の板の下に隠れていた亀裂が、冷戦という氷が溶けたことで次々と姿を現しました。
ユーゴスラビアでは、国家そのものが崩れました。
チェチェンでは、
「誰に独立する権利があるのか」
が戦争になりました。
コソボでは、
「国家主権と人命保護のどちらを優先するのか」
が問われました。
9.11では、国家ではない組織が世界最大の超大国を攻撃しました。
イラク戦争では、
「将来の脅威を理由に武力を使ってよいのか」
という問題が突きつけられました。
冷戦後の世界史を理解するために大切なのは、
「誰が善で、誰が悪だったのか」
という一問一答ではありません。
なぜその選択肢が生まれたのか。
なぜ人々はそれを選んだのか。
そして、その選択が次の問題をどう生み出したのか。
その連鎖を追うことです。
冷戦後の世界は、平和にならなかったから重要なのではありません。
「戦争とは何か」「国家とは何か」「国際社会はどこまで他国に介入できるのか」というルールそのものが揺れ始めた時代だったからこそ、重要なのです。 🌍
そして、その問いの多くは、21世紀の現在まで続いています。

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