🚢運河を国有化したら、なぜ戦争に?――スエズ危機から「六日戦争」まで、中東の地図が変わった11年間
地図で見ると、スエズ運河は細い一本の水路です。けれど1956年、この運河をめぐる決定が、エジプト、イスラエル、イギリス、フランス、さらにアメリカとソ連を巻き込む国際危機になりました。🌍
それから11年後の1967年。今度はわずか6日間の戦争によって、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原の支配関係が一変します。「どちらが勝ったか」だけでは、この歴史の大切な部分は見えてきません。なぜ戦争に至り、何が戦後まで残ったのかを、一緒にたどっていきましょう。🧭
1 まず、舞台を頭の中に描こう 🗺️
エジプトの北東には、地中海と紅海を結ぶスエズ運河があります。船はここを通れば、ヨーロッパとアジアの間をアフリカ南端まで回らずに往来できます。運河の東に広がる砂漠地帯がシナイ半島。さらに東へ進むとイスラエルと、地中海沿いの細長いガザ地区があります。
イスラエルの東にはヨルダン川が流れ、その西側にヨルダン川西岸が位置します。エルサレムの旧市街を含む東エルサレムもこの地域にあります。北東のゴラン高原は当時シリアの支配下にありました。シナイ半島の南端近く、アカバ湾の入口にあるチラン海峡は、イスラエル南部の港エイラートへ向かう船にとって重要な通路です。🚢
この位置関係が分かると、あとで「なぜスエズ運河とチラン海峡が争点になったのか」「1967年にどの地域が占領されたのか」が、ずっと理解しやすくなります。
2 出発点は1948年より前にある 📜
第一次世界大戦まで、パレスチナを含む中東の広い地域はオスマン帝国の領域でした。戦争中、イギリスはアラブ側と独立をめぐる交渉をし、フランスなどとはオスマン帝国領の将来について取り決め、1917年にはパレスチナにおける「ユダヤ人の民族的郷土」への支持を表明します。フサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言です。
入試ではこの三つを並べて覚えることがあります。ただし、三つの文書だけで現在の紛争のすべてが決まったと考えるのは早計です。戦後のイギリスによる委任統治、ユダヤ人移民の増加、現地のアラブ人住民とユダヤ人社会の政治的対立、第二次世界大戦中のホロコースト、国際社会の判断が重なっていきました。土地をめぐる問題には、そこに暮らす人々それぞれの歴史がありました。
1947年、国連総会は決議181によって、イギリス委任統治下のパレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分け、エルサレムを特別な国際的管理の下に置く構想を採択しました。ユダヤ側指導部は分割を受け入れ、アラブ側は不公平だとして反対します。決議のあと、まず現地で両住民社会の間の戦闘が広がり、1948年5月のイスラエル独立宣言とイギリス統治の終了後、周辺のアラブ諸国の軍も参戦しました。これが第1次中東戦争です。開戦を「独立の翌日に初めて始まった」と覚えると、すでに続いていた現地の戦闘を見落とします。[1]
1949年までの休戦の結果、イスラエルは国連分割案で予定された範囲より広い地域を支配しました。一方、ヨルダン川西岸と東エルサレムはヨルダンの支配下に、ガザ地区はエジプトの管理下に置かれます。パレスチナ人の大規模な離散はナクバ(大災厄)と呼ばれ、約70万人規模が故郷を離れました。離れた理由や個々の地域で起きたことは一様ではありませんが、故郷に戻れない人々が生まれた事実は、以後の歴史を考える出発点です。🏠[2]
3 エジプト革命――「ナセル大統領」は一日で生まれたの? 🇪🇬
第1次中東戦争での敗北は、エジプトの王政への不満を強めました。ただし敗戦だけで革命が起きたわけではありません。政治腐敗への批判、社会格差、イギリスの影響力への反発もありました。
1952年、軍人の自由将校団がファールーク国王を退位させます。翌1953年、王政は廃止され、共和国が成立しました。初代大統領はナセルではなくムハンマド・ナギブです。自由将校団の中心人物の一人だったガマル・アブドゥル・ナセルはナギブとの権力闘争を経て実権を握り、1956年に正式に大統領になります。1952年の革命、1953年の共和国成立、1956年の大統領就任は、区別して押さえましょう。[3]
ナセルが求めたのは、外国の影響から距離を置き、農業と工業を発展させることでした。そこで重視されたのが、ナイル川のアスワン・ハイダムです。洪水を調節し、水を農業に使い、発電して工業化を進める巨大事業でした。🌊⚡
4 ダムへの資金援助が揺らぎ、運河が争点になる 💰
ダム建設には巨額の資金が必要です。エジプトはアメリカ、イギリス、世界銀行との間で援助や融資を交渉しました。しかし冷戦下、エジプトは1955年にチェコスロヴァキアを通じて東側の兵器を購入し、1956年には中華人民共和国も承認します。西側との関係が悪化し、アメリカとイギリスは1956年7月、ダム支援の申し出を取り下げました。世界銀行の融資計画も実現しませんでした。「世界銀行だけが融資を断った」とすると、関係国の判断が見えなくなります。[4]
1956年7月26日、ナセルはスエズ運河会社の国有化を宣言します。会社の収益をダム建設に充てる構想でした。ここで押さえたいのは、運河のある土地そのものと、運河を管理・運営して利益を得る会社とは別の話だということです。エジプト政府は自国の主権と経済開発を主張しましたが、英仏は運河の運営と自国の利害が脅かされると受け止めました。🚢[4]
なぜイギリスとフランスは強く反発したのでしょう。イギリスにとって運河は通商と中東への交通を支える重要な道でした。フランスは、ナセルがフランス領アルジェリアの独立運動を支援していることにも不満を持っていました。そしてイスラエルには、ガザ周辺での越境攻撃、エジプトとの国境紛争、チラン海峡の航行、エジプトの軍備増強への強い懸念がありました。三国の目的は同じではありませんでしたが、エジプトと戦う点で利害が一致したのです。[5]
5 1956年、第2次中東戦争――「仲裁」を装った共同作戦 ⚔️
英仏とイスラエルは密かに軍事行動を協議しました。計画は、まずイスラエルがシナイ半島に進軍し、英仏が「戦闘を止めて運河を守る」という名目で両国に運河周辺からの後退を要求し、拒否を口実に軍事介入するというものです。イスラエルも自国の目標を持って参加していました。[5]
10月29日、イスラエル軍がシナイ半島へ侵攻。続いて英仏が最後通牒を出し、エジプトへの空爆と運河地帯への上陸を進めます。戦場では三国側が優勢でした。しかし、軍事的に進めることと、国際政治で目的を達成することは別でした。
アメリカのアイゼンハワー政権は、英仏の軍事行動を支持しませんでした。植民地支配から独立しつつある国々の反発や、ソ連の影響力拡大を懸念したからです。同じ時期にソ連がハンガリーの蜂起を武力で抑えており、その介入を批判するアメリカにとって、英仏の侵攻を擁護することは外交上も難しい判断でした。理由を「ハンガリーに世界の目を向けたかったから」だけに絞ることはできません。ソ連もエジプトを支持し、英仏に強い警告を発しました。🇺🇸🇸🇺[4]
国連では停戦と撤退を求める動きが強まり、第1次国連緊急軍(UNEF)が設けられました。また運河の閉鎖やポンドへの不安によって、イギリス経済への圧力も高まります。アメリカの協力を得にくいなか、英仏は11月に停戦に応じ、年末までに撤退しました。イスラエルの撤退は翌1957年3月です。三国が同じ日に撤退したわけではありません。[6][7]
エジプトは戦闘で大きな打撃を受けました。それでもナセルは運河の国有化を維持し、アラブ世界での政治的威信を高めます。他方、英仏がアメリカの意向を無視して中東の秩序を決められないこともはっきりしました。ここで「英仏の力が一夜で消滅した」と考える必要はありません。旧来の植民地大国の力と、冷戦下の超大国の力との関係が変わったのです。1957年、アメリカは中東への関与を掲げるアイゼンハワー・ドクトリンを打ち出します。[8]
6 1956年で物語は終わらない――パレスチナ人はどこに? 🕊️
国境を挟んでエジプトとイスラエルが向き合う間にも、1948年に故郷を離れたパレスチナ人の問題は残りました。ナセルはアラブ諸国の連帯を唱え、1958年にはエジプトとシリアがアラブ連合共和国をつくります。しかしシリアは1961年に離脱し、アラブ諸国の政治的利害は必ずしも一致しませんでした。エジプトはイエメンの内戦にも深く関わります。アラブ・ナショナリズムは影響力を持ちながら、その実現方法をめぐる対立も抱えていました。[9]
1964年、アラブ諸国の働きかけを背景にパレスチナ解放機構(PLO)が成立します。初代の指導者はアフマド・シュケイリです。一方、ヤーセル・アラファトらのファタハは、パレスチナ人自身が主導する運動を重視し、PLOの当初の指導部とは異なる立場を取りました。1967年の敗戦後にファタハの影響力が増し、アラファトは1969年にPLO議長となります。PLOの政治活動や武装活動は時期や構成組織によって異なり、「ある日突然、別の性格の組織に変わった」とは説明できません。[10]
7 1967年5月――危機はどう積み上がった? 🔥
1956年の撤退後も、イスラエルとシリアの国境では衝突が続き、水資源の利用や非武装地帯をめぐる対立も深まりました。アラブ諸国間の競争、イスラエルの安全保障上の不安、冷戦下の米ソの働きかけが重なります。どれか一つだけが、1967年の開戦理由ではありません。[9]
5月、ソ連は「イスラエル軍がシリア国境に大部隊を集めている」とエジプト側などに伝えます。部隊集結の情報は誤りでした。ナセルはシナイ半島へ軍を進め、エジプト領内に配置されていたUNEFの撤収を求めます。国連事務総長ウ・タントは、部隊を一部だけ残すことはできないとして撤収させました。続いてエジプトはチラン海峡をイスラエル関係の船舶に閉ざすと宣言し、イスラエルはこれを深刻な脅威と受け止めます。🚢[11]
なぜソ連から誤った情報が出たのか、また各指導者がどの段階でどの程度の戦争を想定したのかについては、研究者の説明が一つに定まっていません。公開された資料を用いる研究では、誤情報、政治的威信、軍事的判断、各国間の関係が絡み合ったことが重視されています。ここを「全員が戦争を避けたかった」「全員が初めから領土拡大を計画していた」のどちらか一方だけで説明することはできません。[12][13]
アメリカのジョンソン政権は海峡の問題を外交的に解こうとしましたが、打開には至りません。5月末にはヨルダンもエジプトと防衛協定を結び、イスラエルでは予備役の動員が続きました。そしてイスラエル指導部は、先に空軍を攻撃する決断をします。[11]
8 6日間で何が起きたのか ✈️
1967年6月5日、イスラエル空軍はエジプトの飛行場を先制攻撃しました。エジプト空軍は地上で大きな損害を受け、イスラエル軍は空で優位に立ちます。ここから第3次中東戦争(六日戦争)が始まりました。
エジプト方面では、イスラエル軍がシナイ半島へ進み、ガザ地区も占領します。ヨルダン方面では戦闘が拡大し、イスラエルはヨルダン川西岸と東エルサレムを占領しました。さらに終盤にはシリア方面で攻勢をかけ、ゴラン高原を占領します。6月10日までに戦闘は終息しました。[11]
ここで「どこから、何を占領したか」を言葉で確かめましょう。エジプトからはシナイ半島、エジプトが管理していたガザ地区からはガザ地区、ヨルダンが支配していた地域からはヨルダン川西岸と東エルサレム、シリアからはゴラン高原です。ガザ地区を忘れたり、西岸と東エルサレムを別の国から占領したように覚えたりすると、地図の意味が崩れてしまいます。🗺️[14]
この戦争を「6日で終わったから短い出来事」と捉えることはできません。新たな避難・移動が生じ、ヨルダン川西岸とガザ地区に住む多くのパレスチナ人はイスラエルの軍事占領下に置かれました。戦闘が終わっても、人々の暮らしを左右する問題は残り続けます。[2]
9 戦争のあと、「土地」と「平和」はどう結びついた? 📄
1967年11月、国連安全保障理事会は決議242を採択しました。決議は戦争によって領土を得ることの不容認を前文で確認し、イスラエル軍の占領地からの撤退と、地域のすべての国の主権・領土保全、平和のうちに生存する権利を柱としました。難民問題の公正な解決にも触れています。のちに「土地と平和の交換」と呼ばれる外交の基本的な考え方です。[15]
しかし、決議の言葉を各当事者がどう解釈するか、撤退や国境の確定をどの順番で進めるかについては意見が分かれました。英語とフランス語の表現だけを取り出して「一語の有無ですべての法的結論が決まる」とする説明は、交渉全体を十分に伝えません。また決議では、パレスチナ人は主に難民問題との関係で言及され、民族としての政治的自決は明示されていません。この点も、パレスチナ人自身が政治的な代表と権利を求める流れを考えるうえで大切です。[15][16]
エジプトとシリアにとっては失った地域をどう取り戻すかが課題となり、1973年の第4次中東戦争へつながっていきます。イスラエルにとっては占領地をめぐる安全保障と政治の問題が生じ、パレスチナ人には故郷、生活、政治的権利をめぐる問題がさらに切実になりました。1956年と1967年の二つの戦争は、終わった瞬間に「解決済み」になったわけではなかったのです。
10 入試では、年号を「原因と結果」で結ぼう ✍️
1952年のエジプト革命から、1956年のスエズ運河会社国有化と第2次中東戦争へ。ここでは「ダム資金」「運河」「脱植民地化」「米ソと英仏の立場」をつなぎます。1964年にはPLOが成立。1967年の第3次中東戦争では、開戦前の危機と占領された五つの地域を地図で確認し、同年の安保理決議242まで一息に説明できるようにしましょう。
難関大学の論述なら、たとえば「スエズ危機はなぜ英仏の影響力の転機となったか」「1967年の戦争がパレスチナ問題をどう変えたか」と問われます。答えるときは、単に「英仏が敗れた」「イスラエルが勝った」と書くのでは足りません。国有化から共同侵攻へ、米国・国連の圧力から撤退へ、占領から難民・自決・和平交渉の問題へという因果関係を示すと、歴史の筋道が伝わります。📚
一本の運河をめぐる争いから、広い地域の境界と暮らしを左右する戦争へ。その変化を理解する鍵は、地図を覚えることと同じくらい、それぞれの人が何を守ろうとし、どの判断が次の危機を招いたかを追うことにあります。
参考資料・さらに読むために 📚
[1] 国際連合「パレスチナ分割決議181」/国連パレスチナ問題サイト「History of the Question of Palestine」。
[2] 国連パレスチナ問題サイト「Origins and Evolution of the Palestine Problem, Part II」。
[3] 米国務省編『Foreign Relations of the United States』1954年11月のエジプト情勢に関する公文書。
[4] 米国務省歴史局「The Suez Crisis, 1956」。
[5] 米国務省歴史局「The Suez Crisis, 1956」。
[6] 国際連合平和維持活動「First United Nations Emergency Force (UNEF I)」。
[7] James M. Boughton, Northwest of Suez: The 1956 Crisis and the IMF(IMF、2000年)。
[8] 米国務省歴史局「The Eisenhower Doctrine, 1957」。
[9] Wm Roger Louis、Avi Shlaim編『The 1967 Arab-Israeli War: Origins and Consequences』(Cambridge University Press、2012年)。リンク先には各国・地域を扱う目次があります。
[10] 同書「The Palestinian National Movement」章、および国連パレスチナ問題サイトの年表。
[11] 米国務省歴史局「The 1967 Arab-Israeli War」。
[12] Rami Ginat「The Soviet Union: The Roots of War and a Reassessment of Historiography」(同書所収、2012年)。
[13] Guy Laron『The Six-Day War: The Breaking of the Middle East』(Yale University Press、2017年。リンク先は2018年刊の版)。冷戦と各国の政治・軍の判断を視野に入れた研究。
[14] 米国務省歴史局「The 1967 Arab-Israeli War」/国連パレスチナ問題サイト「History of the Question of Palestine」。
[15] 国際連合「国連安全保障理事会決議242(1967年)」原文。
[16] 国連パレスチナ問題サイト「The United Nations and the Question of Palestine」。

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