第一章 直線上の途方に暮れる夜
未来へ進め、と誰もが言う。
先生は進路希望調査票を配りながら言った。
「二年生のうちから、三年後、五年後を考えておくことが大切です」
母は朝食のトーストを焼きながら言った。
「資格は早いうちに取ったほうがいいよ」
電車の広告も、スマートフォンのニュースも、学校の廊下に貼られた進学実績も、みんな同じ方向を指差しているように見えた。
前へ。
もっと速く。
昨日より効率的に。
去年より優秀に。
立ち止まるという選択肢だけが、最初から印刷されていない。
だから私は、夜になると星を見る。
星見高校の屋上。
錆びたフェンスの向こうに、山の稜線が黒々と沈んでいる。
その上を星々がゆっくりと移動していく。
祖父から譲り受けた真鍮製の望遠鏡は、今どきの電子制御も自動追尾もない。鏡筒には細かな傷があり、接眼部を回すたび、金属の擦れる古い音がした。
でも私は、その不便さが好きだった。
星は逃げない。
私が追わなければ、視野から外れていく。
だから手で追う。
少しずつ。
焦らず。
星のほうに自分の時間を合わせていく。
その夜、北極星の周囲を確認していたときだった。
「それ、まだ使えるんだ」
突然、背後から声がした。
私は危うく接眼レンズに額をぶつけそうになった。
振り返ると、給水塔の影に男子生徒が立っていた。
細い身体。
黒い髪。
街灯の届かない場所にいるせいか、その顔だけが夜の底に沈んでいるように見えた。
転校生だった。
篝朔。
今朝、担任が教壇の横に立たせて紹介した名前。
クラスの空気が一瞬だけ不自然に硬くなったことを、私は覚えていた。
星見町で「篝」という名字は、三十年前の火事と同じ意味を持つ。
そういう町だった。
「勝手に屋上へ入ったら怒られるよ」
私が言うと、朔は鼻で笑った。
「君もだろ」
「私は天文部」
「部員一人でも?」
「一人だからこそ、活動場所は独占できる」
少し間があった。
朔は笑わなかった。
でも、ほんの少しだけ目の奥が緩んだ気がした。
私はもう一度望遠鏡へ目を戻した。
「見る?」
「星?」
「ほかに何を見るの」
「この町を」
その言葉で、私は再び振り返った。
朔の手には、見慣れない筒状の機械があった。
黒い金属。
レンズ。
微調整用の歯車。
古い軍用品を思わせる無骨な形。
けれど、妙に精巧だった。
「なに、それ」
「望遠鏡みたいなものだよ」
「違う」
私は近づいた。
「これは、人を見るための光学系だ」
朔の目がわずかに動いた。
「分かるんだ」
「祖父が光学技師だったから」
私は機械の前面を覗いた。
二枚のレンズが、奇妙な角度で組み合わされていた。
一つの方向を見るための構造ではない。
二つの視点を重ね合わせ、距離を測定するような構造。
「測距儀?」
「似たようなもの」
「何に使うの」
朔は屋上の向こうを指差した。
山裾に広がる星見町。
駅前の再開発区域。
市役所。
ホテル。
建設会社の本社。
そして旧市街の黒い一角。
三十年前の大火で焼け残った煉瓦壁だけが、夜の中に骨のように残っている。
「この町の嘘を見る」
朔は言った。
声に熱はなかった。
熱がないからこそ、怖かった。
「篝家が全部悪かったことになってる。でも、それで得した人間がいる。火事のあと土地を買い叩いたやつ。記録を消したやつ。証言を変えさせたやつ」
「それを調べてるの?」
「調べ終わってる」
彼は黒い機械を軽く持ち上げた。
「今度は見せる番だ」
その瞬間、私は分かった。
彼が星を見に来たのではないことを。
「何をするつもり?」
「この街の歴史を吹き飛ばす」
朔は笑った。
それは笑顔ではなかった。
「過去が僕を許さないなら、僕も未来なんていらない」
夜空では、星が静かに巡っていた。
私は反射的に言った。
「未来しかないって決めつける必要はないよ」
朔が眉を寄せる。
「意味分かんない」
「時間って、そんなにまっすぐじゃないから」
私は北の空を指した。
「星は一晩かけて戻ってくる。でも、本当は同じ場所には戻ってない」
「……天文部の勧誘?」
「違う」
「じゃあ何」
少し考えてから私は答えた。
「たぶん、私もまだ分かってない」
その日から、朔は時々屋上へ来るようになった。
星を見るわけではない。
私の隣で、街を見る。
私は宇宙を見て、彼は地上を見る。
同じレンズの向こうなのに、視線の向きだけが反対だった。
ある夜、私は彼の持っている光学機器を詳しく見せてもらった。
真鍮製の内部フレーム。
二系統の光路。
異常なほど丁寧な研磨。
そして底面に、小さな刻印があった。
二つの名字。
ひとつは篝。
もうひとつは、見たことのある名前だった。
天野。
私の名字だった。
「これ……」
朔は何も言わなかった。
風が吹いた。
古い望遠鏡の鏡筒がかすかに鳴った。
三十年前より、もっと昔。
私たちの家は、一つのものを一緒に作っていた。
その事実だけが、錆びた金属の中に眠っていた。
第二章 烙印と、切断の道具
星見町では、過去は記憶ではなく地形だった。
旧市街へ行けば分かる。
焼け落ちた時計店の壁。
黒く焦げた石垣。
途中で途切れた路地。
火災の慰霊碑。
篝家の旧宅跡。
三十年も経っているのに、その一帯だけ時間が止まっている。
けれど市は、その停止を終わらせようとしていた。
「旧市街再生プロジェクト」。
駅前の巨大スクリーンには、白い商業施設の完成予想図が映っていた。
ガラス張りの建物。
広場。
ホテル。
ショッピングモール。
そして隅に、小さくこう書かれていた。
《過去を越え、新しい星見町へ》
生徒会長の白石鏡花は、全校集会でその計画を説明した。
壇上に立つ彼女は、隙がなかった。
長い髪。
よく通る声。
整った姿勢。
「私たちは、いつまでも三十年前に縛られているべきではありません」
体育館の空気が静まる。
「傷跡を残し続けることが、亡くなった方々への供養でしょうか。私はそう思いません。私たちには未来があります」
拍手が起こった。
私は拍手できなかった。
鏡花が間違っているとは思わなかった。
むしろ正しかった。
正しいから困るのだ。
「前へ進む」という言葉は、いつだって正しい顔をしている。
その日の放課後、私は鏡花に呼び止められた。
「天野さん」
「はい」
「篝くんと一緒にいるそうね」
質問ではなかった。
「屋上で会うだけ」
「あなたは知らないかもしれないけど、あの家のことで傷ついた人は今もいるの」
「知ってる」
「なら」
「でも朔くんは三十年前には生まれてない」
鏡花の表情が固まった。
「血筋という話をしているんじゃないわ」
「じゃあ何の話?」
答えはすぐには返ってこなかった。
その沈黙の中にこそ、答えがある気がした。
過去は人の名字に付着する。
個人が何をしたかではなく、何を背負っているかで人を見る。
「私は過去を消したいわけじゃない」
鏡花はやがて言った。
「でも、人は傷口を見続けていたら前へ進めないでしょう」
私は慰霊碑のある方角を見た。
「傷口をコンクリートで埋めたら、治ったことになるのかな」
鏡花は答えなかった。
朔の隠れ家は、旧市街の時計店跡の地下にあった。
半地下になった倉庫。
古い工具。
大量の資料。
ノートパソコン。
壁に貼られた新聞記事。
土地登記。
火災当時の写真。
そして机の中央に、分解された双極のレンズ。
「勝手に入るなよ」
背後から朔の声がした。
「鍵開いてた」
「だからって入る?」
「入る」
「怖……」
「君にだけは言われたくない」
私は机の上に広げられた図面を見た。
紙は茶色く変色している。
タイトルには、旧字体で《恒星視差観測装置 試作型》と書かれていた。
「軍事用じゃない」
朔が黙る。
「少なくとも最初は違った」
ページをめくる。
観測地点A。
観測地点B。
二地点から同じ星を測定し、その視差から距離を求める。
開発者欄。
天野孝一。
篝冬一郎。
二つの名字。
「戦争中、接収されたみたいだ」
朔が言った。
「軍が測距装置として使えることに気づいた。それで改造された」
「星までの距離を測るものが、人までの距離を測るものになった」
「そういうこと」
私はレンズに触れた。
冷たい。
物には善悪がない。
それを何を見るために使うか。
何を測るために使うか。
誰へ向けるか。
それだけで、同じレンズが星を探す道具にも、人間を狙う道具にもなる。
「これ、戻せるよ」
朔を見る。
「最初の形に」
「戻してどうする」
「星を見る」
朔は笑った。
今度の笑いには苛立ちがあった。
「君は簡単でいいよな」
「簡単じゃないよ」
「僕の祖父は人殺しって言われた。父親はその名字だけで仕事を断られた。母親は町を出た。僕は転校初日に『火付けの子孫』って言われた」
その声に、初めて熱が混じった。
「星を見ればそれが消えるの?」
「消えない」
私は答えた。
朔が黙った。
「消しちゃいけないと思う」
「……何?」
「火事も、君の家がしたことも、街が君の家にしたことも。全部」
私は図面を指で押さえた。
「忘れるんじゃなくて、抱えたまま、これが最初に何だったのかを思い出す」
「そんなの綺麗事だ」
「そうかもしれない」
「過去を抱えるなんて言うやつは、だいたい背負ってない側なんだよ」
その言葉は刺さった。
正しかった。
だから私は言い返せなかった。
しばらくして、朔は目を伏せた。
「……悪い」
「謝らなくていい」
「でも」
「今のは覚えておく」
私は言った。
「たぶん、忘れないほうがいい言葉だから」
朔が私を見る。
私はもう一度、図面を見た。
切断の道具になる前。
二人の人間が、同じ星を見るために作ったもの。
その始まりを。
第三章 あまねく闇を包み込む光
彗星が来る夜、星見町は祭りのようだった。
千年の旅人。
正式名称より、町ではその呼び名のほうが有名だった。
実際の公転周期は千年より短い。
でも人間は、数字より物語のほうをよく覚える。
旧市街では、再開発の起工式が予定されていた。
第一段階として、火災で残った煉瓦壁を解体する。
大型スクリーン。
照明。
来賓席。
市長の挨拶。
空には千年の旅人。
地上では三十年の傷を壊す。
あまりにも象徴的すぎて、私は笑えなかった。
朔がいない。
学校にも。
屋上にも。
メッセージにも返事がない。
嫌な予感がした。
私は旧市街へ走った。
煉瓦壁の裏側。
立入禁止区域。
時計店跡。
地下室には誰もいなかった。
ただ机の上に、一枚の紙が置いてあった。
《全部見せる》
それだけ。
パソコンもない。
双極のレンズもない。
私は走った。
起工式が始まっていた。
鏡花がステージ脇に立っていた。
その横に市長。
建設会社の幹部。
巨大スクリーンには未来の街。
私は観客の中を押し分けた。
「鏡花!」
彼女が驚いて振り向く。
「朔くんを見なかった?」
「どうして」
「何かする」
その瞬間だった。
スクリーンが暗転した。
ざわめき。
映像が乱れる。
黒い画面に文字列が流れ始める。
会計資料。
土地取引記録。
内部メール。
三十年前の火災後に行われた不自然な土地取得。
観衆がどよめく。
市長の顔色が変わった。
鏡花が青ざめた。
「……お父さん?」
私はスクリーンを見上げた。
朔だ。
これは復讐だ。
でも事実でもある。
止めれば、隠蔽に加担することになる。
止めなければ、彼はこの街と一緒に自分自身まで燃やそうとする。
私は迷った。
その瞬間、空に彗星が現れた。
尾を引く光。
何百年もかけて帰ってきた旅人。
戻ってきたように見えて、同じ場所には戻っていない。
私は顔を上げた。
そして気づいた。
屋上。
旧天文台。
廃墟の高台。
そこに小さな人影が見えた。
「朔!」
息を切らして階段を上った。
旧天文台の屋上に彼はいた。
双極のレンズ。
ノートパソコン。
送信装置。
街中のスクリーンへデータを流している。
「来ると思った」
「止めて」
「嫌だ」
「資料を公開するなとは言ってない」
朔が振り返った。
「じゃあ何を止めるんだよ」
「君が全部終わらせようとすること」
「終わらせるんだよ」
朔は街を見下ろした。
「篝の名前も、白石の名前も、この町の綺麗な歴史も。全部ぐちゃぐちゃにしてやる」
「そのあと君は?」
答えない。
「朔くんはどうするの」
「知らない」
「嘘」
風が吹き抜けた。
彗星の光がレンズの縁に反射した。
私は一歩近づいた。
「君は未来なんていらないって言った」
「だから?」
「未来が欲しくないんじゃない」
私は言った。
「この過去の続きとしてしか未来がないと思ってるから、いらないんでしょう」
朔が目を見開いた。
私は双極のレンズを掴んだ。
「なにすんだ!」
「借りる」
「返せ!」
「最初に戻すの」
「何を!」
「これの意味を!」
私は走った。
旧天文台の投影室。
数日前、図面を見て気づいていた。
この装置の光学系は逆方向にも使える。
光を集めるだけではなく、像を投射できる。
私は祖父の望遠鏡から持ち出した投影ユニットを接続した。
朔が追ってくる。
「何する気だ」
「星を見る」
「今そんな場合かよ!」
「だから今なんだよ!」
私は叫んだ。
自分でも驚いた。
こんな大声を出したのは初めてだった。
「みんな地面しか見てないから!」
スイッチを入れる。
古い機械が震えた。
光が生まれた。
最初は細い線。
やがてそれは双極のレンズを通り、巨大な光束になった。
そして旧市街の煉瓦壁へ届いた。
そこに、
星が現れた。
観衆が静まり返った。
壁一面に、古い星座図が映っていた。
最新の星図ではない。
百年以上前。
星見町がまだ町と呼ばれる前、この土地に最初の観測所を作った人々が記録した夜空。
線で結ばれた星々。
古い文字。
その下に、
《共同観測所建設記念》
の文字。
天野。
篝。
白石。
その他、いくつもの名字。
火災で争うより前。
土地を奪い合うより前。
誰が加害者で誰が被害者になるか決まるより前。
同じ空を見上げていた人々。
「これ……」
朔の声が震えた。
私は投影角度を下げた。
星図の光が、煉瓦壁の亀裂を照らした。
その奥。
解体工事の試掘で露出していた石組み。
水面。
地下から湧き続けている、透明な水。
町の最初の観測所は、湧水池のそばに建てられていた。
水面に星図が映る。
空の彗星。
壁の星。
地下の水。
三つの光が重なった。
誰も喋らなかった。
私は朔を見た。
「全部、この町だよ」
火事も。
嘘も。
篝家の責任も。
白石家の責任も。
泣いた人も。
憎んだ人も。
逃げた人も。
忘れたかった人も。
「全部含めるの?」
朔が呟く。
「うん」
「そんなの重すぎるだろ」
「重いよ」
私は答えた。
「だから一人で持たなくていいんじゃない」
そのとき、階段から足音がした。
鏡花だった。
彼女は息を切らしていた。
「データ……」
朔を見る。
「全部、本物なの?」
朔は黙って頷いた。
鏡花は目を閉じた。
長い沈黙。
「じゃあ、調べる」
朔が顔を上げる。
「え?」
「父でも、市でも、必要なら第三者でも。全部調べる」
「自分の親父だぞ」
「だから何」
鏡花の声は震えていた。
「過去を消すって言っておいて、自分に都合の悪い過去だけ消したら、それこそ最低でしょう」
彼女は壁の星図を見上げた。
「私は……前に進みたかった」
誰に言うでもなく呟いた。
「でも、前ってどっちだったんだろうね」
彗星が夜空を渡っていった。
第四章 始まりへの帰還
町は一夜では変わらなかった。
奇跡なんて、現実ではだいたい事後処理が長い。
第三者委員会が設置された。
再開発事業は一時停止。
三十年前の火災後の土地取引も調査対象になった。
篝家の責任が消えたわけではなかった。
新しく判明した事実が、過去の罪を帳消しにしてくれるわけでもない。
朔に謝らない人もいた。
篝の名字を聞くだけで顔をしかめる人もいた。
逆に、篝家を完全な被害者として祭り上げようとする人まで現れた。
「人間って、すぐ善悪二つに分けたがるんだな」
朔が言った。
私たちは湧水池の縁に座っていた。
「楽だからね」
「天野も?」
「私は三つぐらいに分ける」
「大差ないじゃん」
「じゃあ四つ」
「増やせばいい問題じゃないだろ」
朔が笑った。
ちゃんとした笑顔だった。
それを見るのは初めてだった。
再開発計画は全面的に見直されることになった。
旧市街を完全保存するわけでもない。
全部取り壊すわけでもない。
危険な建物は撤去し、残せる壁は補強する。
湧水池を中心に、小さな公園と資料館を作る。
名前はまだ決まっていない。
鏡花は「星見原点公園」を推していたが、朔が「センスが市役所」と酷評したため保留になっている。
双極のレンズは、学校へ寄贈された。
天文部の備品になった。
もっとも、部員はまだ二人だけだ。
「入部届、出してないけど」
「毎日来てるじゃん」
「僕は見学者」
「半年間?」
「長期見学」
「部費払って」
「そこ?」
ある日の夕方、朔が湧水池を見ながら言った。
「罪を知る前に戻れたらって、昔は思ってた」
私は黙って聞いた。
「篝って名字を知らない場所に行って、誰にも何も言われない人間になれたらって」
水面に春の光が揺れている。
「でも、それじゃたぶん違うんだよな」
「何が?」
「何も知らなかった頃に戻るのと、知ったあとでもう一度始めるのは」
彼はしばらく考えた。
「同じじゃない」
私は頷いた。
それが何なのか、私はずっと言葉にできなかった。
無垢というものは、知らないことだと思っていた。
でも違うのかもしれない。
残酷さを知らないから世界を信じることと、
残酷さを知ったあとで、それでも世界を信じることは、
見た目が似ていてもまったく違う。
前者には選択がない。
後者には選択がある。
知ったうえで、
愛する。
知ったうえで、
作る。
知ったうえで、
もう一度始める。
それは最初の無垢より、きっと傷だらけだ。
でも、その傷があるからこそ強い。
「ねえ朔くん」
「何」
「始まりって、一回しかないと思う?」
「普通はそうだろ」
「私は違うと思う」
湧水池の底から、水が湧き続けていた。
同じ場所から。
でも同じ水ではない。
「始まりは、何度でも作れる」
私は言った。
朔はしばらく水面を見ていた。
「それ、結構ずるい考え方だな」
「そう?」
「人生失敗しても『はい、新しい始まりです』って言える」
「便利でしょう」
「……嫌いじゃない」
春の風が、水面を揺らした。
エピローグ 螺旋の空の下で
一年が巡った。
屋上。
春の夜。
祖父の望遠鏡の隣に、新しい観測機がある。
双極のレンズを組み込んだ、世界に一台しかない天体望遠鏡。
鏡花が校舎の扉を開けた。
「差し入れ」
紙袋を置く。
「生徒会長が校則違反を助長していいの?」
私が聞く。
「天文部の夜間観測は正式許可取りました」
「権力」
「手続きと言いなさい」
朔が笑う。
三人でココアを飲んだ。
空には星。
一年分、同じ季節が戻ってきた。
「去年もこの辺に春の大三角があった」
朔が言う。
「うん」
「戻ってきたんだな」
私は首を振った。
「少し違う」
「また始まった」
「地球は去年と同じ場所にはいない。太陽系も銀河の中を動いてるし、銀河だって移動してる」
「つまり?」
私は指で空に螺旋を描いた。
「戻ってきたように見えるだけ」
円を描いているようで、
宇宙の中では螺旋を描いている。
同じ春。
同じ屋上。
同じ星座。
でも去年とは違う。
三人も違う。
街も違う。
傷も残っている。
その傷の意味も、少しずつ変わっている。
「じゃあ僕たちは戻ってない?」
朔が聞いた。
私は考えた。
それから笑った。
「戻ってきたよ」
「どっちだよ」
「戻ってきたけど、同じ場所じゃないの」
朔が望遠鏡から顔を離した。
私は続けた。
「全部覚えてるでしょう」
火事も。
復讐も。
嘘も。
星図も。
あの夜の彗星も。
「忘れたら、もっと楽だったかもしれない」
私は言った。
「でも、全部忘れて最初に戻るんじゃない」
鏡花が静かにこちらを見る。
「全部持って帰ってくるの」
私は望遠鏡を覗いた。
暗い宇宙の中に、小さな光点がある。
何百年も前に放たれた光。
星そのものは、もうそこにないかもしれない。
それでも光は届く。
過去は消えない。
でも、過去が未来を一つに決めるわけでもない。
歴史は一本道ではない。
完全な円でもない。
傷つきながら巡り、
巡りながらずれ、
ずれながら、
ときどき私たちは、
始まりによく似た場所へ帰ってくる。
そのたびに選べばいい。
同じことを繰り返すのか。
それとも、
違う続きを書くのか。
「紡」
朔が呼んだ。
「ん?」
「見せて」
私は接眼部から離れた。
場所を譲る。
朔が覗き込む。
かつて人を狙うために使われたレンズの向こうに、星がある。
遠い。
あまりにも遠い。
でも同じ光を、私たちは見ている。
「綺麗だ」
朔が言った。
たったそれだけだった。
誓いもない。
奇跡もない。
歴史の傷が完全に癒えたわけでもない。
それでいいのだと思った。
治るということは、傷が消えることではない。
痛みを抱えた身体が、
もう一度歩き始めることなのかもしれない。
私は夜空を見上げた。
あまねく星の下。
生きてきた者。
死んでいった者。
愛した者。
憎んだ者。
間違えた者。
許せなかった者。
それでも誰かを許そうとした者。
それらすべての歴史を包んで、
宇宙は何も裁かず、
ただ光っている。
私たちは、その下で生きる。
全部を覚えたまま。
全部を抱えたまま。
もう一度。
最初の一文字を書く。
新しい紙ではない。
何度も消して、破れて、焦げ跡まで残った紙の上に。
それでも空白を見つけて。
そこから。
また。
始める。
星々は静かに巡っていた。
円ではなく、
永遠に少しずつ場所を変えながら続いていく、
巨大な螺旋を描いて。
その光の下で、
私たちの物語もまた、
はじまりへ帰っていった。
終わるためではない。
もう一度、
続けるために。
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