2026-08-22

羽毛布団の重力

 



―― 心療内科と、息のできない愛について

第一章 現象学的窒息とオーバーサイズパーカー

心療内科の待合室には、季節がない。

十二月の神楽坂は、坂道を吹き抜ける風が耳の奥まで冷たかったのに、自動ドアを一枚くぐると、そこには二十三度に管理された空気と、アルコール消毒液の匂いと、名前の分からないピアノ曲だけがあった。

椎名繭は、壁際の椅子に座っていた。

制服の上には、灰色のオーバーサイズパーカー。

袖は指先まで隠れている。

診察券を握る必要があるときだけ、繭はそこから手を出した。

番号表示が変わる。

電子音。

誰かが立ち上がる。

しばらくして、自動精算機が短く鳴る。

また誰かが帰っていく。

その繰り返しだった。

ここでは誰も泣いていない。

誰も叫んでいない。

だから逆に、みんな少しずつ壊れているように見えた。

そして、その見方をしている自分もまた、十分に壊れているのだろうと繭は思った。

「三十七番の方、二番診察室へどうぞ」

繭は立ち上がった。

立ったはずなのに、身体が立ち上がった感じがしなかった。

床と足の裏の間に、十センチくらいの透明な空間がある。

自分というものが身体から少し上に浮かんでいて、肉体だけが遅れて歩いている。

最近ずっとそうだった。

ドアを開ける。

「こんにちは、椎名さん」

浅倉医師はいつもの声で言った。

白衣ではなく、紺色のシャツにカーディガン。

五十歳くらい。

優しそうにも冷たそうにも見えない。

繭は、そのことを信頼していた。

ここには「かわいそう」という顔をする大人が多すぎる。

「今週はどうでした?」

「普通です」

浅倉は電子カルテへ視線を落とした。

「その『普通』を、もう少し細かくしてみましょうか」

「学校は三日行きました」

「五日のうち三日」

「はい」

「朝、起きられなかった?」

「起きてました。でも、起きたあと動けなくて」

「布団から?」

「はい」

繭は膝の上で袖を握った。

「身体が重いんです。重力が、私のところだけ強いみたいで」

浅倉は笑わなかった。

「いい表現ですね」

「褒めないでください」

「褒めてはいません。症状を伝える言葉として分かりやすい、と言っています」

そういうところも好きだった。

繭は壁を見る。

白い。

時計の秒針だけが進んでいる。

「現実感のほうは?」

「まだ変です」

「どんなふうに?」

「街が……」

少し考える。

「全部、映像みたいです」

「映像」

「スマホの画面を見てるみたいな感じ。自分がその中にいるんじゃなくて、どこか別のところから見てる」

「身体は?」

「自分のじゃないみたいです」

繭は自分の右手を見る。

五本の指。

爪。

細い血管。

よく知っているはずの手。

けれど、ときどき初めて見る物体のように感じる。

「これは私の手だって、頭では分かってるんです。でも……分かってるだけ」

浅倉が頷いた。

「現実検討は保たれていますね」

「げんじつけんとう」

「『本当に身体から抜けている』とは考えていない。そう感じるだけだと理解できている」

「はい」

「離人感でよくある訴えです」

繭は目を閉じた。

名前がつくことは、少しだけ安心する。

名前がついたから治るわけではない。

それでも、正体不明の怪物だったものが、医学辞典の一項目くらいには縮む。

浅倉は続けた。

「眠れてますか」

「寝つくのに時間がかかります」

「食欲」

「朝はいらないです」

「希死念慮は?」

繭は一拍置いた。

この質問だけは、毎回、診察室の空気を少し重くする。

「死にたいっていうより」

「うん」

「消えたい、はあります」

浅倉はそこでキーボードから手を離した。

「具体的に、自分を傷つける計画は?」

「ないです」

「準備したことは?」

「ない」

「分かりました。そこは毎回確認します」

「はい」

それから薬の話をした。

飲み始めた抗うつ薬の副作用。

吐き気は減ったか。

眠気はどうか。

頓服はどんなときに使ったか。

浅倉は何かを奇跡のように語らなかった。

「薬が合えば、落ち込みの底を少し浅くできるかもしれません」

その程度だった。

繭には、その程度がありがたかった。

人生を救います、と言われたら逃げ出したくなる。

今の自分には、朝起きて歯を磨けたらそれで十分なのだ。

「最近、安心できる場所はありますか」

帰り際、浅倉が聞いた。

繭は少しだけ考えて、

「あります」

と答えた。

「どこ?」

「人です」

浅倉は眉をわずかに上げた。

「人が、場所なんです」

その意味を、繭はまだ説明できなかった。

桐生蓮は、窓際の後ろから二番目の席にいる。

冬の午後。

教室に斜めから差し込む光の中で、彼は英文法の問題集を読んでいた。

騒がしい休み時間にも、蓮の周囲だけ音量が二割ほど小さい。

誰かに話しかけられれば返事をする。

頼まれればノートも貸す。

悪口を言わない。

余計なことも言わない。

繭は最初、それを「誠実」と呼んだ。

人間には余計な言葉が多すぎる。

慰めるふり。

理解したふり。

必要のない助言。

「頑張れ」。

「気にしすぎ」。

「みんな同じ」。

蓮はそういうことを言わなかった。

繭が学校を休んだ翌日、

「昨日、大丈夫だった?」

とだけ聞く。

「大丈夫じゃなかった」

と答えると、

「そっか」

と言う。

それだけ。

それでよかった。

だから繭は、彼を信用した。

信用というのは、少しずつ積み上げるものだと誰かが言っていた。

でも繭の場合、たぶん違った。

崖から落ちている途中で、たまたま突き出していた枝にしがみついた。

それが蓮だった。

だから枝が丈夫かどうかを調べる余裕なんてなかった。

「今日、来る?」

放課後、蓮が聞いた。

「いいの?」

「うん」

その「うん」に、繭は救われた。

蓮の家は学校から電車で三駅だった。

両親は共働きで帰宅が遅い。

彼の部屋は妙に物が少なく、机、本棚、ベッド、小さなスピーカー、そして香りの弱いキャンドルがひとつ。

夜になると、彼は天井の照明を消して、その火だけを灯すことがあった。

「暗くない?」

「明るいと疲れる」

繭には分かった。

明るすぎる世界は情報が多い。

ろうそくくらいでいい。

見えるものが減れば、世界は少しだけ扱いやすくなる。

音楽が小さく流れていた。

繭はベッドの端に座り、蓮から借りた黒いパーカーに顔を埋める。

洗剤の匂い。

体温。

布。

「今日、体育で泣きそうになった」

「どうして?」

「先生に『元気ないぞ』って言われたから」

「それで?」

「元気がない人に、元気ないぞって言う意味が分かんなくて」

蓮は少し笑った。

繭も笑った。

その笑顔を見て、

ああ、この人は分かってくれている、

と思った。

「蓮はいいね」

「何が?」

「静かで」

「褒めてる?」

「すごく」

繭は彼の肩へ額を預けた。

「蓮といると、息できる」

蓮はしばらく何も言わなかった。

それから、

「そう」

と言った。

そのとき繭は、それを優しさだと思った。

沈黙の中には理解があるのだと。

言葉なんてなくても、相手の心は読めるのだと。

そう信じていた。

第二章 読心という誤認

「うん、分かるよ」

蓮はよくそう言った。

ただし、自分から何かを語ることは少なかった。

繭が学校に行けない朝のこと。

満員電車で全員が人形に見えたこと。

授業中、先生の声だけが遠くなったこと。

薬のシートから錠剤を押し出すときの、銀色のアルミが破れる感触が嫌いなこと。

夜中に目が覚めると、自分の人生が誰かの間違って開いたブラウザのタブみたいに思えること。

蓮は聞いた。

そして、

「分かるよ」

と言った。

「蓮もそういうことある?」

「多少は」

「どんな感じ?」

「説明しにくい」

繭はそれ以上聞かなかった。

説明しにくいものを無理に言葉にさせるのは暴力だと思ったからだ。

その遠慮を、理解と勘違いした。

人は知らない部分を、空白のままにはしておけない。

だから想像で埋める。

夜空の星と星を線で結んで、存在しない獅子や乙女を描くように。

繭は蓮の沈黙を結んで、

「私を理解してくれる人」

という星座を作った。

本当は、星同士は互いに途方もなく離れていた。

冬休みが近づいた頃、繭は学校を四日続けて休んだ。

そのあいだに、SNSで一枚の写真が回った。

繭が蓮と駅前を歩いている写真。

誰が撮ったのかは分からない。

《メンヘラ彼女と介護士彼氏》

最初の投稿にはそう書かれていた。

その下に、

《最近休んでるのこれ?》

《桐生かわいそ》

《病んでる子って依存やばそう》

笑っている顔文字。

意味のないスタンプ。

誰かの憶測。

誰かの冗談。

誰かがそれをスクリーンショットして別の場所へ貼る。

やがて文脈が消え、言葉だけが増殖した。

繭は読むのをやめられなかった。

傷つくと分かっているのに、更新する。

更新する。

更新する。

まるで自分の傷口を毎分確認しないと、それが本当に存在するか分からないみたいに。

金曜日の夕方。

繭は蓮の部屋へ行った。

玄関を閉めた瞬間、足から力が抜けた。

「繭?」

「みんな」

声が出ない。

息が速い。

胸が苦しい。

「みんな、私のこと」

呼吸しなければと思うほど、呼吸が壊れていく。

吸う。

吸う。

まだ足りない。

もっと吸う。

指先が痺れた。

唇の周りが変だった。

「座って」

蓮が言う。

「無理」

「ベッドでいいから」

「息、できない」

「救急車呼ぶ?」

「いや」

「でも」

「いや……」

涙が出た。

「蓮、私、何も悪くないよね」

蓮はスマートフォンを机に置いた。

「写真の件?」

「私たちのこと、何も知らないのに」

「うん」

「私たちがどれだけ」

言葉が途切れる。

「どれだけ、本当に……」

繭は蓮を見た。

助けてほしかった。

何を言ってほしいのか、自分でも分からなかった。

怒ってほしかったのかもしれない。

悲しんでほしかった。

抱きしめてほしかった。

「そんなこと言わせない」と言ってほしかったのかもしれない。

そのどれでもいい。

とにかく、

自分と同じ場所へ来てほしかった。

けれど。

ろうそくの炎の向こうで、

蓮は静かに繭を見ていた。

あまりにも静かだった。

眉も動いていない。

唇も震えていない。

怒りも。

悲しみも。

恐怖も。

繭には何も見つけられなかった。

透明な水を覗き込んで、底がないことに気づいたような感覚だった。

「蓮」

「うん」

「怒ってないの」

「誰に?」

「書いた人たちに」

蓮は考えた。

本当に、考えた。

「別に」

その二文字が、繭の中で何かを切った。

「別に?」

「知らない人だし」

「私が傷ついてるのに?」

「それは分かってる」

「分かってる?」

「うん」

「じゃあ、どうして」

また息が速くなる。

「どうしてそんな顔してるの」

「どんな顔?」

「何も感じてないみたいな顔」

蓮は黙った。

その沈黙は、それまで繭を守ってきた沈黙と同じ形をしていた。

でも意味だけが違って見えた。

今まで「優しい」と読んでいたもの。

「慎重」と読んでいたもの。

「分かってくれている」と読んでいたもの。

すべてに別の翻訳が可能だった。

無関心。

回避。

空白。

「ねえ」

繭の声が掠れた。

「私が苦しいって話してたとき、何を思ってた?」

「聞いてた」

「そうじゃなくて」

「……」

「悲しかった?」

蓮は答えない。

「心配だった?」

長い沈黙。

やがて蓮は言った。

「分からない」

「何が?」

「僕が何を感じてたのか」

繭は笑った。

笑うしかなかった。

「そんなの、分からないことある?」

「ある」

「嘘」

「嘘じゃない」

「じゃあ今は?」

「今?」

「私がこんなになってるの見て、何を感じてるの」

蓮はまた考えた。

その「考える」という動作そのものが、繭には耐えられなかった。

愛なら考える必要なんてないと思っていた。

本当の感情なら、瞬間的に溢れるものだと思っていた。

「困ってる」

蓮は言った。

「どうしたらいいか分からない」

「それだけ?」

「たぶん」

世界が、音を失った。

ろうそくの炎だけが揺れていた。

繭はそこで初めて思った。

この人は、自分のことを愛していないのではないか。

もっと正確には。

自分が「愛」と呼んでいたものを、この人は一度も同じ名前で呼んでいなかったのではないか。

「『分かるよ』って言ってたじゃん」

「話の内容は分かった」

「違う!」

声が跳ね返った。

「そういう意味じゃない!」

蓮がわずかに身を引いた。

それが決定打だった。

繭は立ち上がった。

足元が揺れる。

「最初から何も感じてなかったんだ」

「繭」

「私が勝手に喋って、勝手に安心して、勝手に」

「それは違う」

「何が違うの!」

「僕は、嘘をついてたつもりはない」

「同じだよ!」

「同じじゃない」

初めて蓮の声が少し強くなった。

「僕は本当に、自分がどう感じてるのか分からないときがある。だから、相手がどうしてほしいかを考える」

繭は息を止めた。

「……じゃあ全部、正解を答えてただけ?」

「たぶん」

「私に?」

「傷つけないように」

その言葉は、ひどく誠実だった。

だからこそ残酷だった。

繭は玄関へ向かった。

「送る」

「来ないで」

「でも今」

「来ないで!」

ドアを閉める。

階段を下りる。

外気が頬に刺さる。

世界がガラスの向こう側へ遠ざかっていく。

繭は歩いた。

どうやって家まで帰ったのか、翌日には覚えていなかった。

第三章 落下の深淵

土曜日。

繭は布団から出なかった。

日曜日も。

月曜日も。

重い羽毛布団を頭まで被る。

光が消える。

外の音が遠くなる。

安全だった。

少なくとも最初は。

布団の中では学校もSNSも蓮も存在しない。

世界を小さくできる。

自分と暗闇だけにできる。

けれど、暗闇には記憶がよく響いた。

『うん、分かるよ』

蓮の声。

『たぶん』

『困ってる』

『どうしたらいいか分からない』

何度も。

何度も。

言葉が内側から聞こえる。

繭は耳を塞いだ。

意味がない。

声は頭の中にある。

私は何を見ていたのだろう。

あの笑顔。

あの沈黙。

貸してくれたパーカー。

同じイヤホンで聴いた曲。

帰り道。

全部。

あれは何だった?

蓮が嘘だったのではない。

それより恐ろしい。

出来事は全部本物だった。

ただ、

意味だけが違った。

同じ部屋にいた。

同じ炎を見ていた。

同じ言葉を聞いた。

でも二人は、同じ出来事を生きていなかった。

それなら世界に「共有」なんて本当にあるのだろうか。

人間は全員、自分の頭蓋骨の内側に閉じ込められているだけではないのか。

愛とは、その独房同士が隣り合っていることを「一緒にいる」と呼んでいるだけではないのか。

考えているうちに、

今度は自分まで分からなくなった。

私は蓮を愛していた?

それとも、

蓮に理解されている私を愛していた?

私は蓮を見ていた?

それとも、

私が必要とする蓮を作っていただけ?

「……分かんない」

誰もいない布団の中で呟く。

分からない。

自分のことも。

身体が沈んでいく。

ベッドの下。

床の下。

建物の下。

東京の地下へ。

もっと深く。

世界の底へ。

なのに身体そのものはそこにある。

汗ばんだ皮膚。

乾いた唇。

空腹。

トイレへ行きたい。

身体はどうしようもなく現実的だった。

だから腹が立った。

心は消えかけているのに、

胃は空腹を訴える。

膀胱は命令する。

肺は勝手に呼吸する。

生きる気なんて訊きもしないくせに、

身体は生存を続ける。

三日目の夜。

呼吸がおかしくなった。

最初は胸の圧迫感だった。

それから、

息が足りない。

繭は布団の中で大きく息を吸った。

足りない。

もっと。

もっと。

呼吸が速くなる。

手が痺れる。

視界が狭くなる。

「やだ」

布団を押しのけようとする。

重い。

羽毛布団なのに、鉄板のようだった。

自分を守っていたものが、自分の胸を押し潰している。

「息……」

声が出ない。

「させて……」

スマートフォンはベッドの脇。

手を伸ばせば届く。

でも、その数十センチが遠い。

自分で助けを求めるという行為が、別の惑星にある。

廊下から音がした。

母が帰ってきた。

繭は壁を叩いた。

一度。

二度。

そのあとのことは断片しか覚えていない。

母の声。

玄関。

救急隊員。

指先につけられた機械。

「酸素は大丈夫ですよ」

大丈夫と言われても、繭には大丈夫ではなかった。

「ゆっくり吐きましょう」

息を吸うのではなく吐くように言われた。

繭はそれを何度も繰り返した。

救急外来で身体的な緊急疾患がないことを確認され、しばらく安静にして帰宅した。

翌日、母と一緒に浅倉の診察室へ行った。

「つらかったですね」

浅倉は言った。

繭は何も答えなかった。

「でもまず、昨日ご自身で起きたことを『気のせい』にしないでください。過換気の症状は身体に本当に起きています」

「死ぬかと思った」

「そう感じる人は多いです」

「でも酸素は足りてた」

「そう。だから『息苦しいのだから、とにかくたくさん吸わなきゃ』とすると、かえって症状が悪化することがある」

浅倉は机の上に小さな紙を置いた。

そこには簡単な手順が書いてあった。

足の裏の感覚を確かめる。

椅子の硬さを感じる。

見える物を五つ挙げる。

ゆっくり吐く。

症状が強い、いつもと違う、胸痛や失神などがあれば医療機関へ。

「グラウンディングです」

「地面に戻る」

「そういうイメージで構いません」

繭は紙を見た。

「そんなので治るんですか」

「治療は一枚の紙では終わりません」

「じゃあ薬?」

「薬だけでもない」

浅倉は椅子へ少し深く座った。

「椎名さん。今は、病気の症状と、人間関係で受けた傷と、あなた自身の考え方が全部絡まっています。一本ずつほどいていきます」

「ほどけなかったら?」

「ほどけない結び目もあります」

「先生なのに」

「医者だから言っています」

繭は少しだけ顔を上げた。

浅倉は続けた。

「他人の心を完全に知ることはできません」

「……」

「でも、それはあなたの病気ではない。人間全員がそうです」

「だったら、誰とも分かり合えないじゃないですか」

「完全には、たぶん」

繭の胸が痛んだ。

「ひどい」

「そうですね」

浅倉は否定しなかった。

「でも、完全に分かる必要があるのかな」

繭は黙る。

「人間関係には、分からない部分が残ります。問題は、その空白を全部、自分に都合のいい答えで埋めてしまうことです」

蓮の顔が浮かんだ。

「私は、あの人を作ってた?」

「私には分かりません。私はその人に会っていないから」

また、安易に同意しない。

「ただ、椎名さんは『この人だけが私を理解できる』という意味を、その関係にかなり背負わせていたようには聞こえます」

繭は袖の中で拳を握った。

「悪いんですか」

「善悪の話ではありません」

浅倉は言った。

「苦しくなりやすい構造だという話です」

「構造」

「一人の人間を、自分が呼吸するための酸素ボンベにしてしまったら、その人が離れた瞬間に窒息するでしょう」

繭は目を伏せた。

「……蓮といると、息できるって言ったことあります」

「そうですか」

「先生は、私が依存してたって言いたいんでしょう」

「その言葉を今すぐ貼る必要はありません」

浅倉はゆっくり言った。

「病名や心理学用語を新しい烙印にしないことです」

その言葉だけは、繭の中へ少し入った。

「あなたが誰かに安心を求めたこと自体は、おかしくない。でも、自分の生命維持まで相手に任せると、関係そのものが苦しくなる」

「じゃあどうしたらいいんですか」

「まず食べる。眠る。薬を決めたとおりに使う。学校は調整する。身体を現実へ戻す練習をする」

「それだけ?」

「それだけを軽く見ない」

浅倉の声が少し強くなった。

「哲学的な絶望は、空腹と睡眠不足で悪化します」

繭は初めて少し笑った。

「夢がないですね」

「医療は割と夢がないです」

「そこは否定してくださいよ」

「でも、夢がないから役に立つこともあります」

診察室の外で、自動精算機が鳴った。

電子音。

ホワイトノイズ。

誰かの人生が劇的に救済された音ではない。

ただ、診察が一回終わった音。

繭はその無愛想さに、少し安心した。

浅倉は最後に言った。

「自分の肺で呼吸する、という比喩は悪くありません。ただし、冷たい空気を無理に大きく吸えばいいという意味ではありませんよ」

「分かってます」

「念のため」

「先生、比喩にまで注意書きつけるんですね」

「医者なので」

今度は、繭のほうがちゃんと笑った。

第四章 羽毛布団をのけて

学校へ戻ったのは、一月の終わりだった。

毎日ではない。

午前だけの日もある。

保健室で休む日もある。

朝、制服まで着て玄関で動けなくなり、そのまま欠席した日もある。

回復というのは、階段ではなかった。

一段上がれば一段進むようなものではない。

潮の満ち引きに近い。

昨日できたことが今日はできない。

それでも、一か月前より少し沖へ出られる。

その程度だ。

繭はパーカーを着ていた。

ただし、フードは被っていなかった。

「それ、やめたんじゃないんだ」

屋上で、蓮が言った。

二人きりだった。

「寒いから着てるだけ」

「そっか」

相変わらずの答え。

その声を聞いても、以前ほど胸は痛まなかった。

痛くないわけではない。

ただ、その痛みが自分を殺すものではなくなりつつあった。

「体調、良くなったんだね」

蓮が言う。

繭は首を振った。

「ううん」

「そうなの?」

「まだ薬飲んでるし。朝起きられない日あるし。突然、教室が映画のセットみたいになることもある」

「……そっか」

「でも前よりはまし」

「よかった」

その「よかった」を、繭はすぐに疑いそうになった。

本当にそう思ってる?

それは感情?

正解として言ってるだけ?

以前なら問い詰めただろう。

でも今はやめた。

蓮の内面を確定することは、自分の仕事ではない。

「蓮」

「うん」

「私、あなたの心が読めると思ってた」

蓮は黙った。

「あなたが黙ってると、優しいからだと思ってた。『分かる』って言ったら、私と同じように感じてるって思ってた」

「ごめん」

「謝ってほしいわけじゃない」

繭はフェンスの向こうを見る。

東京の冬空。

建物。

電線。

遠くの雲。

どれも美しくない。

それでも現実だった。

「たぶん私、あなたを見てなかった」

蓮がこちらを見る。

「自分が必要なあなたを見てた」

「僕も」

小さな声だった。

「え?」

「僕も、繭をちゃんと見てなかったと思う」

繭は意外で振り返った。

蓮はフェンスに手を置いた。

「僕、人が泣いたり怒ったりしたとき、どうしたらいいか分からないんだ」

「うん」

「だから一番間違いにくい言葉を選ぶ」

「『分かるよ』とか?」

「うん」

「最低」

「そうかも」

「冗談」

「分かりにくい」

「そこは分かって」

少し沈黙があった。

風が吹く。

繭の髪が顔にかかった。

「僕は」

蓮が言った。

「本当に何も感じてないのかもしれない」

繭は答えなかった。

「でも、それも分からない」

蓮は自分の胸を見た。

「嫌いとか、好きとか、寂しいとか。人が言ってるものと、自分の中にあるものが同じなのか分からない」

以前の繭なら、

「そんなの逃げだ」

と言ったかもしれない。

けれど浅倉の言葉を思い出した。

知らない部分を、勝手に埋めない。

蓮の内部には、繭には見えない場所がある。

そしてそれは、蓮自身にさえ見えていないのかもしれない。

他者性とは、壁ではない。

底の見えない井戸なのだ。

こちらから覗くことはできる。

声を投げることもできる。

でも、その深さを自分の都合で決めてはいけない。

「そっか」

繭は言った。

今度は自分が、その言葉を使った。

蓮が苦笑した。

「それだけ?」

「それだけ」

「前はもっと怒った」

「今も少し怒ってる」

「少し?」

「六十パーセント」

「結構だね」

二人とも笑わなかった。

それでも空気は壊れなかった。

繭は深く息を吸おうとして、やめた。

代わりに、ゆっくり吐いた。

足の裏。

冷たいコンクリート。

フェンスのざらつき。

空。

白い雲。

遠くの赤いクレーン。

現実はそこにあった。

「蓮」

「何」

「私、もうあなたの部屋で呼吸するのやめる」

蓮の目が少しだけ動いた。

「それ、どういう意味?」

「そのまま」

「もう来ない?」

「たぶん」

「そっか」

以前なら、その反応だけで崩れていた。

引き止めて。

悲しんで。

私が必要だと言って。

心の中で叫んだだろう。

今も、小さな声は残っている。

でも、その声は世界のすべてではなかった。

「追わないんだ」

繭は少し意地悪く言った。

蓮は考えた。

「追ってほしい?」

「そういう質問するところ、ほんと嫌い」

「ごめん」

「でも」

繭は少し笑った。

「たぶん、それがあなたなんだよね」

蓮は返事をしなかった。

それでよかった。

無関心なのか。

困惑なのか。

何か彼なりの別の感情なのか。

繭には分からない。

分からないまま、置いておく。

それは怖かった。

でも、

その怖さに耐えることが、他人を他人のまま愛するということなのかもしれなかった。

夕方。

繭は一人で神楽坂を歩いた。

以前より世界は近かった。

完全ではない。

通り過ぎる人の顔が突然平面に見える瞬間もある。

信号が映画の背景みたいに感じられる瞬間もある。

それでも足の裏は地面についていた。

家へ帰る。

自室。

ベッドの上には、羽毛布団。

白い。

柔らかい。

何も悪くない。

自分を守ってくれた。

泣いた夜も。

学校へ行けなかった朝も。

全部包んでくれた。

だからこそ、

ずっとその中にいることはできない。

繭は両手で布団を掴んだ。

思ったより軽かった。

あれほど重かったのに。

ベッドの端へ寄せる。

窓を開けた。

一月の空気が入ってきた。

「寒っ」

思わず声が出る。

冷たい。

容赦がない。

外の匂いがする。

車。

遠くの夕食。

少し湿ったコンクリート。

世界は、誰かの体温ではなかった。

優しくない。

自分を理解してもくれない。

こちらが泣いても、冬は冬のまま冷たい。

それでも、

世界には酸素がある。

繭は窓辺に座った。

無理に大きく吸わない。

ただ、呼吸する。

吐く。

少し待つ。

自然に吸う。

肺が動く。

身体が動く。

生きている。

嬉しいとは思わなかった。

感動もしなかった。

ただ、

そうだった。

繭はスマートフォンを開く。

来週の診察予約。

火曜日、十七時三十分。

その下に、学校の課題通知。

未提出三件。

「現実、最悪」

呟く。

でも少し笑った。

エピローグ こちら側

二月。

心療内科の待合室。

ヒーリング音楽。

消毒液。

自動精算機。

同じ場所。

繭は灰色のパーカーを着ていた。

袖から手を出し、スマートフォンを操作している。

「三十七番の方」

診察室。

浅倉が聞く。

「今週は?」

繭は少し考えた。

「悪くないです」

「以前の『普通』より具体的ですね」

「朝、二回休みました」

「食事は?」

「朝はヨーグルトだけの日もある」

「睡眠」

「六時間くらい」

「現実感のなさは?」

「あります」

「頻度は?」

「前より減った気がします」

浅倉は入力する。

「桐生くんとは?」

繭は窓を見る。

「終わりました」

「そうですか」

「先生、もっと驚かないんですか」

「驚いてほしい?」

「別に」

「では驚きません」

腹が立つ。

でも笑ってしまう。

「寂しい?」

浅倉が聞く。

繭は考えた。

以前なら「寂しい」と即答した。

あるいは「何も感じない」と格好をつけた。

今は、少し待った。

自分の内側にあるものを、正しい単語へ急いで押し込まない。

「寂しいです」

「うん」

「でも、戻りたいとは思わない」

「両立しますよ」

「そういうものですか」

「人間の感情は、たいてい複数あります」

繭は頷いた。

「私、他人の心って分からないんですね」

「今さらですね」

「ひどい」

「十七歳で気づくなら早いほうです」

「先生は分かるんですか」

「患者さんの心?」

「はい」

浅倉は少し考えた。

「分かりません」

繭は笑った。

「それで診察できるんですか」

「分からないから訊くんです」

その言葉が、妙に残った。

分からないから訊く。

分からないから確認する。

分からないまま決めつけない。

それは、繭が今まで「理解」と呼んでいたものより、ずっと慎ましい。

でも、もしかするとずっと誠実だった。

診察を終える。

会計。

薬局。

白い錠剤。

いつもの日常。

外へ出る。

神楽坂の坂を下る。

街は何も祝福してくれない。

空は曇っている。

誰かが笑いながら歩いている。

タクシーがクラクションを鳴らす。

コンビニのドアが開く。

全部が勝手に存在している。

繭とは無関係に。

以前、それが怖かった。

世界が自分を理解してくれないこと。

他人が自分と同じものを感じていないこと。

愛している人の内部に、自分が決して入れない部屋があること。

今も怖い。

でも、それでいいのかもしれない。

他者が完全には分からないから、

相手は「私の一部」にならず、

他者のままでいられる。

そして私も、

誰かに完全に理解されなくても、

存在していていい。

交差点で信号が変わった。

繭は歩き出す。

足の裏が地面を踏む。

一歩。

もう一歩。

身体が十センチ浮いている感覚は、今日はない。

世界はガラスの向こうではなく、

こちら側にある。

いや。

本当は世界がこちらへ戻ってきたのではない。

繭のほうが、

少しだけ戻ってきたのだ。

自分の身体へ。

自分の足へ。

自分の肺へ。

自分という、不完全で、誰にも完全には読めない場所へ。

冷たい風が吹いた。

繭はフードを被ろうとして、

途中で手を止めた。

そしてそのまま、

風に髪を乱されながら歩いた。

守られないことは、怖い。

包まれないことも。

愛することも。

分からない相手の隣に立つことも。

全部、少しずつ怖い。

けれど安全だけを求めて、

羽毛布団の奥へ奥へと潜り続ければ、

いつか世界の空気を忘れてしまう。

だから、ときどき布団をのける。

窓を開ける。

冷たさを知る。

傷つく可能性のある世界へ、

自分の身体を戻す。

それを回復と呼んでいいのか、

繭にはまだ分からなかった。

たぶん浅倉なら、

「名前はあとでいいでしょう」

と言う。

それでよかった。

繭は息を吐いた。

そして、

次に必要なぶんだけ、

静かに吸った。

誰からも借りていない空気だった。

それは少し冷たく、

少し痛く、

そして確かに、

彼女自身の肺を満たした。

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薄明の領域

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