2026-08-23

リンクから一歩下がり、不揃いな私たちが木を植える

 



第一章 報復の無限ループ

私立松華学園には、二つの時間が流れている。

ひとつは、百年前から続いている時間。

黒ずんだ煉瓦の旧校舎。磨けば飴色に光る廊下。創立者の肖像画。朝礼で歌う古い校歌。春になると講堂の窓を覆う蔦。代々の卒業生が寄贈してきた絵画や書籍や楽器。

もうひとつは、昨日より明日のほうが少し速くなる時間。

全面ガラス張りの新校舎。壁一面の大型ディスプレイ。オンライン授業。顔認証式の図書館ゲート。三次元プリンタ。ドローン撮影。生徒自身が運営する動画配信チャンネル。

松華学園はその二つを「伝統と革新の共存」とパンフレットに書いていた。

嘘だ、と神楽葵は思っている。

共存などしていない。

百周年を迎える今年、二つの時間は完全に戦争状態だった。

「却下します」

生徒会議室に、葵の声が冷たく響いた。

テーブルの向こう側で、新条凛が眉を上げる。

「まだ説明の途中なんだけど」

「説明を最後まで聞く必要がありません」

葵は資料を閉じた。

紺色の制服。

胸元の細いリボン。

黒髪は肩より少し下で切りそろえている。

松華学園伝統文化保存委員長。

十七歳。

旧校舎の空気に似合う少女だとよく言われる。

本人は、その評判を否定しない。

「百周年記念祭をメタバース空間で同時開催? 歴史展示を三次元スキャンして、来場者のアバターに解説させる?」

「そう」

凛が腕を組んだ。

短めの髪。

鋭い目。

ネクタイは規定より少し緩い。

彼女の前にはタブレット端末とノートパソコンが並んでいる。

「海外の卒業生も参加できる。身体的事情で登校できない生徒も見られる。保存資料そのものに触れなくても、細部まで拡大できる。何が問題?」

「百周年はゲーム大会ではありません」

「はい出た。ゲームじゃないし」

「歴史には、実物に触れることでしか伝わらないものがあります」

「資料保護のために実物に触らせないって去年言ったの、そっちでしょ」

会議室の空気が少し揺れた。

周囲に座っていた委員たちが目を伏せる。

誰も二人の視線の間に入りたがらない。

「少なくとも」

葵は言った。

「創立百周年の中心企画を、一時的な流行技術に委ねるつもりはありません」

凛が笑った。

笑顔なのに、目が冷たい。

「流行技術」

「何か?」

「そういうところなんだよね、保存委員会って」

「どういう意味です」

「自分たちが分からないものを、価値がないことにする」

葵の指先が止まった。

「訂正してください」

「嫌」

「新条さん」

「ねえ神楽さん。百年続いたってことは、百年間正しかったって意味じゃないよ」

会議室が静まった。

葵の胸の奥で、何かが軋んだ。

理屈より先に、身体が反応する。

この人は、

壊そうとしている。

ずっと続いてきたものを。

自分が守っているものを。

そして多分、

自分そのものを。

「あなたの企画案は正式に不採択とします」

「権限あるの、それ?」

「保存対象施設の使用許可は私たちの管轄です」

「へえ」

凛はノートパソコンを閉じた。

「じゃあ、こっちはこっちでやる」

「何を」

「説明するよ。全校生徒に」

その日の夜。

デジタルメディア部の公式チャンネルに動画が上がった。

タイトルは、

《百周年企画は誰のもの? 保存委員会によるデジタル企画封殺の経緯》

再生数は翌朝までに三千を超えた。

コメント欄には、

《また老害ムーブ》

《生徒主体って何だったの?》

《伝統って便利な言葉だな》

《神楽さん怖すぎ》

葵は午前六時十二分、自室のベッドでそれを見た。

一度だけ。

それから二度目。

三度目。

見るほど胸が冷える。

《神楽さん個人を攻撃する意図はありません》

動画の中で凛はそう言っていた。

そして十分後、

葵は保存委員会の共有フォルダを開いた。

百周年予算案。

デジタルメディア部の申請書類。

規則。

過去の監査資料。

攻撃された。

なら、

反撃する。

それは当然のことだった。

三日後。

デジタルメディア部への機材予算増額申請は、

「過去二年間の備品管理記録に不備あり」

という理由で差し戻された。

凛は昼休み、資料を机へ叩きつけた。

「やってくれたな、あの女」

部員が黙る。

「これ、去年の部長時代の記録じゃん」

「でも規則上は」

「分かってる」

凛は吐き捨てた。

正論。

それが一番腹が立つ。

神楽葵は嘘をつかない。

露骨な嫌がらせもしない。

規則を使う。

前例を使う。

形式を使う。

だから誰も責められない形で、

こちらの首を締めてくる。

凛はスマートフォンを開いた。

新しい動画企画のメモ。

《保存委員会の閉鎖性について》

指が動く。

止まる。

消す。

また書く。

胸の奥では、

別の声がしていた。

やられる前にやれ。

笑われる前に笑え。

排除される前に排除しろ。

そうしていれば、

自分は傷つかない。

中学の頃、

凛はプログラミングコンテストで作った作品を教師に見せたことがある。

「ゲームみたいなもの?」

そう言われた。

悪意はなかったのだろう。

でも、

その一言がずっと残った。

高校一年の展示企画でも、

「デジタル作品は保存が利かないから、百年後に残らない」

と教師に言われた。

だから決めた。

誰かに価値を決められる前に、

自分で価値を証明する。

そのためには、

負けてはいけない。

特に、

神楽葵みたいな人には。

「部長」

後輩が恐る恐る聞いた。

「これ以上やるんですか」

「何を?」

「保存委員会とのやつ」

凛は笑った。

「向こうがやめたらやめるよ」

その言葉を、

同じ日の午後、

葵も言っていた。

「新条さんがやめれば、こちらも対応する必要はありません」

戦争の最も厄介なところは、

両陣営が同じことを言うところにある。

夏へ向かう頃には、

松華学園は完全に割れていた。

旧校舎を使う部活動は保存派。

新校舎を拠点にする部活動は改革派。

そんな雑な分類まで流行った。

廊下ですれ違えば睨み合う。

匿名アカウントには、

「保存派は時代遅れ」

「改革派は礼儀知らず」

という投稿が並ぶ。

葵と凛は、

最初は百周年祭の企画について争っていた。

いつからか、

相手そのものを否定するようになった。

「神楽葵の言う伝統って、要するに権威主義でしょ」

「新条凛の改革とは、目新しいものへ飛びつくだけの破壊です」

発言は切り取られ、

拡散され、

さらに鋭い言葉になって戻ってくる。

一度投げた石が、

二つになって返ってくる。

その二つをまた投げる。

四つになる。

八つになる。

誰も最初の石を覚えていない。

ある日の夕方。

旧校舎と新校舎をつなぐ渡り廊下で、

葵と凛は真正面から出会った。

周囲にいた生徒たちが、

不自然に道を空ける。

二人は止まる。

「まだやる気?」

凛が言う。

「何をですか」

「とぼけないでよ」

「あなたこそ」

葵は小さなUSBメモリを握っていた。

凛の部について、

内部から提供された資料が入っている。

規則違反ぎりぎりの外部配信契約。

公開されれば、

凛は代表職を失うかもしれない。

凛の鞄にも、

保存委員会の不正会計疑惑を示すデータがある。

実際には横領ではない。

でも説明不足の支出を悪意ある文脈で公開すれば、

葵は致命傷を負う。

二人とも、

それを知っていた。

「次に何かしたら」

凛が言った。

「私、本当に潰すから」

葵は答えた。

「こちらの台詞です」

そして同時に思った。

怖い。

それは相手も同じだった。

けれど、

二人とも相手の恐怖だけは、

最後まで見ようとしなかった。

第二章 一歩下がる

百周年企画の全校投票前夜。

台風十七号が関東を直撃した。

午後から授業は打ち切り。

部活動は禁止。

午後五時には全生徒退校。

という通達が出た。

午後十一時二十七分。

神楽葵は松華学園の旧校舎にいた。

もちろん規則違反である。

だが葵には、

今夜しかなかった。

明日の全校投票前に、

凛の不正データを百周年祭実行委員会へ提出する。

それで終わる。

相手が先に撃つ前に、

こちらから撃つ。

旧校舎の窓が風で震える。

廊下の非常灯。

雨。

木造部分の軋み。

葵は傘を畳み、

保存委員会室へ向かった。

そこで、

人影を見た。

「……あなた」

凛だった。

「何でいるの」

「その言葉をそっくり返します」

「最悪」

「同感です」

凛の肩にはノートパソコン。

互いに相手の持ち物を見る。

そして、

全部理解した。

「今日なんだ」

凛が言った。

「何が」

「私を刺す日」

葵の目が細くなる。

「先に刃物を準備した人に言われたくありません」

「じゃあお互い様ね」

雷。

瞬間的に廊下が真っ白になる。

次の瞬間。

全館の電気が落ちた。

闇。

「え」

「停電?」

非常灯まで消えた。

建物の古い区画には非常電源が回っていない。

風がさらに強くなる。

どこかでガラスの割れる音。

二人はスマートフォンのライトをつけた。

「ここ危ない」

凛が言う。

「分かっています」

「旧温室まで行けば管理室に非常用ランタンが」

「なぜ知っているんです」

「前に撮影で使ったから」

言い争っている場合ではなかった。

二人は旧校舎の裏手へ走った。

旧温室。

英国風の木組み。

煉瓦の腰壁。

ガラス屋根。

何十年も前に植物研究施設として使われていた。

今はほぼ放置。

中央には一本の楡の老木がある。

初代エルム。

松華学園の創立時に植えられたとされる木。

もともとは屋外だったが、

後年、周囲に温室が増築された。

二人が中へ飛び込んだ直後、

突風で外側の古い門が倒れた。

出口を塞ぐ。

「嘘でしょ」

凛が駆け寄る。

動かない。

「別の出口は」

「奥です」

葵がライトを向ける。

その先。

落下した枝。

割れた棚。

塞がれている。

二人は顔を見合わせた。

最悪だった。

よりによって、

世界で一番嫌いな相手と、

嵐の夜に温室へ閉じ込められた。

管理棚から見つけた非常用ランタンは、

一つだけ点灯した。

弱い黄色の光。

嵐。

ガラス壁を雨が叩く。

葵は古い作業台に座った。

凛は反対側。

二人の間には、

初代エルム。

枝の半分以上が枯れている。

根元の土は、

石のように固い。

「朝までか」

凛が言った。

「救助要請はしました」

「電波弱いけど、届いたかな」

「知らない」

「ほんと感じ悪い」

「あなたにだけは言われたくありません」

沈黙。

ランタン。

雨。

そして。

凛がノートパソコンを開いた。

「何してるんです」

「確認」

画面に映るファイル。

葵は目を細めた。

自分の名前。

《保存委員会予算処理》

「それ」

「うん」

凛は画面をこちらへ向けた。

「明日、これ出すつもりだった」

葵は鞄からUSBを出した。

「奇遇ですね」

「見せて」

「嫌です」

「私のだろ」

「あなたの部の外部契約資料です」

凛の顔から笑みが消えた。

「どこから」

「言うと思いますか」

「最低」

「あなたも」

雷。

二人は互いを見る。

この温室の外では、

台風が街を壊している。

この温室の中では、

二人の十七歳が、

互いの人生を壊す材料を持っている。

凛は笑った。

「すごいね」

「何が」

「私たち」

笑いながら、

顔が青ざめている。

「明日これ出したら、どうなるかな」

「然るべき審査が行われます」

「建前じゃなくて」

葵は答えない。

「私、代表辞めさせられるかも」

「当然の結果なら」

「神楽さんも」

凛は言った。

「会計の件、横領じゃないって分かってる。でも一部だけ切ったら、ネットじゃ十分燃える」

葵の手が震えた。

見られたくない。

凛はそれを見ていた。

「怖いんだ」

「あなたもでしょう」

「うん」

凛は即答した。

葵が少し驚く。

「怖いよ」

凛は椅子にもたれた。

「退学とか。親とか。部員に失望されるとか。全部」

「……」

「神楽さんは?」

葵は言わなかった。

でも手は震えていた。

凛は画面を見る。

カーソル。

ファイル。

長い沈黙。

それから突然、

凛は言った。

「やめる」

「……何を?」

「これ」

削除。

確認画面。

《完全に削除しますか?》

凛の指が止まる。

一秒。

二秒。

押した。

画面からファイルが消えた。

葵は立ち上がった。

「何をしているんです」

「見たでしょ」

「コピーがあるのでは」

「クラウドのも消す」

「何のつもりですか」

「一歩下がる」

「馬鹿にしているんですか」

葵の声が震えた。

「油断させて、後から」

「違う」

凛が強く言った。

「もう嫌なの」

葵は黙る。

凛は唇を噛んだ。

「怖いの。負けるのも嫌。あんたに正しい顔されるのも嫌。私の作ったもの全部、くだらないって言われるのも嫌」

息を吸う。

「でもさ」

凛は葵を見る。

目に涙はない。

ただ怖そうだった。

「このままあんたが私を刺して、私があんたを刺して、その次どうするの?」

「……」

「部員同士でやり合う? 先生巻き込む? 親? SNS? 卒業しても続ける?」

雨が温室を叩く。

「どこで終わるの?」

葵には答えられなかった。

凛はノートパソコンを閉じた。

音は小さかった。

なのに、

銃を置く音のように聞こえた。

「私が最初に降りる」

「それは敗北です」

葵は反射的に言った。

凛は笑った。

「そう思うなら、あんたの勝ちでいい」

その言葉が、

葵には耐えられなかった。

勝ち。

欲しかったはずのもの。

なのに、

手渡された瞬間、

あまりにも空っぽだった。

「私は」

葵はUSBを見る。

「あなたを信用していません」

「知ってる」

「消したふりかもしれない」

「うん」

「明日また裏切るかもしれない」

「そう思うなら、持ってれば」

凛は目を逸らした。

「でも私はやめる」

「なぜ」

「誰かがやめないと終わらないから」

それだけ。

葵は手の中のUSBを見る。

非常に小さい。

これ一つで、

相手を傷つけられる。

守れる。

支配できる。

怖い。

手放したら、

自分だけ無防備になる。

それが、

怖い。

葵は初めて理解した。

自分は伝統を守りたかっただけではない。

傷つかないための城壁として伝統を使っていた。

規則。

歴史。

格式。

前例。

そこにいれば、

自分は正しい。

正しい人間は、

傷つけられない。

そう信じていたかった。

「……最低です」

葵が言った。

「誰が」

「あなたが」

「はいはい」

「こんなことをされたら」

声が掠れる。

「私まで、選ばなければならないじゃないですか」

凛が顔を上げる。

葵はUSBを机へ置いた。

指で押さえる。

折れる。

もう一度。

小さなプラスチックが割れた。

「コピーは?」

凛が聞く。

「あります」

「あるんじゃん」

「帰ったら消します」

「信用していい?」

葵は答えた。

「知りません」

凛が笑った。

「そのくらいでいいか」

戦争が終わった瞬間、

鐘は鳴らなかった。

ただ、

二人が一発ずつ撃たなかった。

それだけだった。

第三章 呪いを解く

「ねえ」

午前三時十五分。

凛がランタンの光を見ながら言った。

「神楽さん、何でそこまで伝統好きなの」

葵は眉を寄せる。

「質問が雑です」

「百周年保存委員長なんだから、何かあるでしょ」

「あります」

「何」

「……」

「言えない?」

「あなたに話す義務は」

「はいはい」

凛は黙った。

それが妙に腹立たしかった。

「祖母です」

葵が言う。

「ん?」

「祖母も松華の卒業生でした」

凛は聞く姿勢になる。

葵の祖母は、

旧校舎の音楽室が好きだった。

戦後間もない時代。

まだ女子が大学へ進むことを歓迎されなかった頃、

松華で学び、

教師になった。

小さい頃、

葵は何度も聞かされた。

「場所には記憶があるのよ」

祖母はそう言った。

誰かが泣いた。

誰かが笑った。

何十年も人が歩いた。

それが木の床や壁へ染み込んでいる。

「祖母は去年亡くなりました」

凛の表情が変わる。

「……そっか」

「百周年が終わったら、旧校舎の一部が改修される予定です」

「知ってる」

「私は」

葵は言葉を探した。

「変わることが、怖かった」

初めて口にした。

「旧校舎が変わる。展示方法が変わる。昔のやり方が古いと言われる。そのたびに」

拳を握る。

「祖母まで消される気がした」

凛は何も言わない。

葵は苦笑した。

「馬鹿でしょう」

「いや」

凛の声は静かだった。

「分かる気はする」

葵が驚いて見る。

「私は逆」

凛は膝を抱えた。

「変わらないほうが怖い」

「なぜ」

「中学のときさ」

凛は話した。

作ったゲーム。

教師の反応。

「遊びでしょう」

と笑われたこと。

高校一年で、

デジタル作品を、

「流行りもの」

と言われたこと。

「だから」

凛は言う。

「古いものを守る人が嫌いだったんじゃなくて」

少し笑う。

「古いものを盾にして、私を価値のない側に置く人が怖かったんだと思う」

葵は、

凛を見た。

初めて。

敵ではなく。

ただの十七歳の少女として。

髪は乱れている。

靴下は雨で濡れている。

目の下に疲れ。

さっきまで手が震えていた。

この人が、

呪われた怪物?

違う。

怖がっていた。

自分と同じように。

「私たち」

葵が言った。

「随分、馬鹿なことをしていましたね」

凛が鼻で笑う。

「それは同意」

「そこは否定してください」

「無理」

少しだけ、

二人とも笑った。

午前四時。

温室の中央。

エルムの老木。

凛がライトを当てる。

「これ、ほんとに生きてる?」

「今年の春は数枚だけ葉が出ました」

「死にかけじゃん」

「言い方」

二人は根元を見る。

土が固い。

長く手入れされていない。

「植物って」

凛が言った。

「こういうの、土が固すぎても駄目なんだっけ」

「根に空気が届きません」

「神楽さん詳しいね」

「保存委員会なので」

「何でも保存するんだ」

「あなたは一言多い」

工具棚に、

小さなスコップが二本あった。

なぜか。

二人は土を掘り始めた。

別に今やる必要はない。

救助が来るまで待てばいい。

でも、

じっと座っているのが落ち着かなかった。

「固っ」

凛が土へスコップを刺す。

「長年踏み固められていますから」

「平和とは程遠いな」

「何が」

「根っこ」

葵が少し考えた。

「平和というものは、もっと華々しいものだと思っていました」

「何それ」

「勝利するとか。問題を解決するとか」

凛が土を崩す。

「私は逆かも」

「どういう意味です」

「平和って、何も起きてない状態だと思ってた」

「違うと?」

「この土見てたら」

腐葉土の袋を開ける。

匂い。

湿った土。

「何もしなかったら、固まるんだなって」

葵は手を止めた。

「……なるほど」

平和は、

放置ではない。

争いがないから自動的に育つわけでもない。

水。

空気。

土。

手入れ。

時間。

毎日少しずつ。

誰にも褒められない作業。

「戦って勝ち取った勝利なんて」

葵が呟く。

「砂上の楼閣かもしれませんね」

「うわ、急に文学少女」

「黙って掘ってください」

「はいはい」

凛が笑う。

二人は喧嘩をしながら、

根元へ空気を入れた。

夜明け前。

台風は弱まっていた。

ガラス越しに、

空が青くなり始める。

「もっと良い道って」

凛が言った。

「あると思う?」

葵は答えなかった。

「絶対あるって言うほど、私は楽観的ではありません」

「だと思った」

「でも」

葵はエルムを見る。

「今までより悪くない道なら、作れるかもしれません」

凛が笑った。

「それ、Better Wayじゃん」

「英語にすれば何でも格好良くなると思わないでください」

「そういうとこほんと古い」

「あなたは軽薄です」

「ほら、もう喧嘩」

二人は顔を見合わせる。

そして、

笑った。

第四章 不揃いな二つの声

翌日の全校集会。

講堂には、

異様な緊張があった。

保存派。

改革派。

百周年企画の最終投票。

舞台横の大型スクリーンには、

二案のタイトルが映っている。

《伝統展示》

《バーチャル松華》

誰もが、

最後の決戦になると思っていた。

司会が言う。

「それでは、各代表から最終説明を」

神楽葵。

新条凛。

二人が同時に立った。

ざわめき。

「同時?」

「また揉めるぞ」

舞台へ上がる。

葵はマイクの前に立った。

凛は隣。

一秒。

互いを見る。

葵が言った。

「まず」

凛が横から口を挟む。

「昨日までの案は取り下げます」

会場がどよめく。

葵が睨む。

「私が言おうとしていました」

「遅い」

「あなたは」

「マイク入ってるよ」

葵が固まる。

会場から、

小さな笑い。

今までの二人なら、

その瞬間に戦争が始まった。

今日は違う。

葵は息を吐いた。

一歩だけ、

マイクから下がった。

「では、新条さんから」

凛が少し驚く。

それから言った。

「私たちは、第三案を出します」

画面が切り替わる。

旧温室。

初代エルム。

CGで修復後の姿。

タイトル。

《Living Archive 100》

生きている記念館。

旧温室を保存する。

ただし、

触れられない遺物にするのではない。

エルムを中心に、

創立以来の写真、音声、文書をデジタルアーカイブ化。

壁面へ投影。

卒業生から送られた音声記録。

古い校歌と現代の音響。

百年間の制服。

生徒の日記。

VRによる旧校舎再現。

実物資料とデジタル資料を同じ空間に置く。

さらに、

毎年新しい生徒の記録を追加する。

保存であり、

更新でもある。

「歴史とは」

葵が言った。

「過去を冷凍保存することではありません」

凛が横を見る。

昨夜までの葵からは、

出なかった言葉。

「受け継ぐ人がいなければ、伝統はそこで終わります」

葵は続ける。

「だから、変化を拒むだけでは守れないと考え直しました」

次に凛。

「改革も同じです」

会場を見る。

「新しいってだけで偉いわけじゃない。誰かが積み上げてきたものを馬鹿にして壊したら、それは進歩じゃなくて、ただの破壊です」

ざわめきが止まる。

「だから」

凛は言う。

「どっちかを潰すのやめます」

葵が小声。

「表現が乱暴です」

「分かりやすいでしょ」

「品がありません」

「そのフォント選ぶ人に言われたくない」

「何ですって?」

「ほら、その資料の明朝体」

「百周年記念にゴシック体だけなどあり得ません」

「出た」

会場から、

今度は大きな笑いが起きた。

誰かが拍手する。

それが広がる。

葵と凛は、

同じことを考えていない。

今も。

好みも違う。

価値観も。

未来のイメージも。

でも。

二人とも、

相手を消す必要がなくなった。

そこから先は、

対話でよかった。

投票。

第三案。

圧倒的多数で可決。

満場一致ではなかった。

保存派の一部は反対。

改革派にも、

「妥協だ」

と言う人がいた。

でも葵は、

そのことをむしろ気に入った。

全員が同じ考えになる必要はない。

それでも、

一緒に作ることはできる。

エピローグ 木のように

秋。

旧温室。

修復されたガラス屋根から、

午後の光が入る。

初代エルムには、

新しい葉がついていた。

奇跡的な復活、

などではない。

樹木医によれば、

かなり弱っている。

今後数年かけて治療する必要がある。

その現実的な説明を、

葵は気に入った。

平和と同じだ。

一晩で完成しない。

勝利宣言もない。

手入れが必要。

水をやる。

土を見る。

枝を切る。

病気を確認する。

何度も。

「神楽さん」

温室の中央。

凛がノートパソコンを持ってくる。

「映像できた」

葵が見る。

「色が派手です」

「開始二秒で文句?」

「歴史資料にネオンピンクは不要です」

「必要」

「不要」

「若者来ないよ、その色じゃ」

「若者を何だと思っているんです」

「少なくとも葵ではない」

「あなた」

二人は睨み合う。

近くの後輩たちは、

もう誰も怯えない。

「あ、またやってる」

という顔で作業を続けている。

葵は画面を見る。

凛の配色。

嫌い。

でも、

見ているうちに思う。

一部なら、

悪くない。

「……この部分だけなら」

凛がにやりとする。

「何?」

「使ってもいいです」

「聞こえなーい」

「撤回します」

「嘘嘘、ごめん」

凛は隣の椅子へ座る。

二人の間には、

少し空間。

以前なら、

そこに武器が置かれていた。

今は、

ノートパソコン。

紙資料。

色見本。

ペットボトル。

そして、

エルムの葉から落ちた小さな影。

「ねえ」

凛が言う。

「私たち、仲良くなったのかな」

葵は資料から顔を上げない。

「いいえ」

「即答」

「あなたは相変わらず無神経ですし」

「神楽さんは頑固」

「言葉遣いも」

「融通利かない」

「派手すぎる」

「古すぎる」

少し沈黙。

凛が笑う。

「でもまあ」

「何です」

「前よりはマシ」

葵も、

ほんの少し笑った。

「そうですね」

Better。

それで十分なのかもしれない。

Bestでなくてもいい。

完全に理解しなくてもいい。

同じ声にならなくてもいい。

二つの声は、

違う音程のまま、

ときどき同じ言葉へ重なる。

それが和音になる。

夕方。

作業を終えた二人は、

温室の外へ出た。

風。

エルムの葉が揺れる。

幹は太い。

皮はひび割れている。

何度も嵐を経験した木。

葵は幹に触れた。

凛も反対側から触れる。

同じ木。

違う場所。

「木って」

凛が言う。

「ずっと同じ場所にいるくせに、ずっと変わってるんだね」

葵が枝を見上げる。

「根を張ることと、変わらないことは違いますから」

「それ、今度動画で使おう」

「著作権料を請求します」

「学園の公式アカウントなのに?」

「冗談です」

「神楽葵が冗談」

「失礼ですね」

風が吹く。

葉と葉が触れ合う。

それぞれ別の葉なのに、

ひとつの木の音になる。

葵は、

ふと思い出した。

台風の夜。

凛がパソコンを閉じた音。

あれが、

二人の関係で初めて生まれた静けさだった。

勝ったからではない。

相手を説得したからでもない。

一人が、

次の一撃を返さなかった。

ただそれだけ。

でも、

その「ただそれだけ」の場所に、

今、

木がある。

温室がある。

未来がある。

「凛」

葵が呼んだ。

珍しく名字ではなかった。

凛が振り向く。

「何」

葵は少し迷った。

「もし、また私たちがどうしようもなく争ったら」

「争うでしょ」

「断言しないでください」

「絶対やるって」

葵はため息。

「そのときは」

一歩だけ下がる。

靴底が土を踏む。

「こうしましょう」

凛が葵を見る。

そして、

意味を理解する。

自分も一歩下がった。

二人の間に、

二歩分の空間ができる。

そこには、

誰もいない。

正しさも。

勝敗も。

攻撃も。

ただ、

何かを置ける余白だけがある。

凛が言った。

「何植える?」

葵は笑う。

「すぐ植える前提なのですか」

「空いてるし」

「では」

二人で足元を見る。

「未来、とでも」

凛が吹き出した。

「くっさ」

「あなたが聞いたのでしょう!」

「でも悪くない」

風が通る。

二人は、

同じ方向を向いていなかった。

葵は木を見る。

凛は温室を見る。

それでも、

同じ場所に立っている。

世界には、

勝つか負けるか以外の道がある。

戦うか逃げるか以外の道も。

残すか壊すか。

許すか憎むか。

白か黒か。

その間に、

まだ名前のない場所がある。

そこは、

最初から存在しているわけではない。

誰かが一歩下がり、

空いた場所へ、

二人で何かを置いたとき、

初めて生まれる。

椅子でもいい。

言葉でもいい。

種でもいい。

一本の木でもいい。

平和とは、

たぶん完成品ではない。

毎日少しずつ、

根の周りの土を柔らかくする仕事なのだ。

そして変化とは、

誰かに要求するものではない。

自分の次の一歩によって、

世界へ置いていくものだ。

夕陽が、

修復された温室のガラスを通る。

古い木の幹と、

新しいディスプレイ。

二人の影。

重なりそうで、

完全には重ならない。

不揃いなまま。

そのほうが、

きっといい。

凛が言った。

「葵」

「何です」

「もっと良い道、あったね」

葵はしばらく黙った。

エルムの葉が、

風の中で静かに鳴っている。

「ええ」

そして答えた。

「まだ、もっと良くできます」

二人は笑った。

その声は同じではなかった。

だからこそ、

ひとつの和音になった。

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リンクから一歩下がり、不揃いな私たちが木を植える

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