プロローグ また明日
「また明日ね」
晴が言った。
私は、
「ええ、また明日」
と答えた。
それだけだった。
世界の命運を賭けた誓いでもない。
永遠の愛を約束したわけでもない。
この忙しい一週間が終わったら、鏡の館を二日だけ閉める。
谷中の坂道を歩く。
晴が修理している古い腕時計を受け取る。
商店街の喫茶店で珈琲を飲む。
冬が近いというのに、私は冷たいのがいいと言った。
晴は呆れていた。
「絶対お腹壊すよ」
「未来が視える私が言ってるんだから大丈夫」
「自分の未来、ちゃんと見ないくせに」
「細かい男ね」
そんな会話。
二十二歳の男女が交わすには、
ささやかすぎる約束だった。
だから私は、
絶対に忘れないものになるなんて思わなかった。
約束というものは、
大きいほど心に残るのだと思っていた。
違った。
果たせなかった約束は、
大きさに関係なく、
胸の奥で焦げる。
焦げて。
こびりついて。
そこに何が書いてあったのか読めなくなっても、
黒い痕だけが残る。
あのときの私は、
まだ知らなかった。
未来を見ることのできた私が、
その未来へ辿り着けなくなることを。
過去を見ることのできた私が、
自分自身の過去すら見分けられなくなることを。
そして。
「全部視える」ということが、
神様になることではなく、
人間という小さな器が、
静かに、
静かに、
溢れていくことなのだと。
第一章 ささやかすぎる約束
秋の終わりの谷中には、
夏にも冬にもない音がある。
落ち葉が石畳を擦る音。
遠くで自転車のベル。
猫が植木鉢を倒す音。
夕方の商店街から漂ってくる魚を焼く匂い。
私はそういうものが、
嫌いではなかった。
未来ではないからだ。
過去でもない。
ただ、
今そこにある。
「鏡」
「何」
「聞いてる?」
「半分」
「一番腹立つ返事だな」
晴は私の店の奥で、
古い腕時計を分解していた。
鏡の館。
相変わらず胡散臭い名前。
相変わらず胡散臭い内装。
赤いランプ。
古いカーテン。
黒い木の机。
そして、
黒い革手袋をした女。
私。
宵野鏡。
二十二歳。
職業、
預言者。
たぶん。
「この時計、今週中には終わるよ」
晴が言った。
「そう」
「反応薄いな」
「あなたの仕事でしょう」
「依頼したの鏡じゃん」
「そうだっけ」
「そうだよ」
晴がため息をつく。
古い女性用腕時計。
銀色。
文字盤に小さな傷。
別に高価なものではない。
数年前、
蚤の市で買った。
なぜ買ったのか、
自分でもよく覚えていない。
「終わったらさ」
晴は精密ドライバーを置いた。
「店、二日くらい休まない?」
私は顔を上げた。
「なぜ」
「最近働きすぎ」
「誰が」
「君」
「胡散臭い女は暇よ」
「今日だけで六人来た」
「そのうち三人は未来じゃなく恋愛相談」
「十分働いてる」
晴は時計の裏蓋を閉める。
「散歩しよう」
「どこへ」
「谷中」
「毎日いる」
「観光客みたいに歩く」
「嫌」
「じゃあ珈琲」
「冷たいの」
「もう冬だよ」
「知ってる」
「お腹壊す」
「壊さない」
「未来見た?」
「見てない」
晴が笑った。
「じゃあ約束」
私は少し考えた。
何でもない。
本当に、
何でもないことだった。
「ええ」
答えた。
「いいわよ」
その瞬間だった。
頭の奥で、
誰かが泣いた。
私は動きを止めた。
晴が眉を寄せる。
「鏡?」
「……何でもない」
嘘だった。
店の外。
一人の老人が歩いていた。
知らない男。
ただ店の前を通っただけ。
なのに。
一瞬。
見えた。
病室。
女の子。
白い花。
老人が、
まだ若い。
誰かの手を握っている。
次の瞬間、
消える。
私はこめかみを押さえた。
「頭痛?」
「寝不足」
「最近多いね」
「年よ」
「二十二で?」
「人間、二十歳過ぎたら下り坂」
「極端」
晴は笑った。
私は笑えなかった。
黒い手袋を見る。
厚い革。
昔なら、
これをしていれば大丈夫だった。
他人に触れなければ、
入ってこない。
他人は他人。
私は私。
それを守るための、
小さな壁。
でも最近。
壁が、
薄い。
*
その日の最後の客は、
高校生だった。
「受験受かりますか」
「勉強しなさい」
「未来見てくださいよ」
「勉強した未来と、しなかった未来がある」
「どっちが受かります?」
「勉強した方」
「普通じゃん」
「預言者を何だと思ってるの」
少年は不満そうに帰った。
扉が閉まった瞬間。
また。
映像。
教室。
桜。
不合格通知。
合格通知。
母親の笑顔。
父親の怒り。
大学。
退学。
就職。
結婚。
事故。
私は机へ手をついた。
「多すぎる……」
口から漏れた。
少年には触れていない。
なのに。
彼の未来が、
断片ではなく、
枝分かれした森のように入ってきた。
しかも、
少年だけではない。
通行人。
店の向こう側にいる人。
誰か。
誰か。
誰か。
全部。
「鏡」
晴。
私は振り返る。
その瞬間、
彼の未来が見えた。
晴。
三十歳。
知らない家。
晴。
四十七歳。
一人で時計を直している。
晴。
二十四歳。
泣いている。
晴。
老人。
晴。
墓。
私は目を閉じた。
「やめて」
「何?」
「……いや」
晴が近づく。
私は反射的に一歩下がった。
彼が止まる。
「鏡」
「今、触らないで」
声が強すぎた。
晴は黙った。
「ごめん」
「いいよ」
「違うの」
「分かってる」
「分かってない」
「うん」
その返事が、
ありがたかった。
分かったふりをしない。
第四部で、
私はようやくそれを覚えた。
他人を全部理解したつもりにならない。
でも、
私は自分のことなら、
分かっているつもりだった。
その傲慢さが、
最後まで残っていた。
*
夜。
晴が帰ったあと、
私は一人で鏡の館にいた。
手袋を外す。
自分の手を見る。
白い指。
普通の手。
昔はこれが、
扉だった。
他人の人生へ入る扉。
今は、
扉というより、
穴だった。
閉めても、
漏れてくる。
私は両手を握る。
「私は」
声に出した。
「宵野鏡」
言ってみる。
「二十二歳」
もう一度。
「谷中で店をやっている」
自分の輪郭を、
言葉でなぞる。
「晴は」
少し止まる。
「晴は、遠藤晴」
時計修理職人見習い。
私の隣にいる人。
私の出口ではない。
私を救う神様でもない。
ただ、
手が温かい人。
胸が少し落ち着く。
私は机の上のメモを見る。
晴の字。
今週終わったら二日休み。逃げるな。
私はペンを取って、
その下に書いた。
冷たい珈琲。
そして。
なぜか、
泣きそうになった。
理由は分からなかった。
未来なら、
いくらでも見えるのに。
第二章 全知という名の氾濫
神条司が来たのは、
三日後だった。
五十二歳。
谷中で百年以上続く和菓子店、
「神条堂」の店主。
私も何度か羊羹を買ったことがある。
味はいい。
値段は可愛くない。
「相談がある」
司は言った。
「未来?」
「過去だ」
机の上に、
古い木箱を置く。
「うちの家は、割れる寸前だ」
「羊羹みたいに?」
「笑えない」
「ごめんなさい」
司は、
本当に笑わなかった。
相続。
土地。
古い建物。
再開発。
本家。
分家。
従兄弟。
甥。
娘。
そして、
百年近く前の火事。
話を聞くだけで、
嫌な予感がした。
「神条堂の土地は、もともとうちのものじゃなかったらしい」
「どういうこと」
「大正の終わり頃、この辺りで大火があった」
司は木箱から、
古い帳面を出した。
「隣で商売していた黒瀬という家が焼けた。その後、土地が神条家へ移った」
「買った?」
「記録上は」
「記録上は?」
「分家が言っている。先祖が火をつけて、借金の証文を焼いて、混乱に乗じて土地を奪ったんじゃないかって」
私は眉をひそめた。
「証拠」
「ない」
「じゃあ」
「でも、あるかもしれない」
箱の底。
手紙。
焦げた紙。
そして、
古い印鑑。
「今度の相続で、店を売る話が出てる」
司が言った。
「売れば莫大な金になる。でも、もし土地が不正に手に入れたものなら」
「返したい?」
「分からない」
司は笑った。
疲れた笑い。
「息子は売れと言う。妹は守れと言う。分家は金をよこせと言う。黒瀬家の子孫は謝罪を求めている」
「あなたは?」
「分からない」
また。
分からない。
最近私は、
その言葉を以前より好きになっていた。
分からない。
それは、
逃げではない。
まだ決めつけていないということ。
「私に何をしてほしいの」
「先祖の真実を見てほしい」
私は手袋を見る。
嫌だった。
身体が、
嫌だと言っている。
でも、
司の顔を見る。
困っている。
「一度だけ」
私は言った。
「あなた自身には触れない。物だけ」
司が頷く。
木箱の中から、
印鑑を出す。
私は手袋を外した。
指先で触れる。
その瞬間。
世界が、
割れた。
*
火。
最初に来た。
古い東京。
いや。
谷中。
百年前。
木造家屋。
叫び。
煙。
男。
女。
子ども。
帳面。
金。
嘘。
次。
戦争。
空襲。
避難。
神条家。
黒瀬家。
誰かが誰かを助ける。
誰かが誰かを裏切る。
次。
昭和。
結婚。
勘当。
遺産。
病気。
借金。
秘密。
平成。
店。
子ども。
介護。
離婚。
恨み。
謝罪。
次。
未来。
再開発。
店がなくなる。
店が残る。
親族が絶縁する。
和解する。
黒瀬家の子孫が訴える。
訴えない。
誰かが自殺する。
誰かが生きる。
誰かが店を継ぐ。
誰も継がない。
一人。
十人。
百人。
違う。
もっと。
関係した人間が、
芋づる式に増えていく。
神条家。
黒瀬家。
従業員。
客。
隣人。
子孫。
未来の子ども。
まだ生まれていない人。
「やめ」
手を離した。
はずだった。
でも、
止まらない。
「やめて」
映像。
「鏡さん?」
司の声。
誰の声。
子ども。
老人。
火。
雨。
晴。
晴?
「鏡!」
肩。
私は叫んだ。
「触らないで!」
晴が手を止める。
いつ来たのか分からない。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
口から勝手に出た。
私は床へ座り込む。
司が青ざめている。
「何が見えた」
「いっぱい」
「放火は?」
私は答えようとする。
見た。
先祖の一人。
火。
でも、
火をつけた?
違う。
火を消そうとしていた?
火を隠した?
帳面を燃やした?
誰かを守った?
映像が重なる。
どれも真実。
どれも、
一部。
「分からない」
「またか」
司の声に怒りが混じる。
「あなたなら分かると思った」
その言葉。
昔なら、
傷ついた。
今は、
もっと怖かった。
私は本当に、
分かりたいと思ってしまったから。
全部。
*
調べるほど、
問題は悪化した。
古い火事では、
神条家の次男が失火を隠した可能性があった。
だが、
黒瀬家の当主も、
神条家への借金帳簿を改ざんしていた。
さらに、
火事の夜、
神条家の長男は黒瀬家の幼い娘を救っていた。
土地の移転には不自然な点があった。
しかし同時に、
黒瀬家側が自ら売却した記録も残っていた。
誰か一人を悪者にすれば、
話は簡単だった。
でも、
簡単にならない。
それこそ、
第四部で学んだこと。
事実は、
人間を一つの物語へ閉じ込めるためにあるのではない。
しかし今回は。
人間が多すぎた。
一人の尊厳を守れば、
別の人間が傷つく。
昔の真実を公開すれば、
現在の家族が壊れる。
隠せば、
黒瀬家の人間は、
また歴史から消される。
相続を止めれば、
従業員が職を失う。
売却すれば、
街から店がなくなる。
未来を教えれば、
選択を固定する。
教えなければ、
避けられたはずの損失が起こる。
私は、
全部の倫理を使おうとした。
第一部。
全部を語らない。
第二部。
未来を確定させない。
第三部。
出口を決めない。
第四部。
一つの事実で人間を閉じない。
全部、
正しい。
全部、
できない。
*
神条家の親族が鏡の館へ集まった夜。
怒鳴り声。
泣き声。
机。
資料。
スマートフォン。
録音。
「未来を見たんでしょう!」
「誰が店を継ぐ!」
「土地は誰のものだ!」
「黒瀬家に謝るべきか!」
「うちの祖父を犯罪者扱いする気か!」
「父さんは何て言ってた!」
「教えてください!」
声。
声。
声。
私は両耳を塞ぐ。
でも。
耳から入っているわけではない。
内側。
「鏡」
晴の声。
遠い。
「一回止めよう」
「止められない」
「今日は終わり」
「でも」
未来が見える。
今ここで話を打ち切れば、
明日、
一人が単独で契約書へ署名する未来。
止めれば、
別の人が激昂する。
話し続ければ、
誰かが倒れる。
私は、
全部を避けようとする。
「売却は待って」
言う。
「でも、黒瀬家には今日中に」
違う。
その未来も悪い。
「いや」
やり直す。
「まず相続人同士で」
違う。
「待って」
未来。
未来。
未来。
「黙って!」
自分で叫んだ。
全員が止まった。
私は息をする。
「お願い」
黒い手袋の中で、
指が震えている。
「一人ずつ」
でも、
一人ずつ話しても、
その裏に十人いる。
十人の後ろに百人いる。
過去がいる。
未来がいる。
死者がいる。
まだ生まれていない人がいる。
救えない。
全部は。
「鏡」
晴。
「もういい」
「よくない」
「いい」
「誰かが傷つく」
「うん」
「私が止められる」
晴が、
静かに言う。
「全部は無理だよ」
その言葉に、
腹が立った。
「分かってる!」
叫んだ。
でも。
分かっていなかった。
いや。
分かりたくなかった。
私が一人を見捨てれば、
その人の未来が見える。
泣く顔。
後悔。
傷。
知っている。
知ってしまっている。
知らなければ、
選べた。
でも、
私は知っている。
だから、
捨てられない。
一人も。
「鏡」
晴が近づく。
そのとき。
手袋が、
床へ落ちた。
自分で外したのか。
破れたのか。
分からなかった。
黒い革。
一双。
床。
そして。
世界が、
入ってきた。
第三章 器の破裂と、遅すぎた答え
最初は、
光だった。
白い。
綺麗。
だから、
一瞬だけ、
救われたと思った。
次に、
声。
お母さん。
誰の?
「大丈夫よ」
知らない女。
子ども。
泣いている。
私は。
違う。
誰か。
学校。
赤いランドセル。
私はランドセルを持っていない。
じゃあ誰。
次。
病院。
父親が死ぬ。
私の父?
知らない。
次。
晴。
「鏡」
違う晴。
老いている。
笑ってる。
次。
晴が死んでいる。
やめて。
次。
晴が私ではない女の手を握っている。
次。
晴が一人。
次。
晴がいない。
次。
私が。
誰かを刺す。
違う。
渚。
いや。
私。
血。
違う。
律。
ナイフ。
莉乃。
絵。
黒木。
AI。
洋々館。
海。
父親。
全部。
全部、
自分の記憶のように、
痛い。
「……これ」
声が出る。
「誰の……記憶……?」
誰かが答える。
晴?
「鏡!」
その名前。
鏡。
誰?
私は。
私。
宵野。
鏡。
二十二。
谷中。
預言者。
黒い。
手袋。
ない。
どこ。
*
気づいたら、
夕やけだんだんを歩いていた。
なぜそこにいるのか分からない。
猫。
猫が走る。
この猫は、
明日死ぬ。
違う。
三年後。
違う。
誰かの猫。
少女が笑う。
この少女は結婚する。
離婚する。
子ども。
病気。
長生き。
短い。
全部。
一人の人間に、
未来が多すぎる。
未来ではない。
可能性。
可能性ではない。
記憶。
記憶ではない。
誰。
「鏡!」
肩。
晴。
私は振り払う。
「触らないで!」
「分かった」
晴が止まる。
呼吸。
今。
今?
「店に戻ろう」
「店」
鏡の館。
赤いランプ。
珈琲。
約束。
何。
「二日休む」
口から出た。
晴の顔が変わる。
「うん」
「珈琲」
「うん」
「冷たい」
「うん」
「……お腹、壊す」
晴が笑った。
泣きそうな顔で。
「言ったね」
その瞬間、
未来。
珈琲。
二人。
笑う。
未来。
店が閉まっている。
未来。
私はいない。
未来。
晴一人。
未来。
未来。
未来。
「やめて!」
私は頭を抱える。
未来は、
希望ではなかった。
未来は、
数だった。
無限。
無限は、
自由ではなかった。
選べない。
全部見えると、
一つが選べない。
それは、
第二部で知ったはずだった。
確定された未来は檻。
でも。
無限の未来も、
檻だった。
入口しかない迷路。
私は笑った。
なぜか。
「馬鹿」
自分に言う。
「私、ずっと……」
知らないことを、
怖がっていた。
だから、
視える能力を、
呪いだと言いながら、
どこかで手放さなかった。
役に立つから。
人を救えるから。
私が必要とされるから。
でも。
「違った」
晴が近くにいる。
音。
街。
人。
誰かの過去。
全部。
「視えないこと」
私は言う。
「何?」
晴。
「視えないこと……」
言葉を探す。
言葉が、
溶ける。
「それ……欠陥じゃ……なかった」
呼吸。
「鏡」
「知らないって……」
笑う。
泣く。
どっち。
「すごい……ことだったんだ」
晴が黙る。
「未来が見えないから……選べる」
一つ。
「他人が分からないから……他人でいられる」
二つ。
「忘れるから……」
三つ。
「生きられる」
声が震える。
「全部の痛みを……感じないから」
胸を押さえる。
「私で……いられる」
そこで、
分かった。
遅すぎた。
あまりにも。
遅すぎた。
人間には、
皮膚がある。
他人の血が、
自分の血管へ流れ込まないように。
瞼がある。
見続けなくていいように。
睡眠がある。
世界を一度、
閉じるために。
忘却がある。
過去を完全な現在として抱え続けないために。
死角がある。
無知がある。
誤解がある。
距離がある。
他人が他人であるために。
それらを、
私は欠損だと思っていた。
違った。
翼だった。
「人間って」
私は笑った。
「片翼で……よかったんだ」
晴が何か言う。
聞こえない。
「全部……視えなくて」
涙。
「よかったんだ」
愛しい。
その答えが。
あまりにも。
哀しい。
その答えを、
私はもう、
生きられない。
*
神条家の件は、
その日の夜、
私抜きで動き始めた。
あとから、
聞いた。
たぶん。
誰から?
晴。
司。
違う。
記憶?
神条司は、
親族を集めた。
未来を聞くのをやめた。
百年前の火事について、
分かっていることと、
分からないことを分けた。
黒瀬家の子孫にも、
「先祖が何をしたか確定できない。でも、土地取得に不透明な点があったことは認める」
と伝えた。
謝罪した。
完全ではない謝罪。
法的責任を全部認めたわけでもない。
英雄的でもない。
店の売却は延期。
相続は第三者を入れて再協議。
一部の資料は地域資料館へ寄託。
一部の親族は、
最後まで納得しなかった。
でも。
殴り合わなかった。
誰も死ななかった。
誰も完全には救われなかった。
それでも、
話した。
自分たちで。
私は、
いらなかった。
その事実が、
少し嬉しかった。
たぶん。
第四章 最期の瞬間に誰の名前を呼ぶの
旧校舎の屋上。
なぜ。
ここ。
風。
夕焼け。
柵。
靴。
手。
誰の。
私は。
座っている。
たぶん。
隣。
晴。
晴は笑っていた。
違う。
晴は泣いている。
違う。
晴は死んだ。
違う。
晴はまだ生まれていない。
違う。
晴は二十二。
時計。
手。
油。
あったかい。
「鏡」
声。
誰。
「鏡」
鏡。
鏡?
ガラス。
顔。
私?
「……きょう」
声。
口。
誰の。
「うん」
答える人。
晴。
たぶん。
夕焼けが、
百年前の夕焼けになる。
木造の街。
火。
煙。
次。
百年後。
知らないビル。
空。
次。
今。
今。
今。
どれ。
「寒い?」
声。
「……さむ」
風。
「上着、着る?」
誰かが言う。
優しい。
誰。
手。
手が近づく。
怖い。
過去が入る。
未来が入る。
でももう、
入っている。
全部。
誰かが子どものころ、
時計を壊した。
晴。
誰かが自転車で転んだ。
晴?
誰かが妹を失った。
違う。
誰かが。
誰か。
「……はる」
音。
「うん」
顔。
知ってる。
知らない。
「はる……?」
「うん」
「あなた……」
未来。
老人。
死。
笑う。
喫茶店。
知らない女。
一人。
雨。
「あなた……どの……はる……?」
長い。
長い沈黙。
違う。
一秒。
「今の晴だよ」
今。
今。
今。
今。
その言葉だけ、
他の時間と違う。
過去じゃない。
未来じゃない。
可能性じゃない。
今。
誰かが、
手を握る。
私は晴の手を握った。
違う。
誰かが、
誰かの手を握っている。
手。
白い。
指。
温度。
これは。
誰の手。
私。
私?
私って。
言葉。
宵野。
鏡。
黒い手袋。
胡散臭い。
預言者。
未来。
莉乃。
律。
渚。
魔女。
愛。
出口。
全部。
遠い。
ささやかな。
約束。
珈琲。
冷たい。
店。
二日。
散歩。
「また明日」
誰が言った。
「また明日」
誰が答えた。
胸。
黒い。
焦げた。
何か。
約束。
果たす。
未来。
未来が。
ない。
違う。
ある。
多すぎる。
どれ。
*
夕日。
風。
声。
呼ばれている。
名前。
名前。
最期の。
誰。
呼ぶ。
口。
「……は」
音が出ない。
「鏡?」
鏡。
それは。
誰。
でも。
この手。
握ってる。
強くない。
逃がさない強さでもない。
ただ。
そこ。
あたたかい。
言葉。
もう。
少ない。
世界。
溶ける。
百年前。
明日。
昨日。
二十二。
五歳。
まだ生まれてない。
誰。
手。
温度。
ここ。
今。
「……あったかい」
黒い革手袋が、
屋上の床に落ちていた。
冷たい風が、
それを少しだけ動かした。
夕日は沈んでいった。
誰かが、
誰かの手を握っていた。
その先を語る声は、
もうなかった。
終
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