宵野鏡シリーズ 第四部・完結編
プロローグ 視えるという傲慢
私には、他人の過去が視える。
誰が何を言ったか。
誰が誰を傷つけたか。
何時何分、どんな部屋で、どんな顔をして、どちらの手を伸ばしたか。
黒い手袋を外して、その人の皮膚や、その人の時間を吸い込んだ物に触れればいい。
すると過去は蘇る。
映画より鮮明に。
記憶より正確に。
弁護士も、裁判官も、歴史家も喉から手が出るほど欲しがるだろう。
私は二十二歳になるまで、それを呪いだと思っていた。
そのあと少しだけ、力だと思うようになった。
そして最近では、
責任なのだと思っていた。
未来が視えても、全部は語らない。
確定した答えを渡して、人間から迷う自由を奪わない。
誰かの出口にならない。
誰かを自分の言葉の中へ閉じ込めない。
三度ほど痛い目を見て、ようやく私はそこまで学んだ。
だから、かなり賢くなったつもりでいた。
馬鹿だった。
その日まで私は、
事実さえ完璧に視えれば、最後には真実へ辿り着ける
と、どこかで信じていたのだから。
出来事を見ること。
人間を見ること。
この二つが、まるで同じことのように。
でも人間は、出来事の総和ではない。
嘘をついた理由。
黙った理由。
自分自身にも説明できなかった感情。
愛しているのに傷つけた瞬間。
憎んでいるのに守った夜。
泣かなかった人の悲しみ。
笑った人の絶望。
カメラには映らない。
私の眼にも、映らない。
どうやらこの世には、
未来視なんかよりずっと厄介な視力が必要らしい。
人間は昔から、
それをとても簡単な一文字で呼んでいる。
愛。
私は、その意味を知らなかった。
だから最後に、
海まで行くことになった。
第一章 事実の法廷と、視えない女
その女が鏡の館へやってきたのは、秋の終わりだった。
雨が降っていた。
谷中の路地に細い雨粒が沈み、古い石畳を濡らしている。
赤いランプの下で、真鍮のベルが鳴った。
コン。
コン。
私はカウンターで本を読んでいた。
「どうぞ」
扉が開く。
薄いトレンチコートを着た女が立っていた。
二十代半ば。
髪は肩にかかるくらい。
化粧はほとんどしていない。
綺麗かどうか判断する前に、
「この人は、ずっと息を浅くして生きてきた」
と思った。
胸がほとんど上下していない。
人間は、怖いことが長く続くと、
呼吸まで目立たなくなる。
「宵野鏡さんですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「今日はそう名乗ってる」
女は笑わなかった。
「伊織渚です」
知っていた。
名前を聞いた瞬間に。
十年近く前。
日本海に浮かぶ小さな島、嵐ヶ島。
古い洋館で起きた父親殺害事件。
当時十五歳だった娘が、
重病の父親を刃物で刺して死なせた。
連日の報道。
ワイドショー。
週刊誌。
ネット。
悪魔の娘。
そう呼ばれた少女。
私は椅子を示した。
「座って」
渚は腰を下ろした。
膝の上で両手を重ねる。
その手が、
とても綺麗だった。
それが妙に嫌だった。
世間は人間を怪物にするとき、
手も怪物らしく描きたがる。
でも、
人を傷つけた手も、
普通の人間の手をしている。
「未来を見てほしい?」
「いいえ」
「じゃあ過去?」
渚が頷いた。
「私、人を殺しました」
雨が、
窓を叩いた。
「父を」
「知ってる」
「そうですよね」
彼女は乾いた笑いを浮かべた。
「有名でしたから」
私は何も言わなかった。
「裁判も終わりました。処分も受けました。長い時間、施設の中で自分のしたことを考えました」
渚は続ける。
「でも、分からないんです」
「何が」
「私が、どうして父を刺したのか」
私は眉を寄せた。
「覚えてない?」
「場面は覚えています」
渚は自分の胸へ手を置いた。
「でも、意味が分からないんです」
その言い方が引っかかった。
「意味?」
「はい」
彼女は鞄から一冊の本を出した。
黒い表紙。
銀色の文字。
『悪魔の娘 嵐ヶ島殺人事件』
著者、
追破啓。
ノンフィクション作家。
私はページをぱらぱらめくった。
《父親の遺産》
《保険金》
《少女の異常な冷静さ》
《犯行後、救急要請を行わず》
《反省を示さない沈黙》
文章は滑らかだった。
だから危険だった。
断片が、
一本の線へ並べられている。
最初からそういう物語だったかのように。
「これを何度も読みました」
渚が言う。
「読めば読むほど、私もそうだったような気がしてきたんです」
「金が欲しかった?」
「分からない」
「父親が嫌いだった?」
「好きでした」
即答。
「でも」
渚の声が弱くなる。
「なら、どうして?」
私は本を閉じた。
「私に訊かれても」
「だから来ました」
彼女は小さな真鍮の鍵を机へ置いた。
古い。
青錆。
細かな傷。
「洋々館の父の書斎の鍵です」
「これに触れろと」
「お願いします」
私は鍵を見る。
黒い手袋。
その向こうにある自分の指。
最近私は、
何かを見る前に、
少し怖くなるようになっていた。
良い変化だと思う。
昔の私は、
見ることを正義だと思っていた。
「一つだけ」
私は言った。
「視えたものが、あなたの望んでいるものじゃなくても?」
「構いません」
「あなた自身が覚えていることと違っても?」
「構いません」
「私があなたを嫌いになっても?」
渚は少しだけ笑った。
今度は、
本当の笑いだった。
「それを決めるのも、あなたの自由でしょう」
私は右手の手袋を外した。
鍵へ触れる。
冷たい。
そして。
海鳴り。
*
世界が暗転した。
風。
雷。
窓ガラス。
洋館。
少女。
十五歳の渚。
包丁。
車椅子。
男。
父親。
私は見た。
完全に。
渚が包丁を握る。
父親の胸元。
振り下ろす。
一度。
男の身体が崩れる。
赤。
床。
少女の頬。
血。
包丁が落ちる。
渚は、
立っている。
泣いていない。
叫んでいない。
救急車も呼ばない。
ただ、
父親を見ている。
映像が終わる。
私は手を離した。
鍵が転がった。
カチャン。
息ができない。
「鏡さん?」
渚の声。
私は机へ手をついた。
「視えた」
「何が?」
「あなた」
喉が乾いている。
「あなたがお父さんを刺した」
渚の顔から、
最後の色が消えた。
「そう」
小さな声。
「そうですか」
そのとき私は、
違和感に気づいた。
いつもなら、
もっと分かる。
恐怖。
怒り。
執着。
未来視とは違う。
過去に触れたとき、
人間の身体に残った感情の痕跡が、
映像の温度として伝わってくることがある。
でも今回。
何もなかった。
いや。
何もないのではない。
多すぎる。
憎しみ。
愛。
恐怖。
安堵。
絶望。
慈悲。
全部が、
一つの場所で絡まり合い、
どれがどれなのか判別できない。
「鏡さん」
渚が訊く。
「私は、悪魔でしたか」
私は答えられなかった。
映像なら、
完璧に見た。
彼女が刺した。
これは事実だ。
でも。
それが、
何だったのか。
分からない。
「……知らない」
私は言った。
渚が目を見開く。
「知らない?」
「うん」
「でも、視えたんですよね」
「視えた」
「全部」
「全部」
「じゃあ、どうして」
私は自分の素手を見る。
「映像の中に、答えがないから」
初めてだった。
過去を完璧に見て、
なお、
何も分からなかった。
その瞬間、
私の能力は、
初めて負けた。
夜。
渚が帰ったあと、
晴が来た。
「珍しい顔」
「どんな」
「世界に負けた顔」
「帰って」
晴は笑いながら、
時計修理の工具箱を置いた。
「何があった?」
私は本を渡した。
彼は少し読んだ。
「この事件?」
「今日、本人が来た」
「それで?」
「見た」
「過去」
「うん」
「分かった?」
私は黙る。
晴がこちらを見る。
「分からなかった?」
腹が立つくらい、
察しがいい。
「全部視えた」
「うん」
「なのに」
私は拳を握る。
「意味だけが視えなかった」
晴は何も言わない。
私は吐き出す。
「誰が刺したか。何を使ったか。どんな顔だったか。全部」
それなのに。
「人間って、何なのよ」
晴が考える。
「難しい質問するね」
「答えて」
「時計修理屋に?」
「暇でしょう」
「失礼」
彼は椅子へ座った。
「でもさ」
「何」
「時計の中を全部見ても」
晴は止まった時計を持ち上げた。
「その時計が誰にとって大切だったかまでは分からないよ」
私は見る。
「機械としては全部分解できる」
晴が裏蓋を開く。
「歯車。ゼンマイ。摩耗。故障原因」
そして閉じる。
「でも、これが死んだお父さんからもらった時計なのか、百円で拾った時計なのかは、機械だけ見ても分からない」
「……」
「事実と意味って、別なんじゃない?」
悔しかった。
「何で時計修理屋がそんなこと言うのよ」
「たまたま」
私は黒い手袋をはめ直した。
その夜、
初めて思った。
私の眼は、
思っていたよりずっと、
狭い。
第二章 冷たい事実と、海鳴りの館
嵐ヶ島へ行くことになった。
理由は単純。
追破啓が、
事件から十年近くになるのを機に、
続編を書くため現地調査をしているという。
渚が言った。
「洋々館へ行きたい」
私は反対した。
晴も反対した。
結局、
三人で行った。
人間は、
危険だと分かっている場所ほど、
一人では行かせたくなくなる。
フェリーは、
嫌になるくらい揺れた。
日本海。
灰色。
空も海も境界がない。
渚は甲板で、
ずっと島を見ていた。
「怖い?」
私が訊く。
「はい」
「帰る?」
「帰りません」
「強いね」
「違います」
渚は言った。
「怖いまま来ただけです」
私は少し笑った。
どこかで聞いた哲学だった。
*
洋々館は、
海へ突き出した崖の上にあった。
黒い屋根。
石造りの外壁。
尖った窓。
蔦。
海風。
観光地の洋館とは違う。
人が住むために作られたのに、
今では人間を拒んでいるように見える。
玄関を開ける。
埃。
木の匂い。
古い暖炉。
そして、
男がいた。
四十代半ば。
眼鏡。
細身。
ノートパソコン。
追破啓。
「伊織渚さん」
彼は立ち上がった。
「よく来られたね」
「追破さん」
「取材なら歓迎するよ」
「私はあなたと話しに来たんです」
「それも取材だ」
視線が私へ来る。
「あなたが宵野鏡?」
「胡散臭そう?」
「非常に」
「ありがとう」
彼は笑わなかった。
「過去が視えるらしいね」
「そういう噂」
「便利な商売だ」
「あなたほどじゃない」
晴が小声で、
「鏡」
と制止する。
追破は机から資料を取り出した。
「ちょうどいい」
写真。
捜査資料。
口座記録。
診療記録の写し。
「事実を確認しよう」
渚の肩が硬くなる。
追破は読む。
「凶器は伊織渚の管理下にあった包丁」
一枚。
「父親の身体に致命傷」
一枚。
「事件後、救急要請なし」
一枚。
「父親の死後、遺産と保険金の受取対象」
一枚。
「法廷で動機について明確な説明なし」
そして、
渚を見る。
「この積み重ね以上に、何が必要なんだ?」
私は言った。
「心」
追破が笑った。
「心?」
「動機」
「動機なら金だ」
「誰が決めたの」
「証拠」
「証拠は、金を受け取れる立場だったことを示してるだけ」
追破の目が鋭くなる。
「君は屁理屈が得意らしい」
「あなたは物語作りが得意みたいね」
「私はノンフィクション作家だ」
「なお悪い」
「事実を組み立てるのが仕事だ」
「組み立てた瞬間に、もう解釈でしょう」
沈黙。
追破は私を見る。
「なら君は、彼女が父親を刺していないと言えるのか」
「言えない」
「第三者がいた?」
「いない」
「事故?」
「違う」
渚が私を見る。
私は続ける。
「彼女が刺した」
追破が笑った。
「ほら」
「でも」
私は言う。
「それが何だったのかは、分からない」
「何だそれは」
「私にも分からない」
「だったら、私のほうが誠実だ」
その言葉が、
刺さった。
追破は続ける。
「私は証拠が示すところまで書く。君は、証拠が気に入らないから『人間には見えない部分がある』と逃げる」
私は反論できなかった。
それは、
少しだけ正しかった。
事実が不都合だから、
「心」という曖昧な言葉へ逃げる。
それならただの願望だ。
愛が、
事実を曲げる免罪符になったら終わりだ。
*
その夜。
嵐になった。
風。
雨。
海。
館全体が揺れている。
私は客室の窓辺にいた。
黒い海。
月はない。
ドアが鳴る。
晴。
「入るよ」
「もう入ってる」
手にはハーブティー。
「いつもそれね」
「君が飲むから」
「毒入ってない?」
「予言者が訊く?」
晴はカップを置く。
私は言った。
「追破の言うこと、間違ってない」
「うん」
即答。
「そこは否定しなさいよ」
「事実を大事にすること自体は正しいでしょう」
「……」
「でも」
晴が隣へ座る。
「事実だけで人間を全部説明できるってところは、違うと思う」
私は手袋を見る。
「私ですら、全部見て分からなかった」
「だから何」
「私の能力って何なの」
「知らない」
「最低」
「でも」
晴が私の手を取る。
手袋越し。
「鏡は、カメラじゃないでしょう」
「カメラより性能いい」
「そういう話じゃない」
晴の手は、
いつも少しだけ荒れている。
工具。
油。
金属。
人間の仕事をしている手。
「君はさ」
彼が言う。
「人を見るとき、何を見てる?」
「未来とか過去」
「それだけ?」
私は答えられない。
「莉乃のときも、律のときも」
晴は言う。
「見えてるものをそのまま渡さなかった」
「それは」
「その人がどう生きるかを見てたからじゃない?」
私は晴を見る。
「事実を曲げるって話じゃないよ」
「……」
「起きたことは起きたこと」
「うん」
「でも、その中にいた人間を、起きたこと一個だけに閉じ込めない」
晴が少し笑う。
「それって、愛なんじゃない」
私は黙った。
「愛があれば真実が変わる?」
「違う」
晴は首を振る。
「愛があるから、変えないんじゃない?」
「何を」
「見たくない事実も見る」
風が窓を叩く。
「それでも、その人全部を一つの事実にしない」
私は、
不思議な気持ちになった。
愛とは、
優しい方向へ解釈することだと思っていた。
違うのかもしれない。
愛とは、
相手に都合のいい物語を与えることではない。
むしろ、
都合の悪い事実を見ても、
そこで見ることをやめないこと。
「私」
私は言った。
「渚を無実にしたいわけじゃない」
「うん」
「刺したことは消えない」
「うん」
「じゃあ」
私は晴の手を見る。
「何を探してるんだろ」
晴は答えなかった。
それでよかった。
今の私に必要なのは、
答えではなく、
問いを捨てないことだった。
第三章 破られた手紙の温度
翌朝。
嵐はさらに強くなっていた。
船は出ない。
携帯の電波も不安定。
洋々館は、
海の中に取り残された箱になった。
私は二階へ上がった。
父親の書斎。
事件現場。
鍵。
扉。
開く。
十年近い時間が、
匂いになって残っている。
古い紙。
木材。
潮。
埃。
床を歩く。
あの日の映像が、
勝手に重なる。
十五歳の渚。
父親。
包丁。
赤。
私は首を振った。
映像ではなく、
部屋を見る。
本棚。
机。
車椅子の跡。
暖炉。
そして、
棚の裏。
白いもの。
紙。
手を伸ばす。
破れた紙片だった。
焼け焦げている。
文字。
ほとんど読めない。
一部だけ。
《渚へ》
心臓が鳴った。
私は手袋を外した。
でも、
すぐには触らなかった。
怖かった。
また映像だけが来るかもしれない。
また、
見ても分からないかもしれない。
「それでいい」
自分に言った。
分からなくても。
私は紙へ触れた。
*
最初に聞こえたのは、
呼吸だった。
苦しい。
浅い。
長い。
男の呼吸。
父親。
書斎。
車椅子。
身体は痩せている。
机には薬。
診療記録。
紙。
父親が文字を書く。
《渚へ》
手が震えている。
書いては破る。
書いては止まる。
痛みで身体を折る。
場面が変わる。
夜。
雨。
渚。
十五歳。
「病院行こう」
『もういい』
「よくないよ」
『渚』
「先生呼ぶから」
『やめてくれ』
父親が泣いている。
大人が、
子どもの前で。
『もう耐えられない』
渚が首を振る。
『頼む』
「嫌だ」
『お願いだ』
「嫌!」
私は息ができなくなった。
父親は、
娘へ頼んでいる。
自分の苦痛を、
終わらせてほしいと。
それは愛ではない。
いや、
愛だけではない。
苦痛。
恐怖。
絶望。
依存。
そして、
娘への残酷な委託。
全部が混ざっている。
『渚』
男は泣く。
『お前に頼むことじゃない』
一瞬。
父親は、
はっきりそう言った。
『分かってる』
渚も泣いている。
『でも』
父親は自分の胸を押さえる。
呼吸。
痛み。
『怖いんだ』
その言葉。
私は、
胸を掴まれた。
怪物でも、
聖人でもない。
死に近い場所で、
ただ怖がっている一人の人間。
渚も、
ただ十五歳の少女。
その夜、
二人とも、
正しい選択肢を持っていなかった。
ここに、
綺麗な英雄はいない。
ただ、
限界まで追い詰められた二人の人間がいる。
渚は刃物を握る。
手が震える。
父親がその手に、
自分の手を重ねる。
『ごめんな』
「やめよう」
『ごめんな』
「お願いだから」
『ごめんな』
何度も。
「私、できない」
『できなくていい』
父親が言う。
『できなくていいんだ』
私は混乱した。
ではなぜ。
次。
父親の痛みが、
激しくなる。
叫び。
床。
薬。
効かない。
渚が助けを呼ぼうとする。
父親が止める。
そして。
決定的な瞬間。
私は、
見た。
渚が刃物を持つ。
泣いている。
父親も泣いている。
渚が、
決断する。
そこに、
一つの感情などなかった。
愛。
恐怖。
怒り。
慈悲。
絶望。
自己犠牲。
混乱。
全部。
全部あった。
だから以前の私は、
何も読み取れなかったのだ。
人間の真実が、一つの言葉に収まらなかったから。
私は膝をついた。
映像は続く。
父親が、
最後に渚を見る。
『渚』
声が小さい。
『ごめん』
そして、
もう一言。
『愛してる』
渚の顔が、
壊れる。
父親は息を止める。
少女は、
その場で泣かない。
泣けば、
自分のしたことの意味が崩れると思ったのかもしれない。
あるいは、
何も感じられなくなっていたのかもしれない。
私は、
そこまでしか分からなかった。
そして今度こそ、
分からないことを、
無理に埋めなかった。
*
意識が戻る。
私は床に座っていた。
紙を握っている。
涙が落ちる。
「馬鹿」
誰に言ったのか分からない。
父親?
渚?
私?
全部。
この出来事を、
「愛の殺人」
と呼べば綺麗すぎる。
「冷血な犯行」
と呼べば残酷すぎる。
どちらも、
人間を一つの物語へ閉じ込める。
事実は、
渚が父を死なせた。
その事実は消えない。
でも。
その夜にあったものは、
金欲だけではなかった。
まして、
一言で説明できる怪物性でもない。
私はようやく理解した。
愛とは、
答えを美しくすることではない。
答えを、
一つにしないことなのかもしれない。
*
背後で音。
渚が立っていた。
「……何を見たんですか」
私は振り返った。
言葉が出ない。
渚が震える。
「父は」
私は立った。
彼女の前まで行く。
「あなたを愛してた」
渚の唇が開く。
「でも」
私は続ける。
「それだけじゃない」
彼女の目が揺れる。
「お父さんは怖がってた。苦しんでた。あなたにとても残酷なことを頼んだ」
涙。
「あなたも怖かった。嫌だった。逃げたかった」
渚の膝が揺れる。
「私は」
「うん」
「父を助けたんですか」
私は、
すぐには答えなかった。
ここで「そうよ」と言えば、
また物語になる。
綺麗な物語。
誰かを救うために罪を背負った娘。
それも、
事実を飲み込みすぎる。
だから。
「分からない」
私は言った。
渚が泣いた。
「でも」
私は彼女の手を取る。
「あなたが、お父さんを憎んで金のためだけに刺したんじゃないことは視えた」
渚の涙。
「それから」
私は言った。
「最後に、お父さんはあなたへ言った」
彼女が息を止める。
「ごめん」
一滴。
「愛してる」
渚は、
その場に崩れた。
声が、
出なかった。
最初は。
ただ口を開けて、
呼吸だけが漏れる。
そのあと、
十年分の海が、
一人の女の身体から溢れた。
「お父さん」
泣く。
「お父さん……」
私は隣に座った。
抱きしめなかった。
言葉もかけなかった。
晴が、
扉の外にいるのが見えた。
入ってこなかった。
三人とも、
ただそこにいた。
愛は、
いつも何かをすることではない。
泣いている人間の物語を、
勝手に完成させないことも、
愛なのかもしれなかった。
第四章 愛がなければ視えないもの
午後。
ホール。
追破。
渚。
晴。
私。
そして島の管理人たち。
外では海鳴り。
追破は紙片を調べていた。
「父親の筆跡である可能性は高い」
彼は言った。
「だが、肝心な箇所は焼けている」
「そうね」
「つまり証拠にはならない」
「そうね」
追破が眉を寄せる。
「ずいぶん素直だな」
「事実だから」
私は答える。
「あなたが間違っていたのは、事実を集めたことじゃない」
「なら何だ」
「事実を集めたあと、他の可能性を全部殺したこと」
追破の目が鋭くなる。
「可能性?」
「あなたは、保険金がある。だから金目当て。救急車を呼んでいない。だから冷血。黙っていた。だから反省していない」
私は一歩進む。
「一つ一つは事実」
「そうだ」
「でも、矢印はあなたが引いた」
沈黙。
「事実と事実のあいだには、余白がある」
私は言った。
「人間が生きていた余白」
「詩的だな」
「嫌い?」
「嫌いだ」
「私も昔は嫌いだった」
追破が笑う。
「では君は、愛さえあれば犯罪を美化していいと言うのか」
「逆」
私は即答した。
「愛があるから、起きたことを消さない」
渚がこちらを見る。
「彼女は父親を刺した」
空気が固まる。
私は渚から目を逸らさない。
「その事実は消えない」
渚が、
ゆっくり頷く。
「お父さんが十五歳の娘へ背負わせてはいけないものを背負わせたことも、消えない」
追破が黙る。
「でも」
私は言う。
「だからといって、渚という人間を『金目当ての悪魔』という一行へ閉じ込める権利も、あなたにはない」
「君にもないだろう」
「そうよ」
追破が止まる。
「私にもない」
私は自分の手を見る。
「私は過去を全部視た」
「……」
「それでも、彼女の全部は分からなかった」
私は笑った。
少しだけ。
「だから、もう分かったふりをやめる」
追破の顔から、
少しだけ敵意が消えた。
「それでは真実など永遠に分からない」
「そうかもしれない」
「不満じゃないのか」
「前はね」
私は言う。
「でも、人間を完全に理解できるって思うほうが、よっぽど怖い」
海が鳴る。
窓。
風。
「愛って」
私は続ける。
「相手を正しい人にすることじゃない」
渚。
晴。
追破。
「罪を消すことでもない」
黒い手袋。
「愛しているからこそ、見たくないものまで見る」
父親の残酷な懇願。
渚の選択。
「でも、見たくないものを見たあとで」
私は息を吸う。
「その一場面だけで、その人全部を終わらせない」
静かだった。
追破が訊く。
「それが愛か」
「知らない」
私は笑った。
「胡散臭い預言者だから」
晴が、
少し笑った。
*
追破は、
すぐに考えを変えたわけではなかった。
そんなに簡単なら、
人間は苦労しない。
ただ、
彼は新刊の原稿を一度止めた。
「書き直す」
と言った。
「美談にはしない」
「しないで」
「君の超能力も書かない」
「助かる」
「でも、私が間違っていた可能性については書く」
私は頷いた。
「それでいい」
彼は渚へ向き直る。
しばらく言葉を探して、
「あなたに、もう一度話を聞きたい」
と言った。
渚はすぐには答えない。
それもよかった。
返事をする義務などない。
やがて、
「いつか」
と言った。
追破は頷いた。
それだけだった。
世界は、
劇的には変わらない。
本が一冊訂正されたところで、
ネットの噂は消えない。
父親も戻らない。
渚の過去も消えない。
でも、
一つの物語に閉じ込められていた人間が、
もう一度、
自分の言葉を持ち始める。
それは、
奇蹟と呼ぶには小さい。
でも、
人生を生き直すには、
十分な大きさだった。
エピローグ 見えないあなたを見つめる
帰りの船。
嵐は去った。
嘘みたいな青空だった。
海が光っている。
私は甲板に立って、
黒い手袋を見ていた。
長いこと、
これを境界だと思っていた。
他人の痛みから自分を守る皮膚。
その考えは、
今も変わらない。
境界は必要だ。
愛するからって、
全部を侵入させる必要はない。
全部を理解する必要もない。
むしろ。
愛しているからこそ、
境界が必要なのかもしれない。
他人を、
自分の一部にしてしまわないために。
「鏡」
晴。
「何」
「また哲学してる?」
「海に捨てるわよ」
「泳げない」
「知らない」
彼は隣へ立つ。
私は手袋を外した。
風が、
素手を撫でる。
「晴」
「うん」
「私、あなたの過去も見ようと思えば見える」
「知ってる」
「未来も」
「うん」
「怖くない?」
晴は考えた。
「少し」
「正直」
「でも」
彼が海を見る。
「全部見ても、鏡には分からないことあるでしょう」
腹が立った。
「今その話してたの」
「聞いてないけど」
「何で分かるの」
「顔」
私は彼の頬へ手を伸ばした。
素手。
触れる。
過去が、
流れ込もうとする。
子どもの晴。
時計。
父。
学校。
悲しみ。
未来。
老いた手。
笑い。
別れ。
私は、
閉じた。
見ない。
晴が訊く。
「見なかった?」
「見なかった」
「珍しい」
「必要ない」
「何で」
私は頬へ触れたまま、
彼を見る。
「全部見たって」
風。
潮。
「あなたを全部知ったことにはならないから」
晴は少し笑う。
「じゃあ、どうするの」
私は答える。
「見つめる」
「何それ」
「ずっと」
「怖い」
「うるさい」
でも。
たぶん、
そういうことなのだ。
理解できたから愛するのではない。
理解できないから、
知ろうとする。
今日。
明日。
その次の日。
相手が昨日と違う人間になっても。
自分の理解からはみ出しても。
間違っても。
時には許せなくても。
それでも、
一つの言葉で終わらせず、
もう一度見る。
それを、
愛と呼ぶのかもしれない。
私は海を見る。
寄せては返す波。
同じ形は二度とない。
それでも、
海は海だ。
人間も、
たぶんそう。
変わる。
矛盾する。
昨日の言葉を裏切る。
優しい。
残酷。
正しい。
間違う。
全部が交じる。
だから、
一枚の写真では足りない。
一つの事実でも足りない。
一つの罪でも。
一つの善行でも。
一つの愛でも。
人間は、
もっと面倒だ。
だから愛おしい。
「鏡」
晴が言う。
「これで終わり?」
私は彼を見る。
「何が」
「魔女とか、未来とか、迷子とか」
少し考える。
「知らない」
「やっぱり」
「でも」
私は手袋をポケットへしまう。
「一つだけ分かった」
「何?」
私は笑う。
「見えることと、視えることは違う」
晴が黙る。
「事実は見える」
海面が光る。
「でも」
私は、
彼の手を握った。
未来を見るためではない。
過去を読むためでもない。
今、
ここにいる人間の温度を確かめるために。
「愛がなければ視えないものが、この世界にはある」
晴の指が、
私の指を握り返す。
私は未来を見ない。
今日は。
ただ、
隣の人を見る。
完全には分からない。
きっと、
ずっと分からない。
それでいい。
他者とは、
解き明かすための謎ではない。
一緒に生きるために、
何度でも見つめ直す存在なのだから。
船は進む。
海は続く。
空は広い。
未来は、
見ようと思えば視える。
でも私は、
少しだけ目を閉じた。
波の音。
晴の体温。
自分の呼吸。
そして、
まだ名前のついていない明日。
それだけで、
十分だった。
私は宵野鏡。
胡散臭い預言者。
未来を見る女。
過去を見る女。
そして最後にようやく、
見えないものを、見えないまま愛することを覚えた女。
海鳴りの向こうで、
うみねこの声がした。
何を告げているのかは、
分からない。
私はもう、
すべてを解読しようとは思わなかった。
ただ、
その声がそこにあることを、
静かに聞いていた。
愛がなければ視えないもの。
たぶんそれは、
真実そのものではない。
真実の中で、
それでも生きていた、
一人の人間なのだ。
終
0 件のコメント:
コメントを投稿