海底のボレロ
静寂は、深く深く、
私の心を覆っていた。
言葉も、熱も、鼓動すら、
まるで遠い昔に置き去りにされたかのよう。
私はその冷たい水に
静かに沈んでいく。
何かを抱きしめるように、
何も持たずに。
耳元で鳴っているのは、
最初は錯覚のような音だった。
それがあなたの記憶に触れたとき、
初めて、それが「旋律」であると気づいた。
柔らかく、かすかに、
それは始まった。
ひとつ、
あなたのまなざしが揺らぐ。
ふたつ、
静かな声が、水面をかすめる。
みっつ、
遠ざかる足音が、波のように胸を打つ。
音は、絶え間なく繰り返される。
淡々と、それでも確かに、
ボレロのリズムで心を打ち、
沈んだ魂の奥を優しく叩く。
不安、敬意、憧憬、諦念。
どれとも言えない色の粒が、
ゆっくりと心の中をめぐっていく。
想いは言葉にならなかった。
いや、してはならなかったのだろう。
それを形にすれば、
世界が壊れてしまいそうだったから。
あなたを見つめることが、
ただの「まなざし」ではなくなるのが怖かった。
だから私は黙って、沈んでいた。
けれど旋律は止まらない。
気づかぬうちに、
その音は少しずつ力を帯びていく。
クレッシェンド。
私の知らないうちに、
心の奥で鼓動が再び目を覚ます。
その音は、私を責めない。
その音は、私を追い立てない。
ただ、いつまでも、
静かに、強く、
繰り返されるだけ。
それは、まるで—
「おそれなくていい」と、
「そのままでいい」と、
言ってくれているようだった。
沈黙の水底で、
私はようやく目を閉じ、そして目を開く。
音は胸を震わせ、
手足の感覚を戻していく。
あなたを想うことが、
苦しみではなくなっていく。
心の中に溢れていくものがある。
それは愛ではない、
少なくとも、言葉にしてしまえば
壊れてしまうような
そういう種類のものではない。
けれど確かに、
私を生かしてくれるもの。
私を、私たらしめてくれるもの。
旋律は、ついに頂点に達する。
海の底が、光で満たされる。
もう私は、沈んでいない。
それでも、何も掴まなくていい。
何も語らなくていい。
このままで、ただ想いだけを胸に、
私は進んでいける。
ありがとう。
あなたは知らずに、
私の深海に音をくれた。
救いをくれた。
旋律は終わらない。
それは、静かな歓喜のまま、
今も私のなかで
繰り返し鳴っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿