2025-09-02

ハマス

 


前史と土壌の形成

パレスチナでイスラム主義が社会に根を張るプロセスは、1967年以降の占領下で行政・福祉の空白を民間宗教ネットワークが穴埋めしたことに端を発する。ガザではモスク、学校、診療、奨学、孤児支援といった“ダアワ(勧告・福祉)”活動が、宗教的信頼と組織的接着剤を育てた。政治権威や公的サービスへの不信が高まるほど、生活に触れる小さな援助は信用資本となり、宗教団体は地域の“代替インフラ”へと変容していく。

同時に、世俗民族主義を掲げるPLO系勢力が国外基盤・武力路線で揺れるなか、ガザの草の根ネットワークは“現場優位”の正統性を積み上げる。宗教的規範は倫理秩序として支持され、慈善は“社会契約”として機能する—この二層の蓄積が、のちの武装抵抗の“母体”を支えた。


設立の瞬間と憲章が定めた境界

1987年末、第一次インティファーダで抗議が爆発する中、宗教福祉ネットワークの指導層は“運動”を明確な政治・軍事組織へと切り替えた。名称が示す通り、ハマスは“イスラーム抵抗運動”として自己定義し、政治(指導部)・社会(ダアワ)・軍事(カッサーム旅団)の三位一体で発足する。

1988年の“憲章”は、宗教的—歴史的フレームでパレスチナ全土を不可分と位置づけ、武力による解放とイスラーム規範に基づく秩序を運動目的に据えた。ここで重要なのは二点。第一に、イスラエルを国家として承認せず、解体を志向する敵対構造を宣言したこと。第二に、慈善・教育・布教の“善”と、軍事・破壊工作の“力”を同一の使命に束ねた組織設計である。これにより福祉資源・社会的信頼は、動員・潜伏・補給の基盤ともなる“二重用途(デュアルユース)”へ接続された。


戦術・資金・統治の三重構造

  • ■戦術の進化 はじめは即席爆発物・銃撃・誘拐など低技術の非対称攻撃から、やがて自爆攻撃、対人・対施設テロ、ロケット飽和射撃、越境襲撃へと拡張した。標的選定には軍だけでなく市民を含む“無差別性”が混入し、国際的なテロ組織指定(米・EU・日本ほか)を招く決定的要因となった。これに対しイスラエルは、標的型作戦、防壁・検問体制、迎撃・探知能力の高度化、兵站遮断など“損耗—抑止—劣化”の多段階ドクトリンで応じていく。

  • ■資金と後背地 財源は複線的だ。域内税収や物資の課徴、慈善名目の寄付、ディアスポラ送金、外部支援(なかでもイランなどの後押し)、密輸・トンネル経済が混在し、軍事・統治・宣伝へ配分される。慈善団体や教育機関は社会的正統性を強化するが、同時に資金や物資が軍事へ“転用”されるリスクを常時はらむ。

  • ■統治のパラドクス 2006年の選挙勝利と2007年のガザ掌握により、“抵抗組織”は“統治主体”を兼ねることになった。だが統治は、治安・汚職・サービス供給・経済封鎖・外部依存といった現実の制約を伴う。住民福祉を支えるほど軍事力の“温床”との批判を受け、軍事路線を優先すれば住民生活や外交回廊が狭まる。ここに、統治と武装の“ゼロサム性”が露呈する。


国際法と正統性のフレーミング

イスラエルは国際的に承認された国家として、対テロ自衛の枠組み(国連憲章51条の慣習的解釈に基づく自衛権、国内刑法・テロ対策法制、国際人道法の適用)で作戦を位置づける。他方、ハマスは“抵抗”の名で市民を標的とする攻撃を繰り返し、国際人道法の核心(区別原則・比例原則・軍事的必要性)に反する非合法性を背負う。加えて、学校・病院・宗教施設・住宅など民用インフラに軍事目的を混在させる戦術は、住民保護の観点から重い批判を招く。

法廷・国際機関・メディア空間では、“被害の可視化”や“語り”が正統性を左右するため、情報戦(戦果/被害の提示、映像・証言の流通、言語の選定)が併走する。イスラエル側は“国家の責務”としての自衛・被害抑制・警告措置を強調し、ハマス側は“封鎖と占領”の文脈で住民被害を集約する。ここで問われるのは、誰が“意図的に市民を狙ったか”、そして“民間被害の発生が戦術と配置のどちらに由来するか”という、国際人道法の根幹的な争点である。


イスラエルの安全保障上の含意

ハマスの設立は、イスラエルにとって“可視的部隊”と“不可視ネットワーク”を併せ持つ脅威の誕生を意味した。対処は次の四層が絡む。

  • ■短期運用 指揮・補給・製造拠点の無力化、越境・航空脅威の抑止、誘拐・人質事案の救出、資金流の遮断。作戦は、住民被害を抑える手順(警告・避難回廊・精密誘導)と、戦術的奇襲への迅速適応が鍵となる。

  • ■中期統治 “誰がガザを安定的に統治するか”という受け皿問題。統治空白はテロ再生産の温床であり、代替行政・治安・復旧の“最低限の秩序”をどう確保するかが安全保障に直結する。

  • ■長期抑止 周辺の後背支援(国家・非国家)の影響を減衰させ、ミサイル・UAVなどの技術拡散を抑える。限定戦の繰り返し(通称“芝刈り”)は即効的だが、政治解の補助なしにはループ化する。

  • ■国際環境 二国間・多国間の枠組み(合意、復興、監視、越境物流管理)が“暴力の費用”を上げ、“非暴力の利得”を現実化できるか。安全保障は外交・経済と切り離せない。


帰結と分岐点

ハマスの設立は、宗教福祉が政治・軍事へと“相転移”するモデルを示した。福祉が信頼を、信頼が動員を、動員が武装を支え、武装が再び福祉を政治化する。だがこの循環は、市民標的を含む暴力の採用によって国際的なテロ指定と制裁を呼び込み、統治を不安定化させる“自己矛盾”を内包する。イスラエル側は国家としての自衛と住民被害低減の両立を迫られ、軍事・法・外交の各レイヤーで一貫性が試される。

分岐は三つある。第一に、武装と統治の“分離”—社会サービスの非軍事化と、軍事部門の排除・無力化。第二に、資金・物流・教育の“二重用途”を断つ制度設計—監査・検証・透明性。第三に、住民にとって“暴力よりも有利な選択肢”を作る環境—雇用・移動・市場アクセス・行政の予見可能性。いずれも容易ではないが、ここを動かさない限り、福祉が武装を強化し、武装が福祉を政治化する循環は断てない。

この構図を直視すれば、“ハマス設立”の核心は、思想や歴史の是非だけではなく、制度・資金・軍事・統治が一体化した“設計”そのものにあるとわかる。国家はその設計が生む現実に対処し続ける責務を負い、その正統性は、法に適う自衛と市民保護の実績によってのみ支えられる。

石の蜂起:第一次インティファーダの記憶

 


では、第一次インティファーダをじっくり解説するね。水面下で揺れる民衆の波を、静かにたどっていこう。


石の蜂起:第一次インティファーダの記憶

1. 静かなる導火線

1987年12月、ガザ地区のジャバリヤ難民キャンプで、イスラエル軍のトラックとパレスチナ人のバンが衝突し、4人が死亡した。この事故は、単なる交通事故ではなく、報復的な意図があったという噂が広まり、怒りが爆発。葬儀は抗議へと変わり、やがて暴動が広がっていった。

この出来事を契機に、パレスチナ人による大規模な民衆蜂起が始まった。これが「第一次インティファーダ(蜂起)」と呼ばれる運動の幕開けだった。

2. 民衆の抵抗:石と叫び

インティファーダは、国家間の戦争でも、組織的なゲリラ戦でもなかった。民衆が石を手に立ち上がった運動だった。若者たちは通りに出て、イスラエル兵に向かって石を投げ、タイヤを燃やし、検問所を封鎖した。

イスラエル側は、催涙ガスやゴム弾、時には実弾を用いて鎮圧を試みたが、蜂起はガザからヨルダン川西岸へと広がり、エルサレムにも波及した。この運動は、単なる暴動ではなく、税金のボイコット、学校の閉鎖、労働ストライキなどの非暴力的手段も含まれていた。

3. 組織と思想の変化

この蜂起の中で、パレスチナ解放機構(PLO)は民衆の支持を得る一方、イスラーム主義組織ハマスが創設され、独自の抵抗路線を打ち出した。ハマスは、イスラエルとの共存を否定し、武力による解放を掲げた。

イスラエルにとって、インティファーダは治安維持の限界を突きつけるものだった。入植地の安全確保に莫大な費用がかかり、国内でも「軍事力だけでは解決できない」という声が高まった。

4. 国際社会の目と和平への道

インティファーダの映像は、海外メディアによって世界中に報道された。石を持つ少年と銃を持つ兵士という構図は、国際世論に強い印象を与え、イスラエルへの批判が高まった。

一方で、イスラエル国内でも議論が活発化。軍や政府への批判が起こり、和平への模索が始まった。1991年にはマドリードで中東和平会議が開催され、1993年にはアメリカの仲介でオスロ合意が成立。これにより、パレスチナ自治政府が設立され、PLOはイスラエルを公式に承認した。


民衆の波紋:記憶と変革

第一次インティファーダは、武力ではなく民衆の意思によって歴史を動かした運動だった。その波紋は、イスラエルにもパレスチナにも深く刻まれ、和平への道を切り開く契機となった。

石の投擲は、単なる抵抗ではなく、声なき声の叫びだった。その叫びが、やがて交渉の扉を開いたのかもしれないね。


十月の逆襲:第四次中東戦争の深層

 


では、歴史的事実に基づいて、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)をじっくり解説するね。水面下で揺れる戦争の波を、静かにたどっていこう。


十月の逆襲:第四次中東戦争の深層

1. 戦争の背景:静かなる緊張

1973年10月6日、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール(贖罪の日)」に、エジプトとシリアが突如としてイスラエルに対して攻撃を開始した。この戦争は、第三次中東戦争(1967年)でイスラエルが占領したシナイ半島ゴラン高原の奪還を目的としたものだった。

イスラエルは、前回の戦争で圧倒的な勝利を収めたことで、アラブ諸国の軍事力を過小評価していた。その油断が、今回の奇襲を許すことになった。

2. 開戦と戦局の推移

エジプト軍はスエズ運河を渡り、シナイ半島に進攻。シリア軍はゴラン高原に突入し、イスラエル防衛線を突破した。開戦初期、イスラエルは予備役の動員が間に合わず、苦戦を強いられた。

しかし、数日後には予備役部隊が前線に到着し、戦局は徐々に反転。イスラエル軍はシナイ半島で反撃を開始し、スエズ運河西岸にまで進出。ゴラン高原では、激戦の末にシリア軍を押し返し、ダマスカス近郊まで迫る勢いを見せた。

3. 国際的な影響と停戦

戦争は冷戦下の米ソ対立を背景に展開された。アメリカはイスラエルを支援し、ニッケル・グラス作戦により大量の軍事物資を空輸。一方、ソ連はエジプトとシリアに支援を行った。

この戦争を契機に、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエル支援国に対して原油の輸出制限を実施。これが第一次オイルショックを引き起こし、世界経済に深刻な影響を与えた。

10月24日、国連の停戦決議により戦闘は終結。イスラエル軍はエジプト領内にまで進出していたが、国際的な圧力により撤退を余儀なくされた。

4. 戦争の結果とその後

軍事的には、イスラエルは戦局を逆転し、戦争終盤には優位に立っていた。しかし、戦争初期に受けた打撃は大きく、「イスラエル不敗の神話」が崩れたとも言われる。

この戦争を契機に、エジプトはイスラエルとの和平交渉に転じ、1979年にはエジプト=イスラエル平和条約が締結された。これにより、イスラエルはシナイ半島を返還し、エジプトはアラブ諸国の中で初めてイスラエルを公式に承認した。


戦争の波紋:記憶と教訓

第四次中東戦争は、軍事的な衝突だけでなく、外交・経済・心理のすべてに影響を与えた戦争だった。奇襲の衝撃、反撃の執念、そして和平への転換。そのすべてが、現代中東の地図を描き直す力となった。

この戦争の記憶は、今もなお水底に沈むように静かに残り続けている。

ミュンヘンの影:五輪の祭典に忍び寄った悲劇

 


1972年のミュンヘン五輪で起きた悲劇をじっくり解説するね。水面に映る記憶のように、静かに深く語っていこう。


ミュンヘンの影:五輪の祭典に忍び寄った悲劇

平和の祭典に潜む緊張

1972年9月、西ドイツ・ミュンヘン。第二次世界大戦後の再建を象徴するように、世界はスポーツを通じた友好と平和を祝っていた。だが、その祝祭の裏には、国際政治の緊張が静かに潜んでいた。

この年のオリンピックは、ナチス政権下で開催された1936年ベルリン大会の記憶を払拭し、「開かれたドイツ」を世界に示すことを目的としていた。そのため、警備はあえて控えめにされ、選手村は自由で開放的な雰囲気に包まれていた。

しかし、そんな空気を突き破るように、9月5日未明、パレスチナ過激派組織「黒い九月」のメンバー8人がイスラエル選手団の宿舎に侵入。2人を殺害し、9人を人質に取るという衝撃的な事件が発生した。

黒い九月とは何者か?

「黒い九月」は、パレスチナ解放機構(PLO)の一派で、ヨルダン内戦(1970年)での敗北を契機に結成された秘密組織だった。彼らは、パレスチナ人の存在を国際社会に強く印象づけるため、世界的な注目を集める場としてオリンピックを標的に選んだ。

犯人たちは、イスラエルに収監されているパレスチナ人や、他国で拘束されているテロリストの釈放を要求。中には、日本赤軍の岡本公三の名も含まれていた。

事件の経緯

襲撃は午前4時半頃に始まった。覆面をした武装グループがフェンスを乗り越え、イスラエル選手団の部屋へ突入。コーチのモシェ・ワインバーグと重量挙げ選手ヨセフ・ロマーノが抵抗し、命を落とした。

残る9人は拘束され、手足を縛られた状態で宿舎に監禁された。犯人たちは、イスラエルと西ドイツに対し、234人の囚人の釈放を要求。交渉は難航し、時間だけが過ぎていった。

西ドイツ当局は、犯人の国外移送を装い、空港での救出作戦を計画。しかし、準備不足と情報の錯綜により、作戦は失敗。人質9人全員が死亡し、警官1人と犯人5人も命を落とすという最悪の結末となった。

世界の反応とその後

事件は世界中に衝撃を与えた。オリンピックは一時中断され、追悼式が行われたが、国際オリンピック委員会は「The Games Must Go On(競技は続ける)」と宣言。この判断には賛否が分かれた。

イスラエルは事件後、報復として「神の怒り作戦」を開始。事件の首謀者とされる人物を世界各地で暗殺するという、諜報機関モサドによる極秘作戦が展開された。

また、この事件を契機に、西ドイツでは対テロ特殊部隊「GSG9」が設立され、国際的なテロ対策の転換点となった。


平和の祭典に刻まれた痛み

ミュンヘン事件は、スポーツと政治の境界がいかに脆弱であるかを示した出来事だった。犠牲となった選手たちは、国家の代表としてではなく、ひとりの人間として、夢と誇りを胸に競技に臨んでいた。

その命が、政治的な主張の犠牲となったことは、今もなお語り継がれるべき記憶だよ。水面に広がる波紋のように、あの日の衝撃は今も世界に静かに響いている。


日本赤軍とは何か:革命の幻影とその軌跡

 


ここからはフェアな視点で、日本赤軍の設立から現在までを、歴史の流れに沿ってじっくり解説するね。水のように流れる長文、いってみよう!


日本赤軍とは何か:革命の幻影とその軌跡

1. 背景と設立

日本赤軍(Japanese Red Army)は、1971年に重信房子奥平剛士によってパレスチナで結成された、日本の新左翼系の国際武装ゲリラ組織だよ。その前身は、1960年代の学生運動から派生した共産主義者同盟赤軍派。彼らは「世界革命」を目指し、武力による体制転覆を志向していた。

設立の直接的な契機は、赤軍派が掲げた「国際根拠地論」。これは、日本国内での革命が困難であるならば、海外に拠点を築き、国際的な支援を受けて革命を推進すべきだという考え方だった。重信と奥平は偽装結婚をしてレバノンへ渡り、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に合流。彼らは当初「アラブ赤軍」などと名乗っていたが、1974年以降に「日本赤軍」として正式に活動を開始した。

2. 活動と事件

日本赤軍は、1970年代から1980年代にかけて、世界各地で数々の武装闘争事件を起こした。代表的なものには以下があるよ:

  • テルアビブ空港乱射事件(1972年):イスラエルのロッド空港で日本人3名が無差別乱射を行い、26人が死亡、73人が負傷。
  • ハーグ事件(1974年):フランス大使館を占拠し、逮捕された仲間の釈放を要求。
  • クアラルンプール事件(1975年):米国・スウェーデン大使館を占拠。
  • ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年):日本航空機をハイジャックし、身代金と仲間の釈放を要求。

これらの事件は、国際社会に大きな衝撃を与え、日本国内でも「日本人による国際テロ」という事実に驚きと困惑が広がった。

3. 組織の構造と思想

日本赤軍は、マルクス・レーニン主義に基づく共産主義社会の建設を目指していた。彼らは日本革命を世界革命の一環と位置づけ、反帝国主義・反資本主義を掲げていた。活動拠点は主にパレスチナのベッカー高原で、軍事訓練や作戦立案が行われていた。

組織は少人数ながらも、国際的な連携を重視し、ドイツ赤軍PFLPなどと協力関係を築いていた。映画製作者の足立正生らも現地に招かれ、プロパガンダ映画の制作に関与したこともある。

4. 解散とその後

1990年代に入ると、主要メンバーの逮捕や高齢化、資金不足などにより、組織は事実上の解体状態に陥った。2001年には、獄中の重信房子が日本赤軍の解散を宣言。これにより、組織としての活動は終焉を迎えた。

ただし、同年には「日本赤軍解散宣言無効宣言」が発表され、後継団体「連帯」が結成されたとも言われている。現在も一部の元メンバーは服役中であり、国際指名手配されている人物も存在する。


終わりなき革命の夢

日本赤軍の歴史は、理想と現実の間で揺れ動いた激動の軌跡だった。彼らの行動は、時代の熱狂と絶望を映し出す鏡でもある。思想に殉じた者たちの足跡は、今もなお議論の的となり、歴史の深層に沈んでいる。


テルアビブ空港乱射事件:世界を震撼させた「赤い亡霊」




テルアビブ空港乱射事件:世界を震撼させた「赤い亡霊」

1972年5月30日、イスラエルのロッド空港(現在のベン・グリオン国際空港)で、突如として銃声が鳴り響いた。犯人はなんと日本人3名。彼らは自動小銃を手に、無差別に空港利用者を襲撃し、26人が死亡、73人が負傷するという惨劇を引き起こした。この事件は「テルアビブ空港乱射事件」または「ロッド空港事件」と呼ばれ、世界中に衝撃を与えた。

日本赤軍とは何者か?

この事件の実行犯は、日本赤軍という組織に属していた。日本赤軍は1971年に重信房子奥平剛士によって結成された、日本の新左翼系の国際武装ゲリラ組織だよ。彼らは「世界革命」を掲げ、共産主義思想に基づいて武力闘争を展開。日本国内だけでなく、中東やヨーロッパなど世界各地でテロ事件を起こしたことで知られている。

日本赤軍は、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と連携し、レバノンのベッカー高原を拠点に活動していた。彼らは「国際根拠地論」に基づき、世界各地に革命の火種を撒こうとしていたんだ。

なぜイスラエルで事件が起きたのか?

この事件は、日本赤軍単独の作戦ではなく、PFLPが主導した作戦に日本人が義勇兵として参加したものだった。イスラエルは当時、パレスチナ問題をめぐって中東諸国との緊張が高まっており、PFLPはイスラエルに対する攻撃を国際的に拡大しようとしていた。

そこで目をつけたのが、日本の過激派。日本赤軍のメンバーは、「自分たちの命を犠牲にしてでも革命を起こす」という思想に共鳴し、PFLPの作戦に加わった。彼らは日本人であることを利用し、イスラエルの空港警備の盲点を突いた。日本人観光客として入国し、スーツケースに隠した武器で襲撃を開始したのだ。

実行犯たちの運命

事件を起こしたのは、岡本公三、奥平剛士、安田安之の3人。奥平と安田は現場で死亡(自殺説と射殺説がある)、岡本は逮捕され、イスラエルで裁判にかけられた。彼は終身刑を言い渡されたが、後に捕虜交換によって釈放され、再び日本赤軍に合流したとされている。

事件の影響

この事件は、イスラエルだけでなく世界中に衝撃を与えた。日本では「なぜ日本人がこんな事件を起こしたのか?」という疑問が広がり、学生運動や新左翼運動への批判が強まった。イスラエルでは、空港の警備体制が大幅に強化され、以後のテロ対策の転機となった。

また、パレスチナ側から見ると、日本人が自らの命を賭してイスラエルに攻撃を仕掛けたことは、「国際的連帯」の象徴として受け止められた。この事件は、後の自爆テロの思想にも影響を与えたとする見方もある。


この事件は、単なるテロではなく、思想と国際政治が交錯した歴史の断面なんだ。水面下でうごめく革命の波が、遠く離れた日本から中東へと届いた瞬間だったとも言えるね。


中立という名の空白に

 灰色の夕暮れの教室で、私は黒板にチョークを走らせていた。

中立とは、空白ではない。構えである。

字を刻みながら、内心の苛立ちが滲み出るのを抑えられなかった。

学生たちは黙ってノートを取っていた。だが、一人だけ小さく息を吐く声がした。
加奈子だ。彼女は机に頬杖をつきながら、ぽつりと呟いた。

「でも先生……中立でいるのが一番安全じゃないですか?」

教室に薄い緊張が走った。私はチョークを止め、振り返る。
安全。そう、まさにその言葉が私を苛立たせる。

「安全のために沈黙を選ぶことが、中立じゃない。
それはただの回避よ。責任から、そして誰かの痛みから」

言葉を吐きながら、私自身が震えているのを感じた。


数日後。
旧友の佐伯と再会したのは、街角の小さな喫茶店だった。新聞記者として忙しい彼は、どこか疲れた目をしていた。

「お前は理想論を語れる立場でいいよな。俺たちは記事を書かなきゃいけない。どちらにも与さない“中立報道”が求められるんだ」

彼の声には、諦めとも正当化ともつかない響きがあった。
私は思わず笑った。乾いた、ひどく苦い笑いだった。

「真一、それは中立じゃない。空白だよ。
お前は誰の声を拾って、誰の声を削ってる?」

彼は目を伏せた。その沈黙が、答えだった。


さらに数週間後。
街頭で声を張り上げる田嶋透と出会った。
彼の目は燃えていた。

「沈黙は加担だ。中立を気取る奴は、結局は権力の味方になる!」

彼の激しさは、ときに私を突き放す。
だが彼の叫びは、私の胸の奥に居座る疑念をえぐり続けた。

「透、偏りすぎるのも危ういのよ」
そう言ったとき、彼はにらみつけ、しかし声を和らげた。

「偏らなきゃ見えない現実があるんだ」


季節は冬に移ろい、加奈子が私の研究室を訪ねてきた。
彼女の目には迷いがあった。

「先生……。友達がいじめられてるんです。でも私が声をあげたら、私まで狙われるかもしれなくて」

私はしばらく言葉を失った。
彼女の不安は、私が抱えている問題の縮図だった。

「加奈子。中立は“立場を持たないこと”じゃない。
自分の立場を自覚したうえで、どう責任を引き受けるかを選ぶことよ」

そのとき初めて、彼女は涙を見せた。
彼女の震える声が、私の胸を刺した。

「……じゃあ、私、友達の隣に立ちたい」


年の瀬。
佐伯が一本の記事を送ってきた。
弱者の声を丁寧に拾い、権力の歪みを真正面から書いた記事だった。

「これで記者生命は終わるかもな」
電話口の彼は苦笑していた。
だがその声は、どこか誇らしげでもあった。


そして新学期。
教室に立つ私は、再び黒板にチョークを走らせた。

中立とは、責任を引き受ける構えである。

その文字は、かつての空白を埋めるように、濃く、強く刻まれていた。

私は振り返る。
学生たちの顔には緊張と、そしてかすかな光が浮かんでいた。

その瞬間、私は確信した。
中立は沈黙ではない。
中立は、選択である。
そして私は、もう空白ではいない。

ハマス

  前史と土壌の形成 パレスチナでイスラム主義が社会に根を張るプロセスは、1967年以降の占領下で行政・福祉の空白を民間宗教ネットワークが穴埋めしたことに端を発する。ガザではモスク、学校、診療、奨学、孤児支援といった“ダアワ(勧告・福祉)”活動が、宗教的信頼と組織的接着剤を育て...