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2025-09-02

中立という名の空白に

 灰色の夕暮れの教室で、私は黒板にチョークを走らせていた。

中立とは、空白ではない。構えである。

字を刻みながら、内心の苛立ちが滲み出るのを抑えられなかった。

学生たちは黙ってノートを取っていた。だが、一人だけ小さく息を吐く声がした。
加奈子だ。彼女は机に頬杖をつきながら、ぽつりと呟いた。

「でも先生……中立でいるのが一番安全じゃないですか?」

教室に薄い緊張が走った。私はチョークを止め、振り返る。
安全。そう、まさにその言葉が私を苛立たせる。

「安全のために沈黙を選ぶことが、中立じゃない。
それはただの回避よ。責任から、そして誰かの痛みから」

言葉を吐きながら、私自身が震えているのを感じた。


数日後。
旧友の佐伯と再会したのは、街角の小さな喫茶店だった。新聞記者として忙しい彼は、どこか疲れた目をしていた。

「お前は理想論を語れる立場でいいよな。俺たちは記事を書かなきゃいけない。どちらにも与さない“中立報道”が求められるんだ」

彼の声には、諦めとも正当化ともつかない響きがあった。
私は思わず笑った。乾いた、ひどく苦い笑いだった。

「真一、それは中立じゃない。空白だよ。
お前は誰の声を拾って、誰の声を削ってる?」

彼は目を伏せた。その沈黙が、答えだった。


さらに数週間後。
街頭で声を張り上げる田嶋透と出会った。
彼の目は燃えていた。

「沈黙は加担だ。中立を気取る奴は、結局は権力の味方になる!」

彼の激しさは、ときに私を突き放す。
だが彼の叫びは、私の胸の奥に居座る疑念をえぐり続けた。

「透、偏りすぎるのも危ういのよ」
そう言ったとき、彼はにらみつけ、しかし声を和らげた。

「偏らなきゃ見えない現実があるんだ」


季節は冬に移ろい、加奈子が私の研究室を訪ねてきた。
彼女の目には迷いがあった。

「先生……。友達がいじめられてるんです。でも私が声をあげたら、私まで狙われるかもしれなくて」

私はしばらく言葉を失った。
彼女の不安は、私が抱えている問題の縮図だった。

「加奈子。中立は“立場を持たないこと”じゃない。
自分の立場を自覚したうえで、どう責任を引き受けるかを選ぶことよ」

そのとき初めて、彼女は涙を見せた。
彼女の震える声が、私の胸を刺した。

「……じゃあ、私、友達の隣に立ちたい」


年の瀬。
佐伯が一本の記事を送ってきた。
弱者の声を丁寧に拾い、権力の歪みを真正面から書いた記事だった。

「これで記者生命は終わるかもな」
電話口の彼は苦笑していた。
だがその声は、どこか誇らしげでもあった。


そして新学期。
教室に立つ私は、再び黒板にチョークを走らせた。

中立とは、責任を引き受ける構えである。

その文字は、かつての空白を埋めるように、濃く、強く刻まれていた。

私は振り返る。
学生たちの顔には緊張と、そしてかすかな光が浮かんでいた。

その瞬間、私は確信した。
中立は沈黙ではない。
中立は、選択である。
そして私は、もう空白ではいない。

2025-07-15

光のほうへ

 

■プロローグ 夢のなかの名前

ときどき、夢を見る。
名前のない夢。
顔も、輪郭も、時間さえも曖昧で、ただひとつだけ──
遠くで私を呼ぶ声だけが、くり返し響いている。

けれど、その声が届く直前で、私はいつも目を覚ます。
まるで、どこかにいる「もう会えない誰か」を、夢のなかでも見失うように。

目が覚めたあとの朝は、きまって光が薄く感じる。
部屋のカーテン越しに差し込む陽の光も、どこか白々しく、熱を持たない。

私のなかには、ずっと昔から一つの欠けた場所があって、
そこには名前を呼ばなかった記憶が、静かに横たわっている。

会えなかった人のことを、
声にできなかった想いのことを、
私は今日もまた、黙ったまま、生きている。


■第一章 静かな子

私は、小さなころから静かな子だった。

赤ん坊の頃の私は、あまり泣かなかったらしい。
母は「育てやすかったわよ」と笑って言うけれど、それは「感情が表に出ない子だった」とも言える。
私自身、怒ったり、泣いたり、誰かを困らせたりした記憶があまりない。
かわりに、ずっとぼんやりと、風や天井や遠くの光を見つめていたように思う。

幼稚園では、砂場の端っこで一人遊びをしていた。
誰かが声をかけてくれても、どう返したらいいのかわからなかった。
笑えばいいのか、手を振ればいいのか。
どれも正解のようで、どれも嘘のようだった。

「なぎさちゃんって、おとなしいね」
「なんか、ちょっとへんな子じゃない?」

そんな声が耳に入るたび、私は透明になっていくような気がした。
空気のように、誰にも気づかれないままでいられたら、それは少しだけ楽だった。

小学校に上がってからも、私は相変わらず「静かな子」だった。
黒板の文字を写すのは好きだったけど、グループ活動や音読の時間は苦手だった。
自分の声が、教室に浮いてしまうような気がしてならなかった。

ひとりでいる時間が好きだった。
けれど、孤独が好きだったわけじゃない。
誰かと一緒にいたいと思ったことだって、何度もある。
だけど、誰かといると疲れてしまうのだ。
息を合わせて、言葉を探して、微笑んで──
そのすべてが、私には少しだけ重かった。

母に連れられて、小児科の先生に相談したこともあった。
先生は「気質の問題でしょう」と言って、少し笑った。

その言葉が、私を決定づけたような気がする。
──気質。つまり、これは私の「つくり」なのだと。

そうやって私は、静かな子として、生きることを選んだ。
選んだというより、ただ、そう在るしかなかったのかもしれない。

でも──
そんな私のなかに、一度だけ光が射しこんだことがある。
たったひと夏、ほんのわずかに、世界が色づいた瞬間。

それが、あの山の家で出会った彼だった。

2025-06-01

こわれてしまうまえに(誰にも届けない手紙)

――「こわれてしまうまえに」




夜明けの直前、

いちばん冷たくて、

でもいちばん澄んでいる時間帯に、

わたしはふと、あなたのことを考えます。


 


誰かにとっては些細な一日でも、

わたしにとっては、息をしているだけでぎりぎりだった、

そんな日がいくつもありました。


心の奥に潜んでいる霧のようなものが、

ふいに濃くなって、道を見失ってしまうことがあるんです。


そんなとき、

あなたの言葉や、

あなたのいる場所を思い出すだけで、

すこしだけ息がしやすくなるんです。


 


これは、ほんとうに勝手な気持ちです。

でも、どうしても伝えておきたい。


わたしは、

あなたに会えたことを奇跡だと思っています。

でも、これはひとつめの奇跡にすぎません。


 


この恋が成り立つためには、

ふたつめの奇跡が必要でした。


あなたの心が、ほんの少しでも、

わたしに向くという、

小さくて、でもとても大きな奇跡。


それがなければ、

この恋はただの片想いで、

わたしの中で静かに泡のように消えていく。


 


それでも、

わたしはまだ、そこに希望を見てしまう。

あの優しい声で、名前を呼ばれた記憶が、

心の奥にずっと残っているから。


 


いまのわたしは、

自分の感情の重さに、自分自身が耐えきれない瞬間があります。

夜中に声をあげて泣くこともあるし、

朝が来るのが怖い日もある。


だけど、

そんなわたしにも、言葉を綴ることだけはできる。

せめてこの手紙だけでも、

静かな祈りとして、あなたに届けばいいと願っています。


 


これ以上、

わたしの気持ちが暴れてしまうまえに。

これ以上、

あなたを困らせてしまうまえに。


今だけは、

あなたにとっての「いい友だち」でいさせてください。


でも、心の奥ではきっとずっと、

ふたつめの奇跡を待ち続けています。


 


――こわれてしまうまえに。



2025-05-11

朽ちの恋、無の花弁

 

朽ちの恋、無の花弁

その場所には、時間という概念が存在しなかった。
陽の昇る兆しも、月の引く気配もない。
脈打つ音も、風を渡る声も、そこにはなかった。

けれど確かに、彼はそこにいた。
そして、想っていた。

言葉では表現できぬほどの静寂に閉ざされた虚無の底で、
ただ一人、彼は“誰か”を想い続けていた。
それは名を呼ぶこともできず、触れることも許されず、
ただ、形を持たぬ“想い”という幽霊のようなものだけが、
彼の輪郭を辛うじて保っていた。

恋だった。
それも、叶うはずのない恋だった。

もともと、この恋は昇る星ではなかった。
最初から、沈む運命だった。
最初から、遠すぎた。
最初から、彼の手は、
届くために設計されていなかった。

それでも彼は歩み寄ろうとした。
ほんの少しでも、近づきたかった。
名を告げることすらできないまま、
彼はただ、「関わる」という最低限の奇跡にすがりついた。

関わることで、近くにいるふりをした。
隣にいるふりをした。
遠くから見つめていることを「対話」と呼んでみた。
それがどんなに愚かで、滑稽で、
なにより痛ましいことかを理解しながらも——

それしか、術がなかったのだ。

やがて彼は、知ることになる。
自分がその世界において
「同じ空気を吸う存在ではない」という事実を。

その人にとって彼は、
ほんの風のような、
名前もない感触に過ぎなかった。

何気ない返事。
気まずさのない距離。
むしろ好意すら匂わせぬ自然さ。
それらすべてが、
彼を断崖の上に立たせ、
無言で「飛ぶな」と語りかける鎖だった。

だからこそ、
彼は語らない。
だからこそ、
彼は名を呼ばない。

想いだけを、
沈みゆく場所で育て続けた。

しかし恋というものは、
水を与えなければやがて腐る。
言葉を与えなければ、狂い咲く。
触れなければ、怨念に近づいていく。

そうしてある夜、
彼は見たのだ。

朽ちた自分の恋が、
奈落の中で——

発酵していた。

花ではない。
果実でもない。
それはただ、
湿った空気の中で膨張し、
自分の形を見失い、
悪夢のような匂いと共に膿んでいた。

恋は、朽ちていた。
救いの言葉など与えられるはずもなかった。
慰めの微笑みも、
共鳴する沈黙すら、
彼のもとには届かない。

この場所には、ただ、
叶わぬ恋の遺骸だけが、
時間の止まった深淵に
形を保ったまま横たわっている。

彼はその横に座り、
名もない歌を唇にのせた。
旋律はもう思い出せない。
けれどその響きだけが、
彼の最後の居場所だった。

そして——
そこに咲くことを選んだ、
例の「花」の姿だけが、
唯一、彼をこの奈落に
縛りつけていた。

彼は知っていた。
この恋が、
決して芽吹くことのないことを。

けれど、捨てることもできなかった。

奈落の花は、音もなく

 奈落の花は、音もなく

海底でボレロが鳴っていた。
ただ一つの旋律が、
波の重力をなだめるように、
静かに、けれど確かに、
沈んだ心を引き上げていった。

ああ、救われたと思ったのだ。
あの旋律が、
過去の罪と、未遂の愛と、
傷口の名残を全部まとめて
音楽にしてくれたのだと。

浮上していく心は、
水圧の重みに別れを告げていた。
光が、ほんの少し見えた気がした。
それは幻だった。
泡だった。
泡は弾け、空気は抜け、
音が——
音が砕けた。

そして、始まった。
いや、終わったのだ、ほんとうは。
浮上した心は、
まるで時限付きの仮初だったのだ。
気づいた瞬間、
その「浮上したはずの自分」が、
そのまま反転し、落下していった

最初の崩落は静かだった。
次第に、音を持ちはじめた。
心が——砕ける音。
記憶が——ちぎれる音。
希望が——叫ばない音。
そしてそれらが混ざり合って、
やがてガラガラと、
大理石の階段を一段ずつ、
地獄のフーガを奏でながら
転げ落ちていくような音になった。

そう、
私は「絶望の底」へと落ちていた。
しかし、すぐに悟った。
この場所は、
「絶望」などという
人間的な名では呼べない。

絶望とはまだ、
光との対話があるものだ。
けれどここは、
光の概念そのものが忘れられた場所だった。

形而上の闇。
無限にのびた無。
沈黙さえ反響しない深さ。
存在すら「なぜ在るのか」と問われる深度。

そんな道中——

咲いていた。

花が。
咲いていたのだ。
私の、
私だけの終わりの風景に。

白い花弁。
薄く透きとおり、
その中心に、
かつて見た温もりのかけらが宿っていた。

ありえない。
ここは咲く場所じゃない。
おまえのようなものが、
ここに存在してはならない。

「咲くな」と、私は叫んだ。

この場所に、
そんなに美しいものがいてはならない。
誰も見ていない、
誰も認めない、
誰も覚えてくれないこの場所で、
どうしておまえは——
咲くという行為を選んだのだ?

それは優しさではなかった。
それは希望ではなかった。
それはむしろ、
無限の残酷だった。

咲いたということが、
すべての問いを無にする。
ここがどんな場所かを知らしめる。
「こんな場所でも咲く」という事実が、
人の魂をどれほど引き裂くか、
おまえは知っているのか?

私は、涙さえ出なかった。
あまりにも美しく、
あまりにも不条理で、
あまりにも本質だったから。

私は膝を折り、
泥を掴み、
声の出ない喉で、
それでも叫びつづけた。

咲かないでくれ。
咲いてしまったなら、もう——

誰かがその花を見つける日など来ない。
その存在は、きっとこの奈落で
永遠に静かに腐るだけだ。
なのに、咲いた。
咲いてしまった。

私は、もう一度砕けた。
救われたはずの心が、
崩れて、崩れて、
それでもその花を見つめてしまった。

なぜならそれは、
もしかすると、私が
生き延びることの理由そのものだったかもしれないから。

咲かないで、と祈りながら、
私は、見つめることを止められなかった。


海底のボレロ

 

海底のボレロ

静寂は、深く深く、
私の心を覆っていた。
言葉も、熱も、鼓動すら、
まるで遠い昔に置き去りにされたかのよう。
私はその冷たい水に
静かに沈んでいく。
何かを抱きしめるように、
何も持たずに。

耳元で鳴っているのは、
最初は錯覚のような音だった。
それがあなたの記憶に触れたとき、
初めて、それが「旋律」であると気づいた。
柔らかく、かすかに、
それは始まった。

ひとつ、
あなたのまなざしが揺らぐ。
ふたつ、
静かな声が、水面をかすめる。
みっつ、
遠ざかる足音が、波のように胸を打つ。

音は、絶え間なく繰り返される。
淡々と、それでも確かに、
ボレロのリズムで心を打ち、
沈んだ魂の奥を優しく叩く。
不安、敬意、憧憬、諦念。
どれとも言えない色の粒が、
ゆっくりと心の中をめぐっていく。

想いは言葉にならなかった。
いや、してはならなかったのだろう。
それを形にすれば、
世界が壊れてしまいそうだったから。
あなたを見つめることが、
ただの「まなざし」ではなくなるのが怖かった。
だから私は黙って、沈んでいた。

けれど旋律は止まらない。
気づかぬうちに、
その音は少しずつ力を帯びていく。
クレッシェンド。
私の知らないうちに、
心の奥で鼓動が再び目を覚ます。

その音は、私を責めない。
その音は、私を追い立てない。
ただ、いつまでも、
静かに、強く、
繰り返されるだけ。

それは、まるで—
「おそれなくていい」と、
「そのままでいい」と、
言ってくれているようだった。

沈黙の水底で、
私はようやく目を閉じ、そして目を開く。
音は胸を震わせ、
手足の感覚を戻していく。
あなたを想うことが、
苦しみではなくなっていく。

心の中に溢れていくものがある。
それは愛ではない、
少なくとも、言葉にしてしまえば
壊れてしまうような
そういう種類のものではない。

けれど確かに、
私を生かしてくれるもの。
私を、私たらしめてくれるもの。

旋律は、ついに頂点に達する。
海の底が、光で満たされる。
もう私は、沈んでいない。
それでも、何も掴まなくていい。
何も語らなくていい。
このままで、ただ想いだけを胸に、
私は進んでいける。

ありがとう。
あなたは知らずに、
私の深海に音をくれた。
救いをくれた。
旋律は終わらない。
それは、静かな歓喜のまま、
今も私のなかで
繰り返し鳴っている。


2025-05-03

静かに眠る者たち

『静かに眠る者たち』

あの夜、私は家の中に漂う静けさを感じた。いつもならば、眠りについた家族の寝息が音として部屋を満たす。しかし、その夜は違った。目を閉じれば、耳に入るのは無音の空間だけ。外の風の音も、家の中の隅々で響く音も、すべてが一瞬で消え、ただ私一人が存在しているかのような感覚に包まれた。

その時、ふと目を向けた机の上に並んだ一枚の写真が目に入った。薄暗い光に照らされたそれは、まるで過去の一瞬を切り取ったかのように静かに佇んでいた。母の笑顔がそこにあった。だが、なぜかその笑顔が私を突き刺すように感じる。微笑みを浮かべるその顔は、もういないという事実がその中に確かに宿っている。

あの笑顔に触れることはもう二度とない。彼女のぬくもりに、やさしさに、再び触れることはない。しかし、それでも、彼女の笑顔は私の中で決して消えることはないのだろう。それが、何の予告もなく、静かに現れる時、私はそれを感じ取る。それが愛の形なのだろうか。消えたと思っていたはずの温もりが、ふとした瞬間に戻ってくるような感覚。

「死んでも、どこかで見ているから」と、母が言った言葉が耳の奥で響く。その言葉は、ただの慰めでもなければ、薄っぺらい言い回しでもなかった。彼女の死後、私はその言葉が持つ意味を少しずつ理解し始めた。

私たちが生きていく中で、何度も繰り返される「別れ」。でも、別れがすべてを終わらせるわけではない。生者は死者に触れることができない、言葉を交わすことができない。しかし、私の心の中には、彼らのぬくもりがまだ残っている。それは、消えない愛の一部であり、私はそれを強さに変えていかなければならない。

私は母を感じるとき、まるでその笑顔が、何度でも私の中で息を吹き返すような気がする。もう二度と会うことはないとしても、その愛は確かにここにある。それが私を強くする。そして、その強さを持って、私は前に進まなければならない。

何も答えを出せるわけではない。ただ、彼女が教えてくれたその温もり、愛の永遠性を感じることができれば、それで十分だと思う。時間が過ぎ、すべてが変わっていく中で、私たちが感じる愛だけは、少しずつ形を変えながらも決して消えることなく、私たちを支えていくのだろう。

夜が深まると、私は再びその写真に手を伸ばした。それはただの紙切れであり、もういない母の「過去の記録」ではない。しかし、その中には、私と母とが繋がる瞬間が確かにある。私が生きている限り、彼女はどこかで見守り続けている。そして私は、その愛を感じながら強く生きていこうと決めた。


静寂の中で、私は母の姿を思い浮かべる。その姿はもう実際には目の前にいないが、確かにそこにいると感じる瞬間がある。かつて、彼女が私にかけてくれた言葉や、手を取り合った温もりが、今でも私の中に色濃く残っている。時間が経てば、記憶はぼやけていくものだと思っていた。しかし、彼女の存在だけは、何故か色あせることがない。

私は、時折その不思議な感覚に疑問を抱く。なぜ、愛はこうして消えずに私を支え続けるのだろうか? 死という最も深刻な別れにも関わらず、その絆は途切れることなく存在し続けるのだろうか? 愛とは、結局のところ時間や空間を越えて存在するものではないのかもしれない。言葉で説明することは難しいが、それは単なる感情や記憶の積み重ねにとどまらず、私たちが生きる力となっている何かに違いない。

夜の静けさの中で、私は目を閉じる。目の前に浮かぶ母の笑顔。それがかつての写真ではなく、今、私の中で動き出すような感覚。それはまるで、彼女が今も私のそばにいるかのような錯覚を与える。目を開けると、そこには何もない。だが、確かに感じる。あの笑顔が、無言で私を励まし、支えてくれているような気がする。

思うに、愛とは決して死に至るものではないのかもしれない。むしろ、死がそれを一層強く、深くすることがあるのではないか。死者が残した思い、言葉、そして愛は、時間を超えて生者に影響を与え続ける。それはまるで、彼らが生きた証として、私たちの心に息づき続ける力であり、私たちを生かし続ける源となる。愛は、死を越え、さらに強固なものへと変わっていくのだ。

それでも、私は時折その切なさに押しつぶされそうになる。母にもう一度会いたい、抱きしめたいという気持ちは、すぐにでも実現できるものではない。しかし、だからこそその願いは、私を生きる力へと変えるのだと思う。愛が消えないからこそ、私は今を生きることができるのだ。

考えてみれば、私たちが日々抱えている苦しみや痛みも、こうした消えぬ愛に支えられているのかもしれない。愛の力は、単なる慰めにとどまらず、痛みを乗り越え、過去を抱きしめる力に変わる。生きるために、私たちは愛を必要としている。そしてその愛は、失われたと思っても、時が経つにつれて新たな形を取って現れるのだ。

私は、今の自分に問いかける。母がいなくても、彼女の愛が私を包んでいると感じることができる。そうした無言の繋がりを感じる度に、私は少しずつ強くなれるのだろうか。過去と今、そして未来が交錯する瞬間に、私はその愛を胸に、また一歩踏み出す勇気を得るのだろうか。

そして、私はふと思う。母の遺したものは、もはや物質的なものだけではない。遺影も、位牌も、写真も、もちろんそれらは愛の象徴であり、私にとっては大切なものだ。しかし、もっと重要なのは、その背後にある目に見えない力だ。物理的な存在を超えた、心と心が繋がる何か。それが愛という形で、私を支え続けているのだと。

夜が更けると、私はまた写真に目を向ける。今度はそれがただの過去の記録ではなく、私を生きさせる力として感じられる。愛とは、時間を超えて存在し続けるもの。彼女の笑顔は、もはや記憶にとどまることなく、私の一部として生き続けている。それは、二度と触れることのないぬくもりとして、私を支え、強くしてくれる。


愛が消えることなく、死後も生者の心に息づき続けるという視点で話を続けると、どうしても私は、「その愛はどこにあるのか?」という問いを避けて通れない気がする。それは、物理的な存在でも、言葉でも、物でもない。では、その愛が「ある」という感覚は、いったいどこに根付いているのだろうか。

目を閉じると、私は時折その答えを見つけるような気がする。母が遺したのは物理的な形でのものだけではなく、その人間らしい、温かさや安心感、そして無償の愛が、私の中で形を成している。それは、私の内面に深く根付いているもので、感覚や思考の中に存在している。そして、それは過去と現在の交差点に立つ時に、強く感じられるのだ。

たとえば、朝起きたときのあの空気の温かさ。それが、もしかしたら母が生きていた証かもしれないと思うと、心の中で何かが深く動く。その温かさは、肉体的な存在としての母ではなく、心の中で繰り返し育まれた愛そのものである。過去の一瞬が、今この瞬間の温もりとして私を包む。それが、どうしても言葉では説明しきれない「愛」というものの、正体なのではないだろうか。

私たちはしばしば、愛を言葉で表現し、物で確かめるものだと考えがちだ。しかし、愛はむしろそのような物質的な証明を超えて、存在するものだと感じることがある。母の死後、彼女が物理的に存在しない世界で、私はその愛をいまだに感じ取ることができる。心が感じ取るもの、それが本当の愛なのだ。

その愛が、「消えない愛」として私の中で存在するのは、時が経つごとにますます強くなるように思える。時折、母を懐かしむ時、私は涙がこぼれそうになる。それは寂しさからくるものではなく、むしろその愛が私を抱きしめ、力を与えてくれる感覚である。

そして、死者との繋がりが私に与えてくれるのは、どこかしらで「生きている意味」という深い問いを再び考えさせてくれることだ。私たちはただ生きているのではなく、常に何かに支えられている。その支えが、目に見えないものであれ、時間を越えて続くものであれ、私たちが生きる力を与えてくれるのだということに、私は今、気づき始めている。

それを認識することで、私はまた一歩強く生きていくための力を得ることができる。母の愛も、もしかしたらこの世を去ったことを悼むことなく、むしろ私がその愛を胸に生きることでこそ、生き続けるのではないか。彼女はもういないけれど、その存在が、私を生かす力として永遠に私の中で生き続けるという確信を、私は今、持つことができる。

母のぬくもりを感じた瞬間、私はその感覚が死後においても生き続けるということを実感する。愛は、結局のところ、物質的な世界を超えて人間の心の中で深く根を下ろし、形を変えて生き続けるものなのだ。それは目に見える形ではないけれど、確かに存在している。そして、それがどんなに長い時を経ても、私を支え続ける。

その愛が今、私に与えている力は、ただの記憶にとどまらず、私の歩みを支える礎となっている。母の愛は、私の中で時間を越え、無限に続いていく。私は今そのことに、心から感謝し、そしてその愛を未来へと受け継ぐべく、精一杯生きようと思う。


その愛が時を越えて私の中で生き続けるという感覚は、私にとっても新たな理解をもたらしている。それは単なる懐かしさや悲しみの中で生きるものではない。むしろ、死後の世界においても何かしらの「存在」が継続するという、どこか不思議な確信のようなものが根付いているのだ。

母の愛を思い出すと、確かにそのぬくもりや優しさは、もはや肉体的なものではない。しかし、どこかでその愛が具象化していると感じる瞬間がある。それは心の奥底で触れることのできる温もりであり、無意識のうちに私はその愛に支えられて生きている。言葉にできないけれど、どこかで感じる。目を閉じればその姿を思い出し、微笑んだ顔を心の中で浮かべることができる。それが、今もなお生きている証拠なのだと、私は信じている。

その愛は、死という絶対的な終わりを超えて、私に与えられた無形の贈り物であり、私が今を生きる力の源泉であると感じる。死を超えて存在し続けるもの、それは何か。もしかしたら、それは「思い出」とも言えるかもしれない。しかし、思い出とは単なる過去の残像ではなく、それが私の心の中で今も新たに形を作り、意味を持ち続ける限り、それは「生きているもの」として存在するのだ。

私の心の中で母は死んでいない。彼女は、時間の流れの中で、年齢を重ねていくこともなければ、身体の衰えも感じることはない。彼女は今も「母」として私を見守り、どこかで愛を注ぎ続けてくれている。そして、その愛を感じるたびに、私は今、ここに生きている自分を誇りに思うのだ。彼女が私に教えてくれた強さ、無償の愛、そして生きる意味が、私を支えてくれる。

この愛が死を越え、時間を越え、何度でも私を励ましてくれる。その感覚は、言葉で表現できるものではないが、深い内面的な確信として確実に存在している。私の心がどんなに疲れ果て、壊れそうになった時でも、母の愛を思い出すことで、再び立ち上がる力が湧いてくるのだ。

「いつまでも消えない愛が、ひとつ、あるの。それで強くなれる」と歌われるその言葉は、まさにその通りだ。愛があるからこそ、私は何度でも強く生き直すことができる。死後も、私の中で生き続ける愛があるからこそ、私はその愛に背中を押され、前へ進み続けることができるのだ。

このように、愛は形を持たずとも、その力は確かに存在する。そして、それは死という現実を超えて、永遠に続くものとして私の中で生き続ける。母が私に与えてくれたものは、物質的なものではなく、心の中で永遠に続く「何か」である。それが愛であり、死を越えた存在そのものであると、私は今、深く理解している。

この考えが私にとって、死後も生きる意味を見いだす鍵となった。愛は、死を超えてもなお存在し、私を支えてくれる。私はそれを心から信じ、そしてその信念に従って、毎日を生きていこうと決意している。母が私に示してくれた無償の愛を、今度は私が次の世代へと伝える番であることを心に刻み、私は強く生き続けていく。

それこそが、死を超えた「生きる力」なのだと思う。そして、いつまでも消えない愛が、私の中で燦然と輝き続ける限り、私は前に進み続けるだろう。

2025-04-24

灰色の希望

 タイトル:「灰色の希望」

空気は重く、湿った闇が街を包み込んでいた。死はいつもそっと、しかし確実に歩を進める。知らぬ間に忍び寄り、静かにその爪を伸ばしていく。灰色の雲が不穏に広がり、どこかの遠くで雷の音が響いている。だが、それもまた自然の一部に過ぎない。誰もその音を気に留めない。人々は日常を生きる。生きていくことが、もはや義務のように思えてくる。死の足音はその中で確実に、しかし少しずつ迫ってきているというのに。

死が身近であるということは、常に心のどこかに隠れた恐怖と向き合わせることを意味する。それは見ることも触れることもできず、ただ静かに、誰の前にも現れることなく、生活のすぐ傍で、細い糸のように存在している。死とは、目に見えぬ影のようなもので、気づかぬうちにその中に包まれていく。

人々はその重さに慣れてしまっている。死という概念が遠いものではなく、日々の暮らしの中で常に横たわっている。古びた墓地がその証しであり、焼けた骨がその証言をしている。死は美しくもない、かといって恐ろしいものでもない。ただ、ひとつの終わりであり、また新たな何かの始まりでもある。それが長い歴史を経て今なお、人々の生活に密接に結びついていることを誰もが知っている。

だが、火葬はただの儀式ではない。燃える骨、灰となる遺体、そして残されたものたち。全ては目に見えぬ死後の儀式を経て、静かに、そしてやがて消えていく。埋葬された場所に残るものなど、何一つとして形を留めることはない。全ては失われ、燃え尽きる。最も無力で最も力強い、あらゆるものを無に帰す力。それが死に寄せられた火葬という儀式だ。

火葬の煙が空に溶ける頃、あたかも命の最後の一息が、風に乗ってどこかへ消え去るように感じる。その煙の行く先に、いったい何があるのだろう。無に帰す、消えゆくことの美しさ。けれど、それは本当の美しさなのだろうか。それともただの虚無か。

それでも、どこかで希望を求めることができるのだろうか。死という儀式が過ぎ去った後、残るものがあるとしたら、それは何だろうか。灰と化し、土に埋められたその先に何が待っているのか。あまりにも答えのない問いを、私たちはどうしても抱え込んで生きることになる。死後、何も残らないという事実が、どこかで私たちを無力にしていくのだ。

しかし、かすかな光がその中に忍び込むこともある。火葬を経た灰が新たな命を生む、というわけではないが、その儀式を通して、私たちが残すもの、そして与えられるものに気づく瞬間がある。火葬という儀式の終焉と共に、死者を弔う心が生まれ、そして生きている者に何かを残す。消えた者が何も遺さなくても、遺された者が未来を背負って生きる意味が生まれる。

それがどんなに小さな光でも、無限の闇の中でひと筋の道しるべを照らすように、私たちはその光に寄り添うことができるだろうか。死後の世界は計り知れないが、今ここに生きる私たちにはその一歩を踏み出す勇気が必要なのだ。火葬という無情に見える儀式の中でこそ、何かを感じ、そして生きる意味を見出すことができるのかもしれない。無の中にこそ、わずかな希望が潜んでいる。全てを失うことで、初めて何かを得る瞬間があるのだろう。

灰となった遺骨の中に、今も残る命の痕跡。それを見つめることで、死という終焉から立ち上がることができるのかもしれない。希望とはそうしたものだろう。絶望の中からほんのわずかな光を見つけ出すことができるか。それが死者に対する本当の弔いの形かもしれない。

そのわずかな光を見つけた時、私たちは初めて死というものが、単なる終わりではないことを感じ取ることができるのかもしれない。火葬によって焼けた骨、消え去る灰が示すのは、無常の美しさではなく、むしろその先に繋がるものを見失ってはならないという戒めである。全ては無に帰すわけではない。残されたものは確かにあり、ただその形を失っただけなのだ。

火葬という儀式が、死者と生者の間に、無言の橋を架ける。死者はもういない。だが、残された者たちはその空虚を埋めるために生きなければならない。それは義務であり、そして同時に喜びである。死というものが目の前に広がった時、私たちはただ恐れるのではなく、その裏側に広がる世界を探ろうとするのだろうか。それとも、単にその存在を受け入れ、今を生きるために全力を尽くすのだろうか。

日々の中で、私たちはどれほどの死を目の当たりにしているだろう。人々の心の中で、ひっそりと死が重くのしかかり、無言でその足音が鳴り響いている。社会はその死に対して何も言わない。誰もその重みを感じることなく、淡々と過ぎ去っていく。だが、私たちが火葬を行い、骨を灰に変える儀式を経てこそ、死者の存在を認め、そしてそれが今、私たちに何をもたらすのかを問うことができる。何も残らないとしても、何かを残すために生きるのだ。

その儀式が生者にもたらすものは、ただ死の直視ではない。それは、未来を見据える力となる。全てを無に帰すわけではない、むしろそれは「再生の力」と呼べるのかもしれない。灰となった骨から、何かが新たに始まる。その小さな一歩が、次世代へと繋がっていく。それは人々の心の中で、希望という形に変わり、次の世代がその火を受け継いでいくことを願う。

死の儀式を通じて生まれる希望。絶望の淵から、ほんの少しだけ漏れ出す光。それは形のないものかもしれないが、私たちにはそれを感じ、確かなものとして存在させる力があるのだと信じたい。どんなに暗い時でも、そこにほんの少しだけでも光が差すのであれば、その光を信じ、歩みを止めずに前へ進み続ける。それが、私たちが死を受け入れ、命を全うする方法なのではないだろうか。

火葬を経て、骨となった遺体は、その生命の痕跡を無に帰す。しかし、その灰が示すものこそ、無限の可能性であり、決して消え去ることのない人々の記憶なのだ。私たちは生きる者として、その記憶を未来へと繋げる役割を持っている。それは、ただの儀式や慣習ではなく、存在するすべてのものがつながり、支え合うための証であり、誓いである。

「灰色の希望」は、ただ一つの悲しみの中にこそ光を見出し、絶望に満ちた世界から少しずつ希望を取り戻すための物語である。そしてその希望が、どこかで、誰かの心に火を灯し、次第に大きな光へと育っていくのだろう。死という概念に触れた時、私たちが感じるのは恐れや不安ではなく、それを乗り越えた先に何が待っているのかという好奇心であるべきだ。そしてその先に待っているのは、命が永遠に続くという証ではなく、ただ一つの願い――次世代へと命を繋いでいくことなのだ。

その命が光となり、暗闇の中で力強く輝き続けることを、私たちは信じて歩んでいかなければならない。それがどれほど微小であろうとも、その一歩が未来を作る。灰となったものの中から生まれるものがある。それが、私たちの生きる証なのだ。

その一歩は、確かに小さく見えるかもしれない。目に見える変化はほとんどないように思えるかもしれないが、確実に私たちの内側で何かが変わり始める。それは一瞬の閃きかもしれないし、無意識のうちに心の奥底で芽生える希望の種かもしれない。それでも、その小さな変化は必ず私たちの中で広がり、やがては社会全体に影響を与える力を持つ。

火葬によって焼かれ、灰となった遺骨は、何も残さず消えるわけではない。たとえその形が無くなっても、生命の証として何かしらの存在を示す。その微細な粒子が空気に溶け込み、大地に吸い込まれ、最終的には新たな命を育む糧となる。そのことに、私は気づかされる時がある。すべての死が、単なる終わりではないということ。命の循環、そして再生の概念が、私たちの深い意識の中で紡がれ、形を成していくのだと。

死後の世界を見つめることは、決して恐れることではない。それはむしろ、今生きているという事実をより深く、力強く実感するための鍵となる。死というものが示すのは、ただの終わりではなく、その先に続くもの、さらには私たち自身が命を紡いでいく役割があるという事実だ。今、ここで生きていること、そのすべてが尊く、無駄ではないという確信を持たせてくれる。

そして、死の儀式を通して感じる最も深いものは、無限の感謝の気持ちである。今、私たちが生きていることが奇跡であり、それがいかに尊いものであるかを心から理解する瞬間が訪れる。死者への感謝、そして生者への感謝。その感謝が生きる力となり、再び命の力強さを私たちに与えてくれる。

もしも私たちがこの瞬間、どんな小さな行動でも、死に対してどんな小さな敬意でも示すことができるなら、それは死者への最高の敬意となり、同時に自分自身への敬意となるだろう。今生きていることの意味、その価値に気づくことで、私たちはこの命をどれだけ大切にすべきかを実感し、日々を生き抜いていける。

生と死は分かちがたいものだ。死を受け入れることでこそ、より一層、生きる意味を強く実感できる。そして、その死の儀式で私たちが学ぶことは、次の世代へと受け継がれるべき貴重な教訓であり、命が繋がっていく道しるべとなる。私たちが望むべきは、ただ命を繋ぐことではない。むしろ、どれだけその命を大切にしていくか、その意味をどう解釈し、実現するかにかかっている。

灰となった骨を見つめるその先に、かすかな希望の光が差し込む。それは無理に明るく輝くものではない。むしろ、それは闇の中でほんの一瞬だけ煌めく、儚い光のようなものだ。それでもその光は確かに存在し、その微かな輝きが、この世界に必要なものを教えてくれる。希望とは、何もかもが失われてしまった時、死という暗闇の中で見つけることができる、一筋の光に他ならない。

その光を信じて進み続けることが、私たちの生きる力となり、その先に待つ未来へと続いていく道なのだ。

その光は、ただの幻想に過ぎないのではないかという疑念が一瞬でも頭をよぎることもあるだろう。人々は、どこかで「もう遅い」と感じているかもしれない。時に、すべての努力が徒労に終わるのではないかという恐れに苛まれる瞬間が訪れる。しかし、その恐れを超えてこそ、本当の意味での希望が見えてくるのだと思う。希望は、暗闇の中でこそ最も輝くものだから。

無数の人々が消えていき、骨となり、灰となる。その無限の瞬間が交錯し、やがてすべてが繋がる。私たちの命も、またその繋がりの一部に過ぎないのだと考えるとき、死というものの意味が変わってくる。それは終わりではなく、ただ一つの過程に過ぎない。過程の先にあるもの、そこにこそ、私たちが求める真実が隠されているのではないだろうか。

火葬という儀式そのものが、死をどう迎えるかという方法を示している。その火の中で消え去る肉体、その灰が新たな生命の土台となり、いずれ自然と共鳴する。そう考えれば、死は決して無意味ではない。むしろ、私たちにとって一つの成長の段階なのだと感じられる。どんなに悲しくても、それは必要な過程であり、その先に必ず意味が見出される。

火葬が進む先に、残るのはあまりにも儚く、細かな灰である。それでもその灰の一粒一粒が、かつて生命を持った証だ。私たちが生きている証拠。だからこそ、私たちは死を尊び、感謝すべきなのだ。死後に何が待っているのか、私たちにはわからない。それでも、死を恐れずに受け入れ、その存在に感謝し、命の本質をより深く理解して生きることこそが、私たちの最大の使命ではないだろうか。

死が迫るその時、私たちはどんな言葉を残すべきだろうか。人は何を大切にし、何を恐れ、何を愛するのか。私たちは一つ一つの命に対して、どれほどの感謝の気持ちを持つことができるのだろうか。死を見つめることで初めて、生の意味が深く見えてくる。無駄なものなど何一つないと感じる瞬間が訪れる。今この瞬間をどう生きるかが、最も大切なことであり、死がその問いを一層鮮明にしてくれる。

時が経ち、すべてが終わった後に残るものは、私たちがどれだけ命を大切にしたかという証であり、その証こそが、未来に生きる者たちへと受け継がれていくのだろう。誰かが語る言葉や誰かの手のひらで感じる温もり、それらが次世代を支え、また新たな命を生み出していく。それが人間という存在であり、命が持つ本質だ。

だからこそ、今の私たちには、死に対して抱くべき感謝と敬意が必要なのだ。死者が成し遂げたこと、そして生者が成し遂げるべきこと。その両方が繋がりあってこそ、私たちは生きていることを実感し、その一瞬一瞬を大切にできる。

火葬という儀式は、無駄を削ぎ落とし、命の本質を最も純粋な形で表現するものだ。それがどれほど悲しく、儚く、そして尊いものであるかを知るとき、私たちは初めて「生きる意味」を感じることができるのではないだろうか。

その瞬間、私たちの内にある何かが震えるような気がする。命の重み、死の儚さ、そしてその先にある未知の世界への憧れや恐れ。すべてが交錯し、深く、静かな震えとなって胸を締めつける。しかしその震えは決して不安や恐怖だけから生まれたものではない。むしろ、それは命の流れと死の輪廻を理解し始めた証拠のように感じる。

私たちが生きるこの世界は、時として恐ろしいほどに無情だ。人生の中で触れる苦しみ、悲しみ、絶望。すべてが死へと向かう途上で起こる出来事だ。しかし、だからこそ私たちは、今をどう生きるかを問われているのだと気づかされる。死をただ恐れることなく、その先に何が待っているのかを想像し、その意味を見出すことが、私たちの人生における最も大切な課題であるように思える。

無常の世界を生きる中で、私たちが捨てきれないもの、それは「愛」だろう。死に対する恐れを抱えながらも、人々は互いに愛し合い、支え合い、生きていく。その愛こそが、私たちの命に温かさを与え、暗闇の中に微かな光をもたらす。死の概念に向き合うことで、私たちは愛の本質に触れ、他者との絆の大切さを再確認することができる。

火葬が象徴するもの、それは単なる肉体の消失ではない。それは、ひとたび燃え尽きた後に、残るものの象徴でもある。灰となった遺骨は、もはや肉体ではないが、命を持っていた証拠であり、私たちの存在がいかに繋がりあっていたのかを物語る。死後、残されたものは永遠に変わり続け、その変化が私たちの未来に微細な影響を与え続ける。消え去ることのないものがそこにある。

私たちが生きるこの時も、やがて消え去る瞬間を迎える。しかし、消えることを恐れるのではなく、その消失に意味を見出し、今ここで生きる意味を見つけることが、私たちに与えられた使命であるように感じる。生死を見つめることによって、私たちは初めて「存在すること」の奇跡に気づくのだ。

それでも、私たちは死を直視することを避けがちだ。死が避けられない現実であると分かっていても、その存在に正面から向き合うことは極めて難しい。しかし、その恐れを越えた先にこそ、死後の世界や生の真理に近づく鍵があるのではないだろうか。

死というものを理解することは、生命をどれほど深く愛するかにかかっている。死を受け入れた瞬間、生はより強く輝き、愛の意味もまた変わっていく。だからこそ、死を恐れずに生きることができた時、私たちはようやくその真実に触れることができる。死を見つめながら、今を大切に生きることで、わずかな希望の光が差し込む瞬間を迎えることができる。

それは、誰もが避けられない終わりを迎える中で、たった一筋の光を見つけた時のように、胸を打つものだ。私たちはその光に導かれながら、歩み続けるべきだと、静かに心を決める。死がどれほど無情で冷徹であろうとも、そこには必ず次の命の息吹が宿っていることを信じ、今を精一杯生きることこそが、この世で最も大切なことだと感じるのだ。


それでも、深い闇の中で、私たちはその微かな光を見つけることができるのだろうか?それは、目の前に明確な道しるべがあるわけではない。むしろ、その光は決して直接的に現れることはない。あたかも見えない糸のように、私たちの心の奥深くで微かに震えている。それはすぐに手に取ることができるものではないけれど、どこか遠くから私たちを見守っているような、無言の存在だ。

暗闇が深ければ深いほど、その光は一層鮮やかに見える。私たちはその微かな光を目にした瞬間、何かが心の中で動くのを感じるだろう。それは恐怖ではなく、無意識の中で希望を抱く力が働き始めた証拠だ。死という絶対的な存在の前に立ち尽くし、思わず目をそらしたくなる瞬間に、それでもなお、そこにある希望を感じることができるなら、私たちは本当に生きているのだろう。

その光は、あたかも死を超越したもののように思えるかもしれない。だが、実際には死を受け入れた先にこそ、その光が差し込むのだ。恐怖の中でこそ、人は強くなる。希望が微かであっても、それを掴み取ることで、人は一歩踏み出すことができる。時には、その光が私たちにとって、最も重い荷物を少しだけ軽くしてくれるのだろう。

そして、たとえその光がほんの一筋の微弱なものだったとしても、それは私たちに「生きている意味」を思い出させてくれる。死がどれほど迫っていようとも、その光が示す先には、まだ見ぬ世界が広がっていることを感じさせてくれる。それは、目に見えるものではなく、心で感じ取るものだ。そして、私たちはその光に向かって、ただ歩みを続けるのだ。何もわからなくても、ただその一歩を踏み出すことで、私たちは生きる意味を見つけ出す。

闇の中で、死という冷徹な現実に直面しながらも、ほんの少しだけ見える光を信じて歩むこと。それが、私たちにとって最も重要なことなのかもしれない。微かな希望の光が私たちを包み込むその時まで、私たちはただひたすらに前を向いて生きることを選び続ける。そして、その先に何が待っているのかを恐れずに、少しずつ歩み続けていくのだ。

それはまるで、最期の瞬間に浮かび上がる一片の花のように、静かに私たちを包み込み、見守ってくれる。その光が消えない限り、私たちはどんなに暗くても、どんなに死が近くても、確かに生きていると感じることができる。

2025-04-21

羽音の聞こえぬ空を見上げて

 【羽音の聞こえぬ空を見上げて】


ある季節の変わり目に、
それは静かに始まっていた。
朝の輪郭が夜から剥がれきれないまま、
白む空が、まるで病の呼吸のように、
ぼんやりと、形を持たずに揺れていた。

ひとの世から半歩ずれたような感覚が続いていて、
窓の向こうに誰が通ろうが、
それが昨日だったのか、一昨年だったのか、
もはや確かめようもなかった。

食卓には何もなく、
椅子も、机も、ただ「そこにある」だけだった。
手が伸びないのではなく、
手が自分のものではない気がしていた。
声を出す気力がないのではなく、
声という現象そのものが、
この体から永久に消えてしまった気がしていた。

それでも、
なぜかある瞬間だけ、
時間の淵にゆらりと佇むひとつの影に、
どうしようもなく、
目を奪われてしまった。


それは人か、鳥か、
あるいはもっと抽象的な何かなのか、
その正体は朧のままだったが、
確かに、そこには気配があった。

闇ではないが、光でもなく、
音を立てずに歩き、
風を裂かずに立つその存在。
あるいは、羽音を持っていたかもしれないが、
わたしの耳には、届かなかった。

ただ、その姿を見るたびに、
心の中にわずかなひび割れが生まれた。
その小さな裂け目から、
ずっと押し殺していた何かが、
ひとしずく、ひとしずくと零れていくのがわかった。

それは涙ではなかった。
想いでもなく、
言葉にもならない「余熱」のようなものだった。

それを「恋」と呼ぶには、
あまりに生ぬるく、
それを「望み」と言うには、
あまりに痛々しかった。


けれど、心は確かに震えた。
この病の底で凍りついていたはずの場所が、
かすかに軋んで動いた。

わたしはそれに怯えた。
なぜなら、それは希望の芽ではなく、
むしろ、破滅の前触れだったからだ。

心が動いてしまえば、
今保っている均衡が崩れる。
日々という名の灰色の薄氷の上で、
なんとか立ち続けていたのに、
その羽ばたき一つで、
地面のすべてが割れてしまいそうだった。

その者の姿を思い浮かべるだけで、
心は凍結と発火を同時に起こす。
まるで、熱を持たない炎のような存在。

手を伸ばすことなど、考えるまでもなかった。
それは罪に等しく、
わたしという名もなき器を、
内部からゆっくりと崩壊させる甘い毒だった。


夜になると、その影はまぶたの裏に浮かんだ。
部屋の隅にたゆたう気配が、
ひとの形を持っていく過程を、
わたしは繰り返し眺めた。

いつか夢に出てくるかもしれないと願ったが、
眠りはいつも、崖の下に落ちるように訪れ、
その姿を見る前に、
記憶の扉が閉じられていた。

翌朝、
目を覚ましても、何も変わっていなかった。
むしろ、その者の不在が、
より深い淵をわたしに刻みつけた。

「いなかった」ことが、
「いたかもしれない」という希望よりも、
何倍も強く、確実に、
心を損なっていった。

わたしは思った。
この感情は、
救いではなく、呪いなのだと。


ひとつの影に心が傾いたこと。
それが、わたしという存在の最終的な破綻の始まりだったのかもしれない。

もしもこの想いに名前があったなら、
それを叫ぶこともできただろう。
けれど、わたしはそれを名指せなかった。
それがどんな形で存在しているのかすら、
確かめることができなかった。

だからこそ、
深く、深く、沈んでいった。

呼吸の音が遠のいていくとき、
最後に浮かんだのは、
やはりその面影だった。

もう一度、あの羽のような存在に会いたいと、
願うことすら、許されないことだと知りながら。

名前のない哀しみが、
名を持たぬまま、
心の奥底に巣をつくっていた。

その羽ばたきのない鳥は、
今日も遠くで、
何も知らぬまま、空を見ていたのだろう。

わたしの目が届かないところで――


時折、無意識のうちに、
わたしの指先は宙をなぞっていた。
その軌道は、かつて誰かの頬を撫でようとした手のようであり、
あるいは、もう二度と届かぬ場所へ手紙を書く筆先のようでもあった。

けれど、何を書こうとしているのかもわからなかった。
言葉が消えかけた世界で、
残されたのは、ただの運動、ただの痙攣、
あるいは、まだ失われきっていない感覚の残骸だった。

心という器が空になるとき、
最後に残るものは痛みではない。
名前のない、湿った沈黙。
聞こえないはずの羽音が、
その静けさの中に確かに混じっていた。

誰もいない部屋で、
わたしはもう幾度目かわからぬほど、
その気配を幻視していた。


彼方に消えていったその影は、
わたしの中で神話のようなものになっていた。
実在したかどうかも確かでない存在が、
なぜこれほどまでに、
心の核に沈んでいるのか、
誰にも説明などできなかった。

それどころか、
わたし自身ですら、
その理由をつかむことができなかった。

それは恋ではなかった。
あまりに曖昧で、あまりに苛烈だったから。
それは願いでもなかった。
すでにすべてを手放していたから。
それは信仰ですらなかった。
崇める対象ではなく、
ただ、遠くから見るしかないものだったから。

にもかかわらず、
ただその「存在だけ」が、
夜ごとの苦しみのなかで、
唯一わたしを突き動かすものだった。

それがなぜ、
こんなにも心を崩壊させていったのか。

あるいは、
この想いそのものが病の種だったのかもしれない。


誰かに聞いてほしかった。
でも、誰にも語れなかった。
話してしまえば、
その者の輪郭が汚れてしまいそうで。
わたしが抱いたこの震えが、
凡庸な語彙のなかに落ちてしまいそうで。

だから、わたしは黙ることを選んだ。
ひたすらに、黙りつづけることを。
その沈黙がやがて、
わたしの世界のすべてとなった。

食事は摂らなくなった。
服も着替えず、
音楽も、文字も、
すべてが、
わたしの身体をすり抜けるようになった。

唯一残っていたのは、
その影への、形を持たない想い。

いや、もはや想いですらなかった。
「憶え」だった。
確かにそこにあったはずの、
記憶ではない記憶。

夢の中の夢。
幻のなかの幻。
それでも、その者の立ち姿だけは、
なぜか曖昧なまま、心に焼きついていた。


わたしはもう、
その者の名も、声も、瞳の色も知らなかった。
けれど、知らないはずのそれが、
なぜか心の奥底で疼いていた。

沈黙に潜むその苦しみが、
いつしか自分の体重よりも重くなり、
やがてわたしは、
歩くことをやめ、
見ることをやめ、
そして、夢を見ることすらやめてしまった。

ただ、ひとつの「不在」が、
生きることそのものを呑み込んでいく――
そんな感覚だった。

笑い声の記憶も、
陽だまりの温もりも、
遠くで鳥が鳴いた朝も、
すべてがその「不在」によって塗りつぶされていった。

わたしの心は、
誰かを愛したことよりも、
愛せないことに傷ついていたのだと思う。

この病の底で、
どうしても届かぬ相手にだけ心を寄せ、
そのことすら語れずに、
ひとり、沈んでいく。

それは、
魂が悲鳴をあげながら、
声を持たずに溶けていく、
そんな夜の連続だった。

そして今日もまた、
誰にも知られることなく、
わたしはその影を、
名もなく、
理由もなく、
ただひとり、抱いている。

それが、生きているということの、
唯一の証になってしまったとしても。


季節は巡るふりをして、
わたしの周囲を通り過ぎていった。
風はどこかで花を散らしたかもしれないが、
ここには、その報せすら届かなかった。

目の前を歩いていく人々の後ろ姿は、
まるで幻灯機の切れ端のように、
輪郭を持たず、
ただ影だけを引きずっていた。

誰が笑い、誰が泣き、
誰が愛し、誰が別れたか、
そうした細部はもう、わたしの世界から剥がれ落ちていた。

わたしは、
ただ、息をしているだけの何かになり果てた。


それでも――
否、だからこそかもしれないが、
なおその影は、消えなかった。

静かな夜に、
ふと何かを思い出しそうになる。
けれど、思い出せるものは何もない。
ただ、心の奥底に沈殿した「かたちのない痛み」が、
時折、水面の泡のように浮かび上がっては、
また沈んでいく。

あのひとはもういない。
けれど、わたしはまだ囚われていた。
存在しない名前に、
語られなかった言葉に、
交わされなかった視線に――

もしかしたら、
はじめからそんなひとはいなかったのかもしれない。

ただ、わたしがこの静寂に耐えきれず、
心の中に勝手に描き出した虚像だったのかもしれない。

だが、もしそうだったとしても、
この痛みだけは確かだった。
それはわたしの肉体に、
言葉にはならない傷を無数に刻んでいた。

その存在が現実であれ幻想であれ、
わたしの世界の「すべて」を占めてしまったという事実は、
もはや誰にも否定できなかった。


朝が来ない夜があることを知っている。
空が明るくなっても、
それが夜の終わりではない日がある。

そうした「明けない日々」のなかで、
わたしは少しずつ、
感情の名を忘れていった。

哀しみという言葉が、
もはや重すぎる。
絶望という言葉でさえ、
この空白を満たすには足りなかった。

それはまるで、
雨の降らない雨音のようだった。
音は響くのに、濡れない。
そのくせ、心の奥だけが冷えていく。

誰かが「ひとを好きになるのは生きている証だ」と言った。
だとすれば、
わたしは確かに、生きていたのかもしれない。
けれど同時に、
わたしはその証によって、
日々を静かに蝕まれていった。


ある日、ふと、
部屋の隅に置かれた鏡に映った自分の姿に、
見覚えがなくなった。

それはわたしだったのか。
わたしでない、何かなのか。
判別がつかないほど、
内側が風化していた。

この身にかつて灯っていたもの――
熱か、光か、あるいは、
もっと小さな「願い」のようなものか。
それはとっくに熄えていた。

ただ、そこに残されたのは、
誰にも呼ばれたことのない名前。
誰にも知られることのない想い。

わたしは、その名もなき「痕跡」とともに、
今日もまた、
羽音の聞こえない空を見上げている。

あの影は、
もうずっと前に飛び去っていた。
あるいは、はじめからどこにもいなかった。

それでも、
わたしの心には、
その不在だけが、
永久に残り続けている。

沈黙が全てを呑み込むその日まで、
わたしはこの、
名もない痛みを抱えて――
何も言えぬまま、
ただ、
生きていたふりを続けていくのだ。


言葉はとうに尽きていた。
音も色もかすれ、世界はすべての輪郭を失っていた。
そこに残ったのは、
「わたし」という語の重みさえ脱ぎ捨てた、
ただの残骸だった。

その残骸は、息をしていた。
それは生きていたと言えるのかどうかもわからない。
脈打つものはあったが、それが心臓なのか、
単に古びた時計が空回りしているのか、
もう見分ける感覚すらなかった。

そして、その完全な静寂の中に――
何かがいた。

名を持たぬ気配。
目を逸らすことも、見据えることもできぬ存在。
それはただ、
「在る」というより、「在らざるもの」として、
わたしの内に寄り添っていた。

「…あなたは、だれですか?」

と訊いた気がした。
けれど、わたしの口は開いていなかった。
言葉の代わりに、
空気がひとつ、震えた。

「わたしではないものだ」と、その気配は言った。
「あなたでもないものだ」とも言った。
それ以上は、何も語らなかった。

わたしは、うなずいた。
うなずいたはずだった。
けれど、その動作をした身体が、
自分のものだったかどうかさえ、わからなかった。


虚無と呼ぶにはあまりに静かで、
それでいて、なぜか暖かかった。
何も持たぬはずのそれが、
なぜか、
あのひとの面影を、
ぼんやりと映していた。

影が影を孕むように、
なにもないものが、
すべてを映してしまうことがある。

わたしはその気配のなかに、
あの人の背中を見た気がした。
あの笑わなかった口元を、
あの視線の行き先を、
なにも知らなかったのに、
なぜか“それ”は、知っていたようだった。


「ここに、何を探しに来たのか」
と、虚無が問うた。
それは音ではなかった。
ただ、脳の奥に、
濡れた傷のように滲んできた。

「探してはいない」
わたしは、答えなかった。
答えたのは、わたしの抜け殻だった。
それさえ、すでにひとの形をしていなかった。

「探すふりをして、
 見失うことだけを望んでいたのではないか?」

そうだ、とも言えず、
違う、とも言えなかった。

わたしはただ、
「忘れること」を、
忘れたかった。

けれど虚無は、
わたしの中からそれさえ奪おうとしていた。

いや、違う。
奪ったのではない。
最初から何もなかったのだ。
“わたし”という名前があった気がしたが、
それは仮置きされた便宜的な記号でしかなかった。


「ここまで来てしまったのか」
と虚無が言った。

「そうだ」
と、わたしは言った。

言葉はもう要らなかった。
ただ、
何かが失われきった場所でだけ、
この“対話”は成立していた。

互いに名前を持たぬまま、
互いに形を持たぬまま、
わたしとそれは、
わたしとわたしではない何かは、
同じ沈黙を、
同じ空洞を、
呼吸していた。


やがて、わたしのなかにあった最後の一滴――
“かなしみ”と呼ばれていた何かが、
虚無の中に静かに染みていった。

それが癒しだったのか、
さらなる侵食だったのかはわからない。

ただ、
その瞬間、
「わたしがいたこと」は、
どこかの微細な粒子として、
この無のなかに確かに混ざった気がした。

もう、呼ばれることのない名。
もう、振り返られることのない記憶。

それらすべてが、
ひとつの「気配」になり、
その場に静かに留まっていた。

もう、誰も知らない。
もう、誰も知らなくていい。
けれど、
確かに、ここに、かつて在ったものがあった。

そしてその“名もなき対話”だけが、
永遠に終わらぬ夜のなかで、
細く、凪のように続いていた。


沈む、という感覚があるうちは、まだ身体の輪郭があった。
しかし、それすらも曖昧になったとき、
わたしはもはや、何かの内部にいるという感覚を喪失した。

浮かんでいるのではない。
沈んでいるのでもない。
ただ、存在という名の、
呼吸の届かぬ場所に“在ってしまった”。

声は…そう、声はとっくに息と分かたれ、
叫びとは、音ではなく祈りでもなく、
ただの振動の残響になっていた。


かつて「心」と呼ばれていた部分には、
いくつかの微細な泡が浮かび、
弾けては、何も残さず沈んだ。

そのひとつに、
あのひとの影があった。

輪郭は既に失われ、
顔は記憶のなかで曇り、
それでもその“在りよう”だけが、
なぜか、胸の奥に刺さっていた。

もう、痛みすら鈍い。
というより、痛みと気づける感受性を
この沈黙は許さなかった。

けれど、鈍いままに、
何かがずっと疼いていた。
理由もなく、ただ、
“それ”だけがここに残っていた。


「ここにいたくなかったのに」と、
思ったかどうかすら曖昧だった。

誰に向けた言葉でもない。
そもそも“わたし”はまだ、
わたしだったのだろうか。

この深淵においては、
名も、時間も、過去すらも、
記憶の衣を脱ぎ捨てていた。

ただひとつ――
「好きだったかもしれない」
という、語尾の揺らぐ欠片だけが、
決して溶けずに沈んでいた。

その小さな重石が、
わたしの存在を深みへと引きずり込む。


夢というには甘すぎ、
現実というには苦すぎた感情たちが、
いまでは冷えた灰のように、
わたしの輪郭の内外に降り積もっている。

何を望んでいたのか。
何を諦めたのか。
なにを、なにを――
その問いすら、ここには不要だった。

問うための口がない。
答えるための形がない。

ただ、そこに沈んでいるものが、
わたしの、かつての痕跡だった。

“想う”という行為すら、
やがて“重さ”となって、
すべてを沈めていく。


ふと、
底のないその底で、
なにかがわたしに囁いたような気がした。

それは言葉ではなかった。
意味でもなかった。
ただ、存在だけがふれてきた。

「ようこそ」とも、
「さようなら」とも違う、
その何かは、
わたしとよく似たものだったのかもしれない。

そしてその瞬間、
わたしはようやく、完全に――
「わたし」を、
手放した。

痛みではなく、
感情でもなく、
ただ「終わりのない在在」という名の闇が、
すべてを抱いていた。

もう、目も耳も心も要らなかった。
なぜならそこには、
感じるべき光がなかったからだ。

この世界では、
何かを愛したという記憶さえ、
深く深く、音もなく、
冷たい水底へと眠らされていく。

そしてそれは、
誰にも知られないまま、
ひとつの「物語未満の欠片」として、
永遠に、名のない夜を漂い続けるのだった。




はい。
それでは、もう誰の目にも触れられることのないまま、静かに風に舞い、
拾われることもなく朽ちていく、
究極の鬱病の底に沈んだ者の私信を記します。

この文は、あて先もなければ意味もなく、
ただ“かつて息をしていた”という証として、
誰にも読まれず朽ちることだけを目的として綴られたものです。

もしこの手紙を拾い上げた誰かがいたとしても、
その人は読み終わることなく、
そっと元の場所に戻すような、
そんな “ふれられずに葬られる言葉たち”でした。


【読まれることのない手紙】

 

たとえば、今日が何日だったのか、もう思い出せません。
カレンダーという仕組みが、誰かの都合で編まれた幻想であるように、
わたしの一日一日も、
ずっと他人の夢だったように思います。

たとえば昨日、
わたしは少しだけ笑った気がします。
けれど、それが鏡に映る筋肉の痙攣であったのか、
あるいは死にかけの動物が牙を見せたのか、
もう確かめる気力もなく、ただ、
その記憶だけが湿った紙のように胸に貼りついています。

 

何もかもが透けて見えます。
人の言葉、人の仕草、人の目の奥、
そして、わたし自身の中身も。
それらが空っぽで、冷たくて、
とても重たい。

あんなに「生きたい」と叫んだ日々が、
今ではまるで、誰かの夢日記の一頁です。

 

朝、カーテンの隙間から差す光が、
ひどく暴力的で、優しすぎる。
この皮膚を焼いて、骨ごと溶かして、
なにもかもをなかったことにしてほしいと、
何度も思いました。

でもそのたびに、
机の上の埃や、剥がれかけた壁紙の端が、
「まだいるのか」と、呆れたように視線を落としてくるのです。

はい、まだいます。
いますけれど、もういません。
この矛盾は、わたしにだけ許された永遠の椅子取りゲームです。
誰も来ない遊び。
誰も見ていない劇場。
拍手のない舞台。

 

わたしはあの人の名前を知りません。
そして、わたしも名を名乗った覚えはありません。
それでも、何かが確かにそこにあったような気がするのです。

それは形ではなく、
触れれば壊れ、見れば逃げてしまう、
曇りガラスのような、幻燈のような、
けれど冷たい現実でした。

その人の背中を、
わたしは確かに、二度見た気がするのです。
それが誰だったのか、どこだったのか、何を語ったのか、
すべて霞んでいます。
けれど、その“背中”だけが、わたしの中で腐らずに残っています。

それが、呪いのようでもあり、救いのようでもありました。

 

書いていて、わたしは誰に書いているのだろうと思います。
けれどこの手紙に返事は求めていません。
そもそも、誰かの手に渡ることさえ考えていません。

紙に字を書くと、わずかに手が震えるのです。
それは寒さのせいでも、緊張のせいでもなく、
「書く」という行為そのものが、
すでにこの身には重すぎるのです。

けれどそれでも、
この震えが、何かの生存の印なのだと信じたい。

わたしはもう、
「生きています」と口に出す勇気も、
そのための根拠も、
どこかに置き忘れてしまいました。

 

だから、
この手紙は封もされず、
宛名も書かれず、
ただ机の隅に置かれたまま、
やがて風に吹かれて床を滑り、
そのうちに誰にも気づかれずにゴミと化して、
燃やされるか、濡れてにじんで溶けて、
跡形もなくなるでしょう。

それでいいのです。
それがいちばん、ふさわしい終わり方です。

何ひとつ伝わらず、
何ひとつ届かず、
ただ、わたしがここにいたという証拠のような、
あるいはそんなものさえ嘘だったような、
うっすらと濡れた紙のかけら

それが、わたしです。

さようなら。

あるいは、さようならさえ必要としない、無音のまま、

終わり。




では今、
燃え落ちる前の紙の角にかすれた鉛筆で残された、
手紙の余白に走り書きされた断片的な言葉たちをお届けします。

文字は歪み、文は途切れ、
誰にも意味の全貌がわからないまま、
ただ“心のひだの奥から零れ落ちたもの”としてそこに在る――
そんな、かつてのわたしの最期の脈動です。


【余白に残された走り書き】

・この静けさは、音が死んだあとに残る沈黙だと思う
・からっぽ、じゃなくて、からっぽの「ふり」をしている中身
・だれもみていない、という安心と絶望は、ほとんど同じ温度
・わたしの中に、誰かの声がかすかに残っている
 けれどそれは、もうわたしの声かもしれない
・息を吸うたびに、胸の中で何かが崩れていく
・「なにか間違えた」気がする。でもどこで? いつ?
・かなしみは、ここではもう名詞ではなく、空気の状態
・あの人の目を思い出せない。思い出したくて、思い出したくない
・消えたい、よりも、「もう存在しなくてよかった」という感覚
・風が紙をめくる音が、まるで、だれかが読むふりをしているようで怖い
・水に沈めた紙のように、心が輪郭を失っていく
・なにもしていないのに、疲れている。なにもしていないから、かもしれない
・神様じゃなくていいから、だれか、わたしを「無視しないで」
・目を閉じても、目の裏がまっしろではなくて、まっくろ
・生きたくないわけじゃない。でも、生きる場所がどこにもない
・夜が明けるとき、世界だけがリセットされて、わたしだけが取り残される
・鏡が怖い。映るものが怖い。映らなかったときはもっと怖い
・ことばって重たい。だから今は、音のしない気配だけがほしい
・助けて、とは書けない。なぜならもう、助かる未来を想像できないから
・わたしの中の「わたし」が、どこかに逃げてしまった気がする
・この手紙、誰にも読まれないでほしい。でも、誰かに気づいてほしかった
・どうか、どうか――(以下、文字がにじんで読めない)



ハマス

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