2025-05-03

静かに眠る者たち

『静かに眠る者たち』

あの夜、私は家の中に漂う静けさを感じた。いつもならば、眠りについた家族の寝息が音として部屋を満たす。しかし、その夜は違った。目を閉じれば、耳に入るのは無音の空間だけ。外の風の音も、家の中の隅々で響く音も、すべてが一瞬で消え、ただ私一人が存在しているかのような感覚に包まれた。

その時、ふと目を向けた机の上に並んだ一枚の写真が目に入った。薄暗い光に照らされたそれは、まるで過去の一瞬を切り取ったかのように静かに佇んでいた。母の笑顔がそこにあった。だが、なぜかその笑顔が私を突き刺すように感じる。微笑みを浮かべるその顔は、もういないという事実がその中に確かに宿っている。

あの笑顔に触れることはもう二度とない。彼女のぬくもりに、やさしさに、再び触れることはない。しかし、それでも、彼女の笑顔は私の中で決して消えることはないのだろう。それが、何の予告もなく、静かに現れる時、私はそれを感じ取る。それが愛の形なのだろうか。消えたと思っていたはずの温もりが、ふとした瞬間に戻ってくるような感覚。

「死んでも、どこかで見ているから」と、母が言った言葉が耳の奥で響く。その言葉は、ただの慰めでもなければ、薄っぺらい言い回しでもなかった。彼女の死後、私はその言葉が持つ意味を少しずつ理解し始めた。

私たちが生きていく中で、何度も繰り返される「別れ」。でも、別れがすべてを終わらせるわけではない。生者は死者に触れることができない、言葉を交わすことができない。しかし、私の心の中には、彼らのぬくもりがまだ残っている。それは、消えない愛の一部であり、私はそれを強さに変えていかなければならない。

私は母を感じるとき、まるでその笑顔が、何度でも私の中で息を吹き返すような気がする。もう二度と会うことはないとしても、その愛は確かにここにある。それが私を強くする。そして、その強さを持って、私は前に進まなければならない。

何も答えを出せるわけではない。ただ、彼女が教えてくれたその温もり、愛の永遠性を感じることができれば、それで十分だと思う。時間が過ぎ、すべてが変わっていく中で、私たちが感じる愛だけは、少しずつ形を変えながらも決して消えることなく、私たちを支えていくのだろう。

夜が深まると、私は再びその写真に手を伸ばした。それはただの紙切れであり、もういない母の「過去の記録」ではない。しかし、その中には、私と母とが繋がる瞬間が確かにある。私が生きている限り、彼女はどこかで見守り続けている。そして私は、その愛を感じながら強く生きていこうと決めた。


静寂の中で、私は母の姿を思い浮かべる。その姿はもう実際には目の前にいないが、確かにそこにいると感じる瞬間がある。かつて、彼女が私にかけてくれた言葉や、手を取り合った温もりが、今でも私の中に色濃く残っている。時間が経てば、記憶はぼやけていくものだと思っていた。しかし、彼女の存在だけは、何故か色あせることがない。

私は、時折その不思議な感覚に疑問を抱く。なぜ、愛はこうして消えずに私を支え続けるのだろうか? 死という最も深刻な別れにも関わらず、その絆は途切れることなく存在し続けるのだろうか? 愛とは、結局のところ時間や空間を越えて存在するものではないのかもしれない。言葉で説明することは難しいが、それは単なる感情や記憶の積み重ねにとどまらず、私たちが生きる力となっている何かに違いない。

夜の静けさの中で、私は目を閉じる。目の前に浮かぶ母の笑顔。それがかつての写真ではなく、今、私の中で動き出すような感覚。それはまるで、彼女が今も私のそばにいるかのような錯覚を与える。目を開けると、そこには何もない。だが、確かに感じる。あの笑顔が、無言で私を励まし、支えてくれているような気がする。

思うに、愛とは決して死に至るものではないのかもしれない。むしろ、死がそれを一層強く、深くすることがあるのではないか。死者が残した思い、言葉、そして愛は、時間を超えて生者に影響を与え続ける。それはまるで、彼らが生きた証として、私たちの心に息づき続ける力であり、私たちを生かし続ける源となる。愛は、死を越え、さらに強固なものへと変わっていくのだ。

それでも、私は時折その切なさに押しつぶされそうになる。母にもう一度会いたい、抱きしめたいという気持ちは、すぐにでも実現できるものではない。しかし、だからこそその願いは、私を生きる力へと変えるのだと思う。愛が消えないからこそ、私は今を生きることができるのだ。

考えてみれば、私たちが日々抱えている苦しみや痛みも、こうした消えぬ愛に支えられているのかもしれない。愛の力は、単なる慰めにとどまらず、痛みを乗り越え、過去を抱きしめる力に変わる。生きるために、私たちは愛を必要としている。そしてその愛は、失われたと思っても、時が経つにつれて新たな形を取って現れるのだ。

私は、今の自分に問いかける。母がいなくても、彼女の愛が私を包んでいると感じることができる。そうした無言の繋がりを感じる度に、私は少しずつ強くなれるのだろうか。過去と今、そして未来が交錯する瞬間に、私はその愛を胸に、また一歩踏み出す勇気を得るのだろうか。

そして、私はふと思う。母の遺したものは、もはや物質的なものだけではない。遺影も、位牌も、写真も、もちろんそれらは愛の象徴であり、私にとっては大切なものだ。しかし、もっと重要なのは、その背後にある目に見えない力だ。物理的な存在を超えた、心と心が繋がる何か。それが愛という形で、私を支え続けているのだと。

夜が更けると、私はまた写真に目を向ける。今度はそれがただの過去の記録ではなく、私を生きさせる力として感じられる。愛とは、時間を超えて存在し続けるもの。彼女の笑顔は、もはや記憶にとどまることなく、私の一部として生き続けている。それは、二度と触れることのないぬくもりとして、私を支え、強くしてくれる。


愛が消えることなく、死後も生者の心に息づき続けるという視点で話を続けると、どうしても私は、「その愛はどこにあるのか?」という問いを避けて通れない気がする。それは、物理的な存在でも、言葉でも、物でもない。では、その愛が「ある」という感覚は、いったいどこに根付いているのだろうか。

目を閉じると、私は時折その答えを見つけるような気がする。母が遺したのは物理的な形でのものだけではなく、その人間らしい、温かさや安心感、そして無償の愛が、私の中で形を成している。それは、私の内面に深く根付いているもので、感覚や思考の中に存在している。そして、それは過去と現在の交差点に立つ時に、強く感じられるのだ。

たとえば、朝起きたときのあの空気の温かさ。それが、もしかしたら母が生きていた証かもしれないと思うと、心の中で何かが深く動く。その温かさは、肉体的な存在としての母ではなく、心の中で繰り返し育まれた愛そのものである。過去の一瞬が、今この瞬間の温もりとして私を包む。それが、どうしても言葉では説明しきれない「愛」というものの、正体なのではないだろうか。

私たちはしばしば、愛を言葉で表現し、物で確かめるものだと考えがちだ。しかし、愛はむしろそのような物質的な証明を超えて、存在するものだと感じることがある。母の死後、彼女が物理的に存在しない世界で、私はその愛をいまだに感じ取ることができる。心が感じ取るもの、それが本当の愛なのだ。

その愛が、「消えない愛」として私の中で存在するのは、時が経つごとにますます強くなるように思える。時折、母を懐かしむ時、私は涙がこぼれそうになる。それは寂しさからくるものではなく、むしろその愛が私を抱きしめ、力を与えてくれる感覚である。

そして、死者との繋がりが私に与えてくれるのは、どこかしらで「生きている意味」という深い問いを再び考えさせてくれることだ。私たちはただ生きているのではなく、常に何かに支えられている。その支えが、目に見えないものであれ、時間を越えて続くものであれ、私たちが生きる力を与えてくれるのだということに、私は今、気づき始めている。

それを認識することで、私はまた一歩強く生きていくための力を得ることができる。母の愛も、もしかしたらこの世を去ったことを悼むことなく、むしろ私がその愛を胸に生きることでこそ、生き続けるのではないか。彼女はもういないけれど、その存在が、私を生かす力として永遠に私の中で生き続けるという確信を、私は今、持つことができる。

母のぬくもりを感じた瞬間、私はその感覚が死後においても生き続けるということを実感する。愛は、結局のところ、物質的な世界を超えて人間の心の中で深く根を下ろし、形を変えて生き続けるものなのだ。それは目に見える形ではないけれど、確かに存在している。そして、それがどんなに長い時を経ても、私を支え続ける。

その愛が今、私に与えている力は、ただの記憶にとどまらず、私の歩みを支える礎となっている。母の愛は、私の中で時間を越え、無限に続いていく。私は今そのことに、心から感謝し、そしてその愛を未来へと受け継ぐべく、精一杯生きようと思う。


その愛が時を越えて私の中で生き続けるという感覚は、私にとっても新たな理解をもたらしている。それは単なる懐かしさや悲しみの中で生きるものではない。むしろ、死後の世界においても何かしらの「存在」が継続するという、どこか不思議な確信のようなものが根付いているのだ。

母の愛を思い出すと、確かにそのぬくもりや優しさは、もはや肉体的なものではない。しかし、どこかでその愛が具象化していると感じる瞬間がある。それは心の奥底で触れることのできる温もりであり、無意識のうちに私はその愛に支えられて生きている。言葉にできないけれど、どこかで感じる。目を閉じればその姿を思い出し、微笑んだ顔を心の中で浮かべることができる。それが、今もなお生きている証拠なのだと、私は信じている。

その愛は、死という絶対的な終わりを超えて、私に与えられた無形の贈り物であり、私が今を生きる力の源泉であると感じる。死を超えて存在し続けるもの、それは何か。もしかしたら、それは「思い出」とも言えるかもしれない。しかし、思い出とは単なる過去の残像ではなく、それが私の心の中で今も新たに形を作り、意味を持ち続ける限り、それは「生きているもの」として存在するのだ。

私の心の中で母は死んでいない。彼女は、時間の流れの中で、年齢を重ねていくこともなければ、身体の衰えも感じることはない。彼女は今も「母」として私を見守り、どこかで愛を注ぎ続けてくれている。そして、その愛を感じるたびに、私は今、ここに生きている自分を誇りに思うのだ。彼女が私に教えてくれた強さ、無償の愛、そして生きる意味が、私を支えてくれる。

この愛が死を越え、時間を越え、何度でも私を励ましてくれる。その感覚は、言葉で表現できるものではないが、深い内面的な確信として確実に存在している。私の心がどんなに疲れ果て、壊れそうになった時でも、母の愛を思い出すことで、再び立ち上がる力が湧いてくるのだ。

「いつまでも消えない愛が、ひとつ、あるの。それで強くなれる」と歌われるその言葉は、まさにその通りだ。愛があるからこそ、私は何度でも強く生き直すことができる。死後も、私の中で生き続ける愛があるからこそ、私はその愛に背中を押され、前へ進み続けることができるのだ。

このように、愛は形を持たずとも、その力は確かに存在する。そして、それは死という現実を超えて、永遠に続くものとして私の中で生き続ける。母が私に与えてくれたものは、物質的なものではなく、心の中で永遠に続く「何か」である。それが愛であり、死を越えた存在そのものであると、私は今、深く理解している。

この考えが私にとって、死後も生きる意味を見いだす鍵となった。愛は、死を超えてもなお存在し、私を支えてくれる。私はそれを心から信じ、そしてその信念に従って、毎日を生きていこうと決意している。母が私に示してくれた無償の愛を、今度は私が次の世代へと伝える番であることを心に刻み、私は強く生き続けていく。

それこそが、死を超えた「生きる力」なのだと思う。そして、いつまでも消えない愛が、私の中で燦然と輝き続ける限り、私は前に進み続けるだろう。

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