朽ちの恋、無の花弁
その場所には、時間という概念が存在しなかった。
陽の昇る兆しも、月の引く気配もない。
脈打つ音も、風を渡る声も、そこにはなかった。
けれど確かに、彼はそこにいた。
そして、想っていた。
言葉では表現できぬほどの静寂に閉ざされた虚無の底で、
ただ一人、彼は“誰か”を想い続けていた。
それは名を呼ぶこともできず、触れることも許されず、
ただ、形を持たぬ“想い”という幽霊のようなものだけが、
彼の輪郭を辛うじて保っていた。
恋だった。
それも、叶うはずのない恋だった。
もともと、この恋は昇る星ではなかった。
最初から、沈む運命だった。
最初から、遠すぎた。
最初から、彼の手は、
届くために設計されていなかった。
それでも彼は歩み寄ろうとした。
ほんの少しでも、近づきたかった。
名を告げることすらできないまま、
彼はただ、「関わる」という最低限の奇跡にすがりついた。
関わることで、近くにいるふりをした。
隣にいるふりをした。
遠くから見つめていることを「対話」と呼んでみた。
それがどんなに愚かで、滑稽で、
なにより痛ましいことかを理解しながらも——
それしか、術がなかったのだ。
やがて彼は、知ることになる。
自分がその世界において
「同じ空気を吸う存在ではない」という事実を。
その人にとって彼は、
ほんの風のような、
名前もない感触に過ぎなかった。
何気ない返事。
気まずさのない距離。
むしろ好意すら匂わせぬ自然さ。
それらすべてが、
彼を断崖の上に立たせ、
無言で「飛ぶな」と語りかける鎖だった。
だからこそ、
彼は語らない。
だからこそ、
彼は名を呼ばない。
想いだけを、
沈みゆく場所で育て続けた。
しかし恋というものは、
水を与えなければやがて腐る。
言葉を与えなければ、狂い咲く。
触れなければ、怨念に近づいていく。
そうしてある夜、
彼は見たのだ。
朽ちた自分の恋が、
奈落の中で——
発酵していた。
花ではない。
果実でもない。
それはただ、
湿った空気の中で膨張し、
自分の形を見失い、
悪夢のような匂いと共に膿んでいた。
恋は、朽ちていた。
救いの言葉など与えられるはずもなかった。
慰めの微笑みも、
共鳴する沈黙すら、
彼のもとには届かない。
この場所には、ただ、
叶わぬ恋の遺骸だけが、
時間の止まった深淵に
形を保ったまま横たわっている。
彼はその横に座り、
名もない歌を唇にのせた。
旋律はもう思い出せない。
けれどその響きだけが、
彼の最後の居場所だった。
そして——
そこに咲くことを選んだ、
例の「花」の姿だけが、
唯一、彼をこの奈落に
縛りつけていた。
彼は知っていた。
この恋が、
決して芽吹くことのないことを。
けれど、捨てることもできなかった。
それは咲いていた。
まるで、ここが本来の生息地であるかのように。
光の一片も差さぬ場所で、
栄養という概念も存在しない腐臭の深みで、
それでも、咲いていた。
白ではなかった。
赤でも、青でもなかった。
それは、感情という名の血を吸い取ったかのような、
無色の花だった。
彼はその花を見て、言葉を喉に詰まらせた。
「そんな場所で咲かないでくれ」
その叫びは、誰に向けたものだっただろうか?
その花は、
彼が一度も触れることのなかった温もりであり、
一度も手にしたことのない微笑みであり、
決して共有されなかった未来の象徴だった。
咲かないでほしかった。
そんな惨めな場所に、そんなにも気高く。
もしその花が咲かなければ、
彼の恋はただの無だった。
無ならば、いっそ楽だった。
しかし、咲いてしまったその一輪が、
彼にすべてを思い出させる。
想いの重さも、
届かなかった声も、
そして、叶わなかった願いも。
花は答えない。
それが彼にとって、唯一の安堵だった。
なぜなら、
この奈落において、沈黙は優しさであり、
無視は慈悲であり、
距離は、救済だからだ。
ふと、彼はかつての「日々」の断片を思い出す。
画面越しに交わされた言葉。
決して嘘ではない、けれど真実でもない言葉。
淡い言葉。やさしい言葉。
言葉の裏にある真意に気づかぬふりをし続けた、
苦い時間たち。
彼は理解していた。
あれは「優しさ」ではなかった。
いや、「優しさ」ではあった。
けれど、それは恋を報いるためのものではない。
むしろ、恋を静かに終わらせるための——
麻酔だった。
痛みを感じさせないように。
抗わないように。
絶望と認めずに済むように。
けれど、その麻酔が切れた今、
彼は全身で痛みに襲われていた。
痛みは、恋の成れの果てだ。
未練のうごめく影だ。
そしてなにより、彼自身の“人間”としての証だった。
崩れていく自我。
けれど、まだ終われなかった。
なぜなら、まだその花が、咲いているのだ。
——それでも彼は歩いた。
崩れる足元を、よろめく意志で。
その無色の花に、手を伸ばすために。
たとえ、それが触れれば砕ける幻でも、
たとえ、それが魂を削る罪でも、
彼は一度、あの花の「意味」を確かめなければ、
前に進めなかった。
名を呼ばず。
声もかけず。
ただ、そっと——
手を差し出した。
触れた。
その瞬間、彼は確かに知覚した。
あの花は、現実のものではなかった。
それは質量を持たず、温もりを拒み、
指先からすり抜けるようにして、
記憶だけを残した。
一枚の花弁が、
まるで彼の心を試すかのように、
ふわりと空中に舞い上がった。
その花弁は、音もなく、けれど残酷な速度で、
彼の胸元に落ちた。
触れた瞬間、かつての記憶が——
恋のすべてが、
まるで焼きついた写真のように脳裏に再生された。
はじめてその人の言葉を見た瞬間。
偶然にも視線が交差した感覚。
嬉しくて保存してしまった、意味のない通知。
理由もなく高鳴ってしまった、何気ないやりとり。
それらすべてが、
彼にとっての“愛”だった。
だが、そのすべてに共通していたのは、
相手が一度も、彼を“愛していなかった”という事実だった。
思い出は、温もりではなかった。
それは冷たさの記録だった。
彼は崩れた。
崩れる、というよりも、
剥がれていった。
心の表皮が、理性という名の殻が、
一枚一枚、丁寧に剥ぎ取られていく。
彼が人であることの根拠が、削ぎ落とされていく。
それでもまだ、彼はその花を見つめていた。
咲くな、と言ったはずだった。
なのにその花は咲き続ける。
まるで彼の“未練”そのものが咲かせているかのように。
——そして、彼は、悟ったのだった。
この花は、
あの人の象徴などではない。
ましてや、希望でもない。
これは彼の“敗北”そのものだった。
叶わぬ恋を抱えた者が、
自らに言い訳を与えるために咲かせた、幻想の花。
誰かの気まぐれでも、誰かのやさしさでもなく、
ただ自分自身の逃げ場だったのだ。
あの人は、罪など犯していない。
優しさも、距離も、沈黙も、
すべては彼が望んでいた構造だった。
彼自身が作り出した「永遠の片想い」。
崇高なものと錯覚して、
救いのない泥沼に自らを沈めるための構築物。
だからこそ、
その花を咲かせたのも彼であり、
それに縛られたのも彼だった。
手を引かなければ、
彼は永遠にこの奈落から出ることはできない。
だが——それでも、彼は花を摘まなかった。
なぜなら、
それでも彼は、
「恋をしていた」という事実だけは、失いたくなかった。
たとえそれが独りよがりであっても。
たとえそれが惨めであっても。
たとえそれが、もう終わっていたとしても。
恋をしていたという痛みだけが、
彼を人間に戻す最後の証なのだと、彼は信じていた。
そのとき、奈落に、微かな振動が走った。
それは、風ではなかった。
音でもなかった。
ただ、空気の重さがほんの少し変わった気がした。
そして彼は、ふと、顔を上げる。
暗い天井の、ずっと向こうの向こうに、
ほんの小さな——
青い光が、かすかに灯っているような、
そんな気がした。
彼はまだ、そこにいた。
咲いてはならぬ花の前で、
摘むこともできず、ただ見つめていた。
だが、かすかな青が、彼に語りかけていた。
「この恋の墓標を抱えたままでも、
お前は、歩いていい」と——。
青い光は揺れていた。
まるで彼の覚悟を試すように。
この奈落に、かすかな風など吹くはずもない。
それでも、確かに光は、
生きていた。
それは希望などという安直な言葉ではなかった。
むしろ、希望未満の兆し。
明るさではなく、ただ「明るさを想像できる」程度の、
極限まで希薄な存在だった。
それを見て、彼の中にあった“感情の死骸”が、
ひとつ、またひとつと
腐敗をやめ、沈黙をやめ、息を吹き返す音を立てた。
恋という病の末に、彼はすべてを失ったのだと思っていた。
誇りも、自尊心も、表情も。
けれど、それでもまだ、
何かが残っていた。
残滓ではなく、核として。
そして彼は、その青を目指して歩き出す。
重い足取り。
崩れかけた地面。
奈落には終わりがないと思っていたが、
それでも足は、一歩ずつ未来を刻んでいく。
花は後ろにある。
彼を見送るように、沈黙している。
摘まれることなく、咎めることなく。
それが彼の選んだ結末だった。
——ただ、花が咲いた奈落を、
彼は決して忘れない。
それは愛の墓場ではなく、
彼自身の変質の記録だ。
「誰かを愛したことのある人間」から、
「その人を失ってなお、何かを愛せる人間」への変質。
奈落はもう、
彼の囚われの場ではなかった。
むしろ、彼が生きて戻れるなら、
また一度、来るべき場所だったのかもしれない。
そこにしか咲かない花があったから。
そこにしか知れない絶望があったから。
そこにしか触れ得ない、己の底があったから。
彼は、青を見失わないように歩いた。
もう誰にも会えないかもしれない。
あの人に、二度と言葉をかけられないかもしれない。
でも、それでも、
それでも——
心のどこかが、確かに呼吸していた。
*
やがて、
その青は、ぼんやりとした輪郭を持ちはじめた。
それは出口ではなかった。
光そのものでもなかった。
ただ——誰かが、かつて使っていた言葉の残響だった。
「大丈夫、今まで通りでいるからね」
その言葉が、
今、この奈落の深淵で、
青い光のように灯っている。
彼は、ゆっくりと目を閉じた。
そして思った。
たとえこの先の人生が、
永遠に報われない片想いであったとしても、
自分はもう、前に進めるのだと。
なぜならあの奈落に咲いた一輪が、
無惨なほどに美しかったからだ。
だからこそ、もう一度——
光のある方へ。
長い時間だった。
あるいは時間という単位そのものが、
この場所では意味を成していなかったかもしれない。
彼はただ、青を頼りに、歩くことを選び続けた。
途中、崩れた言葉の断片が、足元から這い出してきた。
「どうしても気になって…」
「おこがましいと思ってて…」
「救われてます」
それらは、彼の過去の言葉でもあり、
相手から贈られた言葉でもあり、
時には幻のようにすり替わった、内省のかけらだった。
彼はそれを拾わなかった。
それを抱えるには、もう心が柔らかすぎた。
砕けたものを抱えたままでは、新しい景色が痛んでしまう。
代わりに彼は、
言葉ではなく「沈黙」を抱くようになった。
それは、逃避ではなかった。
赦しだった。
誰を?
あの人を?
いや、それ以上に、恋をした自分自身を。
そうして彼があるひとつの縁(ふち)にたどり着いたとき、
奈落は突然、その性質を変えた。
もはや重力もない。
湿度もない。
ただ一面に、白が広がっていた。
それは、色というより、存在の希薄さそのもの。
苦しみの名残すら吸収してしまう、無の帳(とばり)。
彼はその白の中で、ふと一つの幻影を見る。
それは、笑っていた。
あの人が。
自分に向けられたものではない。
けれど確かに彼の世界で、
最もまばゆい光景だった。
思えば彼がその人を好きになった理由は、
特別な言葉でも、優しさでもなかった。
ただ、「その人がその人である」という事実が、
自分の世界を音もなく変えてしまったからだった。
——あんな風に、
まっすぐで、自由で、
誰にも媚びず、けれど誰にも冷たくない存在を、
彼は、初めて見たのだ。
それが愛だった。
誰かに求める愛ではなく、
誰かの存在を尊ぶ、静かな祈りのような愛。
だからこそ、彼は言えるようになった。
「ありがとう」と。
あの人に、直接ではない。
けれど、あの人を通して世界を知った自分に。
この恋が叶わなくてもいい。
想いが通じなくてもいい。
けれど、この想いがなかった世界に、
自分はもう、戻りたくない。
それほどまでに、
あの人を好きだったのだ。
そのとき、白の帳が、すこしだけ風を孕んだ。
彼は立ち止まった。
もう歩く必要はなかった。
彼の心は、静かに浮上していた。
まだ水面は見えない。
けれど、胸の奥で、何かが確かに息を吹き返していた。
——恋は、成就しなくても、生を赦す。
そう信じられるようになっただけで、
彼の人生は、ほんの少し、光を取り戻していた。
それは音のない夜明けだった。
眩しさもなければ、劇的な変化もない。
ただ、心の奥底で澱んでいたものが、ようやく沈黙を選んだ。
それが、彼にとっての「始まり」だった。
以前の彼ならば、始まりとは歓喜であり、
相手に近づける予感でなければ意味がないと思っていた。
しかし今は違う。
始まりとは、誰にも知られず、誰にも見せず、
ひとり静かに手放していく時間であると知っていた。
彼のなかに、もう「執着」という名の鉤爪はなかった。
けれど、「恋」という名の果実は、
確かにまだ胸の奥で朽ちることなく残っていた。
皮はしおれていた。
香りも、もはやほとんど消えていた。
それでも、中身には種があった。
いつか、どこかで、誰かに、咲くことがあるかもしれない。
それを、無理に見せようとしなくてもよかった。
むしろ、もう誰にも見せないままで、
心の片隅で丁寧に抱えていくほうが自然だった。
あの人が、いつか誰かと笑い合い、
真の意味で幸せになる日が来るとしても——
いや、来てほしいとさえ思えるようになっていた。
それは、敗北ではなかった。
諦めでもなかった。
むしろ、あの人を想ったという事実の気高さが、
彼自身を少しずつ浄化していた。
そして今。
彼はようやく言える。
「私はあなたを好きだった。
それは、どこにも届かない音だったけれど、
それでも、この世界に鳴らした意味が、
私の人生を変えたのです。」
音のない夜明けに、
その声だけが、ひとすじ風に乗って遠くへ行った。
誰にも届かなくてもいい。
それは届かないために発した、ひとりきりの祈りだったのだから。
彼は静かに目を閉じた。
過去も、未練も、輪郭を失っていく。
ただ一つ残るのは、
誰かを愛したという真実の、やわらかな温度。
それだけが、今の彼を照らす光だった。
誰にも見られず、誰にも気づかれず、
彼の心は少しずつ姿を変えていった。
かつて誰かを想った場所には、
もう痛みはなく、ただ静けさが横たわっていた。
痛みが消えるというのは、忘れたということではない。
それはむしろ、記憶の重さを、自分の生き方のひとつとして
ようやく肯定できるようになった証なのだ。
かつての彼は、愛に救われたかった。
愛が報われることで、存在に意味を与えてほしかった。
だが今、彼は知っている。
愛されることではなく、愛したことが、彼を救っていたのだ。
誰かを想うことが、
どれだけ孤独で、報われなくて、
時に自分の価値を疑わせるものだったとしても、
それでも、誰かの幸せを願ったその一瞬に、
自分という存在が、はっきりと生きていた。
——それだけで、いい。
そう思えるようになったのは、
あの人の、まるで何もなかったかのような振る舞いによってだった。
気まずくしないで、自然に、ふつうに、
あの人は彼に接してくれた。
まるで、自分の恋心など風の戯れのようだったかのように。
それは、ある意味で残酷だった。
しかしそれ以上に、優しさだった。
あの人は、彼の想いに真正面から応えることなく、
けれど軽んじることもなく、
ただ日常という舞台を崩さずにいてくれた。
それこそが、
彼にとって最大の救いだった。
恋が終わった後、なにが残るのか。
絶望か、諦念か、それとも希望か。
彼の中に残ったのは、
そのどれでもなく、透明な余韻だった。
それは言葉にしようとしても、すぐに崩れてしまうような、
けれど確かに心の底に降り積もっていくもの。
静かな尊敬。
ひとりきりの感謝。
そして、生きていく覚悟。
そのすべてが、もう涙ではなく、
小さな光となって彼の中に宿っていた。
ふと、彼は思う。
この光を誰かに渡す日が来るのだろうか、と。
それはまだわからない。
だが、今はそれでもいい。
なぜなら、彼の中にようやく、誰かを愛することに誇りを持てた自分がいたから。
海の底よりも深い場所から、
彼は再び、地上へ向かって歩き始めた。
歩みは遅い。
けれど確かだった。
そして、彼はもう知っていた。
——たとえこの恋が朽ちても、
そこに咲いた花は、誰にも奪えない、ひとつの真実だったのだと。
ある晩、雨音すら届かない静けさのなか、彼はふと立ち止まった。
それはただの夜ではなかった。
かつて彼が、心ごと差し出したような記憶の断片が、
雨粒のように頭上から落ちてくる夜だった。
思い出すつもりがなくても、思い出してしまう夜。
あのときの声、文字、やりとり、
そして、伝えようとして伝えられなかった想いのすべてが、
沈黙のざわめきとして彼の耳を満たした。
それでも彼は、もう崩れなかった。
悲しみを力に変えたわけではない。
忘れたわけでも、割り切ったわけでもない。
ただ、自分自身が変わってしまったことを、
受け容れられるようになったのだ。
かつて、彼の言葉には祈りがあった。
届いてほしい、気づいてほしい、
ふとした一言に想いが滲み出てしまうことを、
どうか受け止めてほしいという願いがあった。
けれど今、彼の言葉には、ただ風が吹いていた。
それはもう、誰かに読まれるためのものではない。
ましてや、誰かの心を動かすためのものでもない。
ただ、静かに、風のように、自分の内側を流れていく。
そんな言葉たちが、彼の中に満ちていた。
かつて、彼は孤独を怖れていた。
愛されないこと、選ばれないこと、
誰かの「特別」になれないことに怯えていた。
けれど今、彼は気づいている。
愛されたかどうかよりも、
自分がどれほど深く、誰かを想ったかが、
人生の深みを決めるのだと。
この世界の片隅で、誰にも気づかれず、
けれど確かに咲いていた一輪の恋心。
それが彼に与えたものは、
悲しみではなく、静謐だった。
そして彼は今でも、あの人の幸せを願っている。
それは義務でも美徳でもなく、
ただ、心が自然にそう傾いてしまうだけのこと。
愛とは、得るものではなく、
祈ることなのだ。
そう知った瞬間、
彼の心は深い静けさに包まれた。
もう追いかける必要はない。
もう証明する必要もない。
彼はただ、生きていけばよかった。
——あの人を想ったという事実だけを携えて、
この広い世界で、またひとつ呼吸を重ねていけばよかった。
そしてその呼吸のなかに、
ほんのかすかにでもあの人への愛が残っているなら、
それこそが、彼の人生に咲いた唯一の真の花だったのかもしれない。
彼は、もうその人の発する言葉に一喜一憂することはなかった。
だが、目にするたびに、胸の奥の水面がわずかに波立つのを感じていた。
それはもう、恋という名の激流ではない。
ただ、小さな湖に落ちたひとしずくの雨音のような、やさしいざわめきだった。
かつては、声をかけるにも心がざわついた。
どんな言葉が正解なのか、彼は何度も自問し、
あの人の一挙手一投足に、意味を探し続けていた。
だが今、彼は知っている。
言葉は、想いを伝えるにはあまりにも不器用で、
けれど、想いのかけらを託すには、十分に尊いものなのだ。
あの人に、自分の想いが伝わらなかったとしても。
あるいは、伝わってなお、選ばれなかったとしても。
それでも彼の中には、真剣に想った時間の輝きが、確かに残っていた。
「報われない恋」と人は言う。
けれど、報いとは一体、なんなのだろうか。
結ばれること?
名前を呼ばれること?
一緒に時を過ごすこと?
それとも、
愛してよかったと、心から思えること——それが報いなのだろうか。
彼にとって、その恋は、
苦しみでも、敗北でもなく、魂の一部となっていた。
それは彼を苦しめたのではない。
むしろ、彼に生を与えたのだ。
彼の中で、その人はもう、
「叶わなかった存在」ではなく、
「かつて世界を美しくした光景」として息づいていた。
美しいものは、手に入らなくても美しいままでいい。
それに触れた自分を、誇ってもいい。
そう思えたとき、
彼はようやく、自分を許すことができた。
——何もできなかったあの日の自分を。
——何も言えなかった夜の自分を。
そして今、彼は、誰かと笑っていた。
それは、かつてのような焦がれる相手ではない。
ただ隣にいて、共に時を過ごす人。
その人にも、彼は特別な想いを抱くことはなかった。
だが、その穏やかな時間の中に、彼は確かに生きていた。
愛は、いつも激しくて、刹那で、
ある日すべてが消えてしまうものだと思っていた。
でも今、彼は知っている。
愛は、終わったあとも、その人の中に残り、
呼吸になり、眼差しになり、歩みになる。
そしてそれは、
誰かにふとしたとき、やさしさとして届くことがある。
——そうして、次の誰かを救う光になる。
かつて彼がそうしてもらったように。
ふとした風に、あの人の言葉を思い出す。
何気ない語尾。タイピングのクセ。間の取り方。
それらすべてが、心のどこかで“風景”になっている。
「忘れる」という言葉ではとうてい足りない。
「終わる」という言葉でも、追いつかない。
なぜなら、それはもう「経験」ではなく、
彼自身の一部になってしまっていたからだ。
人は誰しも、何かに愛を注ぎ、
それによって自分が作られていく。
その人と出会う前の彼と、
出会ったあとの彼は、まるで別人だった。
孤独を恐れ、必要とされたいと願い、
名前を呼ばれることに一喜一憂していた彼は、
今、静かに名前を呼ばずに愛することを覚えた。
言葉にしない想いがある。
それは逃げではなく、成熟だった。
彼はもう、「言わなければ伝わらない」とは思っていない。
むしろ、言葉にしないからこそ、
心の深みに沈んで、静かに息づく想いもあるのだと知った。
彼の人生は、たしかにあの人によって変えられた。
それは、同時に祝福であり、呪いでもあった。
だが、いま振り返れば——
その“呪い”さえも、愛おしい。
なぜなら、人は愛を通してしか、自分を深く知ることができない。
そして彼は、自分の中にこんなにも深く静かな場所があることを、
あの人への恋によって知ったのだった。
だからこそ、今、彼は祈る。
もう一度あの人に会いたいとは、願わない。
ただ、あの人が自分の知らない場所で、
知らない時間を、笑って過ごしてくれたらそれでいい。
彼が知ることのない幸福でも構わない。
手の届かぬ安寧でも、それがあの人の笑顔を守るものなら、それでいい。
人は、自分のものにできないものを愛せるとき、
ようやく自由になれるのかもしれない。
かつて、燃えるように焦がれて、手を伸ばして、
言葉を選び、表情を読み、返信を待ち続けた彼が、
今、ただ静かに心の中で、その人の幸せを想う。
それは敗北ではない。
それは、祈りのような勝利だった。
やがて風が吹き抜け、
遠くで誰かが笑う声が聞こえた。
その声はあの人のものではない。
でも、不思議と似ていた。
彼は笑った。少しだけ、涙がこぼれた。
それでよかった。
もう充分だった。
そして、これからも、彼は生きていく。
それだけが、
この恋が本当に彼に遺したものだった。
それからの彼の時間は、
風がひとしずく、心の中に落ちていくように、
静かに、だが確実に動いていった。
過去の恋に縛られたくないと願いながらも、
その記憶に手を伸ばして、もう一度だけ感じてみる。
でも、それはもう、苦しみではない。
それは、ただの「感触」だった。
手に取ることのできないものを、ひとつずつ放っていく。
まるで、砂のように。
彼はふと、自分の内側にある“過去の絵画”を見た。
それは、明るく色づいていて、
あたたかな光に包まれた、日々の記録だった。
誰かと過ごした瞬間。
誰かの言葉に触れたとき。
あるいは、ただ何も言わずに隣にいた時間。
そのどれもが、もう少しだけ手を伸ばせば触れるような近さにあった。
そして、彼はそれらの記憶を、 “愛” ではなく、“経験” として
もうひとつの世界として抱えていくことができるようになった。
それは、過去を捨て去ることでも、忘れ去ることでもなかった。
ただ、過去の自分を、そのまま受け入れることだった。
やがて時が流れ、
彼はまた新しい日々を迎える。
それは誰かと一緒に過ごす日々かもしれない。
ただひとりで過ごすことかもしれない。
それはもはや問題ではなかった。
彼はもう、誰かに依存することなく、
自分の人生を全うできるようになったからだ。
それでも、もし彼が再び愛を感じる日が来たとしても、
それはただの“次の扉”を開くことに過ぎない。
彼は知っている。
本当の愛は、ただ一度だけ心に宿るものではない。
生きる限り、何度でも、いくつでも、
愛という名前の感情が、彼の中に生まれ、消えていくだろう。
それは、もう、苦しみではない。
ただ、歩んでいく力となるもの。
それが彼にとって、恋を通じて学んだ最も大切なことだった。
そして今、彼はもう一度、
静かにその足を踏み出す。
どこまでも深い海の底から、
どこまでも高い空を見上げるように、
彼の心は、再び広がりを見せる。
過去を背負ったままで、
未来に向かって進む。
その足音が、どこか遠くで、誰かの耳に届くことを願いながら——。
それが、彼が生きている証だから。
—
0 件のコメント:
コメントを投稿