死と信仰のあわいに:宗教民俗学から見る“死”という問い
第1章:死を見つめる学問の地図
「死」とは何か――この問いは、時代も文化も超えて、あらゆる人間の営みの中心にあります。
自然科学、社会科学、人文科学のあらゆる分野が、「死」をテーマに研究を重ねてきました。
そのなかで、宗教学という学問は、少し特異な立ち位置を占めています。
宗教学は、社会科学(集団としての人間を扱う)と人文科学(個人の内面を扱う)の中間に位置する学問です。
宗教哲学や神学は「個」の内面を掘り下げ、宗教社会学や宗教人類学、宗教民俗学は「群」としての人間を扱います。
さらに、宗教心理学や宗教史などは、個と集団の接点をなす場所にあります。
本講義では、私の専門である宗教民俗学の立場から、「死」を見つめていきます。
第2章:「宗教」と「信仰」はどう違うのか?
「日本人は無宗教だ」とよく言われます。
けれども、統計を見ると、日本の葬儀の91.5%が仏式で行われ、72.3%の人が年に一度はお墓参りをしています。
ところが、それについて尋ねると、多くの人は「習俗・習慣としてやっているだけ」と答え、自分が仏教徒だとは思っていません。
このズレにこそ、「宗教」と「信仰」の本質的な違いが現れています。
◎言葉の使い分けに見る認識の差
たとえばGoogleで検索してみると、
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「宗教音楽」は多くヒットするが、「信仰音楽」はほとんど使われていない
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「地蔵信仰」は言うが、「地蔵宗教」とは言わない
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「信仰告白」は使われるが、「宗教告白」はほとんど見ない
こうした差から、人々は「宗教」と「信仰」を直感的に使い分けていることがわかります。
第3章:学生アンケートにみる「宗教」と「信仰」のちがい
ある学生アンケートでは、以下のような傾向が見られました。
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宗教は集団的、信仰は個人的
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信仰は宗教より小規模・自由度が高い
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「信仰の一部が宗教になる」と考える人が多い
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信仰は宗教よりも「クリーンなもの」と捉えられることが多い
このようなイメージから、「信仰」が広い枠としてあり、その中に「宗教」という構造化された信仰が含まれる、という認識が浮かび上がってきます。
第4章:宗教民俗学が扱う「信仰」とは何か
宗教民俗学が扱う「信仰」とは、以下のように定義できます。
ヒトとカミとの交渉に関する観念と、それに基づく行為
ここでいう「ヒト」は人間、「カミ」は神・仏・精霊・先祖・お化けなど、広義の**超自然的存在(スーパーナチュラル・ビーイング)**を指します。
神学が「あるべき信仰の姿」を研究するのに対し、宗教民俗学は「実際に現場で行われている信仰の姿」、つまり民間信仰を研究対象とします。
この民間信仰は、仏教やキリスト教、イスラームといった組織宗教の教えが、変化・曲解・混淆されて受け入れられている現実の姿です。
第5章:「死のケガレ」としての塩――民俗的信仰の実例
では、宗教民俗学の視点から「死」をどのように捉えるのでしょうか。
一つの例が、**葬式後に撒かれる「塩」**の意味です。
この「清めの塩」は、死によってもたらされる「ケガレ(穢れ)」を祓うための行為とされています。
塩には「マジカル・パワー」があるとされ、それがケガレを除去すると信じられているのです。
しかし、この行為は仏教の教義に基づくものではありません。
実際、浄土真宗では塩を撒くことを明確に否定しています。
それにもかかわらず、塩を撒くという行為が広く行われているのは、人々のなかに「死=ケガレ」という観念が根強く存在しており、
それが信仰的な実践として形になっているからです。
終章:「死」を信仰から読み解くということ
私たちはこれから、宗教民俗学というレンズを通して、「死」のさまざまな場面を見つめていきます。
塩を撒く行為のように、一見「宗教っぽくない」ものの中にも、深い信仰の層が潜んでいます。
“死”とは何か。
それに私たちはどう向き合い、どのように意味を与えてきたのか。
民間信仰の現場から、この問いを静かに見つめていきましょう。
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